技術と農村社会

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技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 第7章:自然としての土地から商品としての土地へー市場経済の発展を可能とした日本の条件ー
著者名: 友杉 孝
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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第7章:自然としての土地から商品としての土地へー市場経済の発展を可能とした日本の条件ー

はじめに

 これまで5年間に日本農村社会を四地域選んで調査してきた.長野県和田村(梓川扇状地)1),兵庫県稲美町(加古川台地)2),佐賀県千代田町(筑後川下流デルタ)3),北海道深川町(石狩川中流部沖積地)4)である.これら四農村社会はそれぞれ相互に異なる自然条件を基盤として,生活の主要な依りどころである稲作を展開してきた.すなわち独自の自然を対象とする労働過程と隣接農村さらには都市との相互交流を媒介として,各自の社会を動態的に形成した.いうまでもないが,この労働過程の不可欠の部分として農業水利労働がある.灌漑排水施設の建設と維持・管理なしには日本稲作はほとんど不可能である.モンスーンによる降雨があるから稲作ができるのではなく,灌漑排水施設があるからこそできるのである.灌漑排水施設の建設と維持・管理は過去の労働の成果であり,歴史的条件が深く刻印されている.決して自然条件そのものではない.すなわち,山間の小溜池は低い技術水準と小規模な労働力編成で可能であるのに対して,大河川下流部の治水事業には高い技術水準と大規模な労働力編成を不可避とする.前者は古代でも十分可能であり,実際においても古代稲作の主要な立地条件であった.しかし,後者は近世以後において初めて実現され,日本の穀倉となるのである.扇状地の水利事業はおおまかにみれば両者の中間にあり,山間小盆地から大河川下流部デルタへと稲作が拡大することを可能とした5).
 このように灌漑排水施設の歴史性という視点から整理すると,前記四調査社会はそれぞれ相違する歴史の四段階を示すことが明らかになる.すなわち兵庫県稲美町(加古川台地)は古代一中世と近代,長野県和田村(梓川扇状地)は中世-近世,佐賀県千代田町(筑後川下流デルタ)は近世,北海道深川町(石狩川中流部沖積地)は近代,をそれぞれ特徴的に物語る.河川中流部に位置する北海道深川町の場合,本州であれば近代以前に開発されているはずの土地であるが,そもそも日本の北限である北海道の本格的開発は明治以後であり,原生林が深川町に変貌するのは明治から大正にかけてであった.すなわち貨幣が生活を支配してからである.したがってこれら四調査社会の比較は,たんに共時的レベルにおいてだけでなく,おのずから通時的レベルでも行われることになる.共時的レベルでの比較検討が,日本における市場経済の発展という通時的レベルでの問題に対する手がかりを与えるのである.あたかも文書を読むように灌漑排水施設とそれに関わる慣行をテキストとして解読することで,人々にとって生きられた歴史に接近することができる.いうまでもなく,経済発展にともない,当然,具体的な生産活動とこの活動を支える象徴世界は形態を変える.しかし,手段合理的な生産活動と観念的な象徴世界が対立しながら相互補完関係を形成して,人間の生活領域が創られることは変わらない.具体的な生活領域は歴史的に変化するが,生活領域を意味づける神話は常に創られる.四調査地域を共時的に比較することで,神話が通時的に繰り返し再生することが明らかとなる.
 灌漑排水施設とそれをめぐる慣行,いいかえるならば稲作の対象となる土地を導きの糸にして論述を進める目的はもう一つある.すなわち日本農村社会と外国農村社会を比較するための視点を確かめることである.日本農村社会では,土地はたんなる生産活動の対象であるだけでなく,人々の生存それ自身をも象徴する.先祖伝来の土地を媒介として個人は超世代的に系譜を形成する.家(イエ)である.村落の土地は家と家を結びつけ,強固な地縁共同体の基礎となる.村落の境界の内外は峻別される.村落内の土地に無断で他者が入り込むことは拒絶される.集落であり,一つの相対的に自立した世界である.筆者が専門とするタイ農村社会での土地はまったく異なる.超世代的な家はないし,地縁的共同体の形成も強固ではない.むしろ親分子分関係(Patron-client Relationship)が重層的に展開して人々の生活を保護し規定する.土地が日本のように媒介的役割をもたないのである。土地よりむしろ自分と他者との直接的な人格関係が優先する.日本農村社会とタイ農村社会のこの相違は何によってもたらされたか.ごくおおまかにみれば日本農村社会では村落社会の利益のために個人の利益は犠牲にされるが,タイ農村社会では親分子分関係のために個人の利益は控えられる.
 本稿は,両者の相違を経済蓄積の形態が相違することに求めたい.すなわち日本農村社会では,経済蓄積の主要形態は土地であるのに対して,タイ農村社会では,労働力の社会的編成と個人の労働熟練度である.すなわち,労働主体の労働効率化と規模拡大である.土地を経済蓄積の主要形態とする日本農村では,土地を神聖化あるいは超越視することで,変わりやすい人間と人間の間柄をもつなぎとめる.さらに負債清算の手段にもなる.これは一つの限定された貨幣の機能である.タイ農村社会では,人間それ自身が負債清算の手段としての奴隷となる.このような経済蓄積の日本的特徴が日本に特徴的な社会的分業の展開をもたらし,自生的な市場経済の展開を用意した.いうまでもなく,土地に対象化している経済蓄積の主要部分は灌漑排水施設とそれをめぐる慣行にある.
 以上のような問題関心から本稿の論述は進められるが,紙数に制限があるため,問題の所在を明らかにするための一つのノートに本稿をとどめざるをえない.なお,農業史,灌漑排水施設,農業経営など関連する多くの重要な分野は,本書において他の筆者による論文が扱っているはずである.したがって,本稿は具体的な経済過程を象徴世界との関係で論述して,経済過程の隠れた意味を明らかにすることに重点を置きたい.象徴世界との関係を論述することで,ホモ・エコノミクスとは異なる経済活動を担う人間像が浮び上がることになるであろう.歴史を推進した人間は,常に非合理的な情念につき動かされた経済合理人であって,たんなる経済ロボットではなかったからである.

Ⅰ 水田社会の形成

 日本は稲作社会であるとしばしばいわれてきたが,現在みられるような農業の中での稲作の卓越が,古代より確立していたわけではない.古代,中世を通じて焼畑も少なからず行われていた6).現在の穀倉地帯を形成する海岸デルタの広大な水田が造成されたのは,多くは近世においてであった.
 最初の水田稲作は,当然低い技術水準,小規模な労働力編成によって可能な土地で開始された.このような条件に適する土地は,水稲に不可欠である水が自然に容易に得られる湿地である.デルタの微高地に接する沼沢地とか小さな谷間,山麓の湧水が利用される.谷頭に小さな溜池を築けば,水田耕作はさらに安定するであろう。古代の中心地であった大和平野を事例にとれば,弥生遺跡で著名な唐古[からこ]は大和川の沼沢地である.この平野を囲む山々の山麓と山間を細くくねくねと開折する小さな谷間には,古くから水田が立地する.谷間の緩やかな傾斜に棚田がつくられ,灌漑水は田から田へかけ流しである.唐古が大和川の氾濫による洪水を受けやすいのに対して,山間の小規模な水田は比較的に収穫は安定している.自然の湧水があるから早害を受けにくい.安定した水田耕作が確立する.この安定した稲作生産力は古代豪族の経済基盤となり,上記の山間の小さな谷間を根拠として『記紀』に登場する氏族が勢力を揮った7).
 大和平野に類似の水田景観は各地にみられ,風土記では地名起源と関連して語られる.たとえば『播磨風土記』は豪族の力で可能な山間の小規模な水田(伊勢野)から国家の権力によるとみられる河川下流部の氾濫原(石海村)の開墾を記す.伊勢野の事例は土地神を祀る儀礼に関して『常陸風土記』の行方[なめかた]郡によく類似する8).箭括麻多智[やはずのまたち]が夜刀神[やとがみ]を退けて10町余の水田を開き,山口に夜刀神を祀る社を設けた経緯を語る有名な記事である.二つの説話においては,開墾に際して土地神を祀ることで新たな秩序が確立する.夜刀神は蛇身とされるが,夜刀はヤトであり,丘陵の間をくねくねと細く曲がりながら続く谷間をも意味する.湿地帯である.じめじめした湿地帯が開墾されて水田に変わる.自然から文化への変換である.自然を象徴する夜刀神は排除されねばならない.しかし,夜刀神に象徴される自然の力は山口の社に祀られて,文化を加護する力に変換される.山口は丘陵と谷との境界であり,まさに地理的に自然と文化の境界となる.呪力を有すると信じられた杖がたてられる場である9).麻多智とその子孫が祝[はふり](司祭)となって,荒ぶる夜刀神の力を文化の領域から排除すると同時に,土地神として文化を加護する力として取り入れるのである.注意すべきは,祝は屠りであり10),したがって祝は自然から文化への転換に必然の犠牲を示唆する.祝が自然と文化を媒介し,祝の役割は文化英雄である麻多智とその子孫に継承される.象徴的な秩序形成が開墾にもとづく社会形成に対応する.
