公害

論文一覧に戻る
公害

技術と産業公害

論文タイトル: 総論:公害原論
著者名: 宇井 純
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
本論文の目次を見る本ページのPDF版を見る

総論:公害原論

Ⅰ はじめに

 水俣病,イタイイタイ病,四日市喘息などの万国周知の名前に代表された日本の環境汚染は,人間の健康と生命に危険を及ぼし,公共の損害を意味する公害という日常用語を生むほどまでに激化した.疑いもなく日本は公害の最先進国として世界に知られるに至った.しかもこの公害は,今にはじまったものではなく,その言葉の歴史に見られるように,目本の近代化,工業化過程の最初から存在し,大きな社会問題になっていたのである.
 徳川家支配の鎖国下の封建体制にあっても,すでに19世紀前半から,アヘン戦争に見るような帝国主義的植民地化の圧力を感知してきた日本は,3世紀ぶりの内戦を経て明治維新を遂行し,開国にふみ切った.その最初に採用した基本的政策の一つが,植民地化をまぬがれ国家の安全を保障するための殖産興業政策であり,欧米からの技術導入による工業化であった.その当初から,公害は急激な経済成長,工業化の結果として生じたばかりでなく,工業化の重要な要因として作用し,経済成長の構造的な一部となった.日本の近代化,工業化の過程を論ずるとき,戦前,戦後を通じて,公害は避けて通ることのできない問題であり,日本型の開発過程から必然的に生ずるものである.

