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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 第Ⅰ部:第5章:松方デフレーションのメカニズム
著者名: 室山 義正
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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第Ⅰ部:第5章:松方デフレーションのメカニズム

はじめに

 1881(明治14)年政変で大隈重信が下野し,松方正義が大蔵卿に就任して所謂「松方財政」が展開されることになった.松方財政は,史上「紙幣整理」として有名であるが,従来の研究では先行する大隈財政との同質性・連続性の有無如何といういわば政策論レベルでの議論が主流を占めてきた.そこでは「紙幣整理」それ自体の具体的機構や展開過程が,当時の財政システム・会計制度の特殊性を考慮した上で検討されることは殆どなかったように思われる.紙幣整理に関して,松方財政で本格化したという議論と,逆に政策的に緩和されたという対立した議論が生じるのも,基本的にはこの点に原由するものである・決算書によって客観的に判定し得るはずの紙幣銷却量をめぐって対立する理解が生じるのは,一見奇妙に思われるかもしれない.しかし当時の会計制度からすれば,例えば紙幣銷却「決算額」と「実際錆却額」とが乖離した動きを示しても一向に不思議ではなく,むしろ乖離していることが常態であった.したがって,いかなる判断を下すにせよ,まず財政制度・会計制度の特殊な構造を解明し,それを踏まえたうえで紙幣整理それ自体の実態分析が具体的展開過程に即して検討されねばならない.本稿の第1の課題もまたここにある.この場合,第1種政府紙幣と予備紙幣とは,財政制度上その増減のメカニズムが異なっており,各々の銷却機構が別々の角度から分析される必要がある.また国立銀行券増減の動向も同時に検討されねばならない.大隈期と松方期の銀行紙幣の動向は,両者の紙幣整理の成否を分ける重要な要因をなしていたからである.
 松方財政期は,他面では急速なデフレーションが進行した時期でもあった・そこから「松方デフレ」といわれる深刻な不況は,紙幣整理によって引き起こされたものであるという理解が一般化している.「紙幣整理」と「松方デフレ」とはいわば同義語と看做され,両者の関係が掘り下げて検討されることはなかったように思われる.もちろん「紙幣整理」がデフレ政策であることは疑いの余地はない.しかし財政剰余による政府紙幣銷却量を大隈期と松方期で比較してみると,両者には大差がないことがわかる.とすれば,大隈期にインフレが激化したのに対して松方期に「突然」急激なデフレが生じたのは何故かということが改めて問題となろう.この点を解明することが,本稿の第2の課題である.
 以下,紙幣整理の構造と具体的展開過程を財政制度上の特殊性に十分留意しつつ分析し,あわせて紙幣整理とデフレ進行との関連を掘り下げて検討することを通じて,「松方デフレ」のメカニズムに迫っていくことにしたい.

 Ⅰ 松方紙幣整理政策の基本構造

 松方は,往時を回顧してこう述べている.
 「幸ニ余ノ意見ハ内閣ノ容ル、所トナリシカ此事ヲ実行スルトキハ紙幣ノ価格回復ニ従ヒ現ニ呈出セル虚影ノ景気ハ消滅シ物価ハ下落シ世間ハ必ラス一度不景気ノ状況ニ沈ムコト、ナル可ク全国ノ農民ハ米価ノ下落地租負担ノ加重ヨリ商工業者ハ其商品ノ売行悪シキヨリ有力ナル反対ノ声四方ニ起ル可キヲ思ヒ而シテ其時ニ至リ実行ヲ中止スルカ如キコトアラバ初ヨリ着手セサルニ若カサルヲ以テ更ニ親シク紙幣整理ノコトハ国家ノ大事ナルカ故ニ必ラス之ヲ決行セサルヘカラスト雖モ之ヲ決行スルニハ多大ノ困難ニ遭遇スルコトヲ予期セサルヲ得ス若シ困難ニ逢ヒ半途ニ其事ヲ廃スルカ如キコトアラバ初ヨリ之ヲナサヽルニ如カサル此意ヲ上奏シテ細ニ利害ヲ陳ヘタルニ幸ニ余ノ意見ヲ嘉納セラレタ...是ヨリ先明治十三年ノ頃政府部内ニ於テ五千万円ノ外債ヲ募リテ紙幣ノ銷却ヲ行ハント建議セシ人アリシモ其議ハ行ハレサリシカ明治十四年ノ七八月頃有力ナル某外国人ヨリ...内外ニ資本ヲ募リテ一銀行ヲ設立シ之ヲシテ賞与金付証券ヲ広ク内外ニ発行セシメ之ヨリ得ル資金ヲ以テ政府紙幣の銷却ニ充テントノ議ヲ提出セリ此議ハ一時内閣ニ於テ略之ヲ容ルヽコトニ決定シタル際ニ余ハ大蔵卿トナリタレハ...直ニ先ツ之力中止ヲ求メ之ヲ実行セシメサルコトヲ得タリ」1)
 1881(明治14)年10月政変で大隈は失却し,松方が大蔵卿に就任して財政運営の中枢にすわった.松方は,当時実施間際であった大隈の内外債募集案を断固否定し,しかも今後このような反対案が政府部内から沸き上がることをあらかじめ封ずるために天皇・閣員の一任を取り付けたのである.ここに1880(明治13)年9月以来順次整備されてきた緊縮財政一紙幣整理路線実行について,不退転の体制が固められることになった.松方財政の開始である.
 当時,明治維新以降の不換紙幣乱発が西南戦争を契機として激しいインフレを惹き起こし,国際収支は悪化して正貨が涸渇し,財政も実質収入低下と支出増から破綻に瀕していた.松方は,この財政経済危機の主因が不換紙幣増発にあると認識し,その解決策を漸進的紙幣整理と正貨蓄積による兌換制度の確立に求めた.具体的には,まず第1に,緊縮財政と増税により財政剰余を捻出し,その一部で直接紙幣銷却を図り他の部分を紙幣交換準備に繰り入れ準備金を充実する.第2に,従前の予算制度上の撒超構造を是正して収支均衡化に努めると同時に,常用部の一時的資金不足を準備金から繰替支弁することによって予備紙幣の銷却を速やかに行う.第3に,これと並行して準備金を海外荷為替資金として輸出商に紙幣で貸付け,その売上代金を海外において正貨で領収し兌換準備としての正貨蓄積を図る.第4に,中央銀行を設立して近代的通貨信用機構を整備し,紙幣銷却の進捗と正貨保有の増大をまって兌換銀行券を発行し,漸次政府紙幣をそれに切り換えていく.
