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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 第Ⅱ部:第7章:19世紀末日本経済の成長と国際環境ー1870~1900(明治3~33)年ー
著者名: 中村 隆英
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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第Ⅱ部:第7章:19世紀末日本経済の成長と国際環境ー1870~1900(明治3~33)年ー

 はじめに

 本稿は,1880年代前半における,いわゆる「松方デフレーション」前後の日本経済と,それをとりまく国際環境について,主として巨視的なデータによって考察し,国内経済政策と国際環境の変動とが,交錯した影響を日本経済に及ぼして,以後の経済成長に好都合な条件が形成された事情を論証しようとするものである.
 従来「松方デフレーション」について,しばしば,それが日本の資本主義化と経済発展のために,きわめて重要なステップであったという主張が行われてきた.たとえば,「目本資本主義発達史」の代表的著作の一節には次のように書かれている1).
 「西南戦争を契機にそれ(インフレーション‐引用者)が激化するにおよんで,いたずらに投機的小企業の簇生をまねき,政府がのぞむような資本家的企業の発達はかえって阻害されるようになった.そこで1881年以来松方正義は幣制の統一,兌換制度の確立を目ざして幣制整理をおしすすめてゆくことになるのであるが,それとともに物価は安定し,輸出は増大し,資本主義の展開は軌道にのることになった.そして日本銀行が設立され,国立銀行が私立銀行に転化され,銀本位制が確立されることによって,貨幣制度・信用制度も整備された.だがその反面,この過程で農民層の分解は急激におしすすめられ,そのプロレタリア化が促進されることになったのであった.」上記の引用を,松方正義自身の名で公刊された『紙幣整理始末』2)[1890(明治23)年]の一節と対比してみよう.
 「明治十四年十月正義カ現職ニ就キシ以来財政上ノ大目的ニシテ又最大困難ノ事業タル紙幣ノ兌換ハ五年ノ星霜ヲ経過シテ初メテ満足ノ結果ヲ得タリト雖モ…正義ハ益励精シテ財政上既定ノ計画ヲ固守シ其方針ヲ変セス爾来三ケ年余ノ問国家幸ニ平穏無事ニシテ臨時ノ費途ヲ要スルコト少ナク殊ニ銀紙並価ニ通用シテヨリ国内一般ニ金利低落シ製造工業一時ニ隆盛ヲ致シ鉄道紡績其他諸会社踵ヲ接シテ興リ海外貿易ハ大ニ増進セリ…」
 現代の史家の松方デフレの評価は,農民層分解の指摘以外は,まさに1890(明治23)年当時の松方正義の理念の継承といってよい.しかし,松方の業績を否定しないとしても,紙幣整理の遂行だけによって「資本主義の展開が軌道にの」ったのだと,単純明快にいい切ってよいであろうか.幣制改革が行われた時点におけるその他の経済的諸条件が,それとどう結びついたのか,各種の事情が経済発展にとってどのような条件を形成したのかが問われないかぎり,問題は十分に解明されたことにはならないであろう.民間における投資資金の存在,積極的な企業者意識の普遍化,それに政府の公共投資など,松方デフレが一段落した1885,86(明治18,19)年当時の日本には,以後の経済成長を支える条件はたしかに多く存在した3).しかし, 本稿はそうした国内の条件とともに,もう一つの重要な要因と見るべき国際経済環境について考察し,この時期の日本経済に及ぼした,主として国際通貨制度の影響を検討しようとするものである.「松方デフレ」とそれ以後の日本経済を,日本の外側から見直してみようというのである.
本稿は次の3節に区分される.Ⅰは,19世紀末の30年間における日本経済と世界経済とを対比し,日本経済は,松方デフレーションの時点までに,すでに世界的な景気変動の波の中にまきこまれていたこと,および,それにもかかわらず,松方デフレ以後の動向は,きわめて特異な成長の類型を示していたことを明らかにする.
 Ⅱにおいては,1870年代における,世界的な金本位制への移行と,それに20年余おくれて金本位制をとるに至った日本の相違に注目し,この時期の金本位制の世界に共通な長期デフレーションの傾向の存在と,それから切りはなされた日本のインフレーション下の成長の可能性について分析する.
 Ⅲにおいては,この条件のもとにおかれた日本の経済成長,とくに産業化の進展の特色を指摘してみることにしよう.

