技術と農村社会

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技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 第5章:クリーク灌漑と地域社会
著者名: 陣内 義人
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第5章:クリーク灌漑と地域社会

 Ⅰ 日本農業の再編成と電気灌漑事業

 明治以降の日本農業は,三つの大きな動態的編成替えを経過してきた.その第1は明治の中後期であり,産業革命が開始され,次第に産業資本が確立してきたことに対応している.この時期には全国的な国内市場の深まり,社会的分業の発展,商品経済化の動向のなかで農業生産の編成替えが行われたわけであるが,その編成替えをリードし,農業投資を担ってきたのは地主層および地主手作型を中心とした年雇経営であった.
 第2のそれは,第1次大戦を契機とした独占の形成とそれがもたらす資本主義の構造変化に対応するものであった.この期の特徴は農産物市場や労働市場が一段と拡張し,また米価,労賃水準などの分配構造が大きく変化していくなかでの農業の再編成であった.この時期には農村への商品経済の浸透はより深く進行し,零細階層まで商品生産のなかに包摂しており,労働市場の拡張による若年労働力の工鉱業への流出は年雇経営の基盤を掘り崩していった.商品生産の浸透と生産力競争の結果として,地主制の支配のもとにありながらも,先進農業地帯では自作あるいは自小作形態での家族小農が商品生産者として台頭してきている.これらの農民階層が従来の年雇経営に代わって地域の生産力担当層としての役割を果たしながら,地域農業の編成替えが行われているのがこの期の特徴であろう.
 第3の時期は第2次大戦後,とくに高度経済成長期以降のそれである.この期には農地改革の実施や資本主義の構造変化のもとで農業面でも戦前の日本農業を一変させるほどの多くの変化をみせている.農業就業人口が激減したことや人力・畜力の農作業体系が中型機械体系におきかえられたことなどがそうである.しかしそれにもかかわらず,この期には農業生産力主体の形成という側面からみるならば,明確な生産力担当層といえる農家群が一定の社会的階層として形成されていないことが特徴的である.
 戦前には農家の中核をなし,生産力担当層を輩出してきた専業農家が,総農家の7割以上を占めていたのに対し,高度経済成長期以降には約1割強といった水準まで減少している.農家の兼業従事はたんに若年労働力のみでなく,経営主世代の青壮年層までも農外就業が一般化している.このような兼業農家の滞留をもとに,経営規模拡大は一部の畜産部門を除いては遅々として進んでいない.あわせて都市人口の集積,農産物取引の集中は農業生産面でも大量生産=大量出荷方式を一般化してきた.そこでは農業生産力の維持,発展をはかる仕組みも戦前とは大きく変りつつある.戦前には生産力担当層といった個別農家を中心にして地域農業を編成していくといった仕組みであったのに対し,高度経済成長以降は大多数の兼業農家と一握りの専業農家といった構成を農協や生産組織のなかに包含した組織体制によって農業生産力を維持,発展させるという仕組みに変貌しつつある.
 この三つの時期には日本農業の生産力担当層の構成が変化してきたのみではなく,同時に農業生産の具体的な内容も変ってきた.
 第1の時期に相当する明治の中後期には穀物生産,それも食用穀物の生産増大を主軸として行われてきた.1892(明治25)年には4000万の人口と4100万石の水稲生産があった.それが1912(明治45)年には5000万の人口と5100万石の生産となり,増加する人口に対する米供給量の増大が,国内生産での増収,それも反収の大幅な増加によってもたらされている.第2次大戦前の期間でわが国の反収の増加率がもっとも高かったのもこの時期である.この時期,全国で反収水準がもっとも高く,しかも反収増加をリードしてきたのは奈良,大阪などを中心とした近畿諸県であった.当時近畿諸県の反収水準が280kgであったのに対して,佐賀,福岡,熊本の北部九州諸県のそれは210-220kgで約2割から5割がた低い水準にあった.北部九州の諸県は商品経済の旧開地帯である近畿諸県のあとを追いかけるという立場にあった.
 第2の時期は「米と繭の経済」という言葉に表現されているように,米,麦の穀物生産のほかに,まゆ,果実,工芸作物などの商品作目の生産が伸展している.これらの商品作目は明治期にすでに定着していたが,いまだその性格は稲作経済を補足する「副業的農事」1)といった域にとどまっていた.それがこの時期には都市人口の増加にともなって自立的な小商品生産部門へと成長してきた.米作反収の増加と経営の多角化という形で農業生産の編成替えが進行したのがこの期の特徴であろう.この時期は人口の増加もさることながら,1人当り米消費量の増加率がもっとも高く,米消費量が増加した時期でもある.1925(大正14)年には人口6000万人,米消費量は6700万石で明治末に比して消費量は約3割の増加となっている.しかし米価の動向は後にもみられるが,消費の増大ほどに上昇しておらず,明治後期から大正前期にかけては徐々に上昇をたどったが,大正後期にはむしろ低い水準に低迷している.この期の米の需給が国内生産の増加もあったが,その増大以上に低価格の植民地米の移入に依存していく体制をとってきた.消費量の約15%強にあたる1100万石が移入されるようになったことが米価の形成に大きく影響している.
 第2次大戦後,とくに高度経済成長期には国民の農産物消費も伝統的な日本型食生活から和洋折衷型へと推移しており2),穀物の直接消費は停滞的である反面,園芸,畜産物の消費は急増している.この農産物消費の構造的な変化が国内の農産物構成にも大きく影響を及ぼしているが,この期の特徴は国内生産の全面的な発展によって農産物の需要をまかなうのではなく,安価な外国農産物(とくに飼料穀物)の大量な輸入によって食糧価格の上昇を極力抑制していくといった構造が定着したことである.その結果,国内の自給を基本とした作目である米および施設園芸,家畜飼養といった作目分野では生産の伸長がみられたが,開放市場価格体系のもとにおかれた麦,大豆,油脂作物といった作目分野では,その生産力的な基盤さえも崩壊していく結果さえも生み出されている.

