実業教育

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わが国産業化と実業教育

論文タイトル: 第5章:結び:発展途上国・明日の人づくりー実業教育開発の基盤ー
著者名: 豊田 俊雄
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第5章:結び:発展途上国・明日の人づくりー実業教育開発の基盤ー

 以上の各章において,わが国産業化初期の実業教育と企業内訓練が考察されてきた.とくに本書では,考察の重点が「実業補習学校」や「中小企業内部の訓練」など,低度で未整備な教育訓練におかれたのであった.
 さて,本章の課題は,発展途上国の人づくり,すなわち,産業化の途上ないしは入口にある国々の今後の教育開発の現状と方向をさぐることである.
 アジア,アフリカなどの第3世界には,120を越える国があり,おのおのの教育水準もまちまちである.世界の発展途上地域を五つに分けた図(第1章第1図参照)にあるごとく,第3世界の教育は・ラテン・アメリカと東アジア(東南アジアをふくむ)をのぞくと,小学校段階でさえまだまだ未整備である(途上国の小学校就学率の平均は64%).つまり,東アジアやラテン・アメリカでは小学校教育の整備がほぼ終わって,中等教育開発の段階にさしかかっているが,他の地域――南アジア,中東,アフリカでは,まだ小学校充実の段階にあるわけである.したがって,中等教育の一環である「実業教育」は,発展途上国にとって今後のプランニングにかかわる問題であり,なによりも,確たる基礎教育のうえに樹立されるべきものであろう.
 実業教育が多くの国において未整備であることは,つぎの第1表「アジア諸国の中等教育における実業課程の比率」からもうかがえる.「実業課程の比率」が必ずしも産業化の程度に則していないのは,実業教育そのものが未整備であることとともに,「実業課程」の区分のしかたが,各国の教育伝統によって違うからである.
 発展途上国・明日の人づくりを考えるにあたって,途上国のなかから,以下,東南アジア(9力国)とアフリカ(3力国)をケースとしてとりあげてみたい1).途上国の教育開発の特徴的側面が,よく表われているからである.
第1表 アジア諸国の中等教育における実業課程の比率

[注]
1) 東南アジアに関しては,『明日の人づくり』,講談社出版研究所「世界の国シリーズ」14巻(昭和58年(1983)4月刊)の筆者稿,アフリカに関しては,『内外教育』昭和57年(1982)10月29日号(時事通信社)の筆者稿にそれぞれ依拠している.

Ⅰ 東南アジア・人づくりの基礎

 東南アジアの人口は3億5,000万人であるが,その42%は14歳以下の子供であるという(国連統計).大きな比率であるが,これが今世紀から21世紀にかけて東南アジアを背負う人たち――マンパワーである.
 教育は人づくりの基礎である.東南アジアの教育はこの20年間充実し,開発途上国の中では上位にランクされている.
 小学校では女子の就学向上が著しく(9カ国とも8割以上),そのため昭和35年(1960)カラチのアジア文部大臣会議で掲げた目標(7年間の無償の初等教育の樹立)は,ほぼ達成できたと言ってよい.その間,中等教育の在籍者は2倍ないし3倍に増加し,大学生も社会における存在が目につくようになった.留学生として域外で遊ぶ者は約7万名であるが,留学国は政治関係を反映している.成人で読み書きのできない文盲の率は,この20年間に5割から3割に減少した.
 人づくりのもう一つの基礎である健康水準は,教育以上にめざましく進展した.平均寿命は,過去20年間に10歳ないし20歳も延びた.これは幼児死亡率の減少(半減)と,栄養の向上によるが,世界のどの地域にも見られぬ大幅な躍進である.
 人づくりによる国民の質いかんは,国の繁栄と成長に重要な影響をもつものである.以下,東南アジア各国が新しい国づくりのため,どのような人づくりをしているのか,教育の現況を各国ごとにみてみよう(第2表参照).
