技術と農村社会

論文一覧に戻る
技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 第4章:土地改良事業の展開と農業生産力の形成メカニズム
著者名: 永田 恵十郎
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
本論文の目次を見る本ページのPDF版を見る

第4章:土地改良事業の展開と農業生産力の形成メカニズム

 Ⅰ 農業生産力形成における土地改良投資の役割

 (1) アダム・スミスの水田農業観
 「米田というものは,もっとも多産的な穀物畑よりもはるかに多量の食物を生産する……それゆえ,たとえその耕作により多くの労働を扶養したあとになおのこる剰余は,穀物畑のばあいよりもはるかに大きい」1)といったのは,アダム・スミスだった.彼はここで,稲作が他の穀物生産に比べ,高い土地生産力をもっていること,それゆえにまた,地代形成力でもまさっていることを正しく指摘しているといってよいだろう.
 だが,この経済学者は,稲作の高い土地生産力なり,地代形成力がどういう条件によって生みだされたかについては必ずしも正確にいいあてることはできなかった.前記の引用部分にひきつづいて,「良好な米田は四季をつうじて沼地であり,しかもその一季には水におおわれた沼地である」と彼がいうとき,稲作の土地生産力,地代形成力の高さは,もっぱら自然水の供給にもとづく自然的豊度のみに依拠したものであったとしか,理解されていなかったのである.
 アダム・スミスは,これらの引用文の根拠となった情報を1700年代のカロライナ地方の稲作から得たのではないかと推定できるのだが,この地方の当時の稲作が沼地に立地していたことは事実である.カロライナ地方は,アメリカではじめて稲作が導入(1685年)されたところであるが,その頃のこの地方では,もっぱら内陸部の沼沢地(swamp land)が水田として利用されていたといわれているからである2).その限りでは,土地生産力と地代形成力の高さの秘密を自然的豊度に求めた彼の見解も理解できないことはない.
 しかしながら,長い稲作の歴史をもつ日本の場合は,そうはいえない.そこでの高い土地生産力と地代形成力は,自然に存在する水-自然的豊度へのたんなる依存ではなく,土地改良や水利の人工的管理などがつくりだした用水と,それにもとづく経済的豊度に支えられているからである.
 いまでこそ,日本の10a当り水稲収量は450kg(全国平均)をこえる水準に達しているが,19世紀末頃のそれは200kgをややこえる程度のものにすぎなかった.しかし,この収量水準は当時の欧米諸国の穀物収量の水準に比べると,けっして劣るものではなく,イギリスの小麦収量とは同水準で,アメリカ,ドイツ等の小麦収量よりは,むしろ優っていた(表4-1).それぞれの国の国民が最も必要とする主要穀物についてみる限りでは,当時の日本の水稲収量は高い水準にあったとみるべきであろう.
表4-1 19世紀末期におけるイギリス,アメリカ,ドイツ,日本の主要穀物収量
 周知のように,この頃のイギリスは世界で最も先進的な農業国であり,ハイ・ファーミングと呼ばれる高度集約農業が営まれていた.これに比べ当時の日本の農業は,いわゆる明治農法の形成がはじまったばかりであって,まだ近世以来の伝統的技術を色濃く継承した稲作がひろく営まれていた.にもかかわらず,なぜ先進国なみの穀物収量水準を日本の稲作は確保していたのだろうか.アダム・スミス流にいえば,日本の水田が「もっとも多産的な穀物畑よりもはるかに多量の食物を生産」しえた根拠は,どこにあったのだろうか.
 そのことを考えるうえで,フランスの人文地理学者ヴィダル・ドウ・ラ・ブラーシュの見解は示唆にとんでいる.
 まずブラーシュは「水田の生産を極大限に高めるために水利を管理する技術が発達をとげたのは低平なデルタ的な国々においてではない」3)と考え,そのことを「堰と分解可能な装置の体系で,周期的増水にたいして調整され,傾斜にたいして適合され,水を畝に区分し段に分配するために十分強力であると同時に十分に柔軟性をも備」4)えた水利施設をもつ中国の四川省成都平野の事実から論証している.彼によれば,この水利施設は「おそらく西暦紀元前3世紀のころに完成されて,広漠たる砂漠の河原を変えて世界で最も肥沃なそして最も人口の多い平野の一つにした」のである.このことにより,「成都府の平野の水田は,同じ面積から,他の諸省で収穫される米穀の一倍半の分量を生産する」5)ようになったのだが,このブラーシュの見解には,アジア農耕社会での自然に対する特殊な人間の働きかけと生産力とのかかわり方がふくまれており,その意味では,自然水の供給による自然的豊度にのみ稲作の土地生産力と地代形成力の高さの根拠を求めたアダム・スミスの見解とは,あきらかに異なっているというべきであろう.
 ブラーシュの水田農業観は,日本農業についても示されている.彼は「日本の稠密な人口居住は,厳密に水田の経営と丘陵地の低部の斜面を分布地域とするデリケートな栽培(茶)とに結びついている」6)とし,「モンスーンの降雨によって確保された灌漑」7)を日本の集約的な農業の基礎条件の一つとしてあげているからである.この指摘は,明治期日本の農業情報にもとづいたものと推定されるのだが,ではその頃「モンスーンの降雨」を確保し,それを灌漑に利用するための水利施設は,どの程度にととのえられていたのだろうか.表4-2は,そのことを知るために掲げたものである.
表4-2 溜池・河川灌漑施設の建設時期
 日本において,20ha以上の水田を灌漑する溜池と,一級河川に慣行水利権をもつ水利施設はいつ頃建設されたかを示したこの表4-2をみると,溜池・河川のいずれの水利施設とも,その70%以上が明治期以前につくられており,明治期以後のものは意外に少ないことに気がつく.ブラーシュが言うところの「モンスーンの降雨によって確保された灌漑」は,実は長い歴史のなかでの自然に対する人間労働のたえまないきざみこみに支えられた水利の開発・改良によって可能となったということができよう.
 周知のように,水利の開発・改良の狙いは,土地の生産的機能を非生産的にしていた障害を人工的にとりのぞき,よりすぐれた生産機能を土地に発揮させる経済的豊度をつくりだすところにある.したがって,農業技術のある発展段階を前提としたとき,土地改良によって経済的豊度を獲得した土地には,もともとすぐれた自然的豊度をそなえていた土地と同じ豊度条件があたえられることになるので,そこに充当された資本はより生産的となり,同じ面積から新たな剰余生産物がうみだされるのである.この点こそが,イギリスを初めとした欧米諸国の畑作農業と,日本の水田農業とを区別し,また両者の生産力構造のちがいを認識するときの基本的視点である,と言わなければならない.
 このように,用水の開発・改良は,水田の生産的機能の向上にもとづく経済的豊度の形成を媒介として,単位面積当たりの収穫量の安定と増大,土地生産力の向上をもたらすのであって,伝統的・経験的技術が支配的であったにもかかわらず,日本の水稲収量が,はやい時期から高い水準を確保しえた根拠も,実はそういった経済的豊度の高さにあったと言うことができる.したがって,この点をぬきにしたアダム・スミスの水田農業観からは,稲作における高い土地生産力をはやくから実現してきた日本型農業生産力の基本的性格を理解することはできないというべきであろう.
 (2) 日本における土地改良投資の歴史的動向と稲作生産力の到達水準
 1899(明治32)年は,日本の土地改良にある画期をもたらした年であった.耕地整理(旧)法が成立し,土地改良に対する政策の整備が開始されるようになったからである.もっとも,当初の土地改良政策は,地主による私的な土地改良投資を国が指導,奨励するという範囲をでておらず,事業費もほとんどが融資に依存していた.この頃の土地改良事業は,地主の私的事業としての性格を色濃くもっていたのである.ところが,大正中期になると,土地改良事業に国家が積極的にのりだし,その性格も公共性をもつようになる.この変化は,1919(大正8)年の開墾助成法,1923(大正12)年の用排水幹線改良事業補助要項の制定など,土地改良政策装置の新たな構築と結びついており,これを境として,その後の土地改良事業は国家による直接的,積極的な投資,助成という方向で推進されるようになる.
 国家の直接的助成による土地改良事業の推進は,戦後になると一段と強化された.資料の制約があるため,戦後初期の数字をふくまざるをえないのだが,農林省の推計8)によると1918(大正7)年-1952(昭和27)年までの35年間に国,都道府県が投入した土地改良投資の累積額(1962(昭和37)年価格に換算したもので,民間投資はふくまない)は6,715億円だった.1ヵ年当りにして192億円の投資である.これに対し,1953(昭和28)-1962(昭和37)年までの10年間の投資累積額は6,597億円にたっし,戦前から戦後初期にかけての35年間の累積額にほぼ等しい.1ヵ年当りにすると,実に600億円という旺盛な土地改良投資が行われたためである.
 戦後における旺盛な土地改良投資は,戦後の土地改良政策が1949(昭和24)年制定の土地改良法を根拠として整備されたことにもとづいていた.これにより,国が多額の財政資金を系統的・継続的に投入する法的根拠と実施体制がつくられ,つぎに述べる戦後農政の課題を実現するための重要な役割を果たすことになったのである.
