技術と農村社会

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水利の社会構造

論文タイトル: 第6章:北海道「大正用水」灌漑地域の稲作展開の特色と現状
著者名: 七戸 長生
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第6章:北海道「大正用水」灌漑地域の稲作展開の特色と現状

Ⅰ 序 説
-北海道における稲作水利の展開経過の概括-

(1) 北海道農業の基本的特質の形成
 北海道の農業的な開発が本格的に進められたのは,明治新政府が1869(明治2)年8月に北海道開拓使を設置したときから始まる.
 明治新政府の北海道開発の主要な眼目は,まず第1には幕末以来の「北辺警備」のための軍事的な必要に応えること,第2には北海道に豊富に賦存していた木材・石炭などの工業原料資源の開発を進めること,第3に広大な農耕適地を開発して欧米先進諸国の農業に準ずる新しい農業を打ち立てること,そして第4には狭い本州にひしめきあっている人口を扶植・移住させることによって日本全体を「活性化」させること,このおよそ四点に要約される.そしてこの四つの眼目は,その後もそれぞれの時期によってさまざまな起伏を示しつつも,今日にいたる約100年間の北海道の歴史の上に強烈な影響を及ぼしてきた.
 こういった歴史的・社会経済的な諸条件と並んで,北海道の農業の展開経過を跡づける際に注目すべきことは,その自然的条件の特異性である.すなわち気象条件の面からいえば,北海道は温帯の北限から亜寒帯の範囲内に属し,動植物の自然分布も一目して本州とは著しく様相を異にしている.また土壌条件についても,開拓の当初は欝蒼たる森林に覆われていたため「原生的地力」に富んでいたが,その大半は火山灰性の軽鬆な土壌か,重粘土壌によって占められており,大河川の流域の低湿地には広大な泥炭地帯が分布していて,本州在来の農耕方法では容易に利用しかねる土地が多かった.
 したがって,北海道における本格的な農業開発の着手にあたっては,本州在来の農業とは全く様相を異にした新たな欧風農法の確立が企図された.すなわち開拓使は1871(明治4)年に開拓方針ならびに開拓技術の方向づけに参画させるために外人専門家を招聘し,同時に彼等から技術習得をするための学校(開拓使仮学校)を設置するとともに,技術導入のための試験研究施設(開拓使附属官園や七重開墾場など)を設置した.また開拓使が直接海外へ留学生を派遣するという活動も積極的に進められ,ただ単に農業生産技術の輸入ばかりでなく,科学技術全般,さらには食生活や家屋構造,暖房施設などにもまたがる生活技術全般の積極的な摂取が意図されたのであった.
 こういった開拓使の要請に応えて多くの外人専門家が精力的な活動を展開したが,その中でも,開拓使の最高顧問として招聘されたケプロンは,アメリカ合衆国農務局長官であった経験を生かして,部下の幕僚に北海道をくまなく調査させ,いわゆる「ケプロン報文」を数次にわたって開拓使に提出し,北海道開発に関する基本的な献策を行った.彼は,自然風土の条件がアメリカに似ているとみられる北海道で稲作を行うことは著しく不適当であるから,ここに打ち立てるべき農業は,欧米の農業機械を駆使する大農法を骨子とし,米作のかわりに麦作を中心とした欧米の新作物をとり入れた畑作農業であるべきことを力説した.
 こういった外人顧問の意見・献策は開拓使によって必ずしも全面的に採用されたわけではなかったが,洋式農具による新しい農法の導入,畑作物を中心とする新作物の導入,畜産の振興,これら農畜産物の加工,などに重点をおいた政策が精力的に展開された.それは同時に「殖産興業」の方向にそった数多くの官営工場の開設とも連動していた.たとえば,今日,きわめてポピュラーな大麦,小麦,裸麦,えん麦,とうもろこし,ばれいしょ,人参,菜豆,えん豆,キャベツ,かぶ,南瓜,たまねぎ,トマト,大麻,亜麻,てん菜,牧草,りんご,ぶどうなどの作物はいずれもこの時期に輸入された洋種作物であるが,やがて北海道の中心的な農産物としての地位を占めるにいたったものも少なくない.また,これらの農畜産物の販売流通の体制整備を促進するために,開拓使による各種農産物の買上げも行われた.そしてこの買上げ農産物を原料とする官営工場も数多く設置された.その主な種類は,味噌,?油,製粉,製糖,製糸紡織,さらにはビール,ぶどう酒などの醸造にも及び,北海道の域内自給(さしあたりは本州内地からの移入依存の状況をできるだけ減らす)をめざすものであったとみられている.
 したがって明治初期の北海道農業振興の基本方向は畑作に重点指向し,技術的にきわめて不安定であった稲作については,政策としてこれを全面的に否定するという形はとらなかったものの,きわめて副次的な方向として容認されるにとどまっていた.もっとも,本州から移住した農民の中には営農の底流として稲作への執着・欲求がきわめて強く,とくに1873(明治6)-1874(明治7)年頃から農業開発が本格的に展開した石狩平野では,稲作への傾斜が徐々に進んでいった.その代表的な事例としては1873(明治6)年,札幌郡島松村の中山久蔵が道南地方から移入した赤毛種による水稲試作成功があげられ,1879(明治12)年にはこの赤毛種の種籾を開拓使が各地の農家に頒布するという展開を示したのであった.
 しかし1884(明治17)年の激甚な冷害に遭遇して強硬な稲作否定論が擡頭し,その後も稲作は,1902(明治35)年や1913(大正2)年の記録的な冷害凶作の下で,壊滅的な打撃を蒙ったため,水稲が「不安定作物」であるというレッテルを払拭するには,その後,なお多くの歳月を要したのである.
 ともあれ,明治初期に開拓使が掲げた「欧米に準ずる大規模・新農法の農業地域を建設する」という壮大な構想にもとづくさまざまな施策は,今日の北海道稲作のあり方に対しても多大の影響を及ぼしている。その中で,少なくともつぎの3点は,北海道稲作の基本的な性格にかかわることがらとしてとくに注目する必要があろう。
 第1は,本州からの移民入植に当って採用された殖民区画の設定と,これにもとづく散居制村落の形成である.この方式はアメリカ開拓に際して採用された「直角区画法」(Rectangular System)を母胎とするもので,その内容は地勢・地味に応じて必ずしも画一的ではないが,殖民予定地をあらかじめ大きく碁盤の目状に区画するものであった.その区画の大きさは900間(約1620m)間隔の方眼状に区切る「大区画」と,この大区画(約270haの地積)を縦横にそれぞれ3等分した300間(約540m)四方の方眼状に区切った「中区画」を基本とした.なお,この中区画ごとに幅6間ないし15間(約10.8-27m)の道路用敷地を設け,ところによっては防風林帯を存置するといった配慮も加えて区画したから,開拓予定の各原野はあらかじめ縦横300間間隔の方眼状に整然と区切られ,そこに開拓者が入植していったわけである.この場合,開拓農家が配分をうけた原野は,上述の「中区画」を●口100間・奥行150間,の「小区画」に6等分した約5haの地積であった.つまり「中区画」内に6戸の入植者が点在し,「大区画」の約270haの範囲内に合計54戸が点々と入植するという散居制が展開したのである.この方式によって区分配当された総地積は,1909(明治42)年までに約85万ha,さらに1909(明治42)年から15年計画で進められた第1期北海道拓殖計画期間内には約25万haの実施をみたというから,北海道の開拓地の大半が,上述のような土地区画制下の散居村落として展開していったわけである.そして現在でも,「1戸分の土地」といえば,縦約270m,横約180mの矩形状の約5haの地積をさすものとして慣用されている.つまりこの区分によって北海道に特有の伝統的な土地所有・土地利用の枠組みが形成されたのであった.
 第2は,上述のような開拓農家1戸当り約5haという地積の耕作を技術的に可能にした畜力農具体系の輸入・普及と,これを基盤にして形成された「プラウ農法」の進展である.すなわち開拓使は発足間もない1871(明治4)年に早くもアメリカから,プラウ,ハローを初めとする数十種類の畜力農具を輸入して洋式農法の実習に着手し,翌1872(明治5)年には札幌本庁に工場を設置して農機具の製作を開始し,1876(明治9)年-1878(明治11)年にはこの洋式農具を農家に貸与・払下げる施策を始めるというように,きわめて精力的に畜力機械化に取組んだ.同時に,これら農機具を牽引する役馬の改良増殖や,経済力に乏しい貧農・小作農にいかにして役馬を所有させるようにするかといった普及面でも,数多くの施策が講ぜられた.
 このように洋式農法の摂取・普及に積極的に取組んだ背景としては,一つには欧米農業に準ずる新しい農業の建設という「意気ごみ」が挙げられるが,もう一つには北海道の寒冷な風土条件への対応として,本州とは比較にならぬ大面積を処理しうるような作業能率の向上が要請されていた点が挙げられる.
 もっとも,この畜力農法の定着は決して一朝一夕には達成されなかった.その前提として農業内外の技術的・経済的な諸条件の成熟を不可欠としていたからである.結局,前述のような多面的な諸施策を背景にして,明治初期に輸入された数多くの農機具の中でも,最も端緒的なプラウとハローとカルチベーターの,僅か3種類の農機具の普及がほぼ一巡するまでに,およそ30年の歳月を要したといわれている.これを一般に「プラウ農法」とか「北海道農法」と呼びならわしているが,その延長線上に第2次大戦後のトラクター化がつらなっていったのであった.