第2表 人づくり関係指標
(1) インドシナ3国
 ベトナム戦争の後遺症は,カンボジアに集約されている.うち続く内戦の間に食糧豊かなこの国もすっかり疲弊し,外国援助でようやく生存している.ポル・ポト軍は,教師,公務員,農民を殺戮し,寺院の9割を破壊し,いま孤児や捨て子が溢れているという.ベトナム軍に支援されたヘン・サムリン政権は,国の大半を制圧し,伝統の仏教を認める一方,最近は医療・教育などの人づくりを援助機関の手を借りて始めた.
 ラオスはベトナムと手を結び,その幹部養成をソ連方式によって行っているが,穏やかな国民性をもつこの国の教育も経済も,きわめて貧弱な水準にある.
 ベトナムは東南アジアで識字率のもっとも高い国の一つであり,ハノイはかつて,仏領インドシナの教育の中心であった.小学校の就学は実質100%に近く,昨年度の中学卒業は普通科14万人,実業科5万5,000人であり,高校・大学には15万人が就学した.いずれも,国づくりを担う中・高級マンパワーである.
(2) ビルマ
ネー・ウィンが20年間におよぶ大統領を辞任した.国づくりの基礎が固まったからである.経済は稲作と国営工業生産によって好調であり,石油も自給体制下にある.「ビルマ社会主義」の今後は,民間部門をどのように育成するかにかかっており,その面の人づくりが要請される.読み書き能力は,僧院学校の伝統によってもともと高い国である.
(3) インドネシア
 東南アジア第1の人口(1億4,000万人)を有する国で,その9割がイスラム教徒である.文盲が多く,小学生の中途退学が目立つ(第6学年までに45%が脱落).スハルト政権による国の開発は順調に進み,原油生産と米の豊作に支えられ最近は8%の高い成長率を示した.この20年間に労働力人口は変動し,農業部門のシェアが減り(75→59%),工業部門(8→12%)とサービス部門(17→29%)が増加した.今後の人づくりの方向は,初等教育の充実と中等教育の開発である.留学生の40%は西ドイツ.
(4) マレーシア
 多人種国家の典型.マレー人(48%),中国系(39%),インド系(10%).多言語・多宗教(イスラム教儒教,ヒンドゥー教)社会である.政府はマレー人優遇策をとっているが,経済の実権は中国人の手中にある.1人当たり所得は高く,タイ,フィリピンの倍以上.主要輸出品であるゴム,スズ,原木の国際価格の低下によって経済は停滞ぎみである.人づくりの根幹は,多人種の融和であり,融和をはかりつつ統一国家マレーシアを建設することである.
(5) タイ
 外にはカンボジア問題,内にはクーデター,総選挙という難問をこなしつつ,タイはバンコク遷都200年を祝った.寺院学校の伝統と近代教育導入の歴史を踏まえ,着実に教育制度を整備している.経済の成長率6―7%.農業人口の比率はわずかばかり減少した(84→77%,20年間).タイは内外の諸問題を持ち前のバランス感覚によって今後も解決しつつ教育の充実をはかるだろう.
(6) フィリピン
 アジアで唯一のキリスト教国.人口の87%はローマ・カトリック教徒である.16世紀スペインが領有したとき,この国にはヒンドゥー,イスラム,中国のどの文化の力もなかった.20世紀初頭アメリカが領有するとともに公教育制度を導入,東南アジアでもっとも教育の普及した国となった.とくに女子の高等教育進学率が高く,女子の職場進出が多い.ここ20年間,労働力のシェアは農業部門からサービス部門に移った(24→36%).8年4カ月にわたる戒厳令は解除されたが,これからの政治的安定は国の進展に大きな関係をもつ.留学はアメリカ一辺倒(81%).
(7) シンガポール
 人口240万ながら,加工貿易基地として,アジアでは日本に次ぐ工業国である.淡路島ほどの面積で,資源もない.1人1人の生産性を上げることによって,経済の水準を維持し向上させなくてはならない.多人種多言語.若い世代がいかに効率的に労働をしていくかに,中進国シンガポールの命運がかかっている.
