実業教育

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わが国産業化と実業教育

論文タイトル: 第3章:事例研究:C 安城農林学校ー創立と地域産業への貢献ー
著者名: 山下 英一
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第3章:事例研究:C 安城農林学校ー創立と地域産業への貢献ー

C 安城農林学校
―創立と地域産業への貢献―

序論

 本稿は明治34年(1901)創立の愛知県立安城農林学校の開設の事情を述べ,同校初期の教育と地域社会の発展への貢献について概説したものである.学校内部の記述に止まることなく,不十分ではあるが,時代と地域の状況を背景として素描することを狙いとした.校名も当初は県内唯一の農業学校であるため愛知県農林学校と称されたが,本稿では安城農林または本校と略称する.また,現在の安城市は旧安城村に明治39年(1906),町制が施行され,次々に周辺の村々を合併して拡大したが,本稿で扱う期間は旧碧海郡に含まれ,その碧海郡は現在の岡崎市・刈谷市・碧南市・西尾市・知立市・高浜市・豊田市の一部または全部を含む広大な地域であった.従って,本稿で安城という場合は現在の安城市とその周辺の農村地帯を包含するものと解されたい.ちなみに,旧碧海郡は前述の各市に分割され,今日は完全に消滅している.
 ところで,明治20年(1887)頃から同40年(1907)頃までは日本の産業革命が急速に進行する時期であり,政府の殖産興業政策は工業の育成と,その前提となる貨幣制度・交通通信施設の発達を目ざしていた.殊に,本校創立の時期は日清・日露両戦争の丁度中間にあたり,富国強兵政策の強化,商品経済の農村への浸透等により,農民の窮乏化が進み,急激な社会経済的な変化に対応できない状況を呈していた.とりわけ,土着性の強い農業に対し,近代的な教育原理を翼として農業学校が離陸し得るかどうかは,わが国の実業教育にとっても大きな課題であったと言うことができるであろう.

Ⅰ 安城の風土

(1)安城市の位置
 愛知県のほぼ中央,西三河平野の中心にあり,現在の市役所地点において,東経137°4’41”,北緯34°59’8”である.江戸時代からの城下町である岡崎,刈谷,西尾の三市を頂点として三角形の重心をなす位置に明治半ば以後,急速に市街化が進み,周辺の原野が開拓されたところである.
第1図 愛知県内における安城市の位置.
(2)地形
 安城一帯は碧海台地と称される洪積台地で,俗に「安城ヶ原」と呼ばれる,小松原の点在する荒蕪地であった.この台地周縁部および台地内の開析谷に沿い,古くから発達した集落もあったが,安城ヶ原の主部,すなわち,現在の市街部一帯は開発が遅れ,明治用水の開削と東海道本線安城駅の設置により,この広大な空白地帯が碧海台地の中心として脚光を浴びることになったのである.
 台地といってもこの一帯は平野の印象を人に与えるであろう.それは矢作川および境川の土砂堆積作用により形成され,洪積世に堆積された平地が沖積世に隆起したため,愛知県東部の豊川流域,西部の木曾川流域に比し5メートルほど高くなっている.そのため,台地上の灌漑の便わるく,初代校長山崎延吉が赴任した頃でも,安城から現在の豊田市へ向かう間は「はげ山の丘陵ばかりで,畑地へ灌漑するためのハネツルベの竿が見渡すかぎり林立していて,まるで舟着場のような感じだった」1)という。
第2図 碧海台地の土性図.
(3)土壌
 碧海台地の一般的な土壌は赤褐色あるいは灰褐色の壌土や埴壌土である.しかし,一部の台地上の凹地には「黒ボク」と呼ばれる生産性の低い黒色の腐植質の土壌が見られる.これは凹地の地下水位が高く,湿潤地となっているために形成されたもので,この凹地が溜池に利用され,明治用水開削以前の重要な灌漑用水であり,古い集落もここに立地できた.明治20年代に作られた地図を見れば,台地上のあちこちに大小無数の溜池があったことが判る.また,安城を中心とする碧海台地の中央部は埴壌土がすぐれているため,台地とはいえ,水田の保水性が高く,用水の開削には極めて有利であった.
(4)気温と降水量
 当時の記録がないため,昭和26年(1951)から同42年(1967)の間の安城市の平均気温,降水量を示し参考にする.
第1表 平均気温
第2表 平均最高気温
第3表 平均最低気温
第4表 降水量
 霜・雪も害をもたらすほどのこともなく,平均降雪期間は66日に過ぎず,積雪は極めて稀で,全般的に温暖な表日本の平均点な気候の土地ということができる.

Ⅱ 安城発展の三大要因

 明治期の半ば以後安城を中心とした碧海郡が急速に発展した要因として,(1)明治用水の完成,(2)国鉄安城駅の設置,(3)農林学校の創設の三つが考えられる.水は碧海台地をうるおし,農業発展に必須の灌漑としてこの地方の様相を一変させ,鉄道は貨物・人員の輸送により安城を全国各地と結び,学校は農業のみならず,地域の進展のため各方面で活躍する人材を作り,農業知識・技術を普及した点においてである.農林学校は本稿の主題であるから,節を改めて詳細に記すから,前二者について略述しておく.
(1)明治用水の完成
 安積疏水(福島県),那須疏水(栃木県)と共に日本の三大疏水に数えられる明治用水が完成したのは明治13年(1880)である.しかし,その計画は文政5年(1822)頃の碧海郡和泉村の酒造家・大富豪・代官であった都築弥厚[やこう]に始まる.弥厚は碧海台地の水利の不便,常習的干害による農民の貧困を救済するため,矢作川上流から導水し,水田の拡大を計画した.しかし,先覚者の遠大な構想を理解できず,目先の利害に捉われた農民たちの激しい抵抗に遭う.夜間ひそかに測量をしたり,様々な苦心を重ねながらも5年余りの歳月を要して測量を終え,幕府に願書を提出したのは文政10年(1827)のことだった.この企画は空しくも彼に莫大な財産と田地を失わせただけで,弥厚は69歳で亡くなった.借金は当時の金で2万5千両,現在なら10億円と伝えられている.
 だが,この計画は50年後よみがえる.明治6年(1873),岡本兵松,伊与田八郎が弥厚の遺志を継ぎ,愛知県に届け出をして明治12年(1879)1月工事に着工,突貫工事が進められ,同13年(1880)には通水,本流以外にいくつかの水路が次々に開削された.この事業は民間資金を利用して進められ,民間人の積極性,努力による点で意義が大である.碧海台地の開墾が促進され,かつての不毛の台地が後述するように「日本のデンマーク」とも称される農業の先進地域へと飛躍するのは,単に用水の恩恵だけでなく,その根底に地域民の開拓精神があったからである.
 なお,明治用水の完成により,明治9年(1876)から大正9年(1920)までの44年間に,変換田3,170.6町,開墾田3,015.8町が増加し,第5表のとおり,田の面積は用水開設前の3.7倍に達している.
第5表 明治用水による灌漑面積の増加
 (2) 国鉄安城駅の設置
 明治22年(1889)7月1日,新橋・神戸間の東海道線が全通する.当時汽車[おかじようき]は陸蒸気とも呼ばれ,三河地区の旧東海道の宿場町,城下町は鉄道が町の近くを通ることに反対した.その理由は煤煙や騒音の故とも,また,列車が客を運び去って,宿屋,商店がさびれることを恐れたためとも言われる.安城の場合,岡崎が市街の中心から4キロも南に離れた羽根村に駅を設置したため,刈谷までの間に1駅設ける必要があったことが幸いした.
 保守的な古い宿場町と異なり,安城村と箕輪(みのわ)村の間の激しい誘致合戦の末,明治23年(1890)2月,明治新田地内に停車場設置が決定,翌24年(1891)6月12日開業した.安城農林創立に先立つこと10年である.当時の陸地測量部の地図を見ると,安城駅周辺の集落は至って小さく,榎前(えのきまえ),和泉,桜井などの集落の方がはるかに大きい.一説には駅前にあった家は僅かに6,7軒であったと言う.
 やがて駅を中心として徐々に集落が形成され,12年後の明治36年(1903)には,駅南側に83戸,415人,北側に32戸,160人の集落ができている2).駅設置の翌年(明治25年(1892))の乗降客は年間5,149人で,1日平均15人足らずの寒村であったが,年をおって交通網も発達した.参考までに同駅の年間乗降客,扱貨物数量を約5年間隔で挙げてみよう(第6表).
第6表 各年次別安城駅乗客人員・扱荷物数量
 昭和に入って伸びがないどころか減少の傾向さえ見られるのは,農村の不況のためというよりは他の交通機関の発達――たとえば,大正12年(1923)に愛知電鉄の今村駅(現名古屋電気鉄道新安城駅)設置等――によるものであろう.
 いずれにせよ,交通量の増大は明治末から大正期を通じての地域の飛躍的発展をうかがわせる数字である.運送の便利化は各種の人造肥料を低廉な価格で供給し,運搬日数の短縮は,従来,販路の限られていた蔬菜類,果実類等の販路拡大につながり,一方,農家に対しては農事改良を勧める契機になった.また,駅を中心とする市街化が進んだだけでなく,四方八方へ道路が開通し,明治43年(1910)には警察署が,大正3年(1914)には郡役所が知立から移転し,安城が名実ともに碧海郡の中心となったのも安城駅設置の結果である.
 (3) 農林学校の創設(以下節を改めて詳述する)

