経済政策

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松方財政と殖産興業政策

論文タイトル: 第Ⅱ部:第9章:地方レベルの殖産興業政策ー山梨県の事例を中心として
著者名: 齋藤 修
出版社: 国際連合大学
出版年: 1983年
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第Ⅱ部:第9章:地方レベルの殖産興業政策ー山梨県の事例を中心として

 序論

 明治前期の殖産興業にかんする文献は数多くあるが,そのほとんどが中央政府レベルでの政策・経済運営を対象としており,地方に焦点をあてた研究は意外と少ない.「殖産興業」が国家目標を達成するための政策であったことを考えれば,中央における政策形成とその実行過程が重要視されてきたのは,当然といえる.しかし他方,そのことは必ずしも地方レベルの殖産興業が軽視されてよいことを意味しないだろう.
 実際,中央政府の殖産興業政策も,「官営企業以外はそれが融資であれ,資材の貸与であれ,地方庁の手を介して行われる」のが原則であった1)とすれば,さらにまた,技術導入において府県が独自のイニシアティヴをとったケース2)があることを考えれば,この時期における経済政策全体の理解を深めるためにも,地方レベルにおける殖産・勧業の実態を知ることは重要な意味をもつと思われる.
 さらに,大久保・大隈体制下の経済政策をめぐる最近の研究動向をみるとき,この点はいっそう明瞭となる.近年の研究によると,当時の大久保・大隈にとって最大の政策課題は「輸入防遏」であり,それゆえ,1873(明治6)年以前の工部省を中心とした勧業政策と比較して,輸入代替・輸出促進のために民業(とりわけ在来産業)を重視する路線への転換があったとされている3).
 このような主張の論拠としては,(i)工部省直轄事業の縮小と内務省事業における官設民営方針の採用4),(ⅱ)直輸出政策,とりわけ横浜正金銀行による内地荷為替が輸出在来産業育成の意味をもっていたこと5),(ⅲ)準備金の貸出先に,上毛繭糸改良会社のような直輸出を目的とする地方企業が入っていたこと6),(ⅳ)内務省主導の内国博覧会・共進会が在来産業育成の目的をもって行われたこと7),などがあげられよう.海外収支バランスの回復という当面の目標のためには,ほとんど在来産業のみに頼っていたことがわかる.
 しかしここで,在来産業育成という観点からあらためて中央政府の殖産興業政策を見直してみると,その内容はいかにも貧弱にみえてくる.博覧会・共進会による勧業方式は間接的なものであり,その他はほとんど金融的手段によるものであった.それら以外に政府がなしえたことは,そして実際その中心的な経済運営手段であったのは,貨幣供給であった.それも中央銀行を通してコントロールするのではなく,発券機能をもつ各地の国立銀行を通じての,多分に間接的なコントロールであった8).
 このようにみてくると,勧業政策にかんして,府県段階でなしえたことは意外と大きかったと考えざるをえない.中小企業政策吏の分野では,「政府の在来諸工業に対する施策は,一般に府県に任され・・・・・・中央政府としては,1877(明治10)年代に入ってから助成の必要を認めたものの,必ずしも統一的な構想が樹立されたわけではなかった」とさえいわれている9).このようにみてくると,大久保・大隈期の経済運営の実態を理解するために,地方レベルでどのような勧業政策が実施されたかを知ることがいかに重要かがわかるであろう.
 本稿では,このような問題意識から,府県レベルにおける勧業政策を扱う.以下において明らかにしようとする点は,第1に,中央と地方との関係である,具体的にいえば,その問題は,殖産・勧業政策を立案するうえで各府県がどの程度の自由度をもっていたか,換言すれば,各府県がどの程度イニシアティヴを発揮することができたかという問題と,その場合,財政面でどの程度地方負担であり,どの程度中央政府負担であったのかという問題にわけて考えることができる.
 第2は,このような意味における,明治前期の<中央―地方>パターンを長期的なパースペクティヴのなかに位置づけることである.これまでの研究においては,大久保・大隈の経済政策が,1880(明治13)年の官業払下条例とそれに続く松方の緊縮財政期との対比で論じられる傾向があったため,どうしても大久保・大隈期の殖産興業政策は何か「新しい」「特別な」ことをしたというイメージが強かったことは否定できないであろう.本稿では,むしろ,勧業支出が再び増加を始めた明治後期のパターンとの比較を通じて,いわゆる「殖産興業期」の位置づけを行うことを意図している.
 従来,明治における経済政策と財政の歴史にかんしては,一見相矛盾するトレンドが指摘されている.まず勧業政策,とりわけ中央政府の財政に反映した政策についていえば,そのハイライトは明治前期であり,松方デフレ以降の時期を対象とした歴史叙述から「殖産興業」は姿を消す.もっとも松方期に続く「安上りの政府」時代は短命であったが,日清戦争以後,財政が膨んでゆく過程においても,勧業政策が表舞台に登場することはなかった10).これにたいして,中小企業政策吏の観点からは,前述のように,みるべき施策がほとんどなかった明治前期から,産業組合・信用組合の育成,府県試験所等をテコとした技術指導,低利資金の融資を骨子とする,その後の中小企業政策の大綱がほぼ出揃う明治末年にかけて,政府の政策的関与は一貫して増大していったとされている11).それを地方財政史からみれば,そのプロセスは,国の委任業務の増加によって地方の財政支出が拡大していった過程と重なり合っている12).
 その説明は,明治後期にかんするかぎり,それほど難しくない.勧業政策決定のイニシアティヴという面では中央主導型へ,財政面では地方負担の増大へ,というのが,<中央―地方>の関係という観点からみた明治後期のパターンであったからである.そして,そのようなパターンへの移行を可能にしたのが,同業組合制度の確立,府県の試験所等にたいする国庫補助の制度化であった.それによって中央政府は,国家財政をそれほど動かさずに――したがって「殖産興業」のようなスローガンをとくに必要とせずに,地方レベルの勧業政策をコントロールすることができるようになったのである13).その結果は,各地方における勧業政策の同質化と勧業支出の増大であった.
 これにたいして,明治前期はどうであったか.これまでの研究では,「殖産興業」は中央主導型の政策であったと考えられているけれども,それは正しいであろうか.前述のように,官業主導型であったという点には修正が加えられてきている.しかし,<中央―地方>の関係という観点からは,とくに再検討の動きはみられない.
 本稿において意図していることは,この点について,山梨県の事例を検討することを通して,若干の修正を試みることである.すなわち,明治前期の府県は,勧業政策上,かなりの自由度を与えられていたということ,および府県が積極的な勧業プログラムを実行に移した場合,地方財政への依存度は意外なほど低かったということが示唆されるであろう.そして,もしこの議論が正しければ,明治前期の地方レベルにおける勧業政策は,その施策内容にかんしても,勧業支出額にかんしても,府県によって千差万別でありえたといえる.
 そこで,山梨県の事例を検討するに先立って,明治前期地方レベルの勧業政策について全国的な概観をしておくことにしよう.

 Ⅰ 明治前期勧業政策の全国的概観

 (1) 地域性
 先にも述べたように,府県レベルの殖産興業を正面から取り上げた論考は多くない.とりわけ全国的な概観を与えてくれるようなものは少ないが,管見のかぎりでは,『府県史料』によって主に大久保政権成立以前を対象とした関順也と,『明治十年府県勧業着手概況』によった古島敏雄の論文がある14).
 両論文によれば,第1に,ほとんどの府県で農事試験場,種芸試験場などがみられることがわかる.これらは,いずれも外国品種・西洋農法のための実験場である.