(8) 人づくりの今後
 東南アジアの教育の重点は,初等教育から中等教育に移った.カラチ・プランの提唱から20年余,初等教育の普及は大変であった.学校施設もさることながら,教員給与の財政的困難が大きかった.都市部に比べれば農村部の教育はまだ貧弱であるが,総じて中等教育の普及に向かうべき時代にきた.
 いくつかの国で見たように,モンスーンの米作地域にもかかわらず,農業労働力のシェアは,7割台(インドシナ3国,タイ),6割台(ビルマ),5割台(インドネシア,マレーシア),4割台(フィリピン)と低下した.それだけ工業・サービス部門のマンパワーの増強が要請されている.
 一方,14歳未満の若年人口は急速には減らず,西暦2000年に至っても約33%である(国連予測).この年齢層は,これからも国家教育財政に対する重圧要因である.
 行政機構,経営部門に携わる指導層の養成も肝要であり,高等教育の責任は軽くない.この地域から出ている留学生(7万名)で,自国に帰る者の比率が高まっているようである.先進諸国の経済停滞による「消極的帰国」であるが,東南アジア各国の国づくりのためには歓迎すべき現象である.

Ⅱ アフリカの教育

 暗黒大陸といわれたアフリカに「独立」の波がほうはいとして起こって以来,20年になる.エンクルマのガーナのように昭和32年(1957)に独立した国もあれば,ケニヤッタのケニアのように昭和38年(1963)に独立した国もあるが,総じて20年前アフリカ諸国は相次いで独立したのであった.この20年間,アフリカには内乱・クーデターの動乱が各所に起こった.1970年代には12カ国で14回のクーデターがあったというが,悪名高いアミン(ウガンダ)やボカサ(中央アフリカ),マシアス(赤道ギニア)など独裁者の退場と,ガーナ,ナイジェリアの民政移管によって,1980年代のアフリカ政治は徐々に沈静化の方向をとっているようである.一方,アフリカ諸国の経済開発も不安定の連続であり,世界の難民の半数(270万人)がアフリカに集中している(国連統計).
 アフリカの安定と発展のため,教育がいかなる意味を持ちうるかを探るため,以下,アフリカの教育の特質を考えてみたい.
(1) アフリカの教育の概況
 世界の地域で教育が一番遅れているのはアフリカであるが,独立から20年の日しかないのであるから,遅れは当然である.独立以前の植民地時代,キリスト教ミッションや植民政府による教育もなくはなかったが,微々たるものであった.小学校就学率は独立以来上昇し,昭和50年(1975)時,男子50%強,女子35%である(現在はさらに上昇し,男女平均で55%くらいになっていると推定される).独立20年にして過半の子供が小学校に在籍するようになったことは,やはり著しい現象である(女子の就学は南アジアほどではないが,悪い.社会の慣行的偏見である).
 独立当初どの国でも必要であったのは指導層,中間層の人づくりである.かっての支配者の穴は行政面でも経営面でも大きく,非能率と事務の停滞が続いた.産業を維持するためには,また訓練された労働力の集団が必要である。昭和36年(1961),ユネスコが主催した「アフリカ教育の発展に関する会議」は,大陸内各国の教育開発についての切実な希望に基づくものであった.計画(開催地の名前をとってアジスアベバ・プランという)は教育の全領域に及ぶものであったが,その後は内外の政治的混乱のため,不幸にして計画のフォローアップも行われることがなかった.
 この間,開発の進展とともに,教育の水準が上がったことは就学率にみるとおりであるが,そのことは教育の財政支出状況にも,また大人の識字能力にも表れている.独立当初の教育支出は全財政中の2%に過ぎなかったが,今や4.4%となっている.識字率(15歳以上の成人の読み書き能力)は15%であったものが,33%に増加している.教育水準の大幅な上昇である.
 さて,アフリカにおける教育の役割は,第1に多部族社会の統合である.部族にはそれぞれ異なった言葉があり,宗教も異なっていることが多い.各部族が言語・宗教の壁を越えて融和し,一つの国家をつくっていくために,教育は大きな武器である.第2は,未成熟社会を知育と集団的訓練によって,近代化させる役割である.民衆のモラルの育成と勤労意欲の造出といってもよい.こうした目的を持つアフリカ教育の現状と問題はどうであろうか.列挙してみよう.
