実業教育

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わが国産業化と実業教育

論文タイトル: 第4章:企業の発展と企業内教育:A わが国中小企業の企業内訓練
著者名: 岩内 亮一
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第4章:企業の発展と企業内教育:A わが国中小企業の企業内訓練

Ⅰ 離陸後の経済の構造

 企業の発展に対して企業内教育が一定の役割を果たすことは一般的に承認されている.ところがここでとくに企業の発展という言葉を強調するのは,中小企業がその形成期,揺籃期,初期発展期を経て安定へ向かう過程で,雇用者の技能の向上が重要な課題とされたためである.このような意味で企業の発展と企業内教育の関係は,後者が前者に貢献するだけではなく,前者が後者を必要とすることもある,という二面性をもっている.この二面のちがいを正しく峻別するのは困難であるが,明治43年(1910)以降の日本の企業内教育の歴史を分析するためには,少なくとも次の2点を重要な前提とする必要があると思われる.
 第1点は,この時点で日本経済の主要部門の離陸がほぼ完了したのにもかかわらず,大規模企業と零細企業の共存というアンバランスが生じてきたことである,これはいわゆる経済の二重制度(dual system)であり,その後も,ひき続いている構造である.ということは,日本経済の離陸を経て,一方では一部の大規模化した企業があり,他方ではながらく低迷を続けた大多数の企業があることを意味する.企業内の教育・訓練にも,この企業格差が明確にみられる.代表的な大企業では,19世紀から,より組織化された教育・訓練制度が整備されてきたが,より小規模の企業は政府の勧告をまって,はじめて部分的な訓練を開始するにとどまった.しかもこの小企業で訓練が浸透するのは早くても1920年代であった.ところがここで一つの留保条件を付さなければならない.中小企業で雇用者に対する訓練が遅れたことは事実であるが,大企業もかっては中小企業であったことである,どの大企業も早い時期に教育・訓練の体制が備わっていたわけではないのである.発展を経た大企業および中小企業に共通していえることは,日本の企業内教育・訓練が一貫して職場訓練(OJT-on the job training)に負うところが大きかった点である1).このことを前提に,経済が離陸した後の中小企業のOJTが,大企業のそれ,および公的・外部の機関による訓練援助からどのように影響を受けたかが問題とされなければならない.
 第2に業種別によるちがいに慎重な考慮が払われなければならない.日本の初期工業化からはじまる,さまざまな段階の発展の過程において,先導的な役割を果たした業種がある.それらの業種は,そのときどきの諸背景のもとで,変わることがあった.19世紀には繊維産業と鉱業が主流であったが,その後の変化により,ウェイトは徐々に重工業,とりわけ機械・造船・鉄鋼へと移り.さらに1910年代には化学工業の大規模化が達成されるのであった.このような変化の過程で,工業化を先導した繊維産業をテコにした諸部門,および,いわゆる「原生的」労務管理の代表とされる鉱業の2業種が,後進的分野に脱落する.先進部門と後進部門の交替が,ここに示される.20世紀の前半にいたって,この交替があらわになり,繊維産業と鉱業2)の多くの企業が,零細・中小企業と類似の構造となる.さらにいえば,20世紀の前半に重工業の地位を獲得した企業であっても,ローカルな場所に立地した企業は,依然として地域的に孤立していた.そのため,そこでの教育・訓練は,部分的に零細・中小企業と同じしくみ(・・・)を保持するのに甘んじなければならなかった.
 上の2点をふまえて,ここで対象とする20世紀前半(大正期と戦前昭和期)の企業内教育の歴史を分析するために,時代的背景を銘記しなければならない.とりわけ工場法の施行と産業合理化の動向は企業内教育の実態とあり方をめぐって重要な論議をひきおこした点を検討する必要がある.

Ⅱ 工場法の制定と徒弟教育に関する条項

 明治44年(1911)3月,第27回帝国議会で「工場法」が成立したが,工場法制定の動きは,すでにに1880年代からあり,当時の開明的官僚の間で原案が作成されていた.明治29年(1896)の第1回農商高等官会議において政府は「職工ノ取締及保護ニ関スル件」を諮問した.また官庁文書としては異例的であるといわれる『職工事情』は,工場法成立のための準備的作業であった3).これが刊行される1年前の明治35年(1902),地方長官や商業会議所に「工場法案ノ要領」を諮問して,各地の意見を聴取したりしたが,日露戦争の勃発や企業主の反対によって工場法の制定が遅れた.しかも本文中には徒弟に関する規定がなく,その「施行令」(大正8年(1919)制定)に記されるにとどまった4).
 工場法の実施(大正5年(1916)9月)に伴って,その施行令を策定するにあたって,徒弟に関する規程のあり方に二つの議論がなされた.一つは「徒弟立法不要論」であり,二つは「徒弟立法必要論」であった.前者は,徒弟,弟子,年期職工,養成職工,修業生とさまざまな名称で呼ばれる少年の多くは,事実上,職工と同じように労働に従事しているのであり,技能の習得を目的として入職するものがまれで,また教習に力をつくす工場主も少ないと主張する.後者は,日本の伝統として徒弟と師匠の間に特殊な温情関係が存在し,両者の間に技能伝達と御礼奉公の授受関係があるべきであるとの立場にたつ.工業を発達させるためには,この伝統的な温情主義に基づく徒弟制度を堅実に発達させる必要があり,そのためには教養制度を認め,徒弟と職工を区別して取り扱われなければならないとする5).
 このような議論の後,結局は後者の「徒弟立法必要論」が優勢を占め,徒弟に関する独立した規定が設けられることになった.このようにして工場法の施行令の第28・29条に,以下のような規定が制定された.
 第28条 工場ニ収用スル徒弟ハ左ノ各号ノ条件ヲ具備スルコトヲ要ス
  1.一定ノ職業ニ必要ナル知識技能ヲ習得スルノ目的ヲ以テ業務ニ就クコト
  2.一定ノ指導者指揮監督ノ下ニ教習スルコト
  3.品性ノ修養ニ関シ常時一定ノ監督ヲ受ケルコト
  4.地方長官ノ認可ヲ受ケタル規定ニ依リ収容セラルルコト
 第29条 工場主前条第4項ノ認可ヲ申請スルニハ左ノ事項ヲ具備スヘシ
  1.徒弟ノ人数
  2.徒弟ノ年齢
  3.指導者ノ資格
  4.教習ノ事項及期間
 (中略)
  7.品性修養ニ関スル監督ノ方法
 (以下略)
 これらの諸条件を備えないものは,工場法上の徒弟として認められなかった.また工場主が認可を受けた徒弟の規定を遵守しない場合に対する罰則として,その矯正のために必要な事項を命じ,または規定の認可を取り消すことができる旨も明記された(第32条).国際的にみて,工場法は元来,職工の労働条件を公的に監査する目的にたっている.雇用主(employer)と雇用者(employee)の間に相互に同等な権利義務関係が基盤をなしているからである.ところが日本の事情は多少異なっていた.そこでの雇用主と雇用者との間に,主従的情誼関係が成立していると考えた雇用主は,労働者との関係を権利義務の関係で規定することに反対した.雇用主がこれに反対したもう一つの理由は,工場法の制定によって低賃金を続けるという経済的なメリットがなくなることであった6).これらの理由で工場法およびその施行令の制定が遅れた.施行令に基づく徒弟の認可を受ける雇用主が少なかったことも,これらの事情と関連が深いと考えられる.
