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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 第Ⅰ部:第6章:松方デフレのマクロ経済学的分析(改訂版)
著者名: 寺西 重郎
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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第Ⅰ部:第6章:松方デフレのマクロ経済学的分析(改訂版)

 本格的な企業勃興を伴うわが国経済の工業化は,ほぼ1886(明治19)年頃その端緒につく.いわゆる松方デフレはその直前における未曽有の不況期であった.有効需要と物価が急速に下落し,農家負債は累積し,在来商工業は衰頽をきわめた.租税の重圧にあえぐ農民は土地を手放し,農民騒擾が続発する.この松方デフレ経済が,それ以後の工業化過程に対していかなる意味をもったか,またそれ以前幕末以来の経済発展過程とどのようにかかわっているかは,わが国経済発展過程の理解にあたって一つの中枢的テーマであるとも言えよう.
 本稿は,松方デフレーションのマクロ経済学的分析を目的とする1).とりあつかわれる問題は主として以下の三点である.第1.従来,松方デフレについては,大蔵卿松方正義が断固緊縮財政を行い不換紙幣を消却したことによって生じたと説明されてきた.しかし,近年大隈文書の分析等の進展に伴って,紙幣整理にかんする措置の多くは,前任者たる大隈重信によってすでに企図されたか実施されたことが指摘されてきている.松方財政はいわば大隈の地ならし工事の上に行われたものであり,その功績はすでに設定されていた路線を(多くの障害を克服しながら)完遂したところにある,というのが最近の通説である.旧説は,主として公刊の『明治財政史』――これは副題に「一名松方伯財政事歴」とあるように松方を顕賞するために編纂された一面をもつ――に依拠しているため,かなりのバイアスをもっていたことは疑いない.しかし新しい通説についても,その実証的裏付けはいまだ十分でなく,いくつかの重要な問題が未検討のまま残されている.第1に,大隈が松方以前に紙幣整理,緊縮財政を企図――その企図は必ずしも松方のような一貫したロジックからなされたものではないが――したことは確かだとしても,実行の面で,どれだけなしたかが明確にされてないことである.Ⅱでは,この点を,主として明治14(1811)年政変以前と以後の紙幣整理額および財政余剰を比較することにより検討する.第2に,直接的な政策効果と内在的な政策メカニズムの関連如何という問題がある.緊縮財政による紙幣整理が松方デフレと密接な関連をもっていたことは言うまでもない.しかし,それとともに松方デフレ現象は投機的ブームの崩壊というきわめて景気循環的な経済変動であったという側面も無視しえない.従来の分析ではこの点の理解がかならずしも十分でなかったとみられる.本稿のⅢでは,若干のマクロ経済指標を検討することにより,内在的景気変動の重要性を示唆することにしたい.第3に,松方の行った財政政策の本来の意図が何であり,それが事後的な成果とどのようにかかわっているかという問題がある.この点にかんしてマクロ経済分析の解答しうる範囲はもとより限られたものでしかない.Ⅳではかなり超越的な評論になることを覚悟のうえで,この点に関する予備的な考察を行うこととする.

 Ⅰ 1877~81(明治10~14)年のインフレーション

 松方が大蔵卿となる1881(明治14)年以前の3~4年間は,不換紙幣の増発による激しいインフレーションの一時期であった.本節ではまず松方デフレ「前史」としてこの間の事情をかいつまんで論じておこう.
 維新直後の政府財政が会計基立金という商人からの強制的借入および太政官札等の不換紙幣の大量発行によってまかなわれたことはよく知られている.当初,政府不換紙幣の発行高は1868(明治元)年の約2,400万円から1874(明治7)年の約9,000万円まで急増したが,その後は地租改正による歳入手段の確保等によりほぼ安定的に推移していた.しかしながら,1887(明治10)年2月になって西南戦争が勃発するとともに,2,700万円の紙幣が増発され,国立銀行条例の改正に伴う国立銀行券の急増とかさなって激しいインフレーションが生じることになる.表6-1にみられるように,現金通貨残高は1876(明治9)年の約1億2,400万円から1878(明治11)年の1億8,900万円へと一挙に1.5倍にふくれあがったのである.物価指数はいずれもこの間1.5倍から2倍へと上昇している(表6-2).とくに重要なのは米価の上昇であり,約1.5倍上昇し,地租が地価に比例して定まって固定しているため,米販売代金に対する地租の割合は約10%にまで低下している(表6-3).インフレーションの過程で,当時の主生産者たる農民および地主が最もうるおったのである.くわえて,1877(明治10)年には地価の3%という従来の地租率が2.5%に切り下げられたという事情もあった.商人もまたこの過程で多大の利益を得た.表6-3にみられるように三府の商人数は2年間で2倍になっている.また銀行とともに多くの会社が設立された.これらはいずれも「投機的奇利を射んとする商品の製造販売における小工業会社その他の商業会社に過ぎ」ない泡末企業であったと言われる.しかし,この過程で国内市場が拡大し後の発展の基礎がつくられたことも注意せねばならない2).
表 6-1 現金通貨残高とその増減(1875-85)
表 6-2 実質利子率と実質現金残高
表 6-3 松方デフレ期の諸現象
 皮肉なことに,インフレよりも最も被害を蒙ったのは紙幣増発の責任者たる政府であった.これは,歳入の中心部分をなす地租が地価にリンクして固定的であったためである.中央政府の財政収入はほとんど伸びず実質値において大幅に減価するにいたった.政府にとって,この財政困難を打開するためには,インフレ所得を得ている豪商農からの所得移転を行うほかなく,そのために(後述のごとく)相次ぐ税制改訂がなされ,また松方デフレ下の物価下落が最終的にそれを可能にするのである.いわゆる「地租一部米納論」は,この間の事情を象徴するエピソードであった(第4章猪木論文参照).