 ここで取上げる電気灌漑事業は,九州第1の河川である筑後川下流のクリーク灌漑地帯で行われた大規模な土地改良事業の一つであるが,農業展開の時期からみれば,前記の第2の時期に相当している.いまだ地主制の支配体制のもとにあり,農作業は人力や畜力耕によって行いながらも,自作,自小作型の家族小農が商品生産者として地域農業を主導していく社会的階層として登場する過程のなかで行われている.この電気灌漑事業は行政面からみれば,福岡,佐賀の両県にまたがり,いずれも幾多の市町村を含んだ広域事業であり,数千町の水田,数千戸の農家を対象とした集団的な事業であった.
 クリーク灌漑の具体的な内容については次節でふれるが,クリーク内に貯留した用水を反覆して利用し稲作期間の用水をまかなうものであり,用水の利用効率としては河川灌漑や溜池灌漑に比して抜群に高い.その反面,このクリーク灌漑は大きなハンディをもっている.それは河川灌漑が流水のもつ自然エネルギーを利用して圃場内への配水を行うのに対して,クリークから圃場への配水に人為的な揚水エネルギーを必要とすることである.明治時代には水車を人間が踏むことによって揚水していた.電気灌漑事業は,この人力による踏車揚水を電動機と揚水ポンプを組合わせた電力揚水に切りかえる事業であった.この電気灌漑事業はいわゆる揚水労働の機械化であり,わが国における農業機械化のはしりをなすものであった.これによって稲作の所要労働は大きく節減されたのは当然であるが,佐賀平坦水田の場合には反当り25日の所要労働が18日へと7日間も節約されたといわれている3).
 電気灌漑事業がもたらした効果はそれのみではない4).この事業を経たのち,農家は次々と新しい技術改良を受入れている.短床犂の導入による耕起,整地の緻密化,晩稲による田植時期の統一,品種の改良,施肥技術の改善,さらには米麦二毛作の安定的な定着などがそれである.これら技術革新の一連の過程についてはすでに多くの文献で述べられているのでここではふれないが,ここで強調したいことは諸技術の改良がたんなる部分的な技術改良にとどまらず,技術体系そのものを再編していることである.
図5-1 市郡別水稲収量の推移と反当り肥料(窒素)消費量 佐賀平坦農村の米反収の年次別変遷をみたのが図5-1である.そこには全国的な米作反収の動向と同じく二つの山がみられる.第1は明治30年代から明治末にかけてのそれであり,第2の山は1935(昭和10)年前後のそれである.それに第2次大戦後を加えるとすれば,昭和40年代初頭にいま一つの山がある.この三つの山を通じて10a当り米作反収は,240kg(1892(明治25)年)→320kg(明治40年代)→450kg(昭和10年代)→510kg(昭和40年代)と上昇してきている.それぞれ80kgの増収をもたらすのに約20年余を要している.第2次大戦後は若干年月を要しているが,大戦の影響と戦後の混乱を含んでいるためでもあろう.これを1日(8時間)当りの収量としてみれば,12.4kg(明治40年代)→22.2kg→51kgと反収以上の上昇率となっている.
 佐賀平坦農村の場合には,明治期の反収増加の山は技術改良のなかでも主として施肥改良や品種改良によってもたらされている5).施肥の体系が自給肥料を基調としたものから購入肥料基調へと変化し,肥料養分の外部からの補給は施肥量増大への道を開くものであった.農家での施肥量の格差も購入肥料による多肥化のなかで縮小していった.また多肥化と品種の改良が結び合って増収要因となっていた.
 問題は西南暖地稲作に特有な螟虫被害の防除対策である.多肥化にともなって病虫害の多発,螟虫被害は増加してくる.これに対しては新しい技術は開発されえなかった.この技術発展の不均衡を埋合わせたのが人力の投入による捕殺回数の増加と一斉作業の強化であった.当時,米の販売面からも米質の改良,米穀検査の強化がはかられていたこともあって,螟虫対策は生産,販売の両面から最大の課題として登場してくるようになった.人力による防除作業め強化が農家にとっては労働の強化を一段と甚しくするものであったことはいうまでもないが,サーベル農政といわれたように行政権力までも動員した強制が
繰返されたのもその故である.これに対して大正,昭和初期の編成替えはさきにみたように技術体系そのものの組替えともなっているのが特徴的である.
 大正,昭和初期の編成替えはすでに独占の形成といった資本主義の構造変化を反映して複雑な内容となっている.一つは農業の進歩を代表する側面を含んでいるが,同時にそれが農業の停滞的な再編でしかありえなかったという側面をも含んでいるからである6).進歩を代表する側面は農家の労働力が商品化していくことを基盤として農村での自由な生産力競争が展開されるようになり,小作零細農家からも経営の上昇がみられるようになったことである.そのなかで大経営が小経営に優越するといった経済法則がみられるようにもなったことであろう.しかしそれが同時に停滞的な再編にすぎなかったのは,大経営の優越といってもそれは借地的な企業経営への展望をもつものではなく,一定の限度内のことであり,結局は自作志向型の家族小農による再編にとどまらざるをえなかったことに示されている.
 この時期の経済環境を特徴づけているのは,第1次大戦時の好況を反映した工鉱業の発展のなかで,農家労働力の大幅な農外流出が顕著になったことであり,そのなかで独占の形成にともなって労賃水準や米価といった分配構造が大きく変化したことである.
 この時期には農業者や農家構成比の減少,低下のテンポという側面に注目するならば,その変化率はかなりの大きさとなっている.1915(大正4)年に統計様式の変化があるのでその前後の数値は連続しないため,1915(大正4)年から1930(昭和5)年までの15年間の変化でみれば,佐賀県の農業者数は25万人から21万2000人へと約3万8000人,15.2%の減少となっている.第2次大戦後の高度経済成長期(1960(昭和35)年から1975(昭和50)年)の農業就業人口の減少率が佐賀県で29.3%であり,それにははるかに及ばないが,戦前の農業者の減少率としてはこの期のそれがもっとも高い.
 この時期の農業者の減少を戦後,高度成長期のそれと比較してみれば,いくつかの特徴がそこにみられる.その第1は労働力の流出にもかかわらず,専兼別の農家構成では専業農家が増加し,兼業農家が減少しており,戦後のそれが兼業農家の急増となっていることと顕著に異なっていることである.第2には農家戸数は6万8900戸から6万7120戸へと若干(2.6%)の減少にすぎず,ほとんど変化していない.農業者の流出が農家1戸当りの農業者数の減少(3.61人から3.13人へ)という形で進行しているからである.この時期,佐賀県の総世帯数の増加が人口数の増加を上回り,1世帯当りの世帯員数の減少(6.29人から5.32人へ)となっていることからすれば,分家独立による単婚型家族が増加する傾向がすでにこの時期にあらわれているとみられる.
 以上のような特徴からみれば,この時期の農業者の減少が専ら未婚の若青年層の農外流出を主軸として進行しているとしてもよい.
図5-2 農業労賃と米価の推移
 いま一つの変化は労賃水準と米価の推移である.図5-2は磯辺俊彦氏の作成されたものであるが,この図によると労賃も米価も明治後期から大正前期にかけて徐々に上昇をたどるが,1918(大正7)年に急騰し1921(大正10)年までの4年間は高値を維持している.1922(大正11)年以降も労賃水準は依然としてその高さを維持しているのに対し,米価のみは1922(大正11)年に急落し,それ以降低迷を続けながら昭和恐慌期の暴落をむかえている.米騒動以後の植民地米の大量移入が米消費量の増大にもかかわらず,米価の上昇をおしとどめてきたからである.そこには独占の形成と植民地支配の影響が農業の側面にも大きく影をおとしてきたことがうかがわれる.
 そしてこのことがこの期の農家間の生産力競争の条件を前期とは大きく異なったものとしてきた.
 明治中期まで東北の水田地帯では湿田での人力耕が一般的であったのに対して,北部九州ではすでに藩政期から馬耕が普及していた.したがって役牛馬の有無ということが農家間の生産力格差をもたらす一つの要因であったが,それだけでなく,労働力の量的な大きさが年雇経営の優位を基礎づける要因ともなっていた.しかし大正後期にみられる労賃水準の上昇と米価の相対的低位はこの競争条件を大きく変えてきた.それが年雇経営にたいする単婚夫婦型の経営的な優位を促進する形で作用してくるからである.労賃水準の上昇が労働力の量的な大きさよりも,むしろその労働能力の質的水準を問うように推移してきたこともその一つである.それが家族労働力による経営の相対的な優位性をもたらし,また年雇経営に代わって自作,自小作型の家族小農が生産力担当層として登場してくる社会的基盤ともなった.
 小作地の拡大による経営上昇といっても,それが家族労働力によって限界づけられる以上,一定の経営規模の枠内にとどまらざるをえない.経営上昇を続けてきた農家群も一定の規模水準までくると,小作地での規模拡大よりも経営内の小作地の買い取りによって自作農化していくという歩みをたどっている.佐賀平坦農村でのこのような農家の行動様式を,田中定氏は「自小作前進」運動7)として特徴づけられている.小自作や小作の形態で規模の拡大をはかってきた農家が,このように規模拡大から自作地化へその方向転換を余儀なくされるのも,戦前の地主・小作関係のもとでは彼らの所得あるいは生活水準の向上にとって小作料の支払いが一つの重圧として作用しており,それが自家労働評価の高まりを制約していたことを物語っている.
 このように自作志向型の家族小農を主軸とした農業の編成替えは独占の形成にともなった日本資本主義の構造変化に対応した動きでもあった.
 しかしこの時期,そのような資本主義の構造変化の影響をうけたとしても,各地域の対応は必ずしも同じではない.佐賀平坦農村では地主型の年雇経営の後退をうめ合わせるような家族小農の上昇,前進がみられたのに対して,同じ九州域内の鹿児島県,熊本県では家族小農形態による前進がみられず,年雇経営の後退が零細農家の堆積となり,農業成長率の低下ともなってあらわれている8).この時期の地域農業の動向を明らかにするにはそれぞれの地域で生産者としての農家が商品経済の浸透のなかで,小商品生産者としていかほどに成長,充実していくかということを見極めていくことが必要となろう.
 佐賀平坦農村の場合,電気灌漑事業といった「土地改良」が稲作所要労働量の大幅な節減をもたらし,それがもろもろの技術的な諸改良のなかでももっとも規定的な役割を果たしていることは明らかである.しかし「土地改良」の施行のみで,技術構造の革新が自動的にもたらされるわけではない.そこには「土地改良」を基盤としながらも,それに品種改良,施肥改良あるいは栽培管理の改良を組合わせ,一つの技術体系として組立て,さらにはこれらの諸改良を駆使しうる生産主体が形成されていることが必要である.そこでは自ら技術を選択し,組立てて増収を引出していくだけの技術能力,力量をもつことが要請されてくる.農村の諸階層を生産力競争のなかにかりたてていくということは,商品経済に即応して諸階層の農家が生産力競争に参加しうるだけの経済的そして技術的力量を身につけることに他ならない.
 このような小商品生産者としての自立にかかわって,農村での教育水準の普及が一つの役割を果たしている.Ⅳでふれるが,1887(明治20)年には約6割にすぎなかった男子の就学率が明治30年代初頭には9割に達しており,大正期には農村の壮年層はすべて初等教育を身につけるという状況に達していた.
 しかし教育の普及は一般的な条件であっても十分な条件ではない.生産者が自らの技術選択能力によって反収の増加にいそしんでいくのは,その反収増がそのまま小作料の増徴となるのではなく,小作料水準の固定化によって,反収の増加が小作人の手取り部分を増加させ,さらに所得の増大につながるといった経済メカニズムをつくり出していくことが必要であろう.このような増収の経済メカニズムの形成がさらに小商品生産者としての主体的成長を促進することになる.佐賀平坦農村でそのような社会関係が形成されていたことが,大正・昭和初期に「佐賀段階」という日本農業の先進的な典型をつくり出していく所以ともなった.

 [注]
 1) 綿谷赴夫「資本主義の発展と農民の階層分化」,東畑精一,宇野弘蔵『日本資本主義と農業』,農業総合研究所,1959年,243ページ.
 2) 宇佐美 繁「農業生産力構造の展開過程」,講座『同本資本主義と農業・農民』大月書店,1982年,65ページ.
 3) 磯辺俊彦「いわゆる佐賀段階の形成過程」,農業発達史調査会編『主要地帯農業生産力形成史』下巻,農業総合研究所,1959年,10ページ.
 4) 昭和初期,佐賀県農業はそれまで日本農業の地帯構成の両極をなして,「東北段階」「近畿段階」といった一般的傾向の域を脱して,新しい段階を画する動きを示すものとして,注目を集めてきただけに,山田勝次郎『米と繭の経済構造』,1942年,および田中定氏の研究成果発表以来,非常に多くの研究文献が積上げられてきた.昭和42年,山田龍男氏は従来の研究成果を総括しながら,新しい研究視角をふくらませて,『佐賀県農業史』,1967年,を発表されている.また,この書には佐賀農業にかんする研究文献が集録されているが,この小論もその多くを同書に負っている.
 5) 八木宏典『クリーク農業の展開過程』,国際連合大学,1982年,34ページ.
 6) 大正・昭和初期の農業の動態的再編がもつ二面的性格についての指摘は,綿谷赴夫,前掲書,250ページ.
 7) これは田中 定氏の研究によって明らかにされたことであるが,要約すれば,次のごとくである.
 農家は小さい経営から次第に成長する.この場合,新しい小作地を取得する形で経営を拡大する.これが第1期の前進過程である.ある程度経営規模が整うと,小作地を自作地化する動きが出てくる.それだけの実力をもつようになる.この自小作過程は嶮しい上り坂であり,旺盛な生命力を必要とするが,この嶮しい上り坂を登る程の農家は,たんに小作地を自作地化するだけではなく,第1期のように小作地の拡大もあわせて行っていく.これが第2期の前進過程である.第3期は一応自作農となった後,家族型の経営として2町4~5反まで経営地を拡大すると,後継者を就学,離農させて,次第に経営縮小化の傾向をたどる.
 田中 定「佐賀県平坦地帯―農村の分析」,『経済学研究』9巻1号,1939年,および「佐賀県平坦部農業及び農村の研究」,東亜農業研究所『佐賀農業の研究』,1943年,による.
 8) 明治後期から大正期にかけての鹿児島県農業の実態については,西山武一「鹿児島県近代農業史」,農業発達史調査会『日本農業発達史』別巻上,中央公論社,1958年,による.