 Ⅰ 19世紀末の世界経済と日本

 1868―1900(明治元―33)年は,日本の明治維新以後ほぼ30年余の期間にあたる.この時期の世界経済は,どのような状況におかれていたであろうか.ひとまず,世界主要国の経済成長率をとりまとめるところからはじめよう.この期間の実質GNE成長率は,表7‐1の通りであった.この間の成長率は,当時の常識からみれば,一般にきわめて高いものであったといえるであろう.ただし,現代とくらべての大きな相違は,最高の成長を達成したアメリカと,これにつぐスウェーデン,およびイギリスでは,物価上昇率がともにマイナスだったことである.アメリカの場合は南北戦争後のインフレーションの処理が進められたこともあって,年率1%以上の物価の低下がこの間を通じて進行したのであった.日本をのぞく他の諸国も,平均すれば物価は上昇していたけれども,すべて年率1%以内におさまっていた.ひとり日本だけが,1870年代の前半と,西南戦争後の1880年代前半に,きびしいデフレ政策をとったにもかかわらず,平均すれば年率1.7%のインフレーションを示したのである.とくに1880年代後半以降,世界的デフレ基調のなかにあって,日本だけはインフレをつづけながら,高率の経済発展をなしとげることができたのであった.
表7‐1 GNE成長率[1870―1900年]
 次に,世界と日本の貿易を対比してみよう.表7‐2は,さきに見たところよりももっと鮮明に,日本だけが,世界の趨勢をはるかに上回る輸出入の金額と数量の成長を達成したことと,日本以外では貿易品の単価(ドル建)はすべて低下していたのに,日本においてのみは輸出入品ともに単価(円建)の上昇が生じていたという事実を示している.
表7-2 19世紀末における世界と日本の貿易指標の成長率
 次に,この時期における,世界経済の価格の循環変動を検討してみよう.まず,総合的な価格指標としてのGNEデフレーターをとりまとめれば図7‐1がえられる.日本については,1879(明治12)年以後しか得られないのは残念だが,それ以後は,イギリス,アメリカ,ドイツの三国と比較可能である.1870-90年代の期間を通じて,欧米諸国がデフレ的であったことはこの図からも明らかである.日本の揚合も,1870年代末の西南戦後インフレと,その後の松方デフレの時期にはアップ・ダウンが著しいとはいえ,1890年代はじめまでは,各国の変動とほぼ類似した動揺を示している.長期的傾向としては1880年代なかばから,日本だけが上昇基調にあったことが重要な相違だが,日本の物価が国際的な趨勢とまったくかけはなれた上昇を示すようになったのは,日清戦争と,その後の金本位制成立以後のことであった.金本位制のもとにおいて,日本の物価がなぜこのような異常ともいうべき動きを示したのかについては,詳細は別稿に譲らなければならないが,主として日清戦争以後の財政支出の拡大など,国内要因によるものであったと考えられることだけを,ここにつけ加えておくことにしよう.
図7‐1 GNEデフレーターの動向(1885年=100).
 同じような事情は,卸売物価指数についても確認することができる(図7‐2).
図7-2 日本と海外の物価変動(1885年=100)
図7‐2(1)は,円建の大阪卸売物価指数(斎藤修推計)とともに,図7‐1の日本のGNEデフレーターを再掲した.また図7‐2(2)には,イギリス,アメリカ,ドイツ三国の卸売物価指数とともに,大阪卸売物価指数に対米為替相場指数を乗じて,ドル建(金建)に直した指数を図示してある.この図表は次の事実を物語っている.まず円建の卸売物価指数は,1870年代にいったん沈静したのち,GNEデフレーターと同様のインフレ・デフレの波動を描くが,1890年代後半以後は,GNEデフレーターよりも一層はげしい上昇を示している.ところが,これをドル建に直してみた場合,少なくとも1895(明治28)年までは,その動きは欧米諸国のそれに近いのである.もちろん,若干の不一致は存在する.たとえば,1870年代末から1880年代初頭の不換紙幣の増発の結果,銀貨と紙幣の価値に大きな格差が生じた(銀紙格差)から,紙幣による物価を示すこの数字が,1881(明治14)年ごろ異常な昂騰を生じている.事実,「松方デフレ」はこの銀紙格差の解消を目標にはじめられた.また1890(明治23)年には,日本の物価が海外と無関係に上昇しているが,これは主として前年の不作にともなう米価昂騰と,後述する海外銀価の上昇の結果であった.これらの例外をのぞけば,少なくとも1890年代なかばに至るまでは,ドル建の卸売物価指数はイギリス,アメリカ両国の卸売物価指数とほぼ同調して動いている.事実上の銀本位制時代の日本物価は海外の市況を忠実に反映して変動していたということができるであろう.これまでの多くの研究で,この時期の日本の物価変動が国際物価との関係が乏しかったとされてきたのは,為替相場の変動を無視して,円建の数字のみによって国際比較を行ってきたためであった.
 この時期の世界経済は,7,8年周期の設備投資循環が典型的に出現する時期である.すなわち,イギリス,ドイツ,アメリカの三国に共通して,さきのGNEデフレーター(図7-1)は,次のピークとトラフを描いている.