1) 初等教育より高等教育,中等教育の方が相対的に進展が速く,また充実している(アフリカの教育開発の中心は当分の間,初等教育である).
2) 就学率は地方ほど低く,また男女の格差が大きい(とくにイスラム地域)・中途退学者も多く,平均4割が小学校の課程を全うしない(就学を阻害するものと中退の原因はよく似ている).
3) 教員に資格不足の者が多い.
4) 中学校以上では,授業料が父兄の大きな負担となっている.
5) 父兄に教育への期待感があるが,それを受けとめるべき就業の道は狭い(産業の進展の遅れによる).
6) 生徒も教員も部族社会の中に暮らしているが,カリキュラムは西欧からの輸入品で,日々の生活からかけ離れている.また子供は部族語と学習用語の二つを使いわけなければならない.
 現状と問題点は以上のとおりである.なお,小学校の制度は6歳入学が31カ国で一番多く(6割),年限は6年間が27カ国,次いで7年が14カ国となっている.義務制をとっているのは33カ国である.
 次に,サハラ以南50カ国のうち,事例として東からケニア,酉からナイジェリアを取り上げ,教育の歴史的背景と特質を考察してみたい.また社会主義的な行き方をとる国として,タンザニアを取り上げ,アフリカの開発と教育の関連を検討してみよう.
(2) ケニアの教育
 ケニアは東にインド洋を望み,北にエチオピア,西にウガンダ,南にタンザニアを控えた国である.人口1,500万(増加率3.5%).コーヒーと茶を主な輸出品としている.国の経済や軍事は旧宗主国のイギリスに依存している.資本主義世界との接触は,アフリカでは最も遅い方である(インド洋岸は別として).明治35年(1902),東海岸のモンバサから西の端,ビクトリア湖を越え,ウガンダへ鉄道が敷設され,そのころからヨーロッパ人の侵入と土地略奪が始まる.ヨーロッパ人(主として英国系)の移民は,第1次大戦前後から本格化し,肥沃な中部高地,ホワイトハイランドへの入植が盛んになった.
 首都はナイロビである.訪れる人はその涼しさ,すがすがしさに驚く.清潔な街路,近代的都市である.独立の指導者ケニヤッタは昭和53年(1978),90年近い生涯を閉じた(生年不詳).資源のないこの国に今日の発展をもたらした最大の功労者であり,人々は「ムゼエ(おじいさん)」の愛称で呼んだ.ケニヤッタは代表部族キクユの長老として,部族の融合と国の近代化のため,教育の発展に多大の力を注いだ.中でも小学校授業料の徴収をやめ昭和49年(1974),就学率は大幅に向上することになった.7:4―2:3の学校体系で,小学校の就学率はアフリカで最上位(84%),文盲者は半分を切った.
 植民地の支配者は,文明の名において自らの文明を持ち込み,それを押しつけたのであるが,ケニアの場合も両者の価値観は衝突したままで戦後の時代を迎えた.西欧型の近代教育は伝統文化を書き換え,のみ込んでいった.独立後19年で小学生は3倍半(320万人)となり,総合大学としてナイロビ大学ができ,学部と大学院に5千余人が学んでいる.ナイロビがヨーロッパの都市に似た外容をもっているように,ケニアの教育も都市部に関する限り整然とした近代的外貌を帯びつつある.ケニアはアフリカの他の国と同様,原始から一挙に近代にほうり出された国である.一歩田舎へはいると,当然のことながら,前近代にぶつかる(生徒は古い部族の生活に首までつかっている),しかし,この田舎にも次第に中学校進学のうねりが出たが,受け入れる学校がない.ケニヤッタは,「ハランベー(さあ自力でやろう!)」という全国運動を起こし,農民の拠金によって中学校を建てていった.