 Ⅲ 農淋学校創立前後の農業教育の状況

 (1) 明治前期の農業教育
 明治新政府の殖産興業政策の重点は初等教育と高等教育に置かれたため,中等程度の農業教育に関しては明治期半ばまではあまり見るべきものがないと言える.すなわち,駒場農学校,札幌農学校等は最高の学術研究,指導者養成機関としての成果を挙げ,やがて帝国大学農学部へと発展する.
 明治初頭,内務省あるいは農商務省の管轄下にあった農業教育を文部省が制度化した最初のものは明治16年(1883)公布の「農学校通則」である.この通則では農学校を第一種(郡立),第二種(府県立)に分かち,第一種農学校は「主トシテ躬ラ善ク農業ヲ操ルヘキ者ヲ養成スル」ことを目的とし,修業年限は2年,実習を主とし,時により1年以内の延長を認めた.年間授業日数は32週以上,各週授業時間は,講義12時間,実習30時間が基準とされた.入学資格は満15歳以上の小学校高等科卒業または読書・算術についてそれと同等以上の学力を有する者とした.第二種農学校は学理と実習を並び授けるものとし,「主トシテ善ク農業ヲ処理スヘキ者ヲ養成スル」ことを目的とした.修業年限は3カ年,1年以内の延長を認め,授業は講義と実習をそれぞれ週18時間行うのが基準であった.入学資格もやや高く,満16歳以上の初等中学卒業者または和漢文・算術幾何・地理・物理の学力がこれと同等以上の者とされた.
 しかし,この通則は明治19年(1886)突然廃止される.普通教育重視のためとも,農村の窮乏による志願者の不足がその理由であるとも言われている.その間わずか3年のことであるから,全国的に見てもそれほどの学校数に達していなかったと想像される.
 (2) 井上毅の実業教育振興策
 井上毅が第二次伊藤内閣の文部大臣に就任したのは明治26年(1893)3月7日であるが,それから1年半足らずの短い在任期間中に次々と学制改革の政策を打ち出していった.彼はそれ以前から「大日本帝国憲法」,「教育ニ関スル勅語」の起草にも関与し,能吏の誉れ高い才人であった.彼は欧米諸国から学んだ知識をもとに,教育を通じてわが国の近代化を強力に推進しようという雄大な構想を持っていた.彼の教育政策は実業教育のみならず,今日の日本の教育制度すべての基礎になったと称しても過言ではあるまい.しかしここでは実業教育に限定し,彼の在任期間中に成文化された法令のみかかげよう.
 実業補習学校規程 明治26.11.20
 実業教育費国庫補助法 明治27.6.12
 工業教員養成規程 明治27.6.14
 簡易農学校規程 明治27.7.25
 徒弟学校規程 明治27.7.25
 これらの法令が施行された結果,各種の実業学校が急増する.殊に,実業補習学校は実業教育費国庫補助法の適用による補助金を交付されたので急速に発展した.中でも農業に開する実業補習学校の増加は著しく,全体の80%を越す盛況であった.第7表は明治期の農業補習学校の年次別概況を示すものである.
第7表 農業補習学校年次別概況(明治期)
 しかし,実業補習学校や徒弟学校は明治35年(1902)頃までは,修業年限,授業の時期,時間数,施設設備,教科内容,授業形態等すべてにわたり明確な基準がなく,小学校教育の補習的性格が強く,また,設置者の自由裁量に任される面が多かったので,低度実業教育であったにせよ,その振興に十分寄与したとは言えないようである.
 なお,当時の愛知県における産業別実業補習学校の数は第8表のとおりであるが,ここでも農業に関するものが断然多いことが判るであろう.また,同県の実業補習学校の修業年限がいかにまちまちであったかは第9表を参照されたい.
第8表 愛知県における産業別実業補習学校数
第9表 愛知県における修業年月別実業補習学校数
(3) 実業教育費国庫補助法
 全文9条からなるこの法律の成立過程については内田糺著『明治期学制改革の研究――井上毅文相期を中心として』(中央公論事業出版発行)に詳しい.井上の案は法制局で修正され,両院で可決された後,明治27年(1894)6月12日,法律第21号として公布された.
 実業教育費国庫補助法
 第1条 実業教育ヲ奨励スル為ニ国庫ハ毎年度15万円ヲ支出シテ其ノ費用ヲ補助スヘシ
 第2条 公立ノ工業農業商業学校,徒弟学校及実業補習学校ニシテ実業ノ教育ニ効益アリト認ムルトキハ文部大臣ハ其ノ学校ニ補助金ヲ交付スヘシ
 (以下略)
 第3条 各学校ニ交付スル補助金ハ其ノ設立者ノ負担額ト同額以内ニ限ル
 第4条 補助ヲ受クヘキ学校ハ文部大臣ノ認可シタル学則ニ依リ及同大臣ノ定ムル必要ノ条件ヲ充タスモノニ限ル
 第5条 此ノ法律ニ依リ補助ヲ受クル学校ノ設立者ハ補助年期間其ノ学校経費ヲ継続支出スルノ義務アルモノトス
 第6条 各学校ニ補助金ヲ交付スルハ五箇年ヲ以テ一期トス(以下略)
 ところで,井上が強力に推進しようとしたのは工業教育の振興であった.明治中期,産業革命の進む中で,日本の近代化を目ざし,憂国の情熱い彼は,当初国庫補助を工業に関する学校に限る意図を持っていたが,実際は上記のごとく農業,商業をも含むものとなったのである.
 (4) 実業学校令と農業学校規程
 明治初頭の農業界では江戸時代以来の農法を継承する老農(経験豊富な篤農家)の活躍する,いわゆる老農時代があったが,明治中期にはなお中等教育の面においては人文学科が尊重され,実業教育は軽視されていた.特に公教育制度上における農業教育は低迷を続けていたと言うことができる.その裏には農家地主の寄生化が進む中で農民の生活が圧迫されたこと,また一方,欧米流の農学に対する農民の不信感が働いていたのだろう.また実業補習学校が余りにも多種多様であったので,これらを統一して中等程度の職業教育の充実を図ることが必要となった.こうして制定されたのが「実業学校令」とそれに続く「農業学校規程」である.
 「実業学校令」は明治32年(1899)2月7日,勅令第29号により公布され,その第8条および第13条に基づいて,「農業学校規程」が同月25日,文部省令第9号として公布3)された.
 実業学校令
 第1条 実業学校ハ工業農業商業等ノ実業ニ従事スル者ニ須要ナル教育ヲ為スヲ以テ目的トス
 第2条 実業学校ノ種類ハ工業学校農業学校商業学校商船学校及実業補習学校トス
 第3条 北海道及府県ニ於テハ実業学校ヲ設置スルコトヲ得
 (以下中略)
 第8条 実業学校ノ学科及其ノ程度ニ関スル規則ハ文部大臣之ヲ定ム
 (中略)
 第13条 実業学校ノ編制及設備ニ関スル規則ハ文部大臣之ヲ定ム
 第14条 実業学校ニ於テハ授業料ヲ徴収スルコトヲ得
 (以下略,全文19条よりなる)
 さて,農業学校規程については次のような制定の経過が伝えられている4).明治31年(1898)10月,各界の代表者を集めた「高等教育会議」において,中学校令改正案,高等女学校令案,実業学校令案に続いてこの規程が審議されたが,この会議には公私立実業学校の代表者は1人も参加していなかった.そこで会議につづいて公私立農業学校長協議会が開催され,文部省の諮問に答申する形で教育現場の意見が求められた.諮問は10項目から成るが,当時の農業振興対策と社会的背景もある程度うかがわれるのでその要点を記そう.
 ○ 文部省の諮問案
  ① 農業学校の入学資格,修業年限,各学科目,毎週授業時数について
  ② 農業学校設置の最適場所はどこか
  ③ 農業教育普及のため地方自治体はどのような学校を設置すべきか
  ④ 省略
  ⑤ 農業学校の志願者が少ない理由は何か.また,どうしたら入学を奨励することができるか
  ⑥ 中等程度の農業学校の教育方針はどのようにしたらよいか
  ⑦ 入学者の資格に資産上の制限を必要とするか
 その他,寄宿舎の必要性を問い,最後に「農業学校で修身科を課するにはどうしたら最もよくその目的を達成できるか」を諮問している.
 答申は⑤に対して原因を五つ挙げている.
  1.主務官庁ニ於テ農業教育ニ関スル奨励全カラサルコト
  2.生徒養成ノ方法宜シキヲ得サリシコト
  3.一般農業教育ノ必要ヲ感セサルコト
  4.農業ヲ賤視スル弊風アルコト
  5.上級学校ニ入ルノ聯絡ノ途ヲ欠クコト
 入学奨励の方法としては,
  1.主務官庁ニ於テ農業教育ニ対シ一層周到ノ奨励ヲ加フルコト
  2.農業地方ノ小学校児童ニ農業ノ志操ヲ注入スルコト
  3.生徒養成ノ方法ヲ確立スルコト
  4.卒業生利用ノ途ヲ開クコト
  5.土地ノ状況ニヨリ生徒ノ学資ヲ補助スルコト
 諮問⑦に対しては,資産的制限は必要ないと答申している.最後の修身科の問題であるが,これに対しては「修身科ヲ課スル良法ハ教育勅語ノ趣旨ヲ奉体シ古今農事ノ亀鑑トスヘキ人物ノ性行経歴等ニツキ講話スルコト」としている.これは修身科を農民道徳,農民精神の涵養上重要な学科と考えていたことを示すものであるが,徳育重視は農業のみならず,わが国実業教育全体を通じて流れる思想である.
 たとえば,井上毅は明治27年(1894)徒弟学校規程公布の直前,東京工業学校卒業式における講演で「実業教育ハ殊ニ徳育ヲ以テ本トスヘシ」5)としてその理由を述べている.また,東京帝国大学で医学を講じたベルツも,「教育ニ関スル意見」6)の中で,教育の目的の第1に「徳性ノ養成」を挙げ,第2に「実用教育」を挙げている.
 (5) 甲種農業学校と乙種農業学校
 農業学校規程は農業学校を甲乙二種に分けているが,これは明治16年(1883)の「農学校通則」の第一種と第二種の別に類似している.その相違を示すと第10表のようになる.
 その他,農業学校には簡易な農業教育を行う別科や,甲種農業学校には規定年齢に達しない者のための予科,卒業生のための専攻科等をおくことができた.これは年齢能力,進路等の異なる生徒を幅広く農業学校へ吸収しようとした意図の現われである.
第10表 農業学校甲種・乙種の比較
 (6) 当時の愛知県下の農業教育
 本県でも実業補習学校の振興には力を注いでいたが,草創期の中等教育機関としての性格が薄れ,次第に小学校の継続機関としての役割に転じてゆきつつあった.
 他の農業学校としては,明治32年(1899)知多郡農事講習所が農学校に改組され,「知多郡簡易農学校」として同年4月に開校し,5月には実業教育費国庫補助法により年額800円の補助金を受けた.しかし,この学校は明治34年(1901)に14名,同35年に23名の卒業生を出すが,その年以来志願者がないため休校となり,国庫補助も打ち切られその後地域の要望で乙種農業学校として再興したのは明治37年(1904),知多郡立農学校としてであった.
 そもそも簡易農学校は明治27年(1894)から設置をみるものであるが,明治31年(1898)には全国で公立27校,私立5校を数えた.しかし,実業学校令および農業学校規程の制定により,この制度は僅か5年で廃止された.なお,愛知県の場合,明治末で甲種農業学校が2校,乙種が3校設立されていた.

Ⅳ 愛知県立農林学校の創設

 前節までで明治中期までの学校制度としての農業教育の概略と本校のよって立つ法規等について述べたが,ここでは愛知県における農林学校創設の事情について若干触れておこう.
 (1) 県議会への農林学校設置建議
 明治32年(1899)12月25日,県議会において加藤喜右衛門議員が本県に工業学校と農林学校の2校設置を要望する建議案を提出して,その理由を述べ全員の賛成を求めたことが正式な手続きの始めであった.県知事沖守固宛の建議案は下記の文面である.
 工業学校及農林学校設置に関する建議7)
 我愛知県は高等普通教育を為すの設備として既に四個の尋常中学を設立するに至れりと雖も,現時の状況を察するに未だ之を以て普く修学志望者を収容し,之れが教育を受けしむること能はざるべし.是れ教育の進歩に伴ふ現象なりとするも一は他に専門の学科を修むるの設備なきに由れり.惟ふに社会の進運に伴ひ簡易なる専門の実業学校を設置し,以て工業及農林の学を修めしむるは最も必要なりとす.蓋し我県下に於ても若し幸に是等学校の設けあれば,立どころに入学者を以て校舎を充填せん.果して然らば一面に於ては中学校と相侯て一般就学者を収容するの途を開き,一面に於ては速成の専門修学者を出し以て大に県民の福祉を増進するに至るべし.故に知事閣下は中学と略ぼ同等学科程度なる工業学校及農林学校を設置する目的を以て審に之を調査し,其結果に由りて来る明治34年度予算に編入し以て明治33年の通常県会へ右学校設立に関する議案を提出せられ度.
 府県制第44条に依り本会の決議を以て意見書及呈出候也.
 明治32年12月25日 愛知県会議長
 この建議は満場一致をもって可決され,時の県会副議長石田養助が本県下に中学校と同等学校程度の上記2校を設立する意見を知事に呈し,これが採納された.翌明治33年(1900)12月の通常県会において建築予算案が可決され,認可を待つばかりとなった.
 (2) 安城村の対応
 明治30年(1897)前後,政府は日清戦争による国土の疲弊を回復するため,また一方,産業発展を促進するため,「教育による復興」を目ざしていた.各県の中心的な実業学校でこの頃設立されたものが多いのはこの理由による。
 県下に農林学校を設置することが決定すると,その場所をめぐって競争が始まった.安城の他にも,穀倉地帯の海部[あま]郡,養蚕地域の尾張北部,あるいは三河部では豊橋,岡崎など誘致運動を展開したところもあったが,結局土地を提供することを約した安城の強引さが効を奏したといえる.学校誘致には地元における用地確保が鍵を握ることでは現在も余り変わっていないようである.当時の安城村選出の県会議員岡田菊次郎は山口村長にも相談せずに村への誘致をはかり,県の条件とする敷地8ヘクタールと盛土3万立方米,教員住宅9戸,通学道路の改修費一切を県に寄付することを独断で決め,県側の約束をとりつけた.一小村安城にとっては大変な負担で,村長初め村民はただ唖然としたという.
 しかし,寄付だけで立地が選定された訳ではない.このことについて『明治用水百年史』8)は客観的条件として,① 明治用水によってすでに水田7,000ヘクタールが開かれ,郡民は新しい農村を創る新興の意気に燃え明るい展望があったこと,② 農商務省の国立農事試験場東海支場があったこと,③ 国鉄安城駅が開設されて,農作物を中心に東海道有数の貨物取扱量があったことなどを挙げている.その他,岡田県議以外にも県会議長内藤魯一[ろいち],碧海郡長高坂景顕[かげあき],県農会副会長古橋源六郎義真[よしざね]等が安城村を支持し,特に県立農林学校設置を最初に提案したのが県農会であって,古橋の説得力によること大なるものがあったとされる.
 こうして,明治34年(1901)8月28日付で文部省の認可が下り,翌29日の官報に「文部省告示第167号」として次の記事がのせられた.
 愛知県碧海郡安城村ニ農業学校規程甲種程度ニ依リ県立農林学校ヲ設置ノ件認可セリ
 明治34年8月29日 文部大臣理学博士 菊地大麓
 (3) 開 校
 明治34年(1901)10月11日,弱冠29歳の気鋭の士山崎延吉を校長として,ここに本校は輝かしいあけぼのを迎えたのである.山崎はすでに8月14日付で愛知県技師として着任し,教職員の採用,生徒募集その他の地元との折衝等,精力的に開校の準備を進めていた.校舎はまだ建築されず,当初は碧海郡農会事務所を仮校舎とし,寄宿舎は駅に近い東本願寺派の説教場前堂を利用,その前庭を運動場とした.入学者は農科1年50名,林科1年16名,予科45名であった.第1回および第2回生は9月入学7月卒業の措置をとったが,明治35年(1902)9月26日学則を改正し,学年を4月から始めることとした.従って,本校の教育が軌道に乗るのは,明治36年(1903)12月,講堂を除く校舎全部が竣工する時を待たねばならなかった.この間の事情は安城農林発行の『あけぼの記』(昭和37年12月20日),『愛知県立農林学校第一次年報』(明治36年3月)および『創業録』(明治44年10月10日)に詳しい.また,山崎校長は本校の創業のみならず,後年農民教育において空前絶後とも言うべき活躍をする偉大な指導者であるから,その人物と業績については特に1節設けることにして,次に創立当時の学校の概況を示す.