Ⅱ 公害激化の原因
 島国日本は,四方を海でかこまれ,潮汐の干満と海流で洗われ,豊富な降水量にめぐまれているために,水の汚染は起こりにくいはずである.冬の強い季節風の存在で,大気汚染も起こりにくい.自然条件がこのようにめぐまれているにもかかわらず,世界で最もはげしい公害が最初に集中反復して起こったのはなぜか.そこにはいくつかの歴史的条件がある.
 第1は,公害の発生源である企業の態度である.日本の産業資本は,国家により育成されたものであり,欧米のように既存の支配権力に対抗して,独自の倫理性を主張して歴史を切り拓いてきた体験をもたない.従って利益と成長のためには何をしてもよいという態度が目立ち,その社会的責任を真剣に考えることは,めったに無い.時に社会的責任が論じられることがあっても,利潤をあげ,富と雇用を造出するという結果についての議論が多く,それに伴う社会的損失などの過程に関する考察はまれであった.後述する共同体観念にも支えられて,組織の存立が,個人や社会の上位理念とされ,組織のために個人や社会の倫理を無視することが容認される傾向が強かった.これに国家目的である殖産興業政策,富国強兵政策が加わったとき,企業の行動に対する倫理的制限はなくなってしまう.公害の歴史において企業がまず公害の存在を否認,無視し,次いで無視できなくなると被害者運動の買収,抱きこみ,切りくずし,御用学者の動員など反社会的行動に出るのはごく普通のことであった.
 低賃金,保護貿易政策とならんで,公害の無視は日本産業の高度成長の有力な要因であった.第2次大戦前から1960年代まで,目本の基幹産業は,製鉄,セメント,パルプ工業に見られるように,公害防止に当然割くべき投資を省略して,利潤の大半を生産設備に投資し,資本の原始的蓄積をなしとげた.これに日本経済の特殊条件である二重構造,下請企業の階層性が加わり,公害,労災等を防止する社会的費用は中小企業におしつけられることにもなった.公害の無視によって大企業の資本蓄積は促進されたと言ってもいい.
 第2は,この企業と結びついた国家・地方自治体の政治・行政の態度である.帝国主義列強に対抗し,みずからも後発の帝国主義国家として植民地分割競争に参加しようとしたために,第2次大戦までの日本のもう一つの国家目的は富国強兵であった.このために国家を疑似共同体とする国家神道に支えられた天皇制が国家体制としておしつけられ,それに従わぬものは迫害された.公害の被害者運動は,治安問題として弾圧された.この基本的構造は戦後も変わらず,殖産興業政策はかえって強く推進された.公害規制法に企業保護が立法目的として明記された国が他にあるだろうか.公害紛争において行政が企業を代弁することは日常的であり,公害防止対策として作られた企業と行政の公害防止協定(多くは新設備や新工場の建設の事前につくられる)すら,被害者運動に対する企業と行政の共同防壁として使われている.
 戦後日本の政治と企業の結びつきは,国家独占資本体制と呼ぶべき段階に到達した.保守党の長期政権のもとで,高級官僚が退職後大企業の経営幹部となり,あるいは保守党政治家となることが常識化している.これは軍事政権下におけるエリート軍人の挙動と似ているが,日本以外の工業国ではまれな現象である.こうした人的つながりは産業のあらゆる分野にひろがっているが,特に公共投資を主な市場とする建設業では,これなくしては事実上営業は不可能である.1980年代に入って表面化した建設業の談合問題(入札前に応札企業相互のあいだで妥協が成立し,一番札の企業を順ぐりに決める習慣)はその氷山の一角であり,有力な公害防止産業とされていた下水道事業は,その談合の結果の事業とも言える.公共投資の配分は,保守長期政権を支える有力な武器であり,企業,官僚,政治家の三位一体化した構造汚職体制が,日本の中央・地方政治を支配している.
 第3は,近代化の有力な推進要因とされた積極的な科学技術の導入政策の結果がまた,公害を激化させたということである.足尾銅山以来の公害の歴史に見られるように,公害防止技術を切りはなして,生産に役立つ技術のみを導入したことは,日本の技術導入の特徴である.鉄鋼,化学,パルプ等の技術水準の高い基幹素材産業はすべてその例であり,例外としての石油精製業は,技術水準が低い故に,その目的を知らずに公害対策である油水分離装置をも購入して建設,運転したとも言われている.同様な選択的導入の最後の典型は,1948(昭和23)年の米国教育視察団が,日本の工学教育に欠けていた分野として指摘した化学工学と衛生工学に見られる.化学工業の生産に役立つ前者はすぐに国立大学工学部に普及したが,生産に役立たぬ後者の教室は今日でもわずかに2大学にしかない.
 自然科学,社会科学の分野における導入科学の問題点は,基本的な姿勢と,対象認識の次元にあらわれる.欧米から導入された科学は当初から本質的に権力の侍女として存在し,科学者には特権的地位が与えられた.そこでは眼前の事実に学び,そこから出発しようとする姿勢がとぼしく,導入した科学の尺度に,いかに現実を裁断してあてはめるかが普通の姿勢であった.科学は日本独自の発展をとげがたく,導入理論の独占代理店として大学が機能する傾向が強かった.外国の学者の理論の祖述が日本知識人の思想的営為の大部分であり,その所産は民衆の現実的日常生活との関連を少なからず欠いている.科学技術が実用化される時は,支配的権力による民衆管理の道具として使われることが多かった.したがって公害についてもいまだに,社会科学,自然科学,医学の各分野において,既存の理論体系を部分的にあてはめるというような断片的な認識しかなされていない.そのために不可避的に問題の過小評価が生じている.
 第4は,国民的な社会思想の問題として,市民革命を経ることなく近代化したために,今日まで未だに個人の尊厳と人権思想の確立がおくれていることである.歴史的には,17世紀以降進行した水田の過剰開発が,水田かんがい用水の相対的不足をもたらし,水不足の強迫観念のもとに日本の農村共同体の閉鎖性,排他性が強固に形成されたのだが,その共同体意識は徳川時代だけでなく明治以降の近代化過程でも,政治的に抑圧統治手段として巧妙に利用された.明治政府は共同体意識を帝国主義的競争の強迫観念と結びつけ,国家神道,天皇制をその結合剤として,国家規模の疑似共同体を作りあげたとも言える.その極致が,民族の統一と団結をイデオロギーとした大東亜共栄圏,八紘一宇の理論である.一方与えられた条件の枠内で個々の農民が生存のために工夫をこらして協力する日本的合理主義は,戦前,戦後を通じて企業組織の中に温存され,積極的に増進された.戦後の企業別労働組合もまたその増進の一手段として利用されている.日本人の国際的特徴として指摘される集団主義,組織への忠誠心,原理的問題への判断停止,権威への盲従,差別の普遍性と序列の固定化などはこうして作られ,学校教育により促進されたものである.欧米人が日本人の性格の特徴としている儒教は,この生産条件にもとづいた下部構造の上にのせられたイデオロギーであり,本質的なものではない.
 帝国主義的膨張政策は必然的に日本周辺における植民地進出と侵略戦争をもたらしたが,そこでの人命の無視は,公害被害者の人権無視と共通するものであった.近代工業生産の中での労働者の権利無視もまた,これに対応した現象である.第2次大戦後,労働者の権利は上からの改革により制度的に保証され,積極的に増進されたが,それは組織労働者に限られ,未組織の国民大衆にはなかなか及ばず,労働組合といえば今日も圧力団体としての側面だけが意識されている傾きがある.従って大企業においては企業共同体観念を補完し,補強する組織体として労働組合が巧妙に利用される結果にもなる.1950~60年代において,農漁民を中心とした公害被害者の人権無視,労働組合の内部における労災,職業病の軽視はともに同じ社会的基盤から生じた事象であり,したがって,それは労働組合運動に基盤をおいた目本の左翼政党に共通した弱点でもあった.政治的自由の存在にもかかわらず基本的人権が軽視されるという体験は,上からの制度的改革が人権思想として定着するためには長い時間と,被抑圧者の根強い運動が必要であることを示している.
 日本社会の歴史的特質を更に詳しく論ずることは,本稿の目的ではない.ここでは公害激化の基本的な要因として上記の四つをあげておくが,立場によってはそこに論議の余地があろう.

