実業教育

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わが国産業化と実業教育

論文タイトル: 第1章:序論:開発と教育
著者名: 豊田 俊雄
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第1章:序論:開発と教育

Ⅰ 開発における教育
 ここでは「社会経済発展と教育」(socio-economic development and education)について少し幅広く考えてみたいと思う.
 まず,“development and education”の問題は,現在主として途上国の問題だと言っていいと思う.理論的な面においては,1950年代のおわり,昭和32年(1957)にアメリカの経済学者のT.W.シュルツがhuman factorという概念を打ち出し,発展における人的要素に新しい照明を与えたが,これが実はこの開発と教育というものの関係について世界的に流行するきっかけとなったものである.(“development”をわが国では「発展」と訳し,また「開発」と訳し,そして二つの言葉の間にかなりの差異をみる人がある.主たる違いは「発展」が自主的であるのに対し,「開発」が手段的(政策的)なものと見なされる点である.――しかしここでは,両者の意味(implication)に違いをおいていない.)
 シュルツはアメリカの経済成長を45年間さかのぼって観察し,その成長の中に「教育」という要素をとりいれて検討したわけである.つまり,人間の能力というものを一つの資本という風に考え,その資本の増加,増進のためには費用がかかる.費用がかかる以上経済分析の中に入れてよろしいという立場である.それは昭和32年(1957)のことであったが,たまたまその年はソ連がスプートニクを打ち上げた年であった.同年はまた,ガーナのエンクルマが他に先駆けて独立を宣した年でもあった.経済成長と教育の関連についてシュルツはこの年,理論的なスタートを切ったのであった.
 一方,国際政治の面では,ユネスコの総会が昭和35年(1960)に,教育というものは,文化的社会的に発展を促すものであるけれども,同時に経済開発に欠かしえない要因であると述べて新しい見方を提出した.教育と文化の機関ユネスコも「経済」との関連をこの時重視したのである.OECD(経済協力開発機構)という機関もその翌年の昭和36年(1961)にワシントンで会議を開いたが,その題目は「経済成長と教育投資」(Policy Conference on Economic Growth and Investment in Education)であった.これには,数年前に打ち上げられた人工衛星に対するアメリカやヨーロッパの驚きと焦燥感が強く働いていた.つまり,なぜソ連はそういう高度な科学的成果をあげることができたのか.一方,なぜアメリカにはそれができなかったのか.そういう強い反省が原動力としてあった.この会議はかなり充実した会議であった.経済協力開発のための機構であるOECDには教育関係,あるいは開発と教育計画のスタッフがたくさん配置された.経済機関がどうして教育のことをやるのかという意見もあったが,そこには以上のような背景があったのである.OECDはその後も「教育」を重視し,教育革新センター(CERI=Center for Educational Research and Innovation)を創り,新しい角度から加盟各国の教育開発を追求している.
 1960年代から1970年代にかけUNIDO(国連工業開発機構)やILO(国際労働機関)などの国連機関も相ついで人的資源(human resources)やマンパワー問題をとりあげ,そうした背景をもって,発展途上諸国も読み書きの能力の普及というものに高い政治的な優先性をあたえた.アジアではカラチプラン,ラテン・アメリカではサンチアゴプラン,アフリカではアジスアベバプランと,昭和35年(1960)初頭ユネスコの呼びかけで教育開発のための大臣会議が開催され,三地域の長期的な教育開発の展望が行われたのである。
 一方,アメリカの学者ハービソン(F.Harbison)とマイヤーズ(C.A.Myers)は,非常にたくさんのデータを使って,Education, Manpower and Economic Growthというこの面では古典となった本を書いた.これは昭和39年(1964)のことである.二人は世界の75カ国から教育と経済水準を表わすデータを集め,両者にみられる相関関係を計算した(第1表参照).