 Ⅴ 本校の学制と教育方針について

 (1) 学 則(原文縦書)
 第1章 本校ノ目的
 第1条 本校ハ甲種農業学校ノ程度ニ依リ将来農業林業ニ従事スヘキ者ニ須要ナル教育ヲ為スヲ以テ目的トス
 第2条 本校ニ予科及本科ヲ置ク
 第3条 本科ヲ左ノ二科ニ別ツ
 農 科 林 科
 別科トシテ養蚕科及獣医科ヲ置クコトアルベシ
 第2章 修業年限及授業日数
 第4条 修業年限ハ予科1箇年本科3箇年トス
 第5条 授業日数ハ1箇年凡40週間トシ毎週教授時数ハ凡30時トシ本科ニ在リテハ此外ニ実習ニ要スル時数ヲ加フ
 第3章 教科課程
 第6条 予科ノ教科目ハ修身国語英語算術地理及歴史理科図画体操トス其課程並配当ハ甲号表ニ依ル
 第7条 本科ノ教科目ハ左ノ如シ
 農科ニ在リテハ修身国語数学物理化学博物英語体操経済及法規土壌及肥料作物農産製造畜産養蚕林学大意獣医学大意並実習トス
 林科ニ在リテハ修身国語数学物理化学博物英語体操経済及法規造林森林保護森林利用森林数学森林測量林学通論森林経理農学大意並実習トス
 第8条 各教科目ノ課程並配当ハ乙号及丙号表ニ依ル
 第4章 学年学期及休業日
 第9条 学年ハ4月1日ニ始マリ翌年3月31日ニ終ル
 第10条 学年ヲ分チテ左ノ3学期トス
 第1学期 自4月1日・至8月31日
 第2学期 自9月1日・至12月31日
 第3学期 自翌年1月1日・至翌年3月31日
 但シ林科ノ第3学期ニ限リ実習ノ為30日以内ノ延期ヲナスコトアルベシ
 第11条 休業日左ノ如シ
 日曜日 祝日 大祭日
 夏 季 自7月21日・至8月31日
 冬 季 自12月21日・至翌年1月15日
 学年末 自3月25日・至3月31日
 但シ本科ニ於テハ7月21日ヨリ8月31日マテハ実習ノミヲ課ス
 第5章 入学及退学
 第12条 生徒募集ハ毎学年ノ始トス但シ臨時補欠募集ヲ為スコトアルベシ募集ノ生徒数並期日等ハ予メ告示ス
 第13条 予科ニ入学ヲ志願スル者ハ身体健全年齢13年以上ノ男子ニシテ高等小学校第3学年ノ課程ヲ卒リタル者若ハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者タルベシ
 第14条 予科入学志願者ノ学力ノ検定ハ高等小学校第3学年ノ課程ヲ卒リタル者ニ対シテハ其修業証書若ハ卒業証書ニ依リ其ノ他ノ者ニ対シテハ試験ニ依ル
 高等小学校第3学年ノ課程ヲ卒リタル志願者ノ数募集人員ニ超過スルトキハ仍試験ニ依リテ入学者ヲ選抜ス
 第15条 予科ノ入学試験ハ高等小学校第3学年ノ課程ヲ卒リタル志願者ニ対シテハ国語算術理科ニ就キ其ノ他ノ志願者ニ対シテハ尚地理日本歴史ヲ加ヘ高等小学校第3学年ノ程度ニ依リ之ヲ行フ
 第16条 予科ヲ卒業シタル者ノ外直ニ本科第1年級ニ入学ヲ許可スベキ者ハ年齢14年以上ノ男子ニシテ修業年限4箇年ノ高等小学校ヲ卒業シタル
者又ハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者ヲ試験ニ依リ選抜ス
 第17条 前条入学志願者ノ学力検定ハ予科ノ学科目及其ノ程度ニ依ル但シ他ノ甲種農業学校ニ在学シタル者ニシテ該学校長ノ優等証明書ヲ有スル者ハ其ノ学科目ヲ省クコトアルベシ
 本科第2年級以上ニハ他ノ甲種農業学校ヨリ転学スル者ノ外入学ヲ許サス
 第18条~第20条(省略)
 第21条 生徒ハ自費ヲ以テ本校制定ノ帽被服ヲ調製着用スベシ但シ新ニ入学シタル生徒ハ入学ノ日ヨリ2箇月以内本文ニ依ラサルコトヲ得
 第22条 病気又ハ止ムヲ得サル事故アリテ遅刻若クハ欠席スルトキハ其事由ヲ記シ若シ病気ニテ欠席1週間以上ニ渉ルトキハ尚医師ノ診断書ヲ添ヘ其ノ旨ヲ学校長ニ届出ツベシ
 第23条 学校長ハ左ノ各号ノ一ニ該当スル者ニハ退学ヲ命スヘシ
  1 性行不良ニシテ改善ノ見込ナシト認メタル者
  2 学力劣等ニシテ成業ノ見込ナシト認メタル者
  3 引続キ1箇年以上欠席シタル者
  4 正当ノ事由ナク引続キ1箇月以上欠席シタル者
 第24条 止ムヲ得サル事故ニ依リ退学セント欲スル者ハ保証人連署(病気ノ時ハ医師ノ診断書ヲ添フヘシ)ノ上願出ツベシ
 第6章 授 業 料
 第25条 授業料ハ一人ニ付1箇月本科金1円予科金50銭トス
 第26条 授業料ハ毎月10日迄ニ納ムヘシ但シ9月1月ノ両月ハ20日迄トス
 第27条 学校ノ休業全月ニ及フトキハ其ノ月ノ授業料ヲ徴収セス
 第28条 授業料ヲ減免スヘキ特別ノ場合アルトキハ学校長其ノ事由ヲ具シ知事ノ認可ヲ受クヘシ
 第7章 試 験
 第29条 試験ハ課程ノ修了若ハ卒業ヲ認定スル為ニ行フモノトス
 第30条 入学試験ハ学科試験ノ外体格検査ト対話トヲ行フ
 第31条 学期成績ハ該学期間ニ履習シタル学科試験ノ評定ヲ以テ之ヲ定ム
 第32条 学年成績ハ該学年間ニ行ヒタル各学期成績ヲ平均シタルモノニ学
年試験評点ヲ加ヘ二分シタル得点ト平素ノ行状トヲ参酌シテ之ヲ定ム但シ卒業ノ際ニハ論文ヲ課シテ参照スルコトアルヘシ
 第33条 本科ノ通約点ハ学科試験平均点ノ二倍ニ実習点ヲ加ヘ之ヲ三除シ得タルモノトス
 第34条 試験ノ評点ハ各学科100点ヲ以テ最高点トシ60点ヲ以テ合格点トス但シ各学科目評点ノ通約点60点以上ニ達スルモ1科目40点未満ノモノアルトキハ此限ニアラズ
 試験ヲ行フニハ採点ノ都合ニヨリ1学科ヲ数学科ニ分チ又図画体操及実習ハ平常点ヲ以テ試験評点ニ代フルコトヲ得
 第35条 再入学ヲ許シタル者ノ退学前ニ受ケタル試験ノ評点ハ其ノ学年相当学期試験評点トシテ充用スルモノトス
 転学ヲ許シタル者ノ前学校ニ於テ受タル試験ノ評点モ亦同シ
 第36条 正当ノ事由アリテ試験ニ欠席シタル者ノ各学年ノ課程ノ修了又ハ全学科ノ卒業ヲ認ムルニハ平素ノ学業ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ムルコトアルヘシ
 第37条 正当ノ事由アリテ学期試験又ハ学年試験ニ欠席シタル者ノ為ニ特ニ追試験ヲ行フコトアルヘシ
 第38条 本校ノ全科課程ヲ卒リタル者ニハ左式ノ卒業証書ヲ授与ス
 (書式省略)
 第8章 褒賞及懲戒
 第39条 操行方正学術優等ナル者ニハ賞状若ハ賞品ヲ授与スルコトアルヘシ
 第40条 本校ノ規定及命令ニ違反スル者ハ其ノ軽重ニ従ヒ懲戒ス
 第41条 懲戒ヲ分チテ戒飾謹慎停学及放校ノ四種トス
 第42条 本校ノ校舎器物等ヲ殿損若ハ亡失シタルトキハ之ヲ弁償セシメ尚其ノ情状ニ依リ懲戒スルコトアルヘシ
 第9章 寄宿舎規程
 第43条 寄宿舎ニ入ラント欲スルモノハ学校長ノ許可ヲ受クヘシ但シ必要ト認ムルトキハ学校長ニ於テ入舎ヲ命スルコトアルヘシ
 第44条 寄宿舎ニ入リタル者ハ寄宿舎費トシテ校長ニ於テ定メタル金額ヲ
自弁スヘシ
 第45条 舎監ハ毎日人員検査ヲ為シ又時々物品検査ヲナスヘシ
 第46条 寄宿生ハ左ノ各項及時々ノ示達命令ヲ遵守スヘシ
 規程外ノ物品ヲ所有スルコトヲ禁ス
 所定ノ時間ノ外漫ニ外出スルコトヲ禁ス
 所定ノ場所ノ外飲食スルコトヲ禁ス
 許可ヲ得スシテ金銭物品ヲ貸借スルコトヲ禁ス
 備付品若ハ貸付ノ物品ハ在室ノ生徒ニ於テ保管ノ責ニ任シ毀損又ハ亡失シタルトキハ之ヲ弁償セシムヘシ
 第10章 付 則(以下2条省略)