 これら開墾説話にみられる構造は,各地の説話において具体的な状況は当然に異にしながら繰り返される.加古川台地の入ヶ池[にゆうがいけ]の人柱伝承も類似の構造である.溜池が築造されて,安定した水田が維持されることになる.溜池の築造は自然から文化への変換の契機である.土地の人々のカでは不可能であった溜池築造が僧侶の示唆で初めて可能となる.すなわち僧侶の示唆により,美女を人柱にして初めて築堤に成功した.じつはこの美女は山に棲息する蛇の化身であった.人柱とされ息絶えた美女は鬼の形で再び世に現われて村人をおどろかす.自らの菩提がとむらわれることを願い,同時に溜池に依存する人々の繁栄を約束する.真楽寺[しんらくじ]の由来である.鬼の出現した土地は鬼川原と名付けられる.地名起源である.この真楽寺は北山の薬師堂で,旅僧行基の作と伝承される薬師如来が現在にいたるまで守られてきている11).
 上述の説話は647(大化3)年と伝承されるが,もとより説話の常としてこの伝承年は不確実である.説話それ自体も史実ではないであろう.しかし,荒ぶる自然を文化としての水田に変える媒介者である僧侶と美女(蛇)に関する神話としては,一つの真実を物語る.物理的現実では荒唐無稽であるが,人々の生活を保証する象徴世界について語る神話としては真実である.
 説話に登場する僧侶と美女はともに村落社会の人々にとって超越する力を示す存在であり,両者はこの存在の両義性を担う.すなわち,僧侶と美女は一つの力の異なる出現である.箭括麻多智と夜刀神の場合も同様であった12).説話の中の僧侶と美女の組合せは,歴史の中では行者と巫女の組合せに対応するであろう13).巫女は,神憑って人間と超自然的存在を媒介する.行者は客の求めに応じて,客を巫女に媒介する.入ヶ池の人柱伝承の原型は遊行する行者と巫女が流布したのであろう.旅の僧侶のカリスマ性は各地に伝承された大師伝説にもよく示され,人間の力では到底不可能なことがらの成就が物語られる14).定着農民にとって,遊行する人々は怖るべき両義的存在であった.
 入ヶ池人柱伝承に登場する僧行基は著名な宗教家である.古代世界において国家権力に収奪された農民を救済する聖[ひじり]として歴史的に評価される.日本のメシア運動のカリスマである15).この行基は灌漑事業でも知ちれる.布教活動と灌漑事業が密接に一体として進められた.河内,和泉,摂津に15の溜池を築造したと記録される.行基は渡来者氏族の出身である.彼に従う人々にも渡来者氏族が多かったから,溜池の築造技術には大陸の進んだ技術が用いられたであろう.これら行基にしたがう人々の多くは在俗の有力農民あるいは豪族である.これら有力農民のもとに多数の農民が工事に参加した16).行基のカリスマ性を媒介として水田耕作に不可欠な溜池が築造された.行基の歴史上の役割は,さきの入ヶ池人柱伝説において,僧の示唆により土地の有力農民が築堤を成就することに対応する.
 遊行する僧侶のカリスマ性を媒介として自然の荒ぶる力が排除され,水田耕作が成立することをみた.僧侶のカリスマ性は,定着して農村に居住する農民の力の結集点である.しかしながら排除された自然の荒ぶる力は,その形態を変えてたびたび農村社会に襲いかかる.早害,水害,病虫害,流行病など多様である.これら多様な荒ぶる力に対して,農村社会の人々は多様な仕方で超越的力を喚起して対応してきた.日本農村社会は,儀礼研究の宝庫の感があった.たとえば水乞い儀礼である.加古川台地野寺[のでら]では,芦池に村落の人々が集まる.前記入ヶ池の上流に位置する.芦池の東縁は小高く,天神社が立地する.旱天が続くと,人々は天神社に参詣した後,池の周囲を松明をかかげて,「大雨小雨,天にしずくはないかいな」と,口々に唱えながら行列して廻る17).溜池は水田耕作にとって必要条件であるだけでなく,人々にとって超越した存在に対する一つの媒介にもなっているのである.まさに溜池は神聖性を帯びた存在にほかならない.
 加古川台地野寺に限らず,旱天が続く場合,各地で多様な雨乞い儀礼が行われた.降雨を司るとされた竜に対して雨乞いをする.竜が女の性である事例も珍しくない.竜が棲むと伝承される洞穴あるいは池で降雨が祈願される.このような洞穴とか池に関わる説話も多い.儀礼の仕方も各地で多様である.たんに唱言を繰り返すだけの場合もあれば,経文を唱え,さらには踊りを伴う場合も多い.風流踊りである.太鼓踊りもある.すなわち踊り手の腹に太鼓をつけ,背に幣束を負う風流踊りである18).儀礼から芸能が展開する1事例であろう.儀礼から芸能への展開は,人々の生活を保証する土地に対象化した労働の成果がある程度以上に蓄積された結果,人々の生活が一応は安定したことに対応するであろう.このように雨乞い儀礼は各地各様ではあるが,雨水に関わるとされる超越的な存在を媒介として自然の恵みである降雨を共同で祈願することでは同じである.雨乞い儀礼は個人の行為では決してなく,村落社会が共同して行う.土地に対する支配力が私的個人を単位とするようになっても,なお水田耕作に不可欠な用水は村落社会共同で維持・管理されたことの一表現である.超越的存在あるいは遊行僧のカリスマ性が村落社会を統合すると同じく,水もまた村落社会の人々を結びつける.
 超越的存在を媒介として水田耕作が保証され,村落社会は維持される.この過程は,一面では土地に対象化された経済蓄積によって経済過程の再生産が常に可能とされることであるが,同時に他面においては,この経済蓄積の維持を可能とする象徴世界の創出過程でもあった.象徴世界に支持された経済蓄積は,神聖性を帯びて人々に現われる.再び加古川台地野寺を事例にしよう.
 野寺集落が立地する小高い土地は観音堂の山と呼ばれ,この山の一番高い場所に高薗寺とその観音堂が立地する.真言宗の古い名刹である.この寺院で,毎年2月9,10日に追灘行事が催され,野寺村落全員が参加する.まず鬼役の青年は7日前から寺院にお籠りして,仏の超越的力に祈願する.お籠りの間に,使用する大きな草履,梅の木,餅を用意する.仏の力を象徴するこれらのものはお籠りで特別な状態にある人によってつくられるのである。当日は観音堂で青鬼と赤鬼の走りが見られる.青鬼はモスグリーンの衣に白い太い綱を体に巻きつける.赤鬼はえび茶の衣にやはり白い太い綱をつける.住職が大般若経を読経する前で,青鬼と赤鬼はそれぞれの面をつける.写実的で恐ろしげな面である.さらに大きな手袋をつけ,草履をはく.青鬼は刀を赤鬼はまさかりを手にし,背には大きな槌をさす.鬼は松明を振りかざし,観音堂の縁を走り廻りながらつぎつぎと火のついた松明を見物する群集の中に投げ入れる.人々は競ってこの松明を取りあう.厄除けと信じられ,後で家屋の門に付けられる.鬼が走り廻っている間中,法螺貝がふかれ,太鼓が乱打される.日常の静かさに対して祭りの喧噪であろう.日常では排除される鬼が象徴する超越的な力が喚起されるのである.鬼が走り廻りながら縁の板を強く踏みならす所作は,地中に潜む超越的な力をこの世に現出させることを表わすのであろう.鬼が走り廻った後,人々は鬼の面に触れようと競って観音堂の段々のところに集まる.この祭りの翌日,鬼の担いだ梅の木の小片,餅,お札が野寺村落の各家に届けられる.梅の木と札を苗代に挿して,豊饒を祈願する19).
 鬼が象徴する超越的な力で,人々の生活も耕地も守護される.水田は農業生活の場であると同時に,超越的な力で加護された土地である.こうして自然としての土地は,人間化された土地に変換する.人間の活動領域は加護された一定の土地に安定的に拡大する.いいかえれば,耕地は人間の拡張である.土地は人間の外部にあるが,あたかも身体の一部あるいはその延長であるかのように扱われる.日本の水田耕作は園芸のように入念細密に行われる.人々は経済的得失を越えるまで入念に水田を手入れし,耕作に精を出す.本来,水田は生計をたてるための手段であるはずである.しかし,神聖性を帯びた水田は手段を超えた存在となる.人間と水田の関係は倒立して,人間は水田に仕える存在となる.水田の象徴化である.水田が神聖視されることで,水田耕作は安定的に維持される.時々の人間の気分あるいは気ままな判断に妨げられることなく,水田は規則的に耕作され,最大の収穫をあげることが保証されるからである.