 このような構想のもとに松方は,1882(明治15)年3月「日本銀行創立ノ議」・「同創立趣旨ノ説明」を提出し,中央銀行設立の必要性を力説する.後者によれば,日銀設立の目的は,(1)金融の疎通,(2)会社銀行の援助,(3)金利の低下,(4)国庫出納事務の担当,(5)外国手形の割引にあった2).この建議にもとづき,1882(明治15)年6月政府は「日本銀行条例」を制定し,日銀は資本金1,000万円で同年10月開業する.翌1883(明治16)年「国立銀行条例」を改定して国立銀行の営業許可年限を20年とし漸次発券権をもたない普通銀行に転換することを定め,さらに1884(明治17)年「兌換銀行条例」を公布し,日本銀行の銀行券発行権の独占と銀貨兌換=銀本位制を定めた.こうして日本銀行は,銀・紙の差が消滅するのをまって1885(明治18)年5月より兌換銀行券の発行を開始し,政府紙幣を漸次日銀券に切り換えていった.インフレは克服され,ここに近代的通貨信用制度が形成される3).それはまた財政と金融の分化を可能にし,近代財政の基礎を確立したのである.以上の諸点をあらかじめ念頭に置いた上で,「紙幣整理」の具体的機構及び展開過程の検討に進むことにしよう.

 Ⅱ 予備紙幣の銷却機構
 ――予算撒超構造の是正と準備金の充実――

 松方が大蔵卿に就任するや直ちに着手したことは,予算撒超構造の是正と準備金充実による予備紙幣銷却及び兌換準備正貨蓄積であった.
 まず予算撒超構造の是正から見ていくことにしよう.明治初期の歳入出出納方法は度々変更され錯綜していたが,1876(明治9)年9月「大蔵省出納条例」4)が制定され,ようやく統一的出納法則が確立される.この出納条例で特徴的なことは,その会計年度に関する規定である.つまり当時の一会計年度間(7月1日から翌年6月30日)の財政収支は,当年度所属歳入出を当年度において出納する甲部と,前年度所属歳入出を当年度において出納する乙部との合計からなっていた.逆にいえば,一会計年度の予算(決算)は,当該年度中に収入支出される甲部と翌年度中に収入支出される乙部とからなっており,この甲部7月から乙部6月に至る24カ月間の予算(決算)が予算(決算)書では一括して計上される仕組であった(第1款第1条~第4条).だが実際には24ヵ月では出納を完結できず,更に次年度(丙部)まで延長されるのが常であった(表5-1).会計制度がこのような複雑な構造をとった理由は,当時の租税納入時期の多くが甲乙2年に亘り,乙年の秋に至ってはじめて甲年の賦額の納入が完了するという状態にあったからである.しかも,政府財政収入の大宗を占める地租(1879〈明治12〉年度租税収入の76%)の納期が,米作の自然的制約で晩秋から春に限定されるため,政府財政収支には強い季節性が加わることになる.
表 5-1 国庫財政収支の動態
 このように租税の納期が遅れる反面,歳出はその性格上遅延を許されないため,常に歳出が先行する.大雑把に言えば,甲年度中には歳入予算額の約75%程度の収入しか得られないのに対して歳出は全予算額の90%程度が支出されるため,甲年度には常に巨額の歳出超過が生じることになったのである.1879(明治12)年度間の財政収支を例にとって決算ベースで説明しよう.財政収入は,甲部歳入4,849万円・乙部歳入1,626万円・丙部歳入83万円の合計6,558万円であるが,この内1878(明治11)年度所属歳入たる乙部は主として前年度(1878〈明治11〉年度)一時借入金(1,643万円)の返済資金として充用される.一方財政支出は甲部5,620万円・乙部658万円・丙部27万円の合計6,305万円となり,甲部歳入を充当しても更に1,400万円前後の歳入不足が生じる.そこでこの不足分は,一時借入金に依存しなければならなくなる.この1879(明治12)年度一時借入金は,1880(明治13)年度の乙部歳入(1879〈明治12〉年度所属歳入)で返済されることになる.このように,当該年度の乙部歳入で前年度の一時借入金を返済し,本年度の歳入不足分は一時借入金で賄い,この借入金は翌年度の乙部歳入で補填するというのが,当時の財政収支の構造であった.そのため連年1,000万円を超える一時借入が必要とされることになる.その最大の要因は,各甲部予算における600―800万円にのぼる撒超構造にあった.
 これに加えて,国庫金取扱手続の不備が,一時借入金依存傾向を過重していた.当時の出納手続では,納税者が租税を各官庁に上納すると,各庁は現金を出納寮各金庫に仮納し,その預り証書の交付を受ける.同時に,各庁は大蔵省に上納証書を提出し,出納寮からの通知をまって,金庫の預り証書をもって本納手続を完了する,という仕組になっていた.したがって,最初歳入金が納税者の手を離れてから各庁が本納を完了する迄の仮納期間が著しく長く,この間歳入金は運用不能の状態におかれることになる.他方歳出金は,各省年額12分の1,府県庁年額4分の1を前渡しする制度となっていた5).したがって,常に一時的歳入不足を余儀なくされていた.
 当時,これらの一時的歳入欠陥を補う手段として主として採用された方策は,政府予備紙幣の繰替発行であった.したがって,慢性的な撒超構造及び従来の出納手続が是正されない限り,予備紙幣の増発傾向は継続されることになる.予備紙幣が最初に発行されたのは1872(明治5)年5月のことで,その額は僅か10万円であった.その後1875(明治8)年までは,一時的に増発されることがあっても直ちに縮小し,長く110万円にとどまっていた.予備紙幣の増加が始まったのは1875(明治8)年度からであり,以後増大を続け1880(明治13)年の第1四半期にはついに2,200万円を超えその頂点に達することになる(表5-2).国庫出納上,財政資金の一時的不足が多少生じることは不可避であるが,当時の国家財政規模が6,000万円内外であったことを考えると,一時的歳入不足が2,000万円以上に及んでいたということは,明らかに会計制度及び出納手続上の欠陥があることを示しているといえよう.
表 5-2 予備紙幣(繰替発行紙幣)の動向
 松方は,予備紙幣の繰替発行が紙幣下落の一大要因として作用していることを逸早く察知し,1880(明治13)年6月「財政管窺概略」において「政府ハ恣マヽニ紙幣ヲ製造シ,新旧ノ引換ヲ以テ名トナスモ其実只ニ新札ヲ増加シテ其底止スル所ヲ知ラス」6)として予備紙幣増発の弊害を厳しく批判し,次いで1881(明治14)年9月「財政議」においても大蔵省の出納手続の不備を批判し,その是正の急務たることを主張した7).翌10月大蔵卿に就任した松方は,国庫金取扱方法の改正に着手する.1882(明治15)年歳入出出納順序を改正し,国庫金取扱所(各金庫)に納付された現金は直ちに電信で大蔵省に報告させて出納局の歳入に編入し,大蔵省は直ちにこれを使用できることにした.従来の仮納期間長期化による国資運用上の不備は是正される.同時に各庁経費前渡制度も廃止され,国庫資金の余裕が増大した8).こうして国庫金出納手続の制度上の欠陥が矯正され,国庫資金繰りが大幅に改善され,これにともなって一時借入の必要も大いに減少することになった.