第11表
 さて,この「学則」は明治35年(1902)9月,愛知県令第67号により公布されたものであるが,予科および本科の入学資格については当時の初等教育の学制について触れておかねばならない.すなわち,明治19年(1886)の小学校令では尋常小学校,高等小学校ともに修業年限を4カ年としたが,明治33年(1900)の改正で,尋常小学校はそのままであったが,高等小学校を2年,3年,4年の3種とした.このことを考慮に入れて学則第13条から第16条を読まねばならない.
 さらに,明治41年(1908)度から義務教育年限が6年間に改まるとこの学則も当然改正され,予科の入学資格は「高等小学校第1学年ノ課程ヲ卒リタル者……」,本科については「予科ヲ卒業シタル者ノ外……修業年限2箇年ノ高等小学校ヲ卒業シタル者又ハ……」となる.
第12表
 なお,明治39年(1906)4月から「実習科」が設けられ,実務に就いているが多年の歳月と費用をかけることのできない者に短期間で技術を修得させる目的であった.農・林・養蚕の3科に分かれ,農科林科は修業年限2カ年,養蚕科は6ヵ月とされた.その規程は学則の第8章として挿入され,上記学則の全文10章48条が11章55条となった.追加された第8章のみ示し,他の字句の修正,加除は省く.
第13表

 第8章 実 習 科
 第40条 農科及林科課程中ノ専門学科ノミヲ専修シ且之ニ伴フベキ実際上ノ技術ヲ修得セント欲シテ入学ヲ願ヒ出ヅル時ハ各科正科生ニ欠員アル場合ニ限リ毎学年ノ始メニ於テ実習科生トシテ入学ヲ許可ス但養蚕実習科生ハ3月1日ヨリ入学セシム
 第41条 実習科ヲ分チテ農業実習科養蚕実習科及林業実習科トス
農業実習科生ハ養蚕実習科ヲ兼修スルコトヲ得
 第42条 実習科生トシテ入学ヲ許可スベキ者ハ左ノ各号ノ資格ヲ具ヘ且本校ニ於テ適当ト認メタル者ニ限ル
  1.品行善良身体強健ナル者
  2.修業年限2箇年ノ高等小学校ヲ卒業シタル者若ハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル者又ハ多年当該実務ニ従事シタル者
 第43条 実習科生ノ修業年限ハ農業及林業実習科ハ少クトモ2ケ年以上タルベク養蚕実習科ハ3月ヨリ8月迄ヲ1期トス
 第44条 実習科生ハ各自ノ希望ニ依リ試験ヲ行ヒ合格者ニハ修了証書ヲ授与ス
 第45条 実習科生ノ授業料ハ本科生ニ準ス
 第46条 実習科生ニハ特ニ定メタルモノノ外総ベテ本校規則ヲ準用ス
 この学則を基として,その他の学校内規が作成されている.全文を掲げることはできないから,その名称のみ示すと下記のようなものがあった。
 「愛知県立農林学校教務細則」
 「愛知県立農林学校庶務細則」
 「実習規定」
 「農林夫服務規程」
 「文芸部規則」
 「体育部規則」
 これらの規程,諸規則等により,学校の管理体制が整ってゆくが,本校の教育目標はいかなるものであったろうか.創立10周年記念誌『創業録』に載っている「本校の主義」と初代校長山崎延吉の信念を現わす「校訓」にこれを見るととができる.
 (2) 本校の主義
 本校は一般甲種農業学校の程度に依り将来農業又は林業に従事すべき者に須要なる教育を施し,忠良にして真摯なる国民の養成を目的とするが故に,一に品性の陶冶に重きを置き,二に知識技能の啓発熟達を計るを以て本校生徒養成の主義と為す.
 本校は生徒をして3ケ年の本科課程を終へしめて以て本校教育の目的を達したりとはせず,卒業生の成績優秀にして能く一身一家を治め進みては社会に貢献する所あらしめんことを欲し,彼等の前途に活躍の余地を与へ,彼等の手腕をして縦横ならしむべく,彼等の指導誘抜に努め,彼等の活動すべき社会の教育を為すを以て本校教育の目的を達すべき手段とするが故に,唯校内の教育のみに満足せずして校外の教育にも力を致さざる可からずとするは,是れ本校教育の主義なりとす.
 世には此の種の学校卒業生をして直に帰郷して家事に服せしむべしとする者あり.又服せしむるを可とするものあれども,本校は今日の農業社会に鑑みて,其の然るべからざる者なるを信ずるが故に,天稟の材能,克く好成績を挙げ,或は其境遇能く彼等の手腕を発揚するに足るべき者ならば,直に帰郷して家業に従事せしむと雖も,其の然らざる者に在りては,更に活社会の凡百問題に遭遇せしめて刻苦忍耐更に其の力を培ひ,切瑳琢磨以て其智を養はしめ,其の間数多の人物に接せしめて益々其人格の向上に勉め,以て其信用を高めしめ,然る後郷党と伍して実務に就かしむるの有効なるを信ずるが故に本校は卒業生の材能と境遇とを省察して徒に帰郷を速かならしめざるを以て教育の効果を顕著ならしむるを主義と為す.
 かなり廻りくどい文であるが,要するに,教育は学校だけで終るものでなく,社会にまで拡大すべきであり,卒業後の実生活でも知識技能の向上,人格の修練に力を尽すべきであるとしている.
 (3) 校訓
 明治36年(1903)12月,本校舎落成の頃,生徒の生活の指針となり,簡明直截で暗誦服膺できる条項を作成することになった.職員間では意見が一致せず,結局山崎校長の理想とする次の文言に決定した.生徒心得のようなものであるが,今日も「校訓」となっている.
 一、礼節ヲ正クシ廉恥ヲ重ンジ古武士ノ風ヲ養フ可シ
 一、国家ニ貢献センコトヲ庶幾フ者ハ勤労ヲ以テ身ヲ馴ラス可シ
 一、利ヲ忘ルベカラザルモ尚之ガ為メニ他ノ迷惑ヲ招クコトアル可カラズ
 一、共同一致ガ成効ノ基タルヲ覚知ス可シ要ハ只誠意ニアリ
 この校訓は大きな板に墨書され,本校の玄関に掲げられていたが,第2次大戦後「古武士ノ風ヲ養フ可シ」の部分だけが「信義を尚ぶべし」と改められている.
 なお,この校訓には面白い話がある.本校第21回林科の卒業で後年第十代の校長となった飛田七蔵氏の語るところによれば,ある時この校訓が乃木大将の目にとまった.乃木大将は,これは日本でも珍しい校訓だが,一つだけ気に入らないところがある.それは「利ヲ忘ルベカラザルモ」という句だ,と言われたそうである.それを聞いて山崎校長は「乃木大将が何と言おうと,わしは絶対に変えない」と突っぱねたという.山崎校長の剛直な信念と同時に近代的合理主義の考えがうかがえるエピソードである.
(4) 農業科教員講習科
 前述の本科・予科・実習科以外に,初歩的な農業教育の普及を目的として設置された科である.明治41年(1908)4月制定され,小学校教員免状を有する者ならびに小学校農業科教員を志す者に必要な農業知識を授けるための制度であった.甲種,乙種に分かれ,甲種は講習期間が2週間ないし5週間,乙種は6ヵ月ないし1ヵ年とした.この教員養成制度は大正10年(1921),愛知県実業教員養成所へと発展する.

 Ⅵ 学校の敷地・施設・設備等

 (1) 敷地・建物
 創立10年後当時の学校用地は次の通りである.(坪数を平方メートルに換算)
 総面積 81,543平方メートル
 内訳 本校舎 5,610平方メートル
 運動場 4,950平方メートル
 実習場 47,124平方メートル
 小作地 21,384平方メートル
 本校演習林 142.56ヘクタール(愛知県東加茂郡足助町にある)
 その後大正12年(1923),県下南設楽郡鳳来寺村に用地を獲得し,これを第2演習林とした.その面積は153.02ヘクタールである.
 校舎等平面図(創立当時のもの)(第3図参照)
第3図 創立当時の建物配置図.
 (2) 実習場・演習林
 開校以来学校当局が最も苦慮したのが農業実習場の造成であった.予定された土地は校舎敷地の東に隣接する,東西約240メートル,南北約180メートルの荒地であった.当時はその中に松林や小高い原野,泥沼のような湿田があって,土質も赤白の粘土,真黒な腐土で,碧海郡最下等の土地であった.しかも,ここが実習場になることを伝え聞いた農民たちが耕作も放棄していたため荒れはてたままであった.
 しかし,明治34年(1901)12月から染谷教諭ほか生徒も参加して測量を開始,翌35年(1902)1月より碧海郡老農山本実蔵に人夫監督を依頼,同月8日工事を開始し,悪戦苦闘の末同年4月29日に完成した.この造成工事は全く涙ぐましい物語であって,『あけぼの記』には山崎校長自ら連日脚絆ばきでモッコかつぎに苦役し,職員生徒も午後は実習の名目で参加,疲労困憊の極に達したことが記されている.生徒の労力奉仕は延人員にして1,100人,学期末の休暇もとり止めての突貫工事であった.それに要した費用は,人夫賃,資材費,トロッコ借用料等を含め総額992円17銭9厘となっている.いずれにせよ,学校創業の苦心と明治期の日本人の根性は高く評価されるべきである.
 なお,実習に関しても詳細な規定があり,「実習ハ合理的ニ農林業ニ関スル諸般ノ作業ヲ練習セシメ兼テ労働ニ服スルノ習慣ヲ養ヒ且ツ農林業経営ノ道ヲ知ラシム」ことを目的として行われたが,ここではその第2章第2款の実習課程のみ表示するに留める.
第4図 実習場略図.
 (イ) 農学科実習課程
 実習ヲ分テ農場実習,鑑査実習,養蚕実習,農産製造実習,特別実習ノ
五トシ其配当左ノ如シ(原文縦書)
第14表 農学科実習課程
 (ロ) 林学科実習課程
第15表 林学科実習課程
 明治37年(1904)創設の第1演習林は本校創立にも尽力した北設楽郡稲橋村の豪農,県農会の重鎮古橋源六郎の斡旋により学校林となったものである.しかし,安城からは約60キロの距離があり,しかも交通機関がないため職員生徒はワラジ履きで歩き通して実習に当たったのであった.往復だけで3日を要し,宿泊設備も不完全な条件の中での実習は難難辛苦に充ちたものであったろうが,その苦労は報いられて,今やスギ,ヒノキなど樹齢70年を越す木の茂る美林となっている.