 人間の外部にあって,神聖性を帯びた水田は個人の生命を超えて存在する.水田は次代に相続され耕作される.水田は世代と世代を結ぶ媒介である.超世代的に永続することが願われる家(イエ)の物質的基盤であるばかりでなく,家の存続の象徴でもある.「先祖伝来の土地」という表現が,しばしば述べられ,土地が個人の経済利害を超越する存在であることが意味される.さらに水田は村落社会の家と家を結びつける.超越的な力で加護された一定の土地は村落社会の領地である.この一定の領地内の土地を耕作することで,村落社会の家と家は共同体化する.領地の境界に関する意識はきわめて厳格であり,他村落の人がこの領地内の水田を村共同体に無断で耕作することはできない.入作りあるいは出作りは個別的に常に明確にされている.
 このように水田が象徴レベルで神聖性を帯びることで,水田耕作が安定的に維持され,村落社会の統合も保証される.したがって村落社会の秩序は,土地所有を基準にして確立することになる.古くから土地を多く所有する家は家格が高く,逆に少しの土地しか所有しない家は家格が低いとされる.まったく土地を所有しない家は最下位に位置づけられる.村落社会秩序は土地所有で第一義的に定義される社会であった.しかし注意すべきは,土地所有の対象である土地は経済的であるばかりでなく,象徴的意味をも担った存在であることである.土地を所有することは土地に付与される象徴的意味を所有すること,すなわち土地に憑かれることでもある.土地に憑かれることで精細な水田耕作が可能となるとともに,新たに耕地面積を拡大することに骨身を惜しまず寸暇を惜しんで労働に励むことも可能となる.土地に憑かれているからこそ,土壌所有面積の拡大がこのうえない名誉であり,逆に何かの理由により土地を手放すことは最大の恥となるのである.土地を他人に渡した家は,他所に逃げ出すことも珍しくなかった.

[注]
1) 長野県和田村の報告書は,友杉 孝『経済蓄積の形態と社会変化-梓川水系の事例-』,国際連合大学,1979年.[以下,『経済蓄積の形態と社会変化』と略記』
2) 兵庫県稲美町の報吉書は,友杉 孝『溜池と社会形成-文化としての溜池』,国際連合大学,1980年.[似下,『溜池と社会形成』と略記]
3) 佐賀県千代田村の報告書は,友杉 孝『土地の商品化と貨幣の記号化-佐賀県平坦部農村の社会史を事例として-』,国際連合大学,1982年.以下,『土地の商品化と貨幣の記号化』と略記]
4) 北海道深川町の報告書は,友杉 孝『新開地における社会形成と農業協同組合-北海道深川町の事例-』,国際連合大学,1983年[以下,『新開地における社会形成と農業協同組合』と略記]
5) 下記の文献を参照.
古島敏雄『土地に刻まれた歴史,岩波新書,1967年.
玉城 哲・旗手 勲『風土-大地と人間の歴史-』,平凡杜,1974年.
6) 焼畑耕作の重要性と歴史について下記の文献を参照.
佐々木高明『稲作以前』,日本放送出版協会.1972年.
畑井 弘「奈良・平安時代の焼畑農業-古代~中世史における山野の問題の再検討-」,同『律令・荘園体制と農民の研究』,吉川弘文館,1981年,所収.
畑井 弘「山野の聖域的領有と非律令約世界の反逆」,同上書,所収.
7) 古島,前掲書,73-75ページ.
8) 亀田 隆之「播磨風土記の開拓説話」,同『日本古代用水史の研究』,吉川弘文館,1973年,70-74ページ.
9) 小松和彦「日本神話における占有儀礼」,『資本神話と祭祀』,有精堂,1997年.
10) 西郷信綱「イケニヘについて」,『神話と国家』,平凡社,1977年,166-70ページ.
篠田浩一郎「二つの坂」,『中世への旅』,朝日新聞社,1978年,124-25ページ.
『岩波古語辞典』,1054ページ.
11) 『溜池と社会形成』,4-5ページ.
12) 山口昌男『文化と両義性』,岩波書店1975年,4ページ.
13) 人柱を歌舞に秀でた遊行の宗教者とすることについては,柳田国男を参照.柳田国男『妹の力』,定本柳田国男集第9巻,筑摩書房.
14) 宮田 登「ダイシ信仰とミロク」,同『ミロク信仰の研究』,未来社,1977年,97-137ページ.
15) 高取正男「日本におけるメシア運動」,同『民間信仰史の研究』,法蔵館,1982年,26-37ページ.
16) 亀田隆之「用水をめぐる地方豪族と農民」,上掲書,187-200ページ.
17) 『溜池と社会形成』,6ページ.
18) 雨乞い儀礼については下記の文献が網羅的である.
高谷重夫『雨乞習俗の研究』,法政大学出版会,1982年.
19) 『溜池と社会形成』,6-7ページ.

Ⅱ 水田社会の維持

 土地に対象化した経済蓄積,すなわち原野を耕地化することで水田に基盤をおく村落社会が創り出されることをみた。この創出過程は自然に対する手段合理的な人間の労働過程であると同時に,超越的な力をもつカリスマの参与が不可欠であった.水田社会の創出と維持は,カリスマが由来する象徴世界の形成を必然的にともなった。水田社会における経済世界と象徴世界の動態的な関係性は,時間レベルでは年中行事にみられる.ハレとケの交替により1年間の水田社会の時間秩序が確立する.同じことは,空間的には水田社会の集落の地理的配置にみられよう.まず年中行事からみていこう.
 さきの加古川台地野寺村落の追儺行事では,鬼に象徴される超越的な力で村落社会の生活と水田耕作が安堵された.類似の行事は修二会,修正会の行事として各地で行われる.鬼が激しい踊りで床板を踏みならし,床下に潜むとされる後戸[うしろど]の神の力を喚起する.年初めの一つの予祝行事である.この後戸の神は納戸の神,道祖神,護法童子,守宮神などに変換する一つの超越的力である1).後ろにひきこもった隠れた力,すなわち社会秩序から排除された力を喚起することが1年の繁栄を願うことである.秩序を形成する力は祭の形式性で,秩序以前の自然のカオスを示す力たとえば夜刀神,美女として現前する蛇は,熱気でつつまれた祭りの喧噪で示される.このように祭りという一定の形式のもとに,排除された超越的な力を文化の中に現出させることが図られる.排除された力を現出させることで労働過程の成果が初めて期待できる.いうまでもないが労働過程の成果なしには祭りの行事も実施できない.この両者はまったく異なる次元に関わりながら,両者が相互に補完することで村落社会の生活領域は維持可能となる。生活領域の成立を可能とした超越的な力を時間的に一定の文化の枠組の中で顕在化させる機会が年中行事である.
 二つの年中行事を梓川扇状地和田村を事例にしてみておこう.第1の事例は稲作が超越的な力の加護のもとに行われることを示し,第2の事例は各村落社会の道祖神についてのものである.
(1) 小正月の予祝行事2)
 1月14,15日には各種小正月の行事が行われる.本年の稲作の豊作を願う予祝行事である.繭玉を柳の若木に沢山飾る行事もその一つである.稲が豊かに実ることが祈願される.この時期に柳の木で粥かき棒をつくる.柳はよく育つといわれているからである.15日の粥をかきまわし,その後,神棚あるいは恵比須棚に上げておく.苗代の種播き直後,この粥かき棒を水田にさす.3本から5本である.田の神の依代[よりしろ]である.種籾の残りでつくった焼米を水田に一緒に供える.餅にはよもぎとわかめを入れる.緑のものであることから稲の成育を示す.このように超越的な力の恵みに祈願して稲作は行われた.
(2)三九郎,ドンド焼き3)
 1月15日,村落の道祖神の前で松の木を焼く.4,5メートルの松の木3本を三叉に組み立て,ここに正月の門松,わら,しめ縄を入れて燃やす.門松,しめ縄は正月に訪れた神の依代である.この三九郎は子供の祭りで,子供の書初めとか女の子の色紙の袋を燃やす.書道,裁縫が上達すると信じられていた.子供たちは大人から小銭をもらったが,興味あることに,嫁取りのあった家,出産のあった家からとくに多くもらった.道祖神は縁結びの神でもあるからである。この祭りで,子供たちは非常に露骨なセックスの歌を無邪気に歌う.道祖神は性と豊饒の神でもある。道祖神は多義的で塞の神でもあり,村落社会に入ってくる悪を防ぐ.道祖神の向う側,すなわち村落社会の外側は未知の危険に満ちた空間であるが,道祖神で守護された村落社会は安全な場でありうる.道祖神が塞の神で豊饒をもたらすとされることは重要である.豊饒は塞の向う側からもたらされることが示される.塞の向う側は村落社会の秩序に属さない.秩序形成は必ず非秩序の力を排除するが,豊饒さは秩序に属さないこの力を儀礼によって取り入れることで成就される.前述の山口の神社と類似の構造であろう.