 戦後の農政がなによりも解決しなければならなかった課題は,いうまでもなく食糧の増産だった.それは,国民に対する農産物の安定的供給ということだけでなく,工業生産を伸ばすためにも必要とされた.昭和20年代後半には,食糧輸入の外貨支払い額が輸入総額の20%前後を占め,工業用原材料の輸入を圧迫していたからである.食糧の増産は,「経済自立のための食糧増産」,「輸入圧力軽減のための食糧増産」ということで,戦後の日本資本主義そのものの重要な課題でもあったのである.
 国家の直接的助成による旺盛な土地改良投資の結果,用排水条件の改善や土地改良施設の更新が進み,そのうえに展開する水稲栽培技術の改良とあいまって,国内の米自給力は著しく強化された.1955(昭和30)年には,米生産量が初めて1,200万トン水準をこえたこと,そして1967(昭和42)年には,ついに1,400万トン水準にまで押しあげてきた成果を評価するときには,戦後の稲作改良技術を駆使するにふさわしい土地・水条件の整備が,旺盛な土地改良投資によってつくりだされた事実をぬきにすることはできない.
 表4-3は,そういった事情を包括的に知るために掲げたものである.水稲収量水準の高い市町村ほど,水田の区画整備の割合が高まるとともに,用排水施設の完備割合も上昇していること,したがって水田の改良・整備が,高位収量水準を実現するうえでの前提条件となっていること等を,この表から読みとることができよう.
表4-3 水稲生産力類型別の水田の改良・整備割合

 [注]
 1) アダム・スミス著,大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』,岩波書店,1969年,302ページ.
 2) J.N. Efferson, The Production and Marketing of Rice, New Orleans, 1952, pp.409-10.
 3)-5) ヴィダル・ドウ・ラ・ブラーシュ著,飯塚浩二訳『人文地理学原理』上巻,岩波文庫,1972年,273ページ.
 6)-7) 同上書,145ページ.
 8) 農林省「農林漁業の地域別資本ストック推計結果」,1967年.

 Ⅱ 土地改良事業の展開と農業生産力の形成過程

 本節では,明治以降における土地改良事業の展開が農業生産力の形成にどのように寄与したかについての歴史的経験を,明治期,大正-昭和戦前期,戦後期の三つの時代ごとに,やや詳しく分析することにしよう.
(1) 地主主導型耕地整理事業の出発と伝統的稲作技術の改善
 i 19世紀末における土地改良の地域差と稲作
 すでにみたように,19世紀末期の日本の水稲収量は,欧米諸国に比べてけっして劣らないレベルを確保していた.しかしながらこのころの水稲収量はそうじて安定性にとぼしく,また国内の地域間の格差も大きかった.
 当時,水稲の栽培環境条件を左右していたのは,水害,旱魃の発生だった.「洪水や旱魃など自然の脅威に一喜一憂しながら……『相応の作』に顔をほころばせる」1)のが,その頃の農民だったといえよう.
 もちろん,明治期に入ってからは,後に述べる明治農法の形成を目指したさまざまな技術改良の動きがはじまるのだが,19世紀末期の頃はそれはまだ農民の技術として,広く各地に浸透するにはいたらなかったのである.
 明治農法に代表されるその頃の改良技術の浸透を妨げた要因としては,寄生地主制下における農民の経済力の弱さをあげなければならない.同時に,改良技術をうけいれる生産基盤がけっして十分でなかったことも見落としてはならない.すなわち,日本の水利開発,土地改良は明治期以前にその大半を完了しており,そのことが世界的にみても劣らない水準の水稲反収を実現しえた前提条件だったとはいえ,この頃までの水利開発,土地改良には,つぎのような問題が未解決のままで残されていたのである.
 その第1は,近世期から明治前半までは溜池築造,水路開削などの用水事業は活発に行われたが,排水事業は停滞的であったことである2).
 当然のことではあるが,排水事業の停滞は,湿田が広く存在していたことを意味している.たとえば,近世期に乾田地帯と呼ばれるところは,「九州では肥後・筑後・佐賀・筑前・豊前平野,中・四国では瀬戸内沿岸平野・吉野川流域,近畿では淀・木津川流域の低湿地を除いた畿内中核農業地帯および紀ノ川流域,三重県の中・北勢地域ぐらい」3)で,とくに「1880年代までの東日本には湿田が多かった」4)といわれている.この地域では,水が氾濫・停滞する過湿な大河川下流部平野における水田のひろがりが大きかったからであろう.
 つぎに第2の理由として,近世期の土地改良事業は治水工事との結びつきが十分でなかったことをあげなければならない.
表4-4 徳川期の土地改良工事箇所数
たとえば,この時期の土地改良事業の地域別実施状況をみると(表4-4),人工的制御がむずかしい大河川を多くかかえている東日本に比べ,人間がコントロールしやすい中小河川の多い西日本に事業が集中しており,しかもその中味は河川水を直接には利用しない溜池工事が60%近くを占めていたことがわかる.当時の土木技術水準からみて,治水と利水を統一した水利開発は,大河川の多い東日本では,とくに困難であったという事情を反映したものといえよう.したがって,東日本は西日本に比べ,湿田が多かっただけでなく,洪水などの自然の脅威により強くさらされていたのである.
 湿田が多く存在し,洪水にもしばしばさらされるという生産基盤の未整備とその地域差は,稲作技術の地域差をもたらし,水稲反収の地域間格差を大きくする要因にもなっていた.表4-5は1883(明治16)-1886(明治19)年と1887(明治20)-1893(明治26)年の二つの時期において,水稲平均反収の最上位の5府県と最下位の5県はどこであったかを示したものである.これによると,当時の高反収府県は西日本に多いのに対し,最下位5県は,そうじて東日本や九州の辺境諸県が占めていることがわかる.おそらく,開発のふるい西日本では,明治以前から活発に進められてきた土地改良の蓄積を反映した土地豊度の高さが,辺境諸県では,そこでの土地豊度の低さが収量水準に反映したのであろう.
表4-5 明治前・中期の府県別水稲反収の序列
図4-1 水稲10a当り収量水準格差(最下位5県平均10a当り収量=100)
 加えて注目しておきたいことは,図4-1でみるようにこの地域差は現在以上に大きかったということである.すなわち,水稲10a当り収量の最下位5県を基準にして,収量の低い府県から高い府県に並べて収量水準の格差をみると,最下位と最高位(5府県平均)とでは,戦後(1952(昭和27)-1956(昭和31)年平均)は28%の格差にすぎないのに比べ,明治初期には80%もの格差があったことがわかる.
ii 耕地整理事業による稲作技術の改善
 1890年代に入ると,いくつかの先進地では畦畔や水路,道路など既耕地の改良工事が活発になった.静岡県や石川県で実施され,静岡式,石川式とも呼ばれた区画整理などは,それらを代表するものとして有名である.「田区改正」と呼ばれるこれらの動きは,「耕地整理法」の成立(1899(明治32)年)を促す原動力となり,以後,いわゆる「耕地整理」時代をむかえることになる.
 「耕地整地」時代の事業を代表するものとしては,1902(明治35)年に着工された埼玉県北足立郡鴻巣[こうのす]町・常光[じようこう]村連合耕地整理がある.この事業は,上野英三郎によって「近来の耕地整理事業の比較的完きもの」5)という評価があたえられたものである.完工後の1903(明治36)年には,第5回内国勧業博覧会にその法式を出品,1等賞を受賞し,各府県よりの見学者や手紙による問合せが絶えなかったといわれている.
 そこで以下では,この代表的事例の実施過程を紹介し,当時の耕地整理事業がどういう事情から成立し,どのような効果をうみだしたかをみることにしよう.
 この事業は,鴻巣町と常光村の387ha(うち,水田260ha,畑81ha)を対象とし,総工費3万7,000円をかけて行われた.
 事業実施のねらいは,その頃における同地区の農業がかかえていたつぎのような問題,すなわち,用排水改良による湿田の解消,水田の区画形状の整備,道路新設等を実施することにより,作物の栽培条件や耕作条件を整備し,地主的土地所有の生産力的基礎を強めようとしたところにあったのだが,その実施を可能にしたのは耕地整理法の成立だった.「明治26年有志相会し相謀り以て之れが実施を唱導すること歳余然れども農家因襲の久しき旧慣を脱せず容易に其目的を達すること能はずして荏苒日時を経過しつつありしが偶々耕地整理法の発布となりて機漸く熟して其議茲に纏り遂に整理を断行する」6)を得たわけである.
 こうして耕地整理を主導したのは,対象地区の有力地主たちであり,そのなかには鴻巣町や常光村の行政に発言力をもつ人たちもふくまれていた.この事業の実施範囲は,2町村6集落にわたっていたので,おおむね1集落の範囲で事業が行われた静岡式や石川式に比べ,対象地区内外の利害が複雑で,いくつかのトラブルがあったことが考えられ,そのためにも,町村行政に対する発言力をもった地主層の関与が必要だったのだろう.
 鴻巣式が各地のモデルとされ,見学者や問合せが殺到した理由の第1は,つぶれ地率が8%で,静岡式の14%,石川式の12%に比べ,畦畔・道路・水路などによるつぶれ地面積の耕地面積に対する割合,すなわちつぶれ地率が8%に止まっていることである7).つぶれ地率が小さいということは,当時の地主にとってはまことに都合のよいことであったから,鴻巣式は非常な勢いで各地に普及したといわれている.