 さて,ケニアの教育と西欧の教育の最も違う点は何であろうか.ケニヤッタは,それは「人間関係」であると述べている.部族共同の社会の中で,各人がどのように振まい,どのように連帯を維持していくか―これがケニア教育の最重要事であると(これに対し,西欧の教育は「個人」に基礎があり,社会との関係は副次的であるという).
 独立以来,ケニアの教育重視政策によって,ケニアの教育はアフリカ有数のものになったが,先に列挙したアフリカ教育の問題点は,この国にも歴然としている.とくに卒業後の就職と空疎なカリキュラム内容についてである.
(3) ナイジェリアの教育
 ナイジェリアはアフリカ第1の大国である.人口は8,000万人を越える(昭和55年(1980)).かつて奴隷海岸国と呼ばれていたことからもわかるように,この国には奴隷の悲惨な歴史がある.奴隷売買は15世紀のポルトガル人から始まり,17世紀から18世紀の中期にかけては,毎年10万人の奴隷が連れ去られたという.
 昭和35年(1960),イギリス連邦内の自治国として独立し,連邦制を採っている.部族間の抗争が激しく,昭和42年(1967)にはビァフラの内戦が起き,餓死者,戦死者が200万人に及んだ.石油産出国で,南部海岸地域には産業化のうねりがあるが,一方,内陸の農業地帯は低い生活水準にあえいでいる.
 さて,この国に西欧型教育が持ち込まれたのは,ケニアよりもはやく,植民地経営が本格化した19世紀後半である.ラゴス(現在の首都)を拠点にして,キリスト教ミッションは南部海岸方面に近代教育を広めていったが,北部のイスラム地域に及ぶことは困難であった.教育の内容は英語の読み書きと算数および宗教教育(聖書,賛美歌)であり,現地の伝統的生活とは全くかけ離れたものであった.それでも,こうした宣教団の教育を受けた者の中から,植民地行政やプランテーションのイギリス人の下で働く補助者が少数ながら現われた.半世紀を経て英国の力が北部へ及ぶようになるころから(1920年代),初等教育の内容は少しずつ変化を始め,授業は英語やヨーロッパの歴史・地理だけではなく,現地語,西アフリカの地理・歴史を教えるようになった.しかし,中等教育の課程はイギリスと同じで,イギリスの大学入学資格の要件に合わせて,英文学,古典語(ギリシャ,ラテン)の教育中心であった(西アフリカの地歴と慣習法の授業もなかった).昭和23年(1948)設立の最も古い大学であるイバダン大学は,ロンドン大学の分校であり,ロンドン大学と同じカリキュラムを持っていた.
 独立後の教育の普及は急である.この20年間に小学校の就学率は36%から62%へと8割方伸び,生徒数は1,000万人を越えている.6歳入学で年限6年間,義務制,中等教育は前期5年,後期2年である(12の州があるが,州による年限の違いがあるし,就学率に格差がある.北部のカノ州の小学校はいまだ数%という).
 教育の役割は,ケニア以上に部族の統合に置かれる.国内に250以上の部族があるが,中では北部のハウザ(イスラム教徒),東部のイボ(キリスト教徒),西部のヨルバ(原始宗教)の3部族が強力である.宗教の違いは大きいが,それだけではなく,3者は言葉も風貌も違うのであるから,教育による統合融和は極めて難しいものである.小学校低学年は原地語によって授業が行われ,高学年は英語である.
 中等学校の教員は不足しており,外国のボランティアが2割を占めている.大学の伸びはさらに大きく,昭和45年(1970)からの10年間に4.5倍の学生数となった(13大学に約7万人).経済の水準は石油によって押し上げられ,平均1人当たりGNPはアジアのタイ,フィリピンあたりより高く,670ドルである.しかし,産業は未整備であって,教育人口を吸収する力がない.小学卒の7割が失業状態にあり,中等教育を受けた者の主たる雇用先は教育部門である.
 教育財政は潤沢である.経常支出の中で教員給与は66%を占めているに過ぎず,途上国ではちょっと例をみないところである(大部分の国が80%以上).つまり,ナイジェリアでは,経常支出の34%が校舎建築などの資本支出に振り向けられるのである(ケニアは8%).