 『工場監督年表』によると,大正6年(1917)から昭和8年(1933)までの徒弟収容工場数および徒弟数は,もっとも多い数値をとっても,それぞれ23工場,3,310名に過ぎない(第1表参照).この数が少ないのは,上述の雇用主の工場法に対する消極的な態度のほかに,徒弟制度が衰退の一路をたどっていたこと,職工の教育や熟練職工の養成などのために他の方法や制度を用いる傾向が強かったためであるといえよう7).なお工場法施行令制定直後の一工場あたりの徒弟数は約140名と多かったが,その後のその数は減少しつつある.企業の成長に従って工場の規模が拡大するという一般的傾向のなかで,この一工場あたりの徒弟数の減少は,相対的に小規模の工場が工場法施行令の適用を受けるようになったといってよいのではなかろうか.
第1表 工場法施行令に基づく徒弟調査

Ⅲ 中小企業の労働市場と熟練形成

 技能養成,技術教育を制度化し,内部に教育・訓練組織をもつ企業は,ほとんどすべて大規模なものであった.従業員規模がそんなに大きくない場合でも,組織的なまたは職場外の訓練(Off-JT)の機会を提供することのできた企業は,それぞれの業種を代表する企業に限定されていた.一般に中小企業での教育・訓練は低調であったが,そこでの熟練労働力はどのようにして調達され形成され蓄積されたのであろうか.この問題を究明するためには,次の2点にふれるのが妥当であろう.第1は熟練職工の移動であり,第2は周辺部の(peripherical)地域および業種の企業内教育である.
 (1) 「渡り職工」の役割
 第1の点に関して,もっとも重要なものは,「渡り職工」の存在であった.すでに19世紀の後半から20世紀にかけて,その原型がつくられた.例えば『職工事情』は「事業ノ如何ニ拘ラス常ニ職工出入ノ頻繁ナルニ苦シムコト最モ甚シキモノハ紡績工場ナリ,大阪地方ノ紡績工場ノ如キ毎月通常職工総数ノ一割ハ工場ヲ去リ一割ハ新ニ之ヲ補充セサルヘカラス……而シテ二三箇年以上ノ経験者ヲ傭使スル職工ハ少ナク半年又ハ一年以内ノ無経験者ヲ傭使スルコトトナル.……工場ニ残ルモノモ或ハ紹介人,無頼漢ニ誘惑セラレ,又ハ彼等ト共謀シテ工場間ニ転々セル所謂渡職工[・・・・・]ナルアリ.……」(傍点筆者)と,紡績工場の職工の移動が激しく,特定の工場に定着して勤務するものが少なく,その原因の一つとして渡職工が存在することを報告している.当時の政府調査によれば,紡績工場では男工の49%,女工の47%が1ヵ年未満,製糸工場では男女とも51%,織物工場では男工42%,女工56%が2ヵ年未満と勤続年数が短かった.
 定着率の低い労働市場にあって,「渡り職工」は大企業の雇用関係において重要な機能をもった.この「渡り職工」の機能を1900年代,1910年代の重工業についてみると,次の点を指摘することができる.
 明治39~40年(1906~1907)にかけて発生した労働争議で指導的な役割を果たしたのは,下級職長を含むランク・アンド・ファイルの労働者であった.当時,経営の生産過程に対する規制が強化され,現場では職場管理者とその補助者である上級職長が,下級職長を含むランク・アンド・ファイルに労働を統制する傾向がみられた,この両者の間の対抗関係が労働争議として表面化したのである.この運動の担い手となった下級職長以下のランク・アンド・ファイルの労働者のなかで,とりわけ重要な役割を果たしたのは,いわゆる「渡り職工」であった8).
 19世紀の後半,大企業労働者と中小企業労働者の間には,まだ明確な階層的差異がなかった.その主要な理由は,当時の技能が手工的熟練を基盤としていたところにある.大企業での見習職工は文字通り「見よう見まね」もしくは「親方から仕事のやり方を盗み取ること」によって技能を磨かねばならなかった9).その意味で労働者の技能習得の過程と形態は,大企業と中小企業との間に,そんなに大きなちがいがなかった.そのため好況は,「大企業と中小企業を貫通する労働者の流動を促し,大企業労働者と中小企業労働者を一つの市場のうちに包摂していったし,しかもこうした労働者のうちに形成される重工業労働市場は,熟練を要しない分野の労働市場と接続していたとはいえ,重工業労働者として通用するには,なにがしかの経験を必要とするという熟練上の障壁が存在するために,熟練を要しない分野の労働市場からある程度隔離された[・・・・・・・・・]職種別労働市場として展開されていった」10)(傍点は筆者).
 このような流動的な労働市場が存在していたために,一方では大企業で見習職工として労働生活のスタートをきった熟練労働者と,他方では零細,中小企業で徒弟的な訓練を受けた労働者との間に移動が生じた.当初は修業を重ねる間に経験と蓄財をもとに小経営主として独立しようとする労働者が少なからず存在し,大企業,中小企業を問わず「独立」型の移動が労働者の夢であった.
 ところが19世紀から20世紀にかけての企業の新設・増設に伴って状況は徐徐に変化する.それ以前まで,大企業の労働者は,上級職長になるか,それとも町工場の経営主になるかの理想のもとに,毎日を励んでいたが,このころから,町工場を開く可能性が顕著に低下した.いわく,徒弟は「他流仕合に出掛けて腕を磨いても,もとへ帰って来てその工場にゐついて,だんだん組長にもなり職長にもなった.その工場に専念することの出来ないものは所謂『渡り職工』となって,よい金はとるが,重要な位置は与へられないし,親方の後継者には無論なれなかった.かうした工場には『徒弟出身』と『渡り職工』との区別ははっきりしてゐたのである」11)と.要するに徒弟は小経営主として独立することも,職長へと昇進することもできなくなり,そのため,他の工場を転々とする「渡り職工」となったケースが少なくなかったのである.