 第3は,上述のような土地所有体制と「プラウ農法」を基盤にして,きわめて早発的に商業的農業(つまり市場目当ての換金作物の生産)が展開し,そのことが農業者の企業的性格の形成を促進したという点である.
 すなわち前述のように北海道の風土が,本州在来の農作物の立地をきびしく制約したため,開拓使はいちはやく欧米からの新作物の輸入・普及につとめたが,それらはいずれも当時の開拓農家の食習慣からいえば自給自足用の作物ではなくて,遠隔の市場販売むけの作物か,農産加工原料用の作物であったため,北海道の農業は自給自足段階から出発して,逐次生産力を高めつつ商品生産的農業に移行するという経過をとらずに,営農基盤がいまだ十分に堅められぬうちから,きわめて早発的に商品生産的農業の渦中に巻きこまれるという特異な展開経過をたどることになった.
 しかもこれらの畑作物の多くは流通販売の面で多分に不安定性をはらんでいたため,これに適切に対応するには,.市場目当ての農業生産という企業的性格に徹した「行動原理」が不可欠となった.かくて間断なく,農業経営者としてのきびしい資質陶冶の機会にさらされて,良きにつけ,悪しきにつけて市場経済条件にきわめて鋭敏に反応する北海道の農業者気質が,比較的早い時期から形成されて,それが今日につながっているとみられるのである.
(2) 北海道における稲作ならびに水利の展開
 以上のようにして1880(明治13)年から1900(明治33)年にいたる期間に,畑作を中心にした「北海道農法」が展開したが,同時にこの期間は,上述の畑作を母胎にして画期的な「北海道稲作」が生誕した時期でもあった.1880(明治13)-1890(明治23)年頃には道南地方を中心にして僅か1900-2200haの稲作が行われていたにすぎなかったのが,1895(明治28)年には新たに石狩,空知,上川などの道央地方の稲作開始が加わって3900haへと増加し,さらに1900(明治33)年頃には道央地方の作付が道南地方のそれをしのぐまでに拡張されて,8800haへと倍増していった.このような稲作拡張の動きはその後も持続し,年々,ほとんど爆発的なテンポでのびて,1922(大正11)年には90,000haの水準を超えるまでに拡大した.
 このような急激な稲作拡張の要因としては,大別すればつぎの二つの点が指摘されている.
 第1の要因は稲作生産技術の画期的な発展である.すなわちそれまで北海道で栽培されていた水稲品種は,本州の東北地方ないしは北海道の道南地方で普及していた在来品種であって,寒冷な気象条件への適応性が著しく乏しかったが,この時期に農家自身による優良・耐冷性品種の選抜と普及が広汎に進められた.たとえば,この時期以降の北海道稲作の進展にとって,ほとんど決定的な意義をもっているとみられる「坊主」種は,札幌郡琴似村の江頭庄三郎が0.6-0.7haの「赤毛」種を栽培していて,その中から偶然,芒のない稲株2穂を発見し,無芒の稲なら収穫調整作業が容易になるであろうと思いたって増殖した新品種であるが,これが無芒・早熟で,稲熱病にも強いということから,画期的な優良品種として1890年代の後半以降,空知,上川などの道央地方の水田地帯に急速に普及していった.
 また,この時期までの支配的な栽培法は本州在来の水苗代ないしは通し苗代をそのまま踏襲するものであったが,この方式はもともと農作期間の短い北海道の気象条件の下では収穫が非常に不安定になるという点で不適であり,しかも人力移植という多労的な作業方法では栽培面積にもおのずから制約があった.このような制約を打開する方向として,この時期に新たに編み出されたのが水稲直播(湛水直播)栽培法である.この方式は1893(明治26)年に北海道庁の上白石試作場で初めて試みられたが,それが裸手で10数粒ずつ点播するという方法であったため,作業能率が上らぬばかりでなく,春先きの身を切るような冷水につかって作業を行うという非常な苦痛がつきまとっていた.こういった状況の中で,とくに直播による収穫の向上・安定効果の大きかった上川地方の農家の中から,水稲直播器(いわゆる「蛸足式」直播器)の考案・開発が進められ,これが画期的な稲作展開へとつながっていった.その端緒は1908(明治41)年に東旭川村の農家末武安次郎が考案し,旭川町のブリキ職人黒田梅太郎が製作した16本の足をもった「黒田式水稲直播機」であるが,その後も,農家の考案・改良を加えたいくつかの直播器が開発されて,これが急速に普及し,短期間に大面積の水稲栽培を行うことを可能にする北海道独自の栽培法として全道的にひろがっていった.
 しかも特記すべきことは,この軽便・簡易な直播器の利用に際して,前述の「坊主」種が無芒であることから,播種作業に支障を生じないというもう一つの特色が認められて,この栽培法と新品種とがいわばワン・セットになって普及していったという点である.これによって「熟練すれば,1日に5反(0.5ha)も播ける」という,きわめて省力的な寒地稲作体系が確立したのであった.
 これに対して第2の要因として指摘されることは,北海道農業をめぐる社会経済的な諸条件の変化が稲作拡張を促進したという点である.すなわち,次第に北海道の開発が進んで人口が増加するにつれて,米に対する需要も急速にのび,米生産の経済的な有利性が高まってきたため,これを販売作物としてとらえる経営経済的な条件が成熟してきた.つまり,それまでもっぱら本州からの移入に依存していた米の価格は概して北海道の畑作物価格に対して割高であり,その副産物である縄や筵などの藁工品に対する需要(さらには馬糧としての稲藁需要)を考慮すれば,稲作の不安定性を勘案しても,なおかつ稲作の相対的有利性を否定することができなくなった.
 さらに,前述のように本州とは比較にならぬ広い面積を「プラウ農法」によって耕作する畑作経営が展開したとはいえ,それは農法としてはきわめて端緒的な段階に到達したものにすぎなかったため,この時期に入る頃から深刻な地力問題に直面するようになったことも忘れられない.つまり1頭曳の畜力農具による「浅耕少肥」の畑作体系は,いわゆる原生的地力の掠奪の状態に陥り,畑作物価格の低迷と相俟って,畑作経営の不振・動揺を招来した.これを克服する輪作経営の方向も早くから唱導されたが,その実現のためにはより高度の農機具体系の装備とより大規模な耕地面積の保有・利用が不可欠の条件となっていたため,それまでの畑作からの大幅な転換が求められるに至った.上述のような稲作の相対的有利性の増大は,実は反面ではこのような畑作経営の不安・動揺を背景とするものでもあったのである.この傾向は,特に比較的早く開発が進められ,1戸当りの耕地面積の拡大が制限されざるをえなかった道南ならびに道央地方(たとえば当初は5,000坪[約1.7ha]から10,000坪[約3.3ha]の配当地を与えられるにとどまった屯田兵村など)ではきわめて深刻であり,そこにいち早く稲作への転換の動きが現われる背景があったとみられるのである.
 このような農業情勢の動きは,この時期の北海道の農政の上にも反映されていった.すなわち,1892(明治25)年に北海道財務部長の任についた酒匂常明は,つとに『米作新論』を著わした稲作の権威であったが,1897(明治30)年までの在任期間中,一貫して積極的に北海道稲作の振興・奨励につとめ,それまでの畑作中心の北海道農政の転機を形成したのである.
 ところで,以上のような諸要因を背景とする北海道稲作の画期的な展開は,いうまでもなく,その基盤としての稲作水利の発展によって初めて具体化されたものであるが,その展開の経過をたどると,そこにつぎのような画期と特色を指摘することができる.
 第1の画期は,1880(明治13)年-1890(明治23)年頃までの水稲試作時代の水利開設の時期であって,きわめて小規模な個別の水利施設が主流をなしていたとみられる.たとえば,前述のように「赤毛」種によって水稲試作に成功した中山久蔵は,1873(明治6)年に自作耕地に近接する「島松川から用水を引いて,予ねての念願たる水田1反歩を仕上げ」ているし,この「赤毛」種の中から画期的な新品種「坊主」を選抜した江頭庄三郎は,1892(明治25)年に「掘抜井戸をつくって,この水を灌漑にして,6-7反の赤毛稲」を栽培した,という.つまり当時の稲作の不安定性ならびに稲作技術の未成熟に制約されて,個別分散的で,しかも零細な規模の水田の造成が逐次進められつつあったとみられるのである.
 ところが,1890年代(とくにその中期以降)に入ると,稲作の安定性ならびに相対的有利性が一段と高まるのにつれて,一定の地区的なまとまりをもった開田の動きが広汎にあらわれ始めて,第2の画期を形成した.たとえば道央地方の上川郡永山村では,1894(明治27)年に「東兵村諮問会の決議を経て.......灌漑溝900間を開鑿して用水となし水田十余町歩を開けり.此当郡に於ける灌漑溝開鑿の嚆矢となす.爾来移民の増加と共に付近の村落益々水田を拡張し,明治29年以降俄然として進歩し,昨明治33年末の調査によれば全郡の水田既墾反別は実際690余町に達せり.」(『殖民公報』第3号)という.