第1表 教育と経済:指標間の相関関係
 75カ国を一つのグループとして相互の相関関係をみると,相関度の強いもの,相関度の弱いものなどいくつかの段階を見出すことができる.教育の普及度を示す複合指数(1段)は,1人あたり国民総生産(2段)と非常に高い相関関係にあり(係数は0.888),また,農業人口の比率(3段)ともマイナス0.814という高い相関関係にある.中等教育在籍率や高等教育在籍率も,国民総生産や農業人口比率とかなり高い相関関係をもっていることをみることができる.さらに,経済の成長は,教員数や科学者・技術者数および医師数で表わされる人的能力のストックと,高い相関のあることを示している.
 この第1表の中には,それほど相関関係の強くない部分もあるが,教育と経済の発展について,大規模なデータ処理をした包括的な研究として注目してよい.
 この研究のもう一つの,しかも興味ある特色は,ハービソンとマイヤーズが,教育の発展段階を示す複合指数を開発したことである.二人が何回とない試算の後に到達した指数は,ごく簡単なものであった.それは,中等教育の就学率と,高等教育の就学率を5倍したものを加えた数値である.これを指数として75カ国を,レベルⅠ:低開発国,レベルⅡ:部分的開発国,レベルⅢ:半開発国,レベルⅣ:先進国と区分している.
 さて1970年代に入ると,いわゆる「教育の経済学」(economics of education)といわれるものに対する熱意は1960年代に比べ下降気味となった.(わが国においてこの領域に研鑽を重ねた人には,「教育社会学」をフィールドとする人が多かった.教育を手段視するという批難の中で,教育の社会的機能を捉えようとする人々であった.)熱意が下降気味とはいえ,ロンドン大学のマーク・ブローグ(Mark Blaug)教授によると,シュルツが最初に論文を書いた昭和32年(1957)以来今日まで2000点をこえる文献(英文で書かれた論文や著書)が出ている,と言う.しかも「教育の経済学」に関する文献は,現在も毎年約100点が増えている.
 1970年代に熱がさめた理由はいろいろあろうが,一つには手法上の限界による.すなわち教育というものの投入(インプット)と産出(アウトプット)をきちんと算定することがきわめて困難であるというのが一つの大きな理由だと言ってよかろう.
 一方教育に対する投資にもいろいろ反省がおこってくる.まず「初等教育」に開発資金を使うことは無駄遣いである,もっと速成的,速効的な「中等教育」や「大学教育」にこそ使うべきである,という意見である.さきのカラチプランなど世界の各地域の教育発展計画に対しても,教育投資配分上のいろいろな反省があった.
 今日に至ってこれら計画の達成度を見ると,中等教育,大学教育に関する目標は十分以上に達成されているといえる.しかしこれは教育投資が経済効率上の見地からなされたというより,社会の階層圧力によってなされたとみるべきである.そして底辺の初等教育は相変わらずたいした伸長はみせていない.目標の達成度からいうと,ピラミッドが逆になっているのである.教育の上位段階は計画が充たされ,下位は不十分である.ヨーロッパや日本が初等教育から徐々に積み上げていった方式とは全く違うのである.
 日本の教育がこれだけ明治以来急速な発展をとげたのは,明治以前の徳川時代の庶民層にかなりの蓄積があったためである.一方ソビエト・ロシアも突如として科学的な水準の高い国になったのではなく,大正6年(1917)以前にかなり長い科学の蓄積があったという事実も見落とすべきではないであろう.
 国連では「開発の30年」という表現を用いるが,教育面では,第3世界においてここ30年の間に成人人口の識字率は30%から50%以上に上がったとみている.同じく健康面では,平均寿命でみると低所得国では15歳も伸長している(教育以上に大きな成長である).今この「開発の30年」をふまえて,現在の発展途上国の教育をみると,中進国といわれる開発の進んだ国の場合,またアセアン(ASEAN)諸国の場合,初等教育はほぼ目標を達して,次の中等教育の開発を考えてもよいという,そういう段階に達したと言うことができる.しかしそれ以外の大多数の発展途上国は,まさにいま初等教育整備の段階にあるのである.
