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論文タイトル: 第4章:企業の発展と企業内教育:B 「修業的労働市場」の存立構造ー第1次大戦~昭和戦前期における中小企業労働者の職業訓練・技能養成ー
著者名: 高口 明久
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第4章:企業の発展と企業内教育:B 「修業的労働市場」の存立構造ー第1次大戦~昭和戦前期における中小企業労働者の職業訓練・技能養成ー

 序論:「修業的労働市場」とはなにか

 小論の課題は,日本における中小企業労働者の職業訓練・技能養成のあり方の歴史的展開を実態的に掘り起こすことにあるが,近代的産業の移植後百年以上の期間をもち,しかも多種多様に展開する中小企業に関して全体をもうらして論じることはとうてい任に耐えない.それ故一定の限定を加えざるを得ない.ここでは,その限定をまず年代的に第1次大戦後から1920年代を主要な対象とするということによって行っている.
 この時期の特徴点は,まず第1に,第1次大戦を契機にして日本の重工業化が大幅な前進をみた時期及びそれに引き続く期間という点にある.この時期にも依然として日本の工業の経済的中心は繊維・紡績産業を中心とした軽工業にあり,また軽工業の成長力も高かったが,大戦は目本の重工業発展に巨大なはずみを与えた.そのことは女子労働力に重心が傾いていた工業労働力の中で男子労働力の比重が高まってゆくことを意味するとともに1),重工業とりわけ金属・機械工業における大量の技能労働者の養成の課題を歴史的な課題となさしめることになったのである.重工業大企業における「企業内養成制度」のこの期における普及は,この課題に対する一つの特殊な解答であったことは言うまでもない.
 同時に第2に,ここでの課題である中小企業の問題に即して言えば,この期に至って大工業都市への中小企業の地場産業的集積が急速に進んでいったことを指摘し得る.比喩的に表現すれば,農村,地方都市に散在する形で展開していた「野鍛冶」的段階から,都市の工業地帯に群立する「町工場」的段階への移行が急速に進んだのである.そのことは,中小企業労働市場と呼ぶべき労働市場の形成の上でも重要なことであった.
 第3に,すでに幾多の指摘が行われてきた点であるが,第1次大戦後大企業においては急速に労働者の企業内定着化が進行してゆく.企業内養成,企業内昇進をテコとした労働市場の内部化が行われたのである2).このことによって相対的に企業閉鎖性の高い大企業労働市揚と,開放性の高い中小企業労働市場の階層的二重構造が形成されることになる.この背後には言うまでもなく大企業と中小企業の技術的条件の違いが存在していた.したがって,職工の技能養成過程に関する大企業及び中小企業のそれぞれの特質が顕わになっていった時期であったと言えるのである.
 こうした時期的限定に加えて,産業種に関しても,全体の中でその典型性を確認するという手続を加えながら,重工業,とりわけ機械工業の中小企業を分析の焦点として重視している.このことによって,軽工業や伝統産業における職業訓練・技能養成過程に関する検討は全く不十分なものとならざるを得ないが,それは他の研究の成果に依ることにしたい3).
 さて,このような限定を加えた上で,第1次大戦後の中小企業における職業訓練・技能養成過程の特質を概括して,それを「修業的労働市場」と呼ぶことにした.このことの仮説的な意味は次の諸点にある.
 「修業的労働市場」とわれわれが呼んでいるのは,労働者の技能形成が,制度化された職業教育,訓練システムの下で組織的,系統的に遂行されるのではなく,もっぱら労働者本人の志向と努力に支えられながら,労働市場における移動を通じて達成される状況を指している.労働者の側から言えば,労働市場への参加や移動の行動に,自らの技能を高め,職業的自立をめざす志向が動機づけとして働いている状況である.
 こうした特徴をもつ労働市場及び労働者の行動は,この時期以前においては中小企業に限定されることなく大企業や官営企業においても職人的熟練工の横断的な労働市場及び「渡り」遍歴行動として存在していたことが知られている.重工業の技術水準が未だに労働者の手工的熟練の活躍の余地を大幅に持っている段階において,熟練職種ごとに企業横断的な労働市場が存在し,労働者は大小の工場を広い地域にわたって流動した4).こうした「渡り職工」の頻繁な移動・遍歴を導いていた意識は町工場の経営者として「独立・開業」を遂げることであった.「将来独立して工場を経営するという考えがあるならば,一ケ所の工場だけでは人の使ひ方もわからず,世間の様子もわからず,仕事も専門のことしかわからぬから,いろいろな工場へ転換することが必要」5)だったのである.すなわち修業の目的が支配していた.
 第1次大戦後の中小企業労働者の「修業的労働市場」がかかる「渡り職工」の伝統に深く根ざしていることは言うまでもない.したがって,問題を旧型熟練工の横断的労働市場の特殊な残存として把握することも可能であろう.
 しかし,より一層重要なことは,大企業においてはこの期に「企業内養成制度」の普及・定着が進み,労働市場の企業内部化が顕著になってゆく.その意味で,「職人徒弟制」及び「工場徒弟制」形態での職工養成から「企業内養成制度」の完成に至るまでの過渡的性格をもった状況としてあったものが,中小企業においてはこの期以降長い間にわたって存続し続けた,という事実である.そこには実証的検討を待つ多くの課題が含まれている.
 第1には,中小企業の技術的なそして労働力構成上の存立条件とこの特殊な技能形成過程とが深くかかわっていたということである.戦前,中小企業が年少・若年労働者の存在に強く依存していたことがとりわけ重要である.
 第2には,工業化の進展による大工業都市労働市場の支配圏域の拡大,及び大企業労働市場の内部化に伴う労働市場の階層構造の形成という労働市場構造変動の上で.中小企業労働市場の位置・機能が,そこにおける労働者の技能形成過程の特質とどのように相互関連していたかを問う必要がある.
 そして第3に,この共同研究プロジェクトの全体課題に照らして重要な意味をもっているのは,この「修業的労働市場」が職業教育・訓練の国民的規模での制度化,とりわけ中等教育レベルのそれの成立という課題とどのように関連していたのかという論点である.結論をやや先取りして述べれば,大工業と都市中小企業の間に典型的にみられた,年少・若年労働者の「修業的労働市場」への参入は,職業的知識・技能の獲得を軸にした中等教育への国民的要求の高度化と特殊な形において関連して成立していたと考えられるのである.
 こうした課題を念頭におきながら具体的な資料的検討を試みよう.

Ⅰ 第1次大戦後の大阪市における中小企業労働市場の構造と労働者の技能形成

(1) 第1次大戦後の大阪市の労働調査
 ここでは,戦前期における日本の代表的工業都市であった大阪市に視点を合わせて,第1次大戦後の工業化の進展の下で,大都市の労働市場とりわけ中小企業の労働市場がどのような展開をみたのかを検討し,それを通して当時の中小企業における労働者の技能形成過程のあり様を探ることにしよう.
 大阪市を選んだのは,同市が第1次大戦前後の時期における日本の工業の代表的な都市であったということのほかに,同市において,比較的はっきりした目的意識をもって行われた労働調査が存在していることにもよる.
 よく知られているように,大正9年(1920)には,わが国ではじめて「国勢調査」が実施され,また労働問題に関する行政事務の所掌が農務省から内務省に移管され,社会局において統合されるなど,第1次大戦を契機として,日本の労働調査はようやく発展の気運をつかみはじめていた.その背景には,氏原正治郎氏の指摘するように,「大戦中の経済発展にともなう人口の都市集中,なかんずく金属機械工業を中心とする成年男子労働者の激増・定着,戦後の大量失業の発生」及び「労働運動の胎動と労働争議の激発」があった6).
 しかし,中央官庁の調査が,保健衛生調査,農業労働,小作――地主関係調査を除いては未だみるべきものを生み出していなかったこの時点において,協調会,中央職業紹介事務局,大原社会問題研究所等の機関の実施した調査研究,及び地方官庁の調査がこの時期の労働社会問題に直接とり組んだ貴重な資料を生み出していた.そうした先駆的な調査群の一つに大阪市の労働調査も数え入れることができる.
 大阪市社会部編『社会部報告』として発表された調査報告は,№1(大正8年(1919)10月)から№260(昭和17年(1942)5月)までに及ぶ.その中で,大正末期からは,「労働雇傭関係調査」,「労働争議調査」,「労働組合調査」はまとめられて,毎年『大阪市労働年報』として定式化されてゆくことになる.『社会部報告』の調査の範囲は,労働調査の他,家計調査,住宅事情調査,余暇生活調査,窮民調査等広範なものであるが,なかでも労働調査の比重が最も大きい.発表された当初の構想によれば,労働調査の主な内容は,「人口静動態」,「労働雇傭関係の成立及び解消」,「労働制度の状態」,「労働者の生活の状態」などであるが,「労働者の生活の状態」の中には,「教育に関する事項」という一項が設けられていた.しかし,残念ながら現実には,労働者の教育程度調査,事業所における労働者のための教育制度の有無の調査以上には,直接労働者の教育の問題に取り組んだ調査は行われていなかったようであり,殊に労働者の職業訓練・技能養成の問題に関しては,調査関心のうちに十分とり入れられてはいない.従って,ここでは大阪市の労働市場の現実の様態を見ることによって,中小企業労働者の職業訓練・技能形成の過程を推測することに限定せざるを得ない.
(2) 大阪市における工業化の展開と労働市場
 まず,第1次大戦前後における大阪市の製造業労働者の雇用構造の展開を俯瞰しておこう.
 各年の大阪市統計書に依って,明治44年(1911)から大正15年(1926)までの5人以上使用工揚における業種別労働者数及び構成比率の推移をみる(第1表).
第1表 大阪市産業別労働者数変化
 この16年間に雇用労働者総数で,43,345人から156,652人へと約3.6倍の増加が示されているわけであるが,言うまでもなく,単調な増勢を示しているのではない.大戦中の大正6年(1917)に大正3年(1914)の約2倍(約123,000人)へと急増した労働者数が,戦後恐慌過程における大正9年(1920)には,約95,000人に落ち込んでいる.そして大正12年(1923)の時点では,まだ戦時中の水準に回復せず,大正15年(1926)に至ってそれを突破したことがわかるのである.従って製造業の雇用労働者数の変化について,大きく三つの局面,つまり,①大戦を契機とする急膨張(大正3年(1914)~大正6年(1917)),②大戦後の急収縮(大正6年(1917)~大正9年(1920)),③そこからの回復(大正12年(1923)~大正15年(1926))という三つの局面がみてとれる.
 第1の局面では,総ての部門で雇用労働者の増加がみられるが,構成比によって明らかなように,機械(金属)工業と雑種工業における労働者数の増加が著しい.とりわけ前者は,大正3年(1914)~大正6年(1917)で,絶対数で2.5倍,構成比率において9.0%の急増を遂げ,染織工業に代わって大阪市の工業労働者の構成比率第1位を占めるに至る.他方染織工業部門は,労働者数において,この間殆ど停滞し,従ってその比率は46.4%から26.7%へと急減している.第1次大戦を契機とする産業構造の高度化,重化学工業化が大阪市においてことに著しい進展をみたことは,この簡単な観察によっても窺えるだろう.
 第2の局面においては,逆に総ての部門で労働者数は減少しているが,この揚合,雑種工業を除くと,構成比率においては第1次大戦中に形成された比率がほぼ維持されている.第3の局面に至って,総雇用者数は再び大戦中の水準を上回るが,ここで特徴的なのは,染織工業が2倍以上の急増を遂げ,構成比率においても36.0%と再び第1位となったことである.同時に,機械,化学などの部門も,大戦中の水準を越える増加を示している.