 将来の可能性をいちじるしく縮小された「渡り職工」は,当然のことながら,みずからの内部に不満を蓄積せざるを得なかった.その帰結として,かれらは明治39~40年(1906~1907)の労働争議において指導的な役割を果たしたのである.労働争議の激化に,経営側はさまざまな手段を通して鎮静化を図った後,職場組織の運営を変える.経営側は労働者の間接雇用から直接雇用つまり直傭化,企業内福利施設の増強,主従の情誼を根幹とする経営家族主義的な管理体制の開始をはじめとして,やがてそれらの施策の徹底化に本腰を入れる.企業内教育組織の設置も徐々に整備される.とくに各産業とも寡占化が進行する過程において,これらの労務管理施策が現実化する12).
 労働争議のあとの,このような労務管理体制の強化は,主として大企業においてみられた現象である.本稿の重要な対象である中小企業の状況を探るためには,「渡り職工」の残存形態を調べなければならない.明治39~40年(1906~1907)の争議が収拾された後,一時的に雇用量の減少があり,大企業における労働者の離職率は低下したが,1910年代の労働需要その他の背景のもとで,労働者の流動性はなお存続した.
 「渡り職工」という呼称は,賃金の多寡に応じて工場を点々と働いて,「まさに渡り歩」きするほどマイナスのイメージを連想しがちである.ところがこれは必ずしも当を得ているとはいいがたい.移動を通して腕を磨き,ついに独立して工場を経営する例がなお存在したからである.その実例を以下に紹介する.これは必ずしも典型的な例示にならないかもしれないが,移動と独立の過程が詳細に記述されている点で興味深い13),この会社は現在,アイダ・エンジニアリング株式会社と称し,機械プレス,自動加工ライン,工業用ロボットなどの生産ですぐれた業績をあげている.その創始者・会田陽啓氏は父が幼少のとき死亡したため12歳から町工場に勤めはじめ大正6年(1917)28歳にして現会社を設立した.以下はその基礎がつくられるまでの16年間の足跡である.
 会田氏が最初に雇用された町工場(小林鉄工所)は,従業員15名ほどの小規模のプレス機による加工とプレス機の製作を事業内容とする工場であった.ここで徒弟(当時,「小僧」と俗称されていた)として,一通りの仕事を覚え,23歳のとき独立して機械製作の小工場をおこした.機械を完成したとき,その注文主が消えてしまったので借金ができ,創業1年後,会田氏は設備を放置したまま夜逃げした.飲食店(寿司屋)で出前持ちをしていたとき,外人経営の工場(いまの横浜ドック)で雇われたが,ここを約1ヵ月で辞し,横須賀海軍工廠に入所した.そこでの勤務成績が良く,上司にも認められたが,昇進可能性が低かったため辞職し東京へ戻った.東京では日立の関連会社の佃島製作所の下請の鉄工所で働き以前の借金の返済に充てた.その1年後,当時,家庭婦人が内職とした「麻つなぎ」のための自動機械の製造をはじめたが,販路の計画性が乏しかったため,失敗し再び借財を負った.そこで最初に勤めた工場に戻り,計器工場(いまの東京計器株式会社)の下請の仕事に従事した.小林鉄工所が従業員200名の企業に成長した後,会田氏は工場長に任命されたが,独立への夢が消えず,主人に何度も懇願した.主人は能力の高い会田氏を失うと経営に支障をきたすので,その依願を拒否し続けたが,依願を仲介する人の助けによって,ついに大正6年(1917),会田氏が28歳のときに独立し会田鉄工所を創立することができた.
 この自伝から判断されるのは,会田氏は何度も勤務先を変えたが,常に独立する希望を捨てなかったこと,そして独立にこぎつけた背景として,最初に勤めた工場で基礎的技能を習得したこと,その工場との関係が独立にいたるまで継続し,その主人がさまざまな形で会田氏に援助したことである.
 (2) 周辺部門における労働者の調達と養成
 第2は地域,業種の周辺部門における企業内教育の特徴である.早い時期に制度化をみた企業内教育組織の多くは,都市の重工業部門の大企業であった.それに対して中小企業は,自前の企業内教育機関を設けるほどの余裕をもたなかった.多くの場合,先輩職工の仕事を模倣したり,盗みとったりして技能習熟につとめるか,もしくは「渡り職工」としてその技倆を磨く職工が多かった.19世紀後半までの労働市場が大企業と中小企業を包摂するほど流動的であった時期には,労働者の移動を通して技術や技能の移転があったと考えてよい.ところが都市部に形成された工業地帯から離れた地域的な周辺部では,経営者は工場の内部で熟練の形成と蓄積を図らなければならなかった.そのための企業内教育が準備される.また周辺的な業種ではがいして熟練労働力の蓄積が乏しかったが20世紀に入って,どのような教育施設が整備されたか問われなければならない.以下,地域的な周辺部として釜石製鉄所を,そして業種上の周辺部として繊維産業と鉱業をとりあげる.
 まず地域的周辺部の多くは,工業化段階に先行する時期にその基盤がつくられた.エネルギー源,基礎産業,造船業を含む主要産業がそこに立地され,工業化が前進への道を突進した段階にいたっても,移転されることは少なかった.これら工場での原料や製品は航路などを通して運搬されるが,労働力はそれほど容易に移動されるものではなかった.その必然的な結果として労働力は地域内で調達されなければならない.そして工場が立地する地域およびその後背地が主な労働力の供給源となり,当該企業を中心とする地方都市が形成される.都市の大きさは,住民の生活上の便不便,他の都市との近接度その他の立地条件によって規定を受ける.ここに例示する釜石製鉄所は工業化以前の時期(江戸時代)に土着技術によって銑鉄生産を試みた伝統を誇り,日本でもっとも古い製鉄工場である14).ここでの熟練形成史は以下の通りである.
 1) 明治33年(1900)に制定された釜石鉱山尋常小学校の校則15)によれば,生徒に関する第三章第三節の「児童風紀規程」にことこまかい規則が設けられている.それは,服装,飲食,言語,挙措と礼譲,通行にわたっている.その他の事項も,微細に規制されている.というのは,この尋常小学校が,製鉄所の経費によってまかなわれており,しかもその児童は製鉄所およびこれととりわけ親しい関係者の子弟であるからである.公教育の拡張に懸命であった文教行政のもとにあって,私立の(ここでは企業立の)この尋常小学校を設置することに,当局は大いに歓迎したことであろう.しかしながら企業側は,この尋常小学校の設置によって,勤務中の労働者を定着させ,あわせて次の世代の労働力の安定的供給を期待したと判断することができる.