 しかしそれ以外の事業となると地域差が大きい.1877(明治10)年の『概況』によれば,例えば山口県の場合,ただ「勧業着手之儀ハ未相立不申候也」という状態であったが15),他方,山梨県や山形県では,試験場以外の領域でも県が積極的に官営事業を営んでいたことがわかる.
 しかし,全体的な傾向としていえることは,勧業に積極的なのは東日本諸県であり,西日本の府県は消極的だという点である.これはいうまでもなく,勧業の対象として取り上げられた産業が主として養蚕・製糸,製茶,畜産であったという事情による.とりわけ養蚕・製糸のウェイトが大きく,西南諸県でも勧業に取組んだ場合には,最も力を入れたのが養蚕・製糸の導入であって,決して綿業ではなかったという16).
 殖産・勧業政策におけるこのような地域間コントラストを生みだした要因は,しかし,在来産業の自然的・歴史的立地条件のみにあったのではない.勧業資金もまた重要であるが,それについては後述する.
 (2) 勧業機構とその機能
府県が勧業政策を実行に移す場合,どのような機関を通して行い,またその機関はどのような機能をもっていたか.この点についても地域差はきわめて大きい.一見,共通項は認められないほど大きいといってよい.
 しかし,そこからあえて一つの特徴と一般的趨勢とを抽出するとすれば,それは伝統的勧業方式が意外なほど根強く残存していたということと,その伝統的方式のもとで設立された,多機能的性格をもった勧業機関の機能分化の過程ということができよう.
 ここで伝統的勧業方式といっても,その内容もまた多種多様であった.そのモデルの一つは,幕末期諸藩においてみられた,いわゆる国産会所仕法である.国産会所(国産方,物産会所,等々とさまざまな呼称があった)は通常,諸藩の専売仕法のための機関と考えられがちであるが,その機能はそれにとどまらず,藩の殖産興業全体を統轄するための機関であったと考えたほうがよい.実際,維新直後に新政府が行った一連の施策,すなわち太政官札発行,商法司およびそれに続く通商司の設置は,一藩レベルの国産会所方式を一国レベルに拡大した殖産興業政策であったといわれている17).
 諸藩の国産会所仕法は,開港以降に急速に増加し,その傾向は徳川幕府崩壊によっても変わらなかった18).1869(明治2)年6月,新政府は,諸藩にたいし商会所を開港場に設置して民間の商業を妨害することについて警告を発しているが,それは,そのような藩がいかに多かったかを示している.一般には,1871(明治4)年の廃藩置県によって,旧藩による,このような殖産・勧業仕法はすべて杜絶したと理解されている.けれども,実際は必ずしもそう単純ではなかったように思われる.鹿児島藩のように,国産会所が名称を変えただけでしばらく活動を続けていたところもあったのである19).
 しかし,より重要なのは直轄県の場合である.そこでは旧幕時代における経験がなかっただけに,明治に入ってから,かえって積極的に勧業政策を推進していったところがあったように思われる.そしてその場合,施策内容にかんしてはさまざまであったが,その実行プログラムは,いずれも,旧藩時代のそれを想起させるようなものであった.以下,そのような例として,白河県と筑摩県の場合をみよう.
 白河県では,1869(明治2)年に生産方を設置する20).これは「『商法会所方式』を地方レベルで具体化するもの」であって21),それゆえ,中央レベルでの商法司から通商司への変化に対応し,翌年「生産会社」という名称の機関に改組される.その資本は,県を通じて中央政府より貸下げられた金札と民間資金とから成っており,半官半民の団体といってよい.勧業関係の業務として,(ⅰ)勧業資金の融資,(ⅱ)荷為替取組による荷主(生糸商)への資金融通,(ⅲ)国産品(生糸)の改印,および冥加永徴収による流通規制を行っており,その他に(ⅳ)小野組などと組んで徴税請負業務をも行っていた.しかし,1872(明治5)年には,福島県出納課管轄の物産方役所となり,生産金貸付と物産(生糸)の粗製濫造防止(生糸渡世人の統制と鑑札発行)のみを行うこととなる.その後さらに,貸付のみを主な業務とするようになり,1870年代末(明治10年代初頭)からはたんなる銀行類似会社へと変質していったのである.
 白河地方の生産会社は商法司・通商司政策に呼応したケースであるが,大久保政権下の殖産興業政策に呼応した事例として筑摩県の開産社がある22).
 開産社は,1873(明治6)年に権令永山盛輝のイニシアティヴで作られた機関で,資本としては,旧伊那県・高山県引送金と飛彈地方安石代廃止23)に伴う増徴分のうち2割貸下との他に,「県官一同出金穀」「士族一同出穀」「管下一般町反掛出穀」――すなわち筑摩県民全員を対象とした強制醵出によっていた.半官半民という以上に官営事業としての性格が強いといえよう.また,各支社長は大区長であり,この点には旧大庄屋システムの直接的な応用を想わしめるものがある.その業務は当初,(ⅰ)救恤事業と(ⅱ)勧業資金貸付であったが24),1876(明治9)年筑摩県から長野県へと変わって以降は,(ⅲ)染織工場経営,(ⅳ)物産博覧会・農事会なども行うようになった.他方,筑摩県の廃止の際,開産社組織は長野県全域に拡大されず,したがってまた積穀も停止された.1881(明治14)年には県より独立,救恤事業が停止され,翌々年には欠損の多い染織工場を切り離しており,その前後かち事実上,一銀行類似会社へと変質していった.そして1888(明治21)年,拝借金を完済して解散するに至った.
 以上みてきた2例は,決して類似のケースとはいえない.それぞれの機構も機能も異なっていた.しかしそれにもかかわらず,旧幕時代における諸藩の仕法がモデルとして政策担当者の念頭にあったことは疑いないところであろう.そして,いずれの場合も,それらがたどった歴史が,政策執行機関の機能分化と,その結果としての銀行類似会社化であったという点も共通している.さらに,もう一つ共通点をあげれば,いずれのケースにおいても,勧業政策の実行が政府資金の導入によって始まっているという点である.そこで以下,この問題についてみよう.
 (3) 勧業資金
この点についても全国的に展望できる資料は少ない.石塚裕道の研究に,1880(明治13),1884(明治17),1886(明治19)年の府県勧業費を整理した表があるが,それは「通信費・勧業試験場費・勧業博物館費・勧業博覧会費など,各府県での勧業関係行政費として計上されたもの」であり,そこから府県レベルの殖産興業について論ずるのは難しい25).
 また,中央政府の別途会計である「準備金」や「起業基金」からの府県貸出も,その大部分が士族授産を目的としていたと思われるので26),そこからの判断にはバイアスが入ってしまうであろう.
 福島の生産会社,筑摩県の開産社,およびその他の断片的な事例からわかることは,府県段階における具体的な勧業プログラムの実行が,多くの場合,中央政府からの資金導入によって開始されたという点であった.しかし,その資金導入には定型化されたパターンがあったのではなく,地方からの申請も中央政府における貸与の決定も,ともにかなりアド・ホックになされていたらしい.
 すなわち,府県側においても東京においても,政策担当者の個人的裁量が大きかったと思われる.先の開産社の例では,その準備段階においてすでに権令が政府資金導入が可能な旨を漏らしているし27),中央においては,おそらく大久保などの意向によって左右される度合が大きかったと考えられる.実際,大久保は,1876(明治9)年,天皇が東北地方へ巡幸した際随行し,帰京後「陸羽各県勧業資本之義更に特別之御評議を以金弐拾万円御裁定相成度」と上申しているのである.彼にとって,この旅行は「いわば勧業旅行」であった28).その背後にどのような政治的判断があったかは定かでないが,大久保がとくに東北の勧業事業を重視したのであれば,それは東日本諸県において殖産興業政策の積極的な展開がみられたことを,資金面から説明するかもしれない.