 日本のドル建物価においても,1890(明治23)年前後を別とすれば,同じような波動が描かれている.西南戦争後のインフレーションは,世界的なブームと期を同じくし,松方デフレは世界的な景気後退の時期に重なっていた.1870年代後半以後,日本はすでに世界経済の変動にまきこまれ,それに対応して推移していたことが,ほぼ確認できる.
図7-3 世界の輸入単価指数と日本の輸出物価指数(円建およびドル建)(1885年=100).
 日本と海外を直接に結ぶ輸出品の物価についても事情は同様であった.円建の輸出物価指数と,外国為替相場で換算したドル建のそれとを,世界の輸入単価指数に対比したのが図7-3である.円建の輸出物価指数は,1885(明治18)年以後急騰をつづける.しかしながら,ドル建の輸出物価は,とくに1895(明治28)年までは,世界の輸入単価とほぼ並行して変化している.なお,1890―92(明治23―25)年にはやや世界の傾向に乖離した動きを示すが,これは,卸売物価の場合と同様,1890(明治23)年における海外銀価の異常な騰貴のためであった.なお,ドル建輸出物価も,1890年代後半以後は,国際水準より高くなるが,その場合にもなお,世界輸入単価の変動と符合した変化を示していることは興味ぶかい.
 以上,外国為替相場によってドル建に換算すれば,1870年代後半以降,日本の物価は海外物価とほぼ並行した動きを示してきたことが明らかになった.そこで日本の外国為替相場の動向を,図7-4に,四半期別データによってとりまとめておこう.この図7‐4には,ニューヨークにおける金建の銀相場の数字を併せて示してあるが,それは,日本が1870年代以来実質的には銀本位制を採っていたために,日本の為替相場が銀価とほぼ完全に並行して変動していた事実を示している.そして,日本の対米為替相場は,1870年代には趨勢的に低下し,1880年代前半にはいったん落ち着いたが,1880年代後半以後は再度低落した.その後1890(明治23)年には銀相場の一時的上昇(後述)にともなって一時上昇したが,1890年代前半には急落している.その水準は,1874(明治7)年の1円=1ドルから,1893(明治26)年の1円=約50セントにまで,ほぼ半分に低落した.この異常な為替相場の低落こそ,国際的なデフレ傾向のなかにあって,ドル建の輸出価格はほぼこれに連動しつつ,国内物価のみは昂騰をつづけ,マイルド・インフレーションをともなって,国内景気を回復せしめ,1880年代後半の企業勃興期をもたらした秘密であった.はるか後年の1930年代前半,金本位離脱にともなう為替相場の低落が,急激な景気回復につながったのと揆を一にするといえよう.
 しかし,その分析の前に,世界的な銀相場の低落とその影響について,まず検討しておかなければならない.
図7-4 ニューヨークの銀価格と日本の対米為替相場(ドル).

 Ⅱ 欧米主要国の金本位制移行とその影響

 簡単に明治維新以後の日本の通貨制度の変遷をあとづけておこう.1871(明治4)年制定の「新貨条例」は,純金1.5グラムをもって1円と定め,金本位制を採用した.しかし,貿易のために貿易銀を鋳造して,話し合いの上で無制限の流通を認めた.実際は「金銀複本位に近い制度」であったと吉野俊彦は述べている4).その建前で金兌換を行うはずの国立銀行制度が,1873(明治6)年に発足したが,銀価の低落にともなって,金はたちまち海外に流出し,1876(明治9)年には金兌換停止が行われて,国立銀行券は政府紙幣とのみ兌換されることになったのである.これ以後,日本は貿易通貨としては銀を使用し,国内では管理通貨制をとったといってもよい.その後西南戦争(1877<明治10>年)のさい,国立銀行券を増発したために,1870年代末にはインフレーションが激化し,それとともに銀貨と紙幣の比価(銀紙格差)が拡大した.すなわち,1877(明治10)年には,銀1円に対し紙1.033円にすぎなかったが,1878(明治11)年1.099円,1879(明治12)年1.212円,1880(明治13)年1.477円,1881(明治14)年1.696円.そのために,松方正義は大蔵卿として財政収支を黒字化し,紙幣を償却する方針をとり,松方デフレーションを強行したのである.1882(明治15)年日本銀行創立,1886(明治19)年1月銀兌換開始・これによって,日本の幣制は,国の内外ともに,銀本位制をもって統一されたのであった.そして,再度,松方のイニシアティブのもとに,金本位制が採用されるのは,1897(明治30)年である5).
 以上を要約すれば,1871(明治4)年から1897(明治30)年まで,国内では制度的変遷が見られたにせよ,国際的には,日本はつねに銀本位(銀貨)国であったということができる.ところが,欧米主要諸は,1870年代から,日本より20年あまり早く,金本位制への移行を進めつつあった.