 大阪市の重工業化の進展の様子は,第1表に付した労働者の男女比をみてもよくわかる.重工業化が比較的早期に進んできた大阪市においては,すでに明治44年(1911)の段階において男子労働者が3分の2を占めており,日本全体では4割に満たないことを考えれば工業労働者の男子化が進んでいたことが明らかだが,大戦中その比率はさらに4分の3にまで高まった.言うまでもなく,金属,機械,化学など重化学工業では男子労働者が大多数を占め,それが女子労働者の比重が圧倒的に高い繊維産業を凌駕したことが男子化を進めたのである.しかし前述したように第3局面に至ると,染織工業労働者数の急増に対応して,男子労働者の比率は急減し,再び3分の2の水準にもどっている.
 性別構成と並んで工業化過程での需要労働力質の特徴をみるうえで重要な意味を持っているのは,労働者の年齢的な構成である.殊に産業における若年・年少労働者の存在は,技能形成過程という観点からは極めて重要な意味を持っている.第2表に示したのは,職工100人以上使用工場における各種工業の16歳未満の労働者(少年工)と16歳以上の労働者(成年工)のそれぞれの比率を経年で示如が大きな制約になっているが,これによって大まかな推測はできよう.
第2表 産業別少年工(16歳未満)比率
 全体を通してみると,大正12年(1923)~昭和2年(1927)において,少年工の比率は6.7%→5.7%→8.1%→11.5%→8.7%と推移している.大正15年(1926)に10%を越えている点が注目される.もちろんこれは,総労働人口の年齢構成の変動との関連を考慮する必要はあろうが,この期間に全体として16歳未満の少年工の比率が必ずしも減少傾向にはなく,むしろ増加傾向にあったという点,十分注目しておく必要がある.そのことが,いわゆる児童労働(工場法に規定する児童は12歳以下)の増加を意味しないとすれば,この期間に高小ないしは尋常小卒後工場労働に参加する少年が増加しつつあったことを意味するものと考えてよいであろう.労働者総数の増加を考えれば以上のことは一層あてはまろう.
 産業種別にみてゆくと,少年工の比率は産業種毎に大きく異なっている.少年工の比率が高いのは,染織工業,雑種工業,飲食品工業などで,殊に染織工業では大正15年(1926)には2割弱が16歳以下の年少労働者によって占められるに至っている.前述したようにこの年は染織工業労働者数が大戦中の停滞から急増をみ,再び構成比率第1位になった年でもある.その急増を支えたのが年少女子労働者であったことがうかがえるのである.
 雑種工業と飲食品工業に関しては,経年の変動の振幅が非常に大きいことが特徴的である.飲食品工業では,大正12年(1923)の11.16%から大正15年(1926)の2.89%まで変化しているし,雑種工業も大正12年(1923)の17.82%が大正14年(1925)の5.08%へと変化を示している.この背景には,この期に両産業とも労働者数の絶対減,構成比率の大幅な縮小をみていたことが考えられる必要がある.産業の後退の過程において年少労働者が激しく移動していることがわかるのである.
 これらの産業に対して,化学工業での少年工の比率は6%内外で比較的安定している.このことだけでは必ずしも明確ではないが,伝統的な年少労働者の存在形態といわれたマッチ工業や硝子工業など,年少労働者の見習工(「徒弟」)の一定数が,低賃金の補助労働者として,不可欠の位置を与えられていた例がこの産業に多く見られるのである.
 機械工業においては,少年工の存在比率は極めて小さく,1%を前後する水準を続けていることが大きな特徴である.ここに示されているのは,職工100人以上使用の中~大工場であるので,全労働者数においてはより大きな比重を占める100人未満の小工場の状況と同一視することはできないが,少なくともこれら中~大規模の機械・金属工場では16歳未満の年少労働者の果たす役割は極めて小さいものであったことが言い得る.このことは,中~大工場の労働力は,既経験成年労働力をもって充当されていたことを推測させる.一つには,機械・金属工場における労働は他産業と比較してより熟練を要求したことが年少の非熟練労働者の役割を小さいものにしたであろう.と同時に,この時期がおおむね第1次大戦後の不況の時期に当たり,労働市場は弛緩しており,中~大規模工場では既経験成年労働者による労働力調達が可能であったことを示しているものとも考えられる.その場合,労働経験を積み,技能を形成する場として,100人未満の中小工場が一定の役割を果たしていたであろうことが推測される.とすれば,そこには工場間の移動を通じて労働者が技能形成をなしてゆくというプロセスの存在に思いあたる.次に労働者の移動の構造に目を向けてみよう.
(3) 地域間労働移動の構造
 大阪市の工業発展を担う労働力はどのような給源から補充され,また再生産されていたのだろうか.
 大正12年(1923)及び大正14年(1925)に行われた,労働者の出身地調査の結果をみると,いずれも第1位は地元の大阪府だが,全体に対する比率は大正12年(1923)の37.1%が,大正14年(1925)には23.2%と低下している.大阪に次ぐのは兵庫,鹿児島,広島,香川等となっている.大正14年(1925)には沖縄が急増しているのも目立っている.これを見てすぐ気づくように,地理的に近接した地域の出身者と,非常に遠隔の地の出身者とが共にあらわれている(第3表).
第3表 労働者出身地(府県)第10位まで
 こうしたことが起こってくる事情は,産業毎に出身地域が一定地域にまとまる傾向があるからだと大正12年(1923)度の『大阪市労働年報』は述べている.
 「茲に興味あることは,業態によって出身地方の特色が現はれてゐることで,之を例せば,繊維工業の鹿児島,和歌山,香川,高知県等の出身者,機械工業の兵庫,広島,岡山,愛知県人,化学の朝鮮出身者,飲食物の石川県人,特殊,雑の奈良,和歌山出身者と言うが如き之である.これ即ち紡績工女の如きは鹿児島,和歌山両県及四国地方を中心に其募集を行ってゐる工場が多数な為めであるし,機械工になると,素人よりも次項に明かにする通り既経験者の方が多数で従って其出身地に兵庫,広島,愛知県等工業的特色を有する地方を持ってゐる者が多い訳であるが,最も首肯し易い理由は平凡ではあるが一工場に居る職工が夫々自分と同じ工場に在郷の友達を呼寄せて一所に働く傾向が著しい結果その工場は遂に一地方人に依って占められるといった風に漸次一業態は一地方人に依って占めらるるに至るのではあるまいか.」7)
 ここに述べられていることを整理すれば,産業毎の労働者の出身地の特徴は,①従業員を特定地域において募集する産業――繊維工業における女子労働者の場合がこの例であり,募集人を利用して比較的遠隔の特定地域から一括大量採用する場合,②ある程度工業化した地域から既経験労働者が移動して流入する産業――機械工業が代表例で,年齢別構成でも明らかなように,企業は既経験労働者の熟練技能を利用しようとしたし,労働者にとっても移動は技能的達成のために必要な手段でもあった.③そして地方出身者が都市に流入しそこでの生活に適応する上で地縁的結合が利用されるという事情,これらの3点が指摘されている.
 ①が未婚女子のいわゆる「家計補充型出稼ぎ」の形態,③がそれ以外の農村過剰人口の都市への移動の様態を示すものとすれば,②はわれわれの言う「修業的労働市場」の存在を示唆するものと言えよう.
 こうして大阪市における工業化の進展は,西日本全域に及ぶ労働力供給の構造を形成してきているのだが,同時に大都市内部への労働力の滞留・蓄積が進んでいることにも注意を払う必要がある.各産業で地元大阪府出身者が占める比率を算出してみると,地元出身者の比率が特に高いのは,雑種工業(42.3%),飲食品工業(38.3%),機械工業(37.1%)などであり,逆に最も低いのは染織工業(10.5%)である.染織工業で地元出身者の比率が低いのは未婚女子出稼労働者の遠隔地からの一括募集・採用にこの産業が依存していたことを如実に示す.それに対して前三者の産業では都市人口の中からの労働力供給がかなりの程度に達している.ここに労働者の大都市への蓄積の一定の進行と,世代的再生産の展開をみることもできよう.
 大阪市に流入する労働者の様態をよりインテンシブに追究した独立の調査が大正10年(1921)に行われ,『社会部報告№9』「雇用関係成立前の事情」として発表されている.無作為に抽出されたサンプルではなく,対象者の約4分の3が25歳以下の若年労働者,また約半数が市立の工業学校や実業学校,府立職工学校の在学生であるなど,流入労働者全体を代表するものではないが,それだけに技能形成過程にある労働者の状況がよくうかがえる.
 対象になった労働者の現在の職業をみると,女子の場合の2分の1は繊維工業労働者で占められ,また3分の1が飲食品工業労働者である.男子の場合,2分の1は機械工業労働者で他産業を圧倒している.これに次いでは繊維工業,化学工業の二つの産業の労働者が1割を越える比率を占めている.
 まず対象者の出身地をみると,第4表のようになっている.
第4表 性別原籍地
全体では近畿地方がやはりもっとも多くを占め(36%),次いで四国地方(15%),九州地方(14%),中国地方(12%)となっており,この四地方で全体の77%を占める.しかし,男女の違いは極めて明白で,男子に関しては,近畿地方の優位はもっと大きく(40%)なっているのに対して,女子の場合,九州(21%),四国(20%)の比率が高く,近畿地方出身者は10%とはるかに少ない.これはすでに見てきた大阪市労働者の出身地の在り方とほぼ一致している.
 これらの労働者が大阪市に流入する場合,出身地から直接に(従って1回の転住で)流入する場合と,間接に(2回以上の転住で)流入する場合とがあり得る.その両者の関係をみると,第5表に示すように,直接来住者の比率が高いのは,兵庫(92.3%),香川(90.7%),大阪(82.1%),鹿児島(78.0%)などの府県であり,逆に間接来住者の比率が高いのは,広島(38.2%),島根(33.3%),福井(28.6%)などの県である.
第5表 直接来住者と間接来住者の比率
これらの結果から調査報告は労働者の地域移動のあり方にかかわる次のような仮説を示している.
 第1に,労働力大需要地である大阪市へ近接した地域からは直接来住者の比率が高いという傾向である.大阪府,兵庫県出身者に直接来住者の比率が高いことがこれに当たる.
 しかし第2に,距離的には大阪市から遠くても直接来住者の比率が高い場合がある.鹿児島県や香川県がそれに当たるが,これは,繊維女工に典型的に見られた,九州,四国の農村の若年女子労働力をねらう募集方式と密接にかかわっている.
 第3には,距離要因以外に,出身地の都市化・工業化の程度という要因が働いている.直接来住者の出身地は比較的都市化.工業化の進んだ地域が多いのに対して,間接来住者の出身地は農村が多い.大都市から相当に離れた農村の出身者は,まず中継的な地点として中規模な都市に流出後,さらに大阪市に流入する場合が多いのである.島根県,広島県の農村出身者の場合,広島市,呉市などの瀬戸内の工業都市を中継点としている.こうした工業都市間の移動が熟練技能労働者の比重の高い機械工業労働者に典型的にみられたことは,すでに述べたところである.
 ところで,この「雇用関係成立前の事情」調査では,対象者達の出郷の理由を問うている.その結果をみておこう(第6表).
第6表 流出の理由
 まず男子からみてゆくと,この括り方では経済的原因が44%と最も多く,次いで社会的原因34%で,家庭的原因はわずかである.経済的原因のうち第1次的というのは,やむをえざる流出を示すもので,言わば経済的プッシュ要因と考えられよう.それに対して,第2次的というのは,「求職」,「職実習」,「技術習練」などより積極的な職業志向に対応する経済的プル要因と考えてよいだろう.このようにみると,男子労働者の場合,両者の対比は81人対144人となって後者が2倍近くに達していることに注目できる.