 資金面から府県殖産興業政策の地域性を説明するもう一つの要因として,安石代廃止に伴う増徴分の2割塗申請のあった府県に勧業資本として貸下げるという措置があった29).開産社のケースはまさにそれであるが,徳川期に安石代が実施されていた地方は畑作地帯の多い東日本に偏っていたので,これもまた全体として東日本諸県の勧業資金を豊かなものとしたと思われる.
 この措置については従来ほとんど注意をひかなかったが,政府の「歳入出決算報告書」には,1873(明治6)年から1875(明治8)年6月までの間に山梨,筑摩,熊谷(2回),磐前,栃木の各県があげられており,また会計年度が変わった後も1875年,78年,79年の各年度に「安石代云々」の記事がある.貸与をうけた県をすべて明らかにすることはできないし,また総額でどれほどの額が支出されたのかもわからないが,かなりの府県がこの勧業資本貸下をうけたことは明らかであろう.それは中央政府財政にとってそれほど大きな額ではなかったかもしれないが,畑作地帯に多かった養蚕・製糸業県にとっては,貴重な勧業資金源であったと思われる30).
 以上,府県レベルにおける勧業政策を,その地域性,幕藩時代のパターンからの連続性,勧業資金における中央政府資金の役割,といった点から概観してきた.そこで次節では,山梨県を例にとり,それらの具体的なあり方をみることにしよう.

Ⅱ 山梨県の場合

(1) 明治前期藤村県政下の殖産興業
1877(明治10)年の「山梨県勧業着手概況」をみると,山梨県はすでにかなりの直営事業を行っており,他の府県と比較して相当に意欲的な殖産政策を展開していたという印象をうける31).とりわけ,他の府県の直営事業が士族救済を目的としたものが多かったのにたいし,山梨県の場合,士族授産以外の事業であった点において,際立っている.
山梨県の殖産興業政策は32),1873(明治6)年1月,藤村紫朗の権令就任(翌年県令に昇任)をもって始められたといってよい.就任の3カ月後,県下人民にたいし「物産富殖ノ告諭」33)を発し,殖産興業を呼びかけた.「天ハ幸福ヲ人ニ与ヘスシテ勉強ニ与フト 畢竟人ノ幸福ハ其身平常ノ働キニ依ル者ナレハ宜敷此道理ヲ悟リ遊惰ノ風ヲ去リ自カラ我身ヲ動カシ我身ヲ頼ミ家業ノ繁栄ヲ致シテコソ人ノ人タル道ニ適フト云フヘシ」という調子に表われているように,開化への意気込みと,愚民観に基づく県当局リーダーシップの強調とがその特徴である34).
 藤村の勧業政策推進の手足となったのは,県においては勧業課,末端レベルでは勧業世話掛であった.1877(明治10)年「山梨県勧業着手概況」では,勧業課の業務として,(ⅰ)「人工地産ノ興隆ヲ計ル事」,(ⅱ)「種芸牧畜ノ業ヲ起ス事」,(ⅲ)「遊手浮業ノ徒ヲ有用ノ業ニ転スル事」,(ⅳ)「窮民授産ノ方法ヲ設ル事」,(ⅴ)「工社商社ヲ起ス事」,(ⅵ)「種芸牧畜用ノ官有地ヲ管理スル事」,(ⅶ)「借区開坑一切ノ事務ヲ管理スル事」,(ⅷ)「蚕種組合一切ノ事務ヲ管理スル事」をあげている.蚕種組合に半官的性格が付与されている点,注意をひこう.
 勧業世話掛制度は,1873(明治6)年6月につくられたもので,各区におかれ区長の任命であった.県の政策はいうまでもなく,この勧業課―勧業世話掛のパイプを通じて徹底が図られたのである.勧業課員は,かなり頻繁に県内を巡回したようであるが,その際に行った演説の一つが記録に残っている.少し長いが,当時の雰囲気をよく伝えていると思うので,その初めのところを以下に引用する35).
 「抑も勧業とは人民の営業を勧め誘く義にして即ち商業なり工芸なり農事なり凡て人の生計に係りて世上一般の公益となるべき事柄は之を導き之を勧めて地には遺利(うつもれたるり)なからしめ,人ハ遊手(あそびにん)無からしめん事を務むるものにて経済の上に最も肝要の事で有ます」
 このように勧業を定義した後,政府の勧業政策を「大蔵省には商務局を置かれ輸出品の御世話や西洋模造品の事柄を始め凡て商業の外国交易に係る事共ハ何くれとなくお世話・・・」と説明する.その際,内務省勧農局については大久保利通に言及し,故内務卿大久保公は「朝廷より賜はられたる自己の賞典禄をさへ悉皆此局の定額費の内へ献納せられたる程の御奮発なりき」といっているのが興味深い.
 「さて其勧業の方法は何するものヂャといふに必意二ツの方に過ぬもので,先其第一ハ政府にて自から其勧むべき物品奪製造へて之を人民に示し「斯なものが出来るが衆庶もヤッテ見ないか随分各自にも利益が有て且つ国の為にもなるものヂャ」と云ふが如く有形物を以て人を勧奨るもので有ます
 即ち本県に於てハ甲府場址に農産物の試験所を設け葡萄酒を醸造したり,日野春の試験所では養蚕を試みたり,製糸所を建て紅女の授産(なりはひをさづくり)をなし,職工所を置て色染方を伝習する等の如し
 第二ハ肥料の分析,培養の方法,器械の発明等の事に付学者の諸説又は書物の中より有益事を深り出し書にも筆く口にも演べ図にも製し懇に其理由を説明し之を勧むるにして即ち道理を以て人を勧奨するものて有ます
 即ち是れ勧業報告,勧業演説,等の如し
 扨て右の二つの中何らか人の為になるゾと云ふには是は適度車に両輪あると人に二脚あるが如く何れも無くてはならぬもので有ます・・・」
 以上の引用に加えて,「道理を以て人を勧奨する」方式の例としてさらに共進会・博覧会をあげれば一層はっきりするように,藤村県政下の殖産興業政策は,大久保・大隈の殖産興業政策に呼応してたてられたものであった.
 しかも,藤村および彼の配下の勧業課員たち自身,この点をはっきりと自覚していたように思われる.1878(明治11)年「地方税規制」のうち勧業費の存続をめぐる討議のなかで,藤村は「今日輸出入の不平均を医す道は勧業強化をおいてなく,しかも営業税・雑種税は県民全体から徴収するものではないから,その徴収・使途は県会審議にゆだねることなしに県会の自由裁量に任せよ」と主張したといわれているように,勧業政策の位置づけは,まさに大隈のそれと軌を一にしていた36).その意味で山梨県の勧業政策は,大久保・大隈的殖産興業政策のミニチュア版という面をもっていたといえるであろう.
 しかし,大久保・大隈の殖産興業理念への「自己同化」だけが,山梨県勧業政策における積極姿勢を説明するわけではない.それを可能にした他の条件もあった.以下,それらの条件についてみることによって,前節で得られた見取図のなかに山梨県を位置づけることにしよう.