 また1880(明治13)年9月以来の増税・経費縮減方針が1881(明治14)年度から実行されることになったが,これと並行して地租の納入期限の繰上げが断行された(1881〈明治14〉年2月布告第14号).当時の地租納入期限は,1877(明治10)年7月布告第53号によって定められたものであるが,これもまた国庫金運用上重大な欠陥を露呈していた.例えば1880(明治13)年度の地租は総額4,030万円であったが,年内徴収高は僅かに979万円・25%に過ぎず翌年徴収高が全体の75%を占めていた.「会計上ニ於テモ毎年十一月ハ各公債ノ利子払出其他支出巨多ノ時ニ際シ歳入中最モ巨額ナル地租ニシテ年内徴収額僅ニ九百七拾九万円ニ過キス其不便実ニ言フヘカラス」9)という状態であった.そこで,地租の納期を繰り上げることにより年内徴収高を増大させれば,国庫の一時的歳入不足は大いに軽減されることになる.地租納期繰上げも,国庫資金繰りの改善に寄与する所が大きかったと考えられる.
 このように歳入の増額と収入期間の短縮が実行される一方,甲年度歳出の縮減も図られた.周知のごとく1881(明治14)年度予算では,酒税増徴・営繕土木費地方移転・経費節減等によって紙幣銷却元資が増額され,従来の減債方案に定められた350万円の倍額700万円が紙幣銷却費に当てられることになり,さらに準備金繰入380万円(準備金からの営業資本貸付の常用振替〉が計上されることになった.しかし実際の1881(明治14)年度間には,僅か34万円の政府紙幣(第1種)の減銷が生じたに過ぎなかった.その理由は,松方が1881(明治14)年度予算を執行するに当って「財政金融ノ実況ヲ察シ営業資本ノ移出ヨリ得ル所ノ紙幣ヲ以テ...先ツ正貨ノ増殖ニ着手シ紙幣ノ支消ハ姑ク乙期ニ送リシニ由」10)るものであった.松方は,このように紙幣銷却費700万円を全額1881(明治14)年度乙部に移すことに決定し直ちに実行したわけであるが,何故このような会計処理を行ったのであろうか.ここでは「財政金融ノ実況ヲ察シ」と説明されているだけであるが,果してその「実況」とはどのようなものだったのであろうか.この疑問を解く鍵は,松方が大蔵卿に就任する直前の1881(明治14)会計年度第1四半期の財政収支の状況にある.
 「本年度初一季ノ末日即チ十四年九月三十日ノ計算ニ在テハ歳入ノ不足ハ千三百六拾九万四千余円ニシテ之カ為メ其補充トシテ借入レタル金員ハ千四百万千余円ノ巨額ナリ」11)
 すなわち1881(明治14)年7月から9月の3ヵ月間においてすでに歳入不足は巨大となり,その補充のための一時借入金は1,400万円にも達していた.しかも11月には公債利子等巨額の歳出が予定されており,このまま推移すれば莫大な一時借入が必至の勢いであった.このため1881(明治14)年6月には一時1,043万円にまで減少していた予備紙幣繰替発行額は急速にその額を増大させ,松方の大蔵卿就任時(10月)には1,450万円に達し,再び著増の様相を見せはじめていた.またこれと連動して一時回復の兆を見せはじめていた紙幣価格は,再び反落に向かった(表5-3).したがって,松方にとって当面最大の課題はこの撒超構造の是正であり,したがって予備紙幣の回収であった.そこで紙幣銷却費700万円を乙期に移すことにより財政収支の均衡化を図ったのである.こうして,従来甲部において発生していた600―800万円に達する巨額の撒超構造は是正され,1881(明治14)年度においてほぼ収支均衡が達成され,これに前述の国庫金出納手続の改正及び地租納期の繰上実施が加わることにより一時借入金の残高は大きく減少し,これにともなって予備紙幣繰替発行高も急速に減少していった.
表 5-3 松方就任前後の予備紙幣発行高と紙幣価格
 ところで既に見たごとく,松方は1881(明治14)年度予算を執行するに当ってまず準備金の充実に着手した.当時準備金の総額は5,579万円(1881〈明治14〉年6月末)に達していたが,その大半は公債と貸付金とからなっており,正貨保有は僅か869万円に過ぎなかった.そこで従来準備金より貸付けていた営業資本及繰替金を常用部で肩代りするという会計操作により,1881(明治14)年度から1883(明治16)年度にかけて合計1,400万円が準備金に繰り込まれた.この準備金の充実には,概して二つの目的があった.その第1は,周知のごとく,海外荷為替資金として運用して兌換準備正貨の蓄積を図ることである.このため松方は1881(明治14)年11月「準備金運転正貨増殖方略ノ議」12)を建議し,翌1882(明治15)年2月には「外国荷為替金取扱規定」13)を制定して,従来の海外荷為替制度の根本的改正を行った.そこでは大隈期のそれが主として直輸出奨励・政府対外支払資金の調達という日的のために運用されてきたのに対して,その主日的が大蔵省へ正貨を吸収するためであることが明記されている.こうして,準備金を海外荷為替資金として輸出商に紙幣で貸付け,その売上代金を海外において正貨で領収するという方法で兌換準備としての正貨蓄積が積極的に進められていった14).第2の目的は,準備金の充実を背景として,それが海外荷為替資金として貸付けられる迄の間,これを転用して常用部の一時的歳入不足を補うことであった.これによって一時的歳入不足を補填するために繰替発行されていた予備紙幣は大いに圧縮されることになり,前述の撒超構造の是正と相俟って,1883(明治16)年1月までに予備紙幣1,450万円は悉皆銷却されることになった.その後正貨蓄積が進み準備金中の紙幣が殆ど正貨に変換されるに及び,予備紙幣に代用することが不可能となった.そこで松方は,国庫の一時的資金不足を補足する方法として大蔵省証券を発行することを決定し,1883(明治16)年9月「大蔵省証券発行ノ議」15)を建議する.
 「大率秋冬五六ケ月間金額弐千万円内外ノ繰合セヲ要スルハ年々避クヘカラサル実況ニ有之候.尤準備金中ヨリ繰替フヘキ筈ニ候得共,平常必スシモ之ニ対スル余裕アルニアラス...此場合ニ於テ当省ヨリ定期仕払ノ証券ヲ発行シ,其授受売買ヲ許シ以テ支弁ノ正路ヲ開キ候ヘハ,啻ニ繰替金ノ補助ヲ得ルノミナラス自ラ会計上ノ一弊竇ヲ相塞キ可申候」
 この建議は直ちに裁可され,同年9月20日政府は大蔵省証券発行規則を制定し,ここに予備紙幣繰替発行の積弊は根治され,近代的短期資金調達法が整備されることになった.
 このように1881(明治14)年度以降実施された準備金への繰入れは,予備紙幣の銷却と正貨蓄積にとって決定的な意義をもっていたにも拘らず,従来の研究ではしばしば過少評価されてきた.古くは,田口卯吉にみられるごとく,それは単なる保護干渉費の増大であると非難され16),また戦後の諸研究においても,その紙幣整理に及ぼす否定的側面が強調されてきたように思われる.その好例は,次のごとき見解に見出すことができよう.