 2) ずっと時期は遅れるが,昭和2年(1927)青年訓練所が設置された.これは官制の規定にのっとって,4年間の訓練を施したが,教練,学科,職業科とも,濃縮されたカリキュラムによって構成されていた.この三つの系統で総計,300時間が費やされた.ここでの成果に対して高い評価が与えられ,県下の青年訓練所のうち,もっとも優良なものとされた.しかもそこでの教育内容は,当時の中等教育レベルの工業学校に劣らなかったといわれるほど,充実していた.
 3) 制度の変更とともに,昭和10年(1935)から青年学校,昭和14年(1939)から技能者養成所が発足した.どちらも臨戦体制の方針により,軍事的色彩が強かったが,それでも技能の習熟が強調されたことはいうまでもない.例えば昭和14年(1939)の厚生省工場事業所技能養成令に基づいて設置された「技能養成所」のカリキュラムは以下の通りである.
  ○学科目(総計6,453時間)――修身公民科(123時間),普通学科(国文,作文,国史,英語,数学,物理,化学,489時間),工業学科(製図,初等電気,材料力学,機械要素,初等冶金,工業大意,冶金・機械・電気・化工の専門工学,659時間),教練科(教練,体操,武道,333時間).
  ○実習(総計4,851時間)――1年生は基本実習,2年生以上は現場での応用実習.
 この技能養成所は,4年前に発足した青年学校よりも専門的な教育内容(カリキュラム)を備えていた.しかも入所生は試験によって選抜され競争率は数倍に達した.
 法令の規程によって青年訓練所が青年学校に変わり,新たに技能養成所が設置される1930年代の企業内教育は,より組織的になったが,それ以前の基幹労働力の調達と養成は,よりインフォーマルな形態をとっていた16).若年の労働力の調達は,釜石製鉄所従業員の親類または友人によるいわゆる縁故採用であった.親子4代にわたって同所に採用される例もあった.中堅もしくは基幹労働力として雇用される場合も,多くは縁故採用であるが,入所以前に他の工揚で職業生活を経験した.その工揚は近くの町工場や軍工廠であるが,何人かは600kmも離れた東京またはその近辺の工場へ技能習得に行った.かれらは,「当時私は町工場で働いていましたが,当時の職人はきまって東京へ武者修業に出かけたもので,私も町工場二年で家を飛び出し,川崎で腕を磨いたものでした」(昭和3年(1928),釜石製鉄所に入社),「私が小学校を卒業した頃は,良い職人となるためには東京へ行って習わなければだめだという時代でありました.……当地の出身で東京日立製作所亀戸工場に勤めておられた……氏の許に,弟子として上京する機会を得たので,大正9年(1920)2月,16歳の時単身で上京……,見習工として,亀戸工場に入所しました.……その後,年期満了で帰郷しましたが,再び上京して亀戸工場に働き,通算して6年間程勉強しました.……」(大正15年(1926)入所)と,回顧している.技能習得の過程は,OJT中心であり,職揚の直属上司である「親方」と呼ばれる監督者が訓練にあたった.訓練の方法は町工場と同じであり,親方の仕事ぶりの見よう見真似,親方の技能上のノウ・ハウの盗みとりであったが,同時に親方は部下に対して温情的な関係を保っていた.このように大工場でも,労働力の調達と訓練は,少なからず職場単位のインフォーマルな関係に基づいていた.
 次いで産業上の周辺部門については,鉱業を例示するのが適切である.鉱業の企業は大規模経営であっても「飯場制度」「納屋制度」が遅くまで存続し,鉱夫の採用と養成にユニークな形態がみられたからである.
 鉱業における雇傭関係とくに募集の段階で絶大な役割を担ったのが,「納屋頭」「飯場頭」その他の名称で呼ばれていた,いわゆる「親方」である.この「親方」がどのような形態で存在したかは,時代によって異なるが,およそ次のように変貌をとげた17).まず初期の段階において,この親方は「坑夫募集請負人」と呼ばれた例がある.この時期には親方は,坑夫を募集することを主要な任務とした.坑夫は「子方」として親方の支配下におかれ,作業上の指導,監督の対象となった.親方は,ときには子方の逃走防止の役割をも担った.この逃走防止の役割は,親方にとって単に必要な労働力の確保のために負わされた役割にとどまらない.この役割は賃金管理上,必要とされたものである.すなわち,親方の収得の多寡は,子方(所属労働者)の稼働率の高低に左右されるため,親方は子方の入坑督励,作業の監督・取締などとともに,逃走防止に格別の注意を払わなければならない.さらに賃金の前貸制による募集と子方の拘束,賃金のうちから一定率を天引きして貯金させる強制貯金制,経営当局による賃金を現物で給与する現物支給制,親方その他一部の商人による生活必需物資を給与する物資供給制,経営当局による作業能率の向上に賞与としてなにがしかの金品を与え,逆に雇傭主や親方の命令に服さなかったり器具・機械類を破損した場合には厳しい罰則を適用する賞罰制など,多種の雇用制度ないし慣行が存在した.そしてこれら制度・慣行を通して,親方の子方に対する不等な圧制・酷使・搾取が続いた.このような親方の行動を許容する経営側の雇用管理を含めた親方制度(飯場制度・納屋制度)が明治時代に確立された.そしてこの親方の子方に対する圧制・酷使・搾取を許す鉱山会社の経営体質が,いわゆる原生的労務管理の原型を出現させたといえよう.
 この原型が明治43年(1910)以降,どのように変化したかが,次の問題となる.要点のみを記すと,大鉱山(足尾銅山)の坑夫による親方の排撃,親方制度の撤廃を要求する大騒擾事件(大正8年(1919))によって,上述の親方制度の原型が部分的に改革され,その後,経営の温情的労務管理の浸透がみられたが,親方および親方制度は1940年代まで温存された.親方制度のもつ多くの欠陥が数度にわたる改革によって是正されたが,制度そのものは第2次大戦後に成立をみた労働基準法まで消滅しなかった.1920年代以降,鉱山の経営当局は親方および親方制度の部分的な改革を試みた.足尾銅山についてこれを調べた結果によれば,飯場を組に,そして親方を世話役に変更した「世話役制度」,鉱山労働者の相互救済組織としての「友子同盟」が設置された.他の大鉱山も,原型としての親方制度を解体した.しかしどの例も,部分的な変更に過ぎず,親方および親方制度の基本的性格は1940年代まで存続した.これら鉱山における子方に対する教育は,基本的には旧来の色彩を色濃く残した徒弟教育の形態を存続させた.そこでは親方に対する関係のいかんが,OJTの質を決めるため,親方との良好な接触を維持した揚合には,技倆の向上が実現されたと推察される18).