 二つの年中行事についてみたが,いずれの場合も超越的な力を村落社会の中に取り入れることで労働過程が展開される.正月,盆,春と秋の祭りなど生活全般に関わる。注意すべきは,超越的な力を媒介として生活領域を維持することとは,人々がこの超越的な力に憑かれることにある.人々が僧侶のカリスマ性に懸かれたことと同じである.いいかえれば,道具あるいは水田を自由に支配することを意味する所有の背後には,人々が超越的な力に憑かれていることが潜在するのである.超越的な力を媒介として,初めて人々は世界を自由に操作することができる.所有するものはタブーで護られる.所有にまつわる神聖感が,社会秩序を心理的に強化する.所有はたんに法制度的に規定されるのでは決してない.
 生活領域の創出を媒介した超越的な力を時間の経過の中で規則的に顕在化させようとする一定の枠組が年中行事であった.日常の労働過程とはまったく相違する行動のパターンが非日常の祭りではみられる.このような対照的な二つの生活領域,すなわち日常的な手段合理的な行動が卓越する労働過程と,非日常的な力を顕在化させる祭りは空間的にも明確に表現される.村落社会の地理的配置にみられる聖の領域と俗の領域である.いうまでもないが聖の領域は非日常的な超越的力に,俗の領域は日常的な人間生活にそれぞれ多く対応する.前者が祭りに関わり,後者は労働過程に関わる.加古川台地野寺村落の場合では,聖の領域は高薗寺,芦池東側の神社,祠などである.俗の領域は集落,水田,隣村に連なる道路である.集落と水田を基盤に展開される日常的な俗の労働過程は聖の領域に潜在する超越的な力によって維持される.
図7-1 日本農村集落の景観概念図
 村落社会における聖の領域と俗の領域の一般的な地理的配置は図7-1で示される.聖の領域は,山中の奥宮から山口の神社を経て御旅所にいたる垂直方向で示される.御旅所はかつての田宮で水田を加護したが,人口が増加したため集落が拡がり,集落の中にとり囲まれてしまう.この垂直方向はまた山より水田に向かう農業用水の流れとも一致する。村落社会の祭りは,この垂直方向の区域で行われる.超越的な力は山中に発して,里の集落と水田の稲作を加護する4).超越的な力が所在する山中は,この世に対する他界と観念される.この世,すなわち俗の領域の諸活動は他界よりの超越的な力を媒介として秩序づけられている.上でみた年中行事で使われる松の木,柳の木,梅の木はすべて山中の産物で,超越的な力の依代とされる.日常道徳もまた超越的な力による公正な賞罰という観念を媒介として強化される.道徳的によこしまな,たとえば欲ばりな人は山中に棲息する山姥に食べられる.相互規範にもとづく平等な村落社会では,富の不平等な配分は社会解体の契機になる可能性が大きく,厳しく罰せられねばならない5).
 山中の奥宮から水田の田宮にいたる垂直方向が聖なる領域に関わり,祭りの際に卓越するのに対して,俗の領域は水平方向に展開し,経済に関係する.山口の神社の下の里で,前述の垂直方向に対して直角に交叉するように集落が立地する.集落の中央に大通りが走り,隣村に向かう.村落社会の公共建物,たとえば役場,郵便局などは大通りと前述の奥宮からの道との交差点近くに立地する.商店もこの辺に立地する.村落社会の旧家は大通りの山際に立地することが多い.村落社会の境には道祖神が所在する.塞の神であり,病気,災害など不幸をもたらす外部からの悪い力を排除する役割を果たす.村落社会内部で発生する災害,不幸についてもまたこの境界から向う側に排除されて,村落社会内部は浄められる.病気神,虫送りの行列は道祖神まで行き,不幸をもたらす悪い超越的な力を隣村に追放する6).人々にとって守られるべき社会は,自分の村落社会であって隣村ではない.前述の垂直方向の聖の領域と水平方向の俗の領域が相互補完的に組み合わせられ,村落社会は自立度の高い小世界を構成する。他村落社会の不幸は直接の関心事ではない.他村落社会はむしろ競争相手なのである.
 年中行事と集落の地理的配置で明らかにみられるように,村落社会は強固に地縁的に団結した共同体である.しかし本源的な共同体である家(イエ)と相違して,地縁的共同体である村落社会の内部には経済的対立,あるいは緊張をも抱えこむ.とくに土地所有にもとづく対立関係は顕著ですらある.にもかかわらず,村落社会は一つのほぼ完結した社会として,対外的にも対内的にも機能する.この村落社会を秩序づける規則は相互性である.対等な立場にある人が規範的に等価値の財貨あるいはサービスを交換する.田植え,刈取りなど農作業における手間の貸し借りである「結[ゆ]い」,冠婚葬祭の手伝いなどすべて相互性の規範にしたがう.たとえば3日間手伝ってもらえば,3日間手伝って返す.お祝いをもらえば,他日同様の機会があればその相手に同じていどのお返しを必ずする.通過儀礼の機会はどの家も共通であるから,ある一定の時間経過の中では,誰との間でも,受ける価値と与える価値はほぼ等しいことに結果するはずである.
 相互性規範によって交換されるものは,財貨あるいはサービスに限らない.交換当事者の感情とか意味もまた伝達される.財貨とサービスは本来的な経済的使用価値とともに,この使用価値と不可分に社会関係を維持しようとする当事者の意志も担う.すなわち社会関係の媒介物である.したがって村落社会の構成員は,すべて誰でも相互性にもとづく相互扶助あるいは贈与慣行に関与せねばならない.村落社会の内部では,何よりも他家とのつきあいが大事にされねばならない.村落社会から独立して,家が単独で生計をたてていくことはほとんど不可能であった.村落社会からの追放は村八分といわれ,通常の扶助と贈与のネットワークから外された.相互扶助と贈与慣行は恥辱と名誉という観念でもってさらに強化される.人並みに贈与に支出しなければ,けちであり恥とされる.他人以上に贈与を,とくに村落社会に対して支出すれば名誉である.名誉を担う人物が村落社会の指導者に相応しいと評価された.自分の私的経済的利益を無視して,村落社会全体につくす人物は指導者の理想像である.この場合,指導者と人々の間には相互性による相互的な財貨とサービスの交換はない.しかし,指導者が払う経済的支出に対して社会的名誉という代償が与えられる.
 いうまでもないが,村落社会の構成は決して一様でない.土地所有にもとづく階層性さらには階級対立をも内包する.土地を多く所有する家は,それだけ経済的に優位であり,名誉を得る機会も多い.逆に土地を所有しない家は人並みのつきあいも困難である場合が多い.村落社会の指導者,すなわち村長その他の役付きは土地持ち階層にほぼ独占され,土地なし階層は従属的立場に立たせられる.土地なし階層の農民が村落社会の指導者になるためには,何よりも土地を集積せねばならない.人々は骨身を惜しまず労働するが,労働は生計にとって不可欠であるだけでなく,名誉を得るために必要であった.しかし重要なことは,村落社会の指導者は地位にふさわしい行動をせねばならぬことである.名誉を守るためである.私的利益を優先させれば,たちまち社会的非難の的になる.陰口による制裁である.こうして,村落社会の統合をおびやかす危機は避けられる.村落社会では経済的に豊かであるにもかかわらず,経済的支出を相応にしない人は腹黒いなどと陰口の対象になる.とくに急速に財産をつくった人の場合は,いわゆる憑きもの筋とされてしまい,村の普通のつきあいから排除される.激しい嫉妬の対象である7).この結果,土地所有にもとづく階層性のために相互性の規範が実現されていないようにみえる場合でも,名誉と恥辱の観念を媒介として,富裕な人はそれなりに多くの支出が社会的に要請され,村落社会全体に貢献することが期待される.相互性規範が機能しているのである.このため土地所有の差にもとづく村落社会のいわば垂直的統合に対して,相互性の規範はいわば横の平等な統合に作用するといえるだろう.これら二方向の統合が合成されて,現実に観察可能な村落社会の具体的な形相が実現される.
 村落社会の水平的な社会関係をもっともよく示す制度として,水利慣行がある.農業用水の物理的特性として,農業用水の建設と維持・管理は必然的に一定の拡がりの土地をまとまりあるものとする.一家族で農業用水を建設・維持することは本来的に不可能である.水利慣行は一定の拡がりの土地の中で耕作する人々を連帯させる.しかし,このような連帯が確立する端緒においては,溜池の建設を可能とした超越的な力に対する共通の信仰があったことが重要である.すなわち共通の信仰を背景に人々の連帯は成立するが,一度,水利施設を基盤に水利慣行が確立すれば,この水利慣行が人々の連帯を強化し,永続させることになる.村落社会の水平関係をもっともよく示す溜池を事例として,水利慣行を共同体の視点から見ておこう.