 Ⅱ 三つの電気灌漑事業

 筑後川下流のクリーク灌漑地帯は図5-3に示すように,九州第1の大河である筑後川をはさんで佐賀,福岡の両県に拡がっているが,行政的には佐賀県域が1市17町1村,2万7000haの水田を含み,福岡県域が3市7町,1万5000haの水田面積であり,あわせて4万2000haの水田が傾斜度のない平坦な水田地帯をなしている.
図5-3 筑後川下流のクリーク地帯
 ここでの水利用は水田の周辺にクリーク(地元では堀と呼ぶ)があり,クリーク内に春先の余剰な河川水や天水を貯留しておき,稲作の全期間にわたってクリークから用水を汲上げ,また落水するといった循環的な灌漑方式をとっている.この地帯の水田面積とクリーク面積の比率をクリーク率ということで表示すれば,市町村別にて,低いところは5-6%,高いところで19%強というへだたりはあるが,福岡県域が平均12.4%,佐賀県域が7.4%となっている1).河川からの用水補給の困難度の相違がこのクリーク率の差となってあらわれている.少ない用水量を最大限に利用して比較的に大面積の水田を養っていくといったきわめて効率的な水利用であるが,それだけに反面では過密的な水利用社会を構成しているともいえる.クリーク用水の取水や維持管理に厳格な水利慣行がつくられ,それが重層的に組合わされた水利用社会となっているのもそのためである2).河川からの取入れ施設は勿論のこと,クリーク内にも堰や水門が随所に設けられており,これらの諸施設についてはその構造,大きさ,および維持管理についても地域間でこまかな取決め(慣習)がある.クリーク内の諸施設および用水の出入れ,管理は集落の責任で行われており,クリーク用水の維持管理は農道その他の施設と同様に集落の重要な仕事の一つとなっている.それら集落が連合として水利組合(または土地改良区)を結成しているが,地域によっては町村の自治体が集落間の用水の調整や配分にあたるという仕組みさえとっている.
 この地帯にクリーク灌漑という特異な方式が成立してきた背景には,地域の自然的な条件とともに耕地造成の歴史的事情が作用している.この地域は大河川の下流に位置した大平野であるにもかかわらず,筑後川はその下流部では河床が極端に低く,自然の流下に依存していたのではその河川水を直接利用することはできなかった.そのためこの大平野は筑後川の大河をもちながら,稲作用水はむしろその周辺の中小河川の河川水にたよらざるをえなかった.しかし中小河川の流量では大平野の用水需要をまかなうほどには至りえなかったのも当然であろう.いま一つはこの地域の水田は自然の陸化や藩政期の干拓政策によって新規に造成された水田からなっており,わが国の水田平野としては比較的新しい水田農村地帯であるということである.藩政の財政的基盤を拡大するため行われた干拓の積極政策によって沖へ沖へと伸びていく水田のため,新規の用水開発に力が尽されてはいるが,それも思うにまかせず,いきおい超過密的な水利用と厳格な水利規制のなかで用水をまかなわざるをえなかった.
表5-1 佐賀平地における時代別用水需給の試算
 いま佐賀県域のクリーク地帯について稲作用水の需要量と水源別の用水供給量を歴史的な画期ごとに推計したものが表5-1である.第2次大戦後の昭和30年代の数値でみても約3万町の水田の用水需要量の約5割以上はクリーク用水と天水によってまかなわれている.表5-1は戦国時代の15世紀,近世初期の17世紀と現代といった大枠での推計であるが,その間,溜池,河川開発,貯水ダムの建設といった用水開発が続けられているにもかかわらず,これらの用水開発も新規の水田開発にのみ込まれてしまい,天水とクリーク貯水への依存度をそう大きくは低下させていない.
 このようなクリーク灌漑地帯でも,明治以降すでに三つの大規模な用水開発事業が行われてきた.その第1の大事業がここで取上げる大正期の電気灌漑事業である.第2は昭和30年代に施行された国営灌漑排水事業である.これは地域内に貯水ダムをつくり,地域内の用水量の増大をはかるとともに,河川から取水口を合口して,近代的な頭首口によって地域内の用水配分を合理化しようとするものであった.第3のそれは1982(昭和57)年現在施行されている筑後川の総合開発事業であるが,これはいままでの第1,第2の事業が農業内部の水利用の合理化を主目的としていたのとは異なり,戦後の高度経済成長の水利用の増大を反映し,農業用水のほかに新規の都市用水開発を行い,農業用水の節約,合理的利用と都市用水開発を同時に行い,北部九州の諸都市の用水不足に備えようとする事業となっている.
 大正期の電気灌漑事業はその事業主体,内容によってさらに三つの事業に分けられる.その第1は1913(大正2)年に端を発して1924(大正13)年に完了された三潴郡耕地整理共同会のそれである.福岡県三潴郡北部の12ヵ町村で3545haの耕地を対象とした疏水事業を行い,あわせて出力1500kwの自家発電所を建設している.全国でもはじめての農業用発電所の建設である.大正期徐々に地域独占を形成しつつあった電力資本に対抗して発電所建設に乗出した地主層の意気込みのたくましさをみる思いがする.
 この事業が発端となって第2,第3の揚水機械化事業が取組まれている.第2の事業は1922,23(大正11,12)の両年にわたって佐賀県大井手普通水利組合の手で,佐賀市外12ヵ村の4224haにわたって行われた電気灌漑事業である.この事業はその後も近隣の農村に波及していき,それぞれの地域で小地域ごとの耕地整理組合を組織して同様な事業が行われているので,1926(大正15)年には合計して7300ha余の水田にわたって一大電気灌漑網をつくり上げている.第3の事業は第1の事業としてあげた福岡県三潴郡北部の耕地整理組合地区に接続した三潴郡南部の大川町外9ヵ村2716haのクリーク灌漑地帯で行われた電気灌漑事業であり,事業内容としては佐賀県大井手水利組合のそれと全く同様な事業である.
 同じ揚水の機械化といっても,第1の三潴郡北部のそれと,第2,第3のクリーク地帯のそれとの間にはわずかな時期のずれとはいいながら,日本資本主義の構造変化にともなった社会経済的な性格の相違がはっきりとみられる.それは明治期農村と大正期農村の相違を示すものでもあろう。その相違については後でふれることにして,ここではひとまず三潴郡の南北で行われた二つの事業の具体的な相違点にふれておくと次のごとくである3).
 1. 北部はその対象地のなかにクリーク灌漑による地区を若干ふくんでいるが,河川灌漑に似た自然流水灌漑地帯を主としている.南部はそのほとんどがクリーク灌漑方式によっている.
 2. 北部は筑後川の流水を平均100馬力をこえる大型電動ポンプによって揚水し,地区内へ自然灌漑しており,総馬力1991馬力,ポンプ18台を設置した事業であるが,南部のそれは地区内のクリークから圃場への揚水を機械化したもので,クリーク河岸に固定したポンプ場を設置し,レンガ積みの小配水路によって各圃場に配水するという事業内容であった.そのポンプ台数も410台と多きを数えるが,その総馬力数は558馬力にすぎない.
 3. 北部では対象面積3400haのうちこの事業によって約3割近い約1000haが開田されており,耕地の区画整理を行ったが,南部のそれは揚水を機械化したのみで,その他の事業は一切行われていない.
 4. 所要経費は北部が307万円で,南部は70万円,反当り経費に換算すれば北部が約90円,南部25円となっている.
 この筑後川下流地帯は第1次大戦後の揚水機械化を発端にして,以後,農業機械化の側面で日本農業の先端を切っていく地域となるわけであるが,1万数千haにわたる揚水労働の機械化が電力を動力源として行われていることは注目してよい.いまひとつの農業機械化の先進地である岡山県南部平野が,石油発動機によって機械化の端緒を切ったことと対比して,わが国における機械化の二つの流れを示すことにもなっているからである4).
 この電気灌漑にもその前史があった.蒸気機関を利用した揚水の機械化がそれである.蒸気機関を農業分野に利用したのは1892(明治25)年,信濃川下流の排水が最初のことといわれているが,筑後川下流地帯の河岸沿いの地区でも蒸気機関による揚水が数多く試みられている.表5-2はこの蒸気機関利用の揚水事例を示した一覧表であるが,明治期後半にみられる九州での蒸気機関の利用は,その大半がこの筑後川下流地帯に集中している.
表5-2 筑後川水系における機械灌漑実施状況(1897(明治30)年以降明治末期まで)
 元来,筑後川下流は常習氾濫地帯であった.そのすさまじさは,明治初期には「弘化3年より明治3年まで25ヵ年間の洪水度数は190度の多きにのぼり1年平均7.6度」ともいわれていることからも明らかであろう.筑後川はあれほどの大河にもかかわらず,下流地帯ではほとんど農業用水として利用されてはいなかった.したがって筑後川に注ぐ地域の中小河川から水を引き水田化していた.1887(明治20)年になってはじめて筑後川の改修工事が着工され,それによってはじめて,「16年の長日月と267万円の大金とをついやして,水流の快通を計りしより水害頗る減じ沿岸の住民安堵するに至れり」という状況になっている.
 この蒸気機関によって揚水し,水田経営を行う試みも筑後川の治水工事の進行と河川の安定にともなって,いままで荒蕪地,畑として放置されてきた河岸地帯が,これによって開田化されていったことを物語るものである.しかしその動力源としてなぜ蒸気機関が使われたかについては必ずしもその事情は明らかではない.表5-2にあげられている鳥飼村の長門石についての調査事例では,蒸気機関の製作者は門司の藤田鉄工所であり,その機械の据えつけは勿論,機械の操作,運転も鉄工所が請負って行い,受益者は揚水費として反当り1斗6升,別に配水人給料として反当り5升の負担をなしてきたといわれている5).そこでは地主層が米価の上昇や地価据置きで開田化の経済的利益をうるものとして行うという性格が強く作用しているが,直接生産者が十分に原動力を使いこなすまでには至っていなかった事情がうかがわれる.この明治30年代から40年代にかけて行われた蒸気機関時代に踵を接するように大正期前半にはすでに電動機による機械揚水時代に入っている.その最初の事例が三潴郡耕地整理共同会の事業6)である.
 この地区の耕地整理事業の発想は,耕地整理法が発布された1899(明治32)年にさかのぼるが,基本は筑後川から直接揚水を行い,地域内に一大疏水をつくり上げるというものであった.当時,福岡県技師鶴田多門氏にその調査設計を依頼している.はじめは三潴郡一帯の給水を目的としていたが,その水利の地域関係が幾重にも組合わされているため,三潴,八女,山門,三池の四つの郡にまたがる一大琉水計画として構想されている.その構想の概要をみると,地域の中河川である矢部川の水力を利用して3ヵ所の発電所を設け,これを送電して筑後川から毎秒200立方尺の揚水を行い,それを4郡の地域にわたって配水するというものであった.その構想は現在開始されている福岡県の筑後川下流土地改良事業に類似したものとなっている点は興味深い.
 明治30年代初頭にすでに雄大な構想が提示されているわけであるが,小地域ごとの条件差が大きく,地域的な閉鎖性によって対立しあうことが多かったこの当時では,地域内の合意をつくり上げ,事業実施への機運を盛り上げるまでには至らなかった.しかし,これによって,耕地整理に対する願望が消え去ったわけではない.その後,1909(明治42)年になって,耕地整理法の改正を機として再び燃え上がり,三潴郡内の6ヵ村がまず設計調査を行い,1909(明治42)年10月には耕地整理の発起の認可をうけており,国および県からの補助金をえて,2万5000円余の調査費を投じて基本設計をつくっている.しかしこの時もついに郡内の一致をみるに至っていない.それはこの地域が筑後川に面しながらも,その水源はすべて筑後の山間から流れてくる小河川をそれぞれの小地域ごとに重複して利用し,その灌漑形態も,自然灌漑,クリーク灌漑,溜池灌漑と分かれて,地域ごとの利害の一致が容易でないことをあらわしている.
 このような度重なる計画の挫折に業をにやしたのか,地区の一村で村内の一部200haの耕地整理地区を設立して蒸気機関による揚水を施行している.これがちょうど旱魃時に遭遇して,揚水事業の見事さを実証することになったため,一挙に郡内の事業実施への機運を高める効果をもたらした.郡内の11ヵ村が共同して1913(大正2)年に第3回目の設計調査を申請している.福岡県ではただちに技手5名,雇16名の県の技術員を現地に駐在させて設計調査に入り,1914(大正3)年には導水路,幹線支線の設計を完了した.
 この設計は大型揚水機で筑後川の流水を汲上げる疏水事業であるが,その事業範囲は三潴郡一円からさらに縮小され,郡内北部の12ヵ町村とし,しかも水源の位置,設備の如何などによって5地区に分割し,それぞれの地区ごとに事業を行うことにしている.設置された揚水機は18ヶ,その多くは大型の原動機であり,100馬力から400馬力で総馬力は1991馬力となっている.揚程は15尺から35尺であるが,動力源としては電力が選択され,大型電動機が据えつけられるわけであるが,この地区における電動機の利用が,これ以後行われるクリーク地帯の揚水機械化が固定式の小型電動機によったことにも大きく影響を及ぼしてくることになる.
 揚水機運転の総馬力数は2000馬力に及ぶが,その電力は耕地整理地区や組合が共同会として連合して,九州電燈鉄道会社と10ヵ年間電力受給の契約を締結して,1ヵ年(灌漑期5月15日より9月30日まで毎日18時間運転)1馬力平均10円弱としている.しかしその後電力料金は漸次高まる傾向があり,1918(大正7)年には1馬力15円支払っている.このような事情のなかで自家発電が計画され,1919(大正8)年には矢部川の水利権使用の許可をえている.1924(大正13)年の再契約時には1馬力43円という線が会社から出されたのを機会に,1923(大正12)年6月には東邦電力株式会社に111万円で工事を請負わせ,1925(大正14)年5月に完成している.
 この耕地整理共同会が耕地整理組合連合会とはならずに共同会と称するのは,傘下組合のなかに旧法によるものと新法によるものとの二様の組織をもっているからである.
表5-3 三潴郡北部耕地整理による開田状況
 この三潴郡北部の揚水機械化は,総額310万円の巨額の資金を投入しているが,それは地主層の主導によるものであり,約1000haに及ぶ開田化をその目的として施行されたものであることは表5-3からみても明らかである.これに対し,大正後期に施行されるクリーク地帯の揚水機械化は,佐賀平坦でも三潴南部のクリーク地帯でも開田の利益は一切ない.ただ揚水労働の省力化のみがその利益となるにすぎない.
 福岡県三潴郡北部で行われた揚水の機械化がクリーク地帯の農業関係者にとってひとつの大きな刺激,教材となったことは否めない.
 有明海沿岸に面する佐賀・筑後・熊本平野は,いずれも螟虫被害の大きな水田地帯である.なかでも佐賀平野は耕作規模も大きく,用水にもっとも難渋した地帯であっただけに移植期の揚水労働の制約から,早中稲と晩稲の2回に分けて田植を行っていた.ために三化螟虫も多く,収量面でみただけでも被害も大きかった.1909(明治42)年から9ヵ年の被害調査をみても晩稲では平均毎年4.7%の収量減,大きい年では13%の収量減となっている.明治後期になって米穀市場での競争が一段と激しくなるにつれて,民間でも螟虫防除対策が切実さを増し,いろいろの施策が試みられてきたが,いつも揚水労働の非能率さがその実施のネックとなっていた.それに加えて第1次大戦による好況と農村労働力の流出,年雇労銀の上昇といった経済環境からして,クリーク農村にとって揚水労働の省力化は全く垂延の的でもあった.
 三潴郡北部の大型電動機による揚水労働の省力化を実地に見学し,その効果を確認したが,佐賀平坦のクリーク地帯にこれを具体化していくには資金問題,技術問題などまだ多くの問題を解決していかざるをえなかった.
 のちに電気灌漑事業を担当していく佐賀郡長の早田辰次(大井手水利組合の管理者である)は,その?末7)のなかで次のように記している.
 本職サキニ命ヲ本郡ニ奉スルヤ直チニ之(踏車揚水の多労,苦汗,多費を指す)ニ着眼シ機械力ヲ利用シテ労力ノ不足ヲ補ヒ収穫ノ増加ヲ計ルト同時ニ,一期作ヲ励行シ品種ノ統一米質ノ改良ヲ促シ尚余力ヲ利用シテ副業ヲ興シ農村ノ繁栄ヲ聊カ国家ノ為貢献セント思ヒ或時ハ労農ノ意見ヲ質シ或ハ斯道専門家ノ門ヲ敲キ潜心之カ研究ニ努メ漸ク自信ヲ得タルヲ以テ去ル大正九年十二月水利組合会議ノ際主務科長ヲシテ腹案ノ大体ヲ発表セシメタルモ,其ノ事業ノ新奇ナルト計画ノ厖大ナルトハ未タ斯カル経験ナキ者ヲシテ容易ニ共鳴セシムルコト困難ナルヲ以テ農民ノ脳底ニ機械灌漑ノ概念ヲ注入スルノ必要アルヲ感ジ先ツ水利組合議員ヲ福岡県及本県三養基郡ヘ派遣シテ該事業ノ実施ヲ視察セシメ翌年九月県ノ技術員ヲ招聘シテ各村ニ巡回講演会ヲ開催シ機械灌漑ノ必要ヲ説キ之ヲ奨励シ時ニハ係員ヲ派シテ実行ヲ勧誘シ又宣伝書ヲ配布シテ大ニ其気運ノ促進ニ努ムル所アリキ.超ヘテ大正十年五月巨勢村権現堂ニ於テハ県当局ノ指導ニ依リ耕地整理法ニ依リ吸入瓦斯発動機ニ依ル機械灌漑面積約五十町ヲ完成シ其ノ成績良好ナルヲ以テ農民ノ意向大ニ動キ各村競フテ之ヲ視察シ東川副及北川副ノ両村ハ率先之カ実行ヲ決議シ耕地整理法ニ依リ工事ノ設計ニ着手シ続イテ巨勢・兵庫ノ両村ハ日本電気鉄工株式会社ニ依頼シ電気動力ヲ利用シテ之ガ実施ヲ企テ尚他ノ平坦部各村ニ於テモ其ノ実行ヲ企ツルモノ簇出スルニ至レリ.是ヨリ先キ主務科長ヲ大阪・兵庫・滋賀ノ各府県ニ派遣シ該事業ヲ視察セシメ其ノ計画及経済関係ヲ調査セシメヌ一面電気動力ト瓦斯発動機トノ可否利害,得失ヲ研究ノ結果電力ノ最モ経済上便利ナルヲ確メタルモ其ノ当時他ヨリ電力ノ供給ヲ受クルノ困難ナルヲ以テ苦心中管下巨勢村ノ日本電気鉄工株式会社ハ自発的ニ自家発電ノ計画ヲ立テ巨勢・兵庫ノ両村ト契約セントセシモ九州電燈鉄道株式会社ノ供給区域内ナルヲ以テ許可ナキヲ確メ之ヲ中止シ尚各村個々ニ計画スルヨリモ共同施設スル方経済上多大ノ便利ナルヲ以テ数回協議ヲ重ネ足踏水車灌漑区域全部ヲ包擁スル大井手普通水利組合ノ事業トシテ一斉ニ施行スル事ニ決定シタリ.時恰モ九州電燈鉄道株式会社ニ於テハ季節事業ニ係ラス喜ンデ電力供給ニ応スル意見アリ.巳ニ北川副及東川副,両村ハ同会社ト契約締結セシニ依リ本組合ニ於テモ日本電機鉄工株式会社ノ発電許可ノ見込ナキヲ以テ九州電燈鉄道株式会社ヨリ電力ノ供給ヲ受クルノ方針ヲ以テ協議ヲ進メ一同会社ト契約ヲ締結シ電動ポンプ及配電線其ノ他ノ建設ハ日本電気(鉄工)株式会社ノ製品比較的好良ニシテ且修繕ノ便利ナルヲ以テ同会社ヘ製作ヲ命シ大正十一年五月二日自家用電気耕作物認可申請書ヲ提出シ翌六月十二日ソノ認可ニ接シタルヲ以テ直ニ工事ニ着手シ昼夜兼行大ニ努力ノ結果,六月三十日使用認可ヲ受クルニ至レリ.而シテ該事業ハ大正十一年度ヨリ箇年ニ亘ル継続事業トシ大正十二年六月十三日全部竣工ヲ告ケタリ.
 この三つの電気灌漑事業のなかにもその社会経済的な側面に注目するならば,対照的な二つの類型がそこにみられる。その一つの類型は三潴郡北部耕地・整理共同会の事業(それ以前の筑後川中流の蒸気機関の揚水事業も含まれる)であり,いま一つは佐賀県の大井手水利組合あるいは三潴郡南部耕地整理組合のそれである.前者は明治後期から構想され,大正初期に着工された事業であるが,そのねらいは畑,山林原野の大規模な開田化によって米作収益の上昇と土地価格の引上げにあり,この地域の地主層を基盤とした事業であったといわれている.これに対して後者の佐賀平坦の電気灌漑事業では,開田化によって事業利益をうるという効果はない.すでにクリーク地帯では藩政期に開田し尽されていたからである.電気灌漑の効果は直接的には農家の日常的な農作業であった揚水労働を機械化し,省力化していくものにすぎなかった.そして事業推進の主体となったのも地域の地主層ではなくて自作型の年雇経営を含む直接生産者層であったといわれている.しかもその事業経費は三潴郡北部の揚水労働の機械化では総額307万円,反当負担額70円余にたいして,佐賀平坦の電気灌漑では設備費66万6511円(反当り15円78銭),水路工事費21万304円(反当り4円97銭),合計87万6815円(反当り20円75銭)の工事費となって格段と小さい経費で済んでいるが,その事業経費は小作農をふくめた耕作者が負担している.一見,連続して行われている電気灌漑事業ではあるが,その技術革新の主体がもった社会階層的な基盤からみるならば,その間に大きな断層があるともいわねばならない.前者が明治期の農村社会を継承するものなれば,後者は大正期のそれを代表しているということができよう.