 Ⅶ 学校の実態

 (1) 教 職 員
 本校は残念ながら昭和20年(1945)火災により本館その他が灰燼に帰したため,当時の教職員の出身学歴は殆ど不明である.しかし,前述したように山崎校長自ら東奔西走し,文部省あるいは県当局と交渉して有能の士を集めたことは想像に難くない.
 『創業録』にも「職員の協同と努力」なる一項があって,次のように記している.
 「本校職員は同心克く勤め協力克く励み私心を挟むなく,利己の観念を離れて公務に就くを以て本旨とするが故に創立以来10年未だ自ら他校に転職したる者なく,唯其の力を致すことの足らざるを恐るるが如し.是の犠牲的行動士魂の発揚は本校訓育の源泉にして,本校の特色とする所なり.」
 創立1年半後の教職員一覧を参考までに示すが,一見して判るように,1人で数科目を担当している者がほとんどであり,この特徴は創立10年後も変わっていない(第16表).
 これらの教職員は山崎校長が直接面接して採用したようである.熊谷八十三は教頭として不在がちな校長を補佐し学校運営に努力した.校歌の作詞者で,後東京都立園芸学校長に栄転,更に西園寺家の執事も勤めた.かの有名なワシントンのポトマック河畔のサクラの苗木を作ったのは他ならぬこの人である.
 創立10年後の明治44年(1911)には,校長は修身と経済を自ら教え,教諭15名,助教諭心得3名,嘱託教員3名,助手2名,柔剣道教師2名,書記3名,校医1名の組織になっている.
 大正4年(1915)山形県自治講習所の所長となり,更に同14年(1925)茨城県支部に設立された私立国民高等学校長として満蒙開拓教育の中心となった加藤完治も山崎校長の徳を慕って着任,大正2年(1913)から短時日ではあったが本校教諭であった.
 なお,当時の教員組織の特徴として県外出身者の多いことが目立っている.創立以来10年間に本校に勤務した教職員は70名に達するが,そのうち38名が県外の各地出身である.当時の教員の異動が全国的規模で行われていたことを知ることができる.また,創立以来昭和23年(1948)6月までの50年近い年月,校長は東京帝大の農学部か駒場の農科出身者が就任している.
第16表 創立当時の教職員
 (2) 生徒の出身階層等
 創立当時は県下に公立の旧制中学校は4校しかなく,中等教育がこれから整備されようとしている時代であり,従って一般社会の学校に寄せる期待感も余り強くなかったから,入学する生徒の層はかなり限られていた.明治末から大正期に本校で学んだ人たちの語るところによると,生徒の大部分は地主層の出身で,しかも殆どが長男であったようである.それらの地主自体が田畑あるいは山林を経営し,村での指導者的存在であった.従って,自分たちの後継者にふさわしい学歴を少なくとも長男だけにはっけさせようとしたのであろう.
 明治44年(1911)度の生徒297名の親の職業を第17表に示すが,圧倒的に農業が多い.
第17表 生徒の親の職業(明治44年(1911)度)
 一方,新設の本校の知名度も低く,地域住民の認識も不十分であったため,ある時期は県が進学奨励の一策として村々に2,3人くらいずつ志願者を割り当てたこともあったようである.そのため,村で収入役をやっていた男が入学したり,校長より年長の生徒がいたり,当初は雑多な集団という感じさえあった.この傾向は日露戦争終了頃まで続く.日露戦争直後は,戦功により勲章を持った帰還兵まで入学している.こうしてみると,生徒の年齢のみならず素質も多様であったと考えてよいであろう.
 さて,前述したように,本校の予科あるいは本科への入学は高等小学校1学年終了者か2学年卒業者であった.この学則は大正14年(1925)4月改正され,修業年限が5カ年に延長され,入学資格が尋常小学校(6年)卒業となった.校名も大正11年(1922)すでに「愛知県安城農林学校」と改称されている.
 参考までに,本校創立前後の碧海郡の尋常小学校の就学率と,愛知県全体の高等小学校への進学率ならびにその卒業率を表示する.
第18表 尋常小学校への就学率の推移
第19表 高等小学校への進学率
第20表 高等小学校の卒業率
 第18表は碧海郡の小学校就学率が高かったことを示しているが,県下の高等小学校の状況は第19表に見られるように,進学率は男子の場合明治33年(1900)の40.3%から同39年(1906)の78.5%へと上昇している.しかし,高等小学校へ進学した者のうちで,卒業した者の割合は第20表のとおり明治28年(1895)と同38年(1905)とは殆ど変わっていない.すなわち,高等小学校へ進学しながら中途で退学した者が過半数であったことが判る.これら中退者のうち,本校のような中等学校へ進んだ者は極めて少数であったから,大半は経済的な理由により何らかの職に就いたものと考えられる.
 (3) 生徒の異動等
 では本校の場合,入学,中退,卒業といった生徒の異動状況はどうであったろうか.その実態を第21表に示すが,創立2年目以後の中退者が多いことが目立つ.これを科別で表わすと,明治37年(1904)7月卒業は農科31名,林科6名,明治38年(1905)7月は農科33名,林科16名,明治39年(1906)3月卒業になると,農科20名,林科14名,同40年(1907)が農科34名,林科8名,41年(1908)が農科38名,林科12名,42年(1909)は農科38名,林科9名,43年(1910)は農科38名,林科12名,44年(1911)は増加して農科56名,林科14名となっている.
第21表 志願者・入学者・中退者・卒業生人員対照表
 (4) 生徒の出身地
 愛知県内一円から入学しているが,県外出身者の割合が比較的多い.たとえば,明治38年(1905)4月では予科・本科合せて273名中他府県出身者は23名であったが,大正5年(1916)には実習科まで含めた全校生徒325名中,他府県出身者が91名の多きを数えるにいたっている.また,ある時期には当時の朝鮮,台湾から遊学するものもあり,寄宿舎に200名近くの生徒が入っていた.寄宿舎の生活は山崎校長の方針で,舎監の監督より生徒たちの自治を重んずる気風があったという.
 (5) 教科書・授業・実習等
 ⅰ 教 科 書
 創立当時使用された教科書は第22表のようなものであった.まだ3年生のいない時期のものである.
第22表 使用教科書一覧
 ⅱ 授 業
 本科に入学した生徒の出身小学校の数が多かったため,学力に相当の開きがあり,殊に英語の授業が一番やりにくかったようである.その点予科では1年かけて学力差をある程度調整することができた.
 本科の専門学科は生徒の大多数が農家出身か,山林持ちの子弟であったので,農業,林業に関する科目はかなり理解したが,その基礎となる普通学科,とりわけ物理化学,博物の学習は困難であったようである.教科書に盛られた指導事項が多く,逆に中学校に比べ週当たりの授業時数が少なかったからである.この点でもやはり予科の準備期間はそれなりの効果があったと思われる.
 授業の方針としては,親切に理解しやすく教えることを重んじたが,つめこみの弊害を避け,自発性を奨励するため,次のような方策も実施していた.
 [補欠教授] 教員の欠員または欠席ある時は他教員が必ずこれを補うこととした。その補欠学科は復習または普通学科を課することを常とした.
 [課外講義] 甲種程度の実業学校では普通学科の基礎学力が不足していたので,本校では国語,漢文,数学,英語等の学科を午前7時から8時まで,また昼食後30~40分間課外として教えた.
 [自彊[じきよう]室] 寄宿舎内に一室を設け,学力の劣った者を集め,毎夜各科の教員が出張して1時間ないし2時間生徒と質疑応答をし,学力の向上を図った.
 [生徒出欠と精勤賞] 出席簿は時間単位をもって記入し,月末および学年末に計上して欠席ゼロの者には精勤賞と精勤賞牌とを与え表彰した.
 [見学旅行] 物見遊山でなく前もって見学すべき事項を選び,広い知識を求め実際問題に当たらせた.常に職員も3,4名付添い,その所感を宿題として生徒に書かせた.また時には老農,篤志家を訪ねてその高風に接せしめ,自ら学ぶ所あるを期した.
 [博物採集] 附近の博物を授業後または休日等を利用して採集させ,教科担任が同行して指導,正確な知識を得させることを目的とした.
 [卒業論文] 学科試験だけで卒業させるのは不十分とし,応用の力もつけるため生徒に適宜テーマを選ばせ論文を提出させた.当時としてはかなり高い水準を目ざしていたと言えよう.
 [図書閲覧] 寄宿舎内に娯楽室を設け,ここに和漢洋の図書および主として修養に関する書籍を備えて生徒に読ませ品性の陶冶に資することとした.
 ⅲ 実 習
 農林学校における実習の比重は大である.実習による技術の習得こそ実業学校の最大眼目と称しても過言ではない.
 実習場についてはすでに第4図でその配置を示し,その過程については農科,林科別に第14表および第15表に示してある.細目にわたる「実習規定」は省き,科別にその内容の要点のみ記す.
 ◎ 農 科
 [練習実習] まだ体力もなく,集約作業のできない1年生に,身体の鍛錬,農具使用への熟達を目的として行う.教師が常に付添い監督し,学科との関連に留意した.学校内外の水田,畑,桑園を使い,これを練習農場と称した.作物は大小麦,裸麦,陸稲,大豆,甘藷等の普通作物を主とし,時に蔬菜類も作付した.水田にはレンゲを栽培し,なるべく附近の農家の栽培法に近い方法に依った。
 [試作実習] 各種の農作物の栽培費用をできるだけ少なくしてその収穫を増し,その品質を良好にする研究を目的とした.これを試作農場と称し,担当は2年生.米麦の試験栽培を多くした.
 [模範実習] 一定面積を一農家の土地と仮定して日々の人夫の出入り,その作業の種類まで調査させ,さらにその経済上の収支を明らかにすることを目的とした.農科3年を数組に分け,各組に数区画を分担栽培させ,各組より1人ずつ交代で当番を定め日々の行事を記録させた.また別に各組より1名ずつ週当番を交代制で出し,日々の収支を明細に計算し複式簿記により記帳させるものであった.夏作は水稲,冬作は特用作物および麦を輪栽,畑には夏冬とも蔬菜を主とした.まさに実地向きで,これを模範農場と称した.