 また,空知の夕張郡角田村では1893(明治26)年頃から灌漑溝を開設して造田を行うものが増えてきたが,1895(明治28)年には関係村民が協議をして私設の水利組合を設立し,夕張川をせき止めて造田を進めることを計画し,北海道長官の認可をうけて翌年10月からアノロ川の分水工事に着工したが,資金不足でいったん中断し,幾多の紆余曲折の後,日本勧業銀行から4万円の資金借入に成功して工事を再開,ついに1900(明治33)年6月,総工費72,300余円を投入して,灌漑面積894haの造田が達成された.これが北海道における水利組合の嚆矢であるといわれている.
 実は,上述の事例に準ずる私設の水利組合結成の動きは,空知,上川の各地でも籏出したが,用水路の問題や組合費負担の問題に直面して,円滑な事業運営の軌道にのったものは少なかった模様である.
 したがって,この第2の画期は,かなり大規模な地区範囲をカバーする水利組織の結成と,これにもとづく数百ha規模の造田が各地で企図されたが,主として水路開設にまつわる資金問題を初めとするさまざまな障害に直面して,その大半は十分な展開を示すにいたらなかった時期であり,本格的な稲作水利組織形成への「胎動期」ないしは「準備期」であったということができよう.
 しかし,ますます高まる水田開発の気運に即応して,ようやく1902(明治35)年にいたって「北海道土功組合法」が公布されて,第3の画期に入っていく.つまりこの法律によって,本格的な稲作展開の基盤条件をなす社会的資本の形成ならびにその運用の社会的な仕組みが具体化されていくことになった.
 この法律は,当時開拓途上にあった北海道では,市町村行政法や各種組合法の規定に該当しない多くの事業が開拓推進の上から必要となっていたという,地域的な特殊事情に照応して公布された特別法であって,その第1条には「農業上必要なる営造物を施設経営する」ために,「土功組合」という公共団体を設置することを規定しており,その具体的な事業内容としては,「農業上必要な道路・橋梁・用水・排水または堤塘を施設維持する」ことが包含されていた.つまりこの土功組合の特色は,たとえば本州府県における耕地整理組合が「既墾地の利用増進を図る」ことを目的としているのに対して,「未墾地を拓いて造田するために必要とする土木工事を行い,新開地を維持する」ことを目的として設立されたという点に,最も端的に現われている.したがって土功組合は,政府の行う北海道開拓のための各種の土地改良投資ならびに補助奨励策の大半を,地元で具体的に実施する公共団体であり,北海道特有の水利組織であったということができる.
 そして,この「土功組合法」の公布を基盤にして,1900年代から1930年代にかけて各地に土功組合が設立され,それに伴って北海道の水田面積は拡張につぐ拡張をとげていった.
 一方,土功組合の数もこの法律が公布された1902(明治35)年には僅か2組合であったのが,1907(明治40)年には11,1912(大正1)年には26.1917(大正6)年には55,というように漸次増えて,稲作面積が戦前のピークに達した1932(昭和7)年には258組合に達した。その事業内容別にみると「灌漑を主とするもの」が圧倒的に多く,その傘下の水田面積は全道の水田面積の60%以上にのぼった.灌漑方法別にみると,全体のおよそ60%近くの組合が「自然流下」であり,「自然流下と貯水池」が約20%,「自然流下と揚水機」が約5%,となっていて,全体として河川利用が中心になっていることが明らかになろう.つまり道央地方の大河川ないしはその支流の流域平坦部に,これらの組合の大半が設立され,それを基盤にしていわゆる「稲作中核地帯」が形成されたといってよかろう.
 ところで,このように急速に土功組合の事業は進展していったが,その経済収支の内実はきわめて苦渋に満ちたものであった.つまり農家負担による組合費の歳入だけでは,経常費や長期的に固定する事業費を賄うことができぬため,年々多額の借入金(起債)と国費ならびに地方費による補助金を導入して事業が発足したものの,やがて莫大な額の起債償還が組合の歳出の40-50%近くにまで達するという状況の中で,重大な経営困難に陥った組合が少なくなかったのである.
 その主要な理由としてはつぎの2点が指摘されている.すなわち第1は造田計画の総合性に欠陥があったり,造田技術そのものが未熟であったことによって,所期の造田・灌漑が達成できなかったという点である.とくに水田適地の選定があまりに粗雑で,きわめて水持ちの悪い水田を造成した結果,計画水量を数倍も上回わる灌漑水量が必要となり,しかも間断なく灌水を行うことによる水温の低下が水稲の成育不良を招いたばかりか,当該地区のみならず周辺地区の灌漑水量の不足を招来するといった事態が頻発したし,さらに上流地域における森林の濫伐や無願造田の進行が,下流地域の造田計画に破綻をもたらすといった状況もしばしば現われたのであった.
 第2の理由は,さきにもふれたようにこれらの造田地域では,すでに開拓が進展して畑作的な土地利用が展開していたが,その多くは永年の掠奪的な農耕の結果,地力が著しく減耗して経営不振の状態にあり,大半の農家は稲作への転換のための資金投下の余力をほとんどもっていなかった.そのため,長期融資に依存する以外に造田事業を進めることはできなかったが,稲作に転換したからといって,早急に莫大な負債を返済できるほどの経済的な好転が,短期的には達成されえなかったばかりでなく,かえって冷害凶作や世界恐慌の影響による米価の暴落などに直撃されることによって,農家の負担のみでは組合の歳出総額の30-40%程度しか賄えないという状況がもたらされたのであった.
 さらにつけ加えていえば,上述の二つの理由を一段と深刻化させた要因として当時の北海道における土地所有関係の特徴的な動向についても注目する必要があろう.すなわち当時は,1897(明治30)年に公布された「北海道国有未開地処分法」によって,大地積を無償,ないしはきわめて廉価で占有するものが現われ,これを背景にしてやがて全道的に小作制大農場が広汎に形成されつつあった時期にあたる.こういった地主制下で,畑作経営の不振・動揺が一段と深まり,これが一方では大多数の農民の強烈な稲作への転換の志向につながっていくと同時に,他方では水田地価の昂騰をもたらし,ひいてはそれが上述の地主層における投機的な造田ブームへの刺激として作用したとみられるのである.
 やがて,以上のような北海道の稲作をめぐる内外の諸条件の変動の中で,外延的な水田拡張の爆発的な動きは急速に鎮静化し,いわゆる稲作北限的な地域は耕境外に排除されて,道央・道南の稲作適地を中心とする水田15-16万haの水準へと収斂していった.
 そしてこの時期以降に,再び北海道稲作にとっての第2の画期的な展開の契機となった技術的諸改良が生み出された.一つは品種改良による優良・耐冷性品種の普及であって,すでにふれた「坊主」種の系統をひく改良種がつぎつぎと作り出されていった.もう一つは,1931(昭和6)年以降の連続的な冷害凶作の下で農民的技術として創出された「温冷床育苗法」であって,北海道稲作が,その独自の「直播栽培」から一転して,再び新たな移植栽培へと展開していく契機が,この苦難の時期に形成されたのである.もっとも,この新しい移植方式は1940(昭和15)年頃からの戦時体制・第2次大戦前後の経済的な攪乱期の中で,直播方式を全面的に駆逐するまでにはいたらなかったが,一段と北海道稲作を安定化させる方向として多大の貢献をもたらした.
 この意味において,今日の北海道稲作がもっている「寒冷地稲作」としての独自の特色の大半は,1930〈昭和5)年から1940(昭和15)年にいたるこの時期までに,その原型がほとんど形成されたといってよかろう.それほただ単に稲作技術の面ばかりでなく,稲作水利の面においても,さらには特有の土地所有・土地利用の在り方についても指摘できることであるが,以下で取上げる北空知の深川市の調査の対象地区は,こういつた動向に即してみても,その代表的な地点であるとみられる.
(3) 調査対象地-深川-の概要
 深川市は図6-1に示したように,北海道のほぼ中央部に位置し,北空知の経済・交通の中心をなす農村都市である.北海道第1の長流・石狩川の中下流域にひらけた石狩平野の東北端にあたるが,南北に標高700-800m級の丘陵地帯をひかえた盆地状をなし,石狩川とその支流である雨竜川にはさまれた概して肥沃な耕地に恵まれていて,早くから道内有数の稲作先進地どして知られており,近年は良質米生産地としても注目されている.
図6-1 深川市の位置概要
 市の農用地面積は約12,000ha,うち9,300haが水田で,一部丘陵寄りの地区に畑作,酪農ないしは果樹作(りんご)を行うものがあるが,大半は水稲単作的な経営形態のところである.農家戸数は約2000戸で,耕地規模別の分布は3-5ha層ならびに5-7ha層が中心を占めている.稲作の10a当り収量は最近3ヵ年の実績でいえば約500㎏を若干上回る水準に達しており,600㎏以上の実収をあげている地区も珍しくはない.
 現在の深川市の開基は,1892(明治25)年に雨竜川左岸一帯にわたる区域に深川村を設置したときにさかのぼるが,図6-2に示したように,1896(明治29)年の屯田兵の移住以来開発が進められた地区と,団体移住で入地した人々によって開拓された地区とが交錯しており,そのほかにも,華族大農揚が分解した後,単独で経営を開始した小作制の大農場「菊亭農場」を初めとするいくつかの農場の小作として入地した人々の多い地区などが包含されている.そして開拓が進むにつれて,1900(明治33)年ないし1920(大正9)年頃までに旧深川村は六つの町村に分離していった.その後,1963(昭和38)年に深川町ほか3村が合併して深川市に昇格し,さらに1970(昭和45)年に多度志町を合併して,開基当時の旧深川村に近似する地積がまとめられて今日にいたっている.