 野寺の灌漑水利は,すべて村落社会が全体として関係する8).溜池,水路の維持・管理は村落社会の全農家の共同労働である.毎年定められた日に各農家当り1人の人足が割り当てられ,共同で水路の補修と草むしりをした.稲作の開始に備えて,村落社会が全体として水利条件を整備したのである.すなわち村落社会全体の水利条件が整備される過程で,おのずから個別農家がそれぞれ耕作する水田の水利条件は整備された。さらに野寺の灌漑水利を特徴づけるものに「水入れ人」がある.すなわち,毎年6月20-23日の吉日に溜池の樋の傍で頭つき小魚,酒,洗米が供えられ樋抜[ひぬ]きがされた.これから9月の彼岸までの稲作期間中,野寺村落の溜池がらの配水はすべて水入れ人が行った.個別農家は自分の耕作する水田に自由に用水することができない.水入れ人は村落社会の水利委員会の雇人で,委員会の指示ですべての個別水田の水取り入れ口の開閉をした.したがって用水を希望する農家は,まず委員会に申し出て,ついで水入れ人に自分の水田に水を入れてもらう.用水管理の共同体規制とすべきこの慣行は徹底していた.
 この共同体規制は旱天の場合,さらに強力に発動された.すなわち村落社会のすべての水田の植付面積を一律に制限する.旱天が続き用水の絶対量不足が明らかになった場合,用水不足による被害を全農家が平等に負担する制度で,「歩植[ぶう]え」と称した.たとえば八分植えは水田面積の八割しか植えられない.歩植えの割合に応じて,一定面積の水田に対する配水を停止させる.配水停止の水田は「あげ田」といわれ,この年は畑作に転換した.いうまでもなく歩植え制度による歩植えの実施も水利委員会の決定である.稲作を生計の基盤とする社会にとって,歩植えは非常に緊張を強いる仕事である.しかし委員会の決定を秘密で破り,夜間こっそりと水を自分の田に入れるいわゆる盗水は事実上ない.盗水が見付けられれば,非常な恥となるからである.村落社会の共同体的性格が個人の中に内面化された結果である.
 個人の自由な経済的利益の追求,たとえば水田の土地改良をして土地生産性を上げることも村落社会の共同体規制を媒介として初めて可能となる.すなわち個人の利害も村落社会全体の利益が向上する中でのみ実現できるメカニズムである.土地を多く所有する農家も例外ではない.村落社会が地縁を媒介とする共同体的性格をもつことは,灌漑水利慣行にもっともよく示される.したがって村落社会としては,灌漑用水は経済的価値であるだけでなく,自らのアイデンティティを確かめる対象でもある.隣接村落との激烈なる水争いが生じる理由である.野寺村落はこれまで激しい争いを隣接入ヶ池郷さらには草谷[くさだに]と演じてきた.流血の争いであった9).旱天時の用水量の絶対的不足という重大な事態と,自らのアイデンティティを確かめることが重なって,水争いは常に深刻である.この水争いにみられる村落社会間の対立は,村祭りの際にも演じられる.けんか祭りである.日常時には抑制される感情が,祭りでは開放される.隣接村落と争うことで村落社会の地縁的連帯は確かめられ強化される.逆説的であるが,村落社会は争いを必要としたのである.
 地縁的共同体として村落社会は経済的利害だけでなく象徴世界からの神仏の加護によって維持された.この村落社会に変化が生じるのは何故か.いうまでもなく村落社会外部からの影響と村落社会内部の稲作の高い生産力との結びつきによる.村落社会が象徴世界によって加護されることはすでに見た.象徴世界は彼岸で観念上の他界,すなわち村落社会の外部に位置づけられる.この象徴世界は現実の村落社会の向う側,たとえば山,海に投影される.現実の山が他界とされ聖化される.山中に居住する人は,特別な力を身につけるとされた.修験者である.象徴世界は両義的に考えられたから,山も両義的な存在であった.すなわち聖であるとともに汚れでもあった.地獄谷があり,墓地が所在した.こうして村落社会と象徴世界の関係は転換して,村落社会とその外部社会との関係に置き換えられる.村落社会を訪れる修験者,行者,芸能人,知識人,商人などは特別な力をもたらし,村落社会の維持に貢献するとともに変化の契機をも与えた10).とくに外部から流入する貨幣は大きな影響力をもった.
[注]
1) 高取正男「後戸の護法神」,前掲書,366-88ページ.
 同「民俗と芸能-芸能未発の部分」,芸能史研究会編『日本芸能史1』,法政大学出版会,1981年,119-70ページ.
2) 『経済蓄積の形態と社会変化』,13ページ.
3) 同上書,12-13ページ。
4) 明治大学工学部建築学科神代研究室編『日本のコミュニティ』,鹿島出版会,1977年,11-12ページ.
5) 小松和彦「山姥をめぐって」,同『憑霊信仰論』,伝統と現代社,1982年,209-35ページ.
6) 明治大学工学部建築学科神代研究室編,前掲書,12-13ページ.
7) 小松和彦「憑きものと民族社会-聖痕としての家筋と富の移動-」,前掲書,11-81ページ.
8) 『溜池と社会形成』,7-10ページ.
9) 同上書,12-13ページ.
10) 小松和彦「世捨てと山中他界」,同『神々の精神史』,伝統と現代社,1978年,177-97ページ.

Ⅲ 水田社会を変える力

 日本は稲作社会といわれ,農村景観というとすぐに農業集落とそれを囲む水田がイメージされるために,かつて焼畑耕作が大きな比重を占めていたことが忘れ去られる傾向にある.たしかに,現代日本に関する限り焼畑耕作はほとんど無いに等しい.僅かに残存していた焼畑耕作も日本経済の高度成長期に消滅した.しかし近世以前,事情はまったく異なる.前述したように,低い水準の技術と小規模の労働編成で開墾できる土地は水田化し,入念に耕作されていたが,まだ多くの土地が水田化されないままに残されていた.したがって焼畑耕作の比重は,それだけ近世以後に比較すれば高かった.山地に多くの人々が居住していた.山棲みの人である.
 山棲みの人々は焼畑耕作をしてソバ,ヒエ,各種豆,サトイモなどを生産するほかに,杣,大工,木地屋(細工物),マタギ(狩猟者)などの多様な仕方で生計をたてた.これら山地の産物は里の水田社会の産物,とくに米と交換された.地域間分業である.当然,漁村社会と水田社会との間にも交換があった.水田社会は相対的に自給自足しながらも,山地社会と漁村社会を含む広域間分業のなかで位置づけられた.水田社会の安定した高い生産力は山地社会と漁業社会に対して圧倒的に優位にたち,政治的にも支配力を揮った.しかし水田社会は山地社会と漁業社会を不可欠とした.水田社会にとって山地社会と漁村社会は異文化の領域である.水田社会の外部に位置する山地と海洋に,前述のように象徴世界がイメージされる.水田社会を加護する象徴世界が異文化を背負う人々に投影される.水田社会に外部から訪れる異文化を背負う人々は,軽蔑されながらも同時に恐れられた.
 たとえば福岡県糸島郡野北,岐支[きし]の女行商人シガの例をとりあげてみよう.シガは近くの水田社会に海産物をもってゆき,代りに農家から農産物を受け取る.興味あることは,農家がシガに与える穀物をクモツ(供物)と呼ぶことである.農家は秋の収穫をシガに与えるまでは食べなかった.農家がシガを悪くもてなし,シガが怒って籠を裏返して底を叩くと,その家は絶えるとされた.さらに注意すべきは,シガは亡き城主の娘お照姫に由来し,シガがもたらす海産物は農家のハレの行事に不可欠な儀礼食であることである1).
 象徴世界の神のイメージがシガに重ねられている.水田社会の頂点にたつ天皇家のもっとも重要な儀式である大嘗会に,吉野山中の国栖[くず]を朝廷に召し出し,天皇を呪祝させた.山中に住む国栖の霊力が天皇の霊魂を強めると期待されたのである2).象徴世界と関係するとされる独自の身振りは芸能の原初でもあろう.
 水田社会を訪れる人々は他にもいろいろあった.前述の行者と巫女は特別の霊力をもたらした.各種職人もいる.なかでも鍛冶屋,鋳物師はとくに重要である。農具に付ける刃,鍋,釜などは農家の生活にとって不可欠でありながら自給できなかったからである.鍛冶屋,鋳物師は神聖な火を扱って貴重な鉄製品をつくるから,特別視された.彼等が遍歴しながら訪れた村落で仕事のために滞在した土地は金屋と呼ばれ,その仕事場跡はカナクソ塚と呼ばれる.群馬県山間部では,金井神,家内神社と呼ばれ,信仰の対象になっている.鍛冶屋,木地屋の屋敷地跡はよくない場所として住民から忌避されている例もある3).外から訪れる,異文化を所有する人々に対する恐れからである.この恐れは神を祀る信仰にもなるが,同時に軽蔑さらには差別にも転化しうる.特にこれが顕著にみられるのは,外から訪れた人々が政治的に強制的に村落社会内に定住させられた後に,彼らが所有する文化,具体的には技術が,水田社会にとって必ずしも必要でなくなった場合である4).前述の土地所有の有無に対する観念がさらに差別を強化したであろう.