 紙幣の増発の影響は,他方で銀貨と紙幣との相対価格の騰貴となってあらわれた.図6-1を参照されたい.ここで銀貨の紙幣価格とは,当時東洋における支配的な国際通貨であった洋銀(メキシコ銀)1ドルないしこれと同品位のわが国の円銀(貿易銀)1円に対する紙幣の相対価格である.明治中期頃までの貿易は主として現銀決済であって,外国為替手形による取引は外国商社間ないし本支店間に限られていたから,銀紙の相対価格は為替レートに対応するものであった3).わが国では,1871(明治4)年5月の新貨条例により,金本位制(実質的には金銀複本位制)がしかれていたが,紙幣と金貨との兌換は実行に移されず,国内通貨と正貨の間のリンクは全く切断されていたから,実際には対外的には変動為替相場制をとっていた.変動相場制のもとでは4),通貨供給の増加があるとき,為替レートの低下すなわち銀紙の相対価格の上昇が生ずるのは当然であり,それは対外均衡達成のための不可欠の調整である.しかしながら,当時,明治10年代初期にあっては,銀紙価格の変化自体は,ある意味では国内インフレーション以上の大問題として受けとめられ,国論(少なくとも中央政府内の議論)を二分するかのような形勢が生じたのである.
 銀紙価格の変動をめぐる当時の論争の経緯に立ちいる余裕はないが,この変動の事情はいささか錯綜しているので,以下簡単にそのメカニズムを解説しておこう.
図 6-1 金・銀・紙幣相対価格の推移
 1871(明治4)年5月の新貨条例では,純金1.5グラム(231.2グレーン)を含む円金貨が原貨(本位貨)と定められた.しかしこれと同時に,純銀24.26グラム(374.4グレーン)を含む一円銀貨5)(円銀)を貿易銀として,各開港場における貿易取引と外国人納税のために用いることが定められ,しかもこの貿易銀は開港場以外でも個人間取引で相対で受取渡すことが許されていた.それゆえ,新貨条例の本位制は,実質的には金銀複本位制であったといわねばならない.
 本位金貨と一円銀貨の間の交換比率は当分銀貨100円につき本位金貨101円の割合とするとされた.それゆえ,金銀の公定比価は16.01である.ところが,新貨条例制定の直後から,それまで数十年にわたって安定していた金銀の市場比価が大きく変動しはじめることになる.これは,欧米諸国が従来の金銀複本位制から相次いで金本位制に移行しはじめたため貨幣用銀の需要が減少したことと,アメリカおよびメキシコで1860年代以降銀の産出量が急増したためである.このため金銀の公定比価にくらべて市場比価が高くなり,いわゆるグレイシャムの法則といわれる事態が生じた.
 表6-4を参照されたい.金銀比価は,1872(明治5)年にロンドン市場価格が目本の公定比価を上まわり,その後両者の差は急速に拡大した.このため金貨発行額は,1874(明治7)年になって激減している.また,金貨兌換を義務づけられた国と銀行紙幣は政府から下付されたにかかわらずほとんど流通していない.これは銀貨を国立銀行券に換え,正貨に兌換し,再び銀貨に交換することにより,当初より多くの銀貨を得ることができるからである(グレイシャムの法則).このため,外国人は競って金貨を買求め,また国内の旧金貨,金地金は新金貨に鋳造されることなく商品ないし資産として退蔵されることとなった.これに対して,政府は金銀公定比価を市場比価に合わせて高めることにより対処しようとした.すなわち,1875(明治8)年2月には従来の円銀よりも銀純量を多くした増量貿易銀を鋳造し,1876(明治9)年3月には金銀の交換比率を金貨100円に対し銀貨100円に改めた.しかし,これらの方法では到底市場比価の上昇に追随できず,市場で流通する通貨は全く紙幣のみとなった.政府紙幣は不換紙幣であり,その正貨の増減とのリンクは全く絶たれていた.それゆえ,1873(明治6)年頃以降は,金本位制でもなく,また管理通貨制度下の固定為替相場制でもなく,一種の変動相場制が成立していたのである.開港場における洋銀取引には,すでに幕末より自由相場が立っていた.
表 6-4 グレイシャムの法則と金銀貨の流出
 ところで,当時1873(明治6)年から1877(明治10)年頃にかけての貿易収支はほぼ毎年大幅な入超であった(表6-4).また,大量の金銀流出が生じている.それにもかかわらず,図6-1にみられるように為替相場に対応する銀紙の相対価格は1878(明治11)年以降急上昇するまではほぼ1.0-1.1の間に安定化している.当時の為替制度が変動相場制であったとするならば,これは一見きわめて奇妙なことである.変動相場制のもとでは,為替レートの変動により貿易収支は均衡化するはずだからである.このことの理由は,新旧金貨の商品としての輸出にある.当時人々のポートフォリオの中には,新旧の金貨が大量に退蔵されており,それが市場比価の変動とともに売出されたのである.それゆえ,金の商品としての輸出をも考慮にいれると貿易収支は均衡していたはずであり,銀貨の紙幣による相場が一定にとどまっているのはむしろ当然のことなのである.もちろん,当時の退蔵金貨量を統計的に確定することは容易でない.しかし退蔵を促したとみられる要因は種々あげることができる(退蔵の動機があり,他方,それを阻害する要因がとりたててない以上,退蔵がなされたと考えることができよう).
 まず,新貨条例制定時の両円対等規定の問題である.円を基準通貨単位に定めるにあたって,従来の1両は1円に換算された.これが両円対等の規定である.それゆえ従来の二分金2個(1両)で1円になるが,実は二分金6)2個は金純量において本貨金価に換算して1.10885円(新金貨の鋳造費を差引いても1.08642円)の価値をもっていた.このため,新貨条例によって二分金は新金貨に切り換えられることなく退蔵されたのである.しかも,新貨条例により新たに鋳造された新金貨は,上述のグレイシャムの法則により,ことごとく退蔵ないし溶解されたのである.次に,贋造貨幣劣位二分金の問題である.当時これらの劣悪貨幣が多量に出まわっており,これらの真贋を見きわめるのに多大の手間を要した.このため漸次,真贋の問題の少ない政府紙幣が主として流通するようになり,旧金貨は退蔵されたと考えられるのである.しかも1874(明治7)年には古金銀の通用が禁止されたことにより,古金銀はすべて退蔵され金銀という一個の商品と化したのである.