 鴻巣式が歓迎された第2の理由は,迂曲し錯綜した用排水路を分離・整備して,強湿田を乾田化した点にある.もっとも,用排水路の整備は,静岡式や石川式の場合にも行われていたのだが,鴻巣式では,むしろそのことが事業実施の中心課題になっていたことが重要なのである.
 つぎに,この事業が伝統的稲作技術にあたえた影響を,表4-6でみよう.排水条件の改善によって,脱穀・もみすり・俵装を除く諸作業(とくに耕耘と刈取)が省力化されたと同時に,乾田化によって,耕耘過程での馬耕も可能となり,結局,10a当りで10.1人の労力が節減されている.そしてこの結果,農事改良意欲がわきあがり,共同苗代の設置,馬耕の導入,水田の二毛作化等の改良技術が,伝統的技術にかわって,普及し,定着するようになったのである.
表4-6 水稲作業別労働時間の変化(10a当り)
 改良技術の導入は,まず第1に,水稲収量の上昇となってあらわれている.整理前の10a当り収量水準240kgは,整理後の1906(明治39)年には300kgに上昇しただけではなく,乾田化による米質の向上もみられた.また,1906(明治39)年には計220haの水田に裏作物が栽培されるようになった.乾田化による栽培条件の改善や馬耕の導入によって節減された農繁期の労力を二毛作栽培に利用した結果である.
 以上の事例と同じような効果をねらった耕地整理事業は,全国各地で行われた.1900(明治33)年から1905(明治38)年までの耕地整理の実施状況を表4-7でみると,実施地区数で697ヵ所,その面積は約3万haに及んでおり,なかでも,それまで,土地改良がおくれていた東北・北陸・関東・東山・東海などの東日本地域で活発に進められたことがわかる.
表4-7 耕地整理事業の実施状況(1900-05年)
 これらの事業の実施内容は,鴻巣式がそうであったように,区画整理よりも,むしろ用排水改良を第1の課題としていた.排水を行って湿田を乾田にかえ,乾田が要求する用水をあらたに補給することによって農業生産の基盤をととのえることに主目的をおき,あわせて,農道の直線化や区画の整理も行うというところに,この頃の耕地整理事業のねらいがあったのである.したがって,湿田面積が多かった東日本の諸地域に,耕地整理事業が集中した理由は,乾田化によって改良技術をとりいれ,水稲収量の向上や二毛作の拡大を図ろうとした点にあったといってよいだろう.
 iii 耕地整理事業の効果と限界
 明治期に入ってから,農村の内部においてきざしはじめたさまざまの農事改良や農業技術の進歩の諸徴候がよりあわさって,相互に関連しつつ一つの新しい体系をなしはじめるのは,日清戦争を経て日露戦争にさしかかってゆくころである8).
 明治農法と呼ばれる新しい農業技術の体系は,多肥多収性品種の普及,大豆粕に代表される購入肥料の増投,これらにむすびついた塩水選・短冊苗代・正條植などの集約栽培法,畜力耕による深耕と田打車,八反取による中耕除草の集約化などを主な内容としたものであり,その展開を可能にしたのは,鴻巣式に代表される耕地整理事業だった.
 耕地整理事業は,明治農法が確立する前提条件となり,農作業労働を軽減しただけではなく,水稲収量の上昇や二毛作田の増加によって土地の生産力も上昇させた.また同時に,耕地整理事業が低収量地帯だった東日本や南九州の辺境諸県9)でも活発に実施されたことにより,水稲収量水準の地域格差は縮小した.1883(明治16)-1886(明治19)年にみられた80%の地域格差は,1906(明治39)-1910(明治43)年には70%に縮小しているからである(前掲図4-1).耕地整理事業によって,低収量地帯にも稲作改良技術が普及していったことの反映と考えてよいだろう.
 しかしながら,この地域格差の一層の縮小は,大河川下流部の広大な水田地帯を対象とした土地改良事業が,河川の治水工事と結びついて進展するときまで,待たなければならなかった.耕地整理事業は一定の限られた範囲における土地の豊度を向上させはしたが,広い範囲の地域にわたって外水を排除し,頻発する水害を防止する機能はもっていなかったからである.
(2) 国家主導型用排水改良事業の登場と稲作生産力の前進
 i 1920年代における土地改良事業の新しい特徴
 1920(大正9)年前後は,日本の土地改良政策が大きく転換し,事業実施におけるいくつかの新しい特徴があらわれてくる時期である.
 1919(大正8)年の開墾助成法の成立や1923(大正12)年の用排水幹線改良事業補助要項の創設などによって,土地改良事業における国家の役割が,次第に大きくなってきたからである.このうち,用排水幹線改良事業補助要項は,500ha以上の府県営事業に対し,50%の国庫補助を行うもので,それまでの土地改良事業の中心だった耕地整理事業に比べると,その実施規模は,はるかに大きいものであった.
 広い範囲の地域を対象とする規模の大きい用排水改良事業の成立を促した社会経済的要因は,本節のiiiで述べるような理由から停滞が目立ち始めた地主主導の土地改良事業を国家が肩がわりすることによって,食糧増産の基礎条件をつくりだし,米騒動を機に爆発した食糧問題の矛盾に対処するということにあった.一方,そのような国の政策にそった大規模な土地改良事業の実施を可能にした技術的要因は,大河川の治水工事の進展だった.
 日本で,大河川の洪水防御を目的とする治水工事が全面的な展開をみせるのは,1910(明治43)年の全国的な水害を機に設置された臨時治水調査会が,第一期治水計画をたててからのことである.この計画の実施によって,連続堤防体系が形成され,堤内水(内水)と堤外水(外水)の区別が可能となってくるのだが,同時にそのことは,河川水位の上昇がただちに水田の冠水,湛水となってあらわれていた大河川下流部の稲作生産条件を大きく変化させることにもなった.水田の用排水を人為的にコントロールする物的条件,すなわち,治水,利水を統一した土地改良事業を実施しうる可能性が,広い範囲にわたってあたえられたためである.
表4-8 用排水幹線改良事業の地域別実施状況
 用排水幹線改良事業の実施状況を表4-8でみると,地区数,面積ともに東日本に集中していることがわかる.大河川の多いこの地域での治水工事の進展が,用排水改良を可能にしたことを示している.
 大正から昭和初期にかけての土地改良事業のもう一つの特徴は,農業用の揚・排水機の利用が積極的に行われたことである.土地改良事業における農業用の揚・排水機の利用を跡づけてみると,1902(明治35)年には全国で63台を数えるにすぎなかった揚・排水機は,1906(明治39)年には124台へと倍増し,さらに1908(明治41)年末には163台に達した.ついで,1912(大正1)年になると,設置台数は422台,灌漑・排水総面積は48,134haで,4年前の1908(明治41)年に比べ,設置台数で2.6倍,受益面積で2.5倍という発展ぶりであった.
 このようにして始まった揚・排水機利用の拡大は,東日本では内水排除機能をたかめ,また西日本では用水利用を大きく合理化した.
 ii 治水事業と結合した土地改良事業の展開と改良稲作技術の普及
 日本一の長河信濃川の下流部に位置する新潟県蒲原平野は,現在,日本の代表的な稲作中核地帯の一つである.しかし,信濃川の治水工事と土地改良事業が進むまでのこの地域は,つねに洪水の危険にさらされ,極度の湛水に苦しむ低生産力地域であった.たとえば,蒲原平野のなかで最も苦しい「水との闘いの歴史」をもっている中蒲原郡の水稲収量(10a当り)は,1883(明治16)-1887(明治20)年が157.5kg,1888(明治21)-1892(明治25)年が225kg,1893(明治26)-1897(明治30)年が198kg,1898(明治31)-1902(明治35)年が198kgで,とくに湛水のひどいところでは「三年に一作」というありさまだった.このため,農民の経済力は脆弱で,ひとたび災害をこうむれば耕地を手離さざるをえず,小作農が増えていったというのが信濃川の治水が完了するまでのこの地帯の状況だった.日本でもぬきんでた1,000町歩規模の大寄生地主が,この地帯で数多く成立した裏には,水との闘いに明け暮れる農民の苦悩が隠されていたことに注意しなければならない.
 この地帯の土地改良の動きをふりかえってみると,つぎのような特徴を指摘することができる.
 まず第1は,明治期の土地改良事業の中心部分を占めていた耕地整理が,きわめて低調だったことである.信濃川と阿賀野川の治水による洪水防御と湛水排除が前提とならなければ,本格的な耕地整理は実施できなかったからである.
 第2の特徴は,米価が上昇する1907(明治40)年前後になると,生産の安定による小作料の増大を求める地主層の主導で揚・排水機の設置が開始されたことである.この気運は,1909(明治42)年に起工され,1925(大正14)年に完成する大河津分水工事(新信濃川の開削)によって,信濃川の治水確立に最終的な見通しがあたえられたことで一層盛り上がり,中蒲原郡の各地で活発に行われた.1905(明治38)年から,1913(大正2)年にかけて実施された白根郷の排水改良事業は,以上のような動きを代表するものであった.この結果,白根郷の稲作生産ははじめて安定し,10a当りの反収も実施前の平均200kgから267kgへと約3割の増収をもたらしたのである.