 社会的原因にまとめられているのは,「勉学」,「立身」,「都会生活」など社会的成功を遂げる手段としての流出を意味している.中でも「都会生活を好む」という答えが97人と全体を通じて最も多数を占めている.
 対象者が若年層に集中し,また勤労しつつ在学している青年が半数を占めているという条件を考慮しなければならないが,出郷理由に,積極的な職業的達成志向をあげる者がかなりの比率を占めている.そうした傾向を示すと思われる第2次的経済的原因144人,社会的原因のうち「勉学」62人,「立身」12人を加えると,全体の42%を占めている.限られた調査結果から即断することは危険だが,この時期に,都市流入を通じて職業教育や技能形成の機会を得ようとした青少年が多数存在していたことはうかがわれよう.
 女子の揚合,「都会生活を好む」という答えが5分の1を占めやはり最も多いが,それ以上に目立っているのは第1次的経済的要因で,合わせて約4分の1を占めている.家庭的原因も合わせて,プッシュ要因の強さが目立っている.
(4) 職業間労働移動の構造
 まず,現在工場労働者である者について,現在の職業に就く以前に工場労働者であった経験を持っているか否かを産業種別にみておこう.第7表に明らかなように,既経験者と未経験者の比率は各産業によって,非常に大きな差がある.既経験者の比率が高いのは,機械工業(70%),特殊工業(54%)であり,逆に既経験者の比率が低いのは,染織工業(22%),化学工業(22%),雑種工業(30%)などである.言うまでもなく,既経験労働者の比率が高い産業では経験によって支えられる熟練労働の役割が大きいと考えられるし,未経験労働者の比率が高い産業では,少年や女子によって担われる不熟練労働が一般的であることが考えられる.
第7表 労働者中工揚労働の経験者の比率
同時に,工場労働の既経験者の比率が高いことは,それがそのまま労働移動率そのものと結びつかないにしても,その産業において労働者が頻繁に工場間の移動をなしていることを示すものと考えられよう.
 では,これらの工揚労働の既経験者の移動は,同種工業間の移動(同職間移動)であるのか,それとも異種工業間の移動(異職間移動)であるのか,この点に注目してみよう(第8表).
第8表 既経験労働者の前職
 まず指摘できるのは,機械工業における同職間移動者の比率の高さである.この産業における女子労働者の比重は極めて小さいので男子労働者に限ってみてゆくと,同職間を移動してきた者の比率は92.5%で非常に高い.この産業での工場労働既経験者の比率は70%であったから,機械工業労働者の約3分の2の者は他の機械工場での労働経験を経て現在の工場に就業していることになる.ここにはこの産業に典型的にみられた職工の「渡り」移動の存在が示されている.
 これと対比的に,化学工業や飲食品工業での同職間移動者の比率は小さい.前者では約半数,後者では1割に過ぎないのである.機械工業と同様に,工場労働既経験者の比率との積を求めれば,化学工業で11.6%,飲食品工業で3.6%が同種工業での工場労働経験を持っていることになり,それぞれの工業の労働者全体からみれば,極めて小さい比率しか占めていないのである.
 では,これら二つの工業の既経験労働者のうちの異職間移動者は,いずれの工業種から移動してきたのか.この揚合,男子と女子とは大きく異なり,男子の場合,機械工業からの移動者の比率が特に高く,化学工業では29.2%,飲食品工業では実に68.3%がこれに当たっている.機械工業の工場労働経験者は他の産業にもかなり移動していることがわかる.女子の場合,雑種工業からの移動者が特に大きな比率を占めている.
 さらに染織工業の場合,機械工業に次いで同職間移動者の比率は86.8%と高いが,うち女子が特に高く93.0%に達している.この工業の労働経験を持つ女子労働者が,同業種の工場間を移動することがかなり頻繁に起こっていたことがわかる.しかし,染織工業労働者全体の中で工場労働既経験者の比率は小さいので,全体に対する染織工業労働経験者の比率は19%とかなり小さいものになる.
 このように既経験労働者の移動の様相をみると,男子における機械工業,女子における染織工業が,労働市場において格別の位置を占めていることが明瞭になる.ともに,量的比重において最大というばかりではなく,同職間移動者の比率の高さできわだっている.このことは,同種工業での労働経験が移動に際して大きな意味を持つ,言いかえれば経験によって形成される熟練技能が高い評価を与えられていたものと考えて良いだろう.しかし染織工業女子労働者の場合,その多くが未婚女子の「出稼ぎ」形態として,労働市揚には限られた年数しか登場しないのであって,それ故,こうした経験的技能形成も比較的限られたものでしかない.この産業で未経験労働者が圧倒的な比率を占めていることからもそれはわかる.それに対して機械工業の場合は,労働者全体に対して機械工業の労働経験者が約3分の2を占めており,経験的技能形成の役割ははるかに大きい.とともに,ここでは技能を軸に形成された,企業間を越える横断的労働市場が存在していることが推測し得る.伝統的な「渡り職工」タイプの労働移動が,自由度を制限されながらも大規模に残存していたと考えるべきであろう.
 工場労働の未経験者の前職はどのような構成になっていたのかを検討しよう.全体に関して言えば,第1の比重を占めているのはやはり農業で43.6%(男48.9%,女40.4%)を占めている.次いで学生(ここでは尋常小学校以上の,高等小学校,中等程度の実業教育機関を中心に,女学校や中等学校の若干を含んでいる)で19.3%(男13.9%,女22.5%)を占める.以下,無職14.0%,家事6.7%,商業6.1%,奉公3.3%,雑業2.8%等が続いている.
 産業別の様相をわかりやすくするために,原資料に若干手を加え,いくつかの職種分野を一括して示したのが第9表である.男女別に検討すると,男子では,次のような特徴があげられる.①前職を農業とする者の比率が高く,かつ学卒就職者の比率も高い産業――化学工業,染織工業,②前職を農業とする者が特に低く,無職者の比率の高い産業一飲食品工業,③商業から転じた者が目立つ産業――雑種工業,④学卒就職者の比率が低く,雑業層も含め,多様な職業層から労働者が入っている産業――機械工業といった特徴である.
 この結果には,既に第7表に示した労働者中の工場労働既経験者と未経験者の比率の産業別の在り方と,一定の関連性がみられることに注目される.①の染織工業,化学工業は未経験者が8割近くを占めていたが,それらの未経験者の多くは,農村から離農者あるいは学卒者としてこれら産業に流入していることがわかる.これらが都市外部の労働力給源への依存が殊に強い産業であるとすれば,②,③,④の産業はいずれも都市内部の給源にもある程度依存している.しかし,それらの産業の中でも大きな差違がある.飲食品工業及び雑種工業は工場労働未経験者の比率はかなり高かったこと,また労働者の出身地として大阪市の比率が高かったことも合わせて考えると,この二つの産業は,都市内部に滞留・蓄積された非工業部門の人口が工業労働に転じる際の入口として,相対的に広く開かれ参入しやすい産業であったことを示すだろう.それに対して機械工業の場合,もともと未経験者の比率は限られたものであった.しかし,工業労働者全体の中でのこの産業の比重の大きさから言って,かなりの規模の労働者が諸職業層から参入しているのである.
第9表 未経験工の前職
(5) 中小企業労働者の職業的志向と技能形成
 すでに前節で述べたように,大正10年代は,打続く不況下での労働市場の弛緩を背景に,重工業大企業を中心に,労働者の企業内定着が強まり,いわゆる労働市場の内部化が進行していった時代であった.その軸になったのは,基幹労働者の企業内養成・昇進の体制の形成にあった.
 実際,大阪市内の工揚においても,労働者の移動率はこの期間に急速に低下している.各年の労働年報によって労働者100人以上使用工場における労働者の解雇率・雇入率の推移をみると,全体では大正12年(1923)段階で解雇率68.2%,雇入率70.4%という高い移動水準が,昭和2年(1927)には同42.6%,38.5%にまで低下したのである8).
 しかし,これをもって,あらゆる規模の工場において労働者の企業内定着が進んでいったと考えることは誤りであろう.例を機械工業にとってみると,もともとこの産業においては,労働者の移動率の水準は,他の産業種に比較すれば,相対的には低いものであり,この期にさらに低下するが,それでも大阪市内の100人以上規模の機械工場における,昭和2年(1927)段階での移動率は,解雇率26.6%,雇入率30.4%となっている.これを同年の三菱神戸造船所の解雇率8%,また住友製鋼の同11%と比較してみればわかるように,相当大きな差が認められる.言うまでもなく,大阪市の労働移動統計には,中規模の機械工場をも含んでいることが,この差違を生み出している.つまり,この期に労働者の企業内定着が高まっていったとしても,それは大工場に関してであり,中規模以下の工場ではかなり開放的な労働市場が残されていたことが推測できるのである.
 まして,この労働移動統計には含まれない100人以下の小規模工場においては,労働者の移動は,はるかに頻繁なものであったに違いない.同時に,1920年代において,500人以上規模の民間の重工業大工場及び官営工場での労働者数は停滞していたのに対して,中小工場の労働者数は顕著に増加していたことが考え合わされる必要がある.総括的に述べれば,1920年代を通じて,労働市場の二重構造の形成が大きく進行したのである.
 中小企業労働者の相対的に頻繁な企業間労働移動には,不況そしてそれに続く大企業における合理化過程の下で反発・排出された労働者達が中小企業に雇用の場を求めざるを得なかったという強制移動の側面が存在したに違いないが,同時に,中小企業の技術的・組織的条件及び労働者の志向に規定された,特有の技能形成過程のあり方に深くかかわっていたと考えられる.
 その点を,労働者の就業希望理由を工場規模別に調査している『社会部報告№215』に依ってみておこう.ただし,残念ながらこの調査が行われた時点は昭和11年(1936)で,今までみてきた1920年代の状況とは,かなり違った状況下にあることに留意する必要がある.1930年代半ば以降,準戦時体制の進行とともに急速な重化学工業化の進展がみられる.例示すれば,昭和6年(1931)~昭和13年(1938)に全国の工場労働者総数は166万人から322万人へと約倍増するが,紡績・繊維工業の労働者の増加が15%程度に過ぎないのに対して,金属工業約3.7倍,機械工業約3.9倍,化学工業約2.6倍となっており,重化学工業の労働者の増加が著しい9).また,昭和7年(1932)~昭和13年(1938)に1000人以上使用の大規模工場労働者の数は28万人から95万人へと約3.4倍も増加しており,大規模工場への労働者の集中傾向も進んでいる10).ただし,このことをもってただちに,労働市場の二重構造が解体しつつあったと言うことはできない.この間に5人~49人規模の工場労働者の数は,74万人から198万人へとやはり増加しているのであり,小零細企業の労働市場もぶ厚く展開しているのである.
 これらの状況を念頭に置いて,同報告の調査結果をみると,先ず第1にこの期に職を求める労働者の志向が,大企業へ集中する傾向が指摘されている.そのことは,同報告が掲げている昭和10年(1935)現在における大阪市内の大工場(従業員201人以上)と中小工場(同200人以下)との求人求職状況に如実に示されている(第10表).
第10表 規模別求職倍率
 とともに第2に,労働者の大企業への志向は,大企業と中小企業との間の賃金,給与における大きな格差を意味するものではないことも指摘されている.