 以上から,われわれは1873(明治6)年から1877(明治10)年にかけての事態一貿易収支の恒常的赤字と銀貨の紙幣に対する相対価格の安定――は退蔵金貨の商品としての輸出によって説明できると考える.金貨が他の財とならんで輸出されることにより,銀貨すなわち国際決済通貨が供給され,このため貿易収支の不均衡にかかわらず(一種の為替レートたる)銀紙価格が安定化していたのである.先の図6-1によれば,1878(明治11)年以降,金銀比価は再び短期的安定期にはいる.このため,金貨の商品としての輸出は減少ないし停止したと考えられる.為替レートの変化すなわち銀紙価格の変化が,この時点から顕著となるのはこうした事情によると考えられるのである.

 Ⅱ 紙幣整理と緊縮財政

紙幣増発のもたらした,当時の経済情勢については,松方正義の次の一文が雄弁である.
 「政府ノ会計ハ其収入ノ実価格殆ト其半ヲ減シ民間ニ於テ公債ノ利子恩給年金其他一定ノ収入ヲ以テ生計ヲ立ツル者ハ皆俄ニ会計ノ困難ニ苦シミ金利ハ非常ニ騰貴シ公債ノ価格ハ非常ニ下落シ諸物価ハ皆一斉ニ騰貴ヲ極メ就中米ハ我国産中最多量ニシテ且ツ重要ナルカ為メ其騰貴ノ影響最モ著シク大ニ地租ノ負担ヲ減少シ地価ノ騰貴非常ニシテ農民ハ独リ巨利ヲ得俄ニ奢侈ノ風ヲ成シ全国ヲ通シ贅沢品ノ消費大ニ増加シ伊勢参宮琴平参リ其他大小ノ都会ニ遊フ者等其数未曽有ノ増加ヲナセリ随ツテ外国輸入品ハ益増加シ正貨流出ノ勢殆ト底止スル所ヲ知ラス商業家ハ物価変動ノ甚シキニ眩惑シ皆投機の奇利ヲ射ルニノミ汲々トシテ敢テ実業ヲ顧リミス故ニ大資本ヲ要スル大工業ハ金利ノ高キカ為メニ起業ヲ企ツル者ナシ」7)
 紙幣整理は,大隈重信(1873〈明治6〉年10月―1880〈明治13〉年2月まで大蔵卿,1880〈明治13〉年3―10月太政官参議)の手により,1878(明治11)年度予算から開始され,次いで1880(明治10)年10月の政変後は松方正義によって行われた.
 紙幣整理の過程でいわゆる松方デフレが起る.図6-2にみられるように物価は急激に下落し,ほぼ1874,75(明治7,8)年頃には1877(明治10)年頃の水準まで低下する.銀紙相対価格も下り,1886(明治19)年になり両者の等価交換は実現する(図6-1).これとともに,表6-3にみられるように,会社資本の減少(倒産),身代限の増加等深刻な不況現象は現出する.とくに苦況に陥ったのは農民,地主および地方の在来産業家であった8).とくに農民・地主は,地租は固定的であったため,インフレ期と逆に租税負担の重圧にあえぐことになる.米販売代金に対する地租の割合は1880(明治13)年の10.0%から1883(明治16)年には14.4%に上昇している.デフレによる農民・地主から政府への所得移転が行われたのである.またこの間に小作地率は1872(明治5)年の28.9―30.6%から1887(明治20)年の39.3―39.5%へとおよそ10%も上昇している.土地を失った農民は,その後の工業化過程において産業労働力へと転化してゆくことになる.
 さて,問題は,この激しいデフレーションがなぜ生じたか,より具体的にそま,松方正義の財政政策といかなる関係にあったかである.この点を,まず松方・大隈両財政のもとでの紙幣整理額および財政余剰の大きさを比較することにより考察してゆこう.
簡単化のために,1881(明治14)年10月の政変を念頭において比較を1879―81(明治12―14)年(あるいは年度)と1882―84(明治15―17)年(あるいは年度)とに限り,さしあたって前期間を大隈期,後期間を松方期とよぶことにする.当時の財政年度はその年の7月から翌年の6月までであったから,1881(明治14)年度を大隈期とよぶことは若干問題であるが,ここではこの年度における松方の財政政策は,大隈の影響下に立案された政策を忠実に執行したものと仮定しておく10).
 紙幣整理額について表6-1をみられたい.第1種政府紙幣は1879―81(明治12―14)年の3年間に合計13,896千円の消却であり,1824―84(明治15―17)年には12,525千円である.第2種政府紙幣の消却高はそれぞれ6,618千円および13,000千円である.政策のくぎりをさしあたって1881(明治14)年末にとるとき,その前の3年間で,計20,514千円,その後の3年間で計25,25千円の消却が行われたことになる.
 しかしながら,こうした紙幣整理額の動きは必ずしも財政政策の実態を反映したものではない.第1に,第1種政府紙幣のうち,金札引換公債による消却部分は財政収支のネットの動向からは中立的である.なぜならば,紙幣の回収は負債の減少であるが,それは同額の金札引換公債証書の発行という負債の増加によってまかなわれたものであって,両者は相殺しあうからである.また,第2種政府紙幣の消却についても,その消却のかわりに,準備金ないし鉄道基金からの一時借がなされたかぎりにおいてネットの財政収支とは独立である.いま,表6-1により,金札引換公債による第1種政府紙幣の消却分(第(8)列)および第2種紙幣の消却分(第(2)列)を除いて,一般会計剰余による消却分のみに注目すると,大隈期は11,000千円,松方期で6,640千円となり,大隈期の方が圧倒的に大きいのである.それでは,このことは,大隈期の財政余剰が松方期の財政余剰より大きいこと,言いかえると大隈期の緊縮財政の程度の方が松方期のそれより甚だしいことを意味しているのであろうか.答は必ずしもイエスではない.というのは,表6-1第(7)列は中央政府の一般会計の剰余のみに注目した数字であって,たとえそれによる紙幣消却額が大きいからといっても,財政全体の動きとは必ずしも一致しないのである.以下この点をよりていねいに検討することにしよう.
