技術と農村社会

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技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 第1章:日本農業の近代化過程における水利の役割
著者名: 玉城 哲
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第1章:日本農業の近代化過程における水利の役割

 Ⅰ 17世紀における新田開発と水利土木技術

 (1) 人口爆発と新田開発
 17世紀から18世紀にかけての日本は,はげしい人口爆発にみまわれた.経済史家速水融の推計によると,16世紀の終りから18世紀の初めにかけて,日本の人口は4倍近くまで急激に増加したというのである.すなわち,1598(慶長3)年の全国推定人口は約800万人,これにたいして,120年後の1721(享保6)年の人口は3,000万人をこえていたとされているのである.
 この時期に,このような人口の急激な増加がなぜおこったのか,よくわからない.だが,この時代は,いわゆる戦国時代の末期から,徳川幕藩体制の前期にあたる時期であり,政治的・軍事的激動の時代を終って,安定した近世社会に移行する過程であった.本百姓とよばれる家族自営農による本格的な定着農耕社会の成立と,着実な商業の発展は,人口増加をささえる社会的背景であったと考えられる.
 そして,同時にこの時代は,おそるべき勢いで農地の拡張がつづけられた時期でもあった.いわゆる新田開発の推進である.これも推定であるが,16世紀末期の太閤検地から,1700年代前期(いわゆる享保期)までの日本の耕地の拡大は,約100万haにたっしたとされている(表1-1参照).これは,ちょうど,人口爆発の時代に照応しているわけである.この二つの現象には,なんらかの因果関係が存在しているものと思われるが,いまのところ,それは実証的に解明されるにいたっていない.
表 1-1 日本の耕地面積推定表
 この新田開発熱は,異常であったと形容してさしつかえないほどである.戦国大名,徳川幕府治下の大名たちは,競って大規模な新田開発をすすめ,自己の支配する領地における米の生産の増加につとめたのである.とくに,中部地方以北の東日本においては,河川流域の沖積平野の新田開発が大々的にすすみ,現代においても存在する中核的な水田地帯の形成をみるにいたったのである.ヨーロッパの「大開墾時代」に匹敵するような,急激な耕地拡張の時代が,日本においても出現したのである.
 なぜ,このような耕地拡大が生じたかということを,正確に説明することは容易ではない.日本史の研究においても,この説明に必要な十分の歴史情報が蓄積されているとはいえないのである.そこで,かなり仮説的性格をふくむ推定を,あえてつぎに述べておくこととしたい.主要な要因は,つぎの3点であるように思われる.
 第1に,農民の動機である.
 これは,人口の増加とふかくかかわりあっている.農民の家族人口の増加,そして,村落(地域)における人口の増加は,生活の基盤としての耕地の拡大を求めざるをえなかったであろうという意味である.産業就業人口の増加が,経済成長の重要な要因の一つであることは,現代においてひろく知られている事実であるが,17世紀における日本においても,人口の急増が農民の耕地拡張への意欲の重要な動機であったと考えることは,けっして無理な推測とはいえないであろう.この一般的動機に加えて,つぎの点を指摘しておきたい.日本史において太閤検地が,近世的家族自営農体制(いわゆる本百姓制)に道をひらいた画期であることは,ほぼ完全に通説となっているが,これによってすべての農民が本百姓になったわけではなかったということに留意しなければならない.中世の遺産として,ほとんど耕地をもたない農民下人,所従階層も多数存在し,自らも耕地を保有する本百姓になることを熱望した農民たちが,数多く存在していたと推定されるのである.農民たち自身が,たんに動員された労働力としてでなく,自分で新しい耕地保有への動機をもって新田開発に参加したという事情を大きく評価しなければならない.
 第2に,支配者の動機である.
 この場合,支配者というのは,主として大名たちのことであるが,ひろくは大名の家臣や旗本・御家人をふくめた「武家」と解してよいだろう.一言でいえば,かれらの新田開発動機は,現物の米の貢租(日本的にいえば年貢[ねんぐ])を最大にすることにあったといってよい.大名の財政を初めとして,武家の経済は基本的には現物の米の年貢ないし扶持[ふち]によって成立していたのであり,農民からとりたてる米の現物収入を最大にすることが,かれらの財政的基盤を形成していたのである.とくに,強調しておきたいことは,大名の経済が原則として現実的には貨幣による運営に入りこんでいたということである.ここに,一つの矛盾が発生していたわけである.大名や旗本たちは,まずその財政収入を現物の米に依存しなければならないが,ついで,かれらは,その米を売って貨幣にかえ,自分たちの財政や家計を経営しなければならなかったのである.そこで,まず,必要なことは,現物の米の年貢収入の増大をはかることであった.このようにして大名たちは,徳川幕藩体制のもとで公式に定められた「石高」をこえる財政収入を獲得するために,新田開発に熱中したのである.
 第3に,客観的な条件である.
 これは,単純化していえば,新田開発の余地がまだ十分にあったということである.この点は,日本史における中世から近世への変転を理解する場合,きわめて重要な問題を提供しているように思われる.すくなくとも,室町後期(16世紀後期,その最終期が戦国期にあたる)には,近畿地方を中心とした西日本には,もはや,大規模な耕地拡大余地はほとんどなくなっていたとみてよいが,中部地方から東の日本には,まだ,相当広く耕地拡大の余地が残されていたのである.この「辺境」に居を定めて,新田開発に執念をもやした徳川家康が,結局,日本列島における政治的支配権を最終的に獲得することに成功したという事実に注目しなければならないであろう.日本列島に,この農業開発余地が残されていなかったとすれば,16世紀の日本は,当時の西ヨーロッパと同じように,もっぱら外に向かう経済的・社会的な道を選択し,重商主義への歴史的針路を歩むことになったかもしれない.すくなくとも,織田信長の時代には,その傾向がはっきり現われていた.豊臣秀吉と,それにうちかった徳川家康が,日本を新しい重農主義の時代にひきいれたのである.その重農主義への道は,制度的にみれば,徳川幕府によって「鎖国」という形で総括されたが,おそらく,この鎖国の意味は,これからもなお検討されなければならない性格をもっているであろう.
 (2) 土木技術の発達と大規模灌漑システムの形成
 新田開発がもっとも活発に行われた時期は,同時に,日本において,大規模灌漑システムが形成される時代でもあった.日本列島において,稲作灌漑農業が渡来し,それが定着してゆく過程は長い歴史をもっているが,それが,列島全体にゆきわたり,定着するためには,やはり16-18世紀の新田開発の時代が必要だったように思われる.この時代,日本の河川土木技術は飛躍的に発達し,広範囲にわたる新田開発の推進を,一挙に可能としたのである.
 戦国期から徳川の前期にいたる河川土木技術の飛躍的な発達については,その理由をまだ明示的に説明することができない.ただ,明らかなことは,16-18世紀の日本において,河川の治水と大規模灌漑施設の建設が,急速に発展したという単純な事実である.そして,その原因は,鉱山の掘削技術および築城技術と密接な関係をもっていたと考えることができる.
 まず,築城技術について考えてみよう.戦国期における日本の築城技術の発達については,まことにめざましいものがあるが,その内容を考えてみると,第1に設計技術,第2に建築技術,そして第3に土木技術をあげることができるであろう.ここで,とくに注目したいのは「名城」の石垣をつくった石工の技術であり,これをとりまく「堀」の技術である.石工の技術についていえば,実に見事な石垣が,日本の名城には数多く残されており,石を素材として砦の機能と美的構造物としての品格を同時に備えたものが,この時代に数多くつくり出された。
 堀についていえば,この石垣とむすびついていることに注目しなければならない.この両者は,攻撃への防御施設として基本的なものであるが,同時に河川土木技術と,ほとんど共通する内容をもっていたと考えることができるのである.河川の治水工事,大規模な灌漑施設工事を可能とする土木技術が,築城技術と密接な関連をもっていたと判断することは,けっして不当なことではない.
 つぎに,鉱山の掘削技術との関係であるが,この点については実際の例証がある.たとえば,長野県の塩沢堰,五郎兵衛用水などの場合,鉱山人夫を使って水路の掘削に当らせたという伝えがある.いずれの場合にも,山岳部に水源を求め,山腹に水路をとりつける必要があったため,岩石の掘削に巧みな鉱山人夫(「金掘[かなほ]り」とよんだ)を使役したものであろう.やはり,鉱山技術と灌漑施設建設の技術が,ふかいかかわりをもっていたことをしめしている.
 これらの純技術的要因に加えて,政治的・社会的要因が,大規模な土木工事の実施を可能にしたという点を見落すことはできない.それは,大名領有制の発展である.戦国大名からはじまる大名領有体制は,中世における荘園制が分散的・間接的な領地支配しかできなかったのにたいして,かなり広大な地域の一円を支配することを可能にした.これは,多数の自立した農民を,ときに兵士として,ときに労働力として直接動員することのできる基盤をつくりだしたことを意味していたのである.
 このようにして,土木技術の発達と新しい社会体制の成立は,大規模な河川治水事業と灌漑施設の建設事業の実施を可能にした.とくに中部地方から東の大河川,急流河川の治水工事が初めて本格的にすすめられ,東日本の沖積平野が急速に水田化されることになったのである.その中でも,もっとも代表的な一例として,徳川幕府による利根川の瀬替工事と,その流域の新田開発をあげることができる.
 日本の最大の河川である利根川は,もともと東京湾に流入する川であった.幕府は数次にわたる大工事によってこの流路を東につけ替え,ついに,現在の銚子を河口とする姿に変えてしまったのである.この間,数十年を費やし,完成は1654(承応3)年であった.これによって,幕府の所在地であった江戸を水害からまもると同時に,江戸の北側,武蔵国東部の氾濫原数万haを大水田地帯とすることに成功したのである.
 この地域の新田開発にあたって,数多くの灌漑システムがつくられたが,その代表的なものとして,葛西[かさい]用水と見沼代[みぬまだい]用水の二つをあげることができる.葛西用水は,最終的には利根川の水を取入れ,利根川の古い河道の一つである古利根川(現在の中川水系の上流部)を利用して幹線水路とし,数千haの水田の灌漑を行うものであった.現在の姿をほぼ整えたのは,1660(万治3)年のことであった.
 見沼代用水は,同じ平野のより西の部分につくられた大規模な灌漑システムである.やはり,利根川本流に水源を求め,長大な水路を掘削して,2万haにちかい水田を灌漑するもので,完成は1728(享保13)年,八代将軍徳川吉宗の治下であった.吉宗は,紀州藩から入った将軍であり,紀州から連れてきた家臣にこの工事を監督させ,当時の日本でもっともすすんだ土木技術である「紀州流」を駆使して,この用水をつくらせたといわれる.この見沼代用水は,現在でも,日本の水利土木史における最大の傑作の一つとされている.
 この時代における河川治水事業の,もう一つの重要な意図は,河川と灌漑水路を利用する舟運網の整備であった。利根川についていえば,東北地方から江戸への米の回送にさいして,海路でもたらされた米を銚子の河口で河川舟運用の船につみかえて,利根川をさかのぼり,江戸川を経て江戸に到着するという航路が形成されたわけである.これを,実効あるものとするため,江戸の下町には人工的な運河が数多くつくられ,舟運によって深川を中心とした米の集積地区が生みだされることになった.このため,千葉県の銚子は,この海運と内水面舟運の中継地として,急速に繁栄する都市となったのである.なお,ついでにいっておけば,銚子はまた関東地方の内陸部の農産物を集積して,独自の産業を成立させることになった.それは,?油産業である.?油の原料は,大豆と小麦であるが,これは洪積台地がひろく分布する関東平野の特産物であった.これを,利根川筋の舟運によって銚子に集積し,醤油産業の東日本における一大基地を形成することになったのである.
 灌漑用水路を,意図的に航路として利用しようとした例としては,なによりもまず,見沼通船堀をあげなければならないだろう.見沼通船堀は,さきに述べた見沼代用水路に設けられたもので,幹線水路がいまの大宮市の東方で二方に分派したあと,その中間で,幹線排水路(芝川[しばかわ])とこの二つの用水路を横断的につなぐ水路をつくり,ここに閘門を設けたのである.用水路と排水河川をつなぐわけであるから,当然,その間に大きな水位差が生まれる.これを,後世のパナマ運河とまったく同じ原理による閘門によって調整し,船の通行を可能にしたのが,見沼通船堀であった.もちろん,パナマ運河とくらべれば,規模も小さいし,ほとんどすべて木造であったらしいが,こういう原理の発見とその現実への応用という点で,見沼通船堀の例は,日本の河川土木技術の先進的な一例として注目に値する.このようにして,見沼代用水路は,灌漑システムとして重大な機能を発揮したばかりではなく,幕府直轄領(いわゆる天領)から江戸への米の輸送の大きな航路としての役割をはたすことになったのである.