 「この常用部より準備金への繰入れが,直ちに紙幣銷却すなわち流通紙幣量の減少を意味するものではなく,その準備金へ繰入れられた資金の用いられ方如何によってその機能が異なる...1881,82,83(明治14,15,16)年度の大部である1,400万円余は『営業資本及繰替金ニ対シ常用ヨリ償戻』したもの,つまり従前の準備金からの営業資本及び繰替金への出費(すなわち常用部への貸金)を常用部が肩替り(すなわち常用部より償還)したもので(ある)....これら準備金への繰り入れ金の主たる部分は,正貨の買入れと,国債償還金補充とに向けられたが,この二方法ともに,必ずしも流通紙幣の収縮という機能を果すものではなく,むしろその膨張さえももたらす場合がある.」17)
 ここには,大別して二つの理解が含まれているように思われる.まず(1)準備金への繰入れといってもこの場合は準備金の債権を常用部が肩替りしただけであるから,そこには何ら実質的な財政余剰は生じていない.したがって(2)財政余剰による実質的な紙幣銷却はないのであるから紙幣流通量は収縮せず,かえって膨張する場合すらある,という考え方である.しかし(2)の考え方は,第1種紙幣については妥当するとしても予備紙幣については全く妥当しない.実際に,準備金の充実を背景とした準備金の一時繰替余力の増大により予備紙幣の繰替発行額は減少し,したがって紙幣流通量の大幅減少が生じているからである.また(1)は,従来ほぼ総ての論者によって肯定されてきた考え方であるが,実は誤りである.それは,1883(明治16)年9月17日松方が建議した「常用貸付金返納ノ分予備部へ収入之議」によって明らかとなる.
 「兼テ準備金ヨリ各庁へ支出相成居候営業資本金及繰替金及諸貸付金等,去ル十四年度以来追々常用ヨリ準備へ戻入候義ハ,全ク準備金ヲ充実ナラシメン為メノ趣意ニ有之,而シテ一旦常用ヨリ準備へ戻入致シ候上ハ,右営業資本等ノ返納金有之候時ハ常用ノ歳入ニ組入ルヘキハ当然ニ有之候へ共,右等巨額ノ金員ヲ其年度へ収入スルトキハ一時歳入ニ余裕ヲ生シ随テ濫支ノ弊ヲ醸成スルノ恐ナキ能ハス,依テ右返納金ノ処理ヲ為スハ今日二於テ最モ枢要ノ事件ニ有之候ニ付篤ト審按候処,該金ハ総テ常用へ収入セス直ニ準備金へ挿入シ,而シテ更ニ予備部ノ一部ヲ置キテ之ヲ繰入レ,一切他用ニ供セス,全ク非常ノ予備ト常用金ノ歳入ニ先チ支出ヲ要スルトキ繰替金ニ充ツルトノニ途ニ供シ度存候」18)
 つまり1881(明治14)年度以降に実施された準備金所属の債権を常用部が肩替りするという会計繰作は,「全ク準備金ヲ充実ナラシメン為メノ趣意」から出たことであった.しかし,従来の貸付債権が現金に変換されるだけではプラスマイナス0であり,準備金の純増(=充実)は生じない.何故それが充実となるのか.準備金の債権が常用に移転されたのであるから,それに対する返済資金は,常用部臨時歳入に計上収入して然るべきである.だが実際にはこれを直ちに準備金(予備部)で収入したからであった.したがって,準備金と常用部との間で行われた営業資本及繰替金の債権移転は,次のごとき構造となっていたのである.第1に,常用部は準備金の債権を肩替りし,これに見合う資金を準備金に繰り入れる.そこで準備金側の会計処理では,一応債権の減少と現金収入が相殺されて準備金の増減は生じない.しかし実際には,常用に移転された債権に対する返納金は直ちに準備金に収入されることになるわけであるから,事実上常用への債権移転は生じていないことになる.第2に,これに対応して常用部は,準備金への資金繰入れを会計上では新たな経費支出の増大として処理した.これは,田口らに保護干渉費の増大であるとして厳しい批判と誤解を招くもととなった.したがって,準備金と常用部との間では,前者からの実質的な債権移転は行われない反面後者からの繰入れが行われたのであるから準備金は充実し,後者は準備金への繰入れを経費支出として処理したため,両者の会計処理は,部外者が見る限り完全に平仄が合うことになる.
 このような会計処理が行おれた理由は,そもそも準備金の充実が,当初より予備紙幣の銷却を重要な日的としていたことに原由している.先の建議で松方は,この間の事情を次のごとく説明している.従来準備金を運用して歳入の一時的不足を繰替支弁してきたが,減債基金が独立し,正貨蓄積が進むにつれて繰替資金が漸次不足するようになってきた.一方,日銀からの一時借入や大蔵省証券による短期資金調達は,なお困難視される状況にある.したがってこのまま放置すれば,再び予備紙幣発行に追いこまれていくことは必然の成り行きである.そこで準備金の繰替余力の増強が必要になる19),と.松方は,この窮状を救い従来の方針を堅持するために,大蔵省証券による短資調達が軌道に乗るまでの間,何としても準備金の運用によって急場を凌ぎ,予備紙幣発行という事態を絶対に避けねばならないとしたのである.
 以上のごとく,松方は大蔵卿に就任するや直ちに予備紙幣の銷却に着手した.まず国庫金取扱手順に大改正を加え,紙幣銷却費を全額乙部へ移し,これに地租納期繰上げの効果が加わることによって,財政収支均衡化=撒超構造の是正が達成される.これと並行して,準備金を充実し,正貨蓄積と一時的歳入不足の繰替支弁を行った.こうして1881(明治14)年10月に1,450万円に達していた予備紙幣繰替発行額は,1882(明治15)年6月には700万円に減少し,1883(明治16)年1月迄には全額銷却し尽くされることになる.松方が紙幣銷却費700万円を全額乙部に移したことは,一見紙幣整理速度を緩和したかのごとく見えるが,それは財政収支を均衡させ一時借入の必要を減じ,もって予備紙幣銷却を進める手段であった.松方の紙幣整理の特徴は,まず予備紙幣の銷却に着手したことであり,僅か1カ年の短期間にその全額銷却を完了し近代的短資調達機構を整備したことにあった.これを実現する手段として最大の役割を果したのが準備金への資金繰入れである.それは,紙幣銷却を促進するとともに正貨蓄積を可能にしたのであり,松方紙幣整理政策の性格を集約的に表現しているものといえよう.