図6-2 深川市の地区別沿革概要
 深川での稲作は,1890(明治23)年頃,旧音江町の石狩川沿いの地区で高橋惣吉が約10aの試作を行ったのが端緒であるという.このほか1896(明治29)年には一巳兵村に入植した屯田兵・伊藤兼太郎は堺川ぞいの湿地で水稲直播を行って試作に成功した.また納内兵村でも1899(明治32)年に吉野川下流ぞいで溝口熊次郎ら3名がそれぞれ2-3aずつの試作を行ったという.さらにこの年には旧深川町の芽生でも中井胱吉が溜池を作って10aの試作を行った.(なお,当時は,屯田兵の給与地に稲を植えることは禁止されていたし,屯田兵は国から扶持米の支給を受けていたため,その上に米を作ることは,二重の意味で禁止条項にふれることになり,上記伊藤兼太郎の所属する小隊長は監督不行届の廉で20日間の禁足処分をうけたという.)
 こうして1906(明治39)年の記録によれば,当時の深川,一巳,音江の3村合計で約450haの水田耕作が行われるまでに,急速に稲作がひろがっていった.
 深川市域内には,現在つぎの四つの土地改良区がある.すなわち図6-3に示したように,旧深川町と隣接の妹背牛町の大部分を包括する約5,200haの灌漑を行っている深川土地改良区,旧納内から旧一巳にかけての約3,100haをカバーしている神竜土地改良区,石狩川の左岸・旧音江地区から滝川市にまたがる約4,900haを灌漑している空知土地改良区,そしてもう一つは雨竜川から取水して旧多度志町管内の約1,600haをカバーしている多度志土地改良区である.
図6-3 深川市の幹線用水概要図
 これらの土地改良区のうち,さしあたり前三者の組合の沿革をたどると,いずれの組合も,上述のように深川地方の水稲試作が成功した1900(明治33)年頃から,設立の気運が盛りあがったが,その後の経過は決して平坦一様のものではなかった.
 まず最初の水利組合設立の動きは,1900(明治33)年に,旧一巳ならびに旧深川の造田を進めようとする有志が集まって,北海道庁に灌漑方式等についての調査を出願したときに始まる.そして道庁からの回答結果にもとづいて,翌年には一已深川組合を起業することとし,水田予定面積5,000haの用水を石狩川から導水する工事設計に着手したが,1902(明治35)年に積算された結果によれば,総工事費が約375,000円にのぼることが明らかになって,「これでは水の下敷になる」ということから,この事業は断念された.
 しかし,この年には「北海道土功組合法」が公布されるといった情勢の進展もあったため,1906(明治39)年にいたって,一巳村長と深川村長とが相諮って再度,組合設立の具体化にのり出し,1908(明治41)年に石狩川の上流部(旧神居村春志内)から導水する計画で,道庁に調査設計を依頼したが,この路線は実地踏査の結果,実現不可能ときまった.しかし,ひき続き行われた雨竜川の実測調査の結果から,急遽,雨竜川を水源とし,一巳村600ha,深川村3,600haを灌漑する水利組織を設立しようという気運が高まった.こうして深川土功組合は1909(明治42)年に設立へのスタートをきるが,翌年には雨竜川上流沿岸の水利権所有者からの猛烈な反対運動が起って,再度調査を行い,1911(明治44)年,石狩川に水源を変更することになり,1912(大正1)年にようやく深川土功組合の設立・着工が認可され,同年11月3日起工した導水路を,年号が「大正になってからはじめての用水」ということで「大正用水」と命名したという.(図6-3でハッチングしてある部分が,この「大正用水」を基幹とする深川土地改良区の管内である.)
 一方,深川土功組合から取り残された形となった旧納内ならびに旧一巳の地区有志は,石狩川上流・神居古潭からの導水実現を目指して奔走し,ついに1922(大正11)年に神竜土功組合設立の認可を得,その後幾多の難工事をへて,l927(昭和2)年,約3,000haの灌漑面積をカバーする工事が完成した.
 また,石狩川左岸の旧音江地区は,自然流下の河川からの水利権をとって早くから造田を進めていたが,水不足に対応して溜池を設置した小作農場などもあったらしい.そのような折に左岸下流部に位置する隣村・旧江部乙村(現在は滝川市に合併)の村長以下の有志が,旧音江を経由して江部乙に至る灌漑工事を発案して,1910(明治43)年に空知土功組合の設立を申請,1916(大正5)年に認可をうけて,1923(大正12)年に約3,000haをカバーする工事が竣工した.
 今回,実態調査を行ったのは,このような深川市域の水利開発の中でも,最も歴史的な経過の長い「大正用水」地区(つまり深川土地改良区の管内)である.この地区のうちには,たとえば土壌条件ひとつをとっても北部の泥炭土壌地帯から,南部の石狩川の沖積砂壌土地帯にいたる幅広い分布があるので,図6-3に示したように南北にのびるベルト状に六つの地区集落を選定し,地区内の農家を悉皆的に聞取り調査することを計画した.以下はその聞取り結果を,水利組織の発展経過,生産力展開,転作対応,の3点にしぼって取りまとめたものである1).
[注]
1) なお,この実態調査は1981年7月に予備調査,11月に本調査を,約15名の調査員が参加して実施したが,その折には深川市農業協同組合,深川土地改良区,深川市役所,空知北部地区農業改良普及所などの関係各機関のご懇篤なる協力をいただいた.ここに特記して,深く謝意を表したい.また,この報告書の作成,取りまとめに当っては,北海道大学大学院生坂下明彦,志賀永一,小林一の3君(いずれも所属は調査時のもの)の熱心な協力を受けた.とくに以下の水利組織についての叙述においては坂下報告,稲作生産力展開についての分析では志賀報告,そして水田転作についての分析では小林報告,にそれぞれ依拠するところが大きかった.3君の労を多とするものである.

Ⅱ 「大正用水」の形成発展とその特色

(1) 深川土功組合設立の推進主体
 すでにふれたように,深川土功組合設立の動きは1899(明治32)年に始まったが,資金調達難によって中断され,再度,1908(明治41)年に17名の発起人によって組合設立がはかられて,翌年に認可を受けた.当初は雨竜川からの取水を計画したが,隣接町村との調整(たとえば旧多度志町内の水利組合や,すでに1904(明治37)年に雨竜川からの取水による灌漑工事を単独で竣工させていた蜂須賀農場などがあった)がつかず,やむなく石狩川からの取水に変更された.その灌漑規模は約4,900haで,全国的にみても有数の大規模な灌漑事業であった.そのため,まだ北海道産米増殖計画が本格化する以前の時期ではあったが,工事費予算総額543,000円の25%が国費補助となり,残りの資金調達についても,道庁などの行政的な働きかけによって,土功組合債の北海道拓殖銀行による引受けが行われることになった.
 この組合設立に参加した人々は「土功組合法」に基づいて土地所有者に限定されたが,その中心は大規模な小作農場の関係者によって占められていた.すなわち,この組合の灌漑計画区域は旧一巳村の一部と旧深川村(のちに分村した妹背牛村を含む)にまたがっているが,屯田兵村である旧一已村の管内に属する400haを除く大部分は,1889(明治22)年に設立された華族組合農場が1893(明治26)年に解体し,その跡をうけた菊亭農場ならびに蜂須賀農場(第1支場)の範囲内の土地であった.しかし,この菊亭農場も1900(明治33)年以降に解体されて,表6-1のように旧深川地区では五つの小作制農場,妹背牛地区でも六つの小作制農場に分立するにいたっていた.このほかには,「開き分け」を条件に入植した個人地主や自作農も,組合設立に加わっていた.
表6-1 深川土功組合下の小作制農場(1940年)
 そこで設立当初の役員の顔ぶれから,この土功組合の性格をうかがうと,組合長は北海道庁長官指定の空知支庁長が兼務しており,行政の影響を直接受ける形となっていたことが推測されるが,設立認可,設計事務を担当した顧問,理事はすべて小作農場主であった.すなわち顧問の東武,森源三,五十嵐久助は旧菊亭農場の管理人であって,農場解体後はその土地譲受者であった.中でも東武は,1898(明治31)年の石狩川大水害で被災者救援に奔走して以来政治活動に入り,1908(明治41)年からは帝国議会(衆議院)において立憲政友会の中堅党員として活躍した人物であった.また理事の青木利一,内田瀞についていえば,前者は旧菊亭農場の支配人であり,かつ1902(明治35)年に設立された岩見沢川向土功組合の指導者であったし,後者は菊亭農場解体後の土地譲受者の1人であった.
 以上のような設立当初の中心人物の顔ぶれをみると,かつての巨大な小作制農場・菊亭農場にゆかりをもち,しかもその後に分立した小作農場主を主流とする「名士」層によって占められており,この人々の資金調達に際しての政治力の発揮と,先駆的な土功組合の設立・運営経験者の手腕があったからこそ,5,000haという当時としてはきわめて広域的な灌漑事業が成功裡に展開したものと考えられる.同時に,当時の開田に際して,深刻な畑作経営の不振に直面した小作制農場サイドの主導性がいかに強かったかをうかがい知ることもでき
よう.