 まず第1に山梨県は,いうまでもないことであるが,東日本に位置した典型的な養蚕・製糸県であった.藤村自身が「物産富殖ノ告諭」の冒頭で「蚕卵蚕糸ハ御国[甲斐国]第一ノ名産ニシテ海外諸国ニ於テモ之ヲ愛重シ其利益不少,実ニ家ヲ興シ国ヲ富ズノ良産ト云フヘシ,御国従前養蚕ニ名アリト雖モ其営ム処ハ僅ニ全国十分ノ二ニ過キス」といっているように37),養蚕・製糸業がすでに存在していたことと,その拡大の余地が県内にはまだ充分あったということが,積極的な勧業政策を可能にしたのである.
 第2に,山梨県は旧幕時代に天領(三卿領を含む)であり,維新とともにただちに直轄領に組み入れられた.また明治政府による度重なる郡県域の変更・統廃合にもかかわらず,山梨県の場合,1870(明治3)年に三卿領の一つであった田安領が併合されて以降は,その県域にまったく変更がなかった.加えて,県令藤村の在任期間が1887(明治20)年までの14年間にわたり,県政に――明治前期としては異例ともいえる――連続性が与えちれた.このことと,明治前期の地方官に与えられていた自由裁量権の大きさを考えあわせると,積極的,かつ多少なりとも一貫性をもった政策を遂行しうる条件がそろっていたといえる.
 第3に,徳川期の甲斐国は「大小切」(だいしょうぎり)と呼ばれる安石代が実施されていた地域であった38).したがって,その廃止によって増徴となった税収入の2割を勧業資本として導入するこどのできた県であった.実際,藤村は「物産富殖ノ告諭」より早く,同年3月に勧業授産計画を提出し,安石代「間金」を勧業資本金として貸下げてほしいと租税寮に具申,5月に23,400円の貸与をうけた.この貸下金によって実行に移された計画は,(ⅰ)北巨摩郡日野原開拓(開拓地はまた,これまで養蚕が行われていなかった巨摩郡地方におけるモデル養蚕業センターという性格をもっていた),(ⅱ)官営器械製糸場建設(名取彦兵衛新案の150人挽設置),(ⅲ)甲府郭内払ケ地への桑苗・葡萄などの植付(それらの普及,栽培法の教示などを目的),(ⅳ)これまで養蚕を営んでいない村々への桑苗1,571,100本貸渡,であった39).先に引用した勧業演説において言及されている試験所や製糸揚は,いずれもこの計画において,あるいはその延長上に出てきたことがわかるであろう.直営事業のほとんどは,この安石代「間金」によって可能となったのである.
 次に,藤村の殖産興業政策は,旧幕時代諸藩め勧業方式をモデルとしていたであろうか.この点については,、山梨県の場合,多少異例であった.藤村が,国産会所またはそれに類した半官半民の機関を作って,勧業政策遂行の母体としたということは全くない40).たしかに,官営製糸場を営んでいたこと,また強力な行政指導・流通統制を意図していたこと(桑樹の植付指導41),甲斐絹粗製濫造の取締42)など)から,県の勧業課自体が一つの国産会所化していたといえなくはない.しかし全体としてみるかぎり,山梨県め勧業政策は,きわめて「近代的」な装いのもとに行われたところに大きな特色があるというべきであろう.
 最後に,勧業資金についてはどうであったろうか.藤村個人は,県当局または勧業貸付機関が,資本供給のイニシアティヴをとるべきだという考えをもっていたようで,1878年に――不成功に終ったが――起業基金へ資金貸与の申請を行った際,その一つとして器械製糸創立のための貸付資金として2万円の拝借を願い出ている43).また,興業銀行による強力な産業融資を中心とした農商務省の『興業意見』構想に関連して,「専ラ製糸家ノ融通ヲ助クルヲ以テ本務ト為スノ会社ヲ創立セシメ之ニ向テ其資金ヲ貸与シ,又県下製糸家ヲ糾合シテ製糸協会ヲ創立セシメ両者相待テ従事セシムルヲ良法ト思考ス」と意見を述べている44).けれども,これらはいずれも実現せず,金融面は,藤村の産業界における協力者の一人である栗原信近が頭取をしていた第十国立銀行などの民間金融機関に依存せざるをえなかったのである.その代りに藤村が力を入れ,かつまた苦心したことは,特定の勧業計画がたてられるたびに,そのための資金を政府から貸りてくることであった.その点において,山梨県の場合も決して例外ではなかったのである.
 そこで次に,このようにして導入された政府資金が,県の殖産興業事業全体のなかでどのような役割を果していたか,換言すれば,県の事業がどの程度政府資金に依存していたかをみることにしよう.
 (2) 明治前期の勧業支出
 表9-1は1880(明治13)年末現在の殖産興業関係の事業一覧である.パネルAには,直営事業への支出額と,その資金の出所とを示す.パネルBは,県を通じて政府より県下の個人または民間会社へどれだけの資金貸下がなされたかを示している.ここにあげられている支出金額はいずれも創業費・建設費であって,運転資金は含まれていない.それは,直営事業の場合,県の経常予算から支出されているわけである.
表9-1 勧業事業とその資金(1880<明治13>年末現在)
 表9-1は,いうまでもなく完全なものではない.例えば,県勧業費からの支出でわかるのは1879(明治12)年度のみで,他の年度については全く不明である.またパネルBでは,中央政府から資金を借入れたケースしかあげておらず,県が自己の財源から補助ないしは貸付を行ったケースは含まれていない45).けれども,概略を知るにはこれで充分と思われる.
 表9-1をみてすぐ気がつくことは,中央政府借入金のウェイトが非常に高いという点である.県勧業費からの支出はパネルA総額の1割にもみたない.不明分がたとえすべて県費ないしは自己調達であったとしても,この結論は変わらない.もっとも,ここに示されている「旧甲府県引継金」というのはやや性格の曖昧な資金で,「明治五年県下人民暴動[大小切騒動]ノ際其書類致紛乱破ト其原由不相分」の金員だとされている.しかし,有泉貞夫は,大小切騒動のとき県庁へそのような乱入があったという事実はなく,そのような金員があったかどうか疑問とし,これを「勧業製糸場の収益を流用することの偽装ではなかったか」と推測している46).もしそうであるとすれば,それだけ中央政府資金のウェイトは下がるが,それでも地方負担は,パネルA―Bの合計額の4割未満にすぎない.
 表9-1をみて次に気がつく点は,直営事業への支出に比べて民間への貸与額が少ないということである.わずか2件,2万円余にすぎない.これは,おそらく山梨県の特異性によると考えてよいであろう.同じく養蚕・製糸県の福島の場合,官金貸下をうけた民間会社は1880年現在で12社(会社総数の3分の1強),総額87,000円余であった47).山梨県は直営事業先行型であったことが,これによってもわかる.
 しかし,藤村は民間への融資を軽視していたわけではなかった.前にみたように,彼は1878年に起業基金へ総額11万円以上という壮大な借入計画をたてたが,勧業関係だけで5件68,000円,そのうち4件63,000円は民間への貸下であった(表9‐2参照).5件の勧業関係借入申請のうち,紡績器械建設資金貸付は二千錘紡績1基の貸下という形で実現したが,他はすべて不成功に終わった.万一これらが実現していたとしたら,表9-1パネルBの総額は飛躍的に高まっていたであろう.したがって,山梨県勧業政策は直営事業先行型であっても,直営事業重点型では必ずしもなかったのかもしれない.
表9-2 起業基金への借入申請(1878<明治11>年)
 すでに前節においてみたように,伝統的勧業方式によって殖産興業をスタートさせたところにおいても,中央政府資金の役割は大であった.山梨県のように「近代的な」装いのもとに積極的な勧業政策を推進したところもそうであったのであるから,一般的にいって,勧業資金における中央政府資金の比重は大,逆にいえば地方の負担率は小であったといえる.そしてそれが,地方政府の,政策立案にかんする自由度の高さと結びついていたところに,明治前期の特質があったように思われる.