 Ⅲ 第1種政府紙幣の銷却過程と国立銀行紙幣の動向

 緊縮財政・増税による本格的な紙幣銷却が開始されるのは1881(明治14)年度以降であるが,政府紙幣整理事業そのものはすでに1878(明治11)年度から開始されている.第1種政府紙幣の銷却状況を示せば,表5―4のごとくである.まず注意すべきことは,紙幣流通量の減少額と常用部紙幣銷却費決算額との間に,ずれが生じていることである.これはすでに検討したごとく,1878(明治11)年度の一部及び1881,82,83(明治14,15,16)年度の紙幣銷却が,乙部で行われていることに原由している.
表 5―4 政府紙幣及び銀行紙幣の銷却状況
 さて,紙幣整理の動向を見ると,大隈期1878―80(明治11―13)年度の紙幣銷却決算額1,117万円に対して,松方期1881―83(明治14―16)年度は1,364万円であり,財政余剰による紙幣銷却額では両者に大差がないことがわかる.しかし実際には,大隈が紙幣銷却を行った1878―80(明治11―13)年度には紙幣価格の大暴落が生じたのに対して,松方期の1881―83(明治14―16)年度には急速に回復するという対照的な状況が現出されている.大隈期にインフレが高進したのに対して,松方期にデフレが進行したのは何故か.これらの点については,従来殆ど見るべき検討が行われてこなかった.そこで以下では,このような状況が何故生じたのかを検討していくことにしたい.
 まず,大隈が紙幣銷却に着手した経緯から見ていくことにしよう.大隈の紙幣整理は,1878(明治11)年8月「公債及紙幣償還概算書」を正院に稟議したことにはじまる.これは,1877(明治10)年12月第87号布告――西南戦争戦費支弁のために発行された2,700万円の政府紙幣を15カ年間で補助貨幣と交換する旨の布告――を具体化し,合わせてその他の政府紙幣をも1905(明治38)年度迄に全額銷却する計画を示したものである(表5-5).「紙幣ハ明治三十八(1905)年迄に悉皆支消スルノ見込ナリ而シテ右年間ニハ外国新旧公債モ払済其他金銀開採及貿易等追年繁盛ニ従ヒ正金ヲ以テ漸次紙幣ヲ引換到底貨幣通用上ノ好結果ヲ見ルニ至ルヤ期シテ挨ツヘキナリ」20)
表 5-5 大隈の紙幣整理計画と紙幣銷却費予算額
 大隈の「概算」によれば,1878(明治11)年度から1892(明治25)年度迄の15カ年間で2,717万円の政府紙幣を補助貨幣と引換え,その後殖産興業政策の効果が現われ金銀鉱の開発と輸出の伸長による正貨収得が軌道に乗るのを俟って,1901(明治34)年度以降順次正貨に交換し,正貨流通制を実現するという計画であった.つまり大隈には,紙幣を銷却することにより通貨流通量を削減しようとする考えは,当初より全く無かったのである.積極政策を推進しようとしていた大隈にとっては,通貨は過剰ではなく,むしろ不足していたのである.銀・紙価格に格差が生じても,それは貿易逆調により正貨が不足し,銀貨が騰貴したことに主因があると考えていた.
 だが1879(明治12)年に入るとインフレは次第に激しさを増し,世論もその原因は不換紙幣の増発にあるとして大隈財政を批判した.そこで大隈は,この批判をかわすため先の「概算書」を修正して1879(明治12)年6月「国債紙幣銷還方法」(減債方案)を提出し,翌7月これを第1銀行及び三井銀行に下付して世上に公開した.この「減債方案」は,「概算書」の15力年2,717万円銷却案にかわり,8カ年でこれを銷却しようというもので,初年度に717万円を銷却するという思い切った計画であった.これと同時に,大隈は1879(明治12)年6月「財政四件ヲ挙行セン〓ヲ請フノ議」を提出して,その第3項において,紙幣銷却年限を短縮するに至った理由を説明している.
 「客歳八月右償還支消ノ概算ヲ調呈シ既ニ批准ヲ得逐次遵守施行スルノ際不幸ニシテ洋銀ノ相場非常ニ騰貴シ随テ理財上ノ現象復タ前日ニ非ザルノ時ニ際会セリ」21)
 この銀貨騰貴の原因は,貿易収支の逆調にあるから,「務メテ道路海港等ヲ修築改良シ以テ交通運輸ノ便利ヲ興シ農商工諸職業ヲ振起盛大ニシ物産ノ増殖若クハ輸出ヲ謀」22)ることが目下の急務である.このような積極政策を行うためには,追加的な資本=通貨供給が必要である.世の論者は,紙幣増発こそが銀貨騰貴・物価騰貴の原因であると誤認して非難するが,それは見当違いである.紙幣の増発は,「貨幣ノ用ヲ充足シ若クハ金融ノ道ヲ疏通スル」23)ために行ったことで,その効用は顕著なものがある.決して通貨は過剰ではない.ただその増発の時期がたまたま貿易逆調―正貨欠乏―銀貨騰貴と重なったため,紙幣増発こそが現今の経済危機の元凶であるとの誤認が生じたにすぎない.
 「然リト雖〓奈何セン其関係ノ及フ所動モスレハ所謂恐慌ノ禍ニ漸致シ随テ人民中若干社会ノ生計職業ニ多少ノ妨害ヲ与へ遂ニ一国ノ理財上就中貨幣政上ノ事体ニ関スルニ至ルコ世往々其例ニ乏シカラザレバ則チ此間ノ現象ト雖〓到底之ヲ忽諸ニ付スベカラ(ズ)」24)
 したがって,このような状況に対応する「変通ノ考案」「権宜ノ処分」として,紙幣銷却年限の短縮が提案されたのであった.その目的とする所は,「異常ノ感触ヲ驚醒シ恐慌ノ禍害ヲ予防スル」ことにあり,したがってこの銷却案を「新聞紙等ヲ以テ世間へ頒布シ一般人民ヲシテ右償還支消ニ於テ其目的方法ノ在ル所以ヲ詳悉領知セシメ」ることが必要である.「但シ大ニ貨幣政上ノ好結果ヲ見ルニ至テハ未タ此挙ヲ以テ足レリトセス猶オ逐次申請スル所アラントス」25),と.
 以上のごとく大隈の根本的考え方は,貿易不均衡を是正するための積極政策推進こそが目下最大の課題であり,そのためには資本=通貨の追加的供給が必要であるとする所にあった.しかし,紙幣増発こそが経済危機の元凶であるという「妄想虚声」が日一日と高まるにつれ経済不安を惹起することになったため,一時権宜の処分として紙幣銷却計画を示し,人民の不安を鎮静する必要があるとしたのである.他方大隈は,これと並行して国庫所有銀貨の売出しを実施して銀貨騰貴の抑制をはかった.大隈の考えでは,このような短期的対策で急場を凌いでいる間に,漸次殖産興業政策の成果が現われ,貿易不均衡が是正されて自ら銀貨騰貴は解決されるはずであった.こうなれば,紙幣銷却論は自然勢いを失うであろう.その時に至れば,新たな政策を立案すればよい.