 「いま,これ等を更に要約して見るに,給料(初任給),昇給,賞与などの待遇においては大商工業方面と中小商工業方面とでは,その間殆ど差異を認め得ず,給料(初任給)の如きは,使用人の募集に困難を感じてゐる中小商工業方面において,却って良好なものが多い.而して,この点については,大商工業方面を希望している求職者も,大商工業方面必ずしも中小商工業方面よりは給料,昇給,賞与など良好であるとは思ってゐないやうで,今日,職業紹介所を訪れるものの大多数が,大商工業方面の就職を希望する最も大きい理由は,これら以外に存しているのである.即ちそれは大部分,勤務時間,公休日を初め生活の安定,住込通勤関係に其[ママ]因してゐるのであって,勤務時間の正確なこと,日曜祭日に休めること,失業の心配が少いこと,及び通勤が出来ることなどが,大商工業方面に求職希望の殺到する一大原因となってゐる.」11)
 実際,大企業労働者,中小企業労働者それぞれに対して,就職先の選定理由を聞いた同調査の結果をみると(第11表),大企業を選択する理由として,「事業及び組織関係」と「勤務時間関係」の2項が殊に目立って高い比率を占めている.また「失業関係」(失業の恐れが少ないこと)も大企業選定の大きな理由になっている.
第11表 求職者希望就職先選定理由
 こうして,求職者の大企業への志向の高まりがみられるのであるが,第3に,他方で中小企業を志向する者も存在しており,その場合の選定理由には極めて強い特徴がある.「仕事範囲・技術習得関係」,「転職又は独立営業等の関係」という理由のきわだった高さがそれである.
 今,それらの理由の内訳を少し詳しくみると,「仕事範囲・技術習得関係」理由回答88の内,「技術の習得に適切していること」57,「仕事の全般に亘って習得できること」22,この2回答が大部分を占めている.そして,「転職又は独立営業等の関係」理由回答45は,すべて「独立営業する準備に便益なこと」という理由となっている.
 改めて言うまでもなく,ここには技能形成の場としての中小企業への一定の積極的な評価が示されている.そしてその技能形成過程の特徴は,「仕事の全般に亘る」万能工的熟練形成であり,同時に目標として独立への志向が含められていることである.
 この点は,大企業選定理由における「仕事範囲・技術習得関係」理由の内訳と比較してみると一層はっきりする.そこでは,「仕事の範囲が分業的に判然と定まっていること」,「希望の技術を専門的に早く習得できること」,などが評価されているのである.つまり仕事の細分化,専門化の下での技能形成過程の特質にほかならない.と同時に,「町工場では材料が不足勝ちで技術の習得に不便が多いこと」とか「炊事其他の雑用をしなくてもよいこと」など,中小企業における「徒弟制」的技能形成の形骸化に対する評価も示されている点に注目することができる.
 また中小企業が労働者によって技能形成の場として評価されていると言っても,それを一面的に過大視することはできない.前述のごとく,全体としては,大企業への志向が大きく上回っている状況の下である.中小企業選定理由の「経歴・性格・体質等の関係」理由の中で「大商工業方面は採用条件が難しいため」,「自己の学歴・技術からみて大企業方面は不向なこと」などの消極的な理由が目立っていることからもそれがわかる.中小企業労働者の中に,大企業労働市場から反発,排除された労働者がかなりの多数存在していたことを示すものであろう.
 さて,以上この節で述べてきたことを簡単に総括しておこう.第1次大戦を契機とする工業化の進展は,大阪市の場合,とりわけ重工業化の急進としてあらわれたのであった.拡大する労働市場は,西日本各地からの労働力の流入によって支えられたが,都市工業労働者の一定の集積は,繊維・紡績工業に典型的にみられた「出稼ぎ型」の労働力地域間移動類型に加えて,工業都市間,あるいは都市内部での労働者の移動という型を増大させ,重工業,とりわけ機械工業においてはこれへの依存が明らかであった.同時にこの産業において,既経験労働者の格別の比重,高率の同職間移動がみられる.そこには,同種工業の工場間を転々と「渡り」ながら,経験を通じて,万能工的な熟練形成を図り,独立営業を志向するという「修業的労働市場」の存在がうかがえる.1920年代の慢性的な不況下,重工業大企業における労働市場の内部化の進展の下で,この開放的労働市場の存在範囲は必然的に限定を受けるが,解消に向かうわけではなく,労働市揚の二重構造を形成しつつ存続していった.そして,1930年代の後半以降の準戦時体制下での重化学工業化の段階に至っても,必ずしも存在意義を失ってはいないのである.そこには言うまでもなく,中小企業の技術的,組織的条件に規定された技能形成過程の特質が刻印されていたと考えられる.この条件と特質を具体的に検討するのが次の課題となる.

Ⅱ 中小企業における「徒弟」制の変容と技能養成過程

(1)「徒弟」制の変容遮程

 前節を受けて,第1次大戦後の時期の中小企業における技能養成過程を具体的にみてゆく.中小企業における技能養成過程をここでは「徒弟」制という概念によって概括し特徴づけてゆくことにしたい.と言っても,はじめにも述べたように,純粋な理念型としての徒弟制をこの期の中小企業に見出そうとするわけではないし,それは不可能でもある.なおかつこの概念を用いてみようとするのは,当時中小企業において若年の技能形成過程にある労働者を「徒弟」と呼び慣わしていたという慣用性の問題と,伝統的な「徒弟」制からのズレや変質という視点から考えてみたいという理由からである.その意味でここで主要な問題としているのは,中小企業における「徒弟」制の変容過程であるととになろう.それを具体的事例を通じて検討する前に,概観を得ておきたい.
 すでに序論でもふれたように,徒弟制の変容の歩みは,重工業大企業における養成体制の展開に即して,「職人徒弟制」→「工場徒弟制」(「見習工」制)→「企業内養成制度」という過程として把握する仕方が一般化してきた.そして第1次世界大戦後の時期は,大企業においては不況,合理化を背景に労働市場の内部化が進行するとともに,第3の「企業内養成制度」の定着が進んでゆく時期であった.
 これに対して,中小企業では言うまでもなく組織的,体系的な養成制度は程遠い課題であったと言わなければならない.Ⅰで大阪市の労働市場の展開についてみてきたように,中小企業においては,労働市場の地域的,企業的開放制が維持され,機械工場など技能職揚では「渡り職工」の存在分野も大きく残されていたのであった.
 しかし,中小企業においても「職人徒弟制」形態による技能養成は,伝統的な技能職種にその存在分野を残すとしても,もはや一般的なものでなくなりつつあった.「徒弟」の名が従来通り用いられていたとしても,実質は形骸化を深め,年少・若年の賃銀労働者に対する呼称に過ぎないという事態が広がりつつあったと言い得るのである.
第12表 徒弟「年期」の分布
 そのことはまず,徒弟制(「職人徒弟制」)の中核の位置を占めている「年期」の状況からとらえることができる.京都市役所が昭和2年(1927)に行った『商工徒弟に関する調査』によって,京都市内商工業徒弟(「見習店員」,「見習職工」)の年期の分布をみると(第12表),5年及び10年にやや高い頻度がみられるにしても,年期の期間は,1年未満から15年(工業)あるいは20年(商業)にまで幅広く分布している.2年未満の短期の年期にせよ,あるいは10年を越える長期の年期にせよ,伝統的な年期の観念からは大きく外れたものであり,実際には年期契約そのものが従来のような意味を失っていることを思わせる.それを,より端的に示しているのは,年期が「不定」あるいは「不明」とする者が工業では6割も,商業でも4割存在していることである.ここには徒弟制の変質が明瞭に示されている.
 重要な特徴の一つであった「住込制」についても変化が現われている.同調査によれば,工業徒弟について工場に住込で働く者は45.0%に過ぎず,半数以下となっている.それにかわって自家から通勤する者や寄宿舎に住む者が多数に上っている(第13表).
第13表 徒弟の居住形態
この点では商業徒弟の場合は依然として住込形態が大多数に上っているのと対照的である.商業と比較して工業に通勤形態が多いことに関して,同調査報告は次のように述べている.
 「一般徒弟が自己のために自由に消費し得る時間を欲し,従って通勤を希望せるもの多き故にして,且工業徒弟にありては,日々一定の工程を繰返し,商業に較べて,勤務に規定があり,通勤の可能性を多く有せることを語るものであらう.」12)
 中小工場に働く「徒弟」(年少工)の間に,賃労働者としての意識が広がりつつあり,また実際に勤務形態において事実上の賃労働者化が進んでいたことがわかるであろう.
 いま一つ「徒弟制」を支えていた要素としての年期の明けた徒弟労働者の処遇の問題を取り上げてみよう.やや下るが昭和10年(1935)に東京市社会局職業課が行った『住込小店員,少年工調査』の結果からみると,第14表のごとくなっている.
第14表 年期奉公制度の諸形態
独立開業を前提とした(1)の暖簾分け,独立援助は,小店員でも5%,少年工2%に過ぎず,むしろ例外的な形態になっていることがわかる.独立援助を部分的に含む(3)の形態と合わせても,小店員で17%,少年工で10%に過ぎないのである.それにかわって,ほとんど大多数を占める位置に上っているのが,(2),(4),(5)などの年期明けに一時金を支給する形態である.ここには,親方一徒弟間の人格的帰属関係が変質し,失われつつあり,特殊な賃金支払形態を含んだ雇用関係という性格が色濃くなってきているのである.
 以上の年期,住込,年期明けの処遇のあり方等の概観を通じて,中小企業における「職人徒弟制」の後退は明らかとなった.年少労働者が「徒弟」と通称されていたとしても,その実質は殆ど失われていた,では,それに代わってどのような技能養成過程が中心になっていたのか.その詳細は事例の検討に依るとして,いくつかの特徴点をあらかじめ摘出しておこう.
 第1には,隅谷氏等が「工場徒弟制」と呼んでいる形態であるが,年少・若年労働者を見習職工あるいは幼年職工として直接に雇用する形態が広がっていたと考えられる13).これが「職人徒弟制」と基本的に区別されるべき点は,たとえ見習の期間(年期)が定められていたとしても,その期間は「一人前」の資格を受けるに足る職業訓練期間としての意味は喪失し,むしろ年少・若年労働者を低賃金で雇用する雇用形態として存在していることである14).すなわち,特殊な賃労働の形態として存在している.先にみたごとく,年期の分布が著しく多様化していることはこれを裏書きしている.この時期には正式に徒弟契約を結び,熟練工あるいは雇用主と師弟関係を結ぶ「職人徒弟制」に近い形式が行われている場合にも,徒弟制の教育的機能の縮小が明らかであり,実質的には上と同じような状況が広がっていったと考えられる15).
 第2に,こうした状況が広がっていく基本的背景には,中小企業における年少・若年労働力への独特な依存という状況があった.一つには技術的条件であるが,中小企業における機械化の水準では,依然として手作業や汎用機が中心であり,生産は経験を積んだ職人的熟練工を中心として行われていた.と同時にこうした職人的熟練工を補助し,雑役を担う未熟練労働者を抱えておく必要があったのである.かかる役割を果たす者として,徒弟や見習工を「追い回し」として利用することが一般化していた.いま一つには,中小企業の経営,労務管理上の条件である.中小企業の経営条件の劣悪さ,不安定性が,「徒弟」や「見習」を低賃金で利用することへの強い誘因として働いていた.この場合,職業訓練期間を意味する「年期」は,年少・若年労働者を低賃金で雇用する上での名目となっていたと言える.