[注]
 1) 石丸治澄「クリーク水田地帯の水利用をめぐる諸問題」,九州農業試験場『クリーク水田地帯における生態系の実態解析』,1977年,5-7ページ.
 2) クリーク灌漑地帯の水利慣行についても,すでに多くの研究成果が発表されているが,その大様については後掲の『筑後川農業水利誌』および拙稿『水管理と土地改良区』,佐賀大学農学部,1980年,を参照されたい.
 3) 並木正吉「三潴郡水田地帯の農業」,農業総合研究所編『福岡県の農業』,農業総合研究所,1954年,156-57ページ.
 4) 石油発動機が農業用に本格的に用いられるのは第1次大戦後であるが,それ以前にも新潟県では主として揚水用に,静岡県では製茶用に使われていた.欧米から輸入された軽量小型石油発動機が岡山県で改作されて国産となり,各種農作業に応用されていく過程については次の論文に詳しく述べられている.
 福田稔,細川弘美「岡山県南部における農業機械化の展開過程」,農業発達史調査会編『主要地帯農業生産力形成史』下巻,農業総合研究所,1959年,185-89ページ.
 5) 筑後川農業水利誌編纂委員会『筑後川農業水利誌』,九州農政局,1977年,288-92ページ.
 6) 三潴郡北部の電気灌漑については,三潴郡耕地整理共同会から昭和4年にその事業の経過の取りまとめが「会誌」として出版されている.
 7) 佐賀市史編纂委員会『佐賀市史』4巻,1979年,353-54ページ.

