技術と農村社会

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技術と農村社会

水利の社会構造

論文タイトル: 終章:発展途上国への寄与の視角
著者名: 今村 奈良臣
出版社: 国際連合大学
出版年: 1984年
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終章:発展途上国への寄与の視角

 Ⅰ 報告書の視角

 われわれは,以上の諸論文にみられるように,農業技術の中でも,日本農業の発展を基本的に規定してきた灌漑の技術とシステムならびに政策について「日本の経験」という視点にたって考察を加えてきた.それが,いかに自然,風土および農村社会と適合的な技術として形成されてきたか,灌漑ならびに土地改良に関する国の政策がいかに農村に歴史的に形成されてきた既存の諸組織の主体性を損うことなく遂行されてきたか,またいかに伝統技術を生かしつつ西欧近代技術を巧みに導入しえたか,それらの結果としていかに農業生産力の発展に寄与しえたかという,「日本の経験」を明らかにしてきた.「日本の経験」はたしかにその風土や時代的要素において特殊性をもっている.しかし,途上国の灌漑水利開発が当面している問題点の本質的要素は,「日本の経験」の本質的要素と共通するところがあるように考えられる.そういう意味において,「日本の経験」が,開発途上国の問題解決にあたっていかなる寄与ができるのか,という視角を提示することにより結語に代えたい.

 Ⅱ 発展途上国の内包する問題点

 現在,発展途上国の農業開発政策は,いずれの諸国においても例外なく灌漑水利の拡充を重点的政策課題としており,農業水利諸施設の開発・整備に取り組んでいる.いうまでもなく灌漑による農作物の収量の安定・向上を通じて食糧の増産とあわせて農業の多面的発展を図る戦略的投資として位置づけられているからである.しかし,その実情をみると計画と実績の乖離のみられる国が多く,また計画通りの実効をあげていない地区が非常に多く見受けられる.その原因は国々により,また地区により異なる.しかし,共通して言えることは,その原因が単に純粋な技術的,工学的側面にあるのではなく,技術と組み合わされた社会的,組織的な側面にあることが,これまでつとに指摘されてきた.その点をより具体的に見れば,①灌漑水利開発の主体が圧倒的に国または公共セクターであり中央集権的システムがとられていること,②こうした公共セクターの灌漑投資は伝統的地域性のある灌漑施設を代替するかたちで行われていること,③灌漑投資は,肥沃な優等地に対し重点的に,より高い生産性の向上を求めて投下される傾向にあり,その結果,地域間,階層間の生産性格差を拡大していること,④公共セクターによる中央集権的,官僚的用水管理が支配的となり,村落共同体のもつ伝統的,主体的用水管理機能が縮小しつつあること,などにその特徴がみられる.積極的に灌漑開発が行われている場合にも,その成果が充分発揮されていないのは,以上のような要因にもとづく場合が多いものと推論できよう.

 Ⅲ「日本の経験」とその意義

 日本における灌漑水利の第1の特徴は,村落共同体の自治に基盤をおいた分権的システムを内包する水利組織が,歴史的に形成されていたことである.戦国時代から江戸時代中期に確立してくる日本的灌漑農業は,水利紛争の多発をくり返しながら灌漑用水の配分秩序をつくりだすことになる.それは用水慣行として確立し,領主支配のもとにありながらも,地域農民の主体性にもとづき組織された用水組合などの水利組織により,水利施設の操作,維持管理,用水配分の統制が行われてきた.
 第2の特徴は,近代国家の成立とともに,法制度の整備,土地私有制の確立が推進される過程で,これら近代国家の成立以前に形成されていた村落自治に基盤をおく用水組合を,「水利組合法」による普通水利組合,あるいは第2次大戦後の「土地改良法」による土地改良区というかたちで,実質的に法制度のなかに取り入れたことである.また,用水配分秩序に関する歴史的慣行も,「河川法」における慣行水利権というかたちで法認し,歴史的伝統を継承したのである.
 第3の特徴は,近代国家の成立,展開とともに,食糧増産を意図した灌漑排水の開発整備,土地改良事業の推進に対して,多面的な国家の介入と合わせて財政投資が積極的に行われたことである.その場合,開発の地方分権化を特徴とし,その投資は地方分権的フレームを損うことなく,それを基盤におきつつ遂行されたのである.その点は第2次大戦後の「土地改良法」に明示されることになったが,灌漑排水改良事業,圃場整備事業等に関する国の投資は,当該事業の受益者農民の申請により行われること(申請主義の原則),また受益者農民に対しては事業費の一部について受益者が負担すべきこと(受益者負担の原則)などにみられるように,地域の農民の主体的意思を尊重することを基本的方針としてきたのである.
 第4の特徴は,灌漑排水改良事業と土地改良事業が密接な関連をもちつつ実施されてきたことである.それぞれ別個に投資することと比べるならば,はるかに投資効率が高くなることはいうまでもない.
 第5に灌漑排水改良事業への投資は,土地豊度を平準化する方向へ地域配分されてきたことである.国家投資の配分の地域性についてみると,長期的には劣等地への投資配分が優先し,農業生産力の地域間格差の縮小,平準化の方向がとられてきたということができよう.

 むすび

 本研究は,日本における灌漑農業の技術と農村社会との相互関連性の分析を通して,灌漑農業を高度に発展させた社会的,組織的,政策的要因を,「日本の経験」として明らかにすることを課題とした.
 現在,発展途上国は農業開発,農村開発において,さまざまな難問に直面している.特に農民の主体的,組織的参加を軽視ないし無視しているところに,その大きな問題点があるように思われる.われわれの研究がそうした問題点の解決にあたり,なにがしかの貢献を果たすことができれば幸いである.
[後記]
 本書の刊行に引きつづいて,本書の内容を若干圧縮したかたちで英文版が国連大学から“Irrigation in Development”というタイトルで出版される.本書と併せて参考に供していただきたい.
 本書のもととなった研究は玉城哲を主査として進められてきたが,彼は原稿は提出したものの本書の完成をみることなく1983年7月2日に急逝した.ここに故玉城哲を編者の一人に加えさせていただくとともに,そのすぐれた理論的指導力をたたえ,執筆者一同の名において本書を玉城哲に捧げたい.
なお,本書の編集および年表の作成ならびに英文版の編集,製作にあたっては,アジア経済研究所の明峯晶子氏の献身的御助力に負うところ多大であった.ここに改めて厚くお礼を申しあげたい.また本書の製作にあたっては東京大学出版会の泉亘氏にお世話になった.心から謝意を述べたい.
 [今村奈良臣]