技術と農村社会

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技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 第3章:土地改良政策の展開過程
著者名: 今村 奈良臣
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第3章:土地改良政策の展開過程

 Ⅰ 時期区分と制度変遷の概観

 本章の課題は日本において近代国家が成立した1868(明治1)年から現在に至るまでの110余年間にわたる国家による土地改良政策の展開過程を体系的に叙述し,農業発展に果たしたその意義を確定することにある.近代国家の成立以前の旧藩時代には,領主支配のもとにおかれながらも,それぞれの地域の農民により組織された用水組織によって灌漑水利の利用調整,水利諸施設の維持管理補修などが行われてきたが,近代国家の成立とともに農業水利,土地改良事業にかかわる法制度の制定,整備とあわせて,農業生産力の発展と食糧増産を目的として多面的な国家の介入が行われるようになり,また1920年代半ば以降になると多額の国家資金の投入システムができあがるようになった.
 こうした農業水利ならびに土地改良に関する政策の展開過程を体系的に述べるにあたっては,土地改良政策展開の画期を確定し,それに対応した時期区分を行い,それぞれの時期の特徴を明らかにすることが必要とされよう.
 時期区分の方法についてはこれまで諸説が提示されているが,ここでは次のような5期に区分することとしたい1).
 第1期 明治維新(1868(明治1)年)から耕地整理法の制定(1899(明治32)年)まで.
 第2期 耕地整理法の制定(1899(明治32)年)から用排水改良事業補助要項の制定(1923(大正12)年)まで.
 第3期 用排水改良事業補助要項の制定(1923(大正12)年)から土地改良法の制定(1949(昭和24)年)まで.
 第4期 土地改良法の制定(1949(昭和24)年)から農業基本法の制定(1961(昭和36)年)まで.
 第5期 農業基本法の制定(1961(昭和36)年)から現在まで.
 ここに掲げた時期区分の画期は日本における土地改良に関する主要な法制度の制定ならびに事業システムの変化に対応させたものである.
 時期区分に関する画期の意義を認識するうえで,土地改良に関する法制度ならびに事業システムの変遷をはじめに概観しておこう2).
 土地改良に関する法制度は近代国家が形成されたきわめて早い時期に確立された.1899(明治32)年に耕地整理法が制定され,これを全面的に改正した1909(明治42)年の耕地整理法によって基本的な法制ができあがり,第2次大戦後の1949(昭和24)年の土地改良法の制定に至るまで機能しつづけてきた.制定当初の耕地整理法は区画整理と畦畔改良を中心とするものであったが,1905(明治38)年,1909(明治42)年の法改正により,灌漑排水事業,開墾および地目変更,湖海の埋立てまたは干拓がつけ加えられることになり,土地改良事業を包括する制度が確立されたのである.
 耕地整理法は耕地整理組合の組織,事業実施手続,換地処分に関する規定などを含む体系的な法律であったが,第2次大戦後の土地改良法と基本的に異なる点は土地改良法が耕作者を中心に組みたてられているのに対し耕地整理法は土地所有者の共同事業として制度が構成されており,小作農の耕地整理事業への参加はきわめて限定されたものであったことである.
 第2次大戦前の土地改良制度のいま一つの特徴は,農業水利に関する事業を行う普通水利組合の制度が別に存在したことである.水利組合条例(1890(明治23)年)及びこれを全面改正した水利組合法(1908(明治41)年)により,近世村落社会が生みだした用水慣行を基盤とする用水組合は普通水利組合として実質的に引き継がれることになり,それは第2次大戦後の土地改良法による土地改良区の組織の中にも継承されることになった.さらに1896(明治29)年の河川法は公水主義を明確に打ちだした画期的な法律であったが,ここでも旧来からの慣行に基づく農業水利権は慣行水利権として法的な権利として認められた.こうして農業水利制度は近代国家における法体系の中で旧来からの村落自治的慣行が全面的に取り入れられることになったのである.
 ついで画期をなすのが1923(大正12)年の用排水改良事業補助要項の制定である.これは法律に基づかない事業であったが,受益面積500haを越える大規模灌漑排水事業を対象として事業費の2分の1について国庫補助金を支出するというものであり,土地改良事業に対する政府の介入が,この事業の発足により大幅に増大した.
 以上のように第2次大戦前の土地改良制度は耕地整理法と水利組合法とに制度が二元化していたこと,国営,都道府県営のような大規模事業に関する制度を欠いていたこと,土地所有者中心に制度が組みたてられていたことなどを特徴としていたが,戦後の1949(昭和24)年に制定された土地改良法により,制度が一元化され,大規模事業の制度が設けられ,また農地改革により創出された自作農を基盤に耕作者中心の制度へと大きく改められることになった.
 新しい土地改良法の制定のもとで,土地改良事業は大きな展開をみせることとなった.戦後の食糧危機のもとで食糧増産政策の主要な政策手段として土地改良事業が推進されることとなり,また農地改革により創設された零細かつ均質な自作農のもとで農業生産力を高めていくには土地改良事業の推進がもっとも効果的であった.
 しかし,日本農業は1950年代後半以降の日本経済の高度成長のもとで大きく変貌するきざしがみられるようになった.食料需要の構造変化,農業労働力の非農業部門への流出,農家の兼業化の進展,農業所得の停滞,海外からの農産物貿易自由化の要請など日本農業を取りまく条件は大きく変化してきた.こうした事態に対処し,日本農業の新たな方向づけを行うべく1961(昭和36)年に農業基本法が制定される.農業基本法は,農産物需要の構造変化に対応すべく農業生産の選択的拡大をかかげるとともに農業機械化の推進による生産性の向上を内容とする生産政策,非農業と均衡しうる所得を実現しうる自立経営の育成をねらいとした構造政策を施策の中心におくことを規定した.この時期以降土地改良事業の内容も大きく転換することとなり,従来の灌漑排水事業に重点をおいたものから労働生産性の向上,農業機械化の促進を意図するものへと大きく変貌することになった.
[注]
1) 時期区分について代表的な文献をあげておこう.農業土木学会編『農業土木史』
(農業土木学会,1979年)は,近代国家成立以降現代までを4期に区分し,第1期「近代農業土木の成立」(明治維新~第1次世界大戦),第2期「現代農業土木の萌芽」(第1次世界大戦後~第2次世界大戦),第3期「現代農業土木の確立」(第2次世界大戦~農業基本法の制定),第4期「現代農業土木の展開」(農業基本法制定以降)としている.今村奈良臣,佐藤俊朗,志村博康,玉城 哲,永田恵十郎,旗手 勲『土地改良百年史』(平凡社,1977年)は,第1期「近代的土地改良の形成」(明治維新~第1次世界大戦),第2期「現代的土地改良の胎動」(第1次世界大戦~第2次世界大戦),第3期「現代土地改良の展開」(第2次世界大戦以降)という3期区分を行っている.
2) 本書の性格にかんがみ,論証に必要な脚注ならびに引用文献等については,繁雑になるため一切省略した.そのため,代表的な参考文献について掲げておくこととしたい.明治以降の農業政策,農業経済理論,農業史,土地改良政策等についての主要文献目録は,秋野主勝,今村奈良臣,荏開津典生,田中 学,和田照男『現代農業経済学』(東京大学出版会,1978年)の巻末所収の文献目録を参照して欲しい.問題別に整理し体系的に表示してある.
 土地改良政策についてもっとも包括的に分析されたものとしては前掲『農業土木史』がある.また一般向けに平易に書かれたものとしては前掲『土地改良百年史』がある.
 土地改良政策も含め近代国家成立以降の農林行政を農林水産省としてとりまとめたものとして農林省官房総務課編『農林行政史』(全14巻,別巻,1957-1973年)ならびに農林水産省百年史編纂委員会『農林水産省百年史』(同編纂委員会刊行,4巻,1981年)があり,通吏としてまとめたものに小倉武一編『近代における日本農業の発展』,農政調査委員会,1963年,がある.
 また主として第2次大戦前の日本農業の展開過程を総括したものとして,日本農業発達史調査会編『日本農業発達史』(全10巻,補巻2),中央公論社,1957-1959年,がある.
 日本の灌漑農業の特質については,玉城 哲,旗手 勲『風土』,平凡社,1974年,永田恵十郎『日本農業の水利構造』,岩波書店,1971年,また地主制と土地改良については馬場 昭『水利事業の展開と地主制』,御茶の水書房,1965年を参照されたい.農林水産省の土地改良行政,水利行政についてとりまとめたものとしては,農林水産省農地局編『日本農業と水利用』水利科学研究所,1960年,同『農地行政白書』,1958年,農村開発企画委員会編『昭和30年代以降における農地行政の展開とその評価』,1973年,を参照.
 土地改良事業を財政政策との関連で考察したものとして,大内 力『日本農業の財政学』,東京大学出版会,1951年,今村奈良臣『補助金と農業・農村』,家の光協会,1978年をあげておきたい.

Ⅱ 水利組合法と耕地整理法の制定

(1) 士族授産開墾と農民的土地改良
 明治維新により封建制度は崩壊したものの新しく生まれた国家の財政的基礎は非常に弱体なものであった.その財政的基盤をうるためにも,また近代社会経済の基礎を確立するためにも明治政府は地租改正というかたちで土地制度変革を実施し,近代的土地所有制を確立することになる.
 他方,近代国家の成立に伴い封建武士団は不要となり,大量の失業士族に対する授産政策が新政府の当面した一つの大きな政策課題となった.