 しかし,第3に,年少・若年労働者が技能形成の途上にある存在であるという事情は変わるものではない.徒弟制の形骸化の下であっても,技能形成の過程は存在していたに違いない.ただ,「一人前」の職工として要請される技能程度は,産業種,職種に応じて大きく異なっていた.高い技能を要求される熟練職種であればあるほど,長年の経験と訓練を必要とした.ところが「工場徒弟制」の下では,「徒弟」,「見習工」に意図的組織的に訓練や教育を施すことは殆ど行われなかった.技能形成過程にある年少・若年労働者は「追い回し」的に周辺的な補助労働や雑務に従事しながら,先輩職工の技能を「見よう見まね」で「盗み取り」する形で技能の向上を図るのが一般的であったのである.同時に同種工場間を頻繁に移動する「渡り」行動が,雇用主の恣意による「徒弟」・「見習工」の処遇や低賃金雇用に対する労働者の側の殆ど唯一の対抗手段としての意味を持つほかに,技能形成の手段としての意味を持っていた.町工場で高く評価される「万能工」たるためには,さまざまな工場間を移動して多様な「場数」を踏むことが不可欠とされていたし,雇用主もまた,こうした万能工的熟練工を高く評価したからにほかならない.ここには明らかに「修業的労働市場」の存在がみられる.
 第4に,「工場徒弟制」による労働者の技能養成の胚胎する矛盾を指摘しておかなければならない.基本的な矛盾は上にこれまで述べたことから明らかなように,「訓練」や「教育」は殆ど名目にとどまり,実質的には年少・若年労働者を低賃金で雇用するための手段にほかならなかったことである.「修業的労働市場」の存在によって,必ずしも意図せざる結果として付随的に熟練工の形成が行われていたにしても,その成否は大きく労働者個人の努力や才覚に依存していたことになる.
 この基底から派生して,さまざまな問題点が存在せしめられる.一つには,労働者にとっては技能形成や職業的達成の手段として不可避の意味を持つ頻繁な移動が中小企業の経営主を悩ませることになる.移動は賃金上昇の圧力を生むしそれ以上に「徒弟」や「見習」に対する訓練や教育投資の回収を不可能にもするからである.その故に一層中小企業主は「徒弟」,「見習」の訓練・教育に熱意を失うという循環を生み出す.
 これとかかわって二つには,「徒弟」や「見習」の「年期」は訓練期間としての実質を喪失して,年少・若年労働者の低賃金雇用を可能にする雇用形態として置かれるが故に,雇用する側から言えばこれをなるべく延長することに利益がある.これは既に「職人徒弟制」下においても現われていた事態でもあったが,10年以上に及ぶ過長の「年期」あるいは不定「年期」が生まれてくる.訓練期間は不当にダラダラと引き延ばされる訳である.もちろん,これに対しては労働者自身の側の移動が強力な抵抗手段として働き,年期明け以前の移動が目立ってくることになる.この事態に対応する形で,中小企業でも,機械化,合理化が一定進んだところでは1年未満や2年程度の短期の「年期」も出現してきている.熟練工養成から外れざるを得ない.
 これらの諸矛盾の帰結するところは,中小企業における熟練工の安定的な再生産システムの崩壊であり,準戦時・戦時体制下の重工業化の急進に伴う大企業の若年労働力の吸い上げという事態の中で,中小企業は深刻な労働力不足,技能人材不足に陥ることになる.この点は結論で改めて述べることにする.
 第5に,やや補足的になるが,中小企業労働者間にも,学校教育水準の高度化が進行してきていることである.各年度の『大阪市労働年報』から工業労働者の学歴構成変化をみると,大正8年(1919)の段階では,不就学の者7.7%を含んで85.1%までが尋常小学校卒業以下の学歴であり,高等小学校卒業・中退者は10.7%に過ぎなかったのが,昭和2年(1927)には,高等小学校卒業者の比率が25.3%に達している.就中,機械工業ではこれが35.2%となっている16).男子労働者の比率の高さもあるが,機械工業労働者が「職工中の知識階級」と呼ばれた理由がうかがえる.言うまでもなく,若年労働者層ほど学歴水準の高度化がみられる.前掲の京都市役所社会課の『商工徒弟に関する調査』では,工業徒弟のうち50.3%,商業徒弟のうち65.5%は高等小学校卒業程度以上の学歴を有している.やや下って昭和10年(1935)段階での前掲の東京市役所『住込小店員,少年工調査』は,少年工の59.7%,小店員の60.9%が高等小学校卒業程度以上の学歴を有していると報告している17).
 こうした高等小学校卒業者の拡大を軸とする学歴水準の高度化は言うまでもなく入職年齢の上昇を意味する.尋常小学校卒業後13歳で入職するパターンから高等小学校卒業後16歳で入職するパターンへと次第に移行してゆくことになるのである.このことは,「徒弟」,「見習」の雇用主から必ずしも歓迎されておらず,尋常小学校卒業者への採用希望を述べる者が圧倒的に高いが(前掲の京都市役所社会課調査では,工業の雇用主の8割弱は尋常小学校卒業者を採用したいと述べている)18),にもかかわらず,上の高学歴化の過程は進行しつつあった訳である.このことの意味は大きいと考えられる.
 一つには,「徒弟制」が持っていた,一般教育,「しつけ」教育的機能の後退が必然となったことである.「徒弟制」は,年少者を職人,職工として技能的に自立可能な者として養成するという職業教育機能のほかに,社会人として必要な「しつけ」や「教養」の最低限をも身につけさせる一般教育的機能をも有していたのであるが,学校教育の普及・高度化とともにその余地は狭められる.と同時に「徒弟」や「見習」とその雇用主との間の被教育者――教育者,なるいは被保護者――保護者という擬制家族的関係も薄れざるを得ないことにある.
 いま一つには,学歴水準の高度化は,年少・若年労働者の知的能力を高め,中等教育レベルの組織的な職業・技術教育への能力上の接近可能性を高め,また要求を生み出していったことである.実際中小企業に働く「徒弟」,「見習」の決して少なからぬ部分が,工業専修学校や商業専修学校などと称せられていた実業補習学校への通学を希望していたし,通学者もかなりあった.前掲の京都市役所社会課の調査によれば,工業徒弟のうち,18.0%,商業徒弟のうち6.4%が実業補習学校の通学者である.これ以外にも講義録等に依って独学する者もあった19).こうした志向の高まりに対して,雇用主がいかなる態度を取っていたかを統計的に明らかにする資料はないが,大企業が企業内教育制度を形成しつつあったのに対して,中小企業では外部の教育機関に夜間通学を許すという程度が殆どであり,それも,過長な労働時間に妨げられて限られた範囲でしかなかったのである20).
 これともかかわって最後にいま一つ補足を加えるとすれば,中小企業の経営主は地元出身者よりも遠隔地の出身者を求める希望が強かった.京都市役所調査では,工業雇主の44%が「他国モノノ方ガ良」と述べており,「土着モノノ方ガ良」とする者22%に倍している21)(商業雇主の場合,同46%と10%).その理由に関して,「土着者は実家に出入の機会多く,動もすれば自身の痛苦を両親に訴へるため,将来を謬ること多し」22)という雇主の証言が記されている.雇主は徒弟が年期の途中で止めたり,移動したりすることに悩んでおり,実家の位置や情報の得やすさなど,移動しやすい条件を持った地元出身者を嫌っている.「住込奉公」を不可避とする点でも遠隔地の出身者が望まれた.また,雇主が徒弟に望む第1の気質としての「温順ナルモノ」が,地方出身者に多いと考えられていたことも関係している.
 実際,京都市内で働く徒弟の出身地をみると,当然ながら京滋を中心とするものの,近畿,中国,四国,中部,九州諸地方から広範に集まってきている23).労働市場の吸引力という点では,大阪市,神戸市などに比してかなり規模の小さい京都においてもこのように広域から年少・若年労働力を集めていたことになる.大阪市の労働者の出身地の広がりについては既にⅠで指摘したところである.
 伝統的な「職人徒弟制」の下での,徒弟の修業の地と出身地との関係がどうであったかを知る統計的な資料を得ることができないので明確に断定することはできないが,親権者と雇主(親方)の比較的密接な結びつきから考えて,さほど広域に及んでいたとは考えられない.それがこのように広域化してきている事実は大都市労働市場の労働力給源としての地域への支配力の拡大と重ね合わせて考える必要があろう.中小企業の「徒弟」,「見習」としての地方出身者の採用はその一つの重要な吸入口であったと考えられるのである.
 問題を地方出身の年少・若年労働者の側からみれば,就業機会の格差とともに広義の教育機会の格差が動因として働いていたと考えてよいだろう.農業教育を除いて勤労者が学べる中等教育レベルの職業教育・訓練機関(殊に工業教育)は著しく大都市に偏在していたという事実があるし,また中小企業の職場そのものが職業的・技能的養成の場としてみなされていたことは,Ⅰの中小企業労働者の企業選択意識にも示されていたところである.
(2) 機械工業・金属工業
 大正10年(1921)の東京市内および付近10機械工場を調査した北沢新次郎の報告によれば24)(以下,『北沢報告』と略す),機械工場における熟練職工養成には2種類の方法がある.一つは「徒弟」であり,いま一つは「見習」である.両者の実質的な差異は,就業年齢と年期の違いにあり,前者は14~15歳で入職,平均5年半程度の年期,後者は17~18歳で入職,平均2年程度の年期である.前述したように,後者のような短期の年期が行われるようになったことは,「職人徒弟制」から「工場徒弟制」への移行・変質過程の端的なあらわれと言えるが,たとえ「徒弟」の方法をとる場合でもその形骸化が明らかである.
 「元来此の徒弟制度は欧州諸国に於ても左様であったが,我国でも手工業時代に於ては厳格なる規定があって,其れが為めに比較的組織立った機関と効果ある機能とが実現されて居たのであるが,近年の大規模組織の工場工業が発達するに伴れて急速なる速度で廃頽するに至った.それでも英米諸国の労働組合では,現在でも組合の主張として徒弟制度に関する幾多の制限干渉を行って居る.我国の労働組合では斯くの如き主張も無く,一方近代工業が急激に発達した結果従来の徒弟制度が著しく廃頽するに至った.そこで実際に於ては一人前の職工となる過程として三年乃至九年の徒弟年限を入れるが,斯くして入職した職工が一両年の技術の練磨を為すと徒弟年限の満期を待たずに其の工場を辞し,他工場に入って入職試験を受けて一人前の仕上工旋盤工となることを希望する者が少からずある.それは,徒弟期間中は其の生活が甚しく無趣味且つ悲惨である許りでなく,賃金も入門当時は少しも貰はないで単に少額の小使銭を貰ふに過ぎないので,技術の修得が可成り進んで賃銀を得るやうになってもそれは甚だ寡少であるがために,一刻も早く一人前の職工と為らんとするの希望が工場を転換することに依って其の目的を果さんと焦ることになるのである.」25)
 年期明けを待たずに頻々と工場を移動するのは見習工の場合も同様である.「併し之れも近時に於ては正確に見習期間を終了しないで,一工場に見習工として入職し其の少しく技術を修得するや他工場に転勤することに依って普通一人前の仕上工旋盤工となる階梯を早めんとする者も少くない.」26)
 何故にこうした頻繁な移動が行われたのであろうか.一つには,『北沢報告』も述べているように,移動は賃金を高める手段であった.「年期」期間中の無給,低賃金状態から脱出するために移動は行われたし,成年職工の場合も,仕事の閑散や賃金条件によって移動が行われた.ここには伝統的な親方――子方(徒弟)の身分的関係から資本――賃労働関係への移行過程が示されていると言えよう.