 [その他の設備と実習] 栽培学上の分類法に則る見本園,果樹の選択,仕立方を研究する果樹園,各種蔬菜の苗作り,果樹の接木,芽接および挿木の練習をする種苗園もあった.これらの育成物はなるべく一般農家の求めに応じて頒布し,地方の作物改良を助成した.ここにも山崎校長の「学校は社会に開かれるべきである」との主張を裏づけるものがある.その他,茶樹の栽培,耕牛・乳牛・役用の馬・山羊・綿羊・家禽および蜜蜂の飼育も当然学習させている.さらに農家の副業となる各種の製造も設備と経費の許す限り生徒に習得させた.その主たるものは各種の藁細工,澱粉,味噌,醤油の製造,製茶,バター,チーズ,燻製品であるが,これらは3年生に実習科目として課せられた.
 [養蚕実習] 農科2年生に春蚕および夏秋蚕の実習をさせ,農科3年生には蚕体解剖等も課した.また明治39年(1906)度より林科1年生にも養蚕実習をさせた.養蚕飼育においても,明治42年(1909)に輸入した外国産の復製黄繭種は生糸の強伸力等の糸質が在来種よりすぐれていたため,その比較実験を行い,繭質改良の目的で県下の製種家,養蚕家に配布している.
◎ 林 科
 [苗圃実習】 林科1年と2年に課す.6反歩の苗圃を本校敷地内に置き,播種,霜除,日除,施肥,除草,苗木掘取等すべて樹苗育成の技術を習得させる.
 [地拵実習] 1年,2年の生徒に課す.県下東加茂郡の約141町歩の演習林を16年計画により明治38年(1905)より毎年冬季に植栽地の雑木,雑草を刈り整地をする.
 [植樹実習] 2年生に課す.スギ,ヒノキ,カラマツ等の植栽技術を指導,創立以来10年間に53町歩余り,242,088本を植えている.
 [下刈実習] 1年生が夏季休暇中に行う.
 [種子採集実習] 全学年対象.成実期に種実を採集し,調製,貯蔵方法を習得させ,これを見本園に播種し,樹苗は一般需要者ことに小学校,公共圃等の求めに応じて分配した.明治43年(1910)度における分配数は40種,5,600本に達した.
 [測量実習] 林科3年生に課す.平面測量,高低測量を主とし,面積の算出,製図の技能を授けることを目的とした.平常は学校附近,定期的に演習林で行い,時には民間の地積算出の依頼にも応じた.
 [測樹実習] 3年生対象で,民間あるいは官公署の求めに応じたこともあるが,演習林において一樹または全林の材積計算の方法を習得させた.
 [その他の実習] 同じく3年生を対象に,樟脳製造,樹脂油製造,製紙,製炭等の林産物製造の実習と,木材運搬に関する実習が行われた.
 (6) 学校行事,特に興風暦について
 どの学校にもそれぞれ独特の学校行事ができるものであるが,本校の「興風暦」ほど特徴のあるものはないであろう.本校創立15周年を記念した『校報』第40号に「興風暦の起源と其変遷」と題する浦井教諭の記事がある.もともとこれは校風を発揚し,校訓を実践し,もって本校教育の成果を挙げるために作られたものである.明治36年(1903)に制定され,日露戦争後改正されたが,この興風暦は学校が作って生徒に押しつけたものでなく,広く職員生徒に立案を募集し,生徒2名の案が当選,これを学校側が修正して成立した点,まことに興味ある成立過程である.今日から見れば理解に苦しむような字句もあり,その後の本校の長い歴史の経過のうちに消滅してしまったが,当時の学校の姿をほうふつさせる資料であるから全部掲げておく.なお,摘要の部分はその行事が何を記念し,何にちなんで行われたかを示すものである(第23表).
第23表 興 風 暦
 この「興風暦」なる学校行事はずいぶん盛り沢山であるが,この外にも運動会なども加わったであろうし,寄宿舎でも度々茶話会などが催され,相互親睦の機会とされた.また表中で生産品評会とあるのは,実地に的確な知識を授ける目的で,春秋2季に生徒に農業林業に関する生産物を持参させ,これを審査鑑別品評させたものである.明治末になると地方篤志家も出品し,生徒の参考に供してくれるようになった.
 さらに,明治42年(1909)10月には校内に購買組合を創設した.上級生が物品の購入,分配,整理および記帳等の事務を行い,職員が監査をした.これは組合事務に熟達する一助となり,一般生徒に廉価に諸物品を供給することもでき,効果のある制度であった.
 (7) 学校の経費と生徒の学費
 創立当時の年間経費は第24表のとおりであるが,その支出明細は判っていない.
 また,生徒の授業料その他の学費概算を開校当時と15年後のそれを比較したものが第25表である.
第24表 創立後10年間の学校経費
第25表 生徒学費概算表
 この表で見る限り,学費概算合計は15年間に約30%増となっているが,品目によっては倍増しているものがある一方,ほとんど変化していないものもある.諸物価の変動との関連によるものであろう.
 参考までにこれを諸物価の変動と対象してみよう.白米10キロ当たりの小売価格が明治35年(1902)で1円19銭,大正5年(1916)で1円10銭,大工の手間賃が1日で明治36年(1903)が85銭,大正4年(1915)が1円10銭,東京大学の授業料が年額で明治37年(1904)に35円,大正9年(1920)に50円,小学校教員の月給(諸手当を含まぬ基本給)が明治33年(1900)に10円から13円
程度,大正7年(1918)には15円前後となっている.これらを当時の本校の学費と比較してみると,授業料その他は普通以下の農家にとっては相当高額なものと考えられたに違いない.従って,地主その他のある程度の資産家でなければ本校程度の教育もなかなか受けさせられなかったことがうなずける数字である.
 (8) 卒業生の進路
 本稿で扱う明治後半から大正期にかけての卒業生たちはどういう方面に職を求めて進んでいったのであろうか.『創立15周年記念校報』に明治38年(1905)と大正5年(1916)の調査が載っている.これをまとめたのが第26表である.自宅とあるのは農業または林業の自営であるが,大正期にはすでに農林技手や各種学校職員等がひじょうに増加しており,直接実業には就かず,指導者層としてサラリーマン化している傾向が現われている.
第26表 卒業生の進路状況
 (9) 本校と外部との関係
 山崎校長の教育方針の一つは「教育は学校に閉じこむべきものでなく,社会
に延長すべきである」というのであった.換言すれば,学校は社会に開かれたものでなければならないということであり,今日風のことばで言えば,学校と社会の相互乗入れを目ざしたことになる.学校教育の社会化を志すと同時に学校にも社会性を持たせようと努めた.このような「開かれた学校」の姿を列記してみよう.
 [各種団体・諸機関との連けい] 本校は農会,農事講習所,県農務課,農事試験場等と常に密接な連けいをし,意見交換を行うほか,教育会,産業組合,日本園芸会等の諸団体と結び,それらが主催する種々の講習会,懇談会の会場となった.そのため外部の諸団体もよく本校を認識し,生徒もやがてはそれらの諸機関に就職するつながりができていった.
 [篤志家との関係] 模範となる指導的人物を求め,公私の別なく接触を保ち,その力をかりて教育効果を挙げる努力をした.たとえば,静岡県の社会事業家で養蚕・植林・牧畜を奨励した金原明善翁あるいは本校創立にも与って力のあった古橋源六郎等である.
 [農林業者との関係] これらの業者の中には生徒の父兄も多く,本校教職員はこれを訪問して実地を見聞し,生徒にも時にはその事業を調査させた.逆に業者から要請もあり,教職員が出張して援助することもあった.明治から大正期の教員山田与之助の記すところによれば,明治38年(1905)頃には年間5,6回の出張が大正5年(1916)頃には年50回以上となり,校務以外の仕事でかなり多忙を極めたようである.そのため,本校を参観に来る者も増加し,それを当てこんで旅館を開業する者もでて,「農林学校御指定旅館」の看板さえ掲げるようになったという.
 [教育者・宗教家との関係] 開校以来県教育会と連けいして冬季夏季の休業期間中に教員対象の講習会を開催した.また,興風暦の行事として,学者,宗教家等を招き,農村問題あるいは人生問題について講話を聴く機会を作った.新渡戸稲造,留岡幸助,那須皓,柳田国男,間宮英禅,宣教師H.B.フルトン等,幅広い分野の名士たちが講師として招聘されている.
 [地方青年会の指導] 各地に設立された青年会にも援助の手を差し延べ,毎月1回学校を開放して講演会を催し,また時には図書,機器を携行して職員が出張,その事業の運営に協力し,彼等の啓蒙にも努めた.この点でも山崎校長は自校の生徒と外部の人とを差別しない寛大な精神の持主であった.
 [参観者への応待] 地主,農林業者,青年会等の団体で本校を視察する人たちのため,職員が交替で案内,説明の労をとった.また,遠隔の父兄や外来者のため,校舎ならびに寄宿舎で宿泊の便を図り利用させた.
 [興風暦日の学校開放] この日は努めて農林業者の来校を歓迎した.老農あるいは篤志家は特別に案内し,時には青年を招いて実地見学と歓談の間に本校の気風を理解させた.『創業録』にはこれら参観人の統計が記してある.第27表がそれであるが,これは農場備付の名簿に記載されている者だけの数であるから,実際はそれよりはるかに多い数であったろう.
第27表 参観人統計表
 [同楽園の経営] 職員の有志で資金を出し,同楽園と名づけた果樹園である.僅か1町歩の面積であったが,経営業者の参考にさせ,共同研究をした効果があった.
 [卒業生との連けい] 同窓会の設立は明治40年(1907)にさかのぼる.会則第2条に「本会ハ会員相互ノ親睦ヲ図リ併セテ農事改良ノ途ヲ講ズルヲ以テ目的トス」とあり,いかにも農林学校らしい.
 明治44年(1911)の10周年記念事業として山崎校長に土地と住宅を贈呈し,他の10年勤続職員および雇員にも記念品を贈っている.遠くは韓国,台湾にも支部が設けられ,また機関誌『流芳』を発行し,学校の現状,会員の動向等を伝えている.