 そのため新政府は1868(明治1)年以降,開墾局を設け各地にあった官有未開地を処分し,窮民授産資金などの援助を与えつつ緊急開墾を推進し,失業士族の救済に当った.また,従来未開発地であった北海道開発もその構想が具体化し,1869(明治2)年,新政府は開拓使を新設し,失業士族の入植を進める一方,ロシアとの間の軍事的緊張関係に対処するため失業士族による屯田兵制が計画され,その後の北海道開拓の尖兵とされることになった.
 さらに窮追した士族は,その後の景気変動の中で窮追度を更に増し,それが1877(明治10)年の西南戦争を爆発させることになるのであるが,こうした事態に新政府は対処するため,さらに一層大規模な士族授産政策として福島県安積原[あさかはら]や那須野原において国営開墾を実施し,失業者の収容につとめたのであった.
 以上のように明治維新後新政府は失業士族,窮乏士族の授産政策として開墾政策を推進するのであるが,財政的基盤が弱体であったため,かならずしも充分な成果をあげることはできなかった.
 以上のように近代国家成立初期に緊急開拓政策が政府の手により実施されるのであるが,それが一段落したあとは,次にみる耕地整理法の制定まで政府として積極的な土地改良事業は実施されなかった.もちろん,民間では篤農家による田区改正,あるいは豪農,在村地主などによる用水開発,改良あるいは排水改良事業など多面的な先進的活動が行われ,それらの試みが耕地整理法制定の気運を作りだしていくことになるのである.
(2) 水利組合法の制定
 近世の幕藩体制下の農村社会には,地方によって呼び方は異なるが井組とか水組とか呼ばれる用水組合が広範に存在していた.この用水組合は幕府の代官や藩の役人の支配・統制下におかれてはいたものの,村を構成単位として日常の水利施設の管理,改修や用水配分等の運営についてはいちじるしく自治的性格をもっていた.その理由は用水不足の状態のもとで上流と下流の間における水争いを調整し,用水配分の社会秩序を維持するためにも,また村の中の入り組んだ個々の水田に用水を供給するためにも,こうした自治的水利組織が必要だったからである.この用水組合がつくりだした用水配分の秩序が用水慣行であり,一種の統制的秩序ではあったが領主による権力的秩序とは異なり,近世村落社会が生みだした自治的秩序であるという性格を強くもつものであった.
 近代国家の成立により土地制度の変革がなされ,私有財産制を基盤とする法体系が確立するなかで,この用水組合および用水慣行をいかに法制化するかということはきわめて難しい課題であった.さまざまな取扱いの変転のすえ,1884(明治17)年,区町村会法の改正により,用水組合をそのまま引きつぐかたちで水利土功会を発足させるが,それは過渡的なものにすぎなかった.ついで1890(明治23)年に水利組合条例を制定して水利土功会制度を廃止した.近世の用水組合は国の定める制度のもとに水利組合へ変身した.もっとも大きく変化した点は,用水組合の構成員が村であったのに対し,水利組合の場合は,土地私有制の確立のもとで土地所有者個人とされたこと,市制,町村制の制定にともない近世の村は法的存在たりえない村落とされた点であった.しかし,現実の水利組合の運営は個人を基礎にしたものとはなりえず,近世の用水組合の運営原則がそのまま引きつがれた点に特徴があった.その理由は用水の管理運営の構造自体にはなんら変化がなく,長い伝統を生かす以外に方法はなかったからである.
 1896(明治29)年に河川法が制定され,河川の管理,河川の事業について一元的な法体制ができるとともに,農業水利についての法的権利の裏づけが与えられた.河川法は,公水主義を打ち出し,河川や流水は公共のものとしたこと,河川の管理,改修は地方行政庁(府県)が行うこと,水利権制度を新設し,河川にかかわる民間の事業については許可制度とすることを明確に打ちだすとともに,慣行水利権を法的な権利として認めた.河川法施行に際し,すでに現存している農業用水などは法によって許可を受けたものとみなし,近世以前から存在した農業用水の権利を法的に認めたのである.
 ついで1908(明治41)年,水利組合条例にかえて水利組合法が制定された.しかし新法り制定にもかかわらず,水利組合の基本的性格に大きな変更は加えられなかった.以上のように近世に確立された用水組合と用水慣行の基本的性格と構造は,近代社会になっても事実上引きつがれ,生かされることになったのである.
(3) 耕地整理法の制定と改正
 1884(明治17)年に地租条例が制定され地租が固定したこと,さらに資本主義的商工業の展開,都市住民の増加が米の需要拡大をもたらし,米価が上昇する傾向のなかで,豪農的地主層には現物小作料と金納地租との差額を拡大することができる条件が生まれてきた.こうしたなかで灌漑用水の開発,改良,排水改良の実施あるいは田区改正と呼ばれる水田の区画整理を内容とする土地改良事業によって水稲収量を高めるべく,各地の篤農家や地主の手によってとくに区画整理が進められるようになった.さらに1894(明治27)-95(明治28)年の日清戦争を契機に商工業の拡大にともなう都市人口の増加がみられるようになり,米の需要が増大する中で,それまで輸出量が輸入量を上回っていたものが逆転したこともあり,米を中心とした食糧増産政策が農政上の大きな課題となってきた.
 そこで政府は,1893(明治26)年に国立農事試験場を,翌1894(明治27)年には各府県の農事試験場を整備し,品種改良,栽培技術改良などに積極的に乗りだすことになった.
 水稲の技術改良を通じて生産力を高めるためには水田の区画整理が重要であるとされた.しかし,この事業は土地の交換分合などをめぐって地主間の利害の対立や紛争を引き起こす場合が多く,事業が難航することが多々みられた.
 そこで政府は1899(明治32)年耕地整理法を制定することになった.
 耕地整理法の目的は,少数の不同意者を強制的に加入せしめ,第三者の権利を保護し,整理した水田の地価据置きを容認し,経理費用の徴収の便をはかるなど耕地整理事業を促進することをねらいとした.そのため事業着手の条件として土地所有者の3分の2の同意,同意者の土地面積が整理地区総面積の3分の2以上あること,整理地域の土地の地価が整理地区内の地価総額の3分の2以上あることの三つの要件を規定し,これを充たす場合には不同意者を含めて事業を強制的に始めることが認められ,費用滞納者に対しては市町村税徴収の方法に準じて徴収しうることとされた.
 他方,耕地整理法の制定と前後して,農民の組織法である農会法(1899(明治32)年)や産業組合法(1900(明治33)年)も制定され,これらを基礎にこのころから手作り地主層の後退と寄生地主制の確立がみられるようになった.また,政府は地主の農業投資を推進するため,1897(明治30)年には日本勧業銀行や各府県の農工銀行を,1899(明治32)年には北海道拓殖銀行などの農業金融機関を開設した.こうした制度の充実を背景に土地改良事業は急速に発起されるようになり,とくに耕地整理事業は1905(明治38)年末までに発起されたものについてみると,695地区30,251町歩,計画工事費482万円に達するという,いわゆる耕地整理時代を迎えることになるのである.
 しかし,在村の豪農的地主に代わって不耕作地主層が台頭してくると,彼らにとっては小作料の安定的徴収と増収のみが目的となり,経営管理や労働節約という耕作者的関心は薄くなった.そのため単なる水田の区画整理ではなく,増収のための土地改良の要求が強まってきた.同時に日露戦争(1904(明治37)-1905(明治38)年)を契機に米の消費量は一段と増加し,米の輸入量は75万トンにも達してきたため,政府は食糧増産政策に一段と乗りだすことになった.食糧増産のためにはより速効的な灌漑用水改良や排水改良が重視されるようになり,また不耕作地主層の関心もそこにあった.
 こうした背景のもとに,1905(明治38)年の改正に引きつづいて1909(明治42)年に制定された耕地整理新法では,灌漑排水に関する規定,開墾や地目変更に関する規定が新たにつけ加えられ,また耕地整理の内容に施設の維持管理が追加され,事業の重点は用排水改良事業中心に組みたてられることになった.また,耕地整理事業の主体としては耕地整理組合の設立が認められた.旧法(1899(明治32)年制定)では個人施行か共同施行で独立の団体の設立を認めなかったのであるが,新法では区域内土地所有者総数の2分の1以上であって,区域内の土地の総面積と総賃貸価格の各3分の2以上にあたる土地所有者の同意を得て設計書と規約を作り,地方長官の認可を受ければ組合は成立し,その場合,地区内の土地所有者はすべて組合員となることとされた.この規定により,大地主層の支配が容易になったことはいうまでもない.
 政府はこうした法制度の整備と併行しつつ,1906(明治39)年には耕地整理及び土地改良奨励費規則を定め,これらの事業に対して府県が行ってきた調査や設計,工事監督に必要な経費に対してはじめて国庫補助を行うようにした.さらに1910(明治43)年から政府は土地改良に対して大蔵省預金部資金の長期低利融資を開始した.
 こうして1900年代初頭から土地改良事業は国家の補助や融資を受けながら大地主主導のもとに本格的な耕地整理事業がはなばなしく展開するのである.耕地整理事業の累計は1911(明治44)年末に4,195地区,246,601ha,工事費予算額4,812万円にふえ,さらに1917(大正6)年末には8,605地区,460,111ha,工事費予算額1億381万円に急増した.

Ⅲ 土地改良事業への国家の登場

 (1) 農業政策の多面的展開
 第1次世界大戦は日本経済に戦争経済ブームをもたらした.日本は参戦国であったが,実質上戦争の圏外にあり,漁夫の利を得る工業国の地位におかれた.こうしたなかで産業構造は大きな転換を示し,大戦の前後で農業生産額と工業生産額とは逆転し,重化学工業化の進展が顕著にみられるとともに,輸出が急増し国際収支は大幅な黒字となり,債務国から一転して債権国へと変わっていった.