 さて中小工場における企業内教育の実態は必ずしも明らかにされていないが,どの業種においてもその大半は非組織的なOJTに依存していたと考えられる.しかし調査資料が残されている相対的な意味での大企業(職工数100名以上)の当時の教育制度は,業種によって次のようないくつかの特徴がうかがわれる(第2表参照).
第2表 工場鉱業における教育制度
まず工場と鉱業を比較すると,補習教育,技術教育,子弟教育のどれについてみても,鉱業の方が設置比率が高い.ところが女子に対する技芸教育は,工場の方が盛んである.これをより詳細にみると,補習教育施設の普及率が低い業種は,繊物工場,染織雑工揚,化学工場,飲食物工場,雑工場である.これらが他の業種と比べて相対的に規模が小さい点を考え合わせると,中小規模の工場では補習教育施設が十分に普及していなかったといえよう.技術教育についていえば,官営工場がもっとも整備されている.製糸工場,機械および器具工場がそれに続く.他の業種での技術教育施設の普及率はいずれも低い.女子に対する技芸教育制度は,当然のことながら女子労働者を多く抱える業種に普及率が高い.

Ⅳ 産業合理化と企業内教育

 第1次大戦後の好況の終息後,連合国側は経済的な疲弊を経験する.大正10年(1921)からはじまるワシントン軍縮会議は国際緊張の緩和とともに経済の回復を意図していた.この軍縮会議が開かれた年,連合工業調査委員会から「軍備制限に伴ふ工業界の対応策」が提案された.当時欧米諸国が構造的な経済不振に対応するための「産業合理化」の運動や政策を推進していたが,この提案は産業合理化運動の日本版である.これを契機に日本も産業合理化の時代を迎える.大正13年(1924),政府内部に帝国経済会議が設けられるとともに,技術者団体「工政会」内に工業振興委員会が設置される.この委員会は「基礎工業振興に関する建議」を政府に提出する.この建議は染料工業,曹達灰工業,工作機械製造業,製造用機械工業,製鉄事業,生糸業,羊毛工業の振興策を提案し,産業の重化学工業化の推進によって産業合理化の実を上げることを強調した.工政会の大正14年(1925)の大会は,この建議に基づいて「動力問題」「国産奨励問題」「工業教育問題」を主要なテーマに掲げ,それぞれについての基調講演がなされた.
 「工業教育問題」は,この大会が開かれた年に設置された「工業教育調査委員会」の予備的作業に基づき,講演には以下の内容が盛られていた.(1)高等工業学校(大学の下位段階の工業専門の高等教育機関)の修業年限を1年あるいは数年延長して大学とし,高等学校(大学入学の予備的段階の高等教育機関)を廃止して,中学校(5年制の非義務中等教育機関)の修業年限を6年とし,中学校卒業直後に大学進学とする.(2)現実の中等工業学校(非義務の中等職業教育機関)は,職工長教育としての実をあげていない.つまり,その卒業生は「工場に行って働いて居る其の心理に至りますと云ふと,動もすれば其の職工階級を逃げようとする」という状態である.つまり中等段階の工業学校卒業生は,工場の生産工程のフォアマン層になることを期待されていたにもかかわらず,かれらはブルー・カラー層から脱出してホワイト・カラー層への参入を試みるのが一般的であった.そのため職工長の供給には,現に工場で働いている幼年工に補習教育を受けさせながら熟練職工に養成するという手段をとらなければならなかった.(3)これからは工業に関する社会教育が大切なので科学博物館,工業博物館ならびに官立学校の標本室・実験室の開放を提案する.
 この講演のあと多くの関係者の間で討議が重ねられ,工政会として次の決議文がまとめられた.(1)吾人は工業教育を普及発達せしめ殊に工業補習教育の改善を計り之れを拡張充実をするを以て急務と認む,(2)吾人は官民合同して優良なる職工長養成の途を講じ其の待遇を改善せん事を期す.(3)吾人は工業に関する社会教育施設例えば工業図書館,工業博物館等の普及発達を望む.
 この決議に基づく工政会の工業教育問題に対する取り組みは,工業教育調査委員会の活動に委譲された.同委員会の活動は昭和9年(1934)に『工業教育制度改革案』(日本工学会工業教育調査委員会編)へと発展するが,同委員会の主要メンバーが動力問題,国産奨励問題の委員会での活動に多忙であったため,大正15年(1926)後のしばらくの間は工業教育問題の調査研究については,さしたる前進がみられなかった.この期間において,工業教育問題はむしろ工政会関西支部の活動に負うところが大きい.
 大正15年(1926),工政会関西支部の工政調査会に工業補習教育問題が上程された.この支部のメンバーが参加している大阪工業会は,すでに大正4年(1915),大阪府知事の諮問に応えて,「大阪市に於ける工業教育の普及改善に関する施政案」をまとめた.このような調査の経験を基盤に,工政会関西支部は工業補習教育振興委員会を設置し,工業補習教育問題に取り組むようになる.同支部は,同時に大阪市長から,この問題に関して以下の諮問を受けた.それは(1)本市に適切なる工業補習学校の組織編成並びに工業の種類に基づく適当なる学校の配置如何,(2)本市工業補習教育の普及発達を期せんがため実業界との連絡を密ならしむべき具体的方策如何,(3)女子補習教育に関する適当なる施設方法如何,(4)高等小学校に於ける工業科目を如何に取扱ふべきか,(5)青年訓練所に於ける工業科目を如何に課すべきか,の5項目であった.この諮問に対する答申案作成にあたって工業学校,博物館関係者も討議に参加し,(4)(5)の項目について答申書を大阪市長に提出した.とくに第(4)点の高等小学校での工業科目設置に関しては相対立する議論が交わされた後,「工業に関する普通の智識技能を得さしめ,勤勉綿密にして且創作工夫を重んずるの習慣を養ふ」案にまとめられた.
 この大阪市への答申を契機に,工政会は初等教育段階での工業教育に関する関心を深め,その後の工政会活動でもこの問題を工業教育問題全般に位置づけて調査し議論を発展させた.そして1920年代後半~1930年代には,「高等小学校における工業教育」の討論をはじめとする多様なテーマについて検討が加えられた.そして最後には「師範学校規程改正建議」にまで発展した19).技術者団体である工政会が,教育問題をここまで討議したことは,いかに公的教育に対する国民の関心が高かったかを示唆するに十分である.と同時に,日本の公的教育が,いかに多くの弱点を抱えていたかは,容易に理解される.