 (3) 米と貨幣の経済
 ところで,なぜ徳川幕府をはじめとして,大名たちが新田開発に狂奔したかということが,大きな疑問となる.別の表現をすれば,当時の権力者たちは,どうして,これほどひどく米への執着にとりつかれたのであろうか,ということになる.
 いうまでもないことであるが,徳川幕府の将軍とその家臣,そして大名たちが,特別に大量の米を消費したというわけではない.先にも簡単にふれたが,問題はむしろ幕府や大名の財政の方式に求められなければならないだろう.幕府と大名の財政の共通の特徴をここで一般的にいえば,現物の米の貢租(これを通常では年貢といった)の徴収を財政収入の基盤として,支出の面では貨幣形態を支配的にしていたということである.これを,抽象的にいいかえれば,農民の負担と幕府・大名の収入は基本的に米の現物形態であり,幕府・大名の支出の大部分は貨幣形態であったということになる.いうまでもなく,こういう構造には大きな矛盾を生み出す可能性がふくまれていた.
 しかし,この矛盾が表面化するまえに,こういう制度がもたらすメカニズムについて考えておかなければならない.徳川幕府や大名たちにとって,その財政収入を最大にするための直接の方法は,年貢米をより多くすることである.そのための手段は,二つあった.第1は,年貢米率をより高くするという方法であった.江戸時代における収穫米にたいする地代の率は,おおむね60%程度であったと考えられているが,この比率を変えることによって,支配者の収入は増加するという方法もとられた.しかし,地代率を上げることは,直接に農民の生活を圧迫することになるから,限度があったといわなければならない.
 そこで,第2の,もっとも重要な手段として,農地の拡大が登場してくることになる.この耕地の拡大は,地代率を引き上げることなしに,地代(年貢)収入を増大させることのできる主要な方法であった.新田開発が,この役割をはたすことになったのである.すくなくとも,戦国時代以後の東日本において,権力の財政的基盤の最大のものは,新田開発であった.新田開発によって,まず,「米」を確保することが,権力的支配にとって決定的な意味をもっていたのである.すでに述べた異様な新田開発推進の情熱は,これによっていかに藩財政の収入を増大させるかという動機にもとづくものであった.
 この構造は,米の現物地代を財政的基盤としながら,幕府や大名・武家の経済が貨幣によって運営されるという矛盾に集約することができるだろう.この矛盾のゆえに,幕藩体制は,基本的に米の増産主義を追求せざるをえなかったわけであるが,この増産主義が破綻した時期が,18世紀の初めであった.これは,当時の日本の年号でいえば享保期であり,八代将軍吉宗による享保改革の動機は,「米価安,諸色高」であったといわれている.米価とその他の物価の相対価格が変り,米価が下落するという結果が生じたのである.
 幕府・大名そして武家にとって,この米価の相対的下落は致命的な打撃であった.現物の米穀収入の貨幣化という財政構造を前提にすれば,米価の下落は貨幣的財政収入の縮小を意味していたのである.吉宗の享保改革は,この米供給の過剰への対策であったのだが,ほとんど有効な手段を発見することはできなかったようである.現物の米と貨幣という二重経済に依存しているかぎり,この矛盾から抜けだすことはできなかったといわなければならない.
 だが,この基本的な財政的破綻を,すぐに見ぬいた人は,まったくいなかった.将軍吉宗を初めとして,当時の政策担当者たちは,貨幣政策と米の増産によってこの危機をのりこえようとしたようである.このうち,貨幣政策はまったく意味がなかったとしかいいようがない.需給構造が,もはや根本的に作用するようになっていなかったのであるから,米の供給を調整することなしに,武家の経済をすくう道はなかったのであるが,「富」の二重構造を解消することなく,この課題を基本的に解決することは不可能であった.まず,現物の米が富の象徴として存在し,同時に貨幣が現実の富として存在するというこの二重構造は,徳川幕藩時代の経済的・制度的特徴として,構造的に定着してしまったのである.

 Ⅱ 18世紀以降における水利制度と村落

 (1) 資源制約の発生と紛争
 17世紀における異常なまでの新田開発の推進は,すでに述べたように米の過剰をもたらしたが,同時に農業資源の枯渇状態をひろく生みだした.土地と水が開発しつくされ,もはや農業の空間的拡大がほとんど不可能なところまで達してしまったのである.このような過剰開発にもとづく資源制約が顕著に表面化した時期が,18世紀前半期であり,おおむね,さきの享保期であった.
 この資源制約を表現するものとして,論争の多発をあげることができる.論争の主要な内容は「水論」と「山論」であった.水論とは,主として河川から引水する灌漑用水の水の配分をめぐる対立と紛争であり,山論とは山林原野の境界をめぐる紛争であった.水田稲作にとって不可欠な水の不足は,米の現物地代を義務づけられている農村にとって死活の問題であったし,山林原野は,農業の主要な肥料源である野草,あるいは燃料の薪の供給基地であったから,やはりその境界の確定は農村にとって重要な課題であった.
 用水紛争は,二つの種類に分かれる.一つは,同じ河川に水源をもつ灌漑システム相互間の争いであり,もう一つは,同一の灌漑システム内の地域的な争いであった.いずれにしても,渇水期の水を実力でとりあうという内容のものであった.水は市場において交換される財という性格をもっていなかったから,それが不足するときは,互いに実力による獲得という手段をとらざるをえなかったのである.そのため,ときには流血の事件さえ発生したと伝えられている.
 このような紛争の発生の原因は,いうまでもなく,河川流量の不足であった.別の見方からすれば,河川の流量にたいして,灌漑する水田面積が過大になってしまった点に,その基本的原因があったということもできる.河川の流水の利用できる部分は,すくなくとも灌漑期間は常時流れている流水,いわゆる渇水量である.一時的な大量の流出,いわゆる洪水は,利用の対象となるものではなかった.また,毎年の降雨量は一定していないから,河川の流出にも豊水年と渇水年があり,この渇水年の渇水量はきわめて小さなものとなる.だから用水不足の頻発は,比較的豊水年の渇水量を対象とするような新田開発が行われたことを意味する.過剰開発による資源配分の不均衡が定着したといってさしつかえない.
 水論はさまざまな形態で発生したが,その多くは,河川の取水あるいは水路の分水にさいしての上流側と下流側の地域的対立にもとづくものであった.日本の灌漑システムにおける代表的な取水・分水方法は,河川および水路の堰上げであり,これによって高い水位をつくりだし,取水・分水を容易にしたのである.重要な大河川の場合には,舟運の航路としての役割があったから,河道全体をしめきる恒久的な堰の設置が許されないという例もしばしばみられたが,それでも,はなはだしい渇水時には河床の土砂を掘りあげて導水し,さらに「牛」や「枠」類によって水位を上昇させて水路に水を取り入れるといった方法がとられた.そこで,渇水時において,上流側がこのような全量取水体制をつくると,下流側にはほとんど,または全く水が流下しないことになる.このため,下流側はこの恒久的ないし一時的な堰を破壊して下流への水の流下をはかり,上流側はこれに対抗して自己の堰を守ろうとすることになるのである.実力による争いの典型的な形態である.
 このような水利紛争は,それぞれに死活をかけた争いであったから,非妥協的な性格をもっていた.しかし,資源制約にもとづく紛争の多発は,社会的不安定の要因となりうるものである.これは,幕府や諸藩の支配権力にとって都合がわるいだけでなく,農民にとっても結局は破滅をもたらすことになる.そこで,水資源の配分を統制する秩序が社会的に形成されなければならなかった.
 (2) 用水統制秩序の形成
 16世紀後半から18世紀前半にかけての治水事業・灌漑システムおよび新田開発は,おおむね,支配権力が事業主体となってすすめたものであった.したがって,用水の運営についても,権力的な支配と統制がこころみられた.
 たとえば,福井県(旧越前国)の足羽[あすわ]川(九頭竜[くずりゆう]川支川)に取水する徳光[とくみつ]用水は,その全体的な体系をととのえたのは慶長年間(1596-1614年)と伝えられているが,1604(慶長9)年,福井藩の家老名で徳光用水の「御掟書[おおきてがき]」を公布し,藩による用水の支配統制原則を明らかにしている.その内容をみると,きわめて詳細であるが,用水にかんする論争は「奉行」に申し出るべきことが規定されている.さらに,旱魃のさいには,上流の堰を切って落とす場合(切水[きりみず])の条件を初め,くわしく水配分の秩序の原則を定めている.この例は,徳川幕藩体制が成立する以前の時期のものであるが,すでに大名権力が,灌漑用水の支配と,その統制的秩序の形成に強い関心をもっていたことをしめすものであろう.
 幕府や大名たちの支配への志向は,この時代に共通のものであったように思われる.水の支配は,水田稲作農業を中心とする農村の社会的支配にとって好都合だったからである.幕府や諸藩は,用水システムを奉行[ぶぎよう]や代官[だいかん]の支配下に置き,これを農民の全体的な支配の手段にしようとする動機をもっていたと理解してほぼ間違いない.水の統制的支配は,アジアの専制的国家権力にとって,農民支配の重要な手段であったことは,K.ウィットフォーゲルによって,つとに指摘されているとおりであり,おそらく,それは適切な分析だったといってよいだろう.ただ,ウィットフォーゲルも言及しているように,日本がアジアの専制社会を生みだした「水力社会」とかなり異なっているという点に注目しなければならない.日本の場合,ユーラシア大陸における大河川(たとえば,ナイル川,ティグリス・ユーフラテス川,インダス川,黄河などの大河)とくらべて,相対的に小河川が多く,その制御にそれほど強大な大権力の形成を必要としなかったという特性があり,専制的大国家による水利統制と人民支配は成立しなかったのである.やはり,日本は島国であり,微地形と微気象の発達にもとづく自然条件の地方分割性を基礎にして,水の権力的統制を専制的に確立することができなかった社会ということができるのである.もちろん,この点は,日本の不幸ではなくて,むしろ幸福を育てる客観的な条件だったと考えるべきである.
 この点が,日本における中世の荘園制を確立し,かつ近世における大名領有制を定着させるもっとも根本的な要因であったように思われる.ナイル川や,ティグリス・ユーフラテス川のような大陸の大河川を制御するためには,高度な知識の集中と,巨大な規模での労働力を動員できる政治体制を必要とし,したがって,そのような政治権力の形成をうながす社会過程が進行したものと理解することができる.日本列島においても,そのような技術的条件と社会過程がまったく存在しなかったと断言するわけにはいかないが,結果としてみると,そういう水の専制的な政治支配は十分に成功しなかった.
 その原因を,完全に説明することはできない.ただ,その点を,すこし整理して推測してみるならば,つぎのとおりである.
 第1に,すでに述べたような日本列島の微地形・微気象という根本的な条件のうえで,自然の一元的な制御の必要がほとんど存在しなかったということである.たとえば,年降雨量が数十mmにすぎないエジプトの場合,ただ一つの水の動脈であるナイル川の制御に成功することができれば,全人民を支配することが可能であったろう.ナイル川は,どうみても,個人としての農民や,一つの村落によって制御できる規模をはるかにこえた巨大な河川であった.これにくらべれば,日本の河川は,きわめて小さなものであった.これを,制御するためには,専制的な中央権力の形成を必要とすることがなかったと考えてよい.
 第2に,徳川幕藩体制そのものがもっていた政治的・社会的性格である.徳川幕府は,大名たちによる領地の一円支配を基礎にして自己の統一的統合の原理をつくりあげることに成功したが,このさい,領地の配分についてきわめて繊細な配慮を払ったようにみうけられる.これは,大名たちの割拠的領有体制を制度化しただけではなく,その領地を複雑に入りくませ,天領[てんりよう](幕府直轄地)や旗本知行地[ちぎょうち](旗本は幕府の直接の家臣であり,その支配地を「知行地」といった)が,大名の領地の中に点在するようにした点に表現されている.同じ藩領における水論は,一つの藩権力のもとで統制して解決できるが,同一の灌漑システムが複数の藩領・旗本知行地に及ぶ場合は,そうことが単純に解決されるわけにはいかなかったのである.
 こういう複雑な情況が生まれることによって,幕府や諸藩も当初の専制的な権力的統制をほとんど断念するにいたった.ただし,それが,一元的な支配と統制の全面的な放棄でなかったことはいうまでもない.日本の社会における「水」の統制による社会全体への支配への意欲はきわめて旺盛であり,「専制社会」の潜在的可能性を,いつも秘めていたとみられる.だが,日本の社会においては,その反面で,地域における分権的な、自治的秩序をつくりだそうとする民衆の意欲も,きわめて旺盛であった.