 このように第1次大戦中の僅か数年間に日本経済は質的,量的に大きな変貌を遂げたのであるが,好況は長くは続かず,戦後経済の縮小とともに1920(大正9)年には恐慌に見舞われ,さらに1923(大正12)年には関東大震災の打撃をこうむり,1927(昭和2)年には金融恐慌が,1929(昭和4)年にはアメリカのウォール街の瓦落に発する世界大恐慌と引きつづく長期不況期に突入した.
 こうした第1次大戦後の情況は労働者や農民に対して多くの矛盾をもたらすことになり,時代を画するような事件が次々にもちあがり,それに対応して農業政策も多面的展開をみせることになった.
 第1は米騒動である.米騒動は1918(大正7)年7月23日,富山県の一漁村の女沖仲士の米屋襲撃に端を発して全国を席巻する明治以降最大の民衆運動に発展した.それは組織的な運動ではなく自然発生的な運動であり,発端は米価の暴騰に対して米の廉売の要求から始まったものであったが,この騒動は連鎖反応的に全国の都市に飛火し,またたく間に全国道府県のうち1道3府32県,全国の約80%の地域において,米屋の打ちこわし,米の廉売り運動に展開していった.第1次世界大戦を契機とする都市人口の増大,その結果としての米消費量の増大,米生産量の伸びの停滞,外米輸入の大商社の独占(三井物産,鈴木商店など)という事情に加えて,シベリア出兵を見込んだ米商社の買占めがみられ,それらの要因が重なり,米価の高騰がもたらされ,これに対する低所得者層からの自然発生的な反撃が米騒動であった.米騒動に対処するため政府は応急対策を講ずる一方,米価安定をねらいとして1921(大正10)年に米穀法を制定する.米穀法は1933(昭和8)年の米穀統制法を経て,1942(昭和17)年の食糧管理法の制定をうながし,現在においても米は政府の管理下におかれることとなったのである.
 第2は小作争議の激発と小作農民運動の高揚である.第1次大戦後の不況が激化する1921(大正10)年以降,小作争議が爆発的に増加し,小作人組合も組織され1926(昭和1)年には小作人組合は全国で約4000,組合員数も35万人に達する.さらに1922(大正11)年にはわが国では最初の全国的統一組織としての日本農民組合が設立された.
 この時期の小作争議における小作人の主要な要求は,小作料の引下げ,込米廃止,不作時の小作料の減免などがその中心であった.米騒動と比較すると米騒動は一過性の騒動であったが,これらの運動は地主・小作関係の階級的対立を鮮明にした意識的かつ組織的な運動であった.こうした小作舞民運動に対処し,地主・小作関係の矛盾を調整するため政府は1920(大正9)年小作制度調査委員会を設置し,小作人の権利の向上,耕作権の安定を内容とする小作法の制定を意図するが,地主勢力の強い反対のもとでほうむり去られ,小作争議の調停をはかりつつも強権的鎮圧策をねらいとした小作調停法が制定(1924(大正13)年)されるとともに,農地政策の方向としては自作農創設政策(1926(昭和1)年,自作農創設維持補助規則を制定)が中心におかれることになる.
 第3に,第1次世界大戦後に登場してくるのが土地改良事業に対する政府による財政投資の新しいシステムの確立である.
(2) 国家資金投入の制度の確立――開墾助成法と用排水改良事業補助要項
 都市人口の増大にともなう米消費量の増大にもかかわらず地主的土地所有のもとで農業生産力は停滞的であった.水稲生産力をたかめることが食糧問題の解決のために不可欠の課題とされ,米騒動の翌年1919(大正8)年に開墾助成法が制定され,開墾の政策的奨励がはかられることになった.
 開墾助成法は概略次のような内容のものであった.
 (イ) 助成金交付の対象事業.施行面積5町歩(約5ha)以上で,開墾,湖海の埋立,干拓,地目変換による開田および上掲事業にともなう灌漑排水施設,道路,堤塘の新設または変更などとされた.
 (ロ) 助成金の額と交付方法.法律制定当初は,投入資本に対する利子を補給する意味で工事開始の年から工事終了後の3年間にわたって,毎年,その年までに支出した費用の累計額の100分の6以内の助成金(利子補給金)を交付することとされた.ただし,1929(昭和4)年の法改正により事業のために支出した金額の10分の4以内の補助金を交付することに改められた.なお開墾助成法の政府原案では補助対象を50町歩以上とされていたが,これは大農,資本家の起業を促すのみで自作農に普及しないという理由で議会において各政党から5町歩に引き下げるべきであるという修正をうけて小規模の開墾を奨励する方向がとられたことに留意しておきたい.
 (ハ) 開墾助成事業の実績と成果.1919(大正8)年の法施行から1940(昭和15)年(1941(昭和16)年に後述のように農地開発法が制定され制度的に統合される)までに企画された開墾事業は出願地区数6,346地区,その面積は開田88,906町歩,開畑47,203町歩,計136,109町歩に達した.また施行面積の推移についてみると1920年代はかなり活発に行われたものの1930年代になると停滞し,また施行面積規模別にみると,10町歩未満が地区数で55.6%,面積で17.6%にすぎず,50町歩以上が地区数で5.1%であったにもかかわらず面積では48.4%を占め,大農,資本家などによる開墾が主流をしめていたことが明らかとなる.
 ところで開墾,とりわけ開田にあたっては用水開発を必要とするが,用水確保にあたっては強い旧来からの水利慣行の障壁にぶち当らざるをえなかった.つまり開墾を実施しようとする場合,直接隘路となるのは地域対抗性の強固な水利慣行との調整問題であった.そのうえこの時期急速に増大してきた発電水利との調整問題も浮かび上がってきた.
 こうした背景のもとに打ち出されてきたのがいわゆる用排水幹線改良事業であった.
 土地改良事業に対して国家の財政資金が本格的にかつ大規模に投入されるようになったのは1923(大正12)年の用排水改良事業補助要項の制定によるいわゆる用排水幹線改良事業の発足であった.この要項は農商務省食糧局長通牒として全国府県知事宛に出されたものであり,法律にその根拠をもつものではなかったが,土地改良事業史上画期をなすものであった.それは次のような内容のものであった.
 用排水改良事業補助要項
 1. 補助金は府県の行う用排水幹線又は用排水設備の改良事業に対し毎年度予算の範囲内に於て府県に之を交付す.
 2. 前項の用排水幹線又は用排水設備は用水又は排水の改良に依りて利益を受くべき耕地500町歩以上を支配するものなるを要す.
 3. 補助金の額は事業の為支出したる金額の2分の1以内とす.
 この要項のもっとも重要な点はその事業費の2分の1の国庫補助金が交付されるとされたところにある.前述のように1906(明治39)年,耕地整理及び土地改良奨励費規則により,調査,設計,工事監督等に要する費用の一部に対して補助金を交付する制度がはじめて作られ,また1919(大正8)年に開墾助成法により開墾資金に対する利子補給が行われるが,いずれも土地改良事業費そのものに対して補助金が交付されるというものではなかった.それが用排水改良事業補助要項により事業費そのものに国庫補助金が,それも事業費の2分の1という高い補助率で支出されることになったのは,土地改良事業史上,画期をなす出来事であった.
 この用排水幹線改良事業の成果をみると,補助要項が制定された1923(大正12)年から1940(昭和15)年までの18年間に全国540地区にわたり事業が行われ,その受益面積は52万ha(1地区平均960ha)に達し,事業費の累計は1億3,517万円,このうち国庫補助額は6,758万円の巨額に達した.ちなみにこの用排水幹線改良事業の事業量を耕地整理法にもとづく事業実績と対比してみると,耕地整理法の制定された翌年の1900(明治33)年から1939(昭和14)年にいたる40年間の耕地整理事業の事業量は70万haであり,いかに短期間に用排水幹線改良事業により急速に事業が進められたかが判るであろう.また用排水幹線改良事業を実施した地域は東日本に多く,日本を代表する大河川流域に多いという特徴をもっていた.このように1920年代以降,東日本の大河川流域でこの事業が重点的に行われたのであるが,第2次大戦後,東北地方を中心に東日本が米作の主産地として成長してくる契機はこの時期にこの事業によって与えられたということができよう.
 (3) 農業恐慌と土地改良事業
 第1次大戦後慢性的な不況が続き1927(昭和2)年には金融恐慌,1929(昭和4)年末には世界的大恐慌にまきこまれることになった.その中で日本農業もその例外ではありえなかった.農産物価格は破局的に激落し,農民の窮乏化は極限まで進んだ.小作争議は激化し,従来水田を主体に行われた争議は桑園や畑にまで及んだ.農業恐慌はまた土地の移動を激化させ,地主による小作地引き上げを頻発させ,耕作権をめぐる小作争議も激化の一途をたどった.またこの大恐慌で失業した都市人口の農村への逆流がみられ,農村は過剰人口のプールの観を呈した.
 恐慌の深化に対して政府は当初緊縮財政と金本位制復帰(1930(昭和5)年)に代表される古典的自由主義路線を強行した.しかし不況は長期化の様相を呈し,社会不安はかえって増大した.1931(昭和6)年経済政策の転換が行われ,金本位制を停止し,赤字国債発行による積極財政を基軸に景気回復と失業救済を目ざした,いわゆる高橋財政(大蔵大臣高橋是清の名をとってこのように通称されている)が推進されることになった.
 1932(昭和7)年8月に歴史的な時局匡救議会(第62臨時議会)が開かれ,公共土木事業を中心とする農村救済政策を推進することが決定された.