(2) 水利組織の構造と特質
 こうして設立された土功組合は,畑作から稲作への転換を計画的に推進すると同時に,そこで形成された水利組織を管理運営するという二つの機能をあわせもっていた.このことは,本州府県においては慣行水利権の法認による普通水利組合の設立と,耕地整理事業の主体としての耕地整理組合の設立という機能分化が一般的であったのに比べて,きわだった特色をなしている.しかし土功組合による施設投資は,上述のような灌漑事業の広域性や資金調達の困難性に制約されて,取水と幹線,支線,分水線の段階までの用水の運搬にとどまっており,そこから先の用水の分配・利用に直接的にかかわる部分は,関係土地所有者および小作人に支線組合を組織させて,実質的に事業を進めさせるという形をとっていたのであって,こういった組織体制の重層性ももう一つの特色であるということができよう.
 これらの点を念頭におきながら,深川土功組合における水利組織としての機能発揮が,年代的にどのように推移してきたかをみていこう.
 まず施設投資の側面からいえば,畑作から稲作への大規模な転換事業を中心とするものであったから,水利用の各段階,すなわち取水,運搬,分配,利用の各段階を同時整合的に進めることが求められていたが,それはきわめて困難な課題でもあった.つまり当時の技術水準においては,しばしば河川流量や浸透水量計算に誤差が生じがちであったため,第1次投資によって計画水量を完全に確保できなかったり,未造田地区が形成されたりして,補水路の掘鑿等の第2次投資の必要性をたえず随伴していたのである.
 深川土功組合における基本的な第1次投資は1913(大正2)年から1916(大正5)年にかけての第1期工事および第2期工事によって進められ,幹線(大正用水,8,063間)と三つの支線(延べ7,067間),そして七つの小支線(13,163間)と40の分水線(37,199間)が完成した.しかし,これによっては全地区の用水量が確保できなかったため,翌1917(大正6)年には第3期工事として,域内小河川の浸透水利用による八つの分水線(11,781間)を新設しなければならなかった.さらに1919(大正8)年,1922(大正11)年,1931(昭和6)年,1932(昭和7)年にもこの種の第2次投資が必要となり,合計6水路を新設して,ようやく予定灌漑水量の確保が達成できたのであった.
 これらの工事の費用は,基本的には土功組合債の起債によって調達されたが,一部の補水路掘鑿については土地所有者からの寄付金によって賄われるケースもあった.'
 つぎに,こうして確保された用水の分配・利用段階の整備についてみていくと,上述の小支線あるいは分水線から分岐していく分派線の施設は個々の土地所有者の直接投資によって進められた。この場合,すでにみたように当組合の管内には多くの小作制農場が存在していたわけであるが,それらの農場では用水路の設置箇所をめぐる土地所有者間の調整といったことは必要がなかったため,各農場単独で合理的な分派線の配置を行うことが可能であった.通常は殖民区画によるいわゆる「1戸分J(間口100間,奥行き150間の約5ha)の地積を単位として,各団地ごとに土地所有者が高低測量を行い,平均5a程度の田区になるように小作農家が畦畔を設置するという順序で造田が行われ,小作農家には造田費が支給された.分派線工事においても請負工事形態が一般的であって,小作人の出役による事例は少なかったらしい.
 以上のような施設整備の組織的な枠組みは,第2次大戦後の土地改良区への組織再編の過程でも基本的には継承されたが,さまざまな質的充実がはかられていった.
 その第1は,1953(昭和28)年ないし1959(昭和34)年の国営灌排事業によって開始される.つまり戦後の食糧増産対策にもとづいて進められた客土や暗渠排水などの土地改良事業に対応した用水量の確保と,従来の土水路による慢性的な水不足状況への対応策として,取水量の増大(堰堤の嵩盛,溝路の敷下げ),水路装工(ただし幹線水路のみ)が行われた.さらに1964(昭和39〉年ないし1971(昭和46)年の国営附帯道営灌排事業では幹線および支線水路の三面装工を行い,これにつづく道営・団体営の圃場整備事業(1964(昭和39)-1973(昭和48)年,1965(昭和40)-1972(昭和47)年の地区のほか,部は現在継続中のところもある)によって,小規模用排水路や農道,圃場区画の整備などが進められた.
 これらの施設投資の特徴は,各種の補助事業の導入と長期低利資金の利用が進められ,非補助の溝路改良については,分派線や個人用水路の段階にまで土地改良区による補助が行われるようになったという点である.また事業の導入推進過程においては対象地区内の農家の全面的参加が促進されて,いわば一つの地区的なシステムとしての規制作用が強まった点も見落とせない.反面では,農家をしてそのようなシステムの「単なる受益者」の立場に押しこめた傾向も指摘できよう.つまりかつては,とくに末端用水路については多分に「私設用水」的な性格が色濃く存在していたとみられるわけであるが,上述のような土地改良区主導の施設整備の進展は,それらを「個別経営にとっての与件」へと変化させていったとみられるのである.
 つぎに,以上のような施設投資によって形成された物的な水利組織を実際に機能させていく管理運営の側面についてみていくと,土功組合当時は,その中心は組合の下部組織である支線組合によって担われていたといえる.すなわち土功組合は,取水から支線,分水線までの施設投資の主体であったため,一応,分水線までを管理し,分派線以下の段階の管理は支線組合が担当するものとされていた.しかし,支線の分水管理人は支線組合の組合長と一致するような制度的仕組みの下にあり,土功組合から配水権を委託されていたわけであり,それぞれの支線の管理も支線組合の範囲ごとの出役によって実施されていたから,支線組合は事実上,支線段階以下の管理・配水機能を担当していたということができる。
 支線,分水線の管理内容については,「用水路管理ならびに用水分配規則」が設けられていて,引水量の決定,引水箇所の変更,堰止設置等の出願許可,違反時の原状復帰命令・強制撤去権,等がこまかく規定されていた.また夏期の渇水時の「番水」(配水制限)は,分水管理人の協議の上で,順序・時間が決定され,違反者に対しては引水停止処分権をもっていた.このように分水管理人は,組合長の権限代行者として支線,分水線からの配水を調整する重大な役割をもっていたが,逆に「規則」の存在によって恣意的に配水を行うこともできないような仕組みの下におかれていた.そのため,支線組合員は一個の耕作者として自作,小作の区別なく同等の権利関係をもっていたのである.
 こういった支線組合の活動を支える費用は,組合員からの反別割り組合費の納入のほか,補助金や交付金によって賄われ,その支出の中心は出役慰労費,総会費,役員・水番手当および材料費等であった.各組合員の負担は1918(大正7)-1920(大正9)年頃の平均で反当り0.15円,当時の土功組合費が1.30円であったのに対比すれば,きわめて少額にとどまっていた.
 第2次大戦後の土地改良区への組織再編後は,支線からの取水権は支線組合が正式に委託を受ける形となり,支線組合長も選挙制に変更された.これによって支線組合の民主的運営がはかられ,組合内の要請を集約してこれを土地改良区に提出するというシステムもできて,従前に比べれば大きく改善された面が少なくない.しかし他面では,とくに基盤整備事業が実施された頃から以降になると,補助事業の導入によって土地改良区の影響力が強まり,支線組合が土地改良区と農家との間の単なる連絡機関にすぎなくなっていく傾向があるという指摘もしばしば聞かれる`.
 ところで,支線段階以降の分派線の管理・配水体制は,名目的には支線組合が主体とされたが,現実には関係農家グループの管理に依存していた.つまりかなり大規模な場合には各分派線に「水番」を置いたり,その手当を出すことは支線組合が担当したが,そのような必要のない場合には,すべて関係農家のみによって実質的に管理されていたのである.
 しかしながら,一般的には個別農家間の具体的な水利用関係の調整にあたる明確な末端の管理・配水組織の形成の動きは概して鈍く,配水規制も概して緩やかであった.このことは,土功組合発足当時の稲作技術,とりわけ水稲直播技術が,農家間の配水をめぐる軋轢を発生させるほどに適期幅の狭い集約的な技術ではなかったことを示唆するものであろう.
 もっとも1940(昭和15)年頃から,この組合管内でも温冷床栽培による田植え技術が普及しはじめるが,戦時中の労働力不足という条件の下で共同田植や労力交換が進められた.このような地区的な作業組織の形成も,用水需要のピーク激化をかなり緩和することになったとみられるが,それよりも,畜力体系下では10-15日間にわたって代掻作業をおこなわざるをえなかったという技術的特色が大きく作用したと考えられる.
 さらに1955(昭和30)年以降は,耕転機の導入にはじまる一連の動力機械化が急速に進展して,用水需要の状況も大きく変化するが,それと相前後して区画整理や圃場整備事業が進むと同時に,分派線にいたるまでコンクリート溝路化が進んだため,深刻な農家間の軋轢はほとんどみられない.むしろコンクリート溝路化が,溝路の維持・清掃のための出役をはじめとする管理体制への関心を稀薄化させ,農家をしてますます「単なる受益者」的な状況に進ませていく傾向があるようにさえ感じられるのである.
(3) 水利組織と集落との関連
 以上のように現在の中心的な水利組織は,各支線用水がカバーする一定の地区範囲内の農家群(通常それは20-30戸のグループ)によって作られている支線組合である.これに対して,個々の農家が通常の生産活動や生活を営む上で,農家相互に連携しあっている地縁組織として,「部落」ないしは「実行組合」がある.ところがこの二つの地縁的な農家組織は,北海道においては一般に,全く別個のものとして分離して存在し,機能している.