表 6-5 松方デフレ期の一般会計歳入・歳出決算額
 表6-5を参照されたい.これは中央財政(経常部および臨時部)の歳入歳出決算を
 T+⊿D=G+⊿A
のかたちに整理したものである.T+⊿Dは歳入であり,Tは租税,営業収入等の経常収入,⊿Dは負債の増加,資産の減少による収入である.負債の増加とは,たとえば準備部からの借入,国債の発行,他からの借入金によるものであり,資産の減少とは貸出金の返済,官有資産の売却等による収入である.G+⊿Aは歳出であり,Gは財・サービスの経常購入,資本形成,移転支払等の支出であり,⊿Aは資産の増加,負債の減少による支出である.資産の増加とは,たとえば貸出の増加,準備部への繰入であり11),負債の減少とは国債の償還,紙幣の消却等のための支出である.
 全体としての政府の財政余剰を論ずるには,しかしながら,以上の情報だけでは十分でない.まず,(ⅰ)これ以外に第1種政府紙幣発行による経常支出がある.これは1875(明治8)年度以降の歳入歳出決算には含まれていない.(ⅱ)西南戦争関係の収支.これは「九州賊徒征討費決算」として別会計に付されている.(ⅲ)後の特別会計にあたる別途会計の問題.そして最後に,(ⅳ)地方財政の問題がある12).また,このほかにネット概念である財政余剰の観点からは問題にしなくてよい収支もある.それは次のようなものである.(a)国債発行による紙幣消却.前述の金札引換公債による消却がこれにあたる.このばあい,負債増加と負債減少が同額であって,財政余剰には影響がない.(b)準備金等のひきだしによる紙幣消却第2種政府紙幣の消却がこれにあたる.これも,資産減少と負債減少が相殺するから財政余剰とは関係がない.(c)交付公債.金禄公債の発行がこれにあたる.財政収支は通り抜け勘定であるからこれは無視しうる13).
 ところで,われわれは簡単化のため,考察の対象期間を1879(明治12)年(あるいは年度)以降の時期に限定した.この簡単化により,上記(ⅰ),(ⅱ)の問題は無視しうることになる.第1種政府紙幣の増発は1879(明治12)年以後わずか2.000円であり(表6-1),また西南戦争の決算は1878(明治11)年度までに完了しているからである.まず,(ⅲ)の別途会計については,当該期間関係するのは起業基金と鉄道基金であり,この収支は表6-6に示すとおりである.収入は公債発行によるものだから,⊿D′とし,支出はG′としておこう.G′はほとんどすべて政府資本形成に用いられた.⊿D′とG′の差は別途会計の資産変化分だから⊿A′としておこう.次に(ⅳ)の地方財政.収入は表6-7の地方税収入(T"とあらわす)と中央政府から地方政府への移転支出(Tr)であり,支出は別途得ることができる(G"とあらわす).T"+TrとG"の差は地方政府の財政余剰で,これが正のときは資産増,負のときは負債増となる.T"+Tr-G"=⊿A"-⊿D"としておこう.(⊿A"-⊿D"の内容は知ることができない.)
表 6-6 別途会計:起業基金及び鉄道基金の収支
表 6-7 財政余剰の比較
 こうして表6-7がえられる.財政余剰はT+T"-(G+G′+G"-Tr)である.ここでTrを差引いたのは,Gの中にすでに計算済みだからである,財政余剰はまた⊿A+⊿A′+⊿A"-⊿D-⊿D′-⊿D"ともあらわされる.いずれの方法であらわしても財政余剰の額は等しい.また,財政余剰を中央,地方に分割すると,中央政府(別途会計を含む)の財政余剰はT-G-G′=⊿A+⊿A′-⊿D-⊿D′であり,地方政府の財政余剰はT"+Tr-G"=⊿A"-4D"である,
 さて,表6-7によると大隈期(1879-81〈明治12-14〉年度),松方期(1882-84〈明治15-17〉年度)ともに財政余剰は正であり,ともに緊縮財政をとっていたことがわかる.しかも,その大きさは大隈期で年平均6.8百万,松方期で6.5百万と,両期間の余剰額はほぼ等しいのである14).こうした結果のえられた一つの明らかな理由は,本章の分析が単に中央政府財政のみでなく地方政府財政をも考慮にいれている点にある.大隈期において,地方政府は年平均1.7百万円の正の余剰を計上している.これは増税とともに年あたり2.5百万円の中央政府からの移転支出におうところが多い.松方期においては,しかし地方政府の財政余剰は年平均3.1百万円の赤字である(不足分はおそらく大隈期における蓄積とともに地方豪商農,銀行等からの借入によってまかなわれたのであろう).これは1880(明治13)年11月の第48号布告等にもとづく中央政府からの移転支出の削減および支出の地方負担増によるものである.さらに,1884(明治17)年度には租税収入も激減している(特に町村地租附加税,反別割の減少が大であった).このため,中央政府としては,大隈期以上の年あたり9.5百万円の余剰を計上しているのであるが,地方とのネットの収支は6.5百万円の余剰にとどまるのである.この点で,松方の超緊縮財政は地方政府への財政負担の転嫁によってなされたともみなすことができよう15).