 それは,赤字国債の発行にもとづく国家資金の散布により不況打開と失業救済を主な目的とした.このため,農林,内務両省に3億6,700万円(うち農林1億857万円)の予算を計上し,大蔵省預金部資金から3億1,400万円の融資を行うこととされた.ちなみに同年の一般会計歳入は11億8,000万円であった.
 土地改良事業との関係でみると,用排水改良については受益面積500ha以上の府県営のものはもちろん,それ以下の受益面積の工事にも新しく工事費の50%の補助を出すこととなり,また開墾に対しても国庫補助を拡充し,さらに小人数の農家が共同で実施する暗渠排水や道路,堤塘,井堰,樋門などの小設備工事にも50%の補助を与えた.このように小規模事業にも国庫補助金を交付するシステムがこの時期に確立するのである.こうして土地改良事業の推進と合わせて農村の失業者の救済がはかられたのであるが,失業者救済の効果は必ずしも大きくはなかったとされている.
 ちなみに救農土木費に占める労賃部分は農林省関係で70-80%,内務省関係で40-50%といわれ,累計して8,440万円が労賃として支出されたと推計されている.しかし,当時の農村における労賃収入の減少額は年間約4億円といわれていたから,時局匡救事業による失業対策は,なお焼け石に水のような程度にとどまらざるをえなかったことが明らかになろう.
 (4) 戦時経済と土地改良政策
 1937(昭和12)年7月日中戦争が始まるとともに,戦争経済は本格化し,大増税と公債依存が進む反面,歳出においては軍事費が増大し,土地改良事業関係予算も大幅に削減され,一般会計歳出予算にしめる土地改良事業予算の割合は1932(昭和7)-34(昭和9)年には1.6-1.7%であったものが,1935(昭和10)年以降は0.9%以下に低下した.
 しかし1939(昭和14)年に西日本と当時植民地であった朝鮮を大旱魃が襲い,内地だけでも1000万石の減収になり,戦時経済のもと食糧不足は深刻となった.さらに翌1940(昭和15)年には東日本では旱魃,西日本では水害に見舞われ,数十年ぶりといわれる自然災害に加え,戦争経済に伴う労働力や資材不足がその被害を倍加させた.
 こうした背景のなかで1940(昭和15)年12月,農林省は食糧増産中央本部を設け,主要食糧自給強化10ヵ年計画を立案した.
 そのため1941(昭和16)年3月,農地開発法を制定し,その目的として第1に食糧の自給強化,第2に国土の合理的開発と自作農創設事業の促進を掲げた.農地の開発・改良を推進するため,国の代行機関として農地開発営団を新設した.同営団は資本金3,000万円(うち政府出資1,500万円)で発足し,払込出資金の5倍まで農地開発債券を発行することができた.営団の事業費には政府から60%の補助が与えられ,実質的には国営事業の代行機関とされたのである.
 なお,農地開発法は開墾助成法のほか用排水改良事業補助要項など多数にわたった各種事業の要項などを廃止し,それらを体系的に統合,集大成したものであった.
 こうした法制および事業主体を創設したうえで食糧増産政策が1941(昭和16)年以降開始されたが,大平洋戦争の進行とかさなり,労働力,資材不足に悩まされ,工事は難航を重ね,食糧自給強化10ヵ年計画のかなりの部分の事業は中止されることとなった.
 こうして食糧増産計画が第2次大戦中に立案され実行されるものの食糧不足はきびしく,1945(昭和20)年の敗戦の年には大凶作に見舞われ,食糧危機がきびしく日本国民を襲うことになるのである.

 Ⅳ 農地改革と土地改良法の制定

 (1) 農地改革とその成果
 第2次大戦後の土地改良政策の展開を語るには農地改革についてふれておかねばならない.農地改革は第2次大戦後の占領政策のもとで民主化政策の一環として行われた.民主化政策は非常に広範な内容を含み,政治,法制面では新憲法を初めとする諸法令の改廃,戦時統制立法の改廃,立法府,行政府の改革,教育制度の改革などとともに経済面での改革も行われた.その中で特に重要であったのは農地改革,財閥解体,労働立法であるが,なかでも農地改革は日本の社会と経済の構造に決定的な変革をもたらすことになった.戦前の日本の農村社会と経済を規定していた地主的土地所有制度に終止符を打ち,広範に自作農を創りだし,政治的,経済的安定の基盤を作った.また,財閥解体や労働立法が占領軍のイニシャティブで進められたのに対し,農地改革は日本政府のイニシャティブのもとに進められ,それを占領軍がより徹底したかたちで促進するというきわだったちがいをもっていた.すなわち,政府は占領軍の指令に先だっていち早く,1945(昭和20)年12月6日に国会に農地改革法案を上程した.それが第1次農地改革案と呼ばれるものである.この改革案は地主階級の要求も容れつつ地主の農地の保有限度を5町歩(約5ha)とするなどきわめて不十分なものであったが,1945(昭和20)年12月中に国会を通過成立し,1946(昭和21)年1月25日に公布施行された.しかし,この案はGHQが不徹底だとして受け容れず,結局,1946(昭和21)年6月の連合国対日理事会の勧告案を骨子とする第2次農地改革案がつくられ,これに従い農地改革関係法が制定され,農地改革が実施された.それは第1次農地改革案よりさらに徹底したもので,①不在村地主の全小作地と在村地主の小作地のうち1町歩を超える部分(北海道では4町歩)については国が直接に強制買収し,これを原則として旧小作農に売却する.②農地の買収,売渡価格は第1次農地改革の際に決定した価格とする(10a当り平均水田760円,畑450円).③改革の実施事務には,地主3,自作2,小作5の割合で階層別選挙によって選出された市町村農地委員会が当るという内容を骨子とするものであった.
 1946(昭和21)年末に農地委員の選挙が行われ,翌1947(昭和22)年3月の第1回買収から1950(昭和25)年7月の第16回買収まで小作地の買収と売渡が続けられ,約174万町歩が買収され,国有地の開放などと合せて194万町歩が旧小作農に売渡され,その他に牧野37万町歩,未墾地61万町歩も開放された.その結果,戦前には46-48%もの小作地率であったものが,改革後には一挙に9%に低下した.
 農地改革は有償買収方式をとったが,その後の激しいインフレーションによって実質的には無償に近いものとなった.旧地主層は大打撃となったが,売却をうけた小作農は土地代金の負担に悩まされることなく農業経営に専念でき農業所得も向上し農業投資を行う余力もついてきた.なお,農地改革で残存した小作地についてはいちじるしく耕作権が強化され,小作料についても統制小作料がきめられ粗収入の1%程度に抑制された.
 こうして農地改革は,日本農業を長らく支配してきた地主制を完全に解体し,大多数の農民を自作農ないし自小作農に転化させ,日本の農業構造は農地改革を境に一変し,戦後日本経済発展の前提条件を創りだした.
 農地改革の成果は1952(昭和27)年に制定された農地法に集大成される.農地法はその目的規定において,「農地はその耕作者みずからが所有することをもっとも適当と認め」,「耕作者の農地の権利の取得を促進し,その権利を保護」することをうたっている.すなわち戦前の地主制復活の阻止をうたうとともに,自作農的土地所有制度の恒久的な維持と自作農のみが農業生産の担当者であることを固定化した構造として設定したわけである.そのため具体的には,①農地等の権利移動についてはきびしい統制を行うこと,②経営規模の上限(3ha)と下限(30a)を設定しその範囲で農家を維持安定させること,③小作地の所有制限を設け不在地主は小作地の所有ができず在村地主も1ha以下しか所有できないこと,④農地改革で残存した小作地については耕作権の保護を徹底するとともに小作料の最高額の統制を行うことなどを規定した.また農地改革の実施を背景に農業協同組合法(1947(昭和22)年)など関係諸法も改廃,制定されることになった.
 (2) 土地改良法の制定とその特徴
 第2次大戦後の土地改良制度は1949(昭和24)年制定の土地改良法により法的根拠が与えられ,また土地改良事業実施の基本的なシステムが与えられた.土地改良法は戦前に制定された土地改良制度を一面では継承するとともに,一面では農地改革により創設された自作農制を基盤に全面的に改められた新たな体系として制定されたものであり,戦後の土地改良事業展開の枠組みを与えることとなった.すなわち戦前の諸制度の継承という側面についてみれば,その法的内容において耕地整理法,北海道土功組合法,水利組合法,農地開発法,さらに戦後の緊急開拓に関する諸制度を引き継ぎ新たに体系化,総合化を行ったことである.
 土地改良法の特徴は次のような諸点にあった.
 第1に,第1条目的規定に「農業経営を合理化し,農業生産力を発展させるため,農地の改良,開発,保全及び集団化を行い,食糧その他農産物の生産の維持増進に寄与すること」とあり,農地改革により創設された自作農の農業生産力の発展を促進するものと位置づけられた.
 第2に,それまで法的な裏づけがなく行政措置として事実上実施されていた国営,府県営事業に法的根拠を与えたことである.こうして戦後の国営,都道府県営,団体営という土地改良事業の実施体制とシステムが整備されることになった.
 第3に,耕地整理法にもとづく耕地整理組合,水利組合法にもとづく普通水利組合を廃止して,土地改良区という団体に一本化したことである.耕地整理組合は事業団体として農林行政に,水利組合は管理団体として内務行政に属するものとされていたのであるが,土地改良区の創設によってこうした分裂は解消し,土地改良行政に一本化されることになった.
 第4に,土地改良区の構成員は原則として耕作農民とされ,従来耕地整理組合や普通水利組合の組合員は土地所有者とされていた点を全面的に改めた.