 たとえば図6-4は,栄久地区の事例を示したものであるが,例の300間区画の幹線道路によって縦横に区切られた約120haの地区内に19戸の農家がいて,これが栄久の集落を構成しているわけだが,各農家は自分の所有・経営する水田の「水がかり」に応じて,第15支線組合,第19支線組合,第29-1支線組合,第29-2支線組合,という四つの支線組合のいずれかに分散して所属しているため,前述の「分派組合」と集落的な農家間の結合関係とは全く別個のものとなっている.
図6-4 栄久地区の水利組織別区域
図6-5 巴第5地区の水利組織状況
 ところが巴第5地区では図6-5のように,小作制農場時代に,近くの小河川からの浸透水を利用して私設の用水路を掘鑿し,これによって造田化を進めたという経緯をもつため,集落内の12戸の農家のうち,小河川の対岸に立地する3戸を除いた9戸は,集落的なつながりと,用水利用の末端的な管理機能のまとまりが一致する状態になっている.
 また図6-6に示した報恩地地区では,かつての小作制農場の範囲がそのまま報恩地集落というまとまりを形成し,それが同時に第24支線組合という水利組織ともオーバーラップしている.
図6-6 報恩地地区の水利組織状況
 したがって,農家の入植がいつごろ,どのような形で進められて集落を形成したかという点と,造田・水利組織の形成が上述の経過のどのような時点で行われたかという点のちがいによって,農家群による水管理機能と集落的な農家間のつながりとの関連は必ずしも一様ではないが,一般的にいって両者はかなり明瞭に分化しており,水管理組織はきわめて限定的・部分的な地縁組織としての機能を発揮するにとどまっていると考えられる.
 ところが逆に,地縁集団としての集落組織が農地所有の移動に制約を与え,その結果として,地区的な機能組織としての水管理組織の円滑な運営を存続させているとみられるケースもある.たとえば図6-5の巴第5地区では,圃場基盤整備事業が開始される前後に,農地移動がかなり頻繁に発生した.当時の状況についての聞取り結果によれば,計8件の農地移動があり,その購入者は延19戸に及んでいるという.ところが,集落内の経営規模の均等化や飛び地発生防止のための農地交換などに集落的な配慮が働いたため,現在12戸ある集落内の農家のうち,飛び地圃場をもっているものは僅か3戸(図中でダッシュを付けてある圃場がそれである)にすぎない.
 これと同様の傾向は,図6-6の報恩地地区についても指摘できるのであって,農地移動に対する集落的な配慮(ないしは農地の適正移動に対する集落的合意)がうかがわれる.
 そしてこのような農地の生産手段としての機能を重視した土地所有・利用の在り方が,伝統的に北海道の農家に形成されており,経過的にいっても,その土地利用の一層の発展のために水利組織が結成されてきたため,きわめて限定的・局地的な機能組織としての水利組織の活動にとどまっているものが多いとみられるのである.

Ⅲ 最近における稲作生産力展開と水利条件

(1)稲作生産力展開の概要
 表6-2によれば,調査地区の最近の稲作生産の著しい変化として,経営規模の拡大と機械化の進展の2点が指摘される.まず経営規模の拡大については,かつては1戸平均3ha弱であった耕地規模が,主として1960年代後半以降の農家戸数の減少と若干の耕地面積の拡大によって,いまや5.3haの水準へと大幅に増加してきている.なおこの間に,水田率も逐次高まって,93-94%という高い比率に達している.
表6-2最近における旧深川町農業の変化概況
 つぎに機械化の進展については,1960年代の前半までは動力耕転機が徐々に導入されはじめて,それが畜力利用に代替していったが,やがて中・小型のトラクターと耕転機とが併用される段階に移行し,1970年代の後半以降は乗用トラクター,田植機,自脱コンバイン,米麦乾燥機といった一連の稲作機械を装備した「一貫機械化段階」に移行して,現在ではそれがますます大型化の傾向を示しつつ,ほとんど普及が一巡する段階にまで到達している.
 こういった稲作経営を支える農業労働力の保有・調達の概況をみると,表6-3のように家族労働力はおおむね3-3.5人の水準で,最近若干減少気味に推移しているが,自家農業に150日以上従事する基幹労働力は1970年代の後半以降,かなり急テンポで減少してきている.このことはおそらく前掲表6-2に示した兼業農家比率の増大傾向とも照応するものであろう.
表6-3農家労働力の保有・調達の概要
 他方,雇用労働力の雇入れ状況をみると,1960(昭和35)年当時は約20%の農家が年雇(その大半は5月から11月までの農作期間に住込みで働く独身の青年男女で,本州の東北地方出身の農家の子弟によって占められていた)を雇入れ,そのほかに,ほとんどすべての農家が田植,稲刈などの農繁期に大量の臨時雇労働力の導入をおこなっていた.ところが1960年代の後半以降になると,前述のように経営規模の拡大が徐々に進みはじめるが,さらに「高度経済成長」の影響を受けて,雇用労働力の導入が次第に困難になってくる.それはまず年雇労働力の減少として現われ,それに対処して臨時雇労働力の雇入れが増大するが,これも労賃の昂騰傾向の中で雇用困難となり,前述のような機械化の導入による対応をとるとともに,農家間の労働力の交換・調達による対応が現われはじめる.ただし,1975(昭和50)年頃からは,後でもふれるような水田転作政策が強化されたことによる影響もあり,機械化の一層の進展もあって,大幅な省力化の傾向が現われるにいたった.
 したがって最近の20-30年間に,以前のほとんど2倍近くに達する稲作面積への規模拡大が進み,しかも以前よりもはるかに少ない労働力によってその稲作作業が処理されているのである.
 同時にこの期間には,稲作収量の飛躍的な増加傾向が認められる.もともとこの地区は北海道稲作の中でも有数の高収量地帯と目されてきたところであるが,1960年代には10a当りで450㎏台の水準にあった.ところが,1960年代の後半以降は500-550㎏水準へと上昇し,しかも北海道では例外的に良質米として3類に格付けられている「ユーカラ米」の産地として広く知られるにいたった.うまり名実ともに良質・多収の「米どころ」となったのである。
 そして,このような稲作生産力発展の要因としては,すでに述べた経営規模の拡大ならびに機械化の進展とともに,1960年代の後半以降に展開した圃場基盤整備事業を忘れるわけにいかない.
(2) 基盤整備実施以前の用水利用の特色
 調査地区では1964(昭和39)年の第1次農業構造改善事業によってはじめて本格的な基盤整備事業が進められたが,整備以前の水田ならびに水利条件は,とくにつぎの2点において生産力の発展・向上に対して大きな制約を及ぼしていたとみられる.
 その第1は,田区が概して狭小なため作業能率の向上が制約されていたという点である.つまり当時の田区は通常3-5aあるいは5-8a程度にこまかく区切られていたが,これは一つには,もっぱら農家自身が畜力もしくは人力によって造田をおこなったという開田当時の技術的制約によると同時に,開田当時の稲作が直播栽培であったということによる技術的制約(つまり湛水直播の場合,田区の大きな水田では,播種した籾が春先きの強い季節風によって攪乱されて,田面に均等に発芽し活着することが阻害されがちであったため,その風向に対して幅の狭い短冊状の小さな田区を作る対応をとらざるをえなかったという制約)によるといわれている.もちろん,第2次大戦後は温冷床育苗法による移植栽培がそれまでの直播栽培にとって変わり,ほとんど毎年のように冬季には馬橇客土が実施されていたから,開田当時の「こまぎれ」田区は,とくに地形条件に恵まれたところでは,農家自身の努力によってかなりの程度にまで改善されていた.しかし,畜力よりもさらに性能の高い動力耕転機やトラクターが導入されるようになると,その程度の「手直し」では抜本的な改善にならず動力機械本来の性能を十分に発揮できないという問題にきびしく直面することになった.
 第2は,そのように概して田区が狭小であるということが,用水操作の面からいっても,湛水機能の面からいっても,さまざまな支障をもたらしていたという点である.つまり寒冷地稲作の特色として,灌漑用水の低温がとくに「水口」周辺の稲の生育に悪影響を及ぼし,時にはほとんど収穫皆無になるような障害をもたらすことがあるため,できるだけ「水口」箇所をへらして,「田越し灌漑」ないしは「掛け流し灌漑」の形をとる方向がとられていたが,狭小な田区が数多くあることによって,「水見廻り」をきわめて頻繁に行わなければならないという制約をもたらした.
 また,異常低温による障害型の冷害被害を回避するには「深水灌漑」を行って保温しなければならないが,概して田区が狭小な水田では,畦畔が「深水灌漑」に即応しうる状態になっていないため,みすみす障害型の冷害を受けざるをえないという問題が頻発していた.
 しかしながら,これらは水田の形状の問題あるいはそれに起因する用水利用上の問題であって,特定時期に尖鋭的に現われる灌漑用水の不足とか,その配分方式をめぐる問題といった形の「用水利用問題」ないしは「用水資源問題」は,さほど深刻な形では現われなかった.無論,支線や分派線の末端水路に立地している農家の場合には,春の代掻作業の時期や,夏場の渇水期に用水不足に直面することが少なくなかった.それは恒常的・慢性的なものではなくて,用水利用のピーク時に現われる一時的な現象であったが,そのことによって作業の遅れを余儀なくされ,それがひいては収量低下につながることもあった.