 第1次改良事業を完了した白根郷では,1925(大正14)年になると,新潟県で最初の県営用水事業が用排水幹線改良事業として実施される.大河津分水の開通による信濃川・中ノ口川の水位低下で用をなさなくなった既存の樋管を揚水機に更新するためである.つづいて,1929(昭和4)年には第2次の排水改良事業も実施され,郷内の用排水条件は,はじめて整備を完了する.さらに1931(昭和6)年になると,その成果をうけて末端の耕地・水利条件を整備するための耕地整理事業も成立する.国家による大規模な治水・土地改良事業の実施が,これらの段階的土地改良体系の形成を可能にしたわけである.
表4-9 新潟県中蒲原郡における稲作改良技術の普及諸指標
 以上でみた治水・土地改良の実施は,同時に稲作改良技術の導入を可能にした.このことは,昭和期に入ると,牛馬耕水田面積割合の拡大,化学肥料の増投とそれに対応する改良品種の普及,発動機・動力脱穀機等の増加がめざましくなってくることを示す表4-9から指摘できるのだが,なかでも特徴的な点は品種の交替である.劣悪な耕地条件や不順な天候に耐えうるということで,1921(大正10)年には最大の面積を占めていた愛国は,1927(昭和2)年になると急速に減少し,かわって刈羽新種が最大の面積を占めるようになる.さらに1933(昭和8)年になると,早熟,多収,良質で耐肥性をもつ農林1号が化学肥料の増投と結びついて急速に普及(31.4%)し,同じく改良品種である銀坊主中生とともに全作付面積の6割以上を占めるようになる.自然の脅威に支配された粗放な稲作技術にかわる集約的な稲作技術が,一連の土地改良事業の進展にともなって定着したことの反映である.
表4-10 新潟県中蒲原郡の水稲収量(10a当り)の推移
 当然のことであるが,こうした稲作改良技術の定着は,水稲収量の上昇をもたらすことになった.表4-10をみると,明治から大正期にかけての中蒲原郡の10a当り収量は県平均以下だった.だが,稲作改良技術の普及・拡大が進む1930年代に入ると,この郡の収量水準は高い伸び率をみせ,ついに県平均を上回る水準に達するようになっている.ついこの間まで稲作生産の最劣等地だったところに,一段と進んだ改良技術が急速に展開した結果であって,戦後の蒲原平野が全国でも有数の稲作中核地帯として登場してくる基礎は,この時期に準備されていたといってよいだろう.治水や土地改良の充実による稲作改良技術の誘発効果と,それにもとづく稲作生産力の安定効果の大きさを示すものといわなければならない.
 新潟県信濃川下流部を対象としてみたような土地改良事業は,東日本の他の水田地帯でもみられ,収量水準の高い稲作地帯の形成を各地で促す条件がうみだされた.治水事業と土地改良によって,「自然の脅威に一喜一憂」しなければならなかった農民の苦悩は,おおむね解消してきたといってよいだろう.
 稲作改良技術が土地改良事業の展開に支えられてひろく定着していく事例は西日本でもみることができる.佐賀県のクリーク灌漑地帯の場合がそうである.踏車による揚水労働の多投によって,水稲の栽培管理の集約化が著しく制約されていたこの地帯では,1911(明治44)-1912(大正1)年にかけて実施された機械灌漑網の完成が導火線となって稲作改良技術が一挙に浸透し,1935(昭和10)年前後には日本一の高い水稲収量水準がうみだされてくるのだが,そのメカニズムについては,第5章に詳しい研究があるので詳細は割愛することにしたい.
 iii 土地改良事業の新しい推進階層
 明治期の稲作生産力の担い手は耕作地主層であり,土地改良事業も彼らをふくめた地主層によって推進された.しかしながら,大正から昭和初期にかけては,それまでとは異なる稲作生産力の担い手があらわれ,この新しい担い手が土地改良事業の直接的な推進階層として登場するようになった.
 明治期の地主層が私的な土地改良投資に積極的だった理由は二つある.第1は,稲作の安定によって小作料の増加が期待できることであり,第2は,明治以降大正中期まで,ほぼひきつづいて土地価格が上昇したので,米価の上昇とあいまって,土地は投資の対象として十分な資格をそなえていたことである.稲作生産の安定だけでなく,土地価格の上昇も誘発した土地改良投資は,地主たちにとっては,魅力ある投資の対象だったにちがいない.
 だが,大正中期以降になると,ちがった事情が発生してきた.日本農民組合などが指導した小作争議や農民運動がはげしくなり,地主が土地改良投資をしても,小作料のひきあげがむずかしくなったうえに米価も下落傾向に入ったこと,加えて土地価格も下落し始めたので,土地に対する投資利回りの有利性は失われるようになったからである.このため,寄生的な性格をもった大地主たちは,小作料収入をふたたび農業へ投資するよりは,商工業や株式・公債などへ投資するようになり,とくに商工業のさかんな近畿や瀬戸内などでは,地主層の経済的関心が土地所有そのものから離れる傾向すらあらわれた.
 しかし,農業生産から離れることのできない在村の耕作地主や耕作農民たちの土地改良事業に対する関心は強いものがあった.とくに大正から昭和初期にかけての新しい特徴として注目しなければならないことは,自小作農民を中心とした中農層の台頭がみられ,生産力の進歩をもっともいきいきと代表する階層として登場してきたことである.
 新しい生産力の担い手をつくりだした基礎は,土地改良事業の充実による稲作生産力の発展であり,この生産力の発展がうみだした水稲の増収部分を耕作者の手もとにのこす成果をあげた農民運動の発展であった.このことは,彼らが水稲以外の商品作物をとりこむことにも熱心だったこととあいまって,一定の資本蓄積を可能にし,耕作農民の立場からの土地改良事業に強い関心を示すようになったのである.
 この新しい動きがもっとも典型的にあらわれたのは,佐賀平坦部であった.まえにふれた機械灌漑の実施にあたっては,自小作農民層も積極的に参加しており,その結果うみだされた生産力のさらなる発展を積極的に推進し,家族労働力中心の経営を充実させていった担い手たちも彼らだったのである.このように生産力の発展を代表する新しい階層がひろく登場してきたがゆえに,全国一の高い水稲収量水準を実現して,いわゆる「佐賀段階」を形成した1935(昭和10)年前後のこの平野は,日本農業の発展モデルとして,ひろく注目をあつめたのである10).
 稲作生産力の直接的な担い手たちが土地改良事業の推進階層として,あらたに登場してくるという変化は,地主主導型の土地改良事業が支配的だった東日本でもみられた.たとえば,新潟県中蒲原郡白根郷の場合などがそうである.
 まえに述べておいたように,ここでは明治末期に全郷にわたる排水改良事業が行われるが,その推進者は三菱・市嶋・白勢・伊藤・田巻等の1000町歩地主だった.この事業の実施にあたっては,総工費52万8000余円,10a当り71円という工事費が地主負担になったにもかかわらず,彼らは排水改良にもとづく水稲反収の上昇(平均29%)によって小作料を増収することができ,工事費負担を上回る利益を手に入れることができたのである.
 しかしながら,1921(大正10)年に郷内の臼井村で始まった小作争議を機に,全郷に小作料引下げを要求する農民運動がひろがるようになると,様子は変わってくる.小作料が減少した大地主たちは,さらに土地改良による水稲収量の増大を求め,1925(大正14)年から県営土地改良事業を実施するのだが,その事業費52万3000円の62%は国・県の補助金に頼っている.自らが発意し,全額を自己負担で実施した明治末期の排水改良事業に比べ,地主層の役割は後退の兆しをみせ始めてきたのである.
 土地改良事業における大地主層の役割の後退は,彼らが反対していた耕地整理事業の断行を白根郷の町村長会が決議する1927(昭和2)年頃になると,一層はっきりしてくる.そのなかで,在村の耕作地主層や農民たちは,土地改良投資に熱意を失いかけていた大地主たちとの意見の対立をのりこえ,1931(昭和6)年には,事業実施にこぎつけるのである.
 土地改良事業の新しい推進階層の登場と関連して,国の土地改良政策も力点を移動させた.国家は,地主主導型の土地改良事業の限界が明白になったもとで,食糧増産のためにも,また発展する農民運動に対処するためにも,耕作農民――家族労働力を中心とした小農経営の保護維持政策の一環として,土地改良事業に力を入れなければならなかった.このことは,土地改良事業に対し,資金的,技術的な援助を強めることによって,耕作農民たちの経営が安定する条件をつくりだすという意味だけでなく,用排水不良による不作で誘発される小作争議の原因をとりのぞくうえでも重要だった.その結果,土地改良事業の実施体制における国家の役割は次第に大きくなり,その過程で,行政庁による土地改良事業の直接的な関与も進んだ.前記の用排水幹線改良事業補助要項の創設は,そのことを象徴する出来事だった.戦後土地改良事業の枠組みは,こうした経過のなかで準備されてきたといってよいだろう.