 他方,それらの資金導入が成功していたとすれば,中央のウェイトはさらに高まったわけであるから,山梨県の事例から,明治前期地方殖産興業において中央政府資金の比重は大であったといいうるであろう.事実,群馬県については勧業資金貸与金が出所別にわかるが,それによっても総額74,070円のうち,地方税からの貸与金は14,746円(20%)にすぎなかったのである48).いいかえれば,県令に資金獲得の手腕があれば,地方政府は必ずしも大きな財政負担を強いられることなく勧業政策を遂行することができたといえる.もちろん,中央政府資金は創業・建設のための資金であるから,山梨県のように直営事業が多かった場合には,それらの運営費および返済金が地方財政を圧迫することは充分考えられる.けれども土木費の場合には国庫補助と地方負担の割合が1対2であったことを考えれば49),勧業支出の場合には――総額では土木費に比べものにならないほど少ないとはいえ――その割合が全く逆であったことは注目に値する.
 (3) 明治後期勧業政策との比較
 本項では,勧業支出とその内容の推移を明治末年まで追うことによって,前項で明らかとなった明治前期勧業支出パターンの意味を明らかにしよう.
 表9-3は,県予算歳出における勧業費と,その歳出総額にたいする割合の年次的推移とを示す.また比較のために土木費にかんする数字もあげてある.表9-4には,勧業補助金と,その勧業費総額にたいする割合,そして補助をうけた団体が示されている.
表9-3 土木費・勧業費の推移
表9-4 勧業補助金の推移
 これら二表から,大雑肥な時期区分をすることができる.第1期は1884(明治17)年まで,第2期は1885―1902(明治18―35)年,第3期は1903(明治36)年以降である.いうまでもなく,これは便宜的なもので,少し異なった基準によれば区分も異なってくる.勧業費の動きをみているかぎり1885(明治18)年以降の落ちこみが際立つが,もし土木費をとるとすれば,画期は1890(明治23)年となろう.それまでは土木費支出が増えており,したがって歳出総額も増加,それゆえまた,他府県と比較して財政規模はかなり大きかった50)からである.他方,藤村の殖産興業政策にたいする批判という点に注目すれば,画期はずっと以前にまで遡らねばならない.1879(明治12)年『峡中新報』の官営勧業製糸場にたいする批判キャンペーンをきっかけに,ジャーナリズムおよび県
議会の反藤村的勧業政策への動きが活発化するからである51).1882(明治15)年まではとにかく勧業費支出を増加させ,その後も1884(明治17)年まではかろうじて3千円代を確保したのは,藤村の必死の努力の結果であり,執念の現れであった.
 1903(明治36)年は,反藤村キャンペーン・スローガンの一つでもあった「民力休養」論が影をひそめ,「元来勧業ノ如キハ人民一歩進ムレバ県官一歩ヲ退クベシ,現ニ人民ノ智識ハ昔日ノ比ニアラザレバ県官は宜シク一歩ヲ譲ルベシ」(1880<明治13年>試験所廃止意見)あるいは「農業ハ老農ニ問フテ足レリ」(1884<明治17>年農事講習所費削除意見)という態度52)から,むしろ勧業支出増加を求める態度へと転換してゆく時期である.この態度変化には,金本位制への移行→交易条件の悪化→輸出向在来産業の不振ということが影響していたと思われる53).また国内的には,鉄道敷設の進展によって在来産業における地域間競争が激しくなったという事情もあるかもしれない54).
 いうまでもなく,この時期の区切り方もあまり厳密なものではない.県予算規模拡大という点からは,1900(明治33)年を画期とすることもできる.また,勧業費の増大という点では,1904(明治37)年の4倍近い大幅な増額が目につく.しかし,その年度の予算のうち一府九県連合共進会費89,919円は,日露戦争のため共進会が延期となったので執行されず,したがって実質的な勧業予算の伸びは,1903(明治36)年度の対前年比を僅かに上回る程度であった.1903(明治36)年は,内容的にみて,勧業費補助金と補助金交付団体数が増加している点が注目されるのである.勧業補助金が恒常的に出されるようになるのは1996(明治29)年からであるが,1903(明治36)年に補助団体数が一挙に3から7へと増加し,以降補助金総額は――年々の変化は激しいが長期的には――勧業費総支出の伸びとほぼ同じペースで増大していった.そもそも「勧業補助費」という項目が予算のなかにたてられるようになったのが1900(明治33)年であり,それ以前は勧業関係の補助金はまだ制度化されていなかったといってよい.その意味でも,勧業補助金の交付は明治後期の勧業政策を特徴づける点の一つということができよう.
 さて以上を念頭においた上で,勧業政策について明治前期と後期との比較を行う.まず勧業支出額についてみよう.なお,ここで明治後期とは1903(明治36)年からの10年間,前期とは1873(明治6)年から1882(明治15)年までの10年間とする.
 明治後期の勧業支出総額は,表9-3から簡単にわかる.1903-12(明治36―45)年の勧業費計は,942,689円マイナス1904(明治37)年度連合共進会費減額分85,522円で,857,167円である.これにたいし前期については,前述のように表9‐3以外にも多くの支出がなされた.表9‐1に示されている直営事業への支出,民間会社への政府資金貸下も,やはり勧業支出としてカウントされねばならない.これらに三新法施行以前の 県勧業費としてわかる2年度分5,567円を加え55),重複分を整理すれば,表9-1,-3より,
県勧業費(1875―77<明治8―10>年,1879―82<明治12―15>年,計6カ年分)+直営事業支出+民間への政府貸下金―重複分(1879<明治12>年度県勧業費より直営事業への支出分)=28,616円+95,338円+23,416円-2,742円=147,370円
となる.もっとも,これはかなりの過少推計である.県勧業費については不明な年度が4年もあり,また中央政府あるいは県庁から資金貸与をうけた会社はまだあったかもしれないからである.そこで,仮に起業起金への借入計画が実際に実行されたとして,その分を上乗せしてみよう.表9‐2の勧業関係分から別口で借入が成功した項を引いて,上記の金額に加えれば,
 147,370円+68,000円-15,000円=200,370円
となる.この数字は,実際の勧業支出推計としては間違いなく過大であろう.しかしそれにもかかわらず,明治後期の85万円余と比較してかなり小額である.もちろんその間に,物価が上昇した.しかし『長期経済統計』によれば,1879/82年から1903/12年にかけての消費者物価上昇率は52・7%であったから56),物価上昇を考慮しても,明治後期の勧業支出のほうが明治前期の「殖産興業」支出よりも大であったという結論に変わりはないのである.
 このようにみてくると,明治前期の殖産興業政策が特別に大きな財政支出を伴う,特別な勧業プログラムの実行を目指したものとはいえなくなってくる.
 この点は,1911(明治44)年度の勧業事業の内容をみることによって一層はっきりとする(表9-5参照)57).