 したがって深刻な用水不足とか,用水配分上の問題点が決して皆無ではなかったにもかかわらず,「血の雨」の降るような紛争や衝突はなかったわけであるが,その理由は一体,何故であろうか.この点の検討の手懸りを求めるために,基盤整備前の具体的な用水利用の代表的な実態事例をみると,図6-7のごとくであって,つぎのような特色を指摘することができる.
図6-7 基盤整備前の個別農家における用水利用概況
すなわち第1に,支線ないしは分派線から用水を引き入れる私設の用水路を自己圃場内にもっており,同様に私設の排水路も自己圃場に附帯して施設されている.第2に,この用水路から水田に引き入れる「水口」は,適当な間隔をおいて分散しており,その数は経営面積のまとまり方によって一様ではないが,3,4ヵ所か,せいぜい5,6ヵ所に限られている.さらに第3に,一つの「水口」から水田に引き入れられた用水は,「田越し」ないしは「掛け流し」と呼ばれる方式でつぎつぎと隣接の田区に溢流させながら圃場全体に灌漑をして,最終的には排水溝(それは私設の場合もあるし,地区的な大排水溝の場合もある)に落とされていった.
 つまり,その面積のまとまり方は必ずしも一様ではないが,自己圃場の団地ごとに,そこに用水を引き入れてから排水路に落とすまでの用水利用体系が,基盤整備前からすでに自己完結的に形成されていたわけであり,こと自己圃場内の用水運用に関する限りは,隣接農家の所有する圃場における用水運用と全く独立した形で実行することが可能であったのである.
 したがって隣接農家との用水利用上の関係は,支線ないしは分派線から各自の圃場に引き入れる私設用水路への用水量をめぐる競合ないしは調整の問題に集約されるが,そこにさほど深刻な競合,対立関係があらわれなかったのは,極力「水口」の数を限定しようとする傾向があって,われさき勝ちに分派線の用水流下を確保してしまおうとする志向には限界があったからであると考えられる.
 このことは,たとえば表6-4によって基盤整備前にどのような水口対策をとっていたかをみても容易に推測できよう.
表6-4水口ならびに水温対策の変化概要
つまり寒冷地稲作の特色として,いかにわれさき勝ちに用水を取り入れようとしても,それが水温の低い冷水であるならば,水口の数を増しただけ収穫低下を招くばかりであって,何らの得策にもならないのである.むしろ水口を減らして,そこに水温上昇のための遊水池的な迂回水路を設置したり,「田越し」・「掛け流し」の形で逐次水温上昇をはかることの方が,より適合的な対応であったとみられるのである.この水温問題は,現在でも,灌漑用水の水温が最も上昇している時間帯をねらって引水をするよう心がけているという農家が多いことからみても,決して軽視することはできまい.
 もっとも,この「掛け流し」の形の灌漑の仕方は,漏水や減水深の大きな圃場の場合にはかえって水温が上がらなくなるから,この点からの基盤整備の必要性を感じたものもかなりあったとみられる.このことは,基盤整備後の大型水田になってからは,前掲表6-4に示したように,水口対策や水温対策がほとんど問題にされなくなっていることからもうかがわれる.
 このようにみてくると,基盤整備前の用水利用において最大の関心事となっていたのは,水口を初めとする低水温の問題ないしは冷害対策の側面であって,この制約が結果的に特定時期における用水需要のピークを極端に尖鋭化させることを緩和・防止する方向で作用し,ひいては極端な「水争い」が現われなかったものと考えられる.しかし,畜力時代(ないしは人力時代)に開田された狭小な田区や湛水能力に乏しい畦畔条件は,作業能率の面からいっても,冷害防止技術としての「深水灌漑」の実施という面からいっても,著しく不便であったため,この地区では北海道としては比較的早くから基盤整備事業が進められ,そのことが用水利用の面での合理化にも大いに役立ったと考えられる.
(3) 基盤整備実施後の生産力展開
 前述のように1960年代に入って動力耕転機が使用されるようになった頃から,2,3枚の田区をまとめて(つまり中間の畦畔をとり払って)10-20aの大型田区にする動きが部分的に現われ始めた.しかしこれはとくに地形条件が恵まれたところに限られ,一般的には依然として小区画で,農道も未整備なため,機械化にさまざまな支障をきたしがちな状況にあった.
 そして1964(昭和39)年以降,この地区では,北空知地方としては比較的早く,しかも急速なテンポで基盤整備事業が実施されていった.その結果,50a区画を標準とする大型田区が形成され,なかには70-80aの大型水田もみられるにいたって,今度は,そのように整備された大型田区を能率的に処理しうる新たな機械体系,作業体系の導入・編成が要求されることになった.
 こういった事態に対処して,大型機械の導入と数戸ないしは十数戸の農家群を包括した作業組織の編成が進展していく.さらに,この時期に相前後して開発された動力田植機,動力収穫機,籾乾燥施設といった一連の機械化が,大型田区の稲作にとって適合的であるため,すでに表6-2に示したようなめざましいテンポで普及していった.
 同時に,基盤整備事業は用排水体系の整備拡充とも密接な関連をもって進められたから,用水の引き入れ,湛水,落水といった一連の用水操作も著しく省力化され,かねてからの課題であった「深水灌漑」による冷害対応力も大幅に増強されることになった.
 もっともその反面において,このような機械化の進展と,水田の水利面での装置機能の高度化によって,稲作作業適期への極端な集中化が可能になると同時に,実際にも年々それが顕在化していく傾向が現われて,それが春先の用水需要期のピークを著しく尖鋭化させるのではないかという新たな危惧を生みだしたことも忘れられない.
 しかしながらいまのところは,この懸念は,一つには大型機械の利用が概して地区的なまとまりをもった生産組織によって行われるため,地区的な用水利用の調整機能もこの生産組織活動の中に包括されることによって,一般には必ずしも現実化していないし,もう一つには,とくに北海道稲作に対して極端に進められている「減反・転作」政策の推進によって,30%近くの用水需要の抑制・削減(つまり水田面積の30%近くにのぼる転作強制)があるため,表面化していないとみられるのである.
 以上のように基盤整備後の稲作生産力の展開はまことにめざましいものがあるが,それが一面では稲作水利条件の改善という側面と密接に関連してもたらされた成果であることはいうまでもない.

Ⅳ 水田転作と水利体系

(1) 水田転作への対応経過の概況
 周知のように1970(昭和45)年から全国的に米の生産調整のための強力な政策が推進されてきたが,北海道有数の「米どころ」である深川では,あくまでも稲作主産地としての基盤を守るという地元側の意向がきわめて強く,道内の他町村でしばしばみられたような目標割当てへの「過剰対応」の発生を,逆にきびしく規制するといった動きさえあったし,前述のように丁度,この時期に進行中であった圃場基盤整備事業を通年施工の形にして,減反割当ての大部分をカバーするといった条件もあって,さほど深刻な問題を惹起するにはいたらなかった.
表6-5 深川市における転作の実施状況
 しかしながら表6-5に示したように,1978(昭和53)年以降の水田利用再編政策の強化の下で,本格的に転作対応に取り組まなければならぬ状況にたち至った.この傾向は,調査対象地区を包括する深川市農協管内についても同様である.そして,小麦,牧草,てんさい,小豆,といった畑作物への転作で,この事態に対処している.
 この場合,深川市農協ではつぎのような独自の転作対応の方式をとっている.つまり転作関係の機械施設を農協が所有し,これを運転・利用する農家集団に貸付けて,この農家グループが転作物の栽培作業を実質的に担当するという「受託作業集団」の育成につとめているのである.たとえば今回の対象地区内にあった「日の出ビート増産会」,「栄久営農集団」,「巴第5営農集団」といったグループがそれであって,いずれも圃場基盤整備後に結成された大型稲作機械を軸とする稲作集団を母胎とするグループ活動で,集団内の稲作は無論のこと,転作物の栽培も共同作業的に実施すると同時に,集団外の農家からの転作物のための各種作業の受託活動も行っている.各グループの組織構成を模式的に示せば図6-8のごとくであって,それぞれの地区集落における中核的な集団組織であることが明らかになろう.
図6-8 転作組織の構成
 つぎに個別農家における転作対応を事例的に示すと,表6-6のように,いずれの農家も経営面積の20-30%程度を転作にあて,そこに2,3種類の転作物を作付けていることが判る.比較的規模が大きい経営では小麦を主流とする転作が多くなっているようにみうけられるのに対して,平均規模程度のところでは小麦,てんさい,小豆などを共同作業(前述の転作集団グループ活動)によって生産しているものが目につく.
 ところでこういつた転作対応は,とくにこの深川のように水田率が90-100%に近い水稲単作地帯の農家にとっては,技術的にも経済的にも深刻な問題を投げかけている.とりわけ,最近の10-20年間に積極的に稲作規模の拡大につとめてきた農家にとっては,まさにそれに逆行する規模縮小を余儀なくされているわけであり,それによって稲作専用機械を初めとする諸投資の遊休化状態が惹起されているのである.
表6-6 水田転作への対応概況
 しかしより深刻な難問題は,上述のような転作対応をとった圃場の条件,とりわけ水利条件との関連であろう.つまり上述のような転作物はいずれも北海道に一般的な普通畑作物であって,その正常な生育のためには排水条件が良好でなければならない.しかも転作畑の土地利用を安定的に行うためには,3,4種類の作物を組み合わせた輪作を実施する必要がある.問題は,転作割当てが年々強化されつつある状況の下で,そのような圃場条件を確保できる余地が急速にせばまってきているという点である.