1810年代にすでに金本位制を採用していたイギリス以外の欧米主要諸国が,あいともに1870年代に金本位制に移行した一般的背景としては,1850―60年代に金生産が急増して,世界の金ストックが豊かになったことをあげなければならない.図7-5は,1840―1915年における世界の金銀生産をめぐる以下の四つの指標を図表化したものである.
 1 金銀生産比率(銀生産量の金生産量に対する倍率)
 2 金建の銀価(金価格の銀価格に対する倍率)
 3 金生産量
 4 貨幣用金ストックの推定存在量
 以上の四つの指標から,19世紀後半に発生した世界の金銀生産の巨大な変化と,その結果生じた金銀比価の大幅な低落の過程を,およそあとづけることができる.
 新大陸の発見以後,欧米の社会では金銀のストックが蓄積されてきた.その大まかな推移については,表7-3にソートベーアの推計をかかげておく.これによれば,世界の金銀ストックは,時代とともに増加してきたが,それは100年間にほぼ2倍弱のテンポであり,1600―1850年の250年間に,4.5―5倍に増加したにすぎなかった.ところがこの表7‐3によれば,1850―80年の30年間に金ストックは突如2倍以上に増加したのである.その事情は,1850―60年代にカリフォルニアとオーストラリアにおいて,金生産が急増した,いわゆるゴールド・ラッシュによって説明される.図7-5によれば,金の年産額は,1840年代に比して,1850―60年代には4倍ちかくに急増し,金銀生産倍率は15倍から5,6倍にまで低落して,金供給がにわかに増大したのである.しかし,1870年代はじめまで,ドイツ,フランス等大陸諸国は銀本位制を維持しており,金建の銀価は,18世紀以来,15~16倍の間に安定していた.
図7-5 世界の金銀生産・価格・ストック.
表7‐3 貴金属の世界的ストック推計
 金ストックの増大を背景に,ヨーロッパとアメリカにおいては,1870年代に,急激に金本位制への移行が開始された.すなわち,1873(明治6)年,ドイツが普仏戦争の賠償金を準備として金本位制に移行したのを手はじめに,1878(明治11)年までの間に,アメリカ,フランス,スウェーデン,ノルウェー,オランダ,スイス,ベルギー,スペイン等の諸国が金本位制に移行し,あるいは本位銀貨の鋳造を停止した.イギリスは,最古最強の金本位制国であったから,この気運にともなって,国際金本位制の中心となったのである.
 金本位制移行がはじめられた結果,新たに金本位を採用した諸国は,当然,金の集積につとめると同時に,廃貨された銀を市揚に放出した.他方,図7-5が示すように,1870年代からは,金生産は1880年代なかばに至るまで,停滞ないし微減の趨勢をたどったが,銀生産は,1870年代から1880年代にかけて急増した.すなわち,金については,需要の増大と供給の停滞が発生し,銀については需要め減少と供給の増大が生じたのである.1870年代以降,100年以上も安定してきた金建の銀価が急に低落しはじめたのには,このような理由が存在したのであった.
 1870年代にはじまる銀価の低落は,もちろん一本調子に進んだのではなかった.1870年代以後の銀生産急増の中心となったのはアメリカ合衆国であり,1876―1900年の間の全世界の銀生産の38%は,その産出するところであった6).事実,1870年代には合衆国においては,相次いで大銀鉱が発見されていたのである7).それとともにアメリカにおいては,銀価の低下を食止めようとする銀生産者の要求がはげしくなった.1878(明治11)年,合衆国にはいわゆる「ブランド条例」を制定し,毎月200万ドル以上400万ドル以下のドル銀貨を鋳造し,「契約上特定セシ場合ノ外総テ合法通貨タラシ」めることにした.1873(明治6)年の金本位移行以来,銀貨の強制通用は5ドル以内に制限されていたのである8).1880年代前半に銀価が比較的安定したのは,この条例も与って力があったのかもしれない.
 しかし,1880年代後半から銀価が再度低落にむかったとき,合衆国は再度銀生産者の運動をうけて,1890(明治23)年には「ブランド条例」を廃止して,いわゆる「シャーマン条例」を制定した.それは「購銀条例」とも呼ばれたように,合衆国政府は毎月450万オンスの銀を買い入れ,これに対して「金又ハ銀ヲ以テ償還スベキ証券」を発行するのである.この条例の制定を見越して,銀価は1889(明治22)年からすでに騰貴しはじめ,1890(明治23)年の平均は,前年平均の22.10から19.76倍に上昇したのであった.しかし,その後も銀の過剰は改善されず,条例制定後銀価は再度下落に転じ,1893(明治26)年,アメリカも金流出に耐えかねて,ついに「シャーマン条令」を廃止するにいたった9).さらに,1892(明治25)年にオーストリア・ハンガリーが金本位制を採用し,1893(明治26)年にはインドも,銀貨の自由鋳造を停止し,1ルピー銀貨を16ペンスに交換する旨を英本国との間に協定した.こうした動きが,1890年代前半の銀価の低落に拍車をかけたことは疑いをいれない.