表9-5 1911(明治44)年度勧業関係予算
既にみてきたように,明治前期の殖産興業は主として,(ⅰ)モデル工場や試験所などの直営事業,(ⅱ)共進会・博覧会の開催,勧業パンフレットなどの配布,(ⅲ)民間への資金貸与,(ⅳ)粗製濫造防止などの取締・流通統制,から成っていた.このうちとくに(ⅰ)――工場経営のみならず試験所も――が強い批判の対象となったことも,既述の通りである.しかし,表9-5をみれば明らかなように,農事・工業試験場,地方測候所のような事業は明治後期の勧業政策においても主要な柱であった.(ⅱ)も同じく主要な事業の一つであり,(ⅲ)は形をかえて同業組合への補助金として復活した.同業組合はまた,製品検査・違反者取締などの機能をも引継いだ.もちろん明治後期には,勧業製糸場のようなモデル工場は姿を消しているし,また同業組合を通じての資金撒布と個別会社単位の資金貸付との差は――後述するように――無視しえない.しかし,明治後期と比べてみることによって,明治前期殖産興業政策が何か特別なことをしたという印象が薄れてくることは否めないであろう.
 明治前期と後期の差は,財政主導型の積極的勧業を行ったかどうかにあるのではない.いずれの時期も,積極的な勧業政策を遂行することによって勧業支出が膨んだという点に変わりはないのである.真の相違は他の面に求められなければならない.
 第1に,勧業支出における地方負担率の変化がある.明治前期の勧業資金は――たとえ貸与という形をとったにせよ――かなりの割合が中央政府資金であったが,明治後期になると,表9-5からわかるように国庫補助金の県勧業費総額に占める割合は僅か10数%にすぎなくなっている.藤村県政下の殖産興業を実質額ではるかに上回る勧業支出は,大部分地元負担によって賄われたのである.
 第2は,政府資金が民間に流れる場合の「受け皿」の相違である.明治前期では個人または個別会社であったが,明治後期には同業組合となっている.これは,資金の流れが組織化されたことを意味しているといってよい.
 第3は,勧業支出を増大させるメカニズムが異なっている.前期においては地方官個人の手腕によっていたが,後期には地元利益追求の競合がその原動力であった.全国的にみても日清戦後,「鉄道敷設誘致や大河川・国道修築費国庫支弁要請のほかに,府県立学校増設,郡立学校県費補助,町村土木費補助,里道の県道編入,各種産業奨励補助金の要請などが登場し,やがてこの獲得をめぐる駆引きが地方議会の主要な局面をなすに至った」58).これは「受け皿」,すなわち同業組合の組織化と密接に絡みあっており,例えば甲斐絹同業組合連合会は郡内地方の,産牛馬組合は狭南北部地方の利害を代表する形で補助を受けていたといえる.山梨県においても,補助金をめぐる地域間の張合い(エミュレーション)が起り始めたのである59).
 最後に,以上の三点が,いずれも中央政府の地方コントロール増大を意味していたということを指摘しておかなければならない.表9-5の国庫補助金と勧業支出とを項目ごとに比べればわかるように,主要な勧業事業にはほとんど国庫補助金がついている.そして,この国庫補助金の対象事業にしても,また県勧業補助金の「受け皿」としての同業組合にしても,いずれも中央政府レベルで法定・制度化された事業ないしは機関である.僅かな補助金とひきかえに地方へのコントロールを確保するという,この中央政府のやり方は,1882(明治15)年以降まさに土木費において実験ずみのパターンであった.1891(明治24)年4月の同業組合取締規則にかんする農商務省通達60),1897(明治30)年の農事試験場国庫補助法など61)の制度的整備とともに,〈中央―地方〉の関係において勧業費も土木費と同様のパターンに従うこととなったのである.

 結論

 明治後期地方勧業政策の特質は,それが,中央政府の設定した枠組のなかで,ほとんど地方財政の負担において行われたという点にある.それとの比較で浮び上ってくる明治前期の特徴は,したがって,政策の立案と実行にかんする地方の自由度が大きく,資金面での地方財政への依存度が小さかったということになろう.さらに,府県が殖産興業に積極的であればあるほど,これらの特徴が際立ってくるということもいいうるであろう.ここで「地方」とはもちろん地方政府のことであり,また「自由度が大きい」「依存度が小さい」というのも相対的なことである.とくに後者が,地方財政に余裕を与えたということを必ずしも意味しないということはすでに指摘した.しかし,〈中央―地方〉の関係という観点からみるかぎり,明治後期とのコントラストは明白であろう.
 以上の点が正しいとすれば,それは明治前期殖産興業政策全体の,とりわけ大久保・大隈の経済政策の理解にとって重要な含意をもつと思われる.
 最近の理解によれば,大久保・大隈の意図は,「『工』を移植産業として育成しつつ,対外交易に対処して輸出入を平均化せしめるために,在来産業として一定の成績をもつ広い意味での『農』の物産を繁殖・流通せしめること,そのために,『運輸の便』や『資本の供給』などのための『商』を保護・奨励すること」にあったといわれている62).在来工業を含む広い意味での「農」の生産拡大が輸入防遏達成のために当面実効性のある手段として考えられていたという点,そのための――直接的というよりは間接的な――施策として公共事業投資と金融制度上の整備が位置づけられていたという点は,おそらくその通りであろう.しかし,「広い意味での『農』」に直接働きかけるような施策がまったく放棄されたわけではなかった.それは,地方レベルの殖産興業政策として期待されていたのではなかっただろうか.
 明治前期の地方官の在任期間が一般的にかなり長く,また相当に大きな自由裁量権を与えられていたのは,それによって府県レベル殖産興業の積極的展開と,その結果としての輸出在来産業の発展を中央政府が期待していたからだといえよう.地方政府の勧業資金要求にたいし――額としては土木費と比較にならないほど少ないとはいえ――寛容な態度をとったのも,大久保・大隈構想のなかではそれが在来産業への「資本の供給」として位置づけられていたからではないだろうか.
 ところで,上記の,<中央―地方>関係パターンの変化にかんする結論が意味するところは,第1に,明治前期には地域によってマチマチであった地方勧業政策が,その後――とりわけ日清戦争以後――同質化していったということであり,第2に,勧業支出総額に占める地方の割合が高まっていったということである.これらの趨勢にかんする詳細な分析はもはや本稿の範囲を超えているが,山梨県勧業支出のトレンドを中央・地方のそれと比較した図9‐1からも,それらの点を看取することができる.
図9-1 勧業支出の推移――中央・地方・山梨県の比較.
 まず山梨県のグラフを地方全体のそれと比較してみると,日清戦争を境に両者の関係が大きく変化していることがわかる.1890(明治23)年代後半から勧業支出が増加していった過程において,山梨県の増加テンポは地方全体のそれと大きく異なることはなかった.前節でみたように,山梨県予算における勧業費の増加率は目ざましいものであったが,それは他県と比べてとくに異例というわけではなかったのである.これにたいし,1895(明治28)年以前のグラフは,山梨県と地方全体とが著しく異なっている.前述のように,この時期における地方勧業費は必ずしも地方勧業支出全体の動向を忠実に反映しているとはいえない.しかし,それにしても両者の違いは一目瞭然であり,山梨県のパターンはむしろ農商務省歳出のパターンに近い.山梨県における勧業政策は,平均的な府県のそれからそれほどかけ離れていたのであり,そしてまた,明治前期においてはそれが可能だったのである.
 次に,農商務省所管の歳出総額と地方における勧業費総額とのトレンドを比べてみよう.1880(明治13)年前後においては,後者は前者の5分の1以下の水準でしかなかったのにたいし,1910(明治43)年代初頭には同一水準になっている.いわゆる日清戦後経営期における中央政府の勧業支出増加は,たしかに急速であった.しかし日露戦後の「桂園時代」,すなわち消極主義者のチェックにあって政友会の積極主義が充分な展開をみなかった時期において63),地方勧業支出が著実に伸びていた事実には注目してよい.
