技術と農村社会

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技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 序文
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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序文

 本書は,アジア経済研究所が国際連合大学から委嘱された「技術の移転・変容・開発――日本の経験」プロジェクト(1978―1982年実施)の作業成果の一部,しかもわれわれが最も重要視してきた作業グループである「技術と農村社会」の成果である.
 他の作業グループが個別産業ごとに編成されて2年間で活動を集約しているのに,このグループは,「技術と都市社会」研究のグループとならんで,5ヶ年の全期間を通じて,内外の実態調査・研究会議・セミナーなどで活?に活動してきた.
 農業技術問題に,何故,われわれがかくも大きな精力を注いだのかについては多くを語るまでもないだろう.あえて言えば,人口=食糧問題こそがいま地球大の規模で開発の焦点であるからに他ならない.それは,農業開発と技術の問題だと言い換えることもできる.しかし,かつてアジアで,そしていまアフリカでの連続的大凶作は,200年余の周期で訪れる気象異変の前兆だとする見方もあるけれども,餓死は,つまるところ政治と経済の問題である.努力と工夫次第で被害を極小化できる,というのが,われわれの作業成果の一端である.
 総じて,一国の経済自立を目指した工業化は,まず,農業の発展に先導されるか,または,併行されなければ困難であることは,社会科学者にとっては常識であろう.農業と農村(農民とその社会)とを重視した所以である.
 それにしても,何故,われわれが農業と農村の問題を検討するのに灌漑と土地改良とを基軸にしたのか,については説明が必要であろう.第一に,この一世紀余の間に三倍に増加した人口を賄うための「廉価良質」米の増産は,灌漑技術の発展ぬきには不可能であったからである.しかし,一般論としては,開発のための技術移転が最も難しいのは農業においてである.自然の制約が大きく,多様だからである.そして,社会構造と制度の問題が,自然条件に,重複している.それだからこそ適切な技術移転が不可欠である.第二に,灌漑こそは中間化された近代技術の典型であり,中間技術問題の検討に絶好の素材である.「日本の経験」から,技術の中間化を可能にしたものが具体的に摘出されているから,農業における中間技術化問題について理論化の契機を読者は?まえられる筈である.
 技術の中間化と農業発展については,日本全国の各地に設けられている農事試験場・農学校・農会等の果たした役割,また戦後の農薬や農業機械の生産効果等をわれわれは軽視しているのではない.十分承知した上で,それらの何れにもまして,灌漑をめぐる諸問題(技術・社会システム・政策)こそが,開発問題には,最もレレヴァントだと判断しているのである.
 本書では,「水と農業」の関係が自然・技術・各種社会集団の相互関係として,歴史的研究と詳細・広汎な実態調査,文献渉猟をふまえて,社会科学的に検討されている.このように圧縮した形で公刊するのが惜しいこのグループの成果ではあったが,灌漑技術・用水慣行・政策の諸相・管理と参加の実情に中心をおいてとりまとめた.そのことで,各国ごとに問題の構造と内容を検討するときの分析法が抽き出せる筈である.
 そのうえで,改めて水をめぐる「過剰開発」というすぐれて現在的な大問題を,都市化と工業化の展開につれて,日本ばかりでなく,多くの国民は経験することになるということを,本書から見通すことができるだろう.それは,次の次元における「開発と技術」の問題に接続する.既存の農業開発論と本書の異なる所以である.
 本書は,このグループの組織者であった玉城哲教授のユニークな「水社会」論と「水資源」論を基礎に構成されているが,そこに潜む「開発」問題に対する比較文化論的発想も注目に価いするだろう.
 玉城教授は,このグループにとってばかりでなく,「日本の経験」プロジェクト全体にとっても,最も重要な協力者のひとりであったが,本書の刊行を前に急逝された.私はほとんど内腑を奪われた思いをした.幸い旗手勲,今村奈良臣の両教授のお骨折りで,本書をこういう形にまとめることが出来た.記して感謝に代えたい.
 本書については述べたいことが多い.しかしそれを言うよりは,まず本書の読者になってほしい.読めば,国際連合大学の提起した「方法的対話」の契機は?まえられるだろうし,「対話」においてこそ本書の真価は輝きを放つに違いない.そのことを心得ていて,本書の公刊に尽力して下さった国際連合大学とアジア経済研究所の関係各位に,改めてお礼を申しあげたい.

 1984年夏 玉城教授の一周忌を前に

 「日本の経験」プロジェクト
 コーディネーター
 林 武