 Ⅲ 電気灌漑事業と地域社会

 産業革命前後の九州は全国的な国内市場のなかにまで深く包摂され,移出される商品類も米,石炭,清酒,木?,菜種,茶,煙草などその種類も多いが,その大宗は米である.移入品は呉服太物,砂糖,繰綿,藍,肥料などである.九州の場合,織物業の展開を欠いていたことが特徴的であり,明治初期まで綿作,養蚕の展開がみられなかったという農業上の特質と結びついている1).
 九州における産業革命はまず明治20年代,30年代の筑豊における炭鉱業の躍進にはじまった2).この原料獲得上の立地を基礎に官営八幡製鉄所,長崎の三菱造船所,三池の三井系工業などに代表されるような国家資本および中央の財閥資本が乗り込む形で近代産業の移植,発展が行われている.国家的育成のなかで移植された工場制工業の発展は北部九州の重工業の構成を京浜,阪神地方のそれと比較してもきわめて特異なものにし,九州の産業構成に次のような特徴を与えることになった.地域の重工業製品市場の発達とは殆ど無関係に創設され,短期間に飛躍的成長をなしたために,地域内に機械工業の発展をみず,その製品の市場を専ら他の諸地方に求めざるをえないという特徴を長い間余儀なくされることになった3),そのような特徴をもつ北部九州の諸県のなかでも佐賀県は,福岡,長崎といった重工業の移植された諸県と異なり,めぼしい近代産業の移植がなかったために,もっとも農山漁村型の産業構成をとってきた地域であった4).
 全国的な概観としてみればそうであるが,このような佐賀県内にも農業と地場産業,それを中心とした地域内での技術と資源の循環をふくんだ地域社会が形成されていたことは重要である.とくに大正期の電気灌漑事業に技術と資金を提供してくれるのはこの地域社会の経済循環に負うところが多い.
 筑後川から有明海に抜ける河口の地帯は内陸部と海上交通を結ぶ結節点でもあった.その立地条件からしても,筑後川下流の両端をなす福岡県筑後地方と佐賀地方には藩政期から地場産業が立地し,物品流通の動きも目覚しかった.
 福岡県筑後地方は県内の郡部としては工場数,従業員数とも県内で最高に位置するほど,在来型産業の種類も多い.久留米耕,木工業,酒造業,製瓦業,花筵業,和傘製造などがあげられる.そのうち大きな分野を占めるのは久留米絣と木工業である.久留米絣は筑後川下流の農村に立地し,1887(明治20)年には製造戸数900戸,職工数1万弱が,明治末年には戸数1万5000戸,職工数4万7000人に増加している.木工業は筑後川河口の大川市を中心に周辺農村に拡がり,家具建具専門の産業として,域内に900戸の業者が居り,木工関係2000戸,従事者は4000人余となっている.クリークでの用水手段であった足踏水車の製造供給地でもあった.
 同じ筑後川下流地帯といっても佐賀県域では,在来産業の拡がりは福岡県筑後地方よりも数少ない.1910(明治43)年の生産額構成でみれば,農産物が53.3%,工産物28.3%にすぎない.それでも明治後期から大正初期の工産物としては清酒(3190千円),金属製器機類(724千円),セメント(661千円),売薬(705千円),麦粉(635千円),素めん(391千円),菓子(589千円)などがあり,それに有田の陶磁器(1288千円)と石炭業(4394千円,坑夫数18981人)がある.いずれも地域農業の生産物を加工する消費財生産部門であるが,生産手段生産部門も僅かではあるが存在した。セメント,鋳物,炭鉱用機械を主とした機械類がそうである.明治の後期にはこれら地場産業のなかから原動機体系を具えた工場制生産の域に達した製造工場もいくつか成長していた。後に述べる谷口鉄工場(職工200人,労働人夫120人),佐賀器機製造所(職工35人),厚生舎(職工43人),佐賀セメント株式会社(職工321人,労働人夫265人),真崎鉄工所(職工45人)それに唐津鉄工場(職工397人),香蘭合名会社(職工266人)などがそれである.そのほかにも石炭鉱業の幾つかの企業があげられる.
 電気灌漑の動力源である電力事業が佐賀の地に入ってくるのはそう早いことではない.日露戦争後,明治もおしつまった1907(明治40)年になってからのことである.しかしその普及,一般化のテンポは早い.電力事業の創業からわずか十数年を経た1922(大正11)年には農村動力線として佐賀平坦農村に電力網がはりめぐらされている。
 北部九州で電力事業が始まり,アンドンからランプ時代を経て電灯時代に入るのは1887(明治20)年から1897(明治30)年の間であった.1888(明治21)年に初めて熊本に電灯会社が設立され,1891(明治24)年には発電を行い,電力の供給をはじめている.日清戦争後に電灯時代がやってくるわけであるが,1894(明治27)年には長崎市,福岡市で電灯会社ができ,営業している.1897(明治30)年当時の福岡市の人口は7万人であった.佐賀では1906(明治39)年になって地元の有力資産家が中心になって発電事業を構想し,株式の募集を行ったが,県内では十分調達できず,松永安左衛門,福沢桃助など中央財界人の支援をえて11月に広滝水力電気会社を設立している.直ちに発電所の建設にとりかかり,1908(明治41)年に完成,送電を開始した5).はじめは佐賀,博多,久留米市に供給することを企画したが,すでに博多電灯,久留米電灯があって供給地域が重なるため,供給地域は佐賀県内に制限された.
 広滝水力発電はその後次々と各地の電灯会仕と合併し,また発電所を増設していき,1910(明治43)年には佐賀県全域への供給体制をつくり上げている.1912(明治45)年には火力発電にのみ頼った福岡市の博多電灯軌道に吸収合併され,九州電灯軌道株式会社となり,北西部九州一円の電力供給を掌握している.電気灌漑へ電力を供給するのはこの会社である.
 広滝火力発電に先立って炭鉱業では排水用の動力として電力を用いていた.当時佐賀県内第1の炭鉱であり,出炭50万トン,坑夫1963人の規模をもった芳谷炭鉱では,1899(明治32)年,自力で自家発電所を設け,1904(明治37)年には蒸気機関から電力に切換えている.1906(明治39)年には坑内主要馬力数は1544馬力.他の炭鉱の動力が100馬力程度であったことに比すれば桁違いの動力量である.
 大正期の電気灌漑事業でいま一つ見落すことのできないのは外国製器機を直輸入した明治期のそれとは異なって,地元企業の創意工夫とその技術的力量に負う部面が多いことである.筑後川下流クリークでの電気灌漑も,その作業機体系を開発したのは地元企業であった.
 電気灌漑は固定した1-2馬力の小型電動機と揚水機を連結して揚水し,それを3-4町の田圃に送水する施設であるが,この小型電動機および配電線の建設を受持ったのは佐賀郡内に工場をもつ日本電機鉄工株式会社である.この会社の前身は真崎鉄工所であるが,その創立者である真崎照郷は1851(嘉永4)年,父祖代々酒造業を営む素封家に生まれた.1874(明治7)年,彼が24歳の時にこの地域で盛んに行われていた手延素めんの機械化を思いたったのが鉄工場のはじまりであった.このことからしても,この鉄工場は地域の特産物である素めん生産に密着した生産手段製造業として発足している。爾来,研鑚を重ね,日清戦争後には新事業が勃興し,めん類製造機械の販路も開け,分工場を東京に設け,上海に支店をおき,大邸に出張所を設けて各地方に特約店をおくまでに成長している.日露戦争後の1908(明治41)年には製粉機の製造を手がけ,1910(明治43)年には電動機,高圧タービンポンプ,発電機等の電気器機の製造に入っている.1916(大正5)年には佐世保,呉の両工廠の指定工場となるまでにその技術は社会的信用をえている.
 第1次天戦後の好況期に,電気諸機械製作を順調に発達させるために法人組織に改め,藤山雷太(大日本製糖社長,東京商工会議所会頭)を社長として,日本電気鉄工株式会社として1918(大正7)年,組織替えを行っている.敷地1687坪,工場建物5棟695坪の本工場の他にも,敷地1046坪,工場211坪の分工場をもち,200馬力までの電気機械および電動機直結タービンポンプを製作し,一時は職工数250余名にまでなっている6).
 この会社が農業の電気灌漑と関連をもつのは照郷の息子,真崎伍一の時代である.県庁から平坦部の揚水機をつくってほしいという話を持込まれた伍一は,1919(大正8)年に3馬力位の小型の石油発動機を輸入して,これを舟に積みポンプと共にクリーク内を移動して,必要な場所にこれをつないで揚水するよう工夫し,自ら実験している.しかし,この方法では実用化するには至らなかった.原動機とポンプに何を選ぶかについて,技術的,経済負担の両面から諸々検討された結果,電動機直結のヒュウガルポンプが最適という結論に達し,機械および施設を一切自社で引受けている.
 このような地域社会の協同体制のなかで大井手水利組合の事業として図5-4に示されるような佐賀平坦農村の電力灌漑網ができ上がっている.
図5-4 大井手電気灌漑網略図-佐賀平野における機械灌漑
佐賀市を中心とした12ヵ町村,4224ヘクタールに配電線がはられ,465棟のポンプ小屋に1-2馬力の電動ポンプが1台ずつ据えつけられ,ポンプ小屋からは数十間の配水路が圃場間を走っている.1馬力当りの灌漑面積は4.5ha,総馬力は946馬力である.総工費は87万円余,反当りにして20円63銭となっている.この事業には国,県からの補助金はなく,政府および勧業銀行からの低利資金の借入れによって資金をまかなっている.
 こういう地場企業と地域農業との結びつきは他の農業機械化の場合についてもみられる.藁加工や花筵業における回転足踏製筵機(1932(昭和7)年考案)や自動高速製筵機(1949(昭和24)年考案)にしてもそうである.そしてさらに戦後の農業機械化のはしりとなったこの地域の自動耕転機も筑後地方の竹下製作所(従業員36人)の考案に負っている.
 しかし,こうした地場企業と地域農業の結びつきも,その後の資本主義の構造変化のなかでそれが拡大して地域社会としての豊かさを増していくとは限らない.明治末から大正期にかけての日本資本主義の構造変化を地域という立場からみるならば,そこには次のような3様の流れがある.
 その第1は,近代的な産業分野で技術の革新や大規模化の進行にともなって企業の集中,集積が大幅に進んでいることである。銀行,電力,鉄道,石炭業などの分野がそうである.第2のそれは,中央の大手資本の工場が地方のすみずみまで進出してくる流れである.佐賀でも第1次大戦直後,地場産業での従来の規模をはるかに上回った1,500人の職工をもつ大規模工場(紡績)が進出している.これらの進出工場が立地してくる誘因は農民層分解の進行にともなって農家,農業から隔離されてくる低労賃,低地価と職工の勤勉さということであり,そこには資本の効率的な利用のみを先行させた大手資本の利殖欲がギラギラしている。これら独占化した大手資本を主体とした流れに対して,いま一つの流れをなすものは在来型の地場産業あるいは地場機械産業の成長であろう.
 第1の流れを電力,石炭業についてみれば次のようである.次々と北西部九州の電力事業を吸収合併して電力供給の地域一円体制をつくり上げてきた九州電燈鉄道会社が名古屋地方の電力事業と合併して東邦電力となり,九州の電力事業は東邦,九水,熊本電気,九州電気軌道,日本水力電気の5社に統合され,そのうち東邦電力と九水が覇をあらそって南九州の河川での電源開発に向かうのも大正後期である.
 佐賀県の石炭業にしても同様である.佐賀県の炭田は筑豊,長崎と並んで北部九州の炭鉱業の一角を占めるが,その出炭量を比較すれば筑豊に比してはるかに小型の炭鉱業であった.そこでの出炭量は1910(明治43)年の90万トン(坑夫数10,000人)から1921(大正10)年には180万トン(坑夫数24,000人)と増加しているが,炭鉱数は48から25に整理淘汰されている.大正末にはさらに19に減少している.1920(大正9)年の出炭量を規模別にみたのが表5-4であるが,そこではすでに出炭量の8割以上は10万トン以上出炭の五つの炭鉱で占められており,しかもそれらの炭鉱は三菱,貝島などの中央財閥あるいは地方財閥の支配下に組込まれている.
表5-4出炭規模別の炭鉱数(1920(大正9年))
 福岡県,熊本県では紡績業での大手資本の進出はすでに早くからみられた.1889(明治22)年に久留米絣用の綿糸を他地方から買わずに地元でまかなうために,久留米紡績ができた.これを皮切りに三池紡績,熊本紡績,博多絹綿紡績さらに1897(明治30)年には中津紡績がいずれも地元資本によって設立されていた.しかし1901(明治34)年の恐慌によっていずれも鐘ヶ淵紡績に合併し,その分工場となっている.佐賀県内に大手紡績資本が進出してくるのは第1次大戦の勃発によって景気に恵まれた大正初期になってからである.1917(大正6)年から1918(大正7)年にかけて片倉組鳥栖工場および鈴木商店の系列にあった佐賀紡績会社の工場建設である.いずれも最盛時には工員数1500人といった規模であった.佐賀紡績の工場は1917(大正6)年に地鎮祭を行い,工場建設にとりかかり,翌1918(大正7)年には開業式を行っている.1920(大正9)年には紡績機3万2000台,撚糸機6400台,織布機400台で男子300人,女子1200人の職工数を誇った.
 佐賀がこのような進出企業にとって,どのような利点をもつかについて,当時の「佐賀新聞」では次のように報じている7).
 絶好なる起業地,佐賀が紡績起業地として九州唯一たるは夙に紡績界に於ける定評の有するところ.元来,該業を起すに当ってその選択標準とするは,広大にして低廉な土地,職工募集の容易にして其労銀低廉,運輸交通の便利,動力供給に容易,等々の諸点なるが,以上の諸条件を申分なく具備するもの九州中佐賀を措いて求むるに能はず,説明するまで.もなく,佐賀の土地は比較的低廉にて,面積の如きは望むが儘なり,而して人は多く労銀随って安し,加ふるに佐賀より各地紡績に出稼する工女の成績を見るに,指先の技工こそ精々劣れ,忠実にして勤勉なる点に於て斯界に歓迎されつつあり,又た交通には鉄道あり,動力には石炭あり電気ありて,紡績起業家の着目す亦所以なしとせず.
 そこでは立地条件の良さとして低労賃,低地価と労働者の勤勉が上げられている.すでに大正期の工場進出にとって,地域は,労働力資源の有効利用という側面からのみ,とらえられるようになっていたことが,この報道でも明らかであろう.そこには地域社会の産業連関あるいは経済循環という視点はひとかけらもない.
 中央の大手資本による主要産業の合併を含む独占化とその地方進出は,産業革命期のような近代産業の発展が同時に在来型産業の工場制生産への成長・転化を促進していくといった同時並行的な関連はすでにない.そこでは地場産業の展開や地元資本の蓄積を困難ならしめるような形で進行している.大工場が大資本の出先工場であり,資材の購入さえも中央によって行われているため,地域における市場を形成してくるのは主として労賃部分と自生的な農業所得となっている.地域社会としての循環をもった地域経済の拡大再生産はそれだけ狭められてくる結果とならざるをえない.独占と中央集権型の発展の典型ともいうことができよう.