 (3) 戦後段階における稲作生産力の形成と土地改良事業
 i 1400万トン水準の実現と土地改良事業の役割
 戦後の水稲生産量を1200万トン(1955(昭和30)年),1400万トン(1967(昭和42)年)と押し上げていった力は,10a当り水稲収量の増加だった.たとえば,1961(昭和36)年から1967(昭和42)年の間に,作付面積は1.2%増加したにすぎないが,10a当り収量の増加は16%であって,1200万トンから1400万トンへの総生産量増加に対する10a当り収量の寄与率は,93%に達するといわれているのである.
 このような収量水準の向上を規定した技術的条件は,保温折衷苗代や被覆畑苗代に代表される保護苗代,耐肥性短稈穂数型品種,後期追肥重点の施肥技術,農薬による防除技術等々の戦後に開発された新技術が普及したことである.
 戦後段階の稲作技術は,農地改革で生産意欲をもりあげた自作小農が担うにふさわしい集約的なものであった点で,小農技術とも呼ばれているが,それが生産の現場で普及し,定着していくためには,土地,水利条件の一層の整備が必要だった.田植を早期化するときに不可欠な耕耘・代かき作業の適期処理のためにも,また,多肥・密植と結びついた深耕を行うためにも,畜力耕にかわる機械耕耘がどうしても必要になるのだが,この問題を解決するには,機械耕耘の導入に適した土地条件の整備(乾田化,農道,区画の整理)が前提となってくるからである.また,稔実歩合を高めるうえでの栽培技術のポイントの一つは,中干し,間断灌漑によって根に酸素を供給し,稲の生育後期の同化能力を落さないようにしなければならないのだが,そのためには水田の1枚1枚の用排水を自由にコントロールできるような水利条件の整備も必要とされたのである.
 したがって,戦後,とくに1960年代以降の土地改良事業では,戦前にみられたような単なる用排水改良(地表水の排除,用水補給)だけでなく,新しい稲作技術体系を適用するにふさわしい土地条件,水利条件の整備が要求され,追求されるようになった.
ii 戦後土地改良事業の地域配分と高位稲作生産力地帯の形成
 戦後土地改良事業の地域配分をみると,戦前と同じように,東海以東の東日本に集中している.たとえば,1970年代初期までに都府県で実施された国営灌漑排水事業の受益面積のうち,約65%はこれらの地域が占めているのである.加えて,1951(昭和26)年制定の積雪寒冷単作地帯振興臨時措置法(積寒法)による末端の土地条件の整備が東北・北陸等で活発に行われたことにより,東日本への土地改良の集中は,一層進んだ.この結果,戦前では,西日本のほうが高かった水稲収量水準は,戦後になると東日本のほうが優位にたつようになった.東日本は,戦前の日本を代表する巨大な土地所有者が多かったところだが,農地改革によって地主制の圧迫から解放されたこの地域の農民たちは,土地改良事業によって大きく改善された土地・水利条件のうえに,戦後稲作技術を積極的にとりこみ,水稲収量水準を飛躍的に向上させたのである.
表4-11 水稲収量水準の最上位・最下位5県の構成と収量格差
 そういった動きを,表4-11でもう少し詳しくみておこう.この表によると,1933(昭和8)-1937(昭和12)年時点では,水稲収量水準最上位5県のうち,4県までを佐賀,奈良,大阪,香川等の西日本諸県が占めていた.ところが,戦後になると佐賀を除いた他の県は,すべてベスト・ファイブの座からすべりおち,東日本の諸県といれかわっていることがわかる.土地生産力の高い稲作地帯は,西日本から東日本のほうに移っていったのである.そのこととあわせて
注目しておきたいことは,最下位5県と最上位5県との収量格差の動きである.
 Ⅰで述べておいたように,明治期までの水稲の収量水準は,西日本高位,東日本低位というかたちになっており,その地域格差も大きかった.ところが,昭和戦前期から戦後の1950年代前半になると,全国的に収量水準が底上げされてきたと同時に,それまであらわれていた地域格差も縮小し,平準化傾向を示すようになってくる.表4-11をモデル化した図4-2が,そのことを示している.だが,この平準化傾向も,1960-1970年代後半以降になると消えてしまい,収量水準の全国的なレベル・アップをともないながら,東日本高位,西日本低位というかたちでの地域格差が,ふたたびあらわれてくる.東日本に集中した土地改良投資によって,この地域に土地生産力の高い稲作地帯が形成された結果といえよう.
図 4-2 地域別の水稲収量格差の変化
 戦後の最上位5県グループのうち,最も注目すべき動きをみせているのは青森県である.1933(昭和8)-1937(昭和12)年には,最下位5県のグループに属していたにもかかわらず,戦後になると次第に上位に進出し,1971(昭和46)-1975(昭和50)年には,ついに全国第1位におどりでているからである.戦後における東日本諸県の躍進ぶりを,もっとも端的に示している県といってよいだろう.
 北海道とならんで,冷害凶作に悩まされていたこの県の稲作が,本格的に安定してくるのは戦後のことである.早熟耐冷多収品種(藤坂5号,トワダ,フジミノリ,レイメイなど),保護苗代による健苗の育成と,早植等の寒冷地稲作技術が普及し,定着するようになったためである.この結果,1955(昭和30)年には,全国第4位の反収(435kg)を実現し,以後,1966(昭和41)年を除けば,各年ともベスト・ファイブにランクされ,今日に至っている.
図 4-3 青森県の地帯別水稲10a当り収量の推移
 図4-3は,そういった青森県の収量上昇の動きを地帯別に示したものである.この図によると,1950-1954年から1955-1959年にかけての10a当り収量の上昇は,各地帯とも大幅であった.低いレベルにあったこの県の稲作栽培が,戦後の寒冷地稲作技術の普及によって改善された効果といえよう.だが,1960年代前半から1964(昭和39)年後半にかけての収量の上昇は,上北,下北などの低位収量地帯だけにみられ,高位収量地帯である津軽地方は,むしろ停滞現象をみせている.
 この時期における低位収量地帯の収量上昇は,1960年代前半の畑の開田で,水田の生産条件が整備されたうえ,この地方に最も適したフジミノリの普及が進んだことによるところが大きいといわれている.一方,津軽地方の停滞要因としては,近世以来の錯綜した水利組織と水利慣行の制約をうけて,土地改良が著しく遅れていたため,進歩した稲作技術の受容も,ようやく限界にきたことをあげることができる.
 津軽地方における土地改良の後進性は,用排未分離,排水不良,末端耕地条件の未整備といった点にあらわれていた.近世以来の貧弱な水利施設と,その利用をめぐってつくりだされた複雑な水利組織や水利慣行などがたがいにからみあい,大規模な土地改良事業を実施しようとしても,動きがとれないというのが,1955(昭和30)年頃までの津軽地方の姿だったといえよう.
 この動きのとれない状況からぬけだす導火線となったのは,1958(昭和33)年の岩木川水害の災害復旧事業で行われた取水堰の統廃合だった.加えて,1960(昭和35)年の目屋ダム(多目的ダム)の完成により,用水確保が容易になったことも,利害が複雑にからみあった岩木川上流の11の井堰の統合―合同頭首工の成立―を容易にする条件となった.この合同頭首工の完成によって,用水をめぐる地域的対立の歴史的所産だった「杭止」,「石止」,「蛇籠留」等の幼稚な水利施設は全廃された.同時に,11の井堰をめぐる複雑な水利慣行も一挙に解消することになる.
 この事業とともに注目されるのは,1960年代後半になって国営の「西津軽灌漑排水事業」や「十三湖干拓事業」が完工し,岩木川中・下流部の排水改良が広い範囲ですすんだことである.津軽地方は,その全域にわたる総合的な計画のもとで,土地改良の後進性をとりもどす各種の事業が実施されるようになったのである.これらの基幹的な土地改良事業の進行にともなって,末端の土地改良が連鎖的に展開する条件もつくりだされ,支線用排水路,区画整理,農道の整備等が開始された.こうして用排水が自由にコントロールでき,機械化にも適した耕地・水利条件がつくりだされてくるのである.
 一方,この頃になると,津軽地方の土壌条件に適した多収性の新品種や深層追肥(青森県農試が開発した技術で,水稲の後期成育の段階に重点をおいた施肥法)など,新しく開発された増収技術の普及が進むようになる.これらの新技術の効果は,良好な排水条件のもとでよくあらわれることからいうと,その普及を支えた前提条件は,以上で述べたような土地改良事業の展開であったということができる.
 これらの成果をうけて,1960-1964年にかけては停滞現象をみせていた津軽地方の水稲収量は,1970年代に入るとふたたび上昇に転じ,なかでも,1970-1972年代に至って南津軽は650kg水準に到達するようになる(前掲図4-3参照).進歩した稲作技術の普及を制約していた土地改良の後進性が解消されたことの反映といってもよいだろう.ともあれ近年,全国のトップを占めているこの県の水稲収量水準の高さには,1960年頃から以降に津軽地方で本格化してくる土地改良の事業成果が,大きく寄与している点に注目しておきたい.
 iii 水稲集団栽培の成立と集落機能
 戦後の水稲収量水準の向上には,土地改良事業だけでなく,水稲集団栽培も大きな役割を果たしたことも指摘しておかなければならない.