 世界の発展途上国の小学校就学率の平均は64%に達しているが,実は中途退学(ドロップ・アウト)が途上国の場合非常に多いのである.すなわち,せっかく1年生になった者も4年生の終わり頃になると4割もドロップ・アウトしてしまう.このへんが現在の教育開発の水準と質を示す著しい点である.世界銀行は「教育」にもっとも関心をいだく国際機関の一つであるが,昭和55年(1980)のレポート(World Development Report)には,第1図のごとき世界各地域の就学率を出している.一番低いのがサハラ砂漠以南のいわゆるブラック・アフリカ,一番高いのがラテン・アメリカ,二番が東アジア,ついで南アジア,中東および北アフリカの順になっている.小学生男女の就学率の差をみると,南アジアの場合非常に差が大きいことがわかる.中東・北アフリカにもかなりの男女就学率の差がある.これは社会的,宗教的背景にもとづくものである.
第1図 世界地域別就学率(1960―75年).
 ここで開発と教育について,もう一度立ち返って考えてみると,「教育の経済学」に一時ほどの興奮がなくなったということに加えて,「教育」というものが実際には持っていない力までも持っているかのように取り扱ってしまったということ,つまり「教育」に期待を持ちすぎたという面もあるようである.教育と経済水準の比較については,シュルツ教授の流れをくんだ人たちの研究の中に多く見受けられる.たとえばアーノルド・アンダーソン(A.Anderson)は,小学校の就学率によって国民の所得を見るよりも,国民の所得によって小学校の就学率をみた方が確実だ,ときびしい意見をのべている.事実,教育水準は発展の原因ではあるけれども,それと同程度に副産物でもある.あるいは「教育」は必要なものであるが,「発展」にとってけっして十分な条件ではないとも言われている.そのほか教育の普及が,失業者の増大を生むということもありうる.またアフリカの例であるが,「姉さんが学校に行くと今晩の食事は万年筆だ」という笑話がある.ナイジェリアでは,大学を出た者に1,000ドルの月給を与えようとしたが,その人が拒否した.どうして1,000ドルをもらわないか?今まで500ドルであり,500ドルの方がいいのだ,1,000ドルと聞けば親戚が集まってきてむしりとってしまう――そういうような話もある.いずれにしても教育の計画化というのは,ソ連のような国でもうまくはいかない.学生が就職したいと思う期待と,実際の就職との間にギャップが出てきてしまい,たびたび教育計画というものをねり直すことが必要になってくる.それは日本の場合も同様で,明治初年のいろいろな計画とそれから30年たった段階と比べてみると,達成度はあまりよくないのである.

Ⅱ 日本の産業化と教育――とくに実業教育の対応――

(1) 教育への熱意
 日本は今日,世界から経済大国,貿易大国と認められるようになったが,それを導いた基礎に日本の高い教育水準があるということも世界の多くの人々から認められているところである.
 高い教育水準=日本人の教育熱心を示すつぎのような恰好の調査がある.その調査は,子どもが自分の勉強部屋を持っている率を国際的に調査したものであるが[日本青少年研究所『国際児童調査』,昭和54年(1979)],「うさぎ小屋」といわれる日本の住居の場合,子どもの個室確保率は高かろうわけはあるまいと予想された.ところが調査の結果は,意外にも日本の子どもが,一番高かったのである(第2図参照).
第2図 子ども部屋の保有率(%).
 小学生の76%が勉強部屋を確保しているということは,「うさぎ小屋」の中に親のスペースが奪われてほとんどないことを意味する.日本のデータをくわしく見ると,小学4年生では70%強で,6年生になると90%に及んでいる.さらに都会と地方を比べると,都会の狭い住居のほうが地方より確保率が高いことがわかる.日本の子どもはこのように,親の最優先の願望のうちに優遇され,勉強するよう仕向けられている.これは多くの問題をはらむが,現代の日本人の教育熱心を端的に示す事実である.