 ただし,この時期になると,すでに南アフリカにトランスヴァールの大金山が発見され,金供給の増加がようやくはじまりつつあった.1890年代以後,ようやく金銀生産倍率は低下に向かい,銀価も下落一方ではなく,需給に応じて,正確にいえば,供給の増加が先行し,価格はこれにおくれて,上下するようになって,以後は30―40倍の間ではげしい変動をくり返すことになったのである.
 しかし,1870年代以後1890年代前半までの銀価の低下と金供給の不足が,金本位国に及ぼした影響は深刻なものがあった.まず,金供給の制約は,欧米諸国に長期的なデフレーション傾向を将来した.さきの1860年代以来の貨幣用金ストックと,この間における西欧諸国の実質GNEの成長率を対比すれば表7-4が得られる.もちろん,この両者を直接に関係づけることはできないが,金本位の世界における通貨供給が,1895(明治28)年ごろまで窮屈であったことだけは明らかである.貨幣数量説が,長期的にみれば妥当すると考えるならば,その結果1880―95年の世界的デフレーションが生じたと考えることは不自然ではないであろう.むしろこのようなデフレーションのもとにあっても,欧米の経済成長が直ちに挫折しなかったことの方が注目に値しよう.当時の人々にとっては,金銀の生産量の増減や国際政治の事情によって,物価の中,長期的波動がくり返されても,それほど驚くことはなかったのかもしれないが.しかし,そうはいっても,デフレーションの長期持続は,不況を招かないではすまない.加えて,銀本位国に対する交易条件が改善されるために,輸出は振わず,輸入は増加するであろう.1890年代前半のイギリスの「大不況」は,その反映であったというべきであろう.イギリスの輸出不振は例外ではない.1880年代以降1890年代前半に至る貿易額の統計は,北アメリカも西欧も,輸出入ともに著しく停滞的であったことを示している(表7‐5).
表7-4 世界の貨幣用金ストックと西欧の実質GNPの年成長率
表7-5 北アメリカ,西ヨーロッパ,イギリスの輸出額の変動
 この状況は,1893(明治26)年に設置された貨幣制度調査会が次のように要約したところであった.その『報告』第三章結論の1節は「四.金銀比価ノ変動ハ銀貨国ニ利アリテ金貨国ニ害アリ」と題され,そのうちに次のようにいう10).
 「物価下落ノ際ニ在テ農工商ノ振ハサルハ…蓋シ経済社会ノ常則ナリ 商品ハ之ヲ有スルコト一日ヲ久シクセハ一日ノ下落アリ貨幣ハ之ヲ有スルコト一日ヲ久シクセハ一日ノ騰貴アレハナリ故ニ物価下落ノ際ニハ貨幣所有者,債権者其他定額ノ貨幣ヲ受取ルモノハ総テ益スヘシト雖商品所有者,債務者,納税者其他定額ノ貨幣ヲ仕払フモノハ総テ損セサルヲ得ス而シテ商品所有者以下ノ損スルハ是レ即チ殖産生財ノ活気ヲ失ヒ経済社会ノ一般ニ沈衰スル所以ナリ」
 ついで,同『報告』は,イギリスにおいても,1886(明治19)年,「金銀比価調査委員」を任命して,幣制の得失を論じたところ,金本位派と金銀両本位派の二派に分れて決しなかったが,「爾来物価ハ益ミ下落シ農工商ハ益ミ萎靡セルヲ以テ幣制改革ノ議論日ニ月ニ勢カヲ加ヘ」金本位論者中にも両本位派に変説したものもあること,「同一ノ否運」におちいったドイツでも「独逸銀貨問題調査会」を設置して調査した結果,全会一致で「銀価ノ下落ハ同国内外ノ商業ニ有害ナリ然レトモ銀ノ価格ヲ維持スルハ一国ノ力能ク其功ヲ奏スヘキモノニアラス」と認定したことを述べている.
 『報告』は,さらに,「銀貨国」の有利について次のようにいう11).