 Ⅷ 初代校長山崎延吉

 (1) 前歴と性格
 山崎の生涯と思想についてはすでにいくつかの伝記,追想録,論文等も出版されているし,82年間にわたるこの巨人の一生を語ることが本稿の目的ではないから,彼が全身全霊を打ち込んだ農業教育,農村振興の二点にのみスポットをあて,粗描するに留めておこう.
 明治6年(1873)旧加賀藩士山崎有将の次男として金沢で出生,第四高等学校を経て明治30年(1897)東京帝国大学農科大学農芸化学科を卒業した.卒業論文は台湾の製糖業の研究であった.北海道で農耕に従事したいという志もあったが,農科大学長の勧めもあって福島県蚕業学校に就職,大阪府立農学校を経て,安城農林の初代校長に任命されたのが29歳年俸1,200円であった.従って前二校の勤務は短期間であるが,安城では校長として19年在職その後も生活の本拠をここに置いて全国的な農民教育に精励し,幾多の公職にも就任,昭和29年(1954)7月,82歳で没した.
 その長い生涯にはいくつかの紆余曲折はあったが,四高時代からの農業志向は変わらず,大阪在勤の頃すでに「我農生」という雅号を用いていた.それは「我は農に生れ,我は農に生き,我は農を生かさん」という彼の不屈の信念から出たものであり,文字通りその信念を貫き通した一生を送った大人物である。
 眼光炯々とした1メートル81センチの長身,若い頃から長髯をたくわえたその風貌は,正に偉丈夫のそれであり,自ら人に畏敬の念を抱かせずにはおかぬ古武士の風格があった.その風貌に接した三宅雪嶺が「これは加賀藩の武断派の顔だ」と言ったと伝えられる.雪嶺も同じ加賀藩の文治派の血を引く士族の出身であった.
 山崎の思想について元愛知教育大学教授山田英世氏は「精農型農本思想」9)と表現されているが,私にはその根底に彼の出自からくる武士道精神と,二宮尊徳に代表される日本的な農民道徳と,さらに西洋の実験科学を通じて得た合理的実用主義が渾然一体となり,その三つが時と場合に応じてそれぞれ強調され,増幅されて彼の行動原理となっていたように考えられるのである.
 いずれにせよ,智・仁・勇を兼ね備えた指導者として,本校の生徒のみならず日本中の農民たちに大きな感化を与えた点では空前絶後と称することができよう.明治期はこうしたスケールの大きな人物が縦横無尽に活躍できるスペースのあった時代とも言えるであろう.
 (2) 本校における教育者として
 ⅰ 教育方針
 教職員の陣頭に立って本校の創業に精力的に取組んだ校長の時々の姿はすでにⅣからⅦまでの記述の中に度々現われているが,ここで改めて彼の教育方針に触れておこう.
 山崎が教育者の道に入る頃には,明治前期の横井時敬,船津伝次平,津田仙等が指導力を発揮した,いわゆる老農時代は終わっていた.代わって,農事試験場,農業学校の設立による西洋農学の普及につれて,農業教育は知識・理論の偏重に陥り,野に出て働くことを忌避し,精農主義が薄れてゆく傾向が強くなっていた.明治末,横井をして「農学さかえて,農業ほろぶ」という名言を吐かせた悪弊である.山崎はっとにこの傾向を看破し,次のような三ケ条を教育方針とした.
 一、教育は勤労主義でなければならぬ.
 一、教育は学校にのみ閉じ込むべきでなく,社会に延長すべきである.
 一、環境をよくせねばならぬ.
 この方針に基づいて,校訓,興風暦,実習の重視等,特色ある学校づくりがなされたのである.殊に,「勤労主義」は汗と泥にまみれて働くことが農民の人格陶冶につながり,これこそ農村に生きる者の道であることを強調するものであった.
 ⅱ 訓 育
 山崎校長が勤労尊重の精神,農民道を生徒に体得させるため,特に重視したのは訓育,すなわち修身の授業と折々なされた講話である、修身の授業は講堂で学年別あるいは全校対象に講話という形で行われたようであるが,他の教員にまかせず,校長自ら教壇に立った.当時教えを受けた人々の語るところによれば,校長は校外に出張することが多かったにもかかわらず,どこにいても修身の時間には必ず帰校し授業をしたという.しかも,その授業には教科書は一切使わず,彼の広い経験と高い識見に基づき,その時その時の問題をとらえた感銘深いものであり,板書の技術とともに実に見事なものであった.
 むずかしい抽象論でなく,時には古典を引用し,時には卑近な実例を題材として,分かり易く生徒に語りかける方法であり,生徒のみならず教職員も校長の人格に惹きつけられる時間であったという.
 また,どんな不良生徒でも決して放校処分にせず,時には自分の家で寝食を共にし,その感化に努めた話も伝わっている.家族同様の人間的接触をすることによって今日言う“落ちこぼれ”を出さない教育をしたのである,やがてこの教育方法は私塾的な農民道場の開設へとつながってゆく.
 ⅲ 他の公職等との関係
 「教育は社会に延長すべきである」という考えを自ら実践したのが,他の公職・団体との関係である.学校運営が一応軌道に乗ると,校内の仕事は教頭に任せ,校外の活動が多くなる.大正5年(1916)10月,校長職を辞任するまで実に多くの役職を兼務し,一方,次に述べる農民教育のための講演に村々を駆けめぐるのであった.退職するまでの19年間に,一時的にせよ兼任した役職と出版物の主だったものだけ挙げても次のようなものがある.
 明治38年(1905) 愛知県内務部第7課長
 愛知県農事試験場長兼講習所長
 中央報徳会評議員
 明治40年(1907) 愛知県農会幹事
 明治41年(1908) 第10回関西府県連合共進会委員
 愛知県史編纂委員
 『農村自治の研究』出版
 明治43年(1910) 7月より翌44年1月まで日英博覧会を含む欧米視察
 明治44年(1911) 大日本農会農芸委員
 明治45年(1912) 愛知県地方種米審査会委員
 愛知県米穀改良監督員
 愛知県山林会第3回総会副委員長
 大正3年(1914) 『農村教育論』出版
 大正5年(1916) 鈴鹿に私塾「我農園」を開設
 大正7年(1918) 愛知県産業調査委員
 大正8年(1919) 三遠農学社社長
 大正9年(1920) 帝国農会特別議員
 もとより,これらの兼職の中には一時的なものもあって,校長職が第一義的なものであったことは言うまでもない.ただ,一学校長が県の農事試験場長を兼ねたり,県外に小なりとはいえ私塾を開くようなことは今日の常識では図り得ないことである.高学歴を持った指導者層が少なく,社会機構も単純であった時代なればこそ可能であったのだろう.
 しかし,学校制度が整い,標準化が進んで,次第に公教育としての管理的な面が強化されていくと,彼の持つ理想を学校教育のワクの中で行うのは難しくなっていった.山崎のような破格的な人物が活動するには,一農業学校は狭きに失したと言うこともできる.
 しかも,彼の眼前にある農村は資本主義の発達にともなう構造変動の波を受け,寄生地主化が進む一方,特に明治末からは米の価格の下落をきっかけとして他の農産物の価格も大きく下落し,多くの零細農民が生活苦にあえいでいた.村で生活できなくなって土地を手ばなして都会の工場等に転職する者,出稼ぎにゆく者,娘を売る者,まさに農村は疲弊しきった状態であった.それは産業革命の完成による非農業人口の急速な増加となり,わが国の重大な社会問題政治問題となっていたのである.
 ちなみに,当時のわが国の総戸数の中で農家の占める割合は,明治37年(1904)の64.38%,同42年(1909)の59.52%,大正2年(1913)56.59%,さらに同8年(1919)には53.06%と減少する一方であった.
 山崎はこうした農民たちの苦しい生活を黙視するに忍びなかったのであろう.決然として校長職をなげうち,農村振興のための「興村行脚」に旅立つのであった.
 (3) 校外における農民指導者として
 山崎の校外活動は,いわば日本近代農村の病理に対する挑戦であった.それは士魂から発する壮絶なたたかいであったとも言える.これを詳説するいとまはないが,彼の校長在職時代から「教育の社会化」という形ですでに始まっていた.青年会の創設と指導,篤農家懇談会の組織化等がそれである.
 前記山田教授は山崎延吉の生涯を五つに分けてその略歴を述べているが,退職した大正9年(1920)から昭和7年(1932)までがその第3期に相当する.この間彼が関係した公職諸団体の主だったものを列記すれば次のようになる.
 大正9年(1920) 帝国農会幹事,小作制度調査会委員
 大正11年(1922) 広島県義倉財団顧問
 大正12年(1923) 碧海郡農会顧問
 農事電化協会理事
 日本家禽協会会長
 大正13年(1924) 帝国農会相談役
 国民高等学校の創設
 大正14年(1925) 日本農村文化協会理事
 大正15年(1926) 日本国民高等学校協会理事
 朝鮮開発協会理事
 昭和3年(1928) 愛知四区選出衆議院議員当選
 修養団評議員
 昭和4年(1929) 三重県鈴鹿に神風義塾開設
 これ以外にも多方面の活動を続けており,大正14年(1925)以後は比較的自由な身となるが,ここでは特に彼の業績として有名な「興村行脚」と「神風義塾」の二つを採り上げて彼の八面六臂の活躍ぶりを偲ぶこととしよう.
 ⅰ 興村行脚
 直接農民に触れ,自分の理想とする農民を作ることによって農村を復興させたいという悲願から,全国を東奔西走して農民道を説いたのが興村行脚である.その形態は「全村学校」とも呼ばれ,3日から5日間で村民全体を対象に行った教育である.従って,一家の主たる農夫だけでなく,主婦,青年男女,児童までも含むこともあった.その内容については稲垣稔との共著『農村の新教育全村学校』(昭和4年(1929)9月6日,泰文館書店発行,昭和56年(1981)5月復刻版発行)に詳しい記述がある.
 最初は『農村自治の研究』に共鳴した秋田県の一村長の依頼で開いたもので,1日は戸主,1日は婦人,その翌日は青年男女対象の講話,たまたま会場が小学校であったため,小学生にも話をしたことから,全村民を対象としたこの新しい教育を「全村学校」と名づけたという.『我農生活五十年』には,大正14年(1925)3月26日から28日の3日間,山形県西山村で行ったことが語られている.この時には毎日800人の参加者が堂に満ちたという.
 こうした遊説のため山崎は自宅で起居するのは月に2,3日,甚だしい月は1カ月間家を空けることもあった.しかも今日の如く交通機関の発達していない時期のことである.10年以上も全国各地でこの全村学校形式の教育が続いたという。講演の題目は「農村の振興をいかに図るか」というようなもので,生来口下手であった山崎が修練を積み,安城農林における訓育に見られるように,熱のこもった,説得力のある話しぶりが想像される.
 行事は講演のみならず,実技指導,奉仕活動等も含まれ,炊事,宿泊等多数の村民の協力を必要とするものであった.また,山崎が全国的に知名度が高かったばかりでなく,すぐれた同志,協力者に恵まれたことも大きな力となった.講師も我農生の他に,加藤完治,矢作栄蔵,那須皓,西田天香,桐生悠々等多士済々の感がある.
 全村学校にともない山崎の作った「興村訓」、は次の10ケ条から成っている.
 一、村は国家の基礎たるを理解すべきこと
 一、村は自治体たるを理解すべきこと
 一、村は国民の安住所と悟るべきこと
 一、村は村民の心次第なりと悟るべきこと
 一,村は民風の作興によりて栄ゆと知るべきこと
 一、村は民力の涵養によりて根強しと知るべきこと
 一、村は時勢に順応して善処すべきこと
 一、村は新進の心がけによって展開すべきこと
 一、村は理想によりて終始すべきこと
 一、村は徳によりて栄ゆべきこと
 この中には山崎の思想の複雑な面の一端も現われでいる.神道学者筧克彦の理論に傾倒していたための国家主義ものぞいているし,農村自治の思想,「人に人格あるごとく,村にも村格あるべし」の考え方もある.最後の一条などは,山崎と一心同体,「義においては師弟のごとく,情においては親子のごとく肝胆相照らす」間柄であった東三河の豪農,県農会副会長古橋源六郎家に伝わる家訓の一つ「家は徳に栄ゆべし」の拡大である.
 こうして全国で行った講演は1万5,000回を越えるという.明治41年(1908)から昭和9年(1934)までの26年間の道府県別講演回数を示したのが第5図である.その上,雑誌,著書の原稿執筆は途中の夜行列車の中で行われたというから正に超人的な活動と言わねばならない.ただし,旅行は当時の2等車(現在のグリーン車)を使ったというから,彼の合理主義的行動様式がうかがえて興味がある.
第5図 山崎先生全国講演回数道府県別地図
 ⅱ 神風義塾
 自らよき農民となり,農に生きたいという理想を抱いていた山崎は,すでに大正4年(1915)鈴鹿の石薬師村に私費を投じて4町歩ほどの土地を購入し,これを農場として「我農園」と名づけ,農林学校卒業生堀場益治を主任にして,開墾,経営させる計画であった.しかし,山崎は自分の農園よりも,当時三重県で一番遅れていた石薬師村の農事改良を優先させ,堀場をその用にあてていた.
 一方,形式化し,知育偏重の学校教育に絶望しかけていた山崎は,加藤完治,石黒忠篤,那須皓等の同志と図り,茨城県友部に日本国民高等学校協会を作つて独特な農民教育を行おうとした.これは後年加藤が所長となり,内原訓練所として満蒙開拓義勇軍の養成所となったものである.
 しかし,山崎はこうした金のかかる学校経営にあきたらず,もっと質朴で農民本来の修業のできる私塾形式の道場を作ろうと考え,我農園を利用し,昭和4年(1929)4月に開設したのが伊勢の地にちなんで名づけた「神風義塾」である.
 修業年限は1年,費用は年15円程度で,なるべく簡素で年月を要しない教育を志したのであった.校舎は小学校の古い建物を改造し,寄宿舎,食堂は設けたが,風呂も便所もなく,そのため初期の塾生は近くの池で身体を洗い,畑で用便し,机,腰掛は自分たちの手で作ることから始まった.
 この塾の第5期生で後に愛知県議会議員にもなった真木勗氏の記すところ10)によれば,昭和8,9年の塾生は10人前後,塾頭,助手を加えても15名程度で,水田はなく全部畑作で,その作業は中々きびしいものであったようだ.困苦欠乏に耐える中で農民道を体得させることが目的であった.
 当時,山崎は朝鮮総督府の依嘱を受けて,朝鮮の農村振興のための指導にも当たっていたので多忙を極め,塾に来るのは3ヵ月に1回程度,1回につき4,5日共同生活をする中で塾生に終生忘れられない深い人格的感化を与えた.
 なお,この塾生活を終了する時,これを卒業と言わず,社会への出発を意味する「門出の章」が山崎の自筆で渡されたという.卒業証書に代えたその文面は以下の10ヶ条である.
 一、 われは人なるが故に向上に邁進せむ
 一、 われは日本人なるが故に日本魂を磨かむ
 一、 われは祖先を有する子として祖先を辱しめざるを期す
 一、 われは時即ち神なりと信じ時の裁判を待つ
 一、 われは最後の一人なりわれわれを守る
 一、 われを動かすはわが心なりわれわが心を修む
 一、 われを生かすはわが力なりわれわが力を養う
 一、 われは環境を有すわれわが環境をよくせむ
 一、 われを進むるはわが理想と信念なりわれは理想信念に終始す
 一、 われは生を尊ぶが故に農業を礼讃す
 これは終了者への贐の言葉であると同時に,山崎自身の生活を律する座右銘であったと考えてよいであろう.