 第5に,土地改良事業は原則として受益農民たちの事業申請にもとづく事業とされ,受益関係者の3分の2以上の同意にもとづく申請が必要とされることになった.そのうえ,この申請にもとづいて事業が実施される場合,不同意者も事業への参加が強制されることとなり,土地改良区が賦課する賦課金も租税に準じて強制徴収できることとされた.
 第6に,土地改良事業の実施は受益する耕作農民に対しては私的な利益を生じせしむるものである,との見地からあくまでも補助事業として位置づけられ,土地改良事業の受益者は事業費の一部を負担することとされた.
 以上が土地改良法の特徴であり基本的な仕組みであるが,土地改良事業の推進にあたっては,農家の資金蓄積が乏しいという実情をふまえ,1951(昭和26)年に農林漁業資金融通法が制定され,長期低利の資金を供給するシステムが作りあげられた.さらにこの資金を効果的に運用するために,1953(昭和28)年には長期低利資金を供給する政府金融機関として農林漁業金融公庫が設立され,資金面から土地改良事業推進の体系化も完成することになる.
 なお,つけ加えておかなければならないのは,土地改良法以外の法律による土地改良事業の実施主体として政府関係機関が作られたことである.
 1955(昭和30)年に設立され愛知用水及び豊川用水の両事業を実施した愛知用水公団は,1968(昭和43)年に解散し,施設の管理等を次の水資源開発公団に引きついでいる.水資源開発公団は1961(昭和36)年に設立され,水資源開発にかかわる事業等を行っているが,国営または都道府県営の土地改良事業を承継実施できることとされている.1955(昭和30)年に設立された農地開発機械公団は,農用地の造成改良のための高能率の機械を保有し,牧場の設置事業なども行ってきたが,1974(昭和49)年設立の農用地開発公団に吸収された.農用地開発公団は農畜産物の集約的生産団地建設のための農用地造成,農業用施設の整備等の事業を総合的に行っている.そのほか1965(昭和40)年に設立された八郎潟新農村建設事業団は建設工事及び施設,土地等の譲渡を完了し,1977(昭和52)年に解散し,残務を農用地開発公団が引きついだ.したがって,現在,土地改良事業を行っている公団は水資源開発公団と農用地開発公団の二つである.
 (3) 食糧危機と緊急開拓
 敗戦により日本経済はほとんど崩壊の状態となった.工業生産力の崩壊,公共施設の破壊と荒廃,貿易の途絶に加えて,戦後2年間で600万人を超える引揚者,復員者を含め膨大な失業者があふれた.そのうえ1945(昭和20)年はかつてない凶作で,深刻な食糧危機を迎えた.
 こうした大混乱の中で,政府は1945(昭和20)年11月に緊急開拓実施要領を閣議決定し,開墾,干拓および土地改良を通じて復員者,引揚者,失業者の農業への人口収容と食糧増産を図る政策をうちだした.これは,5年間で開墾155万ha,6年間で干拓6万ha,100万戸の入植,既耕地では3年間で210万haの土地改良という大構想であった.食糧危機対策,失業人口吸収対策と国土開発政策の性格を合わせもつものとして緊急開拓事業は国家的な重点政策として打ちだされたのである.しかし,必ずしも予期された実績は上がらなかった.その理由は過大かつ粗雑な計画であり十分吟味された計画ではなかったこと,法制度的裏づけが不充分だったこと,入植者の多くが農業経験に乏しかったこと,資材不足と激しいインフレーションに痛撃されたことなどによる.そのためその実績をみると1951(昭和26)年までの開墾面積は43.6万ha,入植戸数21万戸,地元増反戸数80万戸と当初計画を大きく下回り,特に入植後の離脱率は30%を上回るという状態であった.こうして,1950年代に入ると工業生産力の復興により失業人口も吸収されるようになり,また食糧増産対策としては速効性に疑問のもたれる開墾事業よりも,短期間に増産効果をもたらす既耕地の土地改良に重点がおかれることになった.
 (4) 食糧増産政策と土地改良
 農地改革が実施され広範に零細かつ均質な自作農が創出されたのであるが,この自作農を日本農業の生産力主体として定着させるためには,農地法による農地の権利移動についての統制,管理という手法だけによって確保できるものではなかった.農業生産力を向上させ,農家経済を安定させることによって自作農的土地所有制度を維持することが,戦後の当面する政策課題とされた.
 しかし,1946(昭和21)年から1949(昭和24)年にかけては,戦後日本経済の復興政策のなかで,農業からの収奪が強化され,工業の復興に全力があげられざるをえなかった.とりわけ49年のドッジ・ラインの実施はインフレーションの終息をめざし,工業の復興をねらいとするものであったが,その過程で農業に対しては低農産物価格政策にもとづく食糧の強権供出,農業への所得税課税の強化,農業財政投資の大幅削減などが実施された.1950(昭和25)年,朝鮮動乱の勃発とともに日本経済は特需景気にわき,国際収支の改善,財政力の上昇などがみられ,それらを背景として1950年代に入ると食糧増産政策と自作農定着のための農業保護政策が強化されることになった.そして上の二つの政策を実現するうえでは,土地改良事業の推進がもっともふさわしいこととされ,土地改良事業への補助金支出が大幅に伸びることになる.食糧増産と自作農保護を実現するうえで,土地改良事業がふさわしいとされたのは次の理由にある.第1に,土地改良事業は直接的に増産効果をもたらすところにある.土地改良事業にはさまざまな内容のものがあるが,この時期には水田における農業用排水改良事業に重点がおかれた.用水改良は用水不足による旱魃害を減少させ,収量の安定をもたらし,また,排水改良は水稲の単位面積当り収量の増大と栽培技術の改善を促し,食糧増産政策にもっともふさわしい政策として位置づけられ,政府の財政投資の最重点対象とされた.
 第2に,土地改良事業は自作農にとっては階層性を問わず受け容れやすい政策であった.土地改良事業を通ずる増産効果は農民の所得向上に直接つながるものであった.戦前の地主制のもとでは,地主の費用負担により推進された土地改良はしばしば小作料の増徴という結果をもたらし,耕作農民の利益とはならなかった.しかし,自作農が広範に創りだされた農地改革後においては,農民が土地改良事業の費用の一部を負担しなければならなくなったとはいえ,事業実施の結果生じる増産の成果,いいかえれば所得上昇の果実はすべて自作農の手に入ることになったのである.
 以上のように,土地改良事業は政府のめざす食糧増産と自作農のめざす所得向上という両者の利益を充たす機能を発揮するものとして位置づけられ,土地改良事業を主な内容とする食糧増産政策が1950年代に入ると打ちだされてくるのである.
 具体的には,1952(昭和27)年には食糧増産対策費が予算費目の重要経費として新設され,1953(昭和28)年から5ヵ年計画で食糧増産計画がたてられ,その計画の中心に土地改良事業がすえられることになった.この計画の概要は,表3-1にしめしたが,5ヵ年間で農地の拡張改良に2,991億円の国費を投下し,そのほかに1,072億円の長期低利の融資と耕種改善補助金285億円,合計3,276億円の投資により,計画達成時の1957(昭和32)年には1,257万石(約189万トン)の食糧の純増産を達成し,消費増加分を差し引いても535万石(約80万トン)の食糧輸入を削減できるという壮大な計画であった.この計画の特徴は計画期間5ヵ年間の前半においては耕種改善による増産に主力をおき,後半には農地の拡張改良の成果があらわれて増産につながるように計画されていた.いま一つの政策課題は,食糧増産を通じていかに輸入食糧を削減するかにおかれていた.当時はなお穀物の国内自給力が低く輸入食糧に依存していたのであるが,輸入食糧を削減することが外貨収支の改善に役立ち,それだけ工業の必要とする原料や資材の輸入を拡大できることとなり,そこに食糧増産の国民経済的意義,ひいては土地改良事業等への国費投下の国民経済的意義が認められていたということである.
表3-1 食糧増産第1次5ヵ年計画の概要
 (5) 土地改良事業費の推移と特徴
 われわれの時期区分による第4期,つまり1949(昭和24)年から1961(昭和36)年にかけての土地改良事業費の推移を考察しよう.
 表3-2に1946(昭和21)年から1961(昭和36)年までの土地改良事業費(食糧増産対策費という費目で表示)の推移が名目額で示されている.
表3-2 土地改良事業費の推移
 国の一般会計歳出予算にしめる土地改良事業費の比率が政府の政策の軽重を示す目安となるので,表3-2のC/Aに注目しよう.
 1946(昭和21)年から1947(昭和22)年には2%前後で推移するが,前述のように戦後の緊急開拓政策が実施された時期であったために,土地改良事業費の増加がみられた.特に公共事業費のなかにしめる土地改良事業費の比重(C/B)は高く,公共事業費の半分ないし3分の1が土地改良事業費にあてられていたのである.しかし1948(昭和23)年~1950(昭和25)年にかけて土地改良事業費の割合は大幅に低下する.これはドッジ・ラインの緊縮財政により大幅に土地改良事業費が削減されたためである.しかし,1951(昭和26)年以降,食糧増産政策と自作農保護政策がとられるなかで土地改良事業費は1951(昭和26)~1954(昭和29)年にかけて急増するが,1950年代後半になると土地改良事業費の伸びは鈍化する.
 1955(昭和30)年には米の収穫量は史上空前の1,200万トンに達し食糧の自給は一応達成されたこと,1950年代半ばを転機に主要食糧の国内価格と海外価格の価格差が逆転し海外価格が安くなり輸入した方が有利になったこと,アメリカに膨大な穀物の過剰在庫が存在しMSA協定にもとづき小麦の大量輸入が行われるようになったこと,などの理由により,食糧増産政策は急に色あせたものとなって土地改良政策は1950年代後半には再検討されざるをえないこととなったためである.さらにこれらの理由につけ加えて,1950年代後半以降,日本では高度経済成長の時期を迎えるが,高度経済成長を促進するうえで産業基盤整備投資,なかんずく道路整備投資,港湾整備投資,工業立地関係投資の拡大の必要に迫られ,国の予算の多くをそれらの部門に配分せざるをえないこととなり,土地改良事業への投資配分が削減されたからである.