 水稲集団栽培は,1950年代に愛知県農業試験場の西尾敏男があみだしたもので11),最初は愛知県三河地方に始まり,漸次全国に広がった.なかでも,佐賀県のクリーク灌漑地帯を中心として行われた水稲集団栽培は,高水準は維持していたにもかかわらず,戦後は停滞的だったこの県の収量水準を500kg(10a当り)レベルにまで押しあげ,戦前の「佐賀段階」に比肩する「新佐賀段階」をつくりだしたことで有名である12).
 水稲集団栽培の特徴は,集落を単位として行われ,集落の農家が水稲の栽培管理方法をお互いに協定して分散錯圃という耕地条件のもとで戦後の新しい稲作技術を定着させた点にあるが,その進め方は,地域的条件によって異なっていた.全国的にみてさまざまなタイプの集団栽培のうち,一番最初に始まった愛知県三河地方での進め方を紹介すると,つぎのようである.
 ここでは,まず集落の人々が耕作する圃場を水系別に区分して,栽培団地をつくる.ついで農民たちがお互いに協定して,団地内の1枚1枚の圃場の水稲を同一品種に統一し,水管理・病虫害防除・施肥などの合理化をはかるという方法で進められた.団地内の水稲が同一品種であれば,稲生育の歩調が斉一化されるから,育苗,田植,水管理,病虫害防除等の共同作業がやり易くなるわけである.また,施肥は個人作業で行われるが,使う肥料の種類も統一されたので,農家は定められた時期に決められた肥料を施用すればよかった.
 戦後の水稲収量水準の安定,向上とそれを基礎にした戦後段階の農業生産力の形成は,こうした農家の集団的努力によって実現されたところも大きいのだが,そういった集団的努力の発揮を支えたのは,集落がもっていた伝統的な生産補完機能だった.
 日本の場合,水利施設の維持管理は,幹線施設は土地改良区が,末端施設は集落がそれぞれ維持管理主体となって,これらの施設の働きを維持するための集団的努力をはらってきた.分散錯圃という耕地条件のもとでは,こうした集団的努力によって,はじめて1枚1枚の水田が水田としての機能をもち,農業生産の継続が可能となってきたのだが,なかでも日本的な特徴として指摘しなければならないことは,集落がもつ末端水利施設の維持管理機能であろう.近世以来,日本の集落がもっていたこの伝統的機能,すなわち,集落を構成する農家の無償労働によって行われてきた末端水利施設の維持管理機能は,土地改良がつくりだしたゆたかな豊度を保全し,水稲生産力の維持,発展をはかるうえで大きな効果を発揮してきたのである.日本の集落は,そういった末端水利施設を維持管理することによって,集落を構成する農家の農業生産を補完する機能を伝統的にもっていたのである.
 水稲の集団栽培は,以上のような集落の生産補完機能に支えられて組織されたものであった.個々の農家の範囲内だけでの導入では,水稲の増収,安定には結びつきにくかった稲作改良技術を,集落単位で集団的に導入し,1枚1枚の水田ごとにバラバラだった水稲の栽培方法を水系ごとに統一することによって増収を実現し,農家個々の生産力を相互につよめようとしたところに,集団栽培の特徴と意義があったといえよう.
 しかしながら,1970年代に入ると,米の減反政策の影響や後に述べる集落の生産補完機能の崩れによって,集団栽培は全国的に衰退傾向をたどることになる.

[注]
 1) 八木宏典「野口家日記,解題」,『日本農書全集』11巻,農山漁村文化協会,1979年,292ページ.
 2) 『日本農業発達史』第1巻,中央公論社,1953年,240ページ.
 3) 嵐嘉一『近世稲作技術史』,農山漁村文化協会,1975年,25ページ.
 4) 前掲『日本農業発達史』,463ページ.
 5) 上野英三郎『耕地整理講義』,成美堂,1905年,279ページ.
 6) 農商務省農務局『耕地整理事例』第1輯,1907年,7-8ページ.
 7) 吉良・長崎・三品『農業土木』,農山漁村文化協会,1967年,148ページ.
 8) 前掲『日本農業発達史』,109ページ.
 9) 詳しくは,今村・佐藤・志村・玉城・永田・旗手『土地改良百年史』,平凡社,1977年,81-84ページ.
 10) 田中定「佐賀農業論」,『昭和前期農政経済名著集』6巻,農山漁村文化協会,1978年,225-79ページ.
 11) 西尾敏男『農業生産組織を考える』,家の光協会,1975年,43-107ページ.
 12) 宮島昭二郎『米づくり―その苦難の歩み』,亜紀書房,1969年,94-149ページ.

 Ⅲ 農業生産力の新しい発展方向と水・土地利用の今後の課題

 (1) 圃場整備・稲作機械化段階における農業生産力の発展方向
 i 基本法農政下における土地改良事業の軌道修正と圃場整備事業・稲作機械化技術の登場
 戦後における活発な土地改良投資は,農地改革後の自作農経営を充実し,合理化する条件をつくりだした.改良された水田と,そのうえで展開した小農技術の相乗効果としての収量水準の上昇は,自作農の農業所得の増加と資本の蓄積を可能にした.そして土地改良によって節約された労働力と,蓄積された資本を利用して,新作目が導入されたときには,それにみあった農業所得のさらなる増加も可能になった.だが,この可能性を現実のものにしていく条件を,すべての経営がもっていたわけではなかった.たとえば,新作目の導入に必要な投資を積極的に行いえたのは,そうじて規模の大きい上層経営であり,したがって土地改良から誘発される経済的成果を十分に享受しえたのも,そういった経営だった.資本力に乏しい下層の農家では,土地改良がよびおこす新たな追加投資によって,むしろ経営が圧迫されることも,しばしばであったのである.米以外の農産物の価格条件が保証されず,不安定であったことは,その状況に拍車をかけたといってよいだろう.これらの点は,土地改良の進展によって,戦後自作農の分解をうながす兆しが,経営の内部で準備されたという意味で,注意しておくべきだろう.
 また,収量水準の向上による米の自給力の強化は,食糧輸入のための外貨を節約したという点で,さらには,米価上昇の抑制によって労賃水準も押さえ得たという点で,戦後日本資本主義の資本蓄積に寄与し,高度経済成長路線の推進を容易にしたことも,見落としてはならないことである.
 ところで,1955(昭和30)年ごろから,重化学工業を中心とした日本経済の高度成長が進むにつれて,食糧増産を基調としてきた農政は,自立経営の育成,構造改善による生産性の向上,選択的拡大の方向をとることになった.1961(昭和36)年の農業基本法の制定は,この方向を明確に設定した.
 このような農政の方向転換に伴って,土地改良事業も,いままでの米増産を中心とした用排水改良よりも,大型機械導入のための大型圃場(一筆の面積は30a基準)の造成や農道の整備などが重視されるようになった.1963(昭和38)年に圃場整備事業が新たに制度化されてくるのは,そのためである.
表4-12 圃場整備事業費と基幹用排水改良事業費の推移
 表4-12は,そのような動きをみるために,基幹用排水改良と圃場整備の事業費の推移を対比させたものである.前者に比べたときの後者の前進は,年ごとに顕著になり,ついに1968(昭和43)年以降になると,両者の事業費は逆転していることがわかる.戦前,戦後を通じて土地改良事業の中心部分をなしていた用排水改良は,圃場整備にその位置をゆずるようになったわけで,基本法制定以後における土地改良事業推進の軌道修正の方向を知ることができる.
 圃場整備事業は,機械化段階にふさわしい土地・水利用の条件をつくりだし,トラクター,コンバイン等の高性能機械の利用を効率化することで労働生産性を大きくひきあげ,生産力の構造を変革することに,基本的な狙いをおいていた.したがって,この事業は,水稲収量水準の上昇により土地生産性の向上をはかることに主眼をおいた用排水改良事業とは,きわめて性格の異なる土地改良投資であるといわなければならない.
 しかしながら,土を動かし,いままでの水田区画,末端の用排水体系を一変させる圃場整備の施行は,長い歴史のなかで農民がみがきあげ,つくりあげてきた土地条件,水利条件を一変させるものであった.このため,工事を進めるうえでいろいろな技術的トラブルが生じた.にもかかわらず,圃場整備事業は一定の地域差をふくみながらも,全国各地で活発に進められた.
 各地の実例から判断すると,圃場整備の進展をうながした直接的な契機は,稲作機械化技術の普及・拡大である.
 稲作における機械化技術は,1960年代後半から耕耘機利用にかわって活発になってきたトラクター利用に,田植機,自脱型コンバインの利用が結びついたときに完成した.1970(昭和45)年前後のことである.当然のことではあるが,実用技術として完成し,社会的に普及を開始したこの技術を生産のなかに生かすためには,それを駆使するにふさわしい圃場区画や農道の配置,あるいは水利用条件を必要とした.圃場整備事業によって,これらの条件を整えなければならなくなったわけで,それゆえに,事業に対する農民の積極性は,稲作機械化技術の完成によって,一段と強まったと考えてよい.
 農民が稲作機械化技術に強い関心をよせた理由は,この技術を生産のなかにもちこむことによって,集約的な小農技術に基礎をおいてきた生産力の構造を変革し,いやおうなしに進行する農業内外の構造変動に対応する条件をつくりだそうとしたことにあるのだが,これには二つの問題が含まれていた.