 中央における勧業支出が減少した一方で,地方勧業支出が増大したもう一つの注目すべき時期として,1880(明治13)年代の「松方デフレ期」がある.「地方商人・地主への負担転嫁および彼等からの所得移転」をねらった,そしてその結果として地方財政への負担転嫁をもたらした,松方の「超均衡財政」の効果は64),勧業政策の分野においても鮮明であった.けれども,松方デフレの効果はそれにとどまらなかった.積極主義をとっていた府県にとっては,それはむしろ勧業支出の削減を余儀なくさせられたことを意味していた.地方政府が独自の勧業政策立案の権限をもっていた明治前期のパターンは,<中央―地方>の関係という点からみるかぎり――誤解をおそれずにいえば――徳川時代のそれからあまりかけ離れたものではなかったが,松方財政の登場によって初めて,このパターンに終止符がうたれたのである.その意味で,松方財政は,日清戦争以後に形成される勧業行政への地ならしの役割を果したということができよう.

 * 本研究を始めるにあたって,東京商船大学の有泉貞美教授より山梨県勧業政策について数多くの貴重なご教示と助言をいただき,資料収集の段階では,山梨県立図書館の飯田文弥氏のお世話になった.また本稿執筆にあたっては,国連大学プロジェクト・経済政策研究会のメンバーの方々,および有泉教授より有益なコメントをいただいた.これらの方々に厚くお礼申し上げる.
 [注]
 1) 古島敏雄「地方殖産興業政策と伝統産業の動向」,古島ほか編『明治前期郷土史研究法』郷土史研究講座6,1970年,392ページ.
 2) 京都府派遣の伝習生が移入したバッタンが,1876(明治9)年に京都の織殿(織工場)から岩手県勧業課へ紹介され,東北地方の機業家へ広まったという例がある.尾城太郎丸は,このような在来産業の近代化努力を「殖産政策の第二の系列」と呼んでいる.「明治初年における殖産政策と在来産業」,『三田学会雑誌』第45巻第6号,1952年.
 3) 長幸男『日本経済思想史研究』,1963年,第二章.大石嘉一郎「『殖産興業』と『自由民権』の経済思想」,長幸男・住谷一彦編『近代日本経済思想史』Ⅰ,1969年,所収.海野福寿「松方財政と地主制の形成」,岩波講座『日本歴史』近代2,1976年,所収・石井寛治『日本経済史』,1976年,第二章4節,など.
 4) 永井秀失「殖産興業政策論」,『北海道大学文学部紀要』第10号,1961年.
 5) 海野,前掲論文.
 6) 石井,前掲書,75ページ.
 7) 由井常彦『中小企業政策の史的研究』,1964年,は,この点について次のような評価を下している.「内務省では在来産業の育成に対する適当な手段を発見できなかったのであって,ようやく博覧会方式にその一端を見いだしたのが実状であった」(19ページ).
 8) 大隈は,「金融ノ道ヲ疏通スル」上で最大の問題を,旧幕時代には諸藩が競って富強を図り,「三百有余ノ政府人民ニ代ハリ銀行其他ノ商業ヲ経営シタルト謂フモ夸言ニ非サル」状態であったが,廃藩置県とともに一挙にその機構が崩れてしまった後,それに代る体制がいまだ整っていない点に求めた「天下ノ経済ヲ謀リ国家ノ会計ヲ立ツルノ議」,『大隈文書』第3巻,127ページ).このような発想を前提とすれば,なぜ国立銀行方式がとられたかは容易に理解できよう.
 9) 由井,前掲書,20ページ.
 10) 例えば,鈴木武雄『財政史』日本現代史大系,1962年,第2,3章を参照.
 11) 由井,前掲書,第1,2章.
 12) 藤田武夫『日本地方財政発達史』,1949年,第1―3章.
 13) 農会法や府県農事試験場国庫補助法などの制定は,前田正名が率いるところの,全国農事会の要求していたことでもあった.しかし,例えば農会法の場合にはっきりしているように,前田と政府との間には,団体の性格をめぐって重要な意見の相違があった.前田が政府補助金なしの自主団体を主張していたのにたいし,政府は「政府補助金を下付し,政府の監督下にこれをつなぎとめる方法をとった」のである.中央政府が,農会や各種同業組合への補助金をどのように考えていたかが窺えて,興味深い.祖田修『地方産業の思想と運動』,1981年,157ページを参照.また,宮崎隆次「大正デモクラシー期の農村と政党(1)」,『国家学会雑誌』第93巻第7,8号,1980年,31-2ページをもみよ.
 14) 関順也「殖産勧業の展開過程」,河野健二・飯沼二郎編『世界資本主義の形成』,1967年,所収,および,古島,前掲論文.
 15) 土屋喬雄編『現代日本工業史資料」第1巻,1949年,190ページ.
 16) 関,前掲論文,394ページ.そこでは岡山県の例があげられているが,古島論文で取上げられている熊本県もその一例である.
 17) 新保博『目本近代信用制度成立史論』,1968年,第1章.
 18) 吉永昭『近世の専売制度』,1973年,所収の「産物会所仕法一覧表」を参照.
 19) 関,前掲論文,389ページ.
 20) 森田武「維新政権の地方的基盤――郡山生産会社を中心に」,『歴史』第37輯,1968年,同「直轄県における明治政府の経済政策――福島・白河地方の場合」,「歴史学研究』第359号,1970年,および福島県『福島県史』第4巻近代1,1971年による.
 21) 森田,前掲1970年論文,18ページ.
 22) 中村寅一「開産社始末――明治初年に於ける地方勧業金融の一例」,『社会経済史学』第7巻第5号,1937年,青山秀彦「本源的蓄積期における地方金融事情――小野組と開産社より見たる」,『日本歴史』第173号,1962年,栗原るみ「殖産興業政策の地方的展開と農村構造の変化」,『土地制度史学』第77号,1977年,および岐阜県『岐阜県史』通史篇・近代中,1970年による.
 23) 従来の開産社研究では,この資金についてはほとんど注意が払われることがなかった.たしかに1875(明治8)年11月27日付筑摩県参事高木惟矩宛の「開産社拝借金引渡目録」(長野県庁蔵)には,旧伊那県分の12,223円余と旧高山県分の26,556円余とが記されているだけであるが,同年4月25日付内務省宛の「壬申租税安石代間金御下渡之儀上申」(岐阜県立図書館蔵)では,飛騨における安石代廃止によって増徴となった分の2割にあたる8,687円を開産社のためにあてたいと述べられているのである.したがって,「拝借金引渡目録」における旧高山県引送金には,この8,687円が含まれていると考えてよいであろう.
 24) この他に荷為替業務を行う計画もあったらしい.青山は,「県当局の方針では,開産社を中心として,県庁の指導による勧業開産政策の展開を計るとともに,その発展として,開産社に貿易商社としての性格をも兼ねさせようとしていた」と推測している(前掲論文,71ページ).興味ある指摘である.
 25) 石塚裕道『日本資本主義成立史研究――明治国家と殖産興業政策』,1973年,146-47ページ.
 26) 石塚,同書,138-40ページ.
 27) 中村,前掲論文,576ページ.
 28) 大江志乃夫『日本の産業革命』,1968年,47ページ.
 29) 明治5(1872)年10月太政官布告第301号.
 30) 吉川秀造『明治財政経済史研究』,1969年の第1章で,明治政府の行ったさまざまな貸付が分類されているが,そこにおいても安石代「間金」には言及されていない.なお,「歳入出決算報告書」では,第8期までは刃勧業資本」の項目に,明治8(1875)年度以降は「雑支出」の項目に入れられている(『明治前期財政経済史料集成』第4巻,1932年,所収).