 そこで,現実的には,水利秩序はたんに権力的統制によって形成されただけではなく,むしろ,農村社会そのものから生みだされた自治的性格をもっていたのである.
 (3) 用水組合と用水慣行
 この水資源の配分秩序の混乱にたいして,幕藩権力は,あまり有効な手段を講じたようにみえない.その理由は明白である.旱魃によって米の生産が減少することは,個々の村々や農民にとって死活にかかわることであるが,幕府や大名にとって,どちらが正当であるかを判断する根拠を欠いていたのである.たとえば,河川の上流における優先的取水権を承認してしまったならば,その下流部における農民の生活と,自分自身の現物地代収入(年貢)を否定することになってしまう.
 結果として,徳川幕藩体制は,強力な権力的統制政策をとらなかったようである.直接的な統制政策にかえて,間接的な制御政策をとらざるをえなかったようにみられるのである.それを実際的にいえば,村々を基礎とした用水組合の形成であり,これらによる緻密な慣習法的秩序の成立であった.その単純な理由を考えてみれば,大名たちの所領内に多くの灌漑システムがあったとすれば,たがいに争いあって米の生産を減少することは望ましくないことであった.どこかの地域が旱魃によって米の収量が減少すれば,藩にとって,財政収入が減少することになるのである.だから,幕府や藩権力としても,自主的な水配分の秩序がつくりだされることは望ましいことであった.
 その結果,形成されたのが用水慣行である.用水慣行は水の配分にかんするきびしい社会的秩序であり,一種の制度であった.この用水慣行の制度化過程は,おおむね,享保期以後進行したのであるが,いままでのところ,この過程はあまり明快に説明されていない.そこで,ややくわしく,つぎに分析を加えておくことにしよう.
 幕府や藩権力が用水の組織的統制に意欲をもっていたことについては,すでに述べた.だが,この権力的統制はあまり有効でなかったようである.そこで,結果としては,用水組合による自主的統制の秩序に期待したのである.そして,この期待は,おおむね成功することになった.日本の水利組織は,見事に形成され,新しい水配分秩序をつくりだすことになったのである.
 水利秩序を形成する組織的主体は,用水組合であった.用水組合は,地方によっていろいろな名称をつけられたが,基本的には灌漑システムを管理し,水の配分統制を行う自治的な団体であった.そして,その組織的特徴は,「村々組合」だったという点にある.それは,村落をメンバーとして構成される組織体であり,個人(あるいは個々の家族)をメンバーとするものでなかったのである.だから,それは,一種の村落連合体であった.ただし,連合体といっても,村落が相互に完全に対等な立場にたっていたわけではなかった.とくに,大きな灌漑システムについて成立した用水組合の場合,利害の対立を複雑に内包しており,むしろ村落相互の緊張関係を基礎にしていたがゆえに成立したとさえいえるほどである.
 この用水組合の運営にさいして,とくに指摘しておきたいことは,つぎの諸点である.
 第1に,古田優位の原則の確立である.古田とは,歴史的により古く開発された水田地域のことであり,この古田優位原則は,後に述べる用水慣行の形成にあたって,一般的原理として作用することになる.したがって,用水組合の運営にさいしても,古田にあたる村落の代表者が優越的な発言権をもち,重要な指導的発言力をもつのが普通であった.「用水惣代」は,多くの村々を代表して用水組合の役員として選任されてきた人々であるが,それをまた代表するのは,やはり,古田の村から選任されてきた惣代であった.こういった序列は動かしがたいものであり,しばしば,第2次大戦後,あるいは,現代にまで存続しているのである.
 第2に,この用水組合のメンバーが村落であり,個人ではなかったという理由について,水田利用の分散錯圃制を指摘することができる.分散錯圃とは,村落における水田土地利用の方式であって,個々の農民の土地は一団地化されておらず,たがいに入りまじった小圃場を耕作するという形態である.これは,ヨーロッパの中世村落における「オープン・フィールド・システム」と似ている点をもっていたとはいえ,つぎの点で決定的に違っていた.それは,水田の灌漑用水を利用するうえで,各圃場は宿命的に結びつけられていたということである.農地は分割されているにもかかわらず,水について,分割的占有権をたがいに主張することができなかった.このような村落社会における宿命的統合が,用水組合に「村々組合」的性格を与えた,基本的な理由であった.
 このような用水組合の形成自体が,水の管理と配分にさいしての社会的秩序を制度化するものであった.闘争はできるだけ回避され,ルールをつくることが求められたのである.用水組合の形成過程であらわれた社会的ルールは,「用水慣行」であった.つぎに,この用水慣行の主要な形式と性格を述べておくこととしたい.
 第1は,取水施設あるいは分水施設の構造を確定し,この変更を許さないというものである.このような施設は,西日本においては石を素材とするものが多く,東日本においては木材を素材とするものが多かったが,いずれにしても,素材とその寸法,規模を厳格に規定し,その変更を許さないというものであった。徳川幕藩期に定められたこのような慣行が,現在においてもかたく守られている例は,それほど稀なことではない.
 第2は,物的な施設(ハード・システム)を前提にしたうえで形成されたソフト・システムである.これは,合意にもとづくルールを発動させるものであり,渇水時における巧妙な水配分のための運営方式であった.この方式は,現実的にはきわめて多様であったが,比較的ひろくみられたものは,「番水[ばんすい]」であった.番水とは,渇水時に地域を分割して時間給水する方法である.給水のブロック・ローテーション方式ということができる.この方式の有名な例は,満濃池[まんのういけ](四国地方の香川県に存在する)の「線香水[せんこうみず]」である.満濃池は日本を代表する溜池であり,かつその歴史の古さと規模の巨大さで現存するものとしては日本でも代表的な溜池であるが,ここに近代にいたるまで伝承された分水慣行が,線香水である.これは,番水の実施にあたって,分水堰ごとの給水を,線香の火の燃えている時間を給水測定の基準にしたものである.
 用水組合は,このような水の管理,配分の組織的統制を実現する主体であった.それは,村々の利害の対立と緊張を内包しながらも,情報を交換し,適切な処理行動を行うものとして成立したのである.そういう意味で,用水組合は用水慣行という社会システムを運営する強力な自治的主体であった.
 (4) 用水権の成立
 用水慣行の形成と定着をつうじて生みだされたものは,「用水権」であった.ただし,この権利は,徳川幕府や諸大名が公式に制定した制度にもとづく権利ではなかった.それは,一種の慣習法的な権利だったのである.
 この慣習法的権利としての用水権の形成にあたって,もっとも重要な社会過程は,「見試[みため]し」であったようである.この見試しとは,ある試験期間であり,施設の構造の決定,および番水などのルールを確定するまえのテスト期間を意味している.この見試しの期間は,おおむね3-5年間であった.この見試しという方式はきわめて意味深長である.この見試しという方式がもっていた意味は,現代的な知識からいえば,つぎの2点に要約することができる.
 一つは,経験主義的な意味である.すくなくとも二つの地域が水の配分をめぐって対立している場合,両者が納得できる結論を出すには,経験的認識が重要な意義をもったであろうということである.テストをくりかえしながら対立する両者が納得できる結果を導きだそうとする態度は,近代の経験科学的精神に結びつく性格をもっていたということができるのである.さきに述べた用水慣行は,おおむね,このような見試しを経過して形成されたものであった.
 もう一つは,見試しの期間のもつ意味である.たとえば,5年という期間は,きわめて長いようにみえるかもしれない.だが,水については,そう長いともいえないのである.周知のように雨の降り方,したがって河川の水の流出の仕方は,年によって大きな変動がある.現代的な用語でいえば,豊水年と渇水年があり,利水は渇水年を基準とせざるをえないのである.現代の利水計画においては,10分の1程度の確率で発生する渇水年を基準として,それにたえることのできる計画をつくることが常識となっているが,幕藩期の見試しは,どうやら5分の1が基準であったようにみえる.もちろん,5年の見試しで5分の1確率の渇水年に遭遇するとはかぎらないのであるが,客観的な水文資料の蓄積がまったく存在しなかった時代の経験主義的認識の範囲でいえば,適切な方式であったといってさしつかえないであろう.
 こういう社会的プロセスを経て成立した用水秩序は,流動性を欠いたものであった.それは,時々刻々変動する水の需要と供給を調整する機能をもつものではなく,配分関係を固定化することによって,むしろ,変動的な供給にたいする地域的需要情報を固定化する性格をもっていたのである。だから,それは,社会的秩序としては,競争的価格変動によって媒介される均衡を達成するものではなく,権利として固定化されざるをえなかったのである.さきに述べた古田優先の用水慣行は,実のところ,こういう慣習法的権利の体系にとって,もっとも重要な要因であった.
 この慣習法的な意味での用水権は,見事に高密度に形成された.そして,この用水権の意味は,重層的であった.
 いまも,この用水権者の主体が誰であるかということは,かならずしも,明らかでない.慣習法的な用水権の場合,権利は重層的に分割され,かつ統合されていたのである.この分割と統合の現実は,客観的に理解しにくいことであるが,日本の農業水利システムをみる場合,もっとも重要なことであると思われるから,つぎにくわしく述べておくこととしよう.
 まず,用水権の主体は,用水組合であった.同じ河川に水源を求める複数の灌漑システムが存在する場合,用水組合の利害は相互に対立せざるをえなかったから,それぞれ自己の権利を主張しあうことになったのである.この権利は,相互の力関係が均衡した場合,固定されることになった.
 一つの灌漑システムの内部においても,用水権が発生した.水路による水の輸送と配分にさいして,複数の分水点を必要としたからである.分水点において,対立する地域は河川における取水の場合と同じように権利を主張し,結局,それぞれの用水権を形成することになった.大きな灌漑システムの場合,地形に依存してつくられた水路は複雑に枝分かれしていたから,分水点は多層的に存在し,したがって用水権も多層的に形成されることになった.多くの場合,最終的な用水権の主体は,個々の村落であった.とくに大規模な灌漑システムについてみると,それを建設する過程で新しい村落が形成されていったから,この傾向が顕著にみられた.
 もっとも判断しにくいことは,最終的な用水権が個人に帰属していたかどうかという点である.この点は,潜在的にのみそうだったというべきであるように思われる.村落におけるはなはだしい分散錯圃的土地利用のもとでは,個々の水田圃場の灌漑は非独立的であり,しばしば「田越し灌漑」方式が実施された.個々の水田圃揚が用水路に直接接するのではなく,数枚ないし数十枚の圃場が連結しており,順次灌漑用水を送っていくという仕組みである.しかも,その連結した一団の水田圃場群は,多くの場合,多数の異なる農民によって耕作されているのである.用水権が独立して個人に帰属するものとして表面化することは,ほとんど不可能だったといえよう.そういう意味で,用水権は人格に帰属する権利ではなく,土地に付属する権利であったといってさしつかえないのである.
 このようにみるとき,慣習法的権利としての用水権は,多層的に構成された集団的権利だったと特色づけることができる.したがって,この権利の主張ないし擁護にあたっては,個人的行動ではなく,集団的行動を基本的形態とせざるをえなかった.集団を媒介とすることなく,個々の農民は自己の水田耕作に必要な灌漑用水を確保することができなかったのである.日本社会における強固な集団主義的行動様式は,以上のような社会過程の中で主として形成されたものと理解される.
 (5) 村落の定着と農業の集約化
 過剰開発とそれにもとづく資源制約のもとで,日本の近世村落社会は定着した.近代以後の日本がうけつぐことになった社会的・文化的特性の基本的内容がこの時期に成熟したものと考えてよい.この成熟過程の内容で,とくに重要と思われる諸点をつぎに指摘しておきたい.
 第1には,農業生産の集約化の追求ということである.これは農業資源制約のもとで,個々の村落は農業生産の領域を外延的に拡大することがほとんどできなくなったために生じた傾向である.定まった領域の中で,村落生活を維持してゆくためには,土地の単位面積当り収穫量を増大させる努力が必要になったのである.この必要のため,大量の肥料を投入する栽培方法がひろまり,また,労働力の投入も強化された.単婚家族を原則とする自営小農経済において,限界労働生産性の水準よりも,収穫の絶対量により強い関心が払われることになった。また,米以外の農産物への農業の多様化もみられた.棉花の栽培をはじめとして,各種の市場向け農作物が栽培され,それは本来米をつくるべき水田にまで及んだ.こういう商業的農業をささえるための地力の再生産の方法として,「金肥[きんぴ]」(商品として売買される肥料)が登場した.それを代表したのが「ほしか」(鰯をゆでて乾燥したもの)であり,その最大の産地は関東地方の九十九里浜沿岸であり,その製品は遠く関西地方の和泉・河内・摂津(主として現在の大阪府)地方にまで送られた.