 まず第1は,稲作の生産性をひきあげ,米過剰下の産地間競争に勝ち抜くための生産力的基礎を形成しなければならなかったことであり,第2は,経済の高度経済成長がひきおこした農業労働力のはげしい流出や兼業化の進行によって,稲作生産を大きく省力化しなければならなかったことである.つまり,圃場整備で新たな土地・水利用の条件をつくりだし,稲作機械化技術を駆使することによって,これらの問題を解決しようとしたのである.
 ii 機械化段階における農業生産力の発展方向と担い手像
 圃場整備を契機とした稲作機械化技術の展開とそれに基礎をおく生産力の形成は,いままでとは異なった農業の構造をつくりだす動因になった.一方においては,新しい生産力を担うにふさわしい経営主体形成の胎動がみられると同時に,他方においては農業労働力の一層の排出,農民の賃労働者化をうながすなど,戦後日本の自作農体制の構造を揺り動かす変動がはじまったのである.
 このような構造変動のなかで登場してきた新しい経営主体には,二つのタイプがある.一つは,用排水改良が生みだした小農技術の成果を享受することによって,一定の資本蓄積を行ってきた自作上層農が,家族労働力中心の自己完結的な規模拡大を進め,借地型上層農に発展したタイプである.耕耘機利用の小農技術段階では,3ha程度の自作地耕作がせいぜいだった経営規模を,借地をふくめて10ha台におしあげた点で,稲作生産力に一段階を画した経営の登場といえよう.もう一つは,自作地規模の経営だけでは生計を営むことのできない分解基軸周辺の中・下層の農民たちが,地域営農集団を組織し,稲作機械化技術を駆使して20-30ha規模の水田耕作を行っているタイプである.
 ところで,以上のような新しい経営主体のうち,借地型上層農は生産力発展のうえからみて,つぎのような問題をもっていることに注意しておく必要がある.それは,圃場整備,稲作機械化技術に支えられているがゆえに,労働生産性は確かに向上したが,土地生産性(収量)の安定,向上には限界があるということである.前に述べたように,水稲収量を安定,向上させるポイントは,水稲の生育ステージにあわせて集約的な栽培管理を行うことにあった.そのためには,毎日「稲の顔」を見ながら生育をコントロールする技術的な努力が必要になるわけで,戦後の小農技術の特徴は,この技術的な努力を科学的認識にもとづいて体系化した点にあった.これに比べ,借地型上層農は,小農技術の担い手だった自作小農に比べ,はるかに経営規模が大きいがゆえに,そういった集約的な栽培管理を行う労力的な余裕は,総じてもちあわせていない.加えて借地型上層農は,経営規模の拡大が進めば進むほど,耕地の分散がひどくなり,分散錯圃の矛盾から脱却できないだけでなく,土地利用を水稲に単作化せざるをえない等の問題をかかえていることも忘れてはならないだろう.借地型上層農が担っている稲作機械化技術は,いまのところ,戦後の小農技術のすぐれた蓄積を十分に生かしきっておらず,このことが土地生産性の安定,向上の限界になっているといってよいだろう.
 そういった視点から考えたとき,前記の地域営農集団は二つの意味で注目しておくべきである,と私は考える.
 第1は,構造変動の影響をうけて経営基盤がゆりうごかされている中・下層の自作農たちが,個別経営の範囲内だけでは実現しえなかった高いレベルの生産力を形成し,農業で自立できる条件を集団的につくりだしていることである.
 第2は,地域営農集団は,一定の地域内に土地を所有する大多数の人々の合意によって自主的に編成された組織であるので,その地域の土地利用と水利用を面として調整し,管理する機能をもっていることである.それゆえにこの集団は,分散錯圃のもとでの分散的・個別的な土地・水利用にかわるより合理的な土地利用体系を集団的に創出しうる機能1)をもっていることである.
 (2) 水田利用の高度化と今後の農業水利システム像
 i 集落的用水管理機能の後退と集権的大規模水利システムの問題点
 わが国の水田農業の場合,個々の農業経営を水利用主体としてとらえることができる.しかしながら,Ⅱでも指摘したように,分散錯圃制のもとでの最終的な水利用単位は1枚1枚の圃場であるため,個々の農業経営の水利用主体としての独立性は弱く,集落による自治的,集団的用水管理に依存することによって,はじめて水利用が可能となる.いいかえると,水という資源を小農と呼ばれる個々の農業経営が自らの生産要素として内部化し,自らの水・土地利用を営むためには,集落という伝統的社会組織の媒介が必要だったのである.ところが,そういった伝統的な水利用の形態を支えてきた集落の水利施設・用水の維持管理機能は,高度経済成長期以降の構造変動でいちじるしく後退している.伝統的な農村地域社会の構造が崩れたことによって,伝統的な水利施設・用水の維持管理機能を支えてきた社会的・地域的条件がこわされてきたからである.
 伝統的な農村地域社会の構造の崩れは,具体的には次のような形で現われている.
 第1. 兼業化で集落がカラになり,地域住民相互の連絡関係が切断されてきたこと.
 第2. 稲作生産力の階層間格差が稲作の機械化を引き金として顕著に現われ,経営の等質性が崩れてきただけでなく,専作化の進行も加わって,生産者相互の連結関係も切断されてきたこと.
 第3. これらのことから,集落と農民との一体感が失われ,小農経営の個別的な活動を補完してきた自治的・集団的な用水利用,管理の調整機能も後退してきていること.
 農業用水の自治的集団管理に対する農民の等質性が失われ,集落と小農との一体性が崩れたこと,したがって,農業経営の生産力発展を水利用の面から保障してきた伝統的な用水管理システムが機能障害を起こしてきていることについての事実認識が重要であるといわなければならない.
 そういった事態に対応して,最近は施設機能を高度化し,水管理・施設の維持管理を自動化する傾向が現われている.これは,コンピューターによって用水の情報を管理し,ダム調整,取水,送水,分水などを一元的に集中制御しようとするものである.ソフト・ウェアによる社会的な管理システムの形成ではなく,少数のテクノクラートが管理するハード・ウェア中心のシステム形成で,伝統的な用水管理システムの機能障害に対応しようとする動きといえよう.
 だが,このような集権的で大規模な水利システムが,水利用主体としての農民の経営活動と農業生産力の発展を保障するにふさわしいものであるかどうかについては,いくつかの問題がある.
 第1に,農民たちが水利用をめぐる利害の連帯を実感しうる範囲は,それほど広いものではないだろうし,また農民が経営活動のうえで必要とする用水管理にかかわる諸情報の収集は,大規模になるほど困難になるはずである.その意味からすれば,広域にわたる大規模集中システムのもとで,農民たちが農業用水に対する共通の利害関心をもち,それを基礎にして,水利システムの自治的管理を確立していくことは考えにくいといえよう.
 第2に,水の供給と需要の両方の情報を集中制御方式のコンピューターにインプットし,その解答に基づいて用水管理を行うシステムでは,しばしば,点としての水源管理,線としての導水路管理だけに基づいて水を供給するという考え方が強く追求される.たしかに,用水供給の情報をコンピューターにインプットすることは可能である.だが,複雑多様な用水需要の情報をすべて把握することはきわめてむずかしいといえよう.
 いうまでもないことだが,水需要は一定の空間的な広がりをもった面としての水田から発生する.したがって,点としての水源管理,線としての導水路管理などにはみられない複雑さをもっている.もっとも,農村地域社会が等質であったときには,栽培技術や水利用者の経営的性格も等質であったがゆえに,水需要の構造は予測しやすかったし,また,長年の経験の蓄積でそれを洞察できる古老も,“ムラ”社会に存在していた.が,高度経済成長下における構造変動によって,農村地域社会が非等質的になった今日の段階では,面としての水田から発生する水需要構造の正確な把握は,きわめてむずかしくなっている.水利用主体であった自作農の分解や稲作機械化技術の展開にともなって,用水を必要とする時期や量が変化し,等質的な自作農構造のもとでの用水需要とは異なった複雑多様な用水需要が発生しているからである.
 ii 水田利用の高度化からみた新しい農業水利システム編成の視点
 複雑多様な需要が発生している農業用水の管理を合理的に行うためには,一定地域の水田の土地利用形態を,できるだけ統一化することが必要である.異なる性格をもつ零細な経営が,零細な耕地片を分散所有し耕作する構造のもとで,分散的な土地利用が行われたときには,どの時期に,どの水田の,どの作物が,どの程度の水を必要とするかという水需要の発生要因は複雑多様化し,もともとむずかしい農業用水の圃場への配分をいっそうむずかしくさせるからである.この点から考えると,前に述べた地域営農集団が備える水・土地利用の面的な掌握機能の重要性が改めて確認できよう.
 が同時に,複雑な農業用水の需要変動に対応するためには,合目的的な用水管理の成立を支えるにふさわしい水利施設の配置が必要となることも見落としてはならないだろう.