 水田社会を中心として山地社会,漁村社会,各種職人,さらには呪術者,芸能人など多種多様な人々により社会的分業が成立していた.これらの人々が集まって経済的取引をする場所がある.市である.市(イチ)は町(マチ),道(ミチ)と「チ」を共有し,道路に関わり,衢(チマタ)に強く結びつくという.境界の意味を強くもつ.此岸と彼岸の境である.水田社会の外れである5).前述の農村集落の地理的配置では(図7-1),集落を横切って水平方向に伸びる道路が集落の領地を越える地点に道祖神がまつられ,この位置に市が立地する.市神を示す自然石は道祖神,塞の神に由来する6).松本市の目抜き通りの旧川原に近い地点に男根を形取る道祖神があり,この前で市が開かれた.馬緊石といわれ,北陸から塩を運ぶ馬をここにとめた.現在,初市の時に注連縄を張って浄める7).松本市近くの四賀村,坂北村でも道祖神の石柱が市神である8).
 市に関する伝承も興味深い.松本市もその中に含まれる南北安曇郡では,市に山姥が出ると値が下がるとか,市がしまいになるとかいわれる.山姥が2,3合しか入らない瓢箪に何升も酒を入れて帰ったともいわれる.瓢箪は山地の産物で一つの呪具である.島根県出雲では山姥を大市姫[おおいちひめ],市杵島姫[いちきねしまひめ]と呼ぶ9).前述したように山姥は山中に居住する不思議な存在で,象徴世界と関係づけられた霊力を有する.このように境界に立地する市は歌垣が行われた場であるともいう.市のセリと歌垣での男女のやりとりは類似する.日常の生活では厳守される規律も市で緩み,性的オルギーの場であった.歌垣が政治的に禁じられた後,都市で踊り念仏が流行する。水田社会からみれば都市はそれ自体一つの巨大な市で,踊り念仏は歌垣の再生とみることができる10).水田社会が市との関係で活気を付与されることには変わりない.観念上の象徴世界が,市を媒介として水田社会の外側に現実化されることになる.
 当初,農村社会の外側に発生した市は,やがて農村社会の内側にもとりこまれるようになる.水田稲作が安定し稲作生産が増大するにつれて,象徴世界に対する水田社会の自立性が高まることに対応する.水田社会は自分の中に神聖な領域を設定する.神社,寺院,祠などである.寺院は平地に所在しても「○山△寺」と称し,山中にあるとされる霊力を象徴した.農村社会の中で開かれる市は,最初,神社・寺院の境内に立地する.祭日市である.多くの人々の参詣で賑い,大道芸も演じられたであろう.
 庄園代官の所在地,交通の要地も市開催の土地となる.庄園代官の所在地は交通の要地であることも多い.庄園年貢の消費あるいは輸送に便利な土地である11).年貢の販売あるいは輸送を委託される問丸も発生する.水田社会からみればこれら交通の要地は一つの境界でもあり,したがってまた水田社会を他地域,とくに都と結びつける機能も果たした.市開催日も特定の祭日から月に3回,さらには6回も開かれた.日切市である.最初は農家から何里も離れたところで開かれた市も,15,16世紀になるとずっと増加し,平均で2,3里の間隔で市場が設置された.農民は朝出かけ,夕方には帰れた.市場は周辺の日切市と協定することで,経済取引の効率を高める12).当初の市は人家のない荒野の中でバラックがあるていどの土地で開かれたが13),市場の設置は市場集落の形成をもたらした.各種商人のほかに金貸しも営業するようになる.周辺の農村社会に対する一つの中心集落である14).しかし道祖神が境界であるのに類似して,市場集落も一つの境界である.市場集落は個別農村社会を広範囲な外部社会に関係づける.すなわち市場集落は農村社会の中心にして境界であるという二重の機能を果たすのである.市場集落は近世に城下町に取り込まれ,領国経済の中心地となる.かつて象徴世界は農村社会から離れた山中に投影された.山中は城下町に置き換わる.山中すなわち他界から富がもたらされたが,城下町に富の象徴である貨幣を所有する商人が居住することになる.貨幣が象徴する力を契機にして,農村社会での生産活動が拡大したためである.
 市に出入りする人々は山棲みの人,海産物を売り歩く人,各種遍歴職人,近在の農民など,いまだ必ずしも専門商人ではなかった.むしろ職人兼商人が普通であった15).農民も農産物の一部を市で商う限りでは商人的性格を所有した.市をめぐる原初の社会的分業である.しかし市場が設置され市場集落が形成されると,経済的取引は専門的商人に担われる.これまでのいわば兼業商人は,市場商人になるかあるいは商品を振売して歩く行商人として市場の補充的役割を果たすにとどまった.
 専門商人の系譜は多様であるが,権力者に隷属する身分の人々が有力である.すなわち,公卿には供御人,神社には神人,寺院には寄人と聖,武士には被官である.これら身分の人々は保護者として頼る有力権力者に,一定のサービス・財貨を奉仕する代りに,取り扱う商品につき独占的商業権を認められた.座である.座は商業に限らず,職人,芸能の組織でもあった.いずれも非農業的組織であることは同じであり,有力者の保護下にあった.非農業的活動が座を基礎に社会的に確立していく.座を保護する有力権力者に神社,寺院が非常に多い.何十もの座が神社,寺院に付属した.経済活動も特定の神社あるいは寺院の名称のもとで行われた.大和興福寺の諸座,大山崎八幡宮の油座,祇祇園社の座など数多い16).農村社会の中でも地元神社の神人として座はつくられた.近江得珍保[おうみとくちんぼ]などである.
 全国を廻る聖の活動も目立つ.たとえば廻国の高野聖は各種物産を同時に持って廻った.高野の薬も行商された17).江戸の呉服町は呉服聖が開いたとされる.服の行商でもあった.専門商人の系譜の中で,とくに興味がある事例は外国人である.近江商人の源流が渡来者であるとする有力説は周知であるが18),ほかにも外国人が商人として活躍する事例は多い.とくに医療と薬品に関してである.唐物としての薬品は珍重された19).本来的に市は水田社会とその外部社会との関係であるから,商人が外国人であることはむしろ当然であったのである.
 しかし農村社会が象徴世界と関係づけられることで維持できたように,商人もまた象徴世界の加護を必要とした.商業神として商人が深く信仰する恵比須は夷であって,異人である.蛭子とも書き,足の悪い神であるという.恵比須(蛭子)は道祖神として祀られる。神話上の道祖神猿田彦は異人である.佐賀県平坦部の中心都市である佐賀市は恵比須(蛭子)の道祖神が多くの町内で祀られ,名高い20).すなわち農村社会の境界を護り,恵みを与える道祖神は商業の神として現われたのである.また,近世都市では正月初夢に福神の加護を祈願して,恵比須,大黒など七福神が乗る宝船の絵を枕の下に置き就寝する習わしがあった21).
 商人の諸活動によって市場集落さらには城下町が富の蓄積で光り輝くようになる.水田社会にとって都市はっくられた人工の外部社会である.水田社会が自然である土地を基盤に成立するのに対して,この人工的な外部社会は貨幣を基盤に成立した.貨幣は富の象徴である.貨幣の起源は社会とともに古いが,いうまでもなく原初は売買の合理的手段として用いられたのではない.貨幣のもっとも古い使用は支払いである.「払い」は「祓い」で汚れを取り除くことである.古代貨幣である布帛は和幣で,神に献ずる奉物である.銭貨が鋳造された奈良時代,平安時代も主要な貨幣は米と絹布で,人と人の間の贈与あるいは支払いに用いられた22).一般に貨幣に神秘的な魔力が宿るという観念は古代よりあり,呪具として用いられた.たとえば新たに貨幣を鋳造した場合,まず伊勢神宮,加茂上下二社,松尾社に献じ,七大寺にも施入した.初穂としてである.寺院建立の際には銭貨を柱の下へ埋めた.地鎮としてである.観音菩薩が黄金像に化身すると述べる史料も残存している.銭貨をなげて表か裏かで占うことも行われている.呪物として貨幣は神体として祀られることすら生じた.武蔵多摩郡手村[てむら]の一神社の神体は洪武通宝であった23).
 このような貨幣の価値は貨幣の素材そのものの価値ではない.貨幣の価値は象徴世界の力に由来する.力弱き存在である人間を象徴世界の力に関係づける媒介である。したがって貨幣は支払い手段となって汚れを除去することができる.人と人の間柄が貨幣のやりとりで秩序化される.この貨幣の象徴的な力が市場に現われれば,多種多様な財貨の使用価値を一元的に統合して商品世界を創ることができる.前述の市,さらには市場での取引は貨幣が存在して初めて恒常的に行われることが可能となった.物と物が直接交換される場合ですら,相互の使用価値を公約する価値基準があり,この価値基準は象徴的価値でしかありえない.貨幣である.このように経済取引に用いられた貨幣は中国銭である.鎌倉以後,宋,元,明の銭貨が大いに流入した.中国では銭貨の流出を法律で禁じたがあまり効果がなく,あまりの多量の流出の結果,国内で流通すべき銭貨が不足するという深刻な事態をも生じた.日本船が貿易した後,台州城内の市場ではたちまち銅銭が姿を消したと言われた24).この厖大な中国銭は象徴的価値として多種多様な使用価値を公約する.いいかえれば価値基準あるいは交換価値であることで,売買の合理的手段として機能した.貨幣を原点として一つの秩序ある世界が構成される。光り輝く人工的世界である.