(2) 日本への関心
 シンガポールのリ・クワン・ユー(Lee Kuan Yew)首相の「日本に学べ」運動についで,昨年[昭和58年(1983)]はマレーシアのマハティール(Mahathir)首相から「ルック・イースト」――日本など東アジアに学ぼう,という対外政策が叫ばれた.日本の経済的達成と,それを支えているものを学びとろうという運動である.また一方,外電の伝えるところによると,英国においても「日本式経営」が進出企業の中で浸透しつつあるようである.日本の経済発展の基盤になった国民の資質は,すでに敗戦後の経済復興と経済成長において注目された.すなわち,工業施設,運輸通信手段などの物的条件の4分の1を喪失したにもかかわらず,日本は西独とともに奇跡の復興を成しとげたが,それには戦前から蓄積された知識,技能などの人的要素があったからであり,その後の成長の鍵も教育資本の高いストックによる,という認識である.このことを明瞭に示すものに,日本の教育に関する外国語文献数がある.タイヒラー(U.Teichler)フォス(F.Voss)共著の文献目録は,戦後に出版された欧米語文献(論文,著書)のほとんどを網羅する優れたものであるが,そこにリストアップされた数は1,000の多きに及んでいる(第3図参照).
第3図 戦後外国人による日本教育文献の推移.
 日本の近代化に果たした教育の役割は,先進諸国の研究者の研究関心を引いたのであり,同時に,「日本の経験」に学ぼうとする発展途上国の人々にも大きな関心の的となろうとしているのである.
(3) 近代化と教育
 欧米の学者の中には,日本の近代化に果たした教育の役割を大きく評価するものが少なくない.その一人のライシャワー(E.O.Reischauer)はつぎのように言っている.「19世紀,日本が科学技術の面で優位を誇る欧米の挑戦に耐え,やがては世界経済でリーダーの一翼を占めるに至ったのも,その高い識字率とすぐれた教育水準のたまものであった.日本社会でなにが中枢であるといい,日本の成功になにが寄与したといって,教育以上のものはない」と(『ザ・ジャパニーズ』,国弘正雄訳).またドーア(R.P.Dore)や,パッシン(H.Passin)は近代的教育制度の素地,土台が徳川時代にできあがっており,その意味で明治以降の近代化は徳川時代の遺産に負うていると主張する.ドーアは西欧以外の諸国で,日本だけが独立を維持し,高度工業国家に脱皮し得た問題を,明治以前の教育の普及と関連づけて見る.彼は江戸時代末期,男子の45%,女子の15%がなんらかの学校(寺子屋,私塾,藩校)に通い,したがってかなりの読み書き能力(識字率)を持っていたと推定する.この数値は19世紀の中葉,当時の先進諸国に比べてさして見劣りのするものではない(日本の男子はイタリアの男子やフランスの女子なみ).寺子屋教育の普及は,維新後近代社会の発達に貢献し,新しい西欧文明を吸収する意欲を生み,一方,寺子屋の教師や建物の存在自体が新しい学校制度の発足を容易にさせるものであった.こうして明治維新後5年目の明治5年(1872),フランスの制度を手本に「学制」が敷かれた.
(4) 経済成長と教育
 教育は個人の人間形成を図るとともに,社会,経済の発展に寄与するものである.第4図は,日本において経済の成長と教育の発展力が,鮮かな並行をもって推移したことを示している.明治20年(1887)前後には就学率が落ち込む時期があったが,今世紀の初頭には,90%近い児童が6年間の義務教育に通うようになった(第5図参照).また,学校に行かないものが減るにつれ,文盲者の数も減少していった(第6図参照).
第4図 経済の成長(鉱工業生産指数)と初等・中等・高等教育機関の在学者数の推移.
 日本の学校制度の拡充は,初等教育から積み上げていくピラミッド型で,高等教育機関としては,当初は東京帝国大学一校であった.東京大学の出身層の分布(第2表参照)に見られるように,庶民層(平民)の進出が目ざましい[明治11年(1878)3対1であった士族と平民の子弟の割合は,5年後には早くも1対1となる].この点,明治期の日本の教育は,世俗的,平等主義的な性格をもっており,大部分の欧米諸国の教育より一歩先んじていたと言える.当時の学校系統図を示すと後掲第8図のようになる[明治33年(1900)].さらに,実業教育の視点から明治期を見ると,実業教育は,産業化の進展を反映しかなりの変化,変貌を示している(第7図参照).