 以上,産業合理化が工業教育に与えたインパクトの一側面を考察した.しかしながらこの叙述は,主として大企業を前提としているため,中小企業における状況は必ずしも明らかでない.中小企業の企業内教育について記録された資料が少ないからであるが,この分野での数少ない研究に依存しながら,この問題の一端を究明してみたい20).
 ここに例示されるのは,栗原工揚――現在の大同毛織株式会社の前身――の女子労働者に対する企業内教育である.当工場は双子縞,綿セルローズを生産していたが,明治38年(1905)ごろからモスリン紡織の生産に転換した.1910年代にいたっても女子労働者として雇用されたものは,尋常小学校卒業もしくはその中退者が大多数を占め,なかには学校教育を全然受けていないものも含まれていた。すでに大正5年(1916)の工場法施行以前から工揚内に夜学校を設け,義務教育の補習教育を施してきた.工場法施行以降は,規定によって義務教育未修了者で就学年齢層の女子労働者に,公立の夜学校へ通わせることとなった.ところがその通学をきらう女子労働者が多かったため,夜学校の教師に工場へ出張することを依頼し,工場内で補習教育を与えることとなった.
 やがて産業合理化運動を迎えるにいたって,栗原工場は生産の比重をモスリンから毛糸に移す.昭和5年(1930)前後には機械保全の熟練は陳腐化し,一方では少数の高等工業学校卒業生と多数の女子労働者の採用を行うようになる.それまで多くの老練な機械保全工が雇用されていたが,昭和7年(1932)の停年制の設定によって,従業員の新陳代謝が図られた.質の高い女子労働者の確保と養成のために,町村長,小学校長を通じて入社希望者を募集し,すべての新入工員を「栗原勤愛学校」(昭和7年(1932)開設)で教育した.この企業内学校の目的は,教育により「ものごとに対する理解を高等小学校程度に引き上げること」および「他日社会に立ち,第2の国民の母としてはずかしからぬ身心の向上」を図ることにあった.この学校の前身の栗原実業補習学校(昭和4~7年(1929~1932))では,男子(20余名)には工業実務・英語・数学・常識を,女子(100余名)には読み方・習字・算術・珠算・生花・裁縫を教えていたが,栗原勤愛学校,栗原勤愛女学校と名称が変わってからは,さらに代数・修身・体操・家事・生理衛生が加えられた.栗原勤愛学校は,尋常小学校卒業程度以上の女子労働者を対象とする本科,高等小学校以上の学歴をもつ女子労働者を対象とする研究科,学歴を限定しない専修科,尋常小学校卒と同程度の学力のないものに対する予科の4コースで編成されていた.この学校は昭和9年(1934),栗原勤愛女学校と改称され,5年制の実科女学校つまり正規の認可による中等教育機関となった.さらに昭和14年(1939),青年学校の義務化に伴い,青年学校令の規準にそくして教育内容を豊富にした.青年訓練所に転換する直前の生徒数は500名もの多くをかぞえた.昭和14年(1939)までの栗原勤愛女学校は当時の大企業を含めた工場の教育施設としては数少ないものであった.第3表に公的基準にのっとった教育機関が示されている.
第3表 全国工場(1,000人以上)と紡績工場における教育機関設置状況
すべての工場で一般補習教育機関をもつ工場は15%であるが,うち紡績工場ではその比率は40%と高い.ところが府県知事の認可を受けた実科女学校をもつ工場は微々たるものであった.第3表には,どの法令にも依らない技術教育機関は含まれていないので,他の業種のすべての企業内教育の実施状況は不明である.しかし大規模紡績を含めたこの調査対象のなかで,認可実科女学校を設置する例が少なかった当時,中小企業であった栗原工場の企業内教育の実践は高く評価される.
 栗原工場の産業合理化運動への対応は,企業内教育だけにとどまらない.そこでは経営組織が改革され,新設の工務課では工務改善,原料の成績調査,製品試験,安全委員会,無駄なし委員会,作業時間研究など多くの新しい試みがなされた.昭和8年(1933)から導入された「標準生産費制度」は,従業員に「数字に基づく作業管理」の基本を学習させることによって,節約と能率増進を効果的ならしめる制度である.これは1910年代以降アメリカで開発されたティラー・システム,フォード・システムに代表される科学的管理法の影響を受けているが,同時に昭和7年(1932)から開始された,無駄なし委員会,安全委員会,従業員懇談会,提案制度,主任会など,さまざまな近代的な管理の制度や技法と関連が深い.これらの管理の制度や技法は,企業内コミュニケーションを通して従業員の経営参画意識を高める効果を意図していたと考えられる.1920年代後半の時点で,このような経営の合理化に着手した中小企業は数少ない.先述の企業内教育もこれら経営管理,労務管理の近代化の一断面であるといえよう.

Ⅴ 雇用労働者の二重構造化と技能養成

 1920年代後半以降の工場労働者は,一方では巨大化する大企業に雇用される層と,他方では中小企業に雇用される層に分化され,経済の二重構造と連動した形で雇用労働者の二重のしくみが形成される.重化学工業化が進展する過程で,この雇用労働者の二重構造化はますます明確な形をとるとともに,大企業労働者と中小企業労働者の関連が稀薄になる.労働条件の格差に伴う技能養成の格差が,大企業労働者と中小企業労働者の間に拡大すると同時に,経済の二重構造を支えた下請関係がより強固なものとなる.この二重構造の一方の極を構成する中小企業が機械工業を中心に蔟生し,そこで働く労働者の技能養成の問題がクローズアップされる.この技能養成の問題は,政府の労働力統制によって全国的な規模での課題となる.労働者の入職移動制限,技能養成の義務化に関する法令の成立を通して,労働者の質的向上のための諸施策が講ぜられる.そこでは技術・技能の訓練が国の生産力向上のために必須な条件と目される.このように技能養成を必要とする,多様化し複雑化した背景を含めて,いくつかの点を以下に検討する.