 留学生の送り出し数はアフリカでは第1位で(約2万4,000人),アメリカへその7割(69%)が行っている(次いでイギリス16%).この留学生と,先の13大学の在学生を加えると,10万人にもおよぶ者が高等教育機関に学んでいるわけで,彼らの参画がナイジェリアの開発に持つ意味は,極めて大きいのである.石油の富をむさぼるエリートにとどまるか,額に汗する開発のリーダーになるか――のいかんである.
(4)タンザニアの教育
 タンザニアはインド洋にのぞんだ東アフリカの国で,ケニアの南に位置している.昭和36年(1961)に独立(ドイツ領だったことがある).昭和39年(1964)にかつてのイギリス保護領,ザンジバル島と合併して,現在の国名になった.以来,ジュリアス・ニエレレが大統領である.人口1,800万人,ナイジェリア,エチオピア,ザイールに続く第4の大国である.
 タンザニアの特質は,その独特な社会主義路線にある.ニエレレは昭和42年(1967),自力開発を原動力とする「アフリカ的社会主義」の建設を宣言した.これは,大国の援助に頼らない自力の国づくりの方向である.その核は「ウジャマー」と称する協同村にある.タンザニアの人口密度は1平方キロに19人,農家は原野に点々とした形で存在するだけである.ニエレレは点在する農家と農民を集めて,家族的友愛の協同村をつくり,そのウジャマーを協同的生産の基本とした.
 この村に学校をつくることは容易であり,また効率的である.ほかのアフリカの農村においては小学校をつくっても,遠距離のために就学がなかなか伴わないのである.タンザニアの独立当初の就学率は25%.現在は70%を越えたが,大部分(88%)の人口が農村に住むこの国においてウジャマー村の小学校の効果は大きいのである.村にはまた成人学級もつくられている.
 ニエレレは折に触れ繰り返し,若者は連帯と生産の場=ウジャマーにとどまって,肉体労働に励むよう訴える.学校は半学半農であり,学校農園は教育の重要部分である.生徒は農園で農業の基礎を習いながら,一方で新しい技術も学ぶ.ウジャマーには部族社会の連帯が美質としてあるが,こうした技術進歩がなければ,農業の開発も,生産の増加も期待できない.ニエレレはまた学生の特権意識を戒める.上級の教育を受ける特権を与えられた者は,その教育,学問を民衆に返す努力をしなければならないと(かつてニエレレは文革期の中国に先んじ,下放制度を提議し,これに反対した学生多数を放校したことがある).
 しかし,現実にはいくつかの矛盾が出てきている.ウジャマーの協同・連帯の中で生産労働を進めつつ,社会主義を築くのがニエレレの大方針であり,タンザニア教育の中心理念であるが,現実には若者の中にウジャマーを離れて都会を目指す志向が増えてきた.都会にさしたる産業があるわけではないが(工業は未発達.サービス部門も未整備.商業はインド系が握っている),農村にはない多彩な「近代文明」がある.公務員や準公務員は最も有利な職業であるが,学歴が要求される.そこで,この高嶺の花を目指す親子は,上級学校進学に熱中する.しかも,タンザニアは資格社会で,学歴に応じて給与が上がるのである.小学校卒業時,統一中学入学試験があるが,合格率は5%の難関である.「小学浪人」も認められないので,首都ダルエスサラームには塾が出現,進学競争の一翼を担っている,ニエレレには喜ばしくない風景であろう.
 タンザニアの小学校は7歳入学で,7年間の年限.義務制をとっている.しかし,前述のごとく就学率は70%,つまり30%の者が学校へ行かない.子供たちはいっぱし日銭を稼いでいるのである.日雇い,近所の水くみなど.子供の方もそれを面白がる.「教育こそ発展のカギ」とする政府は,不就学は親の責任であるとして,罰金制度を設けた(ケニアでは家畜で罰金を支払わせる).ニエレレは教育は医療とともに最も進歩した部分であるとしている(農業の協同化はまだまだ不十分である.工業は社会主義的構造になったという).