第5図 男女別の義務教育就学率の推移.
第6図 明治以降の不就学と文盲.
第2表 「東京大学」在学者の族籍別出身層の分布
(5) 産業の高度化と教育
 明治の初期においては,農業を主とする第1次産業人口は全体の80%以上を占めていたが,日清戦争[明治27,28年(1894,95)],日露戦争[明治37,38年(1904,05)]にかけて紡績業を中心とする軽工業が成立し,明治40年(1907),義務教育が6年に延長されても,就学率はほぼ完全に近い水準を維持した.中等教育も徐々に拡大し,初等教育から中等教育への進学率4.3%[明治28年(1895)]→15%[大正9年(1920)]→25%[昭和15年(1940)]と上昇した.この進学率の伸びを地域的にみると,工業化の進展とはっきり対応していることがわかる(東京,大阪で大きく伸び,高知,宮崎などで小さい).さらに,高等教育の発達は第1次世界大戦後に至ってようやく活発化したが,それでも高等教育在学者の同年齢人口に占める比率は昭和10年(1935)においても2.5%にすぎなかった.
 高等教育の量的拡大が飛躍的に進行するようになったのは,昭和35年(1960)以後である.昭和45年(1970)になると,大学への進学率は30%を越え,「高学歴社会」が現出した.ここにおいて,大学卒業者のエリート的地位は消失し,管理的,専門的職業からはみ出た多くのものは,いままで中等教育卒業者の占めていた事務的,販売的職業につくようになる.
(6) 戦前の教育の欠陥
 さきに,日本の近代化に果たした教育の役割を高く評価する意見を述べたが,同時に,戦前の教育がもつ限界や欠陥を指摘する意見ももちろんある.すでに明治期に政府が招いた外国人教師たちも,教育内容の前近代性,非科学性を批判しているし,ほかの論者は,日本の教育の複線型制度の中に階級性を見,あるものは,修身教育の超国家主義を批判する.いずれの批判も間違ったものではないが,日本としては,「文明開化」,「殖産興業」,「富国強兵」,「和魂洋才」を旗印に,一刻も早く先進国に追いつくことが必要であり,西欧文明の模倣導入を急ぐあまり,西欧文明の基礎にある合理的,批判的,個人主義的な精神を排除することになったのである.外人教師たちは,日本人学生の熱意や素質の高さは十分認めながら,日本の教育の持つマイナス面は看過できなかったのである.
第7図 明治期における実業教育.
第8図 学校制度の推移.
(7) 現代の教育の問題点
 明治維新以来100余年,日本の学校教育は義務教育を中心とした庶民教育の充実によって,発展してきた(第8図参照).一方,高等教育は前述のごとく,30%を越す高い進学率を見せているが.その質的水準においては多くの問題がある.ことに大学院レベルの水準(量的,質的両面)は,国際比較の点でひどく見劣りがするのである(第5章に詳述).
 しかし初等教育にも少なからぬ問題がある.つぎにみる日本の子どもの姿は,深刻な影を前途に投げかけてはいないだろうか.冒頭の子どもの勉強部屋に関する「国際児童調査」には,日本の親の,子どもに託する教育熱心が如実に示されていたが,同じ調査はまた深刻な結果を示した.すなわち,1)家の手伝いをする率,2)乗物で年寄や体の不自由な人に席をゆずる率,3)学校の廊下や庭のごみをひろう率,の3質問において,日本の子どもはいずれも最低であった.つまり日本の子どもは,自分の勉強部屋を占有しながら,他人のためにすることがほとんどないのである.エゴイズムの端的な現われである.「高度学歴」の風土が生んだ歪んだ現象――子どもは放課後,戸外で遊ぶこともなく塾へ走り込む.中学生で進学の可能性からはずれたものは,非行や暴力に奔る.親にも子どもにも,今や新しい価値観が切望されているのである.
[豊田俊雄]