[注]
 1) 大橋 博「九州における近代産業の発展」,地方史研究協議会『日本農業史大系』8巻,東京大学出版会,1960年および同氏著『地方産業の発展と地主制』,臨川書店,1982年,132ページ.
 2) 木下悦二『日本の炭鉱業』日本評論杜,1957年.
 3) 波多野 鼎,吉村正晴「我が国民経済における北九州重工業の地位」,『社会政策時報』193号,1936年,および九州経済調査会編『九州経済の現状』,九州経済調査会,1956年,16-21ページ。
 4) 田中 定「九州の経済地理的考察」,『社会政策時報』193号,1936年.
 5) 明治41年の広滝発電所(1400馬力)の建設事業については,佐賀市史に記述されているが,その器材,施設はドイツ製のそれを使用している.
 この発電所の規模は,水路の延長270メートル,トンネル240メートル,落差175メートルであり,その建設は地元の建設業者松尾組と外2業者で組織した.佐賀土木組合が請負っている工事請負の主管者は松尾組であった.建設用器材の主なものは主としてドイツ製であり,ドイツ・フォイト会社の800馬力水車,ドイヅ・レーメンス・シュウケルト会社の1000ボルト発電機2基を使っている.これらの発電機は41年3月,神崎駅に到着した.それらの器機は余り大きく一度には運搬できなかったために,25個に分解,梱包し運んでいる.41年8月には2人のドイツ人技師が来日し,発電機の据えつけを行い,9月には試運転している.
 発電所建設に必要な資材は,セメント・石灰・大型導入管,並型導水管などであるが,大型導入管は地元企業である谷口鉄工場がつくり,並型導水管は筑後川対岸の大川市にある深川造船所でつくった.セメントは4万2千樽,火山灰7千俵,石灰6千俵,英国レンガ157万個を使っているが,レンガは北九州戸畑港に陸揚げされ,神崎駅まで汽車で運び,駅から現場までは、馬車100台余の長い行列をつくって運んでいる.
 試運転成功後,佐賀市に本社を置き,久留米など数カ所に変電所を設けて,42年1月1日から送電を開始した.
 6) 中山成基『佐賀県経済百年史』,佐賀新聞社,1960年,115-17ページ.
 7) 佐賀市史編纂委員会『佐賀市史』第4巻,142-43ページ.