 貨幣は市と市場での取引を可能にしたが,市場の外部にある財貨をも支配下におく.土地である.土地は水田社会の基盤であり,水田社会の存続を象徴した.一番重要な富であった。この最重要な富がもう一つの富と交換されることになる.鎌倉中期から後期にかけて銭貨による土地売買が激増する.先祖伝来の土地を売る御家人が増大した.作職[さくしき],下作職[げさくしき]も銭貨で売買された.田畑の年貢が現物納から銭納に変わり始め,室町中期から領地が貫高制で表現されるようになった25).最重要な富である土地が貨幣で売買されることは,生身の人間そのものも貨幣の支配下におかれることを意味する.市には人買い商人がたむろして人間を商った.買い取った人間を引きつれて地方の土豪に売り渡した.下人,所従としてである.土地売買の地券は下人,所従も土地の付属として一緒に売られたことを示す.不時の出費で金貸しから借りた高利の借金が身売りで清算されたのである.とくに飢饉の年は身売りが激増した26).
 交換価値を象徴する貨幣が売買の合理的手段として流通し,土地と人間を支配下におけば市場経済成立の前提は整う.農業生産物はいうまでもなく,土地も労働力も一種の商品として貨幣を原点とする世界に繰り込まれる.水田社会に属する土地は町に住む商人に支配される.寄生地主制の形成である.とくに災害があれば多くの土地が商人の手に渡る.佐賀平坦部では台風による高潮で堤防が破れると,たちまちに農民は土地を商人に渡すことになった.商人は金貸しとして多大な土地を集積した27).かつては旅僧と巫女の象徴的な力に依存して農村社会は自然に対応した.しかし貨幣が人工的世界を創った後では,人人は貨幣に救済を求める.商人が旅僧と巫女に替わったのである.水田社会に外側から訪れる者は,わずか旅廻りの田舎芝居が,舞台で束の間の夢を与えるにすぎなくなった.しかし,田舎芝居は人々にとって最大の楽しみであった28).
 象徴的な力を背景にするからこそ貨幣は一元的な商品世界をつくり,土地をもまた商品化させると論述した.しばしば教科書に「貨幣経済の浸透した結果,農村社会は解体した」と記述される.この場合,農村社会にとって貨幣はたんに合理的な売買手段にすぎないものでは決してなかった.呪力を帯びた存在でもあった.かめに入れて床下に隠したことも,盗難予防だけでなく貨幣が特別な呪力を発したためであろう.仏壇の下にしまうことも広く行われた.仏壇は家屋の中の聖所である.江F時代の古銭を神棚に上げて,豊作を祈願することも最近まで行われていた29).このように呪力を帯びた存在であるからこそ,農民は骨身を惜しまず働いて貨幣蓄積を目指した.倹約を旨とした.やがて新たに土地を購入して,家名をあげることができた.名誉である.逆に怠けあるいは賭博などの不身持で貨幣を失い,土地を手放せば恥である.人々は可能な限り勤勉に働いた.農民の勤労への意欲は手段合理的な視点からの説明だけでは十分でなく,貨幣と土地の象徴的な力が大きな役割を果たしたことも考慮に入れなければならない.象徴的価値につかれて人々は勤労するのである.
 土地に基盤を置く水田社会が貨幣の支配下におかれ,市場経済の前提が成立した.市場経済の成立には貨幣の象徴的な力が決定的な役割を果たすことを論述した.しかし,いうまでもなく貨幣の象徴的な力だけで市場経済が成立するのでは決してない.当然,農業生産力の飛躍的増大も必要条件である.両者が合体して,初めて市場経済成立の前提が整う.そもそも貨幣の力が由来する象徴世界は現実の農村社会と対応して形成された.象徴世界がひとり抽象的に存在しているのでは決してない.両者は相互規定の関係にある.中世以来の飛躍的な農業生産があってこそ貨幣の手段合理的な売買機能が発揮され,市場の活気ある商業取引が実現される.しかし他面,貨幣が象徴的な力を所有するために農業生産の拡大が目指された.相対的に自足する水田社会が農業生産の拡大を指向する契機は,外部社会との交渉である.前述のように,外部社会の魅力の象徴は貨幣であり,この魅力を現実に担ったのは市に集う人々であり,遊行する人々であった.
貨幣の象徴的な力と飛躍的に拡大した農業生産が合体して市場経済成立の前提を実現する.しかし実現する市場経済は,きわめて日本的特徴を帯びる.象徴的世界の構成においても経済蓄積においても,日本は独自の性格をもつからである.
 キリスト教でもなくイスラーム教でもない日本水田社会では,水田社会を加護すべき象徴世界におのずから独自の性格が与えられる.人間と象徴世界の領域間は,明確に区別されながら,他面では交流する.プロテスタンティズムとはまったく異なるであろう.この象徴世界の性格は当然に貨幣にも投影される.所有観念も相違するであろう.
 つぎに経済の再生産を可能とする経済蓄積では,土地に対象化した蓄積が圧倒的に多い.ヨーロッパ社会の支配的な経済蓄積は土地を対象とするのではなく,道具,機械に対してである.したがって日本の市場経済では,ヨーロッパに比較して土地が非常に大きな比重をもうことになる.貨幣が一般的に果たす諸機能の中で,ある特定された機能は土地と米によっても果たされる.農村社会の内部で,日常的には米が支払い手段であった.特別な負債は土地で清算された30).一般的な諸機能を果たす貨幣と特定の目的に限定された貨幣(米,土地)が,有機的に統合して,一つの全体的な経済システムを構成する.このように日本で成立する市場経済は,市場経済である限りではヨーロッパ社会と共通するが,他面では日本的特徴をも備える.たとえば寄生地主制である.ヨーロッパ市場経済を準拠枠にすれば,寄生地主制は封建制に類似するかもしれない.しかし象徴世界の独自性は所有観念をも独自にし,地主-小作関係に保護-被保護の関係を内包させる.非市場経済的な関係である.他面,経済蓄積の主要形態が土地であることが土地所有に異常なほどの強い力を与える.歴史的に形成された象徴世界に関する観念が経済関係を補強する.土地所有面積の規模によって,農村社会の階層が規定できたほどである.寄生地主制は日本社会の市場経済化の一特徴であって,封建的土地所有とはカテゴリーとしては異なる.
 土地と労働力を支配下において成立する日本の市場経済は,明治維新の諸改革において確立する.明治の工業発展は貨幣の役割を画期的に増大させた.経済蓄積における土地の比重は工業機械に対して相対的に低下していく.さらに戦後の経済成長の結果,土地の比重は決定的に弱まった.農地改革があったためとはいえ,現在では寄生地主制が復活することはないであろう.しかしながら世界の市場経済社会においては異常にみえるほど,日本では土地価格が高騰した.土地は銀行預金よりもはるかに安全な富の一形態であり続けている.土地価格の高騰は,単純な土地面積の稀少性に求められるべきではないであろう.

[注]
1) 瀬川清子『販女-女性と商業』,未来社,1975年,42-52ページ.
高取正男「村を訪れる人と神」,『高取正男著作集1』,74ページ.
2) 高取正男「古代の山民について」,『民間信仰史の研究』,272-74ページ.
3) 高取正男「村を訪れる人と神」,前掲書,58-60,69-73ページ.
4) 同上書,99-100ページ.
 高取正男「古代の山民について」,前掲書,255-56ページ.
5) 西郷信綱「市と歌垣」,『文学』,1980年,4月号,35-37ページ.
6) 同上書,38ページ.
7) 『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』第3巻現代下,1965年,1131ページ.
8) 同上書,1131-32ページ.
9) 高取正男「古代の山民について」,前掲書,264ページ.
10) 西郷信綱,前掲書,39-49ページ.
11) 豊田 武「中世日本商業史の研究」,同『中世日本の商業』、吉川弘文館,1982年,121-24ページ.
12) 同上書,125-26ページ,321-24ページ.
13) 西郷信綱,前掲書,37ページ.
14) 豊田 武,前掲書,325ページ.
15) 豊田 武「日本商人史 中世篇」,同『中世の商人と交通』,吉川弘文館,1983年,6-11ページ.
16) 下記の文献に座に関する詳細なモノグラフが収められている.
 豊田 武『座の研究』,吉川弘文館,1982年.
17) 豊田 武「日本商人史中世篇」,71-74ページ.
18) 菅野和太郎『近江商人の研究』,有斐閣,1972年,17-36ページ.
19) 豊田 武「日本商人史中世篇」,152-55ページ.
20) 下記の文献には道祖神としてのエビス像の写真が多く集められていて興味深い.
佐賀県教育委員会『佐賀のエビス』,1978年.
 夷神については下記の文献におさめられた諸論考を参照.
 喜田貞吉『福神』,宝文館出版,1976年.
21) 田中緑紅「宝船」,喜田貞吉,上掲書,375-81ページ.