 31) 『明治十年府県勧業着手概況』(前掲)所収,96-101ページ.
 32) この点にかんするもっとも優れた研究は,有泉貞夫『明治政治史の基礎過程――地方政治状況史論』,1979年である.狭い意味の勧業政策のみならず,土木,鉄道,教育等の地方的利害をめぐる政治状況が克明にトレースされている.なお,広い意味の殖産興業を問題にするならば,社会資本の整備という点で土木事業をも分析対象とすべきであろう(梅村又次「山形県における三島道路の建設――殖産興業政策の忘れられた一駒」,『経済研究』第29巻第2号,1978年,参照).実際,藤村紫朗は,「道路県令」といわれたほど土木事業にも熱心であった.けれども,本稿では対象を狭い意味での殖産興業に限定したい.
 明治以降の山梨県の歴史としては,山梨県『山梨県政百年史』,1978年,が便利.主な史料は,山梨県立図書館編『山梨県史』全8巻,重958―65年,と山梨県『山梨県議会史』全5巻,1970―78年に収められている(前者はいわゆる「県史」ではなく,府県史料の覆刻,後者は以下『議会史』と略記して引用).
 33) 『山梨県史』第3巻,7ページ.
 34) この点にかんしては,藤原昭夫「藤村県政における殖産興業政策の理念」,『甲斐史学』丸山国雄会長還暦記念特集号,1965年,をも参照.
 35) 山梨県勧業課城山静一述「都留郡巡回演説筆記」,『山梨県勧業報告』第6号,1879(明治12)年4月,附録(山梨県立図書館蔵).原文には,音読みと訓読み両方のルビを付した言葉がみられるが,ここでは話し言葉に近いと思われる訓読みの方のルビを付した.
 36) 『議会史』第1巻,266ページ.大隈退陣後,藤村の側近といわれた第十国立銀行頭取の栗原信近は,松方大蔵卿にたいし「仰キ願クハ・・・紙幣ヲ増発セラレ,物産之レカ為メニ興起シ,運輸之レニ依テ開達シ,教育之レニ因テ普及ニ至リシメンコト」を懇願した上申書を差しだしている(傍点引用者).藤村と彼のサークルがいかに大久保・大隈の考え方に自己同化させていたかを示す,興味深いエピソードといえよう.この「松方大蔵卿ニ上ツル書」は,佐藤森三『栗原信近の生涯』,1970年,87‐93ページに引用されている.
 37) 『山梨県史』第3巻,7ページ.
 38) 「大小切」の具体的内容については,有泉,前掲書,67ページ参照.藤村着任の前年,この安石代廃止をめぐって農民一揆が起っている.それにたいする「徹底弾圧は[明治]6年から始まる地租改正への山梨県農民の抵抗をまえもって破砕する効果をもった.」それゆえ,この農民抵抗の少なさと,旧幕時代に天領であったがために大規模な士族集団が存在しなかったこととが,藤村が殖産興業に集中できた理由であった,と有泉は述べている(同書,8ページ).
 39) 『山梨県史』第3巻,8-11ページ.
 47) 1869(明治2)年に塩・紙・綿・絹を扱う商法会所を計画し,そのうち食塩のみが政府から認められたが,それが勧業機関として機能することはなかったらしい(『山梨県史』第1巻,540‐44ページ).
 41) 「植桑養蚕ニ付達」,中巨摩郡連合教育会編『中巨摩郡志』,1928年,第6編,84-5ページに引用.
 42) 「都留郡ニ産スル海気絹濫製ヲ戒メ之ヲ区戸長ニ達ス」,『山梨県史』第4巻,26ページ.
 43) 「公益起業資本貸給之義上申」(「自明治七年至同廿年諸省届拾遺」所収,山梨県立図書館蔵行政文書).
 44) 有泉,前掲書,148ページに引用.
 45) 例えば「山梨県勧業着手概況」(前掲)では,「民設事業ニ盗本貸与スルモノ」として,陶器磁器製造所,葡萄酒醸造発起人,茶園の栽培,富士川運輸会社をあげている.
 46) 有泉,前掲書,25ページ,注33.
 47) 大石嘉一郎『日本地方財行政史序説』,1961年,178‐79ページ.
 48) 群馬県教育会編『群馬県史』第4巻,1927年,416‐19ページ.
 49) 梅村,前掲論文.
 50) 中村隆英「有泉貞夫『明治政治史の基礎過程――地方政治状況史論』をめぐって」,『年報近代日本研究』第3号,1981年,第1図,519ページ.
 51) 有泉,前掲書,29ページ以下.この過程で,自らが発明した改良器械を備えた勧業製糸場の経営にあたり,「藤村県令の殖産興業政策の尖兵」の役割を果した名取雅樹が,辞任を余儀なくされている.名取については,有泉貞夫『やまなし明治の墓標』,1979年,第2章をも参照.
 52) 『議会史』第1巻,369ページ,および有泉『明治政治史』(前掲),147ページ.
 53) 中村隆英教授のご教示による.本書の中村論文(第7章)を参照.
 54) 有泉『明治政治史』(前掲),247‐48ページ.
 55) 『山梨県史』第6巻,531ページ.
 56) 大川一司他『物価』,1967年,134ページ.
 57) この年度が選ぼれたのは,勧業補助費と国庫補助金双方の内訳がわかるからである.
 58) 有泉貞夫「明治国家と民衆統合」,『岩波講座日本歴史』近代4,1976年,248ページ.
 59) 例えば1910(明治43)年,次年度の勧業補助費の審議において,北都留郡選出のある議員は,「無活動の状態にある」産牛馬組合への補助が増額されたのは「馬好きの」一北巨摩郡選出議員が知事に陳情した結果であるからだ,郡内選出議員は「巧みに」働きかけることが下手だから甲斐絹同業組合へは増額されない,北巨摩産牛馬組合への補助は削るべきだ,といっているが,これなどは地域間の張り合いがどのようなものかを端的に示すエピソードといえよう.『議会史』第2巻,1220‐21ページ参照.
 60) 同業組合準則が制定されたのは1884(明治17)年であるが,この通達によって「各地方特有物産保護上其商工業ノ発達ヲ必要トスル場合ニハ該業ニ限リ[各府県は]一七年第三七号同業組合準則ニ拠ラスシテ特ニ取締規則ヲ設ケ之ヲ規約シ得ル」こととなった.この通達の意義については,由井,前掲書,38‐9ページ参照.
 61) これ以降,1906(明治39)年産業試験費講習費国庫補助法,1909(明治42)年耕地整理及土地改良奨励費規則・桑園増殖奨励費交付規則,1911(明治44)年病虫害予防奨励規則・荒廃地復旧費補助規則と続く.表9‐3に示されている山梨県への国庫補助のほとんどが,これらの法令・規則によっていることがわかるであろう.これら補助法令による事業施設の拡充は,ほとんどの場合地方の財政負担を増大させたが,1897(明治30)年の国庫補助事業にかんする法律によって補助事業の施行および費用の支出についても,地方政府は「国家の強力な監督と広汎な指令に従はねばならぬ」こととなり,中央政府にたいする自立性は一段と弱まることとなった.藤田武夫,前掲書,126ページを参照.
 62) 大石嘉一郎,前掲論文,46ページ.傍点引用者.
 63) 坂野潤治『大正政変』,1982年,第1,2章.
 64) 寺西重郎「松方デフレと松方財政」,『経済研究』第32巻第3号,1981年,227ページ.同『日本の経済発展と金融』,1982年,139ページ.本書の第6章をも参照.
 [斎藤修]