 第2には,農業資源の保全に大きな関心が払われ,そのための努力がつづけられたということである.これは,主として村落による灌漑排水施設の維持管理事業,入会山林・原野の利用方式のルール化という形であらわれた.たとえば,灌漑排水施設の維持管理についてみると,毎年,1,2回の水路浚渫・藻刈[もが]り(水草の除去,水路沿岸の野草の刈取り),および破損箇所の修理が実施された.これは,村落の全員(各家族を代表する成年男子)の参加を義務づけるものであり,「夫役[ぶやく]」とか「公役[くやく]」とかよばれた.いうまでもなく,この作業への従事にたいしては,賃金が支払われることはなかった.無償の労働負担だったのである.また,この労働の割当ては,「いえ」を単位とするものであり,耕作面積の大小,家格序列の差などによる負担の差がないのが普通であった.村落は,市場経済を基礎とした応益負担とは異なる原則によって運営されていたのである.また,山林原野の場合にも,資源を枯渇させない配慮にもとづく利用方式が工夫された.
 第3には,以上のような過程が,村落社会の中にふかく浸透し,制度化されたということである.農業生産における農民の増産主義的行動は,氏神信仰という形で「村びと」の稲作儀礼にかかわる完結的な制度として確立することになった.そして,用水慣行が村落における農業資源利用を律する秩序となることによって,村落内部においても水利用の方式がいわば規範として制度化されることになった.この制度化の過程は,村落を一つの自治団体として,その永続性の追求を自己目的とする存在に転化せしめることになった.それと同時に,村落に住む人々の意識と行動様式を,規範としての村落にふさわしいものとして洗練してゆく結果をもたらしたのである.柳田国男が「常民」と規定した日本の多数派民衆の社会的性格は,このような近世の村落と農耕民のそれを原型としたイメージであったと理解することができる.村落生活の中にふかく制度化された近世日本の農耕社会の特性は,きわめて安定的に維持され,後に述べるような「近代化過程」の衝撃をうけながらも,それほど大きな動揺をみせることはなかったのである.
 なお,つけ加えておかなければならないことは,徳川幕藩体制のもとにおける鎖国が,以上のような日本の社会的特性を成熟させる点で,いっそう加速的な条件として作用したであろうということである.鎖国の意図と役割については,いろいろに考えることができるが,結果として,日本の社会をいちじるしく内向的性格にしてゆくことになったことは,否定しえない事実であろう.経済的にいえば,国外からの資源の輸入に依存することのない閉鎖的経済圏を日本列島につくりだし,地域の固有資源にだけ基盤をおく産業の展開をうながしたのである.幕府の長崎の管理貿易による海外の情報と文化の流入は,制限的ではあったにせよ,たえず日本の社会に刺激を与えつづけたし,西南日本における密貿易も同じ役割をもっていただろう.しかし,資源の輸入を原則的に停止した情況のもとにおいて,日本の経済と文化はやはり内向的な洗練の道を歩まざるをえなかった.農村における村落社会の極度の固着と制度化も,この点を度外視して理解するわけにいかない.

 Ⅲ 明治維新以後の近代化過程と農業水利

 (1) 土地私有制度の確立と農業水利
 幕末開港以後の日本の政治的・社会的激動過程を全般的に説明することは,本稿の目的ではない.しかし,維新の動乱過程を経て,日本の政府が実施した政策の基本的特徴だけは,整理して指摘しておく必要があるだろう.とくに,農業水利の変化の観点から,重点をしぼって述べればつぎの通りである.
 第1に,もっとも重要な点は,土地の私有制度を国家的に確認したということである.1873(明治6)年の「地租改正条例」にもとづく地租改正事業がそれであった.この事業の直接の目的は,唯一つの新しい中央政府である明治政権の財政的基盤を整備することにあったが,結果として,近代市民社会の形成に道をひらくとともに,日本における資本主義経済の成立に制度的門戸をつくりだすことになったのである.なぜ,この事業が比較的円滑に実施されたかという点は,おそらく,また別に,くわしく検討されなければならない問題である.
 第2に指摘しておかなければならない点は,この土地私有権の確認を前提として,河川水利制度を新しく整備しなければならなかったということである.実際のところ,他の政策においてもそうであったが,明治政府はきわめて試行錯誤をくりかえした.そのあげくに,1890(明治23)年に「水利組合条例」が,そして,1896(明治29)年に「河川法」が制定された.これらは,近代的な河川水利制度の一応の確立を意味するものであった.「水利組合条例」の基本的考え方は,農業用排水については,「民費負担」の原則を確定し,それらが土地所有者の組織によって管理されなければならないことを明示するものであった.また,「河川法」は河川が私的なものではなく,「公」のものであることを明らかにし,治水事業と利水を国家の統制する行政のもとにおくことを,制度的に確認するものであった.地租改正を出発点として,ヨーロッパ風の近代的法制度が,水の分野においても成立することになったのである.
 また,この水利組合制度の成立にかかわって,いくつかの事実を指摘しておきたい.この水利組合制度は,市制・町村制の施行という地方行政制度の整備にともない創出されたものであるが,この制度によらない水利団体の存在も法的に容認されることになった.市制・町村制にもとづく一部事務組合としての水利組合も生まれたのである.ただし,そういった組合は,福岡県・岡山県・島根県および静岡県などの特定の地域に集中していた.その理由は,まだ十分明らかにされていない.
 さらに,1899(明治32)年には農商務省所管による「耕地整理法」が公布され,地主を中心にした水田の土地改良事業に法的裏づけが与えられることになった.この法律の1909(明治42)年の改正は,耕地整理事業の主体を法人格のある耕地整理組合として設立することを認めたが,その前年,内務省は「水利組合法」を定めて,さきの「水利組合条例」にかわる水利行政の強化を行っている.また,とくに,北海道については,1902(明治35)年,「北海道土功組合法」を制定し,国庫補助による北海道の開田政策を強化している.これらは,いずれも,農業水利の改善と管理を団体政策をつうじて推進しようとするものであって,日本農業の制度的近代化過程における特徴的な政策手法として注目されなければならない.
 第3に,これらの近代的法制度の制定は,きわめて現実妥協的であったことを指摘しなければならない.「河川法」の制定にもとづいて,農業水利権制度がつくられ,河川を占用するもの,河川に構作物を設置するものについては,河川管理者(地方長官,現在の都道府県知事)の許可をうけなければならないものとされたが,特例を設けて現存する該当事実は,すべて許可をうけたものと同等の権利をもつこととしてしまったのである.これによって,「慣行水利権」といわれるものが成立することになった.慣行水利権とは,すでに述べたような慣習法的秩序を,近代法の体系が容認することによって成立した法的権利であった.ただし,この点がしばしば誤認されている事実について,あえて注意を喚起しておきたい.慣行水利権は「河川法」にもとづく許可手続きを経ていないことはたしかである.しかし,それは法にもとづく許可手続を行った権利と同等のものと法的に見なされることになっているのであり,いいかえれば,それは法的権利なのである.ここに,日本の農業水利の近代化過程の複雑さがよくしめされることになる.
 (2) 制度の重層化
 慣習法的な用水権が,社会的にきびしく制度化されている情況のもとで,近代的法制度として,水利権が設けられた.この場合,つぎのような問題が生じた.
 それは,まず,制度の二重構造が生じたということである.これを水利組合の場合についてみると,つぎの通りであった.新しい水利組合制度は,すでに述べたように土地の私有権の確認を前提として,土地所有者を組合員とするものであった.幕藩時代における用水組合が,村々組合であったことと比べてみると大きな違いである.
 だが,重要なことは,それにもかかわらず,村々組合的な運営方式が維持されたということである.新しい水利組合の組合員は,形式的にいえば地主か自作農であったが,かれらの大部分はやはり「村びと」であった.大面積の土地を所有する不在村大地主も存在したが,地主の大多数は在村中小地主だったのである.かれらは,村落からはなれることはできず,村落の利害を代表する立場にたたされていた.そこで,水利組合の組合員は,私的な土地所有者としての利害動機を秘めていたが,同時に自分の属する村落全体の利害にもとついて行動せざるをえなかったのである.
 この関係を,水利組合の運営方式の中にうまく生かしたのが,役員選出における「小選挙区」制の採用であった.水利組合の役員を組合員が選出する場合,その選挙区を水利組合一円にせず,地域的に細分化したわけである.小地域の利益代表によって,水利組合の役員が構成されるような方式を採用したといってよいだろう.その小地域の基本的領域は,やはり,個々の村落であった.役員選出のための選挙区が,つねに厳密に村落と一致していたわけではないが,村落を基礎として,水路系統ごとに分割されていたことは事実である.それは,現代における水利団体の法定団体である「土地改良区」にもうけつがれている.日本の農業水利組織は,地域的利害を調整すること,およびそのための利益代表者を役員に選出することによって構成されているのである.
 このような方式の採用は,水利組合制度が土地の私有権を確定することを前提にして,私的な土地所有者を組合員とすることによって成立したものであったにもかかわらず,実は,「村々組合」的実質を多分に持続するものであった.すでに濃密に形成されていた慣習法的秩序は,新しい近代法的制度の制定にもかかわらず,ほとんど重大な影響をうけなかったのである.個々の村落の利害の主張が,水利組合にとって基本的な要因であり,これを調整しつつ,近代法的制度の形式を実現していくことになったのである.この場合,地域の利益代表として選出された水利組合議員の多くは,在村の地主であった.かれらは,地主としての私的利害動機をもちながら,同時に,村落全体,ときには,一つの水路系統全体の利害を代表する立場におかれたのである.そういう意味で,地主としての水利組合議員は,社会的に二重人格をもたざるをえなかったとさえいうことができる.
 そこで,近世において形成された用水慣行は,原則としてそのまま維持された.水にかんする慣習法的秩序の体系に大きな変化は生じなかったのである.明治政府はこの秩序を大きく変革するような措置を,まったくとらなかったし,農村内部からも,秩序の変革を求める動きは,ほとんど生まれなかった.
 (3) ヨーロッパ技術の受容
 制度におけるだけでなく,明治の日本はヨーロッパの水利土木技術の模倣的導入という点でも,きわめて積極的であった.
 まず,強調しておかなければならない事実は,他の技術分野と同じように,明治政府は河川・水利技術についても,外国人お雇い工師を招き,きわめて優遇してかれらの指導を求めたという点である.そのお雇い工師は,すべてオランダ人であった.ファン・ドールン,デレーケ,リンドウなどに代表されるオランダ人お雇い工師は,明治前期における日本の河川治水事業および農業水利開発事業の指導において,大きな足跡をのこした.
 河川・水利の分野で,なぜもっぱらオランダ人技術者を招いたかという点については,いろいろな解釈がありうる.ここで指摘しておきたいことは,つぎの3点である.
 第1には,当時の日本の指導者が,オランダを土木先進国であるとみたであろうということである.そして,それはあまり間違っていなかった.これは,おそらく西ヨーロッパ史に即してみても,不当なことではない.海面を干拓することによって国土を形成してきたオランダには,土木技術の大きな蓄積があり,農業革命期の農地の開発,産業革命期の都市の建設にさいして,オランダ人が西ヨーロッパで発揮した建設的役割は,ひろく知られているところである.日本が,近代化の推進にあたって,オランダ人技術者に着目したことも,けっして不自然なことではない.
 第2に強調しておきたいことは,当時の日本政府が,河川舟運の発展に大きな関心をもっていたという点である.河川舟運の発展にとって重要なことは,高水の制御より低水の維持であった.事実,明治前半期に日本で設立された運送企業は,「外輪船」を輸入して日本の河川に運航させ,そのための低水路維持に努力を払ったのである.商業と輸送の発展を促進しようとした明治政府にとって,この舟運のための河川航路の維持は,重大な課題であった.オランダ人技術者は,この点で,指導的役割を発揮できるものと期待されたに違いないのである.
 第3に,農業水利の分野で,オランダ人は相当の経験を積んでいたであろうということである.オランダ人は,インドネシアのジャワ島などを植民地として支配する過程で,東南アジアの水田稲作農業を経験し,そのための農業水利建設や改良を体験していた.この経験が,明治前期の日本でどれだけ生かされたかについては今後とも検討しなければならない問題点の一つである.