大隈・松方両期の財政余剰が金額においてほぼ等しいということは,紙幣整理における大隈の「功績」を重視する新しい通説の立場を支持するものとも言える.しかしながら,大隈期の余剰が大きく推計されたのは,1881(明治14)年度財政の余剰が11.9百万円と著しく大きいためであることを見逃してはならない.この財政の執行は大部分松方によってなされたものである.また,松方が圧倒的に不利な環境の中で紙幣整理計画を完遂したという意味での「功績」も正当に評価される必要があろう.松方財政の苦難は,まずその登場とほぼ時期を同じくして景気が深刻な下降局面に突入したことによる.この不況はそれ以前の投機ブーム的な「上景気」の反動としておそらく未曽有の激しいものであり,しかも後述のように一種のラグを伴って生じたため,松方にとっては(ほとんど)予想外のことであった.このため,相次ぐ増税を目的とする税制変更にもかかわらず租税収入は増加せず1882―84(明治15―17)年度の3年間67百万円台の水準にはりついたままにとどまるのである.これは不況の影響で,所得弾力性の高い酒税が1883(明治16)年度において一挙に3百万円減少し,煙草税則の改正等によるその他諸税増により,やっと前年度なみの税収額を維持しえたためであった16).他方,支出面では松方は1882―84(明治15―17)年度3年間の間各官庁必要経費の据置を計画したが,諸事多難のおりから,その効果ははかばかしくなかった.加えて,1882(明治15)年7月に京城で反目暴動,いわゆる壬午事件が発生し,それまで内治派に抑えられていた陸海軍の軍拡要求が急速に高まってきた.特に海軍省は8カ年間で200人乗組軍艦48艘の建造を計画し,初年度すなわち1883(明治16)年度予算として銀貨402万円(紙幣換算で約632万円),通貨(すなわち紙幣)69万円の予算増を要求した(1882〈明治15〉年11月).これに対して大蔵卿松方は「海軍卿上請ノ如キ巨額ノ銀貨目下支弁ノ道無之候」として,銀貨の請求は拒否したものの,通貨3百万円の新艦建造費および1.5百万円の陸兵増加費は認めざるを得ず,これを7.5百万円と予想される増税収入から支出しようとしたのである17).しかしながら,上述のように増税計画は予想外の不況の深刻化のため全く画餅に帰し,結局,陸海軍あわせて4百万円にのぼる軍事支出増は1883(明治16)年度については,10,654千円,1884(明治17)年度は2,373千円の準備部からの繰入れ等によってからくも実現されたのである18).不況の深刻化と朝鮮事変はともに松方にとって多分に予想外の障害であった.しかし,松方財政にとっていずれがクルーシャル(決定的)であったかと言えば,それはやはり前者による税収の減退であったであろう.かりにこの時点で朝鮮事変が発生しなかったならば,松方期の財政余剰はいくらか大きくなっていたかもしれない.しかし,そのばあいは税制変革,緊縮財政に対する抵抗は一層強かったであろうから,多少の余剰増があったとしてもその額はわずかであったろう19).
 ところで,以上の分析は大隈が大蔵卿または財政担当参議であった時期(1881〈明治14〉年まで)を大隈期,松方が大蔵卿であった時期(1882〈明治15〉年以降)を松方期とする古典的定義によっている.周知のように(あるいは新しい通説の主張するように),この大隈期における大隈財政は一貫したものではなく,1880(明治13)年9月の「財政更革ノ議」ないしそれに続く第48号布告(1880〈明治13〉年11月)をさかいに拡張主義から緊縮への転換をとげている20).それゆえ,この転換から明治14年政変(1881年10月)までの期間(あるいは1881〈明治14〉年7月から1882〈明治15〉年6月までの1881〈明治14〉年度財政)をいずれの時期にふくめしめるかによって,政策効果の評価は大きく異なったものにならざるをえない.狭い意味での財政余剰の政策効果のみを論ずる場合は,1881(明治14)年はそれ以後の時期とともに緊縮財政期として一括されるべきであろう.また,大隈・松方両者の功績を比較しようとする場合には,1881(明治14)年は転換後の大隈財政としてその前とは別建てで扱われるべきであろう.しかしながら,こうした方法は,それぞれの分析目的のためには有用であっても,問題をいささか倭小化する可能性があるように思われる.本稿では,あえて1882(明治15)年以降の純粋21)な松方財政をそれ以前の期間と比較するという大胆な方法をとった.いわゆる松方財政,いわゆる松方デフレと従来言いふるされてきた現象の性格は,この方法によるほうがより鮮明になると考えたからである.

 Ⅲ 景気循環

 表6-8は実質GNE構成要素の成長率を示したものである.また実質賃金,
実質利子率等の動きは表6-2から知られる.これらの数字をもとに当時のマクロ経済変動のシナリオを素描すると概略以下のようになろう.
表 6-8 GNE構成要素の実質成長率
 まず1878―81(明治11-14)年のインフレ期.1879(明治12)年頃までの紙幣増加により,財に対する需要が増加し,物価の上昇が生じる.特に大きく増加したのが総需要の80―90%を占める個人消費であり,名目値では1878(明治11)年の522百万円から1881(明治14)年の904百万円へと80%近く増加している(統計付録6-1).実質現金残高と実質賃金は低下したが,当時の消費者のほとんどはまた生産者でもあったから,インフレ下の所得上昇が消費増をもたらしたのである.インフレにより貨幣利子率は上昇したが(図6-2),実質利子率は低く,民間投資も増加する22).定額金納地租を中心とする固定的租税システムのため,政府の実質収入支出は減少したが,その総需要に占めるシェァは小さく,需要増の趨勢を逆転させることはない.かくて輸入は増加し,銀紙価格は高騰する.銀紙価格の高騰は単に貿易収支だけでなく,金銀に対する保蔵需要がその価格上昇期待によって高まったことによっても加速された.
図6-2 各種指標の月別値.
表6-9 月別の輸出額―輸入額
 銀貨価格の上昇期待により商社の輸入は激増した.しかし価格上昇とともに売れゆきは鈍り,1880(明治13)年頃から外商の倉庫に滞貨が目立つようになる23).また,貿易収支は1881(明治14)年初頭から赤字から黒字への基調変化をみせはじめ(表6-9),このことは銀紙価格,国内価格に対する期待を変化させたと思われる.紙幣の減少が顕著になり,松方の緊縮財政および銀紙価格抑制方針がアナウンスされたことも期待の変化に拍車をかけたであろう.かくして景気の反転が生じる.まず1881(明治14)年から在庫調整がはじまり,物価下落期待により貨幣利子率は低下するが,実質利子率は上昇に転じる.実質投資は1882(明治15)年から減少に転じる.消費の減少は,輸入品価格の高騰と米価の下落により,1881(明治14)年には顕著になってくる.さらに1882(明治15)年における租税納期の短縮化は,米価の下落,農民の消費需要の減退を決定的なものとした.物価下落により政府の実質支出は増大するが,このGNEに対するシェアは小さく,需要減少によるデフレ過程が持続する.