 Ⅳ 農村における組織体制の整備

 大正後期の電気灌漑事業という技術革新は日本資本主義の独占への移行といった構造的変化に際してクリーク水田地帯の家族小農を再編していくものであった.そこに展開される「自小作前進」という小農の動態化は当時農村を風靡していた小作争議とならんで,地主制から自律農制への転換といった第2次大戦後の土地制度上の改革にも結びついていくものであった.それだけに電気灌漑といった技術革新を受容してきた農村の社会的な基盤についても従来から多くの関心がもたれ,技術革新主体の階層的性格という.問題に関してすでにいくつかの貴重な研究成果が発表されている.この「技術革新の階層性」といった問題も重要である.しかしいま一つの問題もありえよう.それは在来的な技術を継承してきた伝統的な農村社会のなかに,このような技術革新を受容するだけの農村の組織体制がいかに形成,集積されてきたかということである.
 電気灌漑事業は数千町,数千戸の農家を包み込んだ組織的事業であるが,明治期の耕地整理事業とは違って,大地主を中心とした地主層によって組織されていった事業ではない.この事業が農村社会における地主制の再編ではなくて,高度産業社会に家族小農を適応させていくための家族小農の再編といった意味をもつ所以もここにある.このような農村の諸組織は勿論,生産主体の階層性ということと無関係ではない.しかし,ここでは新しい農村の諸組織がいかにうくり上げられていったかということに重点をおいてみていくことにしたい.
 この明治末から大正期にかけての農村の組織活動をみていく場合,重要な一つの要素となるのは教育の普及と小作争議の影響ということであろう.佐賀県の場合,1886(明治19)年の初等教育の就学率は42%(男子61%,女子20%)であった.しかしその後の初等教育の普及は目覚ましく,男子の就学率が8割に達するのが1894(明治27)年であり,女子のそれが1901(明治34)年である.ほぼ明治の末年には農村の中堅的な働き手はそのほとんどが初等教育を終了しているという農村状況がつくり出されている.明治末年,農家の現金支出の3大項目として買肥,教育費,諸負担があげられ,農家の商品経済化にとって拍車をかける役割を果たしているといわれるのもうなずける.大正初期佐賀県の中等教育は中学が5校,工業学校が2校,商船・商業・農業学校が1つずつで計10校,1ヵ年の入学生が900名であるが,男子の中等学校進学率は6.6%となっていてさして高い数値ではない.明治後期には中堅的な農業者がほとんど初等教育を終了していることは,慣習的な農業技術慣習にたいして,いわゆる近代的農業技術を受容していく基盤をなしたであろうし,また土地資産の所有によって序列づけられた農村社会にたいして,勤労の徳を謡歌するといった価値体系をもたらすものであった.
 この時期の土地改良事業は当時の小作争議の激発と無関係ではない.福岡県三潴郡の電気灌漑事業の事蹟録1)には,旱魃が小作問題として激化していく状況をつぶさに示しており,この事業が小作料減免,小作争議にたいする慰撫策として行われ,自小作,小作農民層の新しい組織づくりでもあった.
 佐賀郡北川副村では耕地整理組合を組織し電気灌漑事業を行っているが,この耕地整理組合の付帯事業として小作人組合を設立して,その目的として次の2点を掲げている.
 1. 本村耕地整理組合ノ事業ニ賛成シ之ガ達成ニハ応分ノ義務ヲ負担スルコト
 2. 小作人ノ親密ヲ計リ小作道徳ノ向上発展ヲ期シテ地主トノ関係ヲ親密円満ナラシムルコト
 この小作人組合は同村の小作農や自小作農をほとんど全て組織しているが,この小作人組合長が1922(大正11)年の5月には耕地整理組合長、9月には同村村長になっている2).小作争議との関連で自小作農層の社会的スティタスが変化し,たんに技術革新や農業投資面だけではなく,従来多く地主層,またはその代理によって行われてきていた村政の側面でも一つの階層的な交替が進行していることを意味している.
 明治期の前半では地方行政制度は幾度となく改編を繰返しており,それが定着してくるようになるのは1890(明治23)年の町村制の施行および1897(明治30)年に郡制が施行されるようになってからのことである.それだけにこの時期の勧農体制はいまだまとまった組織体とはなっていなかった.むしろ林遠里の勧農社や各地で催された農談会といった,それぞれの地域の自作地主層を主導した個々の農業指導者によってつくられた個別的な組織が農事改良の活動主体となっていた.
 ところが1897(明治30)年以後になると,わが国の国家体制や諸機関も整備されてくるし,勧農上の組織体制も政府の指導によって急速にととのえられてきている.水利組合法,耕地整理法,農会法などの法的体制が整備され,中央機関が設立されるというにとどまらず,佐賀や筑後といった遠隔地地帯においても,そういう中央機関の整備と歩調をあわせて地方組織も短時日のうちにととのえられている.そのような農村の組織体制による活動の積上げが,大正期の電気灌漑事業の実施にとっても大きな背景となっている点は重要である.
 電気灌漑事業を直接に遂行した団体は福岡県三潴郡では耕地整理組合(耕地整理組合法による)であり,佐賀県では普通水利組合(水利組合法による)である.
 しかし,それぞれの地域でこれらの大規模な土地改良,そして技術革新に方向性を与え,その段取りを準備してきたのはなにもこれら組合だけの力量ではない.明治後期から各地で整えられてくる農村の諸機関,諸団体の組織的活動の積上げが大正期になってこれら事業を軌道にのせ盛上げてきたということができる.そのような農村社会の組織体制として注目されるのは,第1には地方官庁の勧農体制であり,第2には府県立の農事試験場による地域実態の調査・研究とその普及体制の整備である.さらに第3のそれとしては各府県ごとに設立された系統農会組織の活動があげられる.農会組織は郡や県の段階での組織はすでに明治期末にはととのえられていた.しかしそれが町村や集落といった生産現場にまで及んでくるのは大正期に入ってからのことである.
(1) 地方官庁の勧農体制
 明治期において農商務省の訓令にもとづいて各県庁でも慣行的な農法に対して改良技術の普及浸透が,勧農施策として数多く実施してきたことについては,すでに多くの文献でもふれられている.佐賀,筑後,熊本といった有明海沿岸諸平野でとくに注目されることは,勧農施策の実施にあって地域特有の問題をかかえ込んでいたことである.それはこの地域の諸平野では螟虫被害が大きく,改良的な農法の実施にあたっては,この螟虫を駆除することがなによりも先決であった.とくにその被害は1戸当り耕作面積が大きく,水稲の田植を早中稲と晩稲の2回に分けていた佐賀平野の場合がもっとも甚しいものとなった.毎年少なくとも1割以上の損耗をうけたし,6,7年おきには非常な大害をうけるという状態を繰返していた.このため作付けられる品種も百数十種から二百種に及んだ3)といわれ,螟虫被害を少なくするため,苗代の厚播きによって苗を軟弱にしていた.これは軟弱な細苗には螟虫がつきにくいといった経験からである.雑多な品種構成,害虫の被害は当然品質の不統一,低下となるし,販売市場での声価をおとすことにもなる.しかし優良品種の選択や統一,健苗の育成,改良栽培法などを普及しようとしても,螟虫の駆除が先立たねば実用化も不可能であるといった悪循環をたどっていた.県の勧農対策も当然ここにおかれることになる.
 螟虫の駆除については,福岡県三潴郡の水田村の村長をつとめた益田素平によって,その発生経過やその駆除法はすでに1877(明治10)年に明らかにされている.その駆除法をかれの著書『稲蟲実験録』によってみると,(1)螟虫卵の採集,(2)幼虫の捕殺,(3)稲株切断,(4)ワラ中の螟虫除去,(5)点火誘殺,(6)稲作挿秧期の統一,という6ヵ条からなっている4).この1877(明治10)年に開発された螟虫駆除対策が佐賀平坦で完全に実施されるのは,なんと電気灌漑事業が行われた後の1924(大正13)年である.開発された技術が実用化されるまでにおどろくなかれ約50年近い歳月を要している.それは何故か.益田素平があげた(6)の「稲作挿秧期の統一」が電気灌漑事業による揚水の機械化まで実施されえなかったためである.
 明治期の螟虫駆除といった勧農政策も,その実施事項を県令によって定め,国家権力によってそれを徹底し,違反者には拘留または罰金を課すといった権力的な性格のものであった.このような権力による強制に対して1880(明治13)年には「稲株騒動」といわれる農民暴動が起こされていることは周知の事実である.
 佐賀県の螟虫駆除対策でも各郡,町村に害虫駆除委員をおいて農家の駆除を督促するとともに,県の技師,技手という職員とともに警部,巡査といった警察部関係者までも委員に任命し,県令の実施を監督するといった体制をとっている5).警察権力の動員ということもさることながら,県の行政組織としても勧農関連の恒常的な組織体制が十分ではなく,臨時的に警察関係者も動員せざるをえなかった実情を物語っている.しかしそのような行政組織ではその効果も「その場限り」のものにすぎなかったのは当然であろう.
 権力丸出しの施策から,経済的刺激による勧農体制へと漸次推移してくるのは1908(明治41)年以降になってからのことである.まず,1908(明治41)年の改正によって警察関係者を駆除委員からはずし,新たに専任の予防監督官をおき,県内の各委員の指導督励をさせるとともに,町村や村落に害虫駆除励行組合をつくらせ,その成績佳良なものには奨励金を交付するといった組織体制に切りかえている.ついで1911(明治44)年には管内を農区に分かち各農区ごとに農業技手を常駐させて,区域内の一般農事にかんする指導奨励をはかるようになった.さらに1915(大正4)年,1917(大正6)年には農区を細区分して技術員の増加・充実をはかり、各農区ごとに郡農業技手としての技術員を常駐させている.郡技術員の常駐しない町村には,村農業技術員をおくように奨励し,その経費は郡役所の費用によって補助している。このように県の勧農体制も,郡,町村単位にきめ細かく整えられ,農家と直接接触する技術員を恒常的に配置するという体制にととのえられてきている.ちなみに1915(大正4)年の佐賀郡役所の組織機構図6)を略示すれば次のようになっており,いかに勧農施策に重点をおいていたかは明らかであろう.
 1914(大正3)年の郡役所経費は1万7650円,うち勧業費が1万1457円で64.9%を占めている.この郡内に23ヵ村あるが,その歳出合計額は30万6000円余,その内訳は教育費33.2%,土木費が17.3%で勧業費はわずか0.3%の割合である.地域の恒常的な勧農体制の中心は郡役所にあったといえる.当時の郡長は管内の水利組合の管理者であり,水利組合の書記は郡技手がこれにあたっていた.この郡役所の勧農組織が明治末から大正期にかけて,国,県から補助をえて急速に整備されており,あわせて勧農施策自体も「権力による強制」から,直接生産者の「経済的利益を刺激する」ことへと変わってきていることは注目してよい.電気灌慨事業もこのように整備された勧農施策と組織体制のうえで行われたものである.さきに電気灌漑事業を発議した大井手水利組合の管理者早田辰次が佐賀郡長であったことは前記しておいた7).
(2) 農事試験場の調査研究と技術普及体制8)
 国立の農事試験場ができるのが1893(明治26)年,その翌年にはすぐ府県農事試験場規定が出されているが,佐賀県立の農事試験場ができるのは1900(明治33)年である.その発足時には場長以下5名の職員であるが,稲作改良上の最大の課題が娯虫駆除であったことから,優良品種の選抜,螟虫にたいする抵抗品種の選抜が重要な課題であった.設立の翌年には菌虫室を設置して,二,三化螟虫にたいする調査研究をはじめている.1902(明治35)年から継続して行われる点火誘殺蛾数調査は三化螟虫の第1回発蛾期が6月20日前後に終ることを実証的に確認しており,電気灌漑事業の実施と晩稲1期作への統一にとって大きな足がかりをなすものであった.
 佐賀県に西欧的な農学の素養をうけた農学者が活躍するのは1890(明治23)年,県庁に農事巡回教師が設置され,駒場農学校卒業生の楠原正三が着任したのがはじめてである.1894(明治27)年には同じく中村直が着任している.中村は1895(明治28)年に簡易農学校の設立と同時にその校長となり,専門的な農業技術者の教育をはじめている.1895(明治28)年といえば,先にあげたように農村部の子弟の初等教育の就学率が90%の高さに達していた時代でもあった.
 明治40年代に入ってから,地方官庁における農区技手の増員に対して,その教育の役割を引き受けたのが農事試験場と農学校であった.農事試験場では1910(明治43)年以来,甲種農学校卒業生で実地研修を希望するものを見習生として入場させ,1年間の実施研修ののち,郡,町村の技術員として配置するという技術員養成事業を行っている.当時農学校は1895(明治28)年設立,1898(明治31)年甲種となった1校のみであったが,1910(明治43)年から1918(大正7)年までの9年間に38名の技術員を送り出している.大正期,佐賀平坦で電気灌漑事業の実施に活躍しているのも,これら現地教育をうけた農業技術者の若き群像たちであった.
(3) 県農会の活動
 明治20年代の後半になって創立されてくる府県の農会組織は,一面では農業者の団体という性格をもつものであるが,同時に地主的なヒエラルヒーを行政的機構の外郭にあみこんでいくというものでもあった.農会は建議,請願などの行政活動を行うとともに,農家に改良された技術の普及,とくに指導督励をはかる役割を担わされていたが,農業技術が単に中央の画一的な技術ではなく,地方の実態にそう技術として確立されてくるならば,それは地域農業の技術進歩にとって,それなりの意義をもちうるものであった.
 佐賀県で農会は1899(明治32)年の農会法公布に先立って1896(明治29)年に設立されている.1894(明治27)年2月に県訓令を発して農会設置を促しつつあったが,1895(明治28)年3月には農会設置準則を発して,従来の農談会や集談会の活動に加えて病害虫駆除,肥料共同購入,副業,農事統計を併せ行うべきことを示して,その設置を勧告している.この準則にもとづいて各郡の設置準備がすすみ,規約をつくり,県庁の認可をうけて郡農会をつくり,各郡がそれぞれ若干名を選出して会員27名をもって1896(明治29)年県農会を設立している.
 1899(明治32)年,農会法の公布によって,中央機関として全国農事会がつくられ,県郡農会をその組織下におくことにより,全国的な農会の組織網がつくられた.農会の活動は農家に対して耕地の地価割に会費を徴集しているが,政府からうける補助金を上級の農会から下級の農会に流し,または下級農会から上級農会に対して費用を分担支出する体制となっており,各県でも県費から補助金を出していた関係上,各農会長には知事,郡長,町村長の兼任といった形が多くとられていた.農業者の団体とはいえ,官制的に組織された団体である.
 しかし,地方官庁の勧農組織の整備がととのい,農事試験場での地域実態についての調査がすすみ出してくる明治40年代になると,地方官僚にかわって民間の農村指導者が農会長の職についてくるようになる.佐賀県でも1910(明治43)年には,県農会長には西川副村の村長をやり,佐賀郡の農会長も経験した今泉良子がその職責についている.
 この今泉良子は県農会長として,すでに1912(大正元)年12月,螟虫被害の根絶の対策として「水稲の挿秧期を統一していく」ことを呼びかけ次のような意見を述べている.