(2) 転作圃場と水利条件
 表6-7は,調査対象農家における転作圃場の主な選定理由をみたものであるが,これによると,まず第1は,転作物にとって好ましい排水条件が良好であるという理由によって選定されだ圃場であって,全体のおよそ40%の面積を占めている.しかし第2に,稲作にとって必ずしも適していない「稲作劣等地」を切り落して,それを転作にふりむけたとみられる部分もかなり多く,水稲収量の低い圃場,とび地・通い作地,水系・用水の末端にある圃場,といった理由のものを合計すれば67%に達する.さらに第3は,一定の面積的なまとまりをもって転作を行えば奨励金を上積みするという集団転作・団地加算の制度に対応するために隣接圃場を転作にふりむけたというものが32%に達している.
表6-7転作圃場の選定理由別にみた転作面積の構成
 もっとも,この数値は重複回答の集計結果であるから,実際にはいくつかの理由がかさなって圃場選択が行われているとみるべきであろう.あるいは相互に矛盾する要因をはらんでいるケースも十分に考えられる.たとえば稲作の優等地であって,転作はしたくないが,集団転作への対応上,やむなく転作に応じたとか,排水不良の稲作劣等地で,できれば転作にふりむけたいが,そこでは転作物も作られないので,やむなく稲作を続けているといった事例もみられた.
 しかし,比較的最近年次に基盤整備を実施したにもかかわらず,排水条件が不良(あるいはむしろ悪化したもの)であったり,不備であったりするところが少なからずみられるという現状は,今後もっぱら稲作の方向を考えるにせよ,転作の方向を考えるにせよ,大いに問題としなければなるまい.この意味では,排水問題を含めた水利条件を今後大きく改善していくことが,転作の有無にかかわらず重要な課題になっていると同時に,いわゆる団地加算の在り方が,必ずしも水利体系への即応と整合しない形で進められていたり,転作畑の合理的利用(輪作体系の採用)と必ずしも連動しない形で行われたりするケースがみられる点も,問題にしなければなるまい.
 一方,表6-8は,前掲表6-6で取り上げた調査農家を稲作生産力水準別に区分して,それぞれの稲作概要ならびに個別的な土地改良の実施状況を示したものであるが,概して稲作生産力が高位安定的なグループでは,圃場基盤整備後も自力で土地改良(ないしは「手直し」)を実施していると同時に,転作圃場についても同様の配慮をかなり行っていることが判る.これに対して中間層ないしは低位収量グループでは,こういつた土地改良や水利・排水条件への自力対応の動きが概して鈍いようにみられる.この点からいっても,水利条件の基本的な整備が,稲作ならびに転作の双方にとって共通の,重要な課題になっているといえよう.
表6-8転作対応と稲作の関係(1981年)
(3) 水田転作と水利組織の再編の必要性
 ところで,従来の水利組織は傘下の組合員のほとんど全員が,水稲単作的な土地利用を行うことを前提にして形成され,運営されてきた.しかるに現実は,傘下の水田面積のおよそ30%が畑地的な利用に転換することを余儀なくされている.つまり農業をめぐる情勢変化が,既存の水利組織成立の前提条件を大きく掘り崩しているわけである.そしてこの問題は,たとえばつぎのような具体的な形をとって内攻していく可能性があるといえよう.
 一つは,既存の水利組織を今後,物的にも,経済的にも維持し続けるためには,転作によって減少した,より少ない水田面積でそれを負担していかねばならぬという問題につらなっていくという点である.
 そしてもう一つは,転作によって用水利用が長期的に中断すると,とくに泥炭地帯のような特殊土壌地帯では,溝路周辺の地盤の不等沈下をはじめとするトラブルが発生し,用水体系それ自体の荒廃が急速に進行する危険性をはらんでいるという点である.
 この2点とも,深川ではまだ明瞭な形をとって表面化してはいないが,北海道の他の地区ではそれらの問題化が懸念されているところも少なくない.
 これは,既存の水田利用の在り方が大きな転換期にさしかかっているとき,既存の水田利用の在り方を前提にして形成され,展開してきた水利組織自体も,大きな転換・再編に向かわざるをえなくなっていることを示唆するものといえよう.

Ⅴ 総 括
-北海道における稲作水利の特質-

 北海道におけるおよそ100年の稲作水利の歴史は,つぎのようないくつかの画期を経過して現在に至っていると考えられる.すなわち第1は沢水利用,掘抜き井戸の利用の形の小規模・零細な私設利水,第2は一定の地区的なまとまりをもった「申し合わせ」的な共同利水,第3は北海道の拓殖政策とも密接な関連をもって展開した「土功組合」による広域的利水,そして第4は第2次大戦後の「土地改良区によって一段とシステム化の進んだ利水」である.
 そしてこれらの四つの画期を貫く形で,北海道の稲作水利の特質を指摘するならば,河川の自然流下を利用した「河川灌漑」地域であるとか,概して広域的な水利組織が中心をなしているとか,水利開発が国家的な援助を背景にして展開した,といったいくつかの現象的な特色をあげることができよう.
 一方,北海道の稲作展開の経過に即して考えれば,稲作試作の段階,直播栽培の段階,温冷床育苗による移植栽培の段階,そして耕転機段階を経過した今日の一貫機械化栽培の段階,の四つの画期をあげることができる.あるいはこれに,水田転作に直面しつつあるごく最近の段階を加えて,五つに区切る方が適切かもしれない.
 そして,こういった稲作展開の画期と前述の稲作水利展開の画期とは,ほぼ対応的にあらわれているが,より厳密にいえば稲作展開の画期に「半コマ」ずつずれる形の対応関係を示しつつ推移してきたといってよかろう.つまり[水稲試作]→〈沢水利用〉→[試作の拡大]→〈地区的な共同利水〉[直播栽培]→〈土功組合による水利組織の形成〉→[温冷床育苗法による移植栽培]→〈土地改良区〉→[動力機械化段階]→〈基盤整備と水利システム化の展開〉といった相互関連のシェーマが浮かびあがってくる.
 つまり北海道の稲作水利の特質は,何といっても,北海道における稲作的土地利用(より拡大していえば農業的土地利用)の特質によって規定され,その特質を一層増幅させる形で展開してきたといってよい.それはつぎの4点に要約されよう.その第1は,北海道の開拓に際して,アメリカの殖民区画の方式に範を求めて,独特の土地配分・所有形態をとり,これが伝統的に今日まで持続されてきたわけであるが,本州に比べていささか強調していえば「農場制的団地所有」とも呼べそうなこの土地所有の在り方が,独立自営的な土地利用の気風を生み,少なくとも個別圃場のレベルでは自己完結的な用水利用の在り方をもたらしているという点である.
 第2は,寒冷地という風土条件が,北海道稲作をしてたえず冷害という危険性に直面することを余儀なくしてきたわけであるが,このようにして形成された寒冷地稲作の特色が,たとえば春先の用水需要最盛期における極端なピークの形成を鈍化させ,用水利用における「おおらかさ」を形作ったとみられる.従来,北海道で水利問題があまり議論を喚ばなかったのは,それよりも冷害問題の方がはるかに深刻であり,しかもはるかに頻繁に現われたためであると同時に,この冷害問題への対応が,結果的に,用水需要期における農家間の競合を抑制する働きをもっていたためであると考えられる.
 第3は,上述のような開拓地という社会的条件,寒冷地という風土条件が,個別農家における経済的な蓄積力の形成を阻害し,これがひいては水利施設などの土地改良投資における「国家依存」の体質につながっているという点である.つまり,北海道農業における「民富形成のおくれ」が,国家的な投資に依存するタイプの,きわめて広域的な水利組織の形成につながっていった一つの大きな要因をなしているとみられるのである.
 第4に,とはいえ北海道の農業は商品生産的性格がきわめて強く,この性格にもとづく規模拡大・機械導入の展開をある程度可能にする条件に恵まれていたため,経済的な収益性・安定性に富む作物への集中特化の傾向も著しい.中核稲作地帯における水稲単作経営の広汎な形成も,このような土地利用の特質にねざしているが,それは反面からいえば,その母胎となった畑作経営の深刻な経済的不振・動揺への対応でもあったのであり,19世紀末から20世紀初頭にかけて,いわゆる「プラウ農法」の限界に直面した北海道農業の「再編の支柱」として,稲作水利が果たした役割はきわめて大きいといわなければならない.このことは第2次大戦後の大幅な水田拡張の傾向についても同様に指摘できる点であろう.
 とはいえ,北海道の稲作水利は,今や「米穀過剰」という未曾有の新たな局面の下で,どのような方向を選択することになるのであろうか.土地利用の再編・転換の在り方と関連づけながら,今後の推移を克明に把握・分析することが,当面の重要な課題になっているといわなければなるまい.

[参考文献]
1. 高倉新一郎『北海道拓殖史』.
2. 西尾幸三『北海道における経済と財政』.
3. 地方史研究協議会『日本産業史大系・北海道地方篇』.
4. 北海道立総合経済研究所『北海道農業発達史』上巻.
5. 奥山亮『新考北海道史年表』.
6. 深川市『深川市史』.
7. 深川土地改良区『大正用水・創立50周年記念誌』.
8. 北海道新聞社『北海道大百科事典』上・下.
9. 『深川土地改良区第24支線組合小史・流』.
[七戸長生]