 Ⅸ 地域の発展と卒業生の活躍

 (1) 日本のデンマーク
 創立当時一寒村にすぎなかった安城が,明治39年(1906)には近隣の村々を合併して町制を施行するほどになった.電灯が初めて各戸にともったのが明治44年(1911),近隣…の町村との道路も四通八達し,大正初期には金融機関も相次いで開店,商工業も含めて碧海郡の中心地としての活気を持つようになった.
 とりわけ,碧海郡農会,県立農事試験場,蚕業予防事務所,碧海種禽場等の研究指導機関および後述する各種農業団体の設置は,本校とともに安城をやがて「農都」あるいは「日本のデンマーク」と呼ばれるほどの特色ある地域へと発展させたのである.農業だけではない.養蚕の奨励は当然製糸業の発達を促し,明治末から大正期にかけて従業員数150~500の製糸工場が四社設立され,その他,綿糸,精米,製粉,醸造等,工業化も進んでいった.
 安城農林は昭和初期の国定教科書(高等小学校2年農村用)に「碧海郡の農業」と題する一課が載り,その中に本校の教育の成果が称揚されるに及んで一躍全国的な脚光を浴びるに至った.
 ところで,「日本のデンマーク」なる名称は新聞記者の命名らしく,ジャーナリスティックなものであって,学術的根拠のあるものではない.その規模,生産物等構造的にも全く異質のものであって,この名称は農業の先進的地域を意味し,多角経営,産業組合の発達等の特徴をもっていたことによるものであろう.この点について,『明治用水百年史』11)は「鶏卵の集荷・処理・出荷がデンマーク方式と類似していること,産業組合の結成と活動,及び山崎延吉を中心とする農業指導者の養成,国・県・農会などの農業指導機関の存在」がその理由であるとしている.また,大正15年(1926)5月号の『農政研究』は「日本のデンマーク特集号」となっている.
 多角経営の奨励については山崎延吉の『興家三道』12)に,農業経営の四本柱として次のことばがある.「農業の経営に付ては,僕は四本柱を建てよと云っている,即ち……」として下記の方式を示している.
 この他にも山崎は,「米と養鶏とを組み合せた並行線農業」とか「米と養蚕と養鶏を行う三角形農業」という表現もしている.
 こうした考え方が農林学校内外の教育を通じて地域に浸透してゆき,農業経営の多角化が普及した.中でも,米・豚・梨・蔬菜・牛の五角形農業を行った板倉農場13)は昭和3年(1928)に視察者が6,391人に達したほどの模範農場であった.
 次に諸団体にはどのようなものがあったか,主なものの名称のみ掲げる.
 安城園芸組合(大正6年頃設立)・碧海郡購買販売利用組合聯合会(組合の連合体で丸碧と略称,鶏卵を毎日貨車で出荷,東京に出張所を設けた)・農事改良実行組合・満鉄飼料研究所・安城機械農場・河野茄子[なす]生産組合等,加工等では三河食品株式会社・愛知乾けん倉庫株式会社等
 また,この地域では農民の協同意識が強固であり,農産物の販売,肥料などの購入を早くから共同で行い,鶏卵,西瓜などの共同販売体制は徹底していた.各村落ごとに産業組合も設立され,昭和7年(1932)には碧海郡全体で74組合があって,信用・購買・販売・利用の4事業を扱っていた.
 山崎延吉は勤労主義を唱えたが,一面,農村文化の振興にも意を用い,青年団活動,修養団活動もさかんになり,昭和3年(1928)には農繁期託児所が開設され,同5年(1930)には農業図書館,9年(1934)には安城農道館,10年(1935)には丸碧厚生病院が建設された.農業団体による医療施設の建設は珍しいが,その陰には山崎延吉の奨励と農業関係諸団体の経営に終身努力した岩瀬和市等の功績によるものが多い.
 (2) 卒業生の活躍
 先に挙げた国定教科書の第16課の一節に安城農林について次のような記述がある.
 「此の学校は独り生徒に限らず広く農民全体を教導するを以て任となし,百方努力してその主張の実行を図れり.
 さればその教化は郡の内外に及び,安城付近に移住し来って学校の指導を仰がんとするものさえあるに至れり.
 しかのみならず今や碧海郡の各町村は此の農学校に教育を受けたる青年を活動の首脳者となし,是等青年を中心として老若よくその和を得,協力一致以て諸種の経営に当るの美風を成せり.」
 このことについては山崎校長が明治38年(1905)2月から大正9年(1920)11月まで県立安城農事試験場長を兼務していた影響も大きい.『明治用水百年史』も「試験場の研究成果は農林学校の教材にも利用され,生徒の学習は一段と活気を増し,ぞくぞくと新しい農村指導者が育っていった.」としている.
 さて,当初は自家営業に就く者が比較的多かったが,近代化にともなう社会機構の要請により,優秀な人材が各方面で活躍するようになった.専門的な農・林関係の官公庁への就業は別として,特徴とされるのは政界,学界,教育界にも進出していることである.
 政界では参議院副議長,全国農協中央会会長等の要職についた森八三一を筆頭に,県議会には現在8人の議員が各地から選出され,地元安城市長には3代7期にわたり本校卒業生が就任した.その他県内の各市町村議員も50名近く,大きな力を発揮している.
 経済界ではカゴメソース重役蟹江英吉のように農産加工方面に進んだ人が多い.
 学界では米麦の品種改良に大きな功績を残した故岩槻信治,これこそ山崎延吉校長が発掘したともいえる人物であった.その他,柑きつ類の研究で農博の田中諭一郎や林学,理学,薬学等の博士号を取得した人もある.
 教育界にも多数の人材を送り出している.すでに母校の校長になった卒業生も4名,小・中・高の教員だけでも相当の数になる.
 農業団体では県共済連会長小河恒夫,県信連参事中島安一等の名が挙がる.
 海外にも一時期多数進出したが,戦後愛知用水の建設に努力し,現在も東南アジア,中近東の開発事業に協力している浜島辰雄も忘れてはならない人である.当時の台湾,朝鮮からの留学組の中には,前台中市長林澄秋や大邱市慶北大学教授農博金鎬のような人もあり,そういう人たちとの交流は今も続いている.
 同窓会はその名を「流芳会」と称し,会員1万3,000名におよぶ組織であり,活発な活動を各方面に展開している.
 山崎延吉没後,昭和29年(1954)安城市は延吉ゆかりの地安城農林高等学校に隣接した土地に山崎延吉頌徳館を建設し,その遺徳を長く讃えることとした.その後,この建物が老朽化したため,昭和56年(1981)安城市文化センターが建設されるに際し,特に山崎延吉記念室を設け,生前彼が使用した文具・衣類等の遺品を移転し展示している.また,昭和30年(1955)には財団法人山崎延吉頌徳会が設立され,農村振興や農業教育に貢献した人々に対する表彰等の事業を行っている.

Ⅹ 学制の変革と学校の現況

 昭和10年(1935)以後の沿革で特記すべきことは同17年(1942)新たに獣医畜産科が設置され,3学科となり,さらに昭和20年(1945)農芸化学科が新設された。
 太平洋戦争後の学制改革により昭和23年(1948)新制高等学校となり,校名を愛知県立安城農林高等学校と改称,昭和25年(1950)には新たに定時制課程を設置,同29年(1954)には定時制課程の中に農業科の他に農村家庭科も設置され,新制高校発足以来の男女共学が一層進む.以後,時代の推移にともない新しい農業形態に対応すべく学科の改廃が行われ,昭和56年現在,農業科と園芸科を合せて3学級120名,畜産科40名,林業科40名,食品化学科40名,生活科40名,計1学年280名,全校定員840名の学校になっている.
 なお,本校は農業教育の近代化,機械化に応ずるため,県立農業高等学校の中心校として,昭和56年(1981)3月,農業教育共同実習所の第一期工事が完成した.これは他の農業高校生も宿泊して実習をするための施設である.
 昭和56年10月11日には開校80周年の記念式典も挙行され,その輝かしい歴史の厚みに新しい1ページが加わろうとしている.世界の食糧危機が論じられ,日本農業の将来が複雑な国際経済に左右されようとしている現在,本校の教育も21世紀に向けてのビジョンを持って行われねばならないだろう.

 [注]
 1) 山崎延吉著『我農生活五十年』,2ページ.
 2) 『安城市史』,846-47ページ.
 3) 『日本近代教育百年史』9,「産業教育(1)」,708ページ.
 4) 『日本近代教育百年史』9,「産業教育(1)」,704-7ページ.
 5) 『日本近代教育百年史』9,「産業教育(1)」,227ページ.
 6) 内田糺著『明治期学制改革の研究』,中央公論事業出版,147ページ.
 7) 『愛知県議会史』第3巻,「明治編下」,264ページ.
 8) 明治用水百年史編纂委員会『明治用水百年史』,明治用水土地改良区,昭和54年(1979),205ページ.
 9) 『生誕100年山崎延吉の生涯,愛知県立安城農林高等学校同窓会発行,昭和49年(1974),20-54ページ.
 10) 『生誕100年山崎延吉の生涯』,231ページ.
 11) 『明治用水百年史』,213ページ.
 12) 『山崎延吉全集』第4巻,77ページ.
 13) 『板倉農場誌』,102-4ページ.

 [参考文献]
 ◎ 安城農林と山崎延吉に関するもの
 (1) 愛知県立農林学校『第一次年報』,明治36年(1903).
 (2)愛知県立農林学校『創業録』,明治44年(1911)
 (3) 斎藤勘吾編『あけぼの記』,愛知県立安城農林高等学校,昭和37年(1962).
 (4) 愛知県立安城農林高等学校『八十年の歩み』,同校創立80周年記念事業実行委員会,昭和56年(1981).
 (5) 愛知県立安城農林高等学校『茶筅第ケ丘物語』,同校創立80周年記念事業実行委員会,昭和56年(1981).
 (6) 山崎延吉『山崎延吉全集』全6巻,山崎延吉全集刊行会,昭和10年(1935).
 (7) 山崎延吉『我農生活五十年』,東海毎日新聞社,昭和26年(1951).
 (8) 我農生山崎延吉伝刊行会『我農生山崎延吉』,風媒社,昭和41年(1966).
 (9) 愛知県立安城農林高等学校同窓会発行『生誕100年山崎延吉の生涯』,昭和49年(1974).
 (10) 愛知県立安城農林高等学校同窓会発行,飛田七蔵筆『安城農林魂』,昭和46年(1971).
 (11) 浜田陽太郎他編著『近代日本教育の記録上』,日本放送出版協会,昭和53年(1978).
 ◎ 安城市その他地域に関するもの
 (1) 安城市史編さん委員会『安城市史』,安城市役所,昭和46年(1971).
 (2) 明治用水史誌編纂委員会発行『明治用水』,昭和28年(1953).
 (3) 明治用水百年史編さん委員会『明治用水百年史』,明治用水土地改良区,昭和54年(1979).
 (4) 毎日新聞岡崎支局『明治用水――地域をひらいて1世紀――』,毎日新聞中部本社,昭和55年(1980).
 (5) 明治村史編纂委員会『明治村史 上・下』,安城市役所,昭和41年(1966).
 (6) 愛知県発行『愛知県議会史』第3巻(明治篇下),昭和34年(1959).
 (7) 愛知県開拓史研究会『愛知県開拓史』通史篇,愛知県,昭和56年(1981).
 (8) 愛知県実業教育振興会発行『愛知県特殊産業の由来』下巻,昭和17年(1942).
 (9) 愛知県農業協同組合中央会発行『愛知県農業団体史 農会編』,昭和28年(1953).
 (10) 愛知県農事試験場発行『愛知県農事試験場六拾年史』,昭和29年(1954).
 (11) 板倉源太郎『板倉農場誌』,昭和4年(1929).
 (12) 岩瀬和市『汗堂回想録』,昭和50年(1975).
 ◎ 産業教育に関するもの
 (1) 国立教育研究所発行『日本近代教育百年史』第9巻「産業教育1」
 (2) 日本近代教育史辞典編集委員会『日本近代教育史事典』,平凡社,昭和26年(1951).
 (3) 愛知県教育委員会発行『愛知県教育史』第3巻・第4巻,昭和48年(1973)・昭和50年(1975).
 (4) 文部省『産業教育八十年史』,大蔵省印刷局,昭和41年(1966).
 (5) 内田糺『明治期学制改革の研究――井上毅文相期を中心として――』,中央公論事業出版,昭和43年(1968).
 (6) 日本近代教育史研究会発行『井上毅の教育政策』,昭和38年(1963).
 (7) 細谷俊夫編『人物を中心とした産業教育史』,帝国地方行政学会,昭和40年(1965).
 (8) 協調会発行『農村に於ける塾風教育』,昭和9年(1934)・
 (9) 山崎延吉・稲垣稔共著『農村の新教育全村学校』,泰文館,昭和4年(1929).
 (10) 高山昭夫『日本農業教育史』,農山漁村文化協会,昭和56年(1981).
 ◎ その他
 (1) 飯沼二郎『日本農業の再発見歴史と風土から』,日本放送出版協会,昭和50年(1975).
 (2) 芳賀登『豪農古橋家の研究』,雄山閣,昭和54年(1979).
 (3) 古橋茂人『古橋家の歴史』,古橋会,昭和52年(1977).
 (4) 岩槻技師業績顕彰会・三耕会発行『おもかげ 岩槻信治小伝』,昭和55年(1980).
 (5) 山形県立上山農業高等学校創立50周年記念誌編集委員会『五十年史』,昭和37年(1962).
 (6) その他,「愛知県農会報告」,「清明心」等,本校ならびに山崎延吉に関係のある定期刊行物,雑誌,論文等は省略する.
[山下英一]