 とくに,以上の第1点に関連して強調しておきたい事実は,オランダ人お雇い工師の1人であるファン・ドールンが日本の農業土木技術に及ぼした影響である.かれは,1880(明治13)年,福島県の安積[あさか]開墾地を視察して演説を行い,猪苗代湖からの疏水計画にともなう「要水量」概念の重要性を指摘したのである.これは,水田における浸透水量と蒸発散量を基準にして要水量計画を定めることの重要性を指摘したものであり,日本における農業水利計画のもっとも重要な基準値である「減水深[げんすいしん]」概念形成の出発点になったといわれている.なお,「減水深」(water requirement in depth)とは,1日(24時間)における水田の湛水の低下水深を意味する用語であり,現代においても,日本の農業水利計画にさいして,もっとも重要な基準値として利用されているものである.
 この要水量概念は,個別の経験主義的な「見試し」に依存していた日本の農業水利に,西ヨーロッパ的な分析主義的手法を,もっとも基本的な点で導入したものといってよい.水田の湛水量を土壌浸透量と蒸発散量に分解し,これを補給する水量を農業水利計画の基準にすえたのであって,いまからみれば単純なことであるが,当時としては,きわめて革新的なことであった.そして,日本の農業土木技術者たちは,こういう考え方を,すぐに,うけいれたのである.
 ただし,このような西ヨーロッパの分析科学的思考によって裏打ちされた技術の受容には,二重の意義があったといわれなければならない.その一つの側面は,いうまでもなく,積極的な意義である.たんなる自己の経験の世界に埋没することなく,それを「近代的手法」におきかえて,自己の歴史的経験を普遍的なテクノロジーの基盤のうえにおき直すという努力が行われたのである.西ヨーロッパの近代技術から学ぼうという態度は,この積極面を表現していた.この態度は,日本の水利土木技術が,西ヨーロッパのそれにたいして,おくれており,劣っているという謙虚な自覚にもとづいていたと理解すべきである.
 もう一つの側面は,消極的な側面である.西ヨーロッパの近代技術の流入過程において,日本の歴史が培ってきた伝統的な技術にたいする不当な軽視の傾向があらわれてきたのである.たとえば,農業水利計画にさいして,すでにふれた「減水深」が基準値として絶対視され,経験的安定値(たとえばさきの「見試し」によって得られるような社会的均衡値)が不当に軽視されるようになったのである.もっとも,これは第2次世界大戦後,「土地改良法」(1949(昭和24)年)の制定にもとづいて,農業水利事業の実施における監督権限が政府(農林省)に集中されることによって,本格化したものといってさしつかえない.第2次大戦後,農業土木技術が急速に標準化され,制度化されたのである.
 ただ,この過程において見逃すことのできない事実をあえて指摘しておきたい.それは,日本農業水利の近代化過程において,外来技術と日本の官僚技術だけが,一面的にすすんだというわけではないということである.「むら」と農業水利団体は,農業水利の現実を運営する主体であると同時に,「水利権」を法的に保有する主体でもあった.だから,それらは,江戸幕藩体制期に形成された水利秩序に大きな変化を及ぼすような改変にたいして消極的であり,しばしば,農業土木技術官僚の提起する合理主義的改良に懐疑的であった.農業土木官僚の共通の姿勢は,施設さえつくればよいという傾向をもっていたから,地元で施設を永く利用して生活していかなければならない農民の立場からすれば,大規模な事業に懐疑的にならざるをえなかったのである.
 (4) 大規模用排水事業の出現
 ――国家介入の意義――
 日本の農業水利事業にたいする国家の積極的介入の歴史は,近代においてみるかぎり,そう古いものではない.その詳細な歴史的あとづけは,ここでは省略するが,とくに本格的な国家介入の開始を告げたものとして,「用排水幹線改良事業」についてふれておきたい.
 この用排水幹線改良事業(以下「用排幹線」と略称する)は,法律にもとづいて成立した事業ではない.農林省は食糧局長名で,1923(大正12)年に「用排水改良事業補助要項」を府県に通牒し,受益農地面積500町歩をこえる府県営の用排水改良事業にたいして,50%の事業費補助を行うことによってスタートしたのである.日本においては,公共事業のさまざまな種目が,このように法律によらないで,行政官庁の「通牒」によって新設されるケースがしばしばあるという点に留意しておく必要がある.
 この用排幹線事業制度の登場の意義は,つぎの3点に要約することができる.
 第1には,大規模農業水利施設の更新の必要がたかまったということである,日本の大規模農業水利施設の主要部分は,すでに述べたように,17-18世紀にかけて創設されたものであるが,この時期にはすでに100-200年を経過し,基幹施設の更新が必要になっていたのである.ただし,その更新の必要性の内容は,施設のたんなる老朽化にあったわけではない.むしろ,社会的な技術進歩の水準からいって施設の構造や機能が陳腐なものとなり,これを「近代化」する必要がひろく生まれたと解すべきである.そこで,用排幹線事業は,在来施設のたんなる更新にとどまらず,重要な改良・近代化をともなっていたのである.
 第2には,大河川の治水事業の進行にともない,水田地帯の地域排水の改善の欲求がたかまったということである.現実に,用排幹線事業として工事が行われたものの中には,中小河川改修という内容をともなうものがあり,内務省土木局と農林省とのあいだに所管権限をめぐって紛争が生じたほどである.このような地域排水事業は,少数の地主の主導する局地的な耕地整理事業で十分に効果を発揮することが期待できなかったので,大規模府県営事業の成立をうながしたものと考えられる.
 第3に,国家の農業水利事業への本格的な進出がはじまったということである.まだ,政府が直接に事業を実施する体制(現在の国営事業にあたる)は生まれなかったが,府県営事業にたいする50%の国費補助の開始は,農業資本形成について国家が積極的に関与する体制が,ここにはじめて確立したことを意味している.その最大の理由は,地主が農業投資にたいする積極的意欲を失ったという点に求められる.第1次世界大戦期をつうじて,日本の米価は異常に高騰し,米騒動(1918(大正7)年)をひきおこすにいたったが,1920(大正9)年に発生した反動恐慌以後,米価は下落したまま低迷を続けたのであり,地主は農業への積極的投資・技術改良意欲をほとんど失ってしまったのである.そして,農民の大部分は貧しく,多額の費用を要する農業水利投資の主体として,まだ成熟していなかった.政府財政資金の投入が必要になったのである.第2次世界大戦後の「土地改良制度」への道がここにひらかれたといってさしつかえない.
 しかし,強調しておかなければならないことは,国家の財政資金が農業水利事業に投入されることになったとはいえ,事業そのものの立案・計画は,政府によって一方的に行われるものではなかったという点である.用排幹線事業は,基本的には府県によって立案・計画されるものであり,この立案・計画の過程では,地元の農業水利団体との協議にもとづく合意を前提にしていたのである.政府の役割は,このようにして作成された事業計画の審査と,これにたいする補助金支出が妥当であるかどうかを選択して決定するというものであった.財政資金の支出の決定については,政府が権限を掌握していたけれども,地域の農民の合意形成と府県の意思を基盤にして,はじめてその権限が行使されるという仕組みになっていたのである.中央政府による集権的な管理機構の成立をみたにもかかわらず,その過程に分権的意思決定の機能が埋めこまれていたわけである.
 この用排幹線事業の実施によって,日本の農業水利施設の相当大きな部分が,「近代化」された.たとえば,在来の木製の取水堰や水門がコンクリート製につくり変えられたり,水門の門扉が鉄製にされ,ハンドル操作によって開閉が可能とされた.自然河川に近い状態だったような水路にも,護岸がつくられるという結果にもなった.また,排水改良のため,大型の排水ポンプが数多く設置されることになった.第1次世界大戦をつうじて,急速に進歩した日本の工業力が,このような農業水利事業の近代化を可能とする条件であった.
 (5) 小農経営の発展と水利改良
 日本の小農生産の技術的・経営的充実は,日本の着実な工業化過程の進行と密接な相互関連性をもっていたと判断することができる.その大まかな特徴は,小規模農民経済の市場経済制度への適応を補完する工業製品としての生産財を供給するという形で行われた.
 その第1の品目は,化学肥料の供給であった.日本の農業,とくに稲作農業は資源制約が表面化した18世紀以後,「多肥型」の性格をはっきりしめすことになったのであるが,この特性が明治期以後の日本化学産業の成立と発展にとって重要な基盤となったのである.江戸時代の干鰯[ほしか],明治時代の大豆粕にかわって,大正時代は化学工業製品としての窒素肥料が登場し,大きな役割をはたすことになった.化学肥料の大量投入は,農家の小規模経営の枠組みを破壊することなく,農業生産力の発展に寄与するものとして,日本農業に定着したのである.
 第2に農具の改良である.日本の農具の場合,小規模な圃場を前提にした手作業を主力としていたから,高度に加工された工業製品が用いられることはなかったが,除草機・脱穀機などの改良がすすみ,地方の小規模工場がこれを供給した.また1930年代には,岡山県などのごく一部の地方にかぎられたが,動力耕耘機の使用がはじまり,国産の農業機械の供給が可能になったことをしめした.このような農業機械利用の開始は,政府の奨励や助成によるものではなく,農民の自発的な行動であり,これを可能にしたのが国内の機械工業の発展であった.
 第3に,小型揚水ポンプ利用の普及である.日本のデルタ地帯の水田では,水路水位が水田面より低く,灌漑用水を人為的な揚水労働によって導入する方式がひろくみられた.このための揚水用具としては,18世紀に出現した足踏み水車(「踏み車」と称された)がひろく用いられていたが,1910年代の終り頃から,これにかわって小型の用水ポンプの利用が始まった.とくに,九州の筑後川下流のデルタ農村(佐賀県,福岡県)では,1920年代,「電気灌漑事業」がひろく実施され,足踏み水車から小型用水ポンプへのきりかえが一挙にすすめられた.また,やや遅れて1950年代に,利根川下流部のデルタ地帯(千葉県)では,小型の農舟(水路交通に用いられた)のへさきに小型のバーチカルポンプをとりつけ,移動して灌漑用の揚水作業を行う例もみられた.この小型揚水ポンプはすべて国産であり,やはり日本の機械工業の発展の成果を表現するものであった.
 この小型揚水ポンプの普及は,日本の灌漑技術の展開過程において,画期的な意義をもっていたといってよい.足踏み水車の場合,1日に男子1人が揚水できる灌漑面積の限度は40a程度であったといわれ,農民は水稲の生育期間中は毎日この揚水労働に従事しなければならなかったのである.小型揚水ポンプの利用の開始は,この過酷な労働から農民を解放し,他の作業分野に労働をふりむけることを可能とし,小農民経営の集約化をうながすことになった.第2次大戦前において,水稲の単位面積収穫量の最高を記録した佐賀平野の農業がこれを代表し,農業研究者によって「佐賀段階」とよばれることになった.

Ⅳ 第2次大戦後の制度改革・近代化と農業水利

 (1) 「戦後改革」の意義
 第2次世界大戦とその終了は,日本の政治・経済・社会に大きな変化をもたらした.とくに,「戦後改革」の実施は,日本のその後の針路を大きく変えた.戦後改革とは,連合国(実質はアメリカ合衆国)の軍事占領のもとで実施された制度改革であり,憲法の改正をはじめ,きわめて大がかりなものであった.とくに,財閥解体,労働改革,農地改革の実施は,日本の経済制度の枠組みを大きく変え,戦後日本の経済発展の出発点としての重要な役割をはたすものであった.
 農地改革は,資本主義国で行われた土地改革としては,他に例をみない徹底したものであった.全国平均で約1haの地主保有地をみとめたものの,これをこえる小作地をすべて政府が買いとり,耕作している小作農民に売り渡すというものであり,それも,進行するインフレーションの過程で,きわめて低価格のものとなった.このようにして,地主勢力の大きな抵抗をほとんどみることなく,徹底した農地改革が実施された結果,第2次大戦後の日本の農業の枠組みは,自作農主義に大きく変質したのである.なお,残存小作地,創設自作地については,1952(昭和27)年制定された「農地法」によって所有権ないし耕作権の移転などについてきびしい制限が設けられ,小作料についても低い水準に統制されてしまった.
 この自作農制度を根幹として,第2次大戦後の農業諸制度の体系的構築がすすめられ,政策運営が行われた.主要な農業諸制度の整備を指摘すれば,つぎのとおりである.