 既に述べたように,用水需要が発生するのは,送水機能をもった基幹施設部分ではなく,圃場と結びついた末端施設部分である.しかも経営活動に直接に必要な施設は,この末端施設なのであって,基幹施設は,圃場レベルでの用水需要に対応した末端施設の機能が十分に発揮できるように送水してくれる機能をもっておればよい.このことは,基幹施設と末端施設はそれぞれ異なった機能-前者における送水機能と後者における配水機能-をもっており,両者の機能は決して同質ではないという点とかかわりをもっている.それゆえに,農業水利施設の機能は,水源→幹線→支線→圃場という形態的連続性だけに目を向けてとらえるべきではなく,むしろ,それぞれのレベルの水利施設がもつ形態的連続性と機能的異質性を区別したとらえ方が必要である.
 集落による伝統的な用水管理システムにかわる新しい農業水利システムを編成する必要がある.そのためには,まず,第1に一定地域の水・土地利用を面として掌握するにふさわしいソフト・システムのあり方を検討する必要がある.第2に,基幹施設と末端施設を同質的な連続体系としてとらえるのではなく,技術進歩や構造変動が生み出す多様な用水需要,しかも変動する水需要にフレキシブルに対応しうる機能をもったハード・システムのあり方を検討する必要があるだろう.
 これらのうち,第2の点をもう少し展開してみると,ファームポンド等の中間貯留施設がもつ機能は,農業用水の需要変動下における用水管理問題を考えるうえで重要な意味をもっている.「中間貯留施設は,さまざまな水管理上のメリットをもたらすことが期待されるが,そのうちで最も一般的なものは,需要パターンの変換である.ファームポンドは1日のうちの間欠的な需要パターンを,24時間の連続流に変換するからである.これに対して,調整池は数日ごとに変化する取り入れ流量と,毎日変動する取り出し流量とを調整する.これによって,圃場における複雑な需要パターンも,河川あるいは水源貯水池からの取水操作と整合し,途中の流送・配分の給水操作が容易になるばかりではなく,無効放流を少なくすることができる.」2)
 以上のことは,実は1980年代の日本農業が当面している水田土地利用の再編,高度化を考えるうえでも重要な意味をもつ.
 周知のように,現在,水稲と畑作物,飼料用穀物や牧草などを含む土地利用に畜産が結びついたより高度な段階の水田生産力の農民的創出が社会的に要請されており,それゆえにまた,その方向を現実化するにふさわしい用水管理を創り出していくことも要請されている.そういう方向での水田土地利用の再編,高度化が進んだときの用水需要は,当然のことではあるが,水稲単作に比べて多様性と変動性をもつようになる.したがって,このような用水需要に対応するためには,フレキシブルな機能をもったソフト・システムとハード・システムの形成とが必要だといえよう.したがって,水田土地利用の再編・高度化とそれに支えられた農業生産力の発展をはかるには,一定の地域の中で面として広がる水田から発生する多様で変動する用水需要に応えうる圃場レベルでの新しい水利システムの形成と,その機能に斉合した点としての水源,線としての幹線レベルでの水利システムの形成が要請されることになる.このことからも,水利施設がもつ形態的連続性と機能的異質性を区別したとらえ方-とりわけ,用水需要が発生する圃場と直接に結びついた末端水利施設の機能のあり方を貯留施設の機能と結びつけながら重要視する考え方-が,改めて必要になっているといえよう.
 もっとも,いままでの土地改良事業においては,そのような視点が弱かったように思われる.水田の場合は,とりわけそうである.既存の末端水利施設システムがもっていたすぐれた機能を再評価し,それを近代農業土木技術に依拠して再編,強化しようとする問題意識,あるいは異なる機能をもつ水利施設を多元的に連結して,施設システムを構成する問題意識が稀薄だったためであろう.
 iii 新しい農業水利システム像とその編成論理
 いままでの検討結果をふりかえったとき,今後の農業水利システム像が浮かび上がってくるように思われる.結論からいってしまうと,末端施設・用水の維持管理については,一定の地域の水・土地利用を面として掌握する機能をそなえた地域営農集団が核となって編成された営農用水管理システムが担当する.また,基幹施設等の線的管理については,維持管理団体としての土地改良区を母体として編成された地域水利調整管理システムが担当するという構想がそれである.
 営農用水管理システムとは,営農集団に参加する農民たちが,地域的合意に基づいて編成したものであり,機能障害が深化しつつある集落による伝統的用水管理システムに代わって登場した新しい水利システムである.
 営農用水管理システムを編成する基本的なねらいは,多様な水田土地利用がうみだす複雑な用水需要に応え,農業経営活動の存続と新しい生産力の発展を保障する営農用水を十全に確保するという点にある.同時に,このシステム編成は,合理的な水利秩序を新しく形成するうえでも必要である.たとえば,広域利水体系にみるような大規模水利システムのもとで,線の管理と面の管理の異質性を考慮しない一元的・集中的な農業用水の維持管理が行われたときには,需要と供給との整合性は求めにくい.したがって,水利用者の要求は疎外され,経営活動にも大きな影響を与えることになる.同時にこの疎外は,水利用に対する水利用者の関心を薄くし,粗放化した無秩序な水管理を発生させる誘因にもなる,必要なことは,水利用者が営農用水の管理に直接的に参加し,それに日常的な関心をよせうる包括的システムの編成であろう.この視点を抜きにしたシステムの編成は,節水をむずかしくし,また合理的な水利秩序の形成もむずかしくするからである.営農用水管理システムは,面として広がる水田から発生する複雑な用水需要に応えるにふさわしいシステムであるばかりでなく,水利用者による自治的な用水管理を保障し,合理的な水利秩序の形成を促すシステムでもあるといえよう.そして,これらのシステム機能を担いうる核が,新しい経営主体として登場し始めた地域営農集団であることはいうまでもない.すでに述べたように,この集団は上記の問題を解決するにふさわしいすぐれた機能をそなえているからである.
 一方,農業用水の面的管理をつかさどる営農用水管理システムと結合する地域水利調整管理システムの編成も不可欠である.これは,点としての水源,線としての幹線水路等の管理を行うために編成されたもので,営農用水管理システムへ良質の用水を安定的に供給するだけでなく,上・工水の供給も分担すると同時に,地域排水もつかさどる機能をもつものである.
 地域水利調整管理システムの編成が必要とされる今日的な意味は以下の点にある.
 第1に,農業用水がもともと備えていた地域用水的機能の回復である.周知のように,社会的分業が発達しない以前の農業用水は,農業だけでなく,地域内の他の産業部門が必要とする用水も供給していた.もっとも,等質的な農村地域社会の構造のもとでは,この役割は余り表面化しなかった.地域住民のすべては農業用水を使用する農民であり,生産と生活は未分離だったからである.しかし,非等質的な構造を農村地域社会がとるようになると事情は異なる.たとえば,農業用水がもともと担っていた非農用地の排水機能など,生産と生活が未分離だった当時は表面化しなかった地域用水的機能を,どのように位置づけるかが,各地の土地改良区で問題になってきているからである.加えて,他種水利との競合,水資源の産業間再配分の要請も農業水利に向けられている.今日の農業水利は,好むと好まざるとにかかわらず,多面的な機能を備えた地域用水としての性格を改めてもたざるをえないのである.
 第2に,農業用水の地域用水への回復,昇格,いいかえると農業用水に公共的性格を付与することにより,このシステムが維持管理する基幹施設の更新,改良投資は公共的負担で行いうる理論的道筋が設定できることである。地域水利調整管理システムが非農業サイドを含めた用水・排水の調整機能をもつものである以上,農業という特定産業部門だけが施設投資を負担しえないことは明らかであろう.維持管理コストについても同様である.
 以上の二つのシステムを結合させる経済的論理は,おそらく価格関係を媒介とした市場メカニズムであり,したがってそこでは,水は商品として流通することが想定される必要があるだろう.いままでの行論からも明らかなように,もともと両者は異なる機能をもつシステムであるがゆえに,それらを矛盾なく結合させるためには,水を商品として評価する基準としての量水制の採用が必要になる.
 同時に,そのような経済的論理を現実に機能させる物的施設として,ファームポンドに代表される中間貯溜施設の配置も考えなければならないだろう.これは,水源・幹線レベルにおける送水機能と圃場レベルにおける配水機能を矛盾なく調整しうる施設機能だけでなく,量水制の採用を容易にする施設機能をも備えているからである.
 既に明らかなように,二つのシステム像および両者を結びつける経済的論理と水利施設の配置形態は,水利施設がもつ形態的連続性と機能的異質性に基づく面的管理と点・線的管理の相違に着目して構想したものである.つまりそれは,水田土地利用の高度化にともなって多様に発生し,変動する圃場レベルでの農業用水需要に応えるための新しい水利秩序の形式を保障する組織的前提となりうる構想なのである.もちろん,この構想を現実化しようとすれば,いくつかの行政的・制度的・社会的摩擦が生ずることも当然であろう.にもかかわらず,伝統的な維持管理組織が抱える諸矛盾を解決するためには,上記の構想に沿った視角から,改めて問題を総括すべき時期にきているといわなければならない.

[注]
 1) この点詳しくは永田恵十郎・南 侃編著『農業水利の現代的課題』,農林統計協会,1982年,342-57ページ.なお,地域営農集団の概念については,さしあたり,永田恵十郎「地域農業の再構成と稲作経営」,井上完二編『現代稲作と地域農業』,農林統計協会,1979年,615ページ以下を参照.
 2) 緒形博之編『水と日本農業』,東京大学出版会,1979年,116ページ.
[永田恵十郎]