 このようなマクロ経済変動のシナリオはかなり大胆なものに見えるかもしれない.しかし,当時の経済変動を特徴づける以下の三点を考慮するとき,上記シナリオはさほど大きく的をはずれたものとは考えられないのである.まず第1に,このインフレ・デフレ過程で人々の期待にもとづく投機的行動が大きな役割を果したとみられることである.農家が米価期待にもとづいて米の供給調整を行ったことは当時の記録にしばしば指摘されている24).また,資産保有者が1億円以上とみられる保蔵金銀を銀紙価格の期待にもとついて調整したことも間違いないであろう25).さらに商社が銀紙価格期待によって輸出入の調整を行ったこともさまざまな記録から明らかである.この時期の景気変動が,3~4年間における2倍近い貨幣量の激増による投機的ブームの性格をもっていたこと,その反転が一面で投機ブームの崩壊であったという点はきわめて重要な留意事項である.第2に,当時の経済がすでにほぼ完全なかたちで国際経済変動に包摂されていたことに注意せねばならない.このことはかつて新保博[1967b]によって,最近では本書の中村論文において指摘されているところである.図6-1,-2によって物価水準と銀紙価格の変動をくらべると,両者が実に似かよった動きをしていることがわかろう.国内価格=為替レート(あるいは銀紙価格)×世界価格といういわゆる購買力平価説に近い状況が成立していたと考えられるのである.かりにこの関係が厳密に成立していたとすると,世界価格が一定のとき,国内価格と銀紙価格はパラレルに動くことになる.銀紙価格は変動為替相場に対応するものであるから,これが期待にもとついていわゆるオーバー・シュート(overshoot)するとき,国内価格にもなにがしかの攪乱が生ぜざるを得ないのである.当時において米は重要な輸出(入)品であったから,米価もまた国際価格の動向と為替レートに関する期待に依存していたことも見逃してはならない26).第3に,当時の経済政策の効果が著しいラグをもっていたことが重要である27).たとえば,インフレの一原因となった西南戦争にともなう27百万円の政府紙幣は,1877(明治10)年9月の戦争終了後12月の第87号布告により1878(明治11)年頃支出されたが,その大部分は運送のための人夫賃金等のかたちで北九州に散布されたものとみられる28).滝沢直七[1912]は,この紙幣が物流にともなって都会地に還流してくるのは1880(明治13)年頃のことではないかと記している29).この仮説を検証することは容易でないが,著しく経済が地方分断されていた当時にあって,貨幣量等のマクロ政策手段の効果が,相当のラグをもち,かつさまざまなかたちで拡散しつつ波及したということは十分想定しうることである.いま,かりにこの滝沢の仮説が正しいとすると,大隈期における紙幣整理の効果は,その実施時期においては,九州からの中央への紙幣の還流によって相殺されたと考えねばならない.還流の終了した1881(明治14)年頃になって,大隈の紙幣整理がようやく奏効し,その時点で松方が登場したとも考えることができよう.これはあくまで仮想でしかない.しかしながら,少なくとも利用可能なデータから判断するかぎりでは,景気は松方の登場(1881〈明治14〉年10月)以前に確実に反転していた.それゆえ反転は松方の政策からは独立に生じていたと考えられるのである.たとえば図6-2に示されているように,銀紙価格のピークは1881(明治14)年4月であり,7分利付金禄公債利回のピークは同年1月である.深川正米相場も1880(明治13)年12月にすでにピークに達している.また表6-9によれば季節調整済の貿易収支は1881(明治14)年初頭には確実に黒字基調に転じているとみられるのである.また大隈関係文書第4巻(308-9ページ)には小松彰なる人物から大隈にあてた手紙に次のような一節がある30).「田畑豊熟ノ景況ハ昨年ニ相勝リ候由ニテ,隋而米価日ニ下向,既ニ八円代ニ及ヒ尚騰貴之勢ハ相見不申,麦価モ同様並物三斗五六升ニ御座候.暫ク此辺ニ昇降仕候ハヽ諸物価モ尋テ引下可申.民ノ陋愚ナル昨年中悪説教唆ノ酔夢尚醒兼候部分多ニ為メニ,薪炭塩噌一切ノ品類米価ニ比シ高位ニ居リ候ハ其所有者ノ為ニ慮ラレ候事ニ御座候.公債常ニ騰貴ノ傾キ有之,銀価ハ六十二三銭ニ昇降格別ノ変動モ不相見,其下落之説ノ漸ク伝播仕候ハ人ヲシテ戒心セシムルノ効能ト相成,幾分空蔵ノ弊ヲ除キ可申.昨今ノ此頃ハ皆非常ノ昂騰ヲ憂ヒ候モ,今日ハ却而急劇ノ下落ヲ慮リ候人情ニ趨キ候様ニ而」この手紙の日付は1881(明治14)年8月2日である.すなわち景気は松方の登場以前に明らかに反転していたのである.
 ちなみに,以上の分析は,1890(明治23)年恐慌をもってわが国最初の本格的恐慌とみなす通俗的見解に大きな疑問を投げかけていることに留意されたい.分析の示唆するところによれば,松方デフレは,それ以前のインフレ的ブーム期から連続的に理解されるべき景気循環過程としての性格が強い.すなわち,松方デフレは1890(明治23)年以前における一つの「恐慌」であるとみられるのである.最近の数量経済史の研究によれば,わが国の経済発展過程は,文化文政期(1820年代)には確実に始発していたとみられる.松方デフレもこのような長期的過程の中の一現象として把握される必要があると考えられる31).

 Ⅳ 松方の意図と現実

 さて,以上の分析によれば,少なくともマクロ経済政策の意昧では,松方は緊縮財政を行うべきでなかったとも言えよう.むしろ積極的な赤字財政により景気回復をはかるべきであった.松方がそれをしなかったのはなぜか.