 「銀貨国ノ事情ハ全ク金貨国ト相反シ物価徐々ニ騰貴セントスルノ傾向アルヲ以テ自然ニ農工商ノ好景気ヲ呈シ殊ニ其輸出貿易ハ大ニ増進シテ従来輸入セル製造品ノ如キハ内地ニ於テ之ヲ製造スルノ有様トナレリ...金銀比価変動ノ為メニ銀貨国ノ蒙ル弊害ハ国費ノ増加ヲ以テ至大トス即チ金貨国ニ対シテ巨大ノ公債ヲ負担シ其他巨大ノ金貨仕払ヲ要スル国ノ如キハ金貨騰貴ノ為メニ甚大ノ苦痛ヲ感セサルヲ得」ない.インドの幣制改革はこのためだし,「米州銀貨国中ニテハ或ハ金貨公債ノ償還ヲ中止スルモノアリト云フ然レトモ斯ル困難ハ巨大ノ金貨仕払ヲ負担スル国ニ限ルモノニシテ之ヲ推シテ以テ一般銀貨国ノ例ト為スニ足ラサルナリ」
 もちろん,貨幣制度調査会のなかにも,金銀比価の変動を金貨国に不利,銀貨国に有利と断定すべきものではないとする少数意見も存在した12).「金貨国ニ於テハ資本家ノ不利ハ労働者ノ利益トナリ銀貨国ニ於テハ労働者ノ不利ハ資本家ノ利益トナリタルノ観アリ」.さらに為替相場の不安定は外国貿易を渋滞せしめ,金貨国から銀貨国への投資を阻害する,等々.しかしこれらの反論は,やはり力弱いものであったというべきであろう.銀貨国であった日本は,多数意見のいうように銀貨国の有利性を満喫したのであった.

 Ⅲ 「松方デフレーション」以後の経済発展

 これまでの事実と仮説とを前提において,「松方デフレーション」の直接・間接の影響を考察し直すことができる.日本は,意外に早く,1870年代なかばには世界経済の波動の影響をうけて,物価の変動を余儀なくされるようになっていた.当時の貿易依存度はなお小さかったに違いないが,茶や生糸をはじめ,米までもこの時期には相当重要な輸出品であったことを考えれば,海外物価の影響が,当時最大の商品であった農産物ないし在来産業製品に敏感に反映されたとしても不思議ではない13).図7-1,図7-2に見たよに,1870年代後半の世界的物価反落以後,日本における物価動向は基本的にみて世界的波動と連動するようになっていた.1877(明治10)年の西南戦争の後のインフレーションが発生した際も,日本に1,2年おくれただけで欧米にもブームがやってきたし,その崩壊も日本に1,2年おくれただけだったのである.いわゆる「松方デフレ」は,世界景気の落ち込みと重なって発生したのであった.国内のデフレだけでなく,世界景気の落ち込みがあったからこそ,松方デフレの影響はあれほどまでに深刻化したのだと考えることができよう.1885―87(明治18―20)年には,世界の不況も底を打って回復に向かう,日本の場合も,1886(明治19)年を谷底として物価は上昇に転じる.そして,それ以後の銀価の崩落に連動する外国為替相場の低下にどもなって,国際的にはドル建の物価はほぼ国際的均衡を維持しながら,1890年代にかけて,国内物価は上昇する.このいわば,国際的に管理されたインフレーションを背景に,いわゆる第一次「企業勃興期」が訪れたのである.
図7-6 日本の輸出と世界の輸出入.
 「企業勃興期」はいかにしてもたらされたか.その主たる需要要因は輸出であった.輸出の伸長は,海外の景気回復と,低為替に支えられて可能になったのである.為替相場の低落は,銀価の低下という国際的原因に結びついた現象である以上,それは日本にとっては偶発的な事件であったが,その効果は大きかった.当時の輸出の成長率をとりまとめたのが表7-6である.ここでは,1884(明治17)年までと,金銀比価の低下がはじまった1885(明治18)年から金本位成立の1897(明治30)年まで,およびそれ以後にわけて計算した.世界輸入の成長率に比べて,金銀此価低落期(1885―97年)の日本の輸出の成長率が,異常に高かったことは明らかである.年率11%の輸出の伸長は,輸出産業であった製糸業や,石炭業や,産銅業の発展を刺激したであろう.輸出産業の展開をさらに細部にわたって見れば,表7-7に示すように,輸出価格の動向によって左右されるところが大きかったことが読み取られる.
表7-6 日本の輸出と世界の輸入の成長率
表7-7 日本の類別輸出価格と輸出数量の上昇率(年率)
 しかし,その成長の間にあっても,目本経済が国際環境から完全に切り離された形で成長を享受しえたのではもちろんなかった.その典型的な一例が,1890(明治23)年における大幅な輸出の低落(1889<明治22>年71.6百万円,1890<明治23>年57.9百万円,1891<明治24>年81.3百万円)である・それは,前年来,銀価は上昇に転じつつあったが,とくにこの年3月以後,アメリカにおいて「シャーマン条令」の成立を見越しての銀投機が発生し,金銀比価が22倍台から19倍台にまで上昇したことを反映して,為替相揚が上昇した結果とみられる.1890(明治23)年は,前年の米の凶作による米の輸入増,米価の昂騰にともなう消費需要の不振,金融の逼迫等によって,わが国最初の「全般的過剰生産恐慌」が発生した年とされている14).しかし,恐慌史上の議論のなかで,輸出の急激な減少がもたらした影響は,これまでのところ,正当な評価をうけていないように思われる.