表3-3 農業投資と政府補助金
 次に農業固定資本形成にしめる土地改良投資の比重ならびに土地改良投資にしめる政府補助金の比率について述べておこう.表3-3によると,第4期を通じて農業固定資本形成に占める土地改良投資の比重は圧倒的に高いことが知られるであろう.すなわち,1950(昭和25)年39.5%,1953(昭和28)年45.4%,1957(昭和32)年32.4%,1961(昭和36)年30.9%というように農業投資総額の30~40%がコンスタントに土地改良投資に向けられている.1960年代に入ると,農機具への投資が土地改良投資を上回るようになるが,全般的に土地改良投資の優位は動いていない.土地改良投資を通じて農業生産力を向上させようという方向がこの時期にはとられていたとみることができよう.
図3-1 水稲作付面積・総収穫量・10a当り収量の推移
 ついで農業に対する政府補助金についてみると,政府補助金の約90%は土地改良補助金により占められていた.(D/C参照).この時期には政府補助金は土地改良事業に集中されていたことが明らかである.また土地改良事業費に占める政府補助金の割合(D/B)をみると,おおむね土地改良事業費の4分の3に当る部分が政府補助金によって支えられていることが明らかになる.つまり,農家の負担する部分は事業費の4分の1ということになる.土地改良事業に対する政府補助金が主導的な役割を果たしつつ土地改良が推進されていることが明らかとなるであろう.
 この時期の土地改良事業の特徴は,初期の開拓政策を除けば一貫して水田の灌漑排水改良ならびに区画整理に重点がおかれ,畑地や草地の改良にはあまり眼が向けられなかった.水稲生産力の向上が食糧増産に通ずると考えられていたからである.水田に対する土地改良事業費の重点的投入は,図3-1にしめしたように1950年代後半以降の水稲生産力の飛躍的上昇をもたらす大きな要因となった.

 Ⅴ 農業基本法の制定と土地改良政策

 (1) 農業基本法の制定
 1950年代後半,日本経済の高度成長の開始とともに農業に内在する矛盾が激化してきた.アメリカを中心とする国際的な農産物過剰による海外農産物価格の低落傾向の中で,国内農産物価格との格差が拡大する一方,農地改革で創設された自作農は,その零細性と生産性の低さのゆえに,経済成長にともなう非農業所得の上昇に対して農業所得の相対的低下傾向があらわになりつつあった.
 1950年代初頭以降の食糧不足のもとで掲げられた食糧増産政策は,1950年代後半の米の豊作と,低廉な海外農産物輸入の増大のなかで漸次色あせたものになり,農政は「曲り角」に来たとの認識が一般的にもたれ,高度経済成長のもとにおける農業の新しい方向づけの必要性がクローズアップされてきたのである.
 こうした事態に対して,要約すれば三つの立場から新たな農政の方向づけについて問題提起がされた.
 第1の立場は,農業団体,農民利益代表など農業関係者から出された農業所得の向上を内容とする農業保護政策拡充の要求であった.
 第2の立場は,財界,資本家団体などからのものであり,農産物を含む貿易自由化をテコとして農業の合理化,生産性向上,農業への財政負担の縮小などを内容とする農業保護政策の修正という要求であった.
 第3の立場は,農林官僚からのものであり,経済成長に適応する新しい農政理念の確立と,農地改革後の自作農を基盤に構築された硬直化しつつある農業諸制度の改革を内容とするものであった.
 1959(昭和34)年4月,政府は農林漁業基本問題調査会を設置し,同調査会は1年間の審議のもとに1960(昭和35)年5月「農業の基本問題と基本対策」の答申を行った.
 この答申は新しい農政展開の契機を,①経済成長,②就業動向,③貿易条件,に求めた.そしてそれまでの増産効果や外貨節約効果が農政の目標とされた時代は過ぎ去り,今後の農政の基本方向は,①農業,非農業間の所得の均衡,②農業の生産性の向上と農業生産の選択的拡大,③農業構造の改善による自立経営の育成の3点におかれるべきであるとした.
 この答申の基本的視点は,農地改革で創出された多数の零細,均質な自作農をそのまま維持していくことに疑問を提示し,農業を経済成長のなかでとらえなおし,非農業との所得均衡を実現するため農業構造改革の促進を政策課題として示したものであった.
 この答申を受けた政府は,幾多の曲折をへて1961(昭和36)年6月12日に農業基本法を公布,施行した.
 農業基本法は農業政策の究極目標を「他産業との生産性の格差が是正されるように,農業の生産性が向上すること及び農業従事者が所得を増大して他産業従事者と均衡する生活を営むこと」(第1条 目的規定)としており,この目標を達成するために具体化された政策は,生産政策,構造政策,価格流通政策の3本の柱であったが,なかでも構造改善政策と農業生産の選択的拡大政策に中心がおかれた.
 日本経済の重化学工業化を内容とする高度成長のためには,農業からの大量の労働力供給を必要とするが,そのためには農業の生産性の向上を必要とし,また労働力流出はいずれ離農を引き起こし,農業経営の規模拡大が達成できると想定し,そのため構造改善政策の推進を最重点課題として提起した.他方,経済成長のもとでの国民所得の増大は食生活の構造変化をもたらし,畜産物,牛乳,乳製品や生鮮野菜,果実の需要増加を引き起こすが,それら需要の増大する成長農畜産物の生産を助長するために選択的拡大政策が提起された.これはまた,国際分業路線にたって工業製品の輸出市場であるアメリカや開発途上国から低廉な農産物を輸入し,それらと競合しない農産物を国内で生産するという内容を含意していた.
 農業基本法制定以降の農政を基本法農政と通称するが,基本法農政のもとでその推進に必要な法制度の新設,改廃などが行われる一方,農業構造改善事業が実施され,また土地改良事業も農業機械化の推進,農業構造の改善という視点に焦点があてられ,従来の食糧増産を目的としていたものから大きくその内容が変わることになった.
 (2) 土地改良制度の改正
 農業基本法制定後,土地改良制度の部分的改正がいくつかの点にわたって行われた.例えば1963(昭和38)年には圃場整備事業の新設が行われ,これは区画整理,小規模灌漑排水,農道等の圃場条件整備の各種事業を一貫施行し農業機械化の促進をねらいとしたものであったが,それらを包括するかたちで1964(昭和39)年に土地改良法の大幅な改正が行われた.
 第1は,土地改良法の目的の改正である.農業基本法に掲げられた政策目標にしたがい,「農業生産の基盤の整備及び開発」を通じて「農業の生産性の向上,農業総生産の増大,農業生産の選択的拡大及び農業構造の改善に資すること」を明示した.
 第2は,土地改良事業の拡充が行われた.従来の土地改良事業に加えて成長部門とされた畜産を重視し農地だけでなく草地も加えた農用地の開発,改良が土地改良事業の範囲とされた.
 第3は,「土地改良長期計画」の策定が義務づけられたことである.従来の土地改良事業は,個別的にその時の状況により事業を実施する地区を定めるものであったが,農業構造変化の方向に即した長期計画を策定し,これにもとづいて計画的に事業を推進することとされた.最初の土地改良長期計画は1966(昭和41)年3月に閣議決定され,1965(昭和40)年以降10年間に総額2兆6,000億円に相当する事業を実施することとされた.
 第4は,事業実施方式と費用の負担方式の変更である.主要な点は土地改良事業の総合的,効率的実施のための措置,大規模事業実施の円滑化措置,国営,都道府県営事業に対する関係市町村の負担金に関する措置など,要するに農業の生産性向上のための事業推進に当り円滑にかつ総合的に行うための多面的な措置が講じられたことである.
 第5は,土地改良施設の維持管理体制の強化についてである.
 以上が土地改良法改正の要点であるが,従来の米の増産主義にいちじるしく傾斜していた土地改良事業を,農業構造の改善,農業機械化による生産性の向上,農業生産の選択的拡大という農業基本法の政策課題にてらして大きく軌道修正をしたこと,都市的生活様式の普及にともない大きな変化をしめしはじめた農村社会の変貌に対応して土地改良事業も多様化せざるをえなくなったが,そうした事態に対応するための制度的条件の整備を行ったというように特徴づけることができよう.
 なおここでふれておかなければならない点は,新河川法の制定にともなう農業水利権の規定の変更についてである.
 河川の管理と治水事業についての基本的法規は1896(明治29)年に制定された河川法によっていた.この旧河川法制定当時の時代の河川の利用は農業用水の取水,舟運,木材の流送などに限られていたといってよかった.その後,社会経済構造の変化はいちじるしく,とくに1960年代以降の高度経済成長のもとにおける変化は急激なものがあり,河川法の全面的改正が長らく課題とされていたのが,1964(昭和39)年に新河川法として公布,翌年施行された.もっとも重要な点は水利権の規定についてであるが,新河川法制定後の水利権行政はいちじるしく強化された.許可水利権制度が設けられ,それは原則として10年ごとに更新されることになり,水需要が増大するなかで河川の水配分秩序に流動性を与えようとするものであった.そこでは農業水利権については年間総取水量の表示を行うことが求められたが,その表示を行うものは原則として新築,改築するものなどに限られ,従来からの農業水利権は維持されることとなった.