 第1に,農業協同組合制度の制定(1947(昭和22)年,「農業協同組合法」)による全国的な農業協同組合の設立である.とくに重要だったのは,「総合農協」とよばれる地域割り農協の全国的な成立であった.総合農協とは,農産物の販売事業,生産財・消費財の購買事業,信用事業(貯金の受入れ,資金の貸出し)などを一括して同時に兼営することのできる農業協同組合のことであり,現代にいたるまで,日本の農業協同の根幹をなしている組織である.この地域割り総合農協の設立を基礎にして,いわゆる,系統3段階組織が形成されることになった.地域の総合農協(いわゆる「単協」),府県レベルの連合会,全国レベルの連合会である.この系統3段階制の形成は,農協の経済事業のきわめて強力な地域独占力の成立をもたらすとともに,社会的発言力の強大さを生みだす原因となった.しかし,それと同時にこの整然たる系統組織を通じて,政府による政策的制御可能性がひろく形成されたことも,否定できない事実である.
 第2に,この農協の役割と密接に結びついていたのが,食糧管理制度である.「食糧管理法」は,1942(昭和17)年に設けられた戦時立法であったが,大戦後の異常な食糧不足の情況のもとで制度的に維持されることになった.主要食糧の調達と統制的な供給という責務をになうこの食管制度にとって,さきの農業協同組合は欠くことのできない組織体であった.このようにして農協は,農民の自主的な協同活動機関であると同時に,国家による集権的統制機構でもあるという性格をもたざるをえなかった.日本の農協のきわめてたかい農民組織率と整然たる行動は,以上のような歴史的事情を度外視して理解するわけにゆかない.このたかい組織率の達成の理由については,もう1点ふれなければならないことがあるが,別の項で述べることとしたい.
 第3に,土地改良制度の整備である.土地改良制度は1949(昭和24)年,「土地改良法」の制定によって実現したが,この点は本研究ともっとも密接なかかわりをもっているので,項をあらためて,くわしく述べることとしたい.ただ,重要なことは,農協制度と同じように,本制度も「自作農主義」的政策理念と制度を前提にしていたという点である.農地改革なしに,第2次大戦後の目本の農業協同組合・土地改良制度の有効な役割の発揮という現実を理解することは不可能であろう.それほど,農地改革は日本の農業と農村社会にとって,重大な事件だったのである.
 (2) 土地改良制度の整備
 1949(昭和24)年に制定された「土地改良法」の出現は,日本の農業にとって,まったく新しい制度の成立を意味するものではなかった.すでに,この時期までに,普通水利組合,耕地整理組合,北海道土功組合などがあり,農業水利にかんする法制度は,むしろ,きめ細かく整備されていたといってさしつかえないのである.
 土地改良制度の確立の前提は,いうまでもなく,自作農主義的な農政の枠組みの形成であった.農地改革の成果が,日本の農村社会に定着することによって,土地改良制度もその法制化が可能になったと考えられるのである.「農業協同組合法」がいちはやく,1947(昭和22)年に制定されたのにたいして,「土地改良法」がやや遅れて1949(昭和24)年にいたって,ようやく制定されたのにも,それなりの意味があったと考えなければならない.その理由を単純化して述べれば,つぎの通りである.
 第1に,農業協同組合は,政府による食糧の統制的管理にとって欠くことのできない機関だったということである.餓死者を生みだすほどの戦後の食糧不足状態のもとで,食糧の確保とその配給統制は,政府にとって緊急の政治的課題であった.その食糧調達機構として,農協組織を早急にととのえることは,政府にとっても,またアメリカ占領軍にとっても,もっとも重大な課題の一つだったのである.そのうえ,「協同組合」という団体のもっている運動理念と組織原則は,アメリカ人にも,比較的なじみやすいものであったという点を指摘することができる.
 第2に,これにたいして,土地改良制度はもっと色濃く日本の農村社会を反映するものだったということである.「土地改良法」は,後に述べるように,事業法であると同時に団体法でもあったが,占領軍総司令部(GHQ)のアメリカ人にとって,きわめて理解しにくいものであったようにみうけられる.GHQのスタッフの最終的な難点は,「強制加入」原則だったようである.「土地改良法」は,一定地区の利害関係農家の3分の2以上の同意あるときは,その他3分の1以下の少数者の土地改良区の設立,あるいは土地改良事業への参加を強制的に義務づけてしまうのであり,地域の多数者による集団的強制が働く仕組みになっているのである.しかも,日本政府が立案した法案は,さいごまで2分の1以上の同意にもとづく強制加入案であり,国会への法案提出の直前に,これが3分の2以上の同意と強制加入に変更されたのである.いまのところ,この変更の事情は具体的には明らかになっていないが,GHQ担当官の意向が反映されたとみてさしつかえない.
 このような経緯をともなっていたにせよ,1949(昭和24)年に「土地改良法」は成立した.法制度というものは,どのような事情がその成立過程にともなっていたにせよ,いったんできあがってしまえば,強い拘束力をもち,現実を規定してしまうものである.土地改良制度の場合もその通りであった.そして,この土地改良制度は,自作農的農業生産を補強するうえで大きな役割をはたすことになった.以下,この制度の基本的な特徴を,簡単に整理しておくこととしよう.
 第1に,土地改良事業の実施体制が,体系的に整備された点をあげることができる.この法律によって,はじめて国営事業,県営事業が明示され,これらの事業に法的根拠が与えられたのである.また,1952(昭和27)年には団体営事業も追加され,国の財政資金援助によって多様な規模の土地改良事業を積極的に推進することが可能となった.
 第2に,法にもとづく土地改良事業は,原則として「申請事業」とされた点を指摘しておきたい.申請事業とは,地域の関係有資格者の3分の2以上にもとづく申請によってはじめて事業実施が可能になるという方式であり,行政側が一方的に事業を計画し実施することができないこととなっているのである.この点は,地域の農民の意思を重視した民主主義的制度として,たかく評価されなければならない.ただし,その半面の条件として,事業費の一部受益者負担原則が存在したことを見逃すわけにゆかない.国営・県営および団体営事業とも,政府と県の財政負担(その負担率はそれぞれ異なっているが)があるとはいえ,若干の受益者費用負担原則をともなっていたのである.この受益者の費用負担は,事業の計画段階における農民の選択を制約する経済的条件であり,「強制」ではなく「申請」という方式とうらはらの関係にあったわけである.
 第3に,土地改良団体を制度的に一体化した点をあげたい.土地改良法制定以前には,農村の土地改良団体として,普通水利組合(「水利組合法」にもとづき,内務省,内務省解体後は建設省の所管),耕地整理組合(「耕地整理法」にもとづき農林省が所管),北海道土功組合(「北海道土功組合法」にもとづき北海道庁が所管)などの諸団体が存在したが,これらをすべて廃止して土地改良区に一本化したのである.土地改良区は,土地改良事業の実施団体であると同時に,土地改良施設の管理団体でもあるという性格をもつこととなり,ここに事業と管理の組織主体がはじめて法的に一元化されることになった.これによって,1949(昭和24)年以後,全国的に多数の土地改良区が設立され,農村地域社会における有力な組織体となった.ただし,一部に「地方自治法」にもとづく一部事務組合としての水利組合と小規模な任意団体(法人格をもたない)の水利組合が多数存在し,土地改良行政の直接の対象にはならなかった.
 このような任意団体をふくめて,日本の農業水利団体の組織基盤は,やはり,集落であった.水利団体の構成員は,農地改革の実施の結果,地主から自作農にかわったのであるが,集落が事実上の基礎集団であるという歴史的伝統に大きな変化は生じなかったのである.集落における用排水路や溜池などの共同管理作業は,無償の義務労役の方式によって,そのまま継承された.
 (3) 工業化の進行と農業近代化
 1950年代の後半から急速に進行した日本経済の工業化過程は,農業と農村社会にも大きな影響を与えた.これによって生じた変化を要約的に述べるとつぎの通りである.
 第1にいえることは,日本社会全体の基調が,労働力過剰型から労働力不足型へ大きく転換したということである.これは,工業化の急速な進展により,新規の労働力需要が激増した結果であるが,この基調変化によってもっとも大きな影響をうけたのは農村であった.今世紀の日本の農村は,第2次大戦期をのぞいて,たえず貧困と過剰人口に悩んできたのであるが,工業を中心とする都市の雇用の拡大は,大規模な人口移動にもとづく農家人口および農業就業人口の急速な減少をもたらしたのである.とくに,農家の若年層人口の都市への移動はきわめて顕著であり,また,家にとどまる中高年層人口の多くも,季節出稼ぎ,あるいは在宅のまま農外に就業するものが激増した.
 農村から都市へのすぐれた人的資源の大量の供給は,日本の高い経済成長を維持し,工業技術水準の上昇を可能とした重要な要因であったと理解することができる.もっとも,その反面,農業は若いすぐれた人材を失うことによって,人的資源の質の低下という結果に直面することになった.また,この過程で,農家数そのものの減少は,それほどめだってすすまなかったという点も特徴的である.
 そこで,第2に強調しておきたいことは,これにともなって,農業生産および農村生活における資源利用構造が,いちじるしく変化したという点である.これは,基本的には農村における人的資源の減少にもとづくものであり,労働大量投入型体系から労働節減型体系への大きな転換が生じたことを意味していた.
 この転換を生産の分野で代表する現象は,農業機械化の進行,化学肥料・農薬など化学工業製品の大量投入であり,また畜産の場合には輸入穀物を原料とする加工飼料製品への依存の強化であった.生活の分野では自給品(燃料としての薪,味噌・?油など加工調味料,野菜など)の自家生産が大きく縮小し,購入品にたいする依存が拡大した.また,自動車,家庭電化製品の普及も,目をみはるばかりであった.
 これらの現象を単純化していえば,自給生産財・消費財の投入・利用を中心とした構造から,市場をつうじて購入される工業製品としての生産財・消費財の大量投入・利用の構造への劇的な転換だったということができる.そこで,地域の非移転性資源(土地・水・山林原野など)の利用は相対的に軽視されるか,またはまったく放棄されることになった.
 第3に指摘しておきたいことは,農村の「混住社会化」の進行という新しい現象である.この混住社会の意味は,つぎのように説明することができる.先に述べた農地改革によって,日本の主要な農業地域における農村社会は,自作農によって構成される等質の職能社会になった.もっと端的にいえば,個々の村落は伝統的な地縁集団であると同時に,等質の職能集団でもあるという二重性格をもつにいたったのである.もちろん,農家のあいだには農地の所有面積の差があり,また,本家・分家関係を中心とした「家格」の違いが存在していた.しかし,ほとんどすべての村落構成員が自作農であるという構造の定着は,農家の職能的動機の共通性をひろく形成することになったのであり,村落の集団的行動の自治的統制力を強めたのである.
 これにたいして,工業化過程において生じた変化は,この村落の等質職能集団という性格を持続的に浸蝕する力として作用した.農家の動機と行動様式の多様化がすすみ,村落の自治的統制力が弛緩したのである.これに加えて,都市の外延的膨張によって農村にも新しい非農家住民が住宅を建築して移り住むという現象も,かなり広範囲に発生した.このように「混住社会化」した村落は,等質職能集団としての合意形成と意思決定の能力を低下し,同時に地縁集団としての結合力を弱めることになったのである.
 以上のような日本の農業と農村社会の変化を,たんに工業化の急激な進行がもたらした「影響」ないし「破壊的作用」の結果にすぎないと理解することは適切でない.たしかに,これらの変化は多くの欠陥をともなっていたとはいえ,日本の農業と農村社会が,比較的円滑に工業化に適応した過程であったととらえることが必要である.この点は,工業化過程そのもの,および農村の反応という二側面からみることができる.
 まず,工業化過程そのものの側面からみれば,つぎの二つの点を指摘することができる.一つは,雇用の継続的拡大にともなう賃金水準の上昇によって,農家の所得水準の上昇も目ざましいものであったということである.農家の人口放出・兼業化現象は,この所得水準の上昇を歓迎したものということができる.もう一つは,工業がたえず農業生産財の新製品を開発し,供給しつづけたということである.この二つの要因は,農業にたいして破壊的に作用したとはいえないのであり,むしろ,農業の変化をささえる条件として有効に働いたことを認めなければならない.
 つぎに,この工業化過程における農村の反応という側面である.この点に関して,とくに強調しておかなければならないことは,農業外の雇用・所得誘因にたいする農村の対応はきわめて鋭敏であったが,それはたんなる受動的な性質のものではなかったということである.たしかに,表面的にみれば工業化過程が農業と農村に大きなインパクトを与え,一方的に農業と農村が変化をよぎなくされたようにみえるかもしれないが,現実はそれほど単純ではなかった.