 第1の理由は,松方にとってマクロ景気調整以外のそれ以上に重要な経済課題があった点に求められよう.それは一つには,地方豪商農からの所得移転による政府財政収入の確立であり,いま一つは金属(銀)本位制に基づく中央銀行制度の確立である.銀行制度の発展に伴い当時の日本経済では,急速に国民経済としての統一化―地方分断市揚の統合―が進行しつつあった.この急激な変化に対応して全国的な財政金融政策機構を設定することは,松方にとって最も緊急を要する課題であったのではないだろうか.地方経済,在来産業の疲弊にかかわらず,当時の中央では近代工業建設への過程が着実に萠芽しつつあった.不景気とはいいながら「底力のある不景気」であったともみられるのである.
 いわば大局を見通していたことが第1の理由であるのに対し,第2の理由としては,松方がさまざまな予想外の現実に遭遇したという側面をあげておく必要がある.予想外の現実の第1のものは,さきに述べた朝鮮事変である.1876(明治9)年の日朝修好条規以降,日本は対外的には例外的な安定期にあったのであり32),事変とそれによる軍拡費要求は松方にとって全くの計算外のことであったろう.いま一つの予想外の事態は景気の悪化である.景気の反転が既に松方登場以前に生じていたとは言え,それがかくまで悪化するとはおそらく松方は予想していなかったと思われる.特に当時の景気循環がかなりのラグをもっていたこと,国際的な景気循環と密接に関連していたことおよび反転が投機的ブームの崩壊という性質を帯びていたこと等からみて,松方にとっては予想外の事態であったと推測されるのである.松方の行った相次ぐ弥縫的ともみえる増税政策はこの点を裏書きしているとも考えられる.
 景気悪化による税収の減少,軍拡要求に応じての支出増の中で,財政再建を行うためには,インフレ下で致富した豪商農から所得移転を行うほかはない.特に五千万円外債論,地租一部米納論がいずれも実現不可能になった以上,緊縮財政とそれによるデフレーションが所得移転のための最も効率的な手段であったのである.坂野潤治[1981a],[1981b]の指摘するように,豪商農への譲歩に次ぐ譲歩の過程で33),中央政府が逆転的所得移転の意図をインプリシットに抱いていたことは否定できないであろう.しかしそれとともにそのまきかえしが,豪商農をして悲惨なまでの苦境に陥らしめることは(松方を含め)何人も予期していなかったとも考えられる.不況の深刻化は,それが予想外であったために,想像をはるかに上まわるデフレ過程を生ぜしめたとみられるのである.
統計付録 6-1 輸出額,輸入額の季節調整値
統計付録 6-2 GNP*(非1次産業および在庫投資を除く当年価格GNP)
 ちなみに,松方デフレという苛酷な手段による財政再建がともかく実行しえたことの背景には,正貨の流出防止という国家的な緊急課題があったことが留意されねばならない34).正貨流出の原因については意見は一致することはなくとも,それをくいとめねばならないという点にかんしては,いかなる政治勢力の主張も同一であったと考えられる.松方自身の手になる諸論稿35)では,しばしば緊縮財政が銀紙価格の安定化を目標としてなされたという記述がみられる.松方の真のねらいがこの点にあったかという点については疑問が多く,むしろ農民からの所得移転による財政金融制度の整備という究極目標を隠蔽するための方便として銀紙価格安定化をとりあげた感が強い36).しかし,それはともかくとして,正貨流出にかんする国民的危機感が松方の政策遂行をより容易なものとしたことは疑いないであろう.
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 [注]
1) 本稿は1980年夏以来ほぼ2年間にわたる小生の松方デフレ経済研究の一応の最終報告書である.小生の研究成果は当初寺西重郎[1981]および[1982a]において暫定的なかたちで発表されたが,推計値,論理構成のうえでいくっかの修正が必要となった.寺西重郎[1982b]第2章[2]はそれらの問題点をある程度解決したものであり,本稿はこれに全面的に依拠しており,重複部分が多いことをお断りしておきたい.本稿の成果が経済政策研究会メンバー各位との長期間の有益な討論に負うものであることは言うまでもない.
2) 滝沢直七[1912】.
3) 詳しくは山本有造[1977]参照.
4) 1873年以降26年間は外債の発行はなく,その他の長短資本収支を無視しうる大きさであったと考えられる.それゆえ資本収支の問題はさしあたって無視してよい.
5) 洋銀(メキシコ銀)1ドルの銀の純量は374グレイン(1825年以降の鋳造にかかるもの,三上隆三[1975],111ページ)だから,円銀と洋銀はほぼ同品位である.
6) 小野一一郎[1959]参照.この二分金がどの二分金であるか,小野論文には明らかでないが,万延二分金のことであると思われる.洞富雄[1977],208ページ参照.
7) 「紙幣整理始末」,『日本金融史資料』明治大正編,第16巻,38ページ.
8) 租田修[1980]第2章参照.前田正名の『興業意見』の地方経済実態報告(巻15,地方1)は随所で「農工商何レモ殆ント衰退ヲ極ハメタリ」等の表現を用いている(明治前期財政経済史料集成』第18-2巻).
9) 租田修[1981]43.
10) また,当時の財政収支は当該年度とその翌および翌々年度の3力年度にわたって執行された.1881年度財政については約85%が1881年度中に,約15%が1883年度中に執行されている(『大蔵卿年報』).
11) 表6-5は寺西重郎[1981]の第2表を次の二点にかんして修正したものである.(i)常用部から準備部に対する「営業資本及繰替金ニ対シ常用ヨリ償戻シ」のかたちの繰入を加えた.これはそれ以前準備金から支出してきた官業に対する貸付金を常用に引継いだため,総額14百万円の金額が準備金に支払われたものである.(奇妙なことにこの繰入は「紙幣整理始末」には記されているが,『明治財政史』第9巻の「準備金ノ消長」の部分には記録がない.)(ⅱ)上掲論文第2表で差額として計上してあった額は,常用部から準備部に対し「歳入歳出残金繰入」のかたちで繰入れられているものなので,この点を訂正した.上記(ⅰ)の修正は室山義正氏のご指摘に負う.厚く感謝したい.