 河川法改正による水利権行政の強化は都市用水需要の増大に対応して,需要の季節性の大きい農業用水の利用量を確定し,強い規制を加えつつ水系全体の水管理体制を確立しようということをねらいとしたが,しかし,それにもかかわらず,慣行水利権の解消はほとんど進まず,水利権の根元が日本的農耕社会において形成された慣行水利権にあり,近代法によっては律しつくし切れない根深い存在であることを改めて示した.
 (3) 米の過剰と総合農政への転換
 1967(昭和42)年から1968(昭和43)年にかけて日本経済と農業を取り巻く諸条件は大きく変化した.そうした局面の転回のなかで,基本法農政を一面で強化し,一面で軌道修正する「総合農政」が登場する.
 第1のインパクトは,1967,68(昭和42,43)両年にわたる米の大豊作(1,400万トン台)とそれによってもたらされた米の供給過剰と財政負担の増大をめぐって,第2のインパクトは,構造政策の具体的推進をめぐって.第3のインパクトは,農産物貿易自由化をめぐって.それらの問題に総合的に対処するものとして総合農政と呼ばれる新農業政策が策定された.そこでとられた主要な政策の内容は以下のような点であった.
 ① 米の需給調整と食糧管理制度の改革.水稲の休耕対策および他作物への転換対策のために休耕奨励金及び転作奨励金を支出.政府買入米価を抑制し,自主流通米制度を設定.
 ② 構造政策推進の強化.離農の援助・促進のため農村地域への工業導入,農業者年金制度の充実,農地流動化政策の強化.
 ③ 農産物貿易自由化への積極的対応.
 こうした政策転換の中で,1970(昭和45)年の農地法の改正は特に重要であり,自作農主義から借地農主義への転換を示すものであった.改正の要点は(a)経営面積の上限(内地3ha,北海道12ha)の撤廃と下限(内地30a,北海道2ha)の引き上げ,(b)農地改革で創設された自作地の貸付の容認,(c)小作地所有制限の緩和,(d)賃貸借解約の制限の緩和,(e)小作料統制の撤廃,など多面的であり,要するに農地改革の成果を維持するものとして制定された農地法を抜本的に改正し,耕作権の過度にわたる保護条項を改め,農地の賃貸借流動の進展をはかるところにねらいがおかれた.この改正の背景には地価がいちじるしく高騰し,農地の資産的価値が上昇し,農地の売買流動によっては構造政策の推進は容易には進まないという政策的判断がなされたためである.
 こうした政策転換とともに,土地改良事業も大きく転換せざるをえないことになった.第1に,米の生産過剰のもとで開田の抑制がはかられたこと,米からの転作にともない畑作物の作付可能な水田への改良が求められたこと,土地改良の水田重点主義が改められ畑地改良が促進されるようになったこと,第2に,農村社会の混住化の進展,農家の兼業化の進展に対応して農村の居住環境整備などにも土地改良事業が拡充されたことなどである.
 (4) 土地改良事業の進展と多様化
 農業基本法制定以降の第5期の土地改良事業の展開の特徴を要約すれば,次のように整理できるであろう.
 第1は,農業基盤整備事業(1960(昭和35)年から予算費目としての食糧増産対策費から農業基盤整備費に名称変更され,広義の土地改良事業に関する予算を含むものとされた)の投資内容と重点が変化したことである.土地生産性向上を追求した従来の灌漑排水改良事業にかわって,労働生産性向上をめざす圃場整備事業が1960年代後半から急激に増加した.これは農業機械化技術の開発・普及,農業労働力の非農業部門への流出という経営的要因とも関連してその後の土地改良事業の中心にすえられた.
 第2に,従来立ちおくれていた畑地改良事業も,農業生産の選択的拡大,生産性の向上政策との関連で急速に伸びた.
 1960年代前半では水田関係と畑関係の土地改良事業費は7:3の比率であったものが,1970年代半ばになるとほぼ5:5という比率になってきたのである.いうまでもなく野菜,果実,畜産物などの生産の基盤の条件整備のための土地改良が増加してきたことを特徴とした.
 第3に,米の過剰のもとで水稲から他作目への転作政策が1970(昭和45)年以降行われることになるが,そのため永田の汎用化,田畑輪換可能な水田への改良が推進された.
 第4に,土地改良事業種目がいちじるしく増加するとともに,その体系化をはかる総合土地改良事業の進展をみるようになった.
 第5に,都市的な生活様式の農村への普及,農家の兼業化の進展,農村社会の混住化の進展という状況の中で,それまで土地改良事業が全く経験することのなかった農村整備事業が1972(昭和47)年から登場し,農村の居住環境,生活環境,例えば家庭雑排水路の整備,集落内道路の改良舗装,農村緑地公園の整備などへと事業が拡充された.これらの事業は地域の土地利用計画をたて,農業基盤整備事業と関連づけて実施しようとするもので,この時期以降農村住民のニーズは非常に高まってきた.
 第6は,土地利用,水利用の調整に関する制度の確立とその事業化である.高度経済成長は農村における土地利用,水利用に関しさまざまな攪乱要因をもたらしたが,それらを合理的に調整していくシステムがこの時期提案される.
 1972(昭和47)年に再度の土地改良法の改正を行い,農用地と非農用地の換地(創設換地,異種目換地),農業用水路と都市用水路との共同利用,水質汚濁防止対策などを内容とする改正が行われた.いずれも農村における都市化の進展に対応する措置であった.
 こうして,この時期の土地改良事業は,農業の生産性向上,農業構造改善のための基礎条件整備としての生産基盤整備にとどまらず農村地域の土地利用,水利用の総合的整備,あるいは農村住民の居住環境整備というように広範かつ多面的な分野をカバーするようになるのである.
 そのため,1972(昭和47)年には,1973(昭和48)年度を初年度とする10ヵ年計画(13兆円計画)の第2次土地改良長期計画を策定し,そこに上述のような広範な事業が盛り込まれることになった.
 (5) 土地改良事業費の推移と特徴
 第5期における土地改良事業費(予算費目における農業基盤整備費)の推移と特徴を考察しよう(表3-4参照).
表3-4 土地改良事業費の推移
 国の一般会計歳出予算は1962(昭和37)年から1975(昭和50)年にかけて名目額で8.13倍の増加であるのに対し,公共事業関係費は7.30倍,農業基盤整備費は7.34倍とこの時期にはかなり重点的に農業基盤整備への投資配分が行われた.
 農業基盤整備に投資配分の重点がおかれてきていることは,一般会計歳出額にしめる農業基盤整備費の比重(C/A)が高まってきていることでも明らかになる.
 従来,一般会計歳出額の2.2%程度であったものが,1965(昭和40)年以降になると2.5%程度の水準へ0.3ポイントほど上昇するようになる.この水準は若干の変動は示しつつも1960年代後半もつづき1970年代初頭には2.6-2.7%にまで上昇している.
 また,公共事業関係費に対する農業基盤整備費の比重(C/B)も1960年代後半から1970年代前半の時期には上昇し,13%を超えるようになっている.このように第5期には土地改良事業への政府投資はかなり重点的に行われてきたことがうかがえるであろう.
 ついで農業関係予算にしめる土地改良事業の予算の位置づけをみよう(表3-5参照).
表3-5 農業関係予算の構造と農業基盤整備費
 農業関係予算の構成は,① 生産対策,② 農業構造の改善,③ 価格流通及び所得対策,④ 農業従事者の福祉向上,⑤ 農業団体,⑥ その他の対策,に大きく区分されているが,主要なものは,①,②,③の三つの予算である.農業予算の構成をみると,生産対策が40-45%,農業の構造改善が4―6%,価格流通及び所得対策が40-50%になっている.生産対策には農業生産基盤の整備,農業生産の選択的拡大を助長するための予算,技術の開発・普及に関する予算などが含まれ,農業構造の改善には農業構造改善事業に関する予算が含まれ,価格流通および所得対策に関する予算は食糧管理制度に伴う予算,つまりその大部分が米麦などの政府管理にかかわる予算である.
 農業基盤整備費は伝統的に農業関係予算のほぼ3分の1をしめてきていたのであるが,1960年代以降,生産者米価引き上げによる食糧管理にかかわる経費が増加する一方,1970年代に入ると米の生産合理化(米の過剰のもとで水稲の生産調整の実施)にかかわる経費が増加してきたこともあって,農業基盤整備に関する予算のシェアはいちじるしく低下し,1970年代には20%の水準に低下してきている.つまり農業基盤整備費は絶対額ではかなり速いテンポで増加してきたのであるが,それを上回る速さで,食糧管理に関する経費や米の生産調整に関する経費が増加してきたため,農業予算にしめるシェアは低下してきたのである.
 (6) 土地改良事業費の負担構成――政府と農民――
 第5期における農業固定資本形成にしめる土地改良投資の位置と固定資本形成における政府補助金の関係について示したのが表3-6である.
表3-6 土地改良投資と政府補助金
 第5期を通じて,農業固定資本形成のうち,おおむね3分の1が土地改良投資,3分の1が農機具投資,残りの3分の1が農業用建物・構築物投資,ならびに植物(果樹・植栽など)投資,動物(家畜など)投資の合計となっている.
 また,政府補助金にしめる土地改良関係の補助金の割合(D/C)は,1960年代から1970年代にかけて90%を超えるようになってくる.つまり農業固定資本形成にかかわる補助金のうち,土地改良関係の補助金がその大部分をしめているということが明らかになろう.
 ついで土地改良投資のうち,どの程度が補助金に依存しているかをみると(D/B),1960年代前半では65-66%程度,1960年代後半が68-69%程度,1970年代には70%を超すようになっている.
 以上を要約してみれば,農業固定資本形成の約3分の1が土地改良投資によるものであり,土地改良事業費の約7割が政府の補助金によって支えられており,近年ますます政府の補助金の比率が高まっていることも明らかになる.