 その重要な一つの要因をあげるならば,農村から工業への大量の労働力移動は,より高い所得獲得動機に依存していただけではなく,すぐれた労働能力をもっていることの主体的自覚によって継続的に可能になったといってよいのである.それは,人口過剰基調の農村社会の中に抑圧されていた人々の能力発揮の達成動機の爆発的な表出といってよいほどのものであった.だからこそ,新しい人的資源を求める企業側も,農村からの労働力の供給を経済成長と技術革新を推進する基盤としてたえず歓迎したのである.また,農村に残って農業に従事した人々も,農業機械化を初めとする農業技術体系の大きな変化に対応し,これに積極的に適応する資質と能力をかなりの程度にそなえていた.農村は工業化のインパクトにたいして,主体的な適応をしめしたのである.
 この過程で,政府の農業政策がこの農業と農村の工業化社会への適応過程にたいして,重要な促進的役割をはたしたという点をつけ加えておく必要がある.1960年代にはじまる「近代化農政」(1961(昭和36)年に施行された「農業基本法」にもとづく農業政策で,工業と農業の生産性の格差,都市勤労者と農家との所得格差の是正を基本的な理念とするものであった)は,農業と農村が急激に変化する日本経済にどのように容易に適合するかという誘導的機能を発揮したのである.「農業近代化資金」制度の創設によって,農業協同組合の手持ち資金の融通にたいして政府が利子補給を行い,農家の農業投資を促進したのは,その代表的な一例である.また,1962(昭和37)年から発足した「圃場整備事業」,「農業構造改善事業」なども,大量の政府財政資金の投入によって,農業と農村の工業化社会への適応を円滑にしようとするものであった.これらの政策的誘導措置は,それぞれに有効性を発揮したと評価することができる.
 ただしその反面,農業政策に長期の展望と整合性を欠いていたことを指摘しておきたい.この点については,批判的な目をもってすれば,数多くあげることができるが,ここではつぎの2点を述べるにとどめたい.
 第1点.1961(昭和36)年以後,約7年間にわたって,生産者米価を継続的に引上げるという政策をとったことである.これは,「農業基本法」にもとづく所得均衡政策の手段として,もっとも安易な道をとったといわざるをえないのであるが,結果として自作農主義的農村構造を固着化させる作用をはたすことになった.むしろ,需給にもとづく価格形成をこの時期に定着させる努力が必要であった.
 第2点.農業政策は土地価格の上昇にたいして,ほとんど無策だったということである.工業化,都市化,大規模な公共土木事業の刺激によって,地価の上昇は農業地帯にもひろく波及し,農地の自作収益還元価格をはるかに上まわるにいたった.「農地法」によって,農地の他用途への転用には許可が必要とされていたが,工業化とそのための産業基盤整備が国の最優先の政策として選択されていた1960-1970年代において,この制度は農地転用の有効な歯止めの機能を失ってしまった.わずかに,1969(昭和44)年に「農業振興地域の整備に関する法律」(略称,農振法)を定めて,重要な農業地域の指定を行い,農業公共投資を集中するとともに農地の転用に強い制限を加えたにすぎない.
 このため,都市の膨脹の影響がすこしでも波及し,高速道路,鉄道などの建設が見こまれる地域では,農家の土地所有動機に大きな変質がみられた.自作収益を確保するための土地所有から,将来の地価上昇期待による資産保有への変質である.もともと,土地所有への執着の強い社会で,このような資産保有動機が加わったため,農地を売却して離農する農家がいっそう少なくなってしまったのである.
 (4) 農業水利施設の近代化
 土地改良制度の定着と工業化の進展は,農業水利事業についても,多くの飛躍的変化をもたらした.この変化を,内容的に要約してみることとしよう.
 第1に強調しなければならないことは,ダムの建設による新しい水源開発が可能になったということである.日本にまったくダムの技術がなかったわけではない.たとえば,古代から数多く建設された溜池のなかには,山沿いの小渓流を塞き止めて水をためる大規模な土堰堤の例がみられる.
 その代表は,四国地方の香川県の満濃池である.この池に8世紀のはじめにつくられたといわれ,その後堰堤の増築を重ね,現在の貯水容量は1,540万m3,受益水田面積4,600haにおよんでいる.しかし,日本においては,規模の大きい河川の場合,そうじて急流であるという特徴をもつうえ,短時間に流出する洪水の流量がきわめて大きいため,ダムによって締めきって大規模な貯水池をつくることは困難であったのである.
 これを可能にしたのがコンクリート重力式ダム技術であり,日本でこの技術が全面的に実用化されるにいたったのは,第2次世界大戦後であった.このダムの建設(農業専用ダムおよび多目的ダム)によって,新しい水量がつくりだされ,水田造成が可能になるとともに,水不足に悩んでいた地域への用水補給が行われることになった.日本の農業水利史においてダム技術の定着は,稀少な水資源をめぐって成立していた農村社会の地域的緊張関係を緩和し,村落における統制的な作付秩序に変化をもたらした.これが,第2次大戦後の水田稲作技術の変革と,「個別的水利用」と名づけられた個々の農家の経営活動の相対的自立化をうながす大きな要因となったのである.
 第2に,農業水利システムを構成する部分施設の機能高度化がすすんだという点を指摘することができる.河川に設けられた農業水利システムの場合,サブシステムとして水源施設(取水施設),送水施設(基本的には水路),分水施設があり,これらがそれぞれに機能を発揮してトータルシステムを形成しているわけであるが,その各サブシステムの施設機能の高度化がすすんだのである.
 取水施設は,しばしば横断締め切り堰堤と水門とを結合した「頭首工」システムとして標準的な構造と機能が形成された.水路については,その大部分が土水路ないし石積護岸水路であったが,急速にブロック張り,そしてコンクリート舗装に改善され,さらに末端の小水路については簡便なコンクリート・フリュームが利用されるようになった.分水施設については,用水慣行にもとづく伝統的なものが,操作の容易な動力水門分水にあらためられ,ときに斜流分水・円筒分水など厳密に分水量を規定することのできるものもあらわれた.さらに,フランスで開発されたネルピック・ゲイトのように,水路の水位を一定に維持できるチェックゲイトの導入・利用もみられた.これら,水利施設機能の高度化は,アメリカ,ヨーロッパで開発された技術を全面的に受容しながら,同時に歴史の遺産である伝統的な農業水利システムを継承し,その機能を更新し,向上させてゆく役割を発揮したのである.
 第3に,1960年代から顕著になってきた現象として,生産の現場である水田圃場面の全面的改良がはじまったという点に注目しなければならない.この圃場面での改良を代表したのが,「圃場整備事業」と暗渠排水事業である.
 圃場整備事業は,「土地改良法」にもとづく補助事業として1963(昭和38)年に創設されたもので,水田区画の30a区画整理を基本とし,用排水施設と農道などの総合的改良整備を意図したものであった.これは,いうまでもなく,1961(昭和36)年から始まった「農業基本法」にもとづく農政に対応するもので,農業機械化を促進するための圃場基盤をつくりだすことに主眼をおいたものであった.水田稲作農業の変化の過程において,適切な補助事業制度であったということができる.
 また,暗渠排水事業は,主として農業機械作業を容易にするための地耐力をつくりだそうとするものであり,北海道や新潟県などで活発な投資がみられた.農業水利投資は,一方において広域の大規模事業の姿をとって活発に行われると同時に,個別経営の基盤を整えるための圃場面においても拡大したのである.
 第4に,従来はほとんどみられなかった畑作改良のための農業水利事業が登場してきたことを強調しておきたい.日本の農業水利は,もっぱら水田稲作のためのものとして成立し,発展してきたのであるが,第2次大戦後,しばらくたってから,畑作農業の灌漑を実現しようとする「畑地灌漑事業」が実施されることになった.それを代表する大規模事業が愛知用水事業と豊川用水事業であった.
 この二つの事業は,前者がその地域の工業化と都市化の急速な進行によって十分の効果を発揮できなかったが,後者の豊川用水事業の場合には,見事な成功をおさめた。現在でも,豊川用水地域は日本で最大の畑作野菜農業地帯を形成し,もっともゆたかな農村社会をつくりだしているのである.しかし,日本の農業水利事業が水田農業の改良にかたよっていることは,いまも否定できない事実である.
 第5に,農業水利事業の施工技術の近代化をあげたい.日本の農業水利事業における施工技術の近代化は,佐久間ダム工事と愛知用水工事にさいしてうけた大きな刺激によっていちじるしく促進された.佐久間ダムは,天竜川水系において建設された発電ダムであるが,アメリカからの技術導入によって,計画・設計の段階はもちろん,大型建設機械の大量投入を実施し,日本の伝統的な土木建設技術とその産業的基盤を根本的に変革するきっかけをつくりだしたのである.愛知用水事業も,アメリカの技術指導を導入することによって,農業水利における設計・施工の技術変革に大きなきっかけをつくりだした.
 それまでの日本の土木建設産業における基本的タイプは,スコップとつるはしとモッコに象徴される人力中心主義的特性をもっていた.この日本の土木施工技術にたいして,以上の二つの事業は衝撃的な影響を与え,これから本格的な建設機械を駆使する時代が始まったのである.日本の機械工業および建設産業は,またこの新しい時代の変化に適応し,建設機械供給の体制を整えるとともに,雇用の構造を近代化するにいたった.これによって,農業水利事業自体も,大きな発展を可能とする技術的条件に支えられることになったのである.
 以上のような農業水利事業における大きな変革によって,日本の農業と農村社会にも,かつてない顕著な変化が生じた.水利用の自由度の拡大,したがって作物作付と土地利用の相対的自由度の拡大が可能となったのであり,水資源の配分をめぐる農村地域社会の対立的緊張関係がいちじるしく緩和されたのである.
 (5) 農業生産構造の変化と農業水利
 経済の高度成長の持続と工業化の進展は,日本農業に根底的な変化を迫るものであった.少なくとも,直接には「戦後体制」(すでにふれたような第2次大戦後につくりだされた自作主義的な構造と制度の枠組)をそのまま維持することをゆるさない環境をつくりだしたのである.
 政府は,この環境変化にたいして,かならずしも妥当な反応をしめさなかったため,制度に反する現実が抑圧された形であらわれることになった.そのもっとも代表的な現象が,水田稲作農業を中心とした「請負耕作」の発生と,「米の過剰」の表面化である.この二つの現象に象徴的にしめされた日本農業の現実は,やはり,「戦後農業の終り」を端的に告げるものであった.
 請負耕作には二種類あり,一つは部分作業請負であったが,もう一つの全面請負は事実上の農地賃貸借関係であった.この全面請負は,全国的視野でみれば,地域によって発生する度合が違っているが,明らかに戦後の自作農制を突破する破壊力をもっていたのである.全面請負耕作は,「農地法」の原則からいえば,明白に違法行為であった.だが,それは,事実上の農地賃貸借関係をひろくつくりだすことによって,自作農主義的農業構造がもはや非現実的なものになっていることを,誰にもわかるようにはっきりとしめしたのである.自作農制にかわる別の農業生産システムを求めることが,課題として登場してきたのである.
 米の生産過剰については,過去の政策的錯誤を結果論的に指摘することは容易であろうが,1960年代の半ばまで,ほとんどの日本人が予見できなかったことである.とくに,その重要な要因である日本人の米の消費量の劇的な減少について,ほとんど誰も予想することができなかった.そのため,政府は1967(昭和42)年まで増産刺激的な高水準の生産者米価政策をとりつづけ,自らの政策の結果として米の生産過剰を招くにいたったのである.
 これに対する政府の政策的対応は,農地賃貸借の促進と,水田の転作の奨励であった.農地賃貸借の促進政策は,あきらかに農地改革と「農地法」の本来の理念と異質であったが,さきの「農振法」に農用地利用増進事業を設け,さらに1980(昭和55)年に定めた「農用地利用増進法」によって,農地の賃貸借の促進が政府の公式の政策であることを明示したのである.自作農の存在を否定したわけではないが,自作農主義を政策の核心にすえることを否定するにいたったと評価してよいだろう.現実の変化にたいして,この政策転換はかなり遅きに失したが,やはり転換は行われたといってよいのである.
 水田の転作政策は,1970(昭和45)年から始められたが,その手法は補助金つきの作付制限であって,いまのところ,日本の稲作農家の技術構造と経営行動を大きく変化させるにいたったとはいい難い.それは,一方において食糧管理制度が維持され,生産者米価が政府によって決定される仕組みが堅持されてきたからである.その都度決定される生産者米価が,かならずしも不当な「高米価」だったとはいえないが,他の農産物価格の変動にたいして,不当に安定的であったという事実は否定できない.米価だけがなぜ安定的でなければならないかという理由は,いうまでもなく,国民への公平で安定的な食糧の供給・配分というたてまえに依存していた.だが,1981(昭和56)年に「食糧管理法」が改正され(1982(昭和57)年1月1日から施行),この制度的たてまえも失われてしまったのである.食糧配給制度そのものが廃止され,公平な食糧配分という大義が,もはや存在しなくなったのである.