螟虫撲滅策に伴う麦作奨励
大正元年12月1日
佐賀県農会長今泉良子
 本県平坦部佐賀郡を中心最高点として東は神崎三養基西は小城より杵島郡の東方一部5郡に亘り往古より三化性螟虫被害稲穂枯れ厳しく,毎年少くとも1割以上の損耗をなし居る外,6,7年目毎に非常の大害を蒙り大不作をなし大中小農共に相苦み,此場合に多くの小農倒産するものありて農を止め,商業に変じ,先代より住み慣れたる故郷を離れ炭山その他に一家を挙げて移転するものあるは一般に知らるる如く実に憤慨の至り.依て余が先年村長たりしとき此の大害を除かんが為め早稲田全廃晩稲一期作に更改するの思想を起し我が一村に試みんとせしも及ばず,其後此の目的を遂げんとの思念はありしも,之を発企するの時期を得ず知らず知らず10有余年経過しました.而かも年々農業者の知識も進歩し,公徳も次第に重んぜらるる様なるものなれば自然にも中稲廃止の傾向を来すものと相待相楽み居りたるが,事実幾分は進みたるも前途甚だ遼遠なる様に存ぜられます.此有様にして過ぎ行く間本年の如き螟虫繁殖の好気候に遭遇したる時は現に官農一致駆除に充分相努あられたるも尚ほ斯の如き穂枯れの惨状を来したるをみれば,少々の弊害はあるとしても少々難事としても根底より撲滅の方法を講ずるの必要を認むる次第である.其方法としては現在相行ひある稲株切断及び螟卵採取其他稲株掘取焼却稲藁処分等種々あるも之れ多数の農業者の個人的事業なれば,何分にも根底より撲滅する様周到に励行するを得ず.或る程度までは出来得るとするも左記参考の通り此の二期作は三化性螟虫の蕃殖を相助くる不良の方法なれば之を改めざる限りは此平坦部農業者の辛労困苦は来世相免れず去り迚て一時果断に更改することに奨励するも亦た相行はれ難き様思はる。実に残念の極みなりとす依て爰に関係農業者に同意同情を得て再び此の中田廃止を徐々に相試み相遂げんと欲す.幸に本年は農業者各自にも麦作増加の意嚮あらるる由なるを以て今一層の大奮発を以て佐賀神崎小城郡の平坦部にも晩稲跡地には成る可く多く麦其他の夏毛を仕付け,其収利を得ることにし又た多くの晩稲を植えることに致しましたら万一にも晩稲が中稲より幾分の不作をなすも夫れにて相補ふことを得て格別の大損もなき結果とならん.而かして毎年此の法をして幾分づつ相増し相進むことにしましたら只今座上より思ふ様には難事でなき様にも考へられます.私が記憶する明治20年頃は佐賀郡南部当りは中田6歩晩田4歩位でありましたが,今は殆ど5分5分に近き割合の様に見受けられます.それで此の5分をして今より年に1歩づつ(但し1町歩作りは中田5反以内晩田1反づつ)多く晩稲を作ることにせば5年間には全部一種作5厘づつとして10年間には其目的を貫徹するものなれば,思ひ立ちたるときが吉日とし多少の労苦は相忍んで公共のため御着手あらん事を希望す積善の家に余慶あるとは聖賢の語却て明年には晩稲満開するかも相知れず,是非御奮発を願ふ此の願望は不肖私一人の所見にあらず技術者をはじめ一般有識有志の人々が堂々懇望せらるる事柄なれば詳細の利害は技術者と吟味せられたく又た一村或は一部落集会を催さるるなら可成県農会より出張せしむ.尚私にも日間あらば螟虫に関する説明を新聞紙にてなり委しく報導致すことに勉めます.
 このような現地の技術者,農会の活動力が,約10年後に電気灌漑事業の実施,1924(大正13)年の水稲一期作の実施として結実している.

[注]
1) 三潴郡南部のクリーク地帯では耕地整理組合を組織して,電気灌漑事業を行ったわけだが,その事蹟のなかには農村の一大問題として「小作問題」が起っていると関連させている.
 「本組合の地域は地勢平坦にして高低傾斜少なく,且つ耕地に対する水源の見るべきものなく,わずかに溝渠に貯水し,踏車により給水せる実情なるを以て,一朝旱天連続するときは数段の踏車を要し,然かも渇水を訴うる状態になりしが,電化後は之が憂全く要くなった.且つ収穫の確実性を大ならしめ,施肥,除草,害虫駆除を従前よりも非常に便利ならしめ,従って収穫増加,品質改良等の実益大ならしめた.旧慣による地方農業者は,時々起る渇水惨害も当然の事として之が改良に留意するところなく,農業経営の経済化に関しては何等考慮することなきを常としたが,民は労働の節約,農業経営の合理化は一に農事電化にあるを覚り,大正十一年大旱魃に遭遇するや,早害に併せて虫害を伴い,また時世と共に農民の思想にも一大変化を来し,各地に小作問題の起る等面白からざる事態を惹起する傾向見えたるを以て斯くては憂慮すべき農村の一大問題なるを憂い,郡当局をして地方有志を説かしめ地方農村の救済を企図して従前の足踏式水車を廃し,耕地面積に動力線を延長して,小口動力揚水機により灌漑することは農村救済の最大の急務なるを知り,三潴南部十ヶ村三千余町歩をまとめ,民自ら組織し大正十二年これが工事に着し,...大正十四年五月これを完成せしめた.
 如上の成績は電動機四一六合計五八八馬力にして,電化面積二千七百十八町歩,工事費七十一万四千三百四十七円......一年に於ける労力節約の利益二十四万七千四百円,他に踏車節約費八万千五百六十円,合計三十二万八千七百余円と称される.」
(『耕地水利事業功勲録』上巻,486-87ページ)(傍点引用者)
2) 磯辺俊彦,前掲書,35-36ページ.
3) 嵐 嘉一『近世稲作技術史』,農山漁村文化協会,1975年の第5章「三化螟虫」参照
4) 明治期の螟虫問題については,鎌形勲『佐賀農業の展開過程』,農業総合研究所,1950年に詳述される.とくにその第3章「瞑虫問題と初期の対策」を参照のこと.
5) 宮島昭二郎『米づくり』,亜紀書房,1969年.
6) 佐賀郡教育会『佐賀郡誌』,1915年による.なお,明治22年,市町村制の施行によって村長制が採用され,議会も設けられ,吏員もおかれたが,町村による業務組織がどうなっていたかは明らかではない.同じ佐賀県内の多久村の事例でみれば,大正10年で,村長,助役,土木委員2名,労務委員4名,区長11名,区長代理11名は名誉職とし,収入役,書記3名,庁丁2名計5名の職員をおいている(『多久の歴史』,1964年刊).
7) 佐賀郡内での水利組合は,明治23年の水利組合条例,24年の県訓令で普通水利組合準則を定め,25年にはすでに川副樋管水利組合と大井手水利組合が成立した.次いで27年に横落水道普通水利組合,本庄村外二ヵ村組合が設置され,郡内のほぼ全域が水利組合に組織されている.これらの水利組合はいずれも佐賀郡長が管理者となり,その管理下におかれている.郡長の管理外としては,八田江水利組合があるが,その管理者は東与賀村長である.
 このようにクリーク地帯の用排水管理は佐賀県では水利組合条例による普通水利組合によって行われているが,同じクリーク地帯でも福岡県では市町村制に基づく町村組合をつくり,市町村自治体が直接管理する方式をとっている.
 佐賀県内で最大の大井手水利組合の当時の機構をみれば,全区域を17区に分割し,佐賀市より4名,他の区はすべて1名ずつの割合で総数20名の組合会議員を選出し,そのうちから常設委員として10名を互選した.費用は事業収入と管内からの賦課金によってまかなったが,賦課金は土地賃貸価格を基準にして賦課している.
8) この項は『福岡県立農業試験場百年史』,1979年刊と『佐賀県農業試験場五拾年史』,1954年刊によった.
[陣内義人]