 タンザニアは資本主義でも,共産主義でもない第3の道を歩んできた.資本主義圏からの援助申し入れには慎重であったし,社会主義的政策を取りながらソ連,キューバのアフリカ進出には早くから抵抗してきた.この態度は第3世界には模範となるものだったが,独立後20年の経済的成果は貧しいものである.工業がないため,ウジャマーの農業経済を支える肥料も,機械も,農薬も輸入に頼らなければならない.しかも,輸入価格は年々高騰している.
第3表 アフリカ諸国教育関係指標
 『アフリカ人間誌』の著者C.ターンブルは,アフリカを理解するカギは部族社会にあると言っている.一方,アフリカの各国の中には,部族社会の教育を見直す機運がある.独立というものが植民地体制の解放であってみれば,この見直しは当然ともいえる.ケニヤッタは前述のごとく,部族内の関係を西欧にないケニヤ独自の価値だと言い,ニエレレはウジャマーの連帯の中に教育の精神的価値の基盤を置いた.そして捨て去るべきは植民地時代の個人主義であるという(部族社会の経済後進性は否定する).
 しかし,ケニヤッタやニエレレの主張にもかかわらず,部族社会の価値体系は揺れ動いている.学校へ行くということは,西欧文化に接してそれを吸収するということである.学校へ行くことは自分たち部族の言葉ではない西欧の言葉――英語や仏語を覚えることである.アフリカにはタンザニアのスワヒリ語以外,文字化された公用語はない.どの国も中学校以上は西欧語が教授用語である.タンザニアでもスワヒリ語は小学校だけの教授用語である.文盲の撲滅というスローガンは,英語,仏語の習得ということである、「学校」は部族の伝統を離脱するためのけん引車である.ケニアの支配部族ギクユには文字のあるギクユ語がある.ケニアの著名な作家グキ・ワ・ジオゴはこれまでの英語をやめて土着語によって,西欧文化に汚染されていないアフリカ土着の伝統文化を表現しようとしている.西アフリカのセネガルには,自立文化創造のため部族語の文字化運動がある(普及には何十年の年月がいるであろう).
(5) 今後の課題
 アフリカ諸国の発展のためには,各国の生産力の増大と,それをリードする指導層の養成が重要である.大学はそのための大きな支点である.そして,そこに東西合わせて22万人の学生が学んでいる.大学の中にはマケレレ(ウガンダ),ガーナなどのように植民地時代に母体を持つものがあるが,大部分は1960年代の発足である(大学は国家威信の表徴).50大学のうち英語を教授用語とするもの31校,仏語を用いるもの13校である(この点,自国語で講義するタイ,マレーシア,インドネシア,ビルマとは対照的である).また1万人以上の学生を持つ大学が6校ある.教授陣は白人が圧倒的に多い.
 また「留学」の持つ比重も大きい.アフリカ地域から世界各地に出ている留学生は13万人で,世界総数の16%に及んでいる.受け入れ国はフランス,アメリカ,イギリスである.これらの帰国者が自国の開発にどこまで参加するか――アフリカの将来に少なからぬ影響を持つものであろう.
 輸出入のアンバランスによって,50カ国のうち,42の国が赤字財政であるという.教育開発にとって大きな障害である.しかも,問題は今後の教育人口である.若年(0―14歳)人口は現在人口の44.7%と巨大であるが,この割合は21世紀に入っても42%を割らないと見込まれる(国連予測).教育財政への大きな負担が続くのである.
 アフリカの発展にとって,近代的モラルと勤労意欲の育成は必須なものである.「時間」の観念,「契約」の思想も未成熟であることはできない.学校教育に課せられた課題は極めて大きいのである.明治期の日本と比べてみると,不利な面は少なくない(文化や言語の不等質性,植民収奪の経験など).がしかし一方,有利な面も多い(科学技術の発達とその成果の利用,衛生環境の良化,情報・交通の発展と先進国援助の活用など).アフリカはそのためにも,教育という息の長い地道な方法をさらに重視してゆくべきである(第3表参照).
 [豊田俊雄]