(1) 下請化と熟練形成
 昭和5年(1930)前後,軍需ブームを伴った兵器生産のシステムで,中小企業に対する依存度は大幅に高まった.大企業の設備を100%稼動しても,増加する軍需に対応しきれず,その結果として,必然的に中小工場への下請化が増えた.とくに各種の機械加工,および鋳鍛鉄の分野で,この状況が一般化した.政府もまた,この「下請制中小工業問題」に対応するために,行政指導を試みた.具体的には,業者の下請工業組合を育成し,さらに受注・生産・販売・流通・価格決定などに対する統制を強化した.下請関係が成立するもっとも典型的な例は,中小規模の機械工業であった.親工場で働いていた作業員は,やがて独立したときに,払い下げられた中古の機械,設備,および徒弟でもって,親工場の下請発注に応じた.この下請工場は,独自の技術開発力をもたなければ,十分な産業訓練を行うことを期待できなかった.逆にいえば,すぐれた技術力をもった中小企業は,徒弟の熟練形成に熱心であったのである.
 1930年代までの中小企業には,低賃金の年期職工を雇い入れる徒弟制度が残存していた.昭和12年(1937)の警視庁の調査によれば,機械器具工業企業全体の30%が年期職工を使用しているが,年期職工を使用している工場の規模別分布は,10人未満の小工場が60%,10人以上30人未満が37%,30人以上が3%となっている.これら年期職工がすべて徒弟として見習い期間を技能上達に専念しているとは限らない.通勤者,熟練工となる準備期間を過ごさない職工も含まれているからである.しかし機械器具工業では,多くの場合,中小企業が大半を占めていたのである.つまり,職工数10名前後の企業の61%が年期職工によって構成されていた.さらにいえば,年齢で16歳未満:15%,16歳以上~20歳未満:70%,20歳以上~25歳未満:15%弱,そして25歳以上は皆無に近かった.
 また,東京市役所が昭和10~11年(1935~1936)にかけて実施した『住込小店員,少年工調査』(昭和12年(1937)刊)によれば,「住込少年」を使用する工場の大部分は,従業員10名から50名くらいであった.職工を養成するための条件をととのえるためには,年少の徒弟の数が多い方がよかった.その意味で総従業員が20名前後の規模をもつ金属工業および精密工業が,養成機関として最適規模であった.そのころの中小企業では,徒弟の90%以上が,その工場の従業員の子弟かもしくは親戚縁者であった.いわゆる縁故採用であった.東京市の揚合,過半数が高等小学校卒であり,年齢は15歳未満であるのが一般的であった.そして年期の期間は,通常5年間であった.このようにして,中小企業の熟練が首尾よく形成された.さらに雇用契約の問題が残されている.同じく東京市の調査によれば,徒弟の雇用は(1)年期奉公:53.9%,(2)前借:0.9%,(3)小遣い手当て制度:12.3%,(4)1年契約制:0.4%,(5)月給制度:3.8%の5種類によって構成されていた.ある程度は近代化されつつあったが,やはり年期奉公が主流をなし,伝統的な慣行を色濃く残していた.
(2) 再び見習工の採用と養成21)
 昭和10年(1935)に実施された調査(調査主体は,日本工業協会である)によれば,(1)採用にさいしての「採用検査規定」は,非常に厳格であり,5種類の「判定特性」によった.そのテストの成績は,甲・乙・丙・丁・戊(A・B・C・D・E)と評価され,戊(E)は不合格とされた.(2)繰糸女工の出身家庭の環境と人物評価との関係では,(a)兄弟姉妹の人数が4人~5人(当時としてはそんなに多くなかった),(b)親の職業では農業,(c)町村で中流家庭,(d)躾あり,(e)家庭の健康は,大体に皆強し,(f)父親の飲酒は,時々飲む,(g)入社時における両親の態度は,快く許した,……などの家庭出身の女工が工場で高い成績を示した.
 このように,とくに繰糸女工については詳細な項目について,調査が行われた.さらにこれら女工の気質,知能程度,適性検査,身体検査,罹病率,死因病名,退職理由,などについてもデータが集められた.しかも,繰糸女工を学校女生徒および農村女子と比較している.
 この報告は京都工場懇話会から提出されたものであるが,繰糸女工の養成の成果が採用時における家庭の側の諸条件と関連のあることなどを明らかにした.これは見習工として採用した女工の養成の過程で,ある種の効果を査定するほど,養成方法が高度なものになったことを意味する.
(3) 労働力統制と熟練工養成
 1930年代の後半にいたって日本の重・機械工業は軍事的色彩を一層強めた.重・機械工業の生産力は拡大する軍需に追いつけず,他の業種の重・機械工業への転換,中小工場の生産への期待が高まる.同時にそれまで民間企業が独自にすすめてきた労働者の入職移動,養成を全国的な規模で国家が統制する政策がうちだされる.そのもっとも主要な政策は,昭和13年(1938)に公布された「国家総動員法」「従業員雇入制限令」「工場事業場技能養成令」「青年学校の義務化」などの法令によって現実化する.さらに労務調整令,国民勤労報国協力令,国民職業能力申告令,職業紹介規定,従業員の雇入及就職命令,その他の法令,規定によって,労働力の国家的統制は徹底される22).
 すでに昭和10年(1935)ごろから技能労働力の不足は深刻を極め,企業間で熟練工争奪合戦すら生じた.熟練工不足を解決するために,その養成問題が焦眉の課題とされた.技能労働者の訓練をめぐって,政府役人,民間企業人,研究者を巻き込んだ論争が展開された23).論争は,一方では必要とされる熟練工は多能工,基幹工であると主張する立場と,他方では単能工,分業工こそが緊急に養成されるべき熟練工であるとする立場の間で交された.
 このいわゆる多能工,単能工論争において,双方が主張する内容はおよそ次のようであった24).まず多能工必要論者の多能工とは,単独で作業を遂行しうるものであり,従事する職種の全般に通じるべく総合的知識をもっていて,請負収入で生計を維持する必要がある.多能工は分業工の指導,設計,仕上,作業方法改善,精度保持の能力が要求される.その養成方法としては,14,15歳から4年以上の徒弟教育を受け,その後も数年の経験を追加される.この多能工に対する社会的要請は,(1)日本の産業技術水準の向上のために精密機械が必要であり,その製作は多能工のみなしうる,(2)能率向上,作業改善は単能工に無理である,(3)多能工は長期養成を必要とし,同一企業での勤続が長くなることから労使関係が安定する,(4)不況下での転職が容易である,(5)中小企業振興にもなる,の諸点にある.ついで単能工(専門工,分業工とも呼ばれることがあった)とは,職長の指導のもとに部分的な作業に習熟し,図面の判読と加工技術に長じているものであり,3カ月ないし6カ月の集合的訓練によって十分役立つ熟練工である.この単能工は当時の技能者不足を解消するという緊急性に合致していた.また日本の工業が規格の統一,多量生産専門機械化の方向を志向しているため,単能工の大量養成が必要であるとされた.