 こういう考えで大隈は,世間の批判をかわすために政府紙幣の銷却を行いながら,他方では自己の信念に基づき大規模な銀行紙幣の増発を許し,それを引当に巨額の起業公債を募集して積極的殖産興業政策を展開する.1877(明治10)年12月末に1,335万円であった銀行紙幣流通量は,1878(明治11)年6月1,696万円,1879(明治12)年6月3,307万円,1880(明治13)年6月3,442万円へと著増していった.すなわち大隈は,1878―80(明治11-13)年度に財政余剰で1,117万円の政府紙幣銷却を行ったが,他方で銀行紙幣は同期に1,757万円の純増を見ており,このため紙幣流通量は差引640万円の増加を示すことになったのである.金札引換証書等による銷却高を考慮に入れても,1878(明治11)年度期首の流通量に比して1880(明治13)年度期末の流通定額は,逆に260万円の増加を示している.大隈期には,政府紙幣の銷却は確かに行われたが,その銷却額を上回る銀行紙幣の追加発行が行われたのであり,したがって大隈の紙幣整理がその実効をあげなかったのは当然であった.
 大隈は,銀行紙幣の追加発行を背景として起業公債を募集し,積極的殖産興業政策に着手する.起業公債は額面1,250万円に対して1,000万円の実収を得,1879(明治12)年4月20日にその払込みが終了する.この資金により実施された産業振興は,運輸交通港湾鉱山等多岐にわたるがここではその詳細に立ち入ることは避け,その収支状況を検討するに止めたい(表5-6).
表 5-6 起業基金(別途会計)収支
起業公債により計画された事業は,1881(明治14)年度迄にほぼ総て支出が完了しているが,就中1879(明治12)年度及び1880(明治13)年度に支出が集中し,全体の70%に達する700万円もの大量資金が撒布されている.これに対して収入は,1878(明治11)年度に1,000万円全額が納入されている.この結果,起業基金は,1878(明治11)年度には887万円の場超,1879(明治12)年度・1880(明治13)年度・1881(明治14)年度は各々312万円・371万円・156万円の撒超を示すことになる.このことが,1879(明治12)年度以降の急速な紙幣価格の下落を説明する重要な要因となっているように思われる.つまり,1878(明治11)年度には紙幣流通定額は1,089万円の膨張を見たにもかかわらず紙幣価格の暴落が生じず,1879(明治12)年度・1880(明治13)年度には流通定額が552万円・274万円減少したにも拘らず紙幣価格の暴落が生じた理由は,タイムラグの影響も当然考えられるが,1878(明治11)年度には起業基金が887万円の場超を示し,逆に1879,80(明治12,13)年度には各々312万円,371万円の撒超であったことに大きな原因があったと考えられる.もっともこのような観点からの分析は,中央政府一般会計・別途会計・地方会計を統合した財政収支を算出し,しかも単なる会計年度ごとの収支ではなく,会計年度間の財政収支(甲・乙・丙の統合収支)を算出して総合的に行われる必要があるが,これは別稿に譲ることにしたい.ともあれ,大隈の紙幣整理が失敗して紙幣価格が暴落し,インフレが激化した最大の原因は,その積極政策の推進とそれを可能にする追加的銀行紙幣の発行にあったことは疑いない.
 これに対して松方は,財政経済危機の主因が不換紙幣の増発にあると認識し,財政余剰で直接政府紙幣の銷却を行うとともに,財政収支の均衡化に努め,一時的歳入不足を準備金から繰替支弁することによって予備紙幣発行を余儀なくしていた財政制度上の欠陥を是正した.既に見た通りである.こうして,1881―83(明治14―16)年度において政府紙幣1,364万円が銷却されると同時に,1881(明治14)年末から1883(明治16)年1月にかけて1,450万円の予備紙幣が悉皆銷却されることになる.さらに,起業基金の撒超の影響が殆どなくなったことが加わって,1882(明治15)年以降紙幣価格は回復過程をたどることになる.就中,1881(明治14)年11月から1883(明治16)年6月(1882〈明治15〉年度期末)にかけての僅か20カ月の問に,合計2,200万円もの紙幣が流通から引揚げられたことが,紙幣価格の急速な回復の原因となったのである.

 Ⅳ 地租納期繰上げとデフレーションの深化

 以上の検討で,大隈期に紙幣価格の大暴落が生じ,松方期に紙幣価格の急速な回復が生じたメカニズムは,ほぼ明らかになったと考えられる.また松方期における通貨流通量の急速な縮減が,強いデフレ効果をもたらしたということも疑いの余地はなかろう.しかしこのことのみによっては,「松方デフレ」と呼ばれた深刻な不況が,何故1882(明治15)年以降に突然生じるに至ったのかを説明するには不十分である.ここでは,この点を,改めて検討することにしたい.
 「松方デフレ」の原因を理解するためには,何よりもまず当時の諸物価の動向を詳細に分析することが必要となる.図5-1は,明治10年代の年平均物価指数及び対外収支の動向を示したものであるが,そこには顕著な特徴を見出すことができる.まず1877(明治10)年以降,米価が先行的に急騰して1880(明治13)年にピークに達し1881(明治14)年から下落に転ずるのに対して,農産物及び鉱工業総合指数はこれより遅れて騰貴し,そのピークは1881(明治14)年にあり,平均賃金はさらに遅れて1882(明治15)年にピークに達し以後各々反落に向かう.つまり,インフレ期には米価上昇→一般物価上昇→賃金上昇というメカニズムが作用し,逆にデフレ期には米価下落→一般物価下落→賃金低下という連鎖が生じているわけである.一方,貿易収支を見れば,その逆調が頂点に達しためは1880(明治13)年であり,1881(明治14)年には急速に赤字幅が縮小し,1882(明治15)年以降出超に転じている.このように,一般物価騰貴及び紙幣価格下落の頂点が1881(明治14)年であるにもかかわらず,米価は1880(明治13)年をピークとして1881(明治14)年から下落をはじめ,貿易収支も1881(明治14)年に急速な好転を示すのは何故であろうか.これが「松方デフレ」を解く重要な鍵である.
図 5-1 明治10年代の物価指数及び対外収支の動向.
表 5-7 主要物価月別比較表
 問題の所在を一層明確にするため,米価及び主要物品の月別価格比較表を掲げよう(表5-7).全国米商会所平均米価は,1880(明治13)年中に暴騰し,11月には1石10円97銭の最高値を記録するが,1881(明治14)年に入って急速な低落に向かい,9月には一時8円26銭にまで惨落する.これに対して生糸・繰綿・水油等の諸価格は,米価がピークに達した1880(明治13)年11月以降一層上昇のテンポを早め,ほぼ1881(明治14)年末にそのピークに達し,1882(明治15)年に入って反落を開始する.米価と諸物価とが何故にこのような乖離した動きを示すのか,この点の解明がここでの中心問題である.