 そこで土地改良事業における政府の補助金と農家負担の関係にやや立ち入った考察を加えておこう.
 わが国においては土地改良事業のシステムとしては中央政府の直轄事業である国営事業と補助事業としての都道府県営事業,土地改良区などが行う団体営事業,および長期低利の融資によって施行する非補助事業(おおむね土地改良区などが行う団体営事業が多い),それに農家個々が行う農家事業とがある.
 これらの各種システムを通して,全体としてどれだけの土地改良事業が年間行われ,その投資額はどれだけになるかということを示したのが,表3-7である.
表3-7 土地改良投資の事業別負担の関係
 政府が国費投入あるいは補助金投入によって直接かかわっている事業を直轄・補助事業として一括し,非補助事業,農家事業との構成比をみると,1960年代前半には直轄・補助事業がほぼ80-85%,1960年代後半から1970年代にかけては90%弱になっている.それに対し,非補助事業は1960年代前半には10%前後,農家事業は6-7%,1960年代後半から1970年代にかけては非補助事業7-8%,農家事業3-4%となっている.このように1960年代後半から1970年代にかけて政府の介入する直轄・補助事業の比率がいちじるしく高まってきている.事業の大規模化,技術の高度化がこの過程を促進した.
 直轄・補助事業の事業費負担の構成をみると,国費および地方費(中央政府および地方自治体の補助金)が60-70%,借入金3-7%,農民負担12-13%となっている.農民負担はさらに借入金と自己負担に分かれており,土地改良事業実施にともない,当初,農民が義務的に負担しなければならないのが自己負担であり,負担能力がないものとして農林漁業金融公庫資金の土地改良資金(利率6.5%,15年-20年償還)等を借入れたものがここでいう借入金であるが,それがそれぞれ1-4%,9-11%となっている.しかし,農民負担の中の借入金はいずれ将来農民の負担として償還することになるので農民負担の合計は12-17%となる.
 しかし傾向的には近年になるほど,国費および地方費による補助金の比重が増加し,農民負担が軽くなる方向にある.単位面積当りの事業費が高くなり,また土地改良事業を政策的に強力に推進しようとするところから,補助金の比重が高くなってきているものと考えることができる.
 非補助事業についてみると,借入金と自己負担の比率は,借入金が70-80%,自己負担が20-30%となっている.この場合の借入金は農林漁業金融公庫資金の長期低利資金で利率3.5%,15-25年償還のものである.補助事業の場合の借入金よりも利率がはるかに低い.補助金交付がない事業であるため政策的に利率が低くされているのである.
 農家事業は農家個人が自ら個人の事業として行う土地改良事業であり,主として自己資金で行う小規模なものと考えてよい.
 次に土地改良事業の主な種類別に政府・農家間の負担関係をみておこう(表3-8参照).
表3-8 土地改良の事業種別負担関係
 わが国の土地改良事業の種類を大別すると,狭義の土地改良事業として圃場整備事業と基幹灌漑排水事業とがあり,このほかに農用地造成事業,防災事業,災害復旧事業,鉱害復旧事業がある.そこで事業種類別に行政投資,その中にしめる国費(国の補助金)および農民負担についてみよう(なお行政投資とここで言うのは国の補助金,地方自治体の補助金および国の借入金の合計額である).
 圃場整備事業については近年行政投資の比率が上昇し農民負担が低下しているが,1975(昭和50)年についてみると行政投資80%(うち国費50%),農民負担20%となっている.
 基幹灌漑排水事業については,行政投資は90%,そのうち国費は70%,農民負担は10%以下になっている.この場合も近年行政投資の割合が増加し,それに対応して農民負担の割合が減少してきている.
 農用地造成事業については,行政投資90%(うち国費70%),農民負担10%と,これも傾向的に行政投資の割合が増加し農民負担の割合が低下してきている.
 防災事業の場合は行政投資90-97%(うち国費53-59%),農民負担3-10%,災害復旧事業は行政投資の割合が90-99%(うち国費80-90%),農民負担は1-10%程度となっており,いずれも行政投資の比率が高く,農民負担比率はきわめて低い.
 鉱害復旧事業は,事業費としては大きくはないが,災害復旧事業と同様に行政投資70-100%(うち国費60-80%),農民負担0-30%となっており,災害復旧事業とほぼ同様の性格とみてよいであろう.
 以上を総括し,合計についてみると行政投資の割合が80-86%,うち国費が61-66%,濃民負担が13-19%というように年により若干の変動はあるものの,最近の傾向としては農民負担は軽減の方向にあり,行政投資が増加の傾向にあるということができよう.

 Ⅵ 土地改良政策の当面する課題

 土地改良事業ならびに土地改良政策が当面している課題は多岐にわたり,ここでそれらすべての問題点にふれることはできないが,農業経済の立場に限定してみた場合,次の5点に集約できるであろう.
 第1に,農民層の分化の進展,とりわけ農家の兼業化が一段と進展したことにともない土地改良の積極的推進派と消極派への二つのグループへの分裂が以前にもましてみられるようになってきたことであり,いうまでもなく後者の比重が高まっていることである.これは土地利用のあり方への利害関心ともからんで,専業的農家層はより生産性を高め,技術改良の促進をはかるため土地改良に積極的であるのに対し,兼業農家層は一般的には消極的である.こうした分裂の基礎には,農地に対する価値観の分裂――すなわち,商品所有権としての農地所有権という価値観と農地利用権としての農地所有権という価値観の分裂――があること,土地改良にともなう農家負担金の重圧の問題があることはいうまでもない.
 第2に,農地の賃貸借流動化政策が農業構造の改善を促進するためにとられているが,土地改良事業費の負担金の帰属にかかわる問題が新たな問題点として浮上してきていることである.1980(昭和55)年の農用地利用増進法の制定により利用権設定の促進による中核農家の育成政策が現在問われているが,比較的短期の利用権設定の場合,土地所有者が事業参加資格者となるか,あるいは利用権設定をうけた農家(農地の借入農家)がなるか,さらに事業費の負担金はいずれに帰属すべきかが大きな問題として浮かび上がってきている.これまでのところは土地所有者が事業参加者となり負担金も負担しているのが支配的であるが,今後賃貸借関係がより広範に普及するなかでこの問題についての新しいシステムが必要とされるであろう.この問題は一般的にいえば有益費償還問題をいかに解決するかということでもある.
 第3に,1970年代後半以降の,国,地方の財政事情の悪化と土地改良事業推進の重要性とのジレンマにかかわる問題である.国の予算についてみれば,農林関係公共事業費は財政危機の中で1979(昭和54)年以降一貫して抑制措置がとられているが,他方では農業構造改善の基礎条件整備の意義をもつ土地改良事業へのニーズは高い.こうしたジレンマをいかに解決していくか,歳出予算の総枠が限られているなかでいかに財政投資配分の優先順位を確定するかが問われている.
 第4は,土地改良施設の維持・管理問題,土地改良区の財政的基盤の問題,土地改良区の運営,管理のあり方をめぐる問題である.とりわけ土地改良施設の維持・管理については,従来は村落の共同行動として末端施設については行われてきたが,村落機能の低下とともにその維持・管理が大きな問題としてクローズアップしてきている.また土地改良区も,その財政的基盤が弱体であるものが多く,土地改良施設の維持・管理問題は今後ますます大きな問題となってこざるをえないであろう.
 第5に,土地改良投資の社会的,経済的効果についての評価の把握視点は従来のそれとは異なり,より広い視野にたって行うべきではないかということが問われていることである.土地改良事業は水利用,土地利用の高度化をねらいとして行われているのであるが,それは同時に広義の国土保全機能,地域資源管理機能も果たしているものと考えられる.農業に及ぼす直接効果にとどまらず,より広く間接効果も視野に入れた効果の把握が必要とされているように考えられる.

 むすび
 日本における土地改良政策の展開過程を総括すると,次のような特徴を見出すことができる.
 1. 農業水利制度の確立にあたっては,近世農村社会において形成された,水利施設の維持管理や用水配分の運営に自治的性格をもって当ってきた用水組合を事実上法認するとともに,用水組合がつくりだした用水配分の秩序である用水慣行を慣行水利権として,法的権利として認めてきた.農業水利に関する農民の自治機能を近代国家の法体系の中にとり入れざるをえなかったことである.
 2. 土地改良制度については,第2次大戦前には耕地整理法にみられるように,その事業主体の構成員は土地所有者(地主)とされていたが,第2次大戦後においては農地改革により創設された自作農を基盤とする土地改良法が制定され,土地改良事業は飛躍的な展開をみせた.その結果,日本農業の生産力は顕著な発展をみせた.土地改良の推進に当っては土地改革がいかに重要であるかということを示唆している.
 3. 日本においては農業の固定資本形成に占める土地改良投資の比率は1960(昭和35)年ごろまでは圧倒的な高さを示していた.その後この土地改良投資を基盤に農機具投資等が進み,農業生産力の発展に大きく寄与した.土地改良投資は政府の財政投資の主導のもとに進められてきたが,その場合,事業費の一定割合については農民負担を原則としてきた.その理由は,土地改良事業は道路などの公共事業と異なり受益者農民に特定の利益をもたらすこと,また,政府の一方的計画により進められるものではなく,受益者農民の申請事業を原則としていることによる.農民およびその組織する土地改良区の自主性を制度的に尊重する方針がとられているのである.
 以上の日本における諸特徴は開発途上国の灌漑水利開発事業ならびに土地改良事業の推進に当り「日本の経験」として示唆を与えることであろう.
[今村奈良臣]