 しかしそれのみではない.いま一つには,技能形成上も移動が重要な手段であったことである.町工場に於ても徐々に機械化が進行しつつあったと言っても,機械の殆どは万能工作機械であり,速度も精度も劣っていた27).それらを使いこなして作業を進めるためには,労働者の「カン」や「コツ」の果たす役割は大きかった.同時に工場内での職種や職務の分化が進んでいなかった.機械工業の町工場では「概して云へば旋盤工と仕上工の両者のみだと云ふも間違ひない」という状況があり,一人前の熟練職工として通用するためには,多様な機械工業,手作業のどれも一応こなす「万能工」的性格が要求されたのである28).さらに生産品も多種少量生産を中心としており,「つぶしが効く」ことは一層強く要求される.
 こうした町工場の生産・技術的条件に規定されて,労働者が技能を向上させる上では,多様な生産場面に直面して経験を蓄積させることがどうしても必要であった.この点について,機械工業の小規模工場調査の報告を行った木内誉治は次のように述べている.
 「移動が技術の修業過程たる事である.この要因も亦若い職人に対し最もよく働く.例へば大工場の場合に於ては,長い間には仕事に対して一応の経験を持ち得る一方,其の工場に就職してゐる限り技術(腕)の如何に拘はらず先づ一応生活は安定して居る.が町工場の場合に於ては,一つの工場に就職して居た所で,何時其の工場が解散の憂目を見るやも知れず,結局は技術によって立たざるを得ず,且つ何処の工場に於ても『恥をかかぬ様』勤める事が必要である.『若いうちに渡り歩かなけりゃ,年とってからぢゃ駄目だ』とは先輩の口を揃へて云ふ忠告である.」
 経験によってのみ蓄積される手工的万能工的熟練は,容易に伝達され得なかったし,また多くの場合,熟練労働者である先輩職工は,自らの技能を「秘伝」化することに努めたのである29).
 その点をもう少し具体的に示す例として,小工場における労働様式に関して詳細に調べた一調査の結果をみよう30).
 対象のM鍛造工場は従業員総数22名が四つの組に編成され,それぞれ独立して作業を行っている.組の中心は「横座」でその下に「先手」「カネヤキ」「ハンドル手」などが組み入れられる.作業の能率,品質を決定的に左右するのは「横座」の持つ長年の経験的熟練であるが,それは,「転々と移動を続け,その間,技術的『腕』を磨く」ことによってのみ得られる.「一つの職場に固着し,単一の機械を使用し,一定のもののみを製ってゐては,技術的片輪」になると言われ,「横座」はもちろん,「先手」以下の労働者達も「渡り」を重ねてきている.そのことは,この工場の年間離職率が50%にも及んでいることにもあらわれているが,例えばB組横座は「東京市内の鍛冶場を殆ど残す所なく歩いた」と言い,D組横座も先手としての4年半のうちに20箇所余りの工場を転々とし,「技術を少しでもよく覚えるために,よりよく覚えられる所を求めて移動した」と述べている.
 「横座」熟練が秘伝化されている点は,「横座は設計図を見せない.すなはち,仕事の前相談は絶対しない.先手には,自分が何を作ってゐるか知らされない」とか,「仕事,技術を教へない.先手は,それを横座から少しづつ盗み取るよりほかはない」と述べられている点によく示されている.
 こうした結果は,秘伝化された熟練を自らのものとするためには,「単なる必要年数のみで測定されないこと」であり,「物理的に計算される年数よりも,はるかに長い年数が必要とされる」ことになるわけである.
 さて,こうして中小工場の特殊な生産条件,技術的条件の在り方が,そこにおける労働者の頻繁な移動遍歴を規定していたわけであるが,その場合注意する必要があるのは,こうした状況の下では,「年期」は一人前の技能労働者として扱われるに足る客観的な資格としての意味を十分果たし得なくなっているという点である.それに代わって経験年数と場数を踏んだ遍歴の経歴がものを言うことになる.だが,そのいずれについてみても,熟練の社会的資格として客観化し得ないものをはらんでいる.つまり,熟練が「秘伝」性を持ちその獲得が幾多の偶然的な事情と,労働者の熱心によって左右される結果として経験年数や遍歴が熟練を近似的に表現していたわけで,何らかの熟練「資格」が社会的,客観的に定立され,それによって労働者の熟練度が評価される可能性は殆ど存在していないのである.この点にわれわれは「徒弟制」の資格付与機能の喪失を知ることができるだろう.
 では,学校教育は機械工業の中小企業労働者の職業的・技能的達成の上にどのような意味を持っていたのか.最後にその点を検討しておこう.
 前述したように,機械工業の労働者は中小企業労働者の中でも比較的高い学歴水準を示していた.前出の『北沢報告』は次のように述べている.
 「仕上工旋盤工は,一般の職工に比すれば其の教育程度が割合に高いものがある.それは彼等が入職する形式的過程である徒弟契約を為す際にも普通義務教育の終了が条件となって居るのが例であるし,且つ熟練職工として技術を熟達する上に可成り高度の知識を必要とするが故に,自然に知識的訓練が為されて行くのを見る.そして是等の者の知識欲の旺盛なることは彼等に接触するものの常に感知するところで,講演会若しくは講習会或は夜学校に出席する者の比率は甚だ多数である.加えて其の或者は一度仕上工旋盤工として就職後と雖も,或は特種の技術を修得するために其方面の学校に入学する者が非常に多い傾向となって居る.」31)
 機械工の熟練形成過程において,基礎的教養と一定の科学的・技術的知識が必要となってきていること,同時に機械工の学習意欲も高まっていることが指摘されている.
(3) ガラス工業
 ガラス工業も典型的な中小企業の存在分野であった.第1次大戦後,大規模工場では原料の熔融に槽窯が導入され,三交替の連続操業が行われるようになりつつあったが,大多数の中小工場では坩塙窯が使用されており,成型作業も殆ど手吹きで行われ,手工業段階からさほど隔たってはいなかった.したがって,労働者の経験の上に積み重ねられた手工的熟練が重要であることは,機械工業の場合と同様であったと言える32).
 しかし,機械工業に比してガラス工業の際立った特徴をなしているのは,年少・若年労働者の存在比率が極端に高いことである.大阪府社会部『硝子工業労働事情』の示すところによれば,労働者中20歳以下の者が4割を占め,ほぼ3分の2が25歳以下である.また,朝鮮人労働者も約2割を占めている33).高熱の下での手吹き作業が非常な重労働であって,早期に労働能力の減退が起こることがこれに強くかかわっている.
 「硝子職工として得意な時代は二十六歳以上三十五,六歳位までであると云われて居る.……中略……然しその華やかな時代も誠に短く従来の人口吹によった硝子製造方法にあっては一般に三十六,七歳の声を聞くときには既に早老の部に入れられたさうである.此年齢に達する頃より工場に於ける生産能率は逓減し,夏期に於ける労務は最早や之に対抗し得ざる程心身に疲労を感じ,かくて硝子職工とし第一線に立ちての活動は漸次不適当となり,自ら独立して事業を企て得ざるもの,或は雇主が飼殺的に雇傭せざるものは終に硝子製造工程の第一線より引退するの止むなきに至るのである.」
 こうした事情から年少・若年労働力への依存が目立つことになる.それだけではなく,さらに,彼らを低賃金労働力として確保することが零細な経営を維持する不可欠の手段となっていたのである.
 「徒弟制度が全く滅びてしまったならば大阪の硝子工場の過半数は閉鎖しなければならないでせう.一体硝子は外見非常に利益が多いやうですが,其実なかなか競争が激しくて油断出来ないものです.然も作業の性質上従業者の一定人員は必須のものであって其内一人,二人が休んでも早速仕事の段取が狂ふものですから仕事に従業する或定数の者を徒弟として家に養って居くてふことが一番安全です.現今全部の職工を通勤させる日給制の工場もありますが,職工が欠勤した場合其補充の為め定数より幾人か余計に雇傭しなくてはならず,然も職工が全部出勤すれば,剰員が出来るから其等には歩をつけて帰すかさもなくば外の仕事をさせるといふことですが,斯のやうなことは小工場では実際負担に耐へられないことです.」34)
 中小工場にとって「徒弟」を抱えておくことの経済的意味が端的に語られている.連続的な工程処理という作業の特質からくる人員確保の必要性及び不熟練労働の必要性がガラス工業において年少・若年労働者が多く雇用されている大きな原因となっている.
 このような目的を持って年少・若年労働者が雇用されるとすれば,たとえ同じく習慣的に「徒弟」という名が冠されていようと,教育的機能はほとんど失われざるを得ない.ガラス工業においても伝統的な職工養成方法は,もっぱら「職人徒弟制」形態で行われていたことは,機械工業の場合と変わりがなかったとみられるが,ガラス工業が家内工業段階から工場制工業段階に推移するに従ってその形骸化が進行していった.さらに決定的な打撃を与えたのは工場法制定であった.
 「大阪府下の硝子工場に於て徒弟の認可を受けて之を使役して居る工場は一つもない.蓋し工場主は繁雑なる手続を経て徒弟の認可を受くるも之によりて受くる実益極めて少きによるものらしい.」35)
 前述のように徒弟制は,雇主にとっては経済的に便利なものであったから,雇主はその存続を望んではいたが,しかし工場法の徒弟条項の適用を受けることはこれを忌避する者が殆どであった36).その結果,この調査が行われた大正末頃(大正13年(1924))には,年少労働者といえども,特に年期を定めずに成人労働者と同じように雇用することが一般的であった.もちろん低賃金ではあるが徒弟に対する「あてがい扶持」とは明確に区別される程度の賃金も支給されていた.また,補習学校通学の便や寄宿舎収容の便などの条件によって年少工の獲得に腐心していたという37).にもかかわらず,年少労働者の確保は年々困難を増しつつあったので,従来の「徒弟」の役割を代替する者として朝鮮人労働者の雇用が広がっていった38).
 同報告は,ガラス工業における職工養成の現状を次のように総括している.「之を要するに硝子工業に於ては徒弟制度は未だ全く滅びてしまっては居ないが,徒弟の実質をもった幼年職工は必然的に消滅する運命の下に置かれてゐる.工場法が徒弟制度を認めた所以は年期幼年工を徒弟として公認するの趣旨ではなく,一つは我国古来師弟の間に存する特殊の温情関係を保存し,特別の教養制度を認め精巧工業の発達を促さんとしたものであったが事実に於て幼年職工の雇傭は之を雇主側より観察せんか,其目的は幼年職工の傭使によりて営業上の利益を得んことを専らとするものであって,教習を施し品性の陶冶に力を尽して監督指導するといふやうな篤志に乏しきことは幼年職工の減少に伴ひて朝鮮人職工を重宝とする現象に於ても窺ひ得らる可く,一方幼年職工の側より看るも労務の提供に依りて賃金を得んと欲するのであって,永年の修業によりて知識技能の習得を目的とするが如き態度に欠けて居ることを否定するわけに行かない.これ即ち工場法による徒弟の存在せざる所以ではなかろうか.」39)
 以上によって,ガラス工業の中小工場においては,第1次大戦後の時期には「職人徒弟制」はほぼ駆逐されていたこと,それにかわって年少・若年労働者を直接に職工として雇用し,オン・ザ・ジョッブで仕事を覚えさせてゆく「工場徒弟制」形態が一般化していたことがわかる.しかし年少・若年労働者を低賃金不熟練労働力として使用する傾向が強かったこの工業においては,「職人徒弟制」の崩壊に伴って職業訓練・技能養成は組織的には殆ど行われないという状態であったと言えよう.その点,名目的にではあれ「徒弟」,「見習」年期が存続し,「渡り」修業が広く見られた機械工業の場合と対比的である.