 これらの事実は,第2次大戦後につくられた農業制度と農業政策体系の枠組みが,いまや根底から崩壊しつつあることを表現している.それは,すでに述べたような日本農業と農村社会の内部構造の変化を反映する制度的な変革のきざしであった.もちろん,この変化はまだきざしにとどまっており,本格的に完結した政策体系として成熟しているわけではない.だが,変化が制度的次元においても始まり,進行しつつあるという事実だけは強調してさしつかえない.
 こういう構造変化は,農業水利にも大きな影響を及ぼさないわけにはゆかない.18世紀において確立し定着した日本の農業水利の社会的システムは,いまや根本的に動揺しているといわなければならないのである.その動揺は,すでに述べてきたような歴史的な全構造の機能麻痺現象として表面化してきており,これを有効に再編する手段はまだ発見されていない.

 Ⅴ 総 括

 日本の17-20世紀の経験は,おそらく,世界史においてもほとんど想像のできない歴史的実験という性格をもっていた.その実験性を単純に要約して述べることはきわめて困難であるが,本稿の総括をかねて可能なかぎり整理しておきたいと思う.
 もっとも,歴史はいつも実験的であるから,日本の経験だけが正当な意義をもっていたという主張をここでするつもりはまったくない.むしろ,日本の経験は,どちらかといえば相当に異様なものであり,これをモデルとして一般化することは不可能に近いほど困難であるとさえいえる.
 この点は,現代の日本の工業的成功をごく普通のこととしてうけとめるか,それとも,ほとんど不可能に近いことを達成したと理解するかによって,だいぶ違った立場をとることとも関連している.
 私の立場は,日本の歴史的経験がそれほど一般性をもつものではなかったし,したがって,歴史モデルとして,それほど典型としてえがきだしうるものでもなかったと理解するところにある.その理由を,つぎにいくつか指摘しておこう.
 第1には,一般的な認識として,日本社会の近代化と工業化過程は,たんに西ヨーロッパからの制度や技術の移転によって生じたものではないということである.
 もちろん,この点は西欧からの制度や技術の移転がまったく無効であったことを意味しない.むしろ,明治維新以後の日本は,西欧の文明を吸収することにきわめて熱心であったし,制度と技術を効果的に摂取し,自らの近代化と工業化の推進にたくみに活用したといってよい.おそらく,このように,異質の文明をたくみに摂取した社会は,きわめて稀な例であろう.
 重要なことは,この摂取がおおむね主体的であり,かつ実利的だったということである.これは,急速に流入してくる西欧の文化と情報にたいして,日本の社会が選択能力を備えていたことをしめしている.そこで,この制度と技術の移転は,日本の伝統的な社会と文化にたいして,基本的には破壊的に作用することなく,むしろ非西欧地域における独自な近代社会の形成と工業化の進展に積極的な役割をはたすことになったのである.もっとも,この過程がまったく社会的・文化的摩擦をともなわなかったものでなく,たとえば天皇制的軍国主義を生みだし,戦争への道を歩んだというような歪んだ歴史的結果をもたらした事実を忘れるわけにゆかないであろう.
 この日本社会の西欧文化にたいする選択的な摂取能力は,明治維新以後になって急に備わったものではない.すでに17世紀の終りから始まっていた日本社会の変質の結果だといわなければならないのである.鎖国という特殊な条件のもとにおかれていたが,日本の社会は独自に近代化への道を歩みはじめたと理解することができるのである.その内容をすべてここに述べるわけにはゆかないが,農村にかんしていえば,私的利害と資源の効率的利用にたいする農民の鋭敏な感覚,自治的によく統制された村落社会の形成,そして農村にかぎらないが,商業組織の緻密な整備などをあげることができる.いわば,「臨界密度」に達した社会になっていたのであり,内向的に蓄積されたエネルギーを外に向かって発散せざるをえない情況にまできていたと解することができる.だから,幕末開国はたんに外圧だけによるものではなく,内部からの主体的選択でもあった.
 第2には,近代化と工業化の推進が日本社会の主体的選択であったがゆえに,自らの社会と文化の伝統性を放棄しなかったということである.この伝統維持のもっとも強力な基盤は,いうまでもなく農村であった.
 日本の農業と農村社会が,近代化と工業化の過程でまったく変化しなかったというわけではない.むしろ,明治期以後,日本農業と農村社会は,たえず変容をつづけてきたといってさしつかえない.市場経済制度を確立し,工業化の道を選択してしまった社会において,農業と農村社会だけが静止した定常的状態にとどまっていることはできないのである.だが,その変化は相対的であり,けっして根底的なものではなかった.
 そこで,日本の農業と農村社会では,たえず相対的変化と同時に,伝統の連続という傾向がはっきり認められるのである.家族労働力を中心とした小規模小農生産と,村落社会の自治的統制力の強靱さに,この伝統の連続性をみることができる.民俗文化の伝承に注目した「民俗学」(柳田国男を中心に形成された)が成立したゆえんもここにある.このことは,日本社会の近代化と工業化が,農民社会の急激な解体をつうじて行われたものではなかったことを端的にしめしている.
 ヨーロッパ経済史の常識的な図式からいえば,工業化のための資本蓄積は,中世的農業の解体と農民の階級的分解ないし没落の過程をともなっていたのであるが,日本の近・現代史の経験によれば,そういった過程はほとんど表面化しなかったのである.いままでのところ,この経験は世界で他に類例のないものということができる.
 第3には,この高密度小農社会の強靱な伝統継承性をささえる基盤として,日本の農村の特異な「水社会」的性格をあげることができる.
 この水社会という表現は,かなり奇異にきこえるであろうが,けっしてK.ウィットフォーゲルの水力社会という概念と同一ではない.それどころか,ウィットフォーゲルのいう専制的水力社会は,かれ自身も理解していたことであるが,日本ではついに一度も成立しなかったと考えるべきであろう.にもかかわらず,日本の農業社会が「水社会」であったとあえていうゆえんは,おおむね17世紀以後の日本が,米にとりつかれ,そのゆえに水にとりつかれた社会であったからである.本来的にみて日本の農耕文化が,稲作だけに単一化されるべきものでなかったことは,最近の民俗学・歴史学の研究成果によって,明らかにされつつある.日本の歴史的伝統を,かなり異質な文化の複合の形成としてとらえようという研究努力が,すすめられているのである.それにもかかわらず,日本の農耕社会の伝統的性格を,あえて「水社会」として特色づけることができるように思われるのである.
 それは,日本の小農経済と村落社会の異常ともいえる強靱さを,どのように理解するかという点にかかわっている.日本の農耕社会は一貫した近代化と工業化過程の全般的進行にもかかわらず,崩壊あるいは解体現象をみせなかったという点が重要なのである.この点に,日本の近代化を独自たらしめている鍵が存在しているのであり,たえず変容しながら伝統を継承する日本社会の特性の基盤があったと理解することができる.その基盤は,農業水利システムの緻密な形成と,それを再生産する社会集団の一種の自己運動であった.村落社会を基礎集団として,この自己運動が社会の編成原理の中に埋めこまれてしまった状態をここで「水社会」と表現しているのである.もうすこしくわしく説明すれば,つぎのとおりである.
 まず指摘しておきたいことは,日本の社会が国家の方針として米の増産を至上の命題とすることにこりかたまった社会であり,また,農民も米の増産に自己の道徳的使命感をもちつづけてきた社会だということである.ここに,一種の米の象徴化とさえいうべき社会過程が存在した.だからまた,この米を生産する基盤としての水に,日本の社会はとりつかれ,水を象徴的に聖化する社会ともなってしまったのである.そういう日本社会を,ここにあえて「水社会」とよんでいるわけである.
 この象徴の社会的な形成のもとで,象徴を持続する社会生活の様式が制度化された。農耕儀礼とむすびついた慣習法的な水利秩序の濃密な形成は,「水社会」の制度的確立を意味するものだったのである.水利施設という確たる物質的基盤をもっただけではなく,水の神聖性を前提とした統制的な社会秩序が,濃密にはりめぐらされた.そして,この統制的秩序は,けっして権力によって強制されたものではなく,日本の農村社会の構造そのものが生みだしたものだったという点が重要である.稲作と水にかかわる儀礼と慣習は,日本の農村社会に数多く発見することができるが,これらは村落社会における水の統制的利用の制度化とふかくむすびついていたのである.
 このように,構造的に制度化された水利秩序が存在していたがゆえに,日本の農村社会は,近代化と工業化のインパクトにたいして,おそるべき抵抗力と適応力を発揮することができたと理解してよいだろう.日本の農耕社会と文化の強靱さは,直接にはやはり,稲作水利社会にあったのであり,「水社会」的特性に着目しなければならないのである.
 第4に,以上のような日本の持続的農耕社会が,20世紀の後半にいたって,かつて地球上になかったような急激な工業化の衝撃をうけたことから生じた問題をどう理解するかということである.
 この点にかんして,まずいえることは,日本の農村社会は,この工業化過程にたいして,実に見事に適応したということである.むしろ,それは,過剰適応といってよいほどの内容のものであった.日本の農業と農村社会は,まったく崩壊もしなかったと同時に,質的にいって都市と工業にいちじるしく類似した存在に変容をとげたのである.現在の日本の農村を観察して,かつてのような牧歌的田園を感覚的に発見することは,ほとんど不可能である.現代の日本の農村には,少なくとも表面的には,マス・メディアと商業主義によってもちこまれた,都市のイミテーションが存在するにすぎないようにみえる.
 だが,それにもかかわらず,農村が農村でありつづけようとする潜在的な力が作用していることも,認めざるをえない事実であるように思われる.これは,基本的には日本の農業が一つの産業として自立してゆこうという活力を,なお維持しつづけている点に,根本的な原因がある.市場経済制度によって完全に包囲されるにいたった日本の農業と農村社会にとって,いまさら,市場原理・価格メカニズムを拒否するところに新しい出発点を求めることはできないのである.日本農業を自立的な現代産業として再生させてゆくかということが,避けることのできない課題となっているのである.
 だが,それにしても,この課題は容易なものではない.高密度な小農社会の存在を前提にしたうえで,さらに混住社会化しているのが,日本の農村社会の現実である.小土地所有者としての多くの兼業農家,老人農家,非農家との共存関係の中で農業を産業として活性化してゆかなければならないわけである.かつての西ヨーロッパのように,貧しい農民たちを農村から追い出すことによって農業を変革するのではなく,高密度小農社会を維持しながら,産業としての農業を活力あるものにしてゆかなければならないのである.この課題は,今後,東アジアの高密度稲作小農社会が共通に当面することになるであろうが,日本もまだ十分に鮮明な解答をえているとはいえない.

 [参考文献]
以下,本文にかかわりのあるかぎりで,参考文献を掲げることとした.
1. 速水 融『日本経済史への視角』,東洋経済新報社,1968年.
2. 網野善彦『日本中世の民衆像』,岩波書店,1980年.
3. 坪井洋文『稲を選んだ日本人』,未来社,1982年.
4. 玉城 哲・旗手 勲『風土 大地と人間の歴史』,平凡社,1974年.
5. 香川清美・長町 博・佐戸政直(四国新聞社)『讃岐のため池』,美巧社,1970年.
6. 土地改良制度資料編纂委員会『土地改良制度資料集成』第1巻,全国土地改良事業団体連合会,1980年.
7. 土肥鑑高『米将軍とその時代』,教育社,1977年.
8. 土肥鑑高『江戸の米屋』,吉川弘文館,1981年.
9. 永田恵十郎『日本農業の水利構造』,岩波書店,1971年.
10. 玉城 哲『水社会の構造』,論創社,1983年.
11. 農村開発企画委員会『昭和30年代以降における農地行政とその評価』,同委員会,1973年.
12. 石川英夫編『土地と農村』,農林統計協会,1983年.
13. 飯田経夫ほか『現代日本経済史』上・下,筑摩書房,1976年.
14. 福田仁志編『アジアの灌漑農業――その歴史と論理――』,アジア経済研究所,1976年.
15. 玉城 哲編『灌漑農業社会の諸形態』,アジア経済研究所,1980年.
16. 玉城 哲『水の思想』,論創社,1979年・
 [玉城 哲]