 経営者団体の下部組織であった協調会の徒弟問題研究会と文部省は多能工養成の立場をとり,経営者・企業実務家は単能工を優先するという立場をとった.この論争は技能養成,工業教育のあり方に大きな刺激を与えたが,社会的な評価としては二つの立場の一方が優勢であり,他方が劣勢であるとする決着をみたわけではなく,結論としては多能工も単能工も必要であると判断された.当時の代表的な大企業でも,その生産工程には「手工的熟練」に依存する部分が少なくなく,また若い労働者を監督し指導するためにも,多能工を必要とした.多能工はまた,中小零細企業で大量に必要であった.単能工への需要は,やがて生産技術の高度化が推進された揚合に高まるためにその養成が急がれた.また単能工といえどもその技能習熟のために,技術的な見習いや教育が必要とされた.このような理由で,熟練工の長期養成と速成工の養成が並列され,結果として多能工,単能工の双方を訓練する施設が設けられた.
 1930年代後半にいたっても,技能労働力不足は続き,その不足に対する対策は緊急を要した.政府は国家総動員法22条に基づいて昭和14年(1939),「工場事業揚技能者養成令」を公布し,大企業中心の技能養成を義務化した.関係する所管各省,各府県,工揚事業所とも,この養成令の主旨を実現するために,既存の機関を拡充させ,新機関を設置した.この時代に新設または拡充された機関には以下のものがある.(1)職業各種学校:独立の専門的な技術教育機関または職工学校内に付設された機関である.以前,殆どの各種学校はパート・タイム制であったが,短期養成の必要から,3カ月または半年のフル・タイム制の機関が設置されるようになった.(2)機械工養成所:学校制度の形態をとる職工学校の一種であり,東京府は率先してこれを設置したが,後に商工省へ移管した.高等小学校卒業者,中学校卒業者に1年の養成を行う.(3)職業補導所:もともと失業者に対する再教育施設として発足したが,各種技能の短期養成機関として拡大された.職業紹介所を通して,個々の技能につき,3~4カ月の訓練を行う.昭和15年(1940)時点で全国で107の職業補導所が設置されるほどに成長した.(4)工場学校:伝統をもつ学校も少なくないが,1920~30年代に増加し,昭和14年(1939)には大小1,000機関にもなった.これには青年学校令に基づく工場青年学校,従業員養成所,コンツェルン学校,下請青年学校の種類があった.このうち下請青年学校は,大工場が関係の深い中小工場の従業員のために,自工場内に設けた職工養成施設である.大隈鉄工所職工訓育所がその代表例であった.(5)共同学校:独立の経営体である企業が,別の経営体である教育施設と共同して,従業員の教育にあたる場合,共同学校方式と呼ばれた.文部省系統の工業学校専修科,工業青年学校,組合学校,連続制共同学校など多様な形態がとられていたが,このうち中小企業に利用されたのは,組合学校と連続制共同学校であった.こうして中小企業従業者が組織的な技能養成に接触する機会をもつようになるが,この機会を享受できたものは量的に限られていたことはいうまでもない.

 [注]
 1) 日本産業訓練協会編『産業訓練百年史』,日本産業訓練協会,昭和46年(1971),4―7ページ.
 2) 大山敷太郎『鉱業労働と親方制度――「日本的労働関係論」鉱業編――』,有斐閣,昭和39年(1964).特に第3章第4節を参照のこと.
 3) 農商務省編『職工事情』(明治36年(1903)刊)は,訪問,面接,それに調査,統計処理と,多くの方法を駆使した結果として作成された.それは殆どの業種を網羅しているとともに,労働者の生活実態をも明らかにした綿密な調査報告書である.
 4) 工場法の成立からその施行令の制定までに時間がかかったのは,経営者,政府,議会ともその実施に必ずしも積極的でなかったからである.
 5) 関東産業団体連合会『工揚に於ける徒弟制度の現状』,昭和13年(1938),による.
 6) 隅谷三喜男『日本労働運動史』,有信堂,昭和41年(1966),85ページ.
 7) 山崎昌甫「日本技術教育史」,岩内亮一編『技術教育史』,講談社,昭和53年(1978),84ページ.
 8) 兵藤釗『日本における労使関係の展開』,東京大学出版会,昭和46年(1971),264ページ.
 9) この点については,技術過程とそれに影響を受ける労働内容,経営組織における職場組織,労働者の雇用形態など,いくつかの関連する条件・背景について言及しなければならないが,それらは本稿の主題から離れるので割愛しなければならない.
 10) 兵藤釗,前掲書,130ページ.
 11) 清家正『産業人の工的錬成』,昭和19年(1944),79ページ.ただし兵藤釗,前掲書,132―33ページから引用.
 12) 詳細な分析は,間宏『日本労務管理史研究』,ダイヤモンド社,昭和39年(1964),にみられる.
 13) 株式会社会田鉄工所編『AIDA50年I』,昭和42年(1967)3月,1―6ページ.
 14) その概略は,新日本製鉄株式会社釜石製鉄所『釜石製鉄所九十年史』,昭和51年(1976),29―37ページ,および同社同所能力開発課教習所同窓会『四十六年の歩み』,昭和50年(1975),12―28ページによる.
 15) 『私立釜石鉱山尋常小学校校則』全,54ページ.
 16) 以下は釜石製鉄所の社内報『KAMAISHI』の,昭和32年(1957)の各号に掲載された「組長放談」による.
 17) 大山敷太郎,前掲書,特に第3,4章を参照のこと.
 18) 大山敷太郎,前掲書,253―58ページの組頭役の具体例から判断される.
 19) 以上は主として,大淀昇一「日本の技術者運動と工業教育論」,岩内亮一編,前掲書,530―34ページによっている.
 20) 以下は,小山田栄一「中小企業における産業訓練」,日本産業訓練協会編,前掲書,第Ⅲ部,特に513―41ページを参考にした.
 21) 日本工業協会編『工場管理資料』第7号,「見習工ノ採用並養成方法」,昭和10年(1935),1―107ページから抜粋.
 22) 企業側にかかわりのある法令,規定の具体的な取り扱いは,江渡三郎『労務管理実務』,東洋書館,昭和18年(1943),に詳しい.
 23) 大日本工業学会『熟練工養成の体験を語る』,大日本工業学会,昭和13年(1983),にもその議論が試みられている.
 24) この点については,辻勝次「準戦,戦時期の産業訓練の展開」,日本産業訓練協会編,前掲書,300―1ページによった.
 [岩内亮一]