実業教育

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実業教育

わが国産業化と実業教育

論文タイトル: 序文
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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序文

 本書はさきに公刊された『わが国離陸期の実業教育』の続篇である.本書の公刊によって,「開発と教育」をめぐる「日本の経験」は総括されたことになる.
 非西欧世界では,日本ただ一国が「近代化」に成功したのは,「教育の成功」によるとする主張がある.新興独立諸国は,国造りのための人造りに腐心している折柄だから,教育に「近代化」達成の鍵を見る立論に関心をよせ,「日本の経験」プロジェクト全体のなかで,「開発と教育」は最も注目を浴びた作業分野のひとつであった.
 だが,教育は教える側と教えられる側とに要求と関心の一致がなければならない.政府やエリートの要求が先行するだけで,国民の関心と必要に見合っていなければ,教育は定着もしなければ発展もできない.その当然すぎることがいま発展途上国では問題なのである.
 最新の科学と技術を吸収できる人材の養成が急務とされ,国によっては就業機会以上の高等教育人口が送り出されている反面で,普通初等教育がすすまない.逆T字型の教育体系が開発のネックになるのである.それが,さらに貴重・高価な頭脳と技能の流出を招いている.
 すでに教育大国化した今日の日本では,人びとは気づかないけれども,日本も明治の中期までは逆T字型であった.新帰朝者・洋行帰りの超エリートが造る科学・技術情報の小さい窓口,そして3Rs中心の初等教育の普及.それは,国家の要求と国民の必要との不均衡が構造化されたものであった.
 それが構造変化をみせるのは,技術移転による「産業革命」が開始されることによってであった.広汎・多岐な実業教育と職業訓練への需要が,上からと同時に下からも,生れてきたのである.東京職工学校・徒弟学校・実業補習学校の誕生がそれである.ここに至るまでが,学制施行いらい約20年であった.次いで,中等教育としての各種実業学校の籏生を経て,高等教育としての専門
学校の創設(やがて単科大学)にいたって,普通教育の階梯と平行する職業教育の体系は完成した.50年かかって,ピラミッド型の国民的教育体系となる.
 これを短期間の達成とみるか,緩慢な進行と見るかは,立場の相違というよりは,政府・社会・個人の諸レベルにおける教育ニーズの緊急度とシーズの発展的対応の評価にかかわることであろう.「日本の経験」に即してわれわれが指摘したいのは,実業教育・職業教育の段階的展開が「開発」の段階に応じた必要に見合っていたこと,および適切なモデルが外国に見出せたことである.初等教育ではアメリカ,実業教育ではドイツに倣った.けれども,完成した姿は全く「日本型」である.高度に体系化・標準化され統合されている反面では,多様性・柔軟性に欠け,反覆教育の制度をもたず,閉鎖的である.国際化の契機と要素とを完全に排除してしまっている.それは,他方で,政府や大企業の雇用慣行(定期採用における年齢・学歴制限と研修制度)と対応・連結したものである.
 この種の「成功」も確かな成功であるとして,それが可能だったのは,(1)欧米諸国で科学と技術が制度化された直後に日本はその導入に着手したこと,(2)学校による実業・職業教育が各地方の在来産業の近代化を目標としていたこと,による.この点の重要性は強調されねばなるまい.諸外国には,近代以前の日本は未開野蛮で,学術の遣産も技術の伝統もまるでない文化と文明の真空のなかに,突如として,欧米の「近代」文物が移植され,開花したかの如くにみる者が少なくはないからである.
 前近代の文化と遺制に「近代」が接木されて,日本の近代化は達成されたのである.それと併行した国民教育の体系化は全国民的かつ歴史的な経験で,これ以外のものにはなりようがなかった重い経験なのでもある.
 技術移転の歴史に則して言えば,日本の技術が十九世紀的水準で自立を達成したのは1920年代である.各産業技術は(1)操作技術の修得(2)保守技術の確立(3)修理技術の修得と部品製作における一連の改良(4)設計技術の消化(5)輸入代替・国産化という諸段階を経てきている.それに実業教育の普及と高度化は正確に対応している.この国民技術の形成と教育体系の構築が,先進諸国との格差を埋めたのではない.最先端技術では格差が大きくさえなった.しかし,技術の移転ははるかに容易になったし,急速に増え始めた.
 第二次大戦中に技術と情報が杜絶したあと,急速に戦前水準への回復がはたされ,1960年代からは量産技術と品質管理法が導入されて日本の産業技術は国際水準に到達する.その背景には,敗戦にともなう一連の改革があって,軍需に動員されていた技術者と設備が一斉に民生に解放・転用されたことと,科学・技術立国と民主化にむけた教育改革とがあった.
 だが,ひき続いての高度経済成長期として知られる急激な重化学工業化は,インフレと公害・環境破壊を推しすすめた.それは,もはや日本が豊かではなくとも貧しくはない状態に到達したことを立証するとしても,改めてその「成功」の代償に失ったものの価値に眼醒めさせ,文化問題としての教育問題もかつてとは別の次元と内容で緊張をはらんだ反省期に入っている.たとえば,日本が工業化に「成功」できた理由である「日本型エンジニア」の形成と「日本式経営」(とくに企業内教育)とに,はたして国際性があるのかどうか,技術輸出や経済協力を通じて,いま吟味されつつある.
 「開発と教育」の問題に早くから注目して専門家を養成してきたのは,アジア経済研究所の初代所長東畑精一先生であった.この研究グループだけが,全プロジェクトを通じてただひとつ,所内から主査を出すことができた.いささかならぬ感慨を覚えるのは私だけではあるまい.この開拓者的な研究作業は,全国各地にいる部厚い研究者層の地味な努力による蓄積と熱心な協力を前提としてのみ可能なことだったが,初代所長の遺志を体してアジア経済研究所の全体が物心両面にわたる大きな負担を意に介しなかったこともまたあえて記しておくに価いすることではなかろうか.
 1984年5月 東畑先生の一周忌を前に

「日本の経験」プロジェクト
コーディネーター
林 武