 ところで,図7-6に立ちかえってみるとき,次の事実が読みとられることにも注意しておきたい.この間の世界貿易は,はっきりした波動を描いている.しかし,ドル建の日本の輸出には,年によって変動はあるものの,波動はそれほどはっきりとは認められず,せいぜい高い成長期と低い成長期の区別が見られるていどである.ところが円建の輸出になると,とくに1884(明治17)年以後にあっては,1890(明治23)年,1896(明治29)年の落ち込みのほかは,波動は著しく小さくなるのである.ドル建輸出額は,いわばこの時期におけるわが国の輸出競争力を正直に反映して,世界経済の影響を示すのに反し,銀価の低落に支えられた円建輸出額には,その影響がほとんど見られなくなるのである.
 「松方デフレ」以後における輸出を主動力とする経済の回復と発展が以上のように進められたことが承認されたとして,それでは,この回復の主力になったのはどの産業であったか.あるいは,この回復のメカニズムはどんなものであっただろうか.1880年代の輸出の主力は生糸と茶であった.このほか,この時期の代表的な工業製品は,酒,みそ,醤油などの食料品,たばこなどの嗜好品,綿織物,絹織物などの消費財であって,いずれも農産物ないし農産物の加工品である.しかし,一見密接に結びついた両部門の生産額の動向は,1880年代後半においてまさに対照的であった.図7-7に示すように,1881(明治14)年をピークとする西南戦争前後の5年間に,農業,工業の両部門の生産額はそれぞれ倍増し,以後1884(明治17)年までのデフレーションの進行によって,大きな減退を経験する.しかし,工業の方が落ち込みが小さいし,1884(明治17)年を底として1889(明治22)年まで大幅な回復を示す.農業の方は1885(明治18)年には上昇するが,1889(明治22)年まで低迷がつづき,1889(明治22)年の生産額は工業を下回るに至る.松方デフレ後の5年あまりの間に,工業の地位が飛躍的に高まったのである.その事実はまた,農工両部門の生産物の価格にも反映され,工業製品価格は,1885(明治18)年当時から上昇に転じたのに,農産物価格は,1889(明治22)年の凶作に至るまで低迷するのである(図7-8).その1890(明治23)年の凶作による米価暴騰を期に,農業生産額ははじめて顕著な上昇に転じ,1890年代には,農工両部門はその生産額において,相拮抗した成長をつづけるのである.
図7-7 農業と工業の生産額(百万円).
図7-8 農産物価格と工業製品価格
 1880年代後半に注目するならば,この時期における工業生産の伸びの農業生産のそれに対する優位が明らかである.工業生産はこの時期に立直り,生産数量とともに,その価格もまた上昇した.工業の原料部門である農業部門の価格が停滞していたのだから,平均してそのコストに比して収益は増加したと考えてよいであろう.そして,成立しつつあった紡績業など一部の近代産業を別とすれば,この時期の工業の大部分は,上記のような伝統的な在来産業であった.この時期は,明治中期以降隆盛期をむかえる在来産業の,飛躍の時期にあたっていたのである.ここにはその一端を示すために,若干の代表的在来産業の生産の伸びを表示しておく(表7-8).
 在来産業ばかりではなく,1885(明治18)年以後,輸出が急増した産業として,石炭や精銅など鉱山業があげられる.在来産業と鉱山業関係の輸出単価と輸出額をとりまとめれば,表7‐9が得られる.1885(明治18)年以降,輸出単価の上昇と輸出額の増加とが並行しているものに,生糸,石炭,銅,樟脳があり,またマッチと麦桿真田と羽二重とは1895(明治28)年以後,単価の下落と輸出額の増大が並行して進むのである.1895年以後の世界物価の上昇を利用しえた国際商品と,低価格で発展した在来産業製品のちがいは明らかである.
 他方,為替相場の低落は,輸入品の円建価格を騰貴せしめ,これによって輸入代替品産業の発展が刺激された.ここには,表7-10に綿糸と綿織物の例をあげるだけにとどめておこう.国産綿糸の価格の低位性による輸入代替が急速に進行しえたことは,多言を要しない.綿布については,綿糸程の価格差は見られないにせよ,はっきりした競争上の優位性が存在したことが観取される.1885(明治18)年と1900(明治33)年の間において,為替相場が約半分に下落しなかったら,この優位性はほとんど発生しえなかったはずであった.
表7-8 在来工業の生産動向
表7-9 重要輸出品の単価と価額
表7-10 綿糸布の輸入単価と国内価格指数
 以上の数例によって考えるとき,1885(明治18)年以後1897(明治30)年までの経済発展は,かなりの程度に為替相場の低落によって支えられていたと推論することが許されるであろう.そして,さらに推測をおし進めるならば,企業勃興期に成立した多くの会社企業への出資金も,またこの発展によって生じた在来産業と農業の利益によって支えられていたのではなかったであろうか.