(4) 中小企業労働者と実業教育
 既にふれたように,中小企業労働者の学歴水準は,高等小学校卒業者の急速な拡大を軸に徐々に高まりつつあり,それとともに中等教育レベルの職業教育機関で学ぶことへの要求も高まっていった.機械工業労働者の知識欲,学習熱が注目されたごとく,熟練形成過程に一定の科学的・技術的知識を必要とする事態も徐々にではあっても広がりつつあったし,他方,年少・若年労働者を雇用する雇用主側が彼らを引きつける優遇措置の一つとして通学の便宜を与えるという場合も見られた.こうした中小企業の年少・若年労働者にとっての学習の場はどのようなものであったか,若干の具体例をみておこう.
 中小工場に働きながら学ぼうとする者に対して当時開かれていた教育機会としては,工業補習学校がその殆どを占めていたと考えてよいだろう,東京,大阪など大工業都市においてはこのほかに工業各種学校の存在があるが,全体としては限られたものであった.
 まず工業補習学校からみておこう.確認しておく必要があるのは,実業補習学校制度の中での工業補習学校の位置である.大正9年(1920),実業学校令改正の中で,実業補習学校規程は大幅に改正された.主要な改正点は,①実業補習学校設置権限者の拡大,制限の撤廃を通じて実業教育の普及を図ること,②「小学校の教科を卒へ職業に従事するものに対し職業に関する知識技能を授くると共に国民生活に須要なる教育を為す」という目的の明確化,③教育課程を前期(2年間)と後期(2年間)に分け,前期あるいは後期のみの課程の設置を可能にすること,高等実業補習学校の設置,短期講習など課程の編成規程の明示化などであった40).しかし,改正の狙いであった実業補習学校の普及・拡充は工業補習学校に関しては殆ど失敗に終わってしまった.第1に工業補習学校数及び生徒数は明治41年(1908)の252校,15,362名をピークとしてその後明治43年(1910)代,大正9年(1920)代を通じて停滞・減少を続けていった.昭和5年(1930)でみると,99校,13,331名に過ぎない.減少の目立つのは国立(3校が総て大正12年(1923)には廃校)公立の工業補習学校で,逆に私立は大正9年(1920)代末には急増(大正9年(1920)の8校,752名が昭和5年(1930)には19校,4,324名)していた.第2には実業補習学校全体の中で工業補習学校の占める比率の小ささである.大正9年(1920)では,学校数で0.93%,生徒数で1.43%を占めるに過ぎない.この比率もさらに減少することになる.この量的水準からみて工業補習学校が職工養成の機関として果たした役割をさほど評価するわけにはいかない.
 量的水準からばかりではなく,質的な水準でも一般には低水準であった。多くの工業補習学校が小学校に附設されていた関係上,施設設備は工業教育機関の実質を殆ど備えていなかったし,殊に実習設備の無さは決定的だった.また予算の面,教員の面でも貧困さが目立っていたのである41).
 このように,一般には工業補習学校が職工養成機関として果たした役割をさほど評価することはできない.が,中には注目すべき実質を備えた工業補習学校の存在が指摘できる.『産業教育百年史』は次のようにその点にっいて述べている.
 「東京,大阪,神戸など大都市では,全国平均に較べればある程度多くの経費が投入されたこと,限られた地域に相当数の学校が設置され,生徒も多く,その地方の工業の種類に応じた学科や科目を設けることができたこと,などから,十分ではなかったにしても,職工の技能養成機関としての機能をある程度果すことができたといえよう.少くとも,三菱神戸造船所や横浜船渠など大企業が養成工制度の確立過程において,公立の工業補習学校を利用(学校に対して物的・人的援助をするとともに生徒の授業料や教科書を負担するなどの方策がとられた)したところでは,そういうことができる.」42)
 すなわち,大工業都市という背景の下で,しかも,企業側から委託教育として積極的なバックアップがあった場合には職業訓練・技能養成の実質がみられる場合もあった.1920年代後半に私立の工業補習学校のみ急増したのは,大企業が企業内養成体制を整備していったことと関連するものであった43).
 しかし,委託教育などを通じて労働者の通学を積極的に支援することは,中小企業には容易に広がらず,例外的なことであったと言ってよい.経済的負担という点もさることながら,Ⅰで考察したような見よう見まねの非組織的な経験的技能の形成が主流であった中小企業において,労働者の技能の実習と座学とを効果的に接合することが非常に困難でもあったから,職工養成の上での実効をさほど期待できなかったことが大きい.また,年少・若年労働者の確保に悩む雇用主にとって,通学という機会を通じて労働者が他の職場の労働者と知り合い,情報を得てより条件の良い職場に移動することを強く警戒したから,労働者の通学には必ずしも熱心ではなかった.長時間労働の下で,中小企業労働者が通学を続けることは容易ではなかった.個々の労働者の熱意に支えられる部分が殆どだったと言えよう.
 そうした一般的状況の下で,やや異彩を放っていたのは,やはり東京,大阪,神戸など大工業都市の,しかも実習設備を備える上で比較的恵まれた条件にあった工業学校附設の工業補習学校であった.これらの都市では比較的早期から独自の実業補習教育にかかわる教育計画の研究,立案が進んでいたが,その中で中小企業労働者の就学への配慮もみられる44).ここでは大阪市に絞ってやや詳細にみておきたい.
 大阪には,明治40年(1907)創設の府立職工学校(大正5年(1916),府立西野田職工学校及び府立今宮職工学校となる)に代表される職工養成を重視する伝統がみられ,工業補習教育にも熱心であった.大正9年(1920)の実業補習学校規程の改正に際して大阪市ではドイツのミュンヘンの補習学校組織に学んで,高等科3校,中等科4校,普通科53校を設置する計画を作成している.計画では,機械,指物,金物,陶磁器,印刷,莫大小,建築,製菓,電工,釦工,洋服,織物の諸学科が設けられることになっており,中小企業の存在分野が重視されていたことがわかる45).
 たとえば,大阪府立西野田職工学校には「大阪府立西野田高等補習学校」と大阪工業会の設立になる「大阪工業専修学校中等部」とが附設されていた.前者は4カ月間の課程で,11の学科が設置されている.後者は,高等小学校卒,2カ年の課程で,機械科,電気科,応用化学科の3学科が置かれ,定員800名となっている.こうした工業学校附設の工業補習学校は実習設備も充実しており,職工養成機関としての実質を備えていた46).
 また,地場産業の中小企業との連携や委託教育の方式も試みられていた.「学校と業者との直接の連絡については,例へば大阪市立都島工業専修学校,大阪市立実業学校補習専修科等に於ては,特に学則中に委託教育に関する条項を設け,別に定むる規定に従ひ,工業関係者より委託生20名以上を送る時は,之がため特別の学級を編成し,専門職業と結びつけた独特の教育を行ってゐる.」47)
 「補習教育と地方産業との接近に於て,特に興味ある施設は,大阪市味原商工専修学校と附近工場との連絡である.同校附近には,セルロイド,ブラシ,鍍金等の中小工場が散在してゐるが,同校はその特殊の産業の徒弟を教育する目的で,ブラシ科,セルロイド科,鍍金科の三科を設けたが,勿論実習場の設備もなく,ただ必要なる知識を授くるのみであった.同校の校長以外は深くこれを遺憾とし,附近の工場主と再三再四交渉したる結果,やうやく生徒実習の指定工場を設けしめた.その結果,学理は学校,実習は指定工場に於て,夫々実施することとなり,指定工場の技師等を指導員に嘱託して,実習の指導をなさしめた.」48)
 これらの注目すべき例を生みながらも,やはり全体としては,それはあくまで少数に止まり,工業補習教育の主流とはなり得なかった.大多数の工業補習学校は尋常小学校の教育内容を文字通り「補習」する程度に止まり,中等教育機関としての実質を備えていたとは言い難かった.また,労働者の職業訓練,技能養成の機関としてもその役割はそれほど大きなものではなかった.
 ただ,附言しておくが,Ⅰに示したごとくこの期に中小企業に働く年少・若年労働者の間に通学を希望する者が少なからず存在し,少数とはいえ実際に工業補習学校や各種学校で学習をしていた者が存在していたという事実は,けっして小さいことではない.国民教育の観点から言えば,このことは中等教育の大衆化への要求のあらわれであり,中小企業の職業訓練の観点から言えば,徒弟制の崩壊過程にあってそれにかわる新たなより社会化された訓練システムを課題として要求していたことを示すものと言えるだろう.

結論:中小企業における「修業的労働市場」の存立構造

 これまでの資料的検討から明らかになったことがらを,「修業的労働市場」の存立構造という観点からまとめておく.
 まず,はじめにも述べた「修業的労働市場」の特徴点を,より明確に再確認する.労働者の技能形成が労働市場における移動を通じて行われるという事実を指して「修業的労働市揚」と呼んでいるわけだが,第1次大戦後の時期にかかる特徴をもった労働市場が大都市において成立していたことがほぼ確認し得た.技能形成志向を軸に頻繁に中小工場間を移動する労働者達の存在が,典型的には中小の機械工場にみられた.
 技能形成過程としてのその特質をあげれば,①そこでめざされている熟練の性格は,手工的内容を多分に含んだ万能工的熟練であり,職種の分化が進んでいないこと,それにも規定されて,②技能形成が著しく経験に依存していること,人為的な「秘伝化」も加わって,技能形成過程は容易に合理化し得ないものになっていた,③同時に,修業の成果は修業する個人の努力や熱心に決定的に依存していること,④修業する労働者の志向の中心が職人的自立,そして「独立,開業」におかれていること,言い換えれば修業する労働者を支えた上昇志向は,自営業主層を達成の目標としていた.上のような諸特徴は,「職人徒弟制」下の徒弟労働者とも共通した特徴と言えるが彼らとは異なって,⑤最早「年期」の意義も拘束力も大幅に後退している.「年期」が存在していても教育・訓練期間としての実質は失われつつあったし,年期契約なしに直接に職工として雇用される形態が広がった.⑥とともに,中小企業労働者の間に賃金労働者としての意識も明瞭になりつつある.しかし賃金労働者としての自立の根拠がやはり「腕」としての熟練にある限り技能形成志向は消滅しない.⑦そして最後に第1次大戦後の時期になると高学歴化と相まって,職場遍歴による経験的熟練形成とともに職業教育への要求が労働者の間に形成されてきた.以上の諸点があげられよう.
 こうした特徴をもった「修業的労働市場」を存立せしめた要因は何であったろうか.
 基本的にはそれは,古い「職人徒弟制」の崩壊の過程にあらわれた一つの歴史的事象であり,そのような意味での過渡的性格をもった一つの状況であったと言い得る.とりわけより大規模な企業にはこのことがあてはまる.重工業大企業では,いち早く「職人徒弟制」が崩壊した後,第1次大戦後「企業内養成制度」が整備されてゆくまでの間,過渡的形態として「工場徒弟制」が行われた.この期間には,第1次大戦後の中小企業におけると同様な頻繁な職工の「渡り」移動が存在していた.この状況の中から大企業では,基幹労働者を「子飼い」養成する方策がとられてゆくことになるのであった.ところが中小企業においては,この過渡的性格を持った状況が長い間存続し続けたのであり,少なくとも戦前期においてはこれにかわる組織的な技能養成の体制は実現をみなかったのである.
 第1にはこれに中小企業における特殊な技術的条件がかかわっていることは疑いないであろう.その条件が手工的,万能工的熟練を不可欠としていたことについては既に述べた.