12) それゆえT-G=⊿A-⊿Dは,これらの(ⅰ)~(ⅲ)を除いた中央政府の財政余剰である.ちなみにいわゆる政府経常余剰ないし政府貯蓄とは,TからGのうちの政府資本形成を除いたものを差引いたものであり,これは⊿A-⊿Dと政府資本形成の和に等しい.
13) 家禄支払の停止,禄税収入の減少および公債免利金支払という間接的影響は残るが,これは表6-5の段階でおさえてある.
14) この結論は,寺西重郎[1981],[1982a]の結論と大いに異なっている.これは表6-7の推計を手なおししたためである.注11)参照.
15) 鈴木武雄は,松方の緊縮財政の対象となったのは,もっぱら地方の豪商農であり,中央の巨商,政商に対しては大隈財政期以上に援助が強化されたとして日本鉄道会社への利子補給等の事実を指摘している(鈴木武雄[1962],42ページ).また西野喜与作『半世紀財界側面史』(1932年刊)は,「明治十五年と云へば,松方の紙幣整理時代で大不景気の年であるに拘らず...日本銀行が創立せられる.共同運輸会社が創立せられる.大阪紡績会社が建築を起したのもこの年である.浅野総一郎が深川の工部省のセメント製造所の払下願書を出したのも此年だといふ次第で,同じ不景気と言ひ乍ら此頃の不景気とは稽て趣を異にしてゐた」として,松方デフレ期が中央においては「底力ある不景気」であったことを示唆している(三輪悌三[1980],271ページ,および白井規矩稚[1939],87ページ).
16) 加えて官業の不振によって作業益金収入も増加は望めなかった.『明治前期財政経済史料集成』第6巻,15ページ.
17) 『明治財政史』第9巻,414ページ.同時に,軍事費の予備資金として準備金中に軍備部を創設した.
18) 10,654千円のうち,5百万円は第十五国立銀行からの(西南戦争)征討費借入金(総額15百万円)の一部支払にあてられた(表6-8で1883年度の国債償還額が1千万円強になったのはそのためである).これは日銀設立にともなう国立銀行条例の改正により銀行紙幣の消却が定められたため,第十五銀行の準備金を充実させる必要が生じたことによる.当初松方は第十五銀行を中央銀行に切換える腹案をもっていたから,この5百万円の支出も予想外のことであった(「十五銀行小史」,『三井銀行八十年史』,556-57ページ).
19) 朝鮮事変,軍拡の問題については坂野潤治氏からの貴重なコメントに負う.なおこれらの問題と海軍費の関係については室山義正[198i]参照.
20) ただし梅村論文の指摘するように,高度の政治的意図をもった公文書をそのまま作成者の真意とみることは危険である.特にこの点で1881年7月の大隈建議(「公債ヲ新募シ及ヒ銀行ヲ設立セン事ヲ請フノ議」)をどのように解釈するかが重要な問題となる.なお,大隈財政の転換問題については御厨貴[1981]を参照されたい.
21) 坂野潤治[1981c]は,松方期もまた同質的でなく,1882年7月の壬午事変以後軍拡主義の影響下に一定の変質を余儀なくされたとしている.この点再考の余地がある.しかし,以下では少なくとも1883年度財政については,予想外の不況の深刻化のもとでの緊縮財政という基本的性格はかわらなかったものと考えている.
22) 当時,紙幣の増発があったにかかわらず,利子率が上昇し,さかんに「金融梗塞」
の弊がさけばれた.これはインフレ期待によるものである.インフレ期待が貨幣利子率を引上げ,実質利子率を引下げることについては,マンデル(Munden,R.A.)[1963]を参照されたい.同様のメカニズムが,デフレ期待のもとでは貨幣利子率を引下げ,実質利子率を引上げることになる.
23) 『大蔵卿第七回年報書』,82ページ,『大蔵卿第八回年報書』,124ページ.
24) 『大蔵卿第六回年報書』,78ページ.
25) 一つのエピソード.「魚屋が売り歩く途中に洋銀の騰貴と聞いて天秤棒を投げ出して取引所に駈付けたといふ話も伝へられてあるほどに洋銀相場に投機を試みしもの頗る多かつた」(滝沢直七[1912],117-18ページ).また大隈は五千万円外債論を主張するにあたって,国内の保蔵金銀を1億余円(古金銀の退蔵6,158万円,新鋳造貨幣5,271万円)と推定している(『大隈文書』第3巻,449ページ).
26) 滝沢は1881年までのインフレ期に,米価が豊凶作とは無関係に,貨幣量の変化と密接に対応して変化したことを指摘している(滝沢直七[1912],120-23ページ).また,大阪商法会議所の「農商務卿閣下ヨリ農工商目下衰運ニ陥レル実況御下問ノ報告書」(1885年8月)は,米が貿易財であり,その価格が国際価格に平準化するものであることを強調している(『大阪経済史料集成』第1巻,416-17ページ).
27) 藤野正三郎[1965]によれば,現金通貨の変化率は物価変化率に対して,戦前平均で10.7カ月先行した.しかも先行の程度は初期に遡るほど大きい(492-93ページ).また本書の梅村論文は起業公債の発行を物価のラグに関連づけて説明していることに注意されたい.
28) 戦費総額4,157万円中,3,487万円は,戦地において支払われたものと推定される(滝沢直七[1912],111ページ).
29) 滝沢直七[1912],115ページ.
30) 坂野潤治氏のご教示による.
31) また本書の中村論文はこの景気循環の下降局面が世界景気の下降によってさらに増幅されたことを指摘している.
32)坂野潤治[1981b]参照.
33) 特に決定的な譲歩は1878―79年にかけての地租・地方税の大幅減額である.
34) この点は新保博教授のご指摘に負う.
35) たとえば「紙幣整理始末」,『日本金融史資料』明治大正編,第16巻.
36) 寺西重郎[1981].この点について山本有造氏は平価切下げという方法は当時の国際収支システムのもとではプラクティカルでなく,したがって銀紙価格安定化はそれ自体必要な政策目的であったとされている.この点にかんしては今後一層検討を行いたい.
 [寺西重郎]