 むすび

 1895(明治28)年の貨幣制度調査会において,渋沢栄一は次のように報告した15).金銀比価の変動によって,各国ともそれぞれ利益と弊害とを併せうけた.しかし「我邦ノ如キハ一般ノ経済上其弊害ヲ見ルコト少ナクシテ利益ヲ享クルコト頗ル大ナリトス 試ミニ連年我外国貿易ノ景況ヲ見ルニ金銀比価ノ変動ハ恰モ金貨国ニ対スル輸出ヲ保護セル景況ヲ呈シ」,1878(明治11)年と1893(明治26)年を対比すると,金貨国向けの輸出は26割以上の増加を示したのに,輸入は7割余の増加にとどまった.「是レ他ナシ 金貨国ヘ輸出スル物品ハ其価格低落シ金貨国ヨリ輸出スル物品ハ其価格騰貴セルカ故ナリ 故ニ輸出貿易増進シテ輸入貿易沮渇スレハ随テ工業ノ発達ヲ促カシ従来金貨国ヨリ輸入セル物品ヲ内地ニ於テ製出スルニ至リシモノ甚タ多ク現ニ綿糸紡績,絹織物,木綿織物,洋紙,摺附木ノ製造ノ如キ其著大ナルモノニシテ此他数年来ニ勃興シタル各種ノ生産事業ハ殆ト枚挙ニ遑アラス 終ニ学術応用ノ区域ヲ伸張シ労働者ノ需要モ亦頻リニ増加シ国家ノ富源著々トシテ進歩スルヲ見ル之ヲ如何ソ一般ノ経済上其利益ヲ享ケタルコト頗ル大ナリト言ハサルヲ得ンヤ」.かくて渋沢は,「我邦ハ今日ニ於テ現行ノ貨幣制度ヲ改正スルノ必要ナシ」という結論に到達するのである.
 本稿において筆者が分析しようとした内容は,渋沢のこの簡明な結論に尽くされている.ただ,このような発展が可能になったのは,もとより為替相場の低下のみによるのではなく,民間における企業者意識や,蓄積された資金の活性化など,多くの諸要因が与って力があったことはもちろんである.松方が力説した金利低下の効果もまた否定できない.表面金利の低下と,物価上昇とがあいまって,実質金利が著しく低下したことも,「企業勃興」を刺激したに違いない.1885(明治18)年の手形割引率は最高10.2%であったのに1887(明治20)年には6%に下がり,しかもこの間に物価は上昇に転じたのであるから.しかし,こうした問題の解明は,別稿の課題として今後にゆだねられるべきであろう.
 [注]
1) 楫西光速,加藤俊彦,大島清,大内力『日本資本主義の成立Ⅱ』,東京大学出版会,1956年,271-72ページ.
2) 大蔵省編松方正義報告『紙幣整理始末』,1890年10月・大蔵大臣松方正義より内閣総理大臣山県有朋に提出したもの.
日本銀行調査局編『目本金融史資料明治大正編』第16巻,78ページ.
3) 中村隆英『日本経済』,東京大学出版会,1978年.特に第Ⅱ部第2章参照.
4) 吉野俊彦『日本銀行史Ⅰ』,春秋社,1975年,10ページ.
5) 金本位制移行については,中村隆英稿「日本の金本位制採用過程――1893~1897――」,朝倉孝吉先生還暦記念論文集『経済発展と金融』,創文社,1982年,を参照されたい.
6) Warren,G.F.and Pearson,F.A.,前掲書,P.246.
7) 貨幣制度調査会編『貨幣制度調査会報告附録』(日本銀行調査局編『日本金融史資料明治大正編』第17巻所収――以下『附録』と略称),719-21ページ,
8) 貨幣制度調査会編『附録』,721ページ.
9) 貨幣制度調査会編『附録』,722,779,780ページ.
10) 貨幣制度調査会編『貨幣制度調査会報告』(日本銀行調査局編『日本金融史資料明治大正編』第16巻所収――以下『報告』と略称),892-93ページ.
11) 貨幣制度調査会編『報告』,893ページ.
12) 貨幣制度調査会編『報告』,898ページ.
13) たとえば1880(明治13)年の輸出品のうち,生米は41.5%,緑茶が35.3%を占めるが,1878―82(明治11―15)年平均でみると米も6.9%に達する.米の輸出は,1870(明治3)年代には租米の処理のために大蔵省の手ではじめられ,一時は前二者に次ぐ比重を占める輸出品であった.
14) くわしくは,長岡新吉『明治恐慌史序説』,東京大学出版会,1971年,3‐4ページ,に学説史的展望が与えられている.ただし著者自身は,恐慌の原因を「凶作とそれによる米価騰貴」に求めている(58ページ).
15) 貨幣制度調査会編『報告』,945-46ページ.
 [中村隆英]