 それにかかわって第2に,中小企業が年少・若年労働者を不熟練の補助労働力として大量に必要としていたことである.万能工的熟練労働力+不熟練補助労働力という労働力構成が主要にとられていたから,年少・若年労働者を常に補充する必要があった.彼らは熟練労働者の予備軍であるとともに,現実には低賃金で使用し得る不熟練労働者として存在していた.ここに形骸化したとはいえ「徒弟」の観念が存続してゆく根拠があったといえよう.すなわち裏返して言えば,中小企業主と年少・若年労働者との関係が次第に資本家と賃金労働者との関係の色彩を深めつつあったことは事実だが,他方で経営と労働の未分化な中小企業においては,企業主は同時に熟練職工でもあり,徒弟として,渡り職工として修業の過程をくぐり抜けてきた者が多数を占めていた.その意味で中小企業労働者との同質性も多分に残存していたわけである.中小企業に働く年少・若年労働者の「独立,開業」志向も一定の現実的根拠をもっていたことになる.
 以上が主として中小企業の経営内部の事情に規定された要件であるが,それだけでは十分ではない.中小企業に特殊に「修業的労働市場」が残存し続けたことには,より広い要因がかかわっていた.
 そうした要因として第3に,第1次大戦後に生起していった労働市場の構造変動をあげることができる.第1次大戦~1920年代の大阪市の労働市場の展開をみてきて,そこには三つの局面(大戦を契機とする急速な重工業化の展開,不況下での重工業化の縮小・停滞,そこからの回復過程)がみられたのであるが,これらを通じて労働市場構造変動上は大きくみて二つの変動側面の交錯を指摘し得る.
 一つには,大阪市を一典型とする大工業都市の労働市場が,広域にわたって地方を労働力給源としてとらえ,支配下に組み込んでゆくという側面である.遠隔の地方農村の労働力が直接に捕捉されるとともに,大工業都市の労働市場と中小の工業都市のそれとが階層的に構造化されるという形でこの過程は進行していった.こうした大工業都市の労働力の吸引力には,大企業のそれももちろん大きいであろうが,それ以上に都市に密集する中小企業の力が大きく働いていた.殊に前述のように中小企業の年少・若年労働者の需要の強さからいって,地方農村・都市のそうした層が大工業都市の労働市場に参入する入口として大きな位置を占めていたのである.
 いま一つの側面は,大企業労働市場の内部化の進行に伴う市場の階層構造の形成である.Ⅰでみたように,第1次大戦後大企業では労働者の企業内定着化が進行した.それと対応して職を求める年少・若年労働者の大企業への志向が高まっていったこともみた.不況を背景に大企業は雇用労働者に強い選別力を行使し得たし,基幹労働者を「子飼い」労働者で固める方策がとられた.さらに先進的な企業では「企業内養成制度」の体系化も進められていった.このことによって,労働市場は相対的に企業内閉鎖性の強い大企業労働市場と,開放性の強い中小企業労働市場に階層化され,後者には,大企業から反発された退職者や旧型の熟練工などが滞留してゆくことになる.かつては大企業にもみられた「渡り職工」は大企業からは駆逐されてゆき,中小企業にのみその存在分野を見出すことになってゆく.しかし,見逃すことができない重要な点は,この期の大企業の職工の「子飼い」養成の体制はほとんどの場合大企業の基幹工のしかも一部分に限定されていたことである.それ以外の部分については,格別の養成の過程を経ることなく未経験工あるいは既経験工が必要に応じて雇い入れられる体制が続いていた.その場合,機械工業など技能労働の比重の高い産業ほど既経験者が重宝がられたのであり,その彼らの多くは中小企業労働者の中から移動していったのである.こうして,労働市場の階層構造は,一方では大企業労働市場から反発された労働者が中小企業労働市場に下降・滞留するという流れとともに,中小企業労働市場において一定の経験を積んだ若年労働者が大企業労働市場に上昇移動するという二重の流れを含んで成立していた.不況の過程では前者の流れが大きく目立ったが,工業化が急進する過程では,後者の流れが急激に大きくなる.この期の労働市場の階層構造形成は,大企業労働市場への労働力供給・排水池としての中小企業労働市場の位置を規定していったのである.したがって,大企業が全体包括的な「企業内養成制度」の体系を完成していない段階において,中小企業の「修業的労働市場」の存在がそれを補完する役割をも果たしていたことになる.
 いま一つの重要な要因としてあげておかなければならないのは,初等義務教育の普及がほぼ完成に近づき,中等教育への要求が大衆の間に広がりつつあった段階において,そしてなおかつ勤労する青少年のための職業教育を軸とする中等教育機関が,国民的規模において未成立の段階において,中小企業の「徒弟」・「見習」となることには,上のような教育要求を満たすための代替機会としての意味があったことである.「職人徒弟制」の形骸化・崩壊化の過程にあって,「徒弟制」の教育機能はほとんど実質を失いつつあったにもかかわらず,名目的には教育制度という観念が残っていたし,そのこと以上に,少なからぬ中小企業の年少・若年労働者が自己の努力や夜学への通学などによって教育要求を満たそうとしたのであった.このことに,中等レベルの職業教育機会の地域的格差構造が強くかかわっていたことも既に指摘しておいたところである.これらの諸要因に支えられて,中小企業における「修業的労働市場」が存立していたと考えられる.
 しかし,Ⅱにも指摘したごとく,中小企業におけるかかる職工養成の体制には深い矛盾が存在していた.この矛盾は,準戦時,戦時体制下の重工業の急速な発展に伴って「労働力不足」が,国家問題化するほどに至る時点で一挙に顕在化する.熟練工養成問題にかかわる「多能工・単能工論争」,徒弟問題研究会による「徒弟制再編論」など相次いで提起された職工養成制度改革論は,いずれもこの中小企業における職業訓練・技能養成の体制の矛盾にかかわらざるを得ないのであった49).こうした一連の職工養成制度改革論は「青年学校義務化」と同時に施行された「工場事業場技能者養成令」(昭和14年(1939))へとつながってゆく.戦争遂行のための総動員体制を背景にして,中小企業をも含めて労働者の技能養成過程への公的規制が,史上はじめて登場することになったのであるが,実際には急場しのぎの対策という性格を免れ得ず,さほどの成果を遂げ得なかったのである50).
 こうした展開のより深い検討は他の機会に譲らざるを得ないが,中小企業における「修業的労働市場」を支えた存立条件そのものが,逆に熟練形成過程の社会化の不成立というわが国の今日までに至る特有の現象を規定してきたことを指摘しておこう.
[注]
1) 隅谷三喜男他著『日本資本主義と労働問題』,東京大学出版会,昭和42年(1967),144-45,167ページ.
2) 第1次大戦後の重工業大企業における労働市場内部化については,兵藤釗『日本における労資関係の展開』,東京大学出版会,昭和46年(1971),第3章を参照.
3) 伝統産業の「徒弟制」の展開については,佐藤守他著『徒弟教育の研究――漆器徒弟の社会史的分析――』,御茶の水書房,昭和37年(1962),が秀れたモノグラフとして存在している.
4) 「渡り職工」の歴史的存在形態に関しては,渡部徹「明治前期の労働力市場形成をめぐって」,明治史料研究連絡会編『明治前期の労働問題』,御茶の水書房,昭和35年(1960),105-9ページ,及び兵藤,前掲書,131-35ページを参照.
5) 暗涙生「職工生活二十年の告白」『友愛新報』大正3年(1914)6月15日号.
6) 氏原正治郎「第1次大戦後の労働調査と『余暇生活の研究』」,生活古典叢書第8巻『余暇生活の研究』,昭和45年(1970),3-59ページ.
7) 『大阪市社会部報告』№9「雇傭関係成立前の事情」,大正10年(1921)12-51ページ.
8) 『大阪市労働年報』大正12年(1923)版及び昭和2年(1927)版.
9) 各年次『工業統計表』による.
10) 通産省大臣官房調査統計部.『工業統計50年誌』資料編による.
11) 『大阪市社会部報告』,№215,昭和12年(1937).
12) 京都市役所社会課編『商工徒弟に関する調査』2,昭和4年(1929),8ページ.
13) 隅谷三喜男編著『日本職業訓練発展史』,日本労働協会,昭和45年(1970),昭和46年(1971),下巻,213,217-22ページ.
14) 隅谷,同上,上巻,158ページ.
15) 隅谷,同上,下巻,224-28ページ.
16) 各年次『大阪市労働年報』より.
17) 東京市役所『住込小店員・少年工調査』,昭和12年(1937),30-32ページ.
18) 京都市役所,前掲書,1の37ページ,2の32ページ.
19) 同上,2の統計編4ページ,1の統計編,4ページ及び1の本文,33ページ.
20) 同上,1の本文,36ページ.
21) 同上,1の統計編55ページ,2の統計編,49ページ.
22) 同上,1の本文,38ページ.
23) 同上,2の統計編1ページ.
24) 北沢新次郎『東京に於ける機械工業の熟練工としての仕上工,並びに旋盤工の賃金調査報告』,大原社会問題研究所,大正13年(1924).
25) 同上,24ページ.
26) 同上,25ページ.
27) 木内誉治「機械工業に於ける小規模工業の実相」『社会政策時報』第188号,昭和11年(1936),142ページ.
28) 同上,144ページ.
29) 森清『町工場――もうひとつの近代――』,朝日選書,1981年,には次のような職人の証言がある.「親方も仕事を教えてくれないし,だから,職人と一緒に仕事へ行くときはじっとその人の仕事ぶりを見ているわけ.ところが職人は意地悪いから,なかなか,かんじんのところは見せてくれない,ホント,かんじんのところになると小僧連れて行かないでひとりで行ってしまったりして....
 何というのかね.いまは,よく教えて早く一人前に働いてもらおうと思うでしょ.ところが昔の人は,自分のパテントだから,覚えられたんじゃ自分の値打ちが下がるってケチな考えだったんですね.」また,この点に関しては,清家正『産業人の工的錬成』,河出書房,昭和19年(1944),85ページも参照.
30) 藤井次郎『勤労を中心として観たる小工業経営の人的構成に関する調査』,昭和17年(1942).
31) 北沢,前掲書,29ページ.
32) 大阪市社会部調査課『硝子製造業者の労働と生活』,大正14年(1925),47-48,85ページ.
33) 同上,44ページ.
34) 同上,38ページ.
35) 同上,39ページ.
36) 隅谷編著,前掲『日本職業訓練発展史』上巻,70,73ページ.
37) 大阪市社会部調査課,前掲『硝子製造業者の労働と生活』,42-43ページ.
38) 同上,45ページ.
39) 同上,46ページ.
40) 協調会『徒弟制度と実業教育』,昭和11年(1936),310-11ページ.
41) 国立教育研究所『日本近代教育百年史』10産業教育(2),105-6ページ.
42) 同上,106-7ページ.
43) 隅谷編著,前掲『日本職業訓練発展史』下巻,237ページ.
44) 国立教育研究所,前掲書,99-103ページ.
45) 同上,102ページ.
46) 協調会,前掲書,290-91ページ.
47) 同上,321ページ.
48) 同上,321-22ページ.
49) これらの諸論については次の文献資料を参照.木内誉治「日本における技術水準と技術教育」『教育』第8巻,第1号,第2号,第5号,昭和15年(1940),山口貫一「多能工養成の重要性」『科学主義工業』,昭和14年(1939)5月号,協調会徒弟問題研究会「基幹的熟練工とその養成に就いて」『産業と教育』第5巻,第9号,昭和13年(1938)9,月など.
50) 中島仁之助「産業労働総観」『社会政策時報』第246号,昭和16年(1941),112ページ.
 [高口明久]