 結論的にいえば,米価の先行的下落は,主として地租納期の繰上げによって生じたものであった.地租納期の繰上げは,1881(明治14)年2月17日太政官布告第14号をもって「明治十(1887)年七月第五拾三号布告地租徴収期限ノ儀明治十四(1881)年分ヨリ左ノ通改定候」26)と布告された.その主たる目的は,財政収支の均衡化を図り,国庫資金繰りを改善することにあった.しかし,その影響する所は,それのみにとどまらなかった.まず,地租徴収期限改定の内容から見ていこう(表5-8).
表 5-8 地租徴収期限の繰上げ(市街地租を除く)
地租徴収期限が畑方で7月1日に始まるのは,当時の会計年度(当年7月1日―翌年6月30日)にあわせたものであろう.畑方の主産物の大麦・小麦・春繭はこの頃までに無理なく換金されているはずであるから,畑方地租についてはとくに問題は生じなかったであろう.問題は田方地租徴収期限の改定にあった.今日とは違って,当時の刈取・脱穀・籾摺の作業は鎌・千歯扱き・土臼などを用いる手労働であったから,多大の労働投入を要した.さらに,当時はまだ多収量の早生種が開発されていなかったために,東北日本の寒冷地でさえも平坦部では冷害の危険をおかして晩生種が多く栽培されていたという.それだけ作業の完了は遅延していたわけで,庭先や屋内でもできる籾摺・選別・俵装などの作業は,屋外作業が終った冬場に持越されることが常であった.こうした農作業の実情を考慮することなしに地租徴収期限が田方で1カ月半も繰上げられたのだから,徴収期限がきても手許には売るべき米がまだできあがっていないということにもなりかねない27).
 とすれば,農民は,いかにして地租納入資金を調達したのであろうか.1877―80(明治10―13)年間において,米価は220%もの異常な騰貴を示した.その騰貴の原因は,紙幣価格の下落による所も大であるが,同期間の紙幣価格下落が44%であったことを考えれば,そこに激しい投機が介在していたことは想像に難くない.事実,1880(明治13)年3月29目大阪米商会所が,同年4月12日には各地方米商会所が,「正路ノ商業ヲ抛棄シ専ラ投機ノ悪弊ニ沈倫シ終ニ米穀ノ真価ヲ擾乱セシニ由リ」営業を停止するに至っている28).米価の騰貴につれて農民の1石当り販売収入は著増するが,一般物価の上昇率(1877―80〈明治10―13〉年で45%)は米価よりも遙かに低く地租も定額金納であったから,米穀販売必要量は半減し,残余の米穀は農民の手元に蓄積されることになる.しかも,1879,80(明治12,13)年は吏上空前の豊作が続いたため29),農民の手元米はかなりの量に達していたと考えられる.「近年農民ハ其生計上一般ニ余裕ヲ生シ各自米穀ヲ儲蓄シテ其貴価ヲ待チ容易ニ之ヲ放手セサルヲ以テ市場ハ在米ニ乏シカリシ」30),と.農民は,先行き米価が上昇すると考える限り販売を控えることになるのが自然の成行きであった.そこで,「農民ハ其余穀ヲ貯積シ時価ノ高騰ヲ待ツカ為メ一時借入金ヲ為スモノ多キ」という状況を示すに至った.農民は,米の値上がりを待つために借金をして生活するという状態にあったのである.このため市場金利は3割にも達し,金融逼迫の原因にもなっていた31).
 まさに丁度その時,1881(明治14)年2月地租納期繰上げが決定され布告される.当然米価の先行き騰貴の予想は薄れ,下落さえ見込まれることになるのは自然の成りゆきであろう.さらに1880(明治13)年12月から1881(明治14)年4月にかけては1880(明治13)年度地租納入期にあたっており,また2年連続の豊作ということがこれに加わり,1881(明治14)年初めから米価は軟化しはじめたものと考えられる.農民は高金利の借入金により米価値上りを待っていたのであるから,先行き値下りが予想されれば,売り急ぐことにならざるを得ない.こうしてまず,高利の借入金を返済するために大量の米が売られることになったのではなかろうか.このことが,実際の地租納入資金調達に先立って,1881(明治14)年初頭からの米価の下落を招来した主要な理由であろう.これに実際の地租を支払うための米の販売が重なることによって,秋以降米価の大幅下落が決定的となった.当時の時論は,こう述べている.「十四年末ノ頃偶々米物一タビ下落ノ勢ヲ為スヤ是レ尚ホ同年ヲ以テ地租徴収期限六期ノ旧制ヲ改メテ四期トシ二ケ月ヲ短縮セシヨリ農民ガ年末一時ニ米穀ヲ売出セシ結果タルニ過キザリシ」32),と.しかも米価が下落すれば,同一金額の地租を支払うためには一層多量の米穀販売が余儀なくされ,それはまた一層の米価低落をもたらすという連鎖をたどらざるを得ない.こうなれば,『地方巡察使復命書』にも見られるごとく,「新穀未タ収苞セサルニ早ク第三納期ノ将ニ尽ントスルニ会ス,是ヲ以テ狡商ノ奸計ニ陥リ廉価ニ新穀ノ売買ヲ予約スルニ至ル」33)(石川県・富山県)という事態もまたまぬがれないことになる.
 以上のごとく,地租納期が繰上げられ短縮されたことにより,農民は納期前に一時に巨額の米穀を売却することを余儀なくされ,このため投機が破綻し米価は大暴落することになったが,それはまた「松方デフレ」を直接惹起する役割を果すことになる.この間の状況は,『大蔵卿第八回年報書』に次のごとく説明されている.
 「十四年度ニ於テ租税納期ノ関係ヨリ米穀ノ供給遽カニ需要ニ溢レ十四年末ノ米価ヲ十三年末ニ比スレハ凡ソ弐割強ノ下落ヲ告ケ農家ノ生計之カ為メニ著ク減退シタ...即チ十四年末ヲ以テ十三年ニ比スレハ農家ハ寡ク〓七千四 百万円ノ購買力ヲ減セサルヲ不得而シテ其影響ハ自カラ直接或ハ間接ニ凡百ノ商業ニ波及スルハ固ヨリ理勢ノ免カレサル所トス是此十四年度ノ末ニ於テ頻年稀有ノ不景気ヲ見ル所以ナリ」34)
表 5-9 明治13,14年米作及び米価対比表
 表5-9のごとく,地租納期短縮が実施されると,1880(明治13)年末に1石10円6銭7厘であった米価は,1881(明治14)年末には8円4銭6厘へと2円2銭1厘もの大暴落を示し,このため年ベース7,500万円の農民購買力が減少することになった.これは当時の国家財政(1881〈明治14〉年度歳出7,146万円)の規模に匹敵する巨大なものであり,そのデフレ効果は甚大であった.このデフレ効果は主として1882(明治15)年以降に現われることになるが,1881(明治14)年においては直ちに農民の奢侈品輸入の減少に反映されることになった.1881(明治14)年には一般物価の騰貴が最高潮に達するにもかかわらず,貿易収支が急速な好転(主として輸入減少による好転)を示す理由はここにあったと考えられる.しかもこれと同時に松方の本格的紙幣整理が開始され,1881(明治14)年末から1882(明治15)年度にかけての短期間に2,200万円もの流通紙幣が銷却され,紙幣価格は急速に回復するに至った.この結果,米価は更に急速に低下することになる.当時の米穀収穫高を年平均3,000万石とすると,1円の米価低落は単純計算で3,000万円の農民購買力を奪うことになる.したがって,1884(明治17)年には米価がほぼ半額に低下したのであるから,年ベース1億5,000万円の購買力が減少したことになる.この巨額の購買力減少は,直接間接に一般商工業に波及し,一般物価の急落をもたらし,深刻なデフレが招来されることになったと考えられる.