22) 小葉田 淳『日本の貨幣』,至文堂,1972年,2ページ.
23) 小葉田 淳「我邦貨幣と厭勝的使用との関係に就いての考察」,同『日本貨幣流通史』,1969年,所収501-30ページ.
24) 小葉田 淳『日本の貨幣』,39-41ページ.
25) 同上書,56-61ページ.
26) 豊田 武『中世の商人と交通』,139-43ページ.
27) 『土地の商品化と貨幣の記号化』,25ページ.
28) 同上書,20-21ページ.
29) 同上書,24-25ページ.
30) 同上書,21-23ページ.

Ⅳ 市場社会のなかの水田社会

 明治維新の諸改革によって市場経済は確立した.相対的に自足していた水田社会は,貨幣の象徴価値によって全国的な広がりで統合され,諸経済活動は貨幣の合理的交換機能に媒介されて行われるようになった.当然,水田社会は変化し市場経済に対応しなければならない.しかしこの対応の動きはこれまでにできあがっている諸制度あるいは慣行を基盤として出発する.すなわち,伝統の近代化である.この近代化の動きがもっとも極端に現実化したのは,北海道水田社会であろう.本州の水田社会は近世までに自らを確立していて,明治以後は確立した水田社会の変容過程が問題となる.ところが北海道ではまったく異なる.一方では熊が棲息する危険な原生林,他方では確立した市場経済に対面しながら水田社会の形成が進められねばならなかった.市場経済のなかでの水田社会の存在がもっとも鮮明に映しだされよう.北海道深川町を事例にして1),紙数の制限があるため,ごく簡単にいくつかの特徴を指摘しておきたい.
(1) 国家が水田社会の形成に深く関与したこと.国有地の払い下げ,道路網の設計と建設,鉄道建設などすべて国家事業であった.稲作の安定と拡大に決定的な役割を果たした大正用水の建設資金も国家による.これら国家事業によづて深川町は札幌を経由して東京に強く結びつけられる.この結合関係においては,深川から東京へというベクトルより,東京から深川へというベクトルの方がはるかに強い.東京が日本市場社会の中心であるためである.
(2) 農家は市場経済の変動の影響を強く直接的に受けやすい.農家の玄関は整備した道路網によって東京に連なる.農家の地縁的共同体は形成されにくい.農家の地域的移動も多い.隣近所と名誉と恥の観念を共有する前に,より有利な土地に移動してしまう.貨幣が人と人を結びつける.金勘定が主要である.
(3) 地主制が広範に展開した.大地主は札幌あるいは東京に居住し,地元に代理人を置いた.村落名さえも地主の命名による場合がある(巴[ともえ]のケース).また,個人ではなく北海道拓殖銀行が大地主の一つであったこともある.大地主は予定した小作料,すなわち経済利益にのみ関心をもった.中小地主は深川町あるいはその周辺に居住し,深川町議会の議長に就任したり,あるいは農業協同組合の結成と育成に努力した.農民の政治的,経済的組織化を図ったのである.小作農は小作農組合を組織し,小作料軽減運動を行い,農地改革を目指す運動にとりくんだ。しかし大地主,中小地主,自作農,小作農を包括して一つの社会とするような動きは微弱なものでしかなかった.階層間のギャップと農民の個人化の傾向が強かったためである.
(4) 個人化された農民にとって宗教が提供する象徴世界は大きな役割を果たす.十津川村出身者は天理教,四国からの人々は真言宗あるいは丸山の新四国88ヶ所霊場,その他多くの宗派が布教活動をした.とくに顕著な活動をみせたのは真宗である。町に北陸銀行の支店があることに示されるように,深川町には石川県,富山県出身者が多い.真宗王国といわれる土地である.これら地域の出身者は入植当時より講を自発的に結成し,法話を聴聞すると同時に,談笑を共にした.苛酷な条件のもとで生活する人々にとって救いであった。講は加入者の家を順次に廻り,輪番として宿になるから,加入者相互の間柄をより親密にしてゆく.さらに親が加入していた講に子供も加入することになるから,家族の超世代の連続にも講は関わる.
(5) 農業協同組合の活動が活発で,その力は強力である.戦前,自作農中心の産業組合として発足したが,戦後,農業協同組合として改組した.宗教は個人の象徴世界の形成に関わるが,農業協同組合は個人の経済活動に関わる.産業組合は二宮尊徳の互助精神を理念としていた.農業協同組合は市場経済の中で個別農業経営をどのように運営するかを問題とする.同時に,国家の農業政策の末端での実施機関という性格をもつ.米価闘争の組織者でもある.さらに日用品,食料から各種保険まで,あるいは農繁期の給食から石油販売に至るまでが,業務内容である.いいかえれば個別化した農家の経済生活はほとんどすべて農業協同組合の中に取り込まれている.これら多種多様な業務が円滑に進められるためには,組合員相互の非制度的な結びつきが必要であり,互いに親しい関係にあることが望まれる.運動会を初めとして,各種行事が年中行事のように年間を通して予定されている.すなわち,かつて水田社会にあっては,個別農家にとって地縁的共同体である村落社会が不可欠であったことに対応して,現在では農業協同組合が不可欠な組織である.ただし,農業協同組合は地縁的共同体ではない.農業協同組合は貨幣の合理的交換手段に依存して活動する組織で,共同体ではない.したがって負債を多く残す組合員に対しては離農を勧告する.土地が処分されて,負債は清算される.市場経済に対して水田社会がもっとも極端に自己を対応させた形態が農業協同組合であった.この農業協同組合は管理社会あるいは大衆社会の諸特徴を十分に備える.いいかえれば農業協同組合は現代日本社会の小型模型の観を示す.
 水田社会を変える力としての貨幣の作用は,北海道深川町の事例でもっとも典型的に発揮された.観念的につくられた象徴世界は貨幣が創る世界に収斂する.象徴世界に由来する力を背景に貨幣が価値基準になって構成される世界である.貨幣の合理的交換手段としての機能が最大限に実現される世界でもある.したがってこの世界は,手段合理的に制度化され運営されねばならない.管理社会への途である.さらに農民は貨幣を所有することでこの世界を支配する力を獲得できる.したがって人と人の間柄は人格的でなくなる.個人化がすすむ.ばらばらの人間の集まりであり,大衆社会が形成される.しかも貨幣の交換価値という象徴的な力は肉眼には見えないから,貨幣の手段合理的使用が同時に貨幣に人間が使われることでもあることが意識されない.世の中は便利になった,あるいは合理化されて進歩した,と受けとられる.しかしながら,人間は経済ロボットとは異なって,完全に管理されて終始することはない.手段合理的な経済活動も観念的な象徴世界に支えられざるをえない.具体的には,活発な生産活動は人眼につく見せびらかしの儀礼的浪費に対応する。深川農協では,新年のカルタ取り,婦人部の日本舞踊を初めとする毎年の年中行事が儀礼的浪費の機会である.とくに運動会は盛大で,人々は和気あいあいで過ごす.農協の手段合理的経済活動に規定された,人と人の管理された関係性は排除され消失する.人と人が人格的に直接的に関係する.農協組織の根底に,組合員相互の信頼関係があることが確認される.いうまでもなく,この確認された信頼関係が,貨幣の手段合理性を基準とする活発な経済活動を可能とするのである.注意すべきは,深川農協の年中行事のほとんどすべては戦前の農村社会での相互親善の慣行の再生であることである.
 このように貨幣に支配された手段合理的な経済活動と儀礼的な浪費の相互補完関係は,とくに北海道深川町に限ったことではない.水田社会の市場経済化が一般的に向かう方向である.たしかに手段合理性なしには人間は生活できない.しかし,手段合理性だけでも生存できないであろう.
 手段合理化の方向で社会変化が進行するなかで,非合理な事柄もしばしば起こりうるし,あるいは試みられる.祭りである.前述したように祭りは非日常の時間である.市場経済の秩序もゆるむ.興味ある1事例を紹介しておこう.市場経済の核心東京での祭りである.東京深川の八幡神社の祭りは,50基もの多数の神輿が町々を一周することで有名である.興味あることには,この神輿の行列の先頭に芸者衆がたつ.いうまでもなく芸者は古代の巫女の系譜に属する.古代の巫女のイメージが現代に甦るのである.祭りは人々によって生きられた時間の記憶装置であるといえる.かつての象徴世界は貨幣に収斂しながら,時によって多様な形態をとって現前化する,人間存在は,本来的に有限で不確実であるからである.象徴世界の力にすがって現世利益を求めるため,都市の有名神社・寺院が参拝者で賑うという現象もあらわれてくる.ただし,参詣するのは個人としてであって,共同体のメンバーとしてではない.そして,これら有名神社・寺院とは著しく対照的に,地縁的共同体である水田社会に置かれている神社は衰退しつつあるのである2).

[注]
1) 『新開地における社会形成と農業協同組合』.
2)『 土地の商品化と貨幣の記号化』,33-34ページ.
 『経済蓄積の形態と社会変化』,15-16ページ.
[友杉 孝]