む す び

 政府不換紙幣の銷却は,1878(明治11)年度から開始されていた.しかも財政余剰で銷却した額は,大隈期と松方期では大差なかった.しかし大隈は,政府紙幣銷却を世論の批判をかわす一時的方弁であるとし,他方では自己の信念に基づいて大規模な銀行紙幣の増発を推進し,多額の公債を募集して積極的産業育成政策を展開した.こうして大隈期には,政府紙幣銷却額を上回る銀行紙幣の追加発行が行われたため,インフレは激化していった.これに対して松方は,積極政策を転換して縮小均衡路線を採用し,本格的な紙幣整理に着手する.一方で財政余剰による政府紙幣の直接銷却を実行するとともに,他方で会計制度上の欠陥是正による財政収支均衡化と準備金の充実に努め,一時的歳入不足を準備金から繰替支弁することによって予備紙幣の全額銷却を完了する.こうして1881(明治14)年末から1882(明治15)年度末に至る20カ月間に2,200万円にのぼる紙幣が流通から引上げられ銷却される.このため紙幣価格は急速に回復に向かった.この紙幣整理は,それ自体強力なデフレ政策であったが,これと同時に実施された地租納期の繰上げは大幅な米価低落をもたらし,当時の国家財政規模を上回る巨額の農民購買力を奪って巨大なデフレ効果をもたらした.こうして1882(明治15)年以降急激なデフレーションが生じることになる.「松方デフレ」といわれる深刻な不況は,主として両者の相乗効果によって招来されたものと考えられる.
 松方は,緊縮財政による紙幣整理=デフレ政策を断固推進することによって,従前のインフレ政策により一方的に富裕化した農民からの所得移転を行い,もって財政基盤の建直しと農・士工商間の所得格差を是正し,インフレ・金融閉塞を克服し,貿易収支の改善と正貨蓄積を実現することにより,近代的財政金融制度の基礎を確立することに成功した.それは,また,1886(明治19)年以降の本格的「企業勃興」の直接的前提条件を創出するものであった.

 [注]
 1) 松方正義「紙幣整理概要」『日本金融史資料』明治大正編,第16巻,155ページ.
 2) 大蔵省『明治財政史』第14巻,13-27ページ.
 3) 加藤俊彦『本邦銀行史論』,東京大学出版会,1957年,66-7ページ.
 4) 『明治財政史』第1巻,646-708ページ.

 1874(明治7)年12月,大蔵省は「金穀出納取扱順序」を制定し,各省及び府県に対して1875(明治8)年度から会計年度を7月―6月制に改め,年度内に収支を完結させることを原則として,予算編成の手続を詳細に規定した.翌1875(明治8)年に入って,太政官達第36号により各省・府県に対して予算提出を命じた.この36号達によって常用部歳出が定額常費・額外常費・臨時費に区分された.続いて家禄の金禄化(9月),地租米納廃止(12月),歳計上の米穀収支廃止(12月),等々の改正が次次と実行され,財政の貨幣化が急速に進行した.これらの諸改正の集大成というべきものが1876(明治9)年9月の「大蔵省出納条例」であった.その後1881(明治14)年4月の「会計法」(太政官達第33号)及び「会計検査院章程」(同達第35号)が制定されて統一財政・統一会計の方向が鮮明に打ち出されることになり,1882(明治15)年1月の両法全文改正(太政官達第5号)――内容的には1881(明治14)年法とほぼ同様,検査院の審査権が予算には及ばなくなったことが異なる――を経て,予算・会計制度はかなりの程度に整備されることになる.明治前期の会計法規に関する詳細は,同書,585-891ページを参照されたい.
 5) 同前.
 6) 「松方伯財政論策集」『明治前期財政経済史料集成』第1巻,535ページ.
 7) 同前,437ページ.
 8) 『明治財政史』第1巻,766ページ,及び「紙幣整理概要」,156ページ,
 9) 『明治財政史』第5巻,486-87ページ.
 10) 『大蔵卿第八回年報書』(自明治14年7月至明治15年6月),85ページ.
 11) 同前,8ページ.
 12) 『明治前期財政経済史料集成』第1巻,335-36ページ.
 13) 同前第11巻,414ページ.
 14) 詳細は,高橋誠『明治財政史研究』,青木書店,1964年,第2章を参照のこと.
 15) 『明治前期財政経済史料集成』第1巻,314-15ページ.
 16) 1881(明治14)年度及び1882(明治15)年度予算を検討した田口は,有名な「第四十八号の布告今ま何くにあるか」(『鼎軒田口卯吉全集』第6巻,148-53ページ)において,政府は,紙幣銷却元資に充用するという目的のために増税を行いながら,実際にはその全額が紙幣銷却に充てられず,浮いた財源が営業資本=保護干渉費に充てられている,これは人民を欺くものであるとして厳しい論陣をはった.
 17) 大石嘉一郎「松方財政と自由民権家の財政論」,福島大学『商学論集』第30巻2号,383-84ページ.
 18) 『明治前期財政経済史料集成』第1巻,346ページ・
 19) 同前,346ページ.
 20) 『明治財政史』第12巻,204ページ.
 21) 早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』第3巻,344ページ.
 22) 同前,345ページ.
 23) 同前,346ページ.
 24) 同前,347ページ.
 25) 同前,348ページ.
 26) 『法令全書』,1877(明治10)年,48ページ.
 27) この点は,梅村又次教授の指摘による.
 28) 『大蔵卿第六回年報告書』(自明治12年7月至明治13年6月),83-4ページ.
 29) 米穀統計表によれば,米穀生産高は,1877(明治10)年2,659万石・188(明治11)年2,528万石・1879(明治12)年3,164万石・1880(明治13)年3,136万石・1881(明治14)年2,694万石であった(朝日新聞社『日本経済統計総観』,702ページ).
 30) 『大蔵卿第七回年報書』(自明治13年7月至明治14年6月),71ページ.
 31) 同前,129ページ.
 32) 吉田祥三郎「不景気之原因及救済策」,小汀利得編『明治文化資料叢書』第2巻,風間書房,1959年,46ページ.
 33) 『明治十五年,明治十六年地方巡察使復命書』上巻,三一書房,1980年,532ページ.
 34) 『大蔵卿第八回年報書』,145-46ページ.
[室山義正】