Ⅲ 不法行為としての公害

 強制された消費を前提とした今日の社会では,一見断定しがたくも見えるが,つまるところ,公害は一方的な人権の侵害であり,強者が弱者に加える損害である.この明白な事実が,環境科学としての自然科学においてはほとんど常に,社会科学においてさえしばしば忘れられる.現在我々が手にしている環境科学の手法はきわめて不十分なものであって,それだけに頼って問題を第三者的に記述しようとすれば,不可避的に問題の部分的な把握,あるいは過小評価となる.公害の発生源である加害者はできるだけ公害を無視,過小評価しようとし,被害者はできるだけ全体像を把握しようとする.しかし公害の全体像を直観的に体験によりとらえることはできても,それを客観的に表現するのは容易ではない.この現象は,差別問題における抑圧者と被抑圧者の問題認識のちがいとよく似ている.
 差別問題において,中立的ないしは客観的な第三者の立場というものはあり得ず,抑圧者と被抑圧者の立場のいずれかしかないことは,すでに多くの経験により確立された原則である.公害問題においても,公害を無視し過小評価しようとする加害者の立場と,全体的にとらえようとする被害者との間に,中間に立つ真の第三者の中立的な立場というものは存在しない.環境科学が公害を解決しようとする目的をもつかぎり,その手法の不十分さと限界の反省が常に必要であり,さらに被害者との協力,被害者から学ぶ姿勢が不可欠になる.これは真の医療が,医師と患者の協力により成り立つのと同様である.そして環境科学の生まれた基盤が,環境問題の激化,公害という不法行為の存在にあることを考えれば,環境科学が公害に取組む姿勢に対しては,はっきりと被害者の立場に立つことを要求される.
 この環境科学の姿勢,立場の問題は,社会的な紛争の解決手段としての政治,行政の立場にも共通している.我々は公害の存在を被害者の認識によって知るのであり,被害を十分に認識しない限り,対策も必ず不十分なものになる.日本の公害の歴史では,行政機関が第三者として公害紛争問題の調停・仲介に当ることがしばしば見られるのであるが,そのような農村共同体型の紛争解決手段は,理論的にも基本的に正しくない.多くの現実の公害問題において,政治や行政は公害の発生やその拡大に責任があった.また公害を治安問題として取扱い,被害者運動を抑圧することに手を下した例も多い.過去の公害が解決せず,かえって慢性化して問題を大きくした理由は,この手の汚れた者が反省なく調停に当たったところにある.
 公害は差別の一種である.公害は加害者と被害者の社会的な力の差によって生じ,被害者の力が強くなれば減少する.科学も政治も行政も,そこでは第三者ではなく,被害から出発し,被害者の立場に立つことによって,初めて有効となる.日本では,公害の激化があまりにも甚だしいため,被害者の中には独特の公害検知・観測の技術を必要に迫られて考案し,それを利用して公害発生源を監視して効果を上げている例がある.大気汚染を十円銅貨や草花で検出したり,原子力発電所からの放射能洩れをムラサキツユクサのおしべの毛の変色で検知するのはその例である.ここでは,適正技術と言うべき住民による科学が成立し,それが加害者と被害者の力関係を被害者に有利に変えて公害を減らす結果をもたらしている.政治や行政の公害に対する有効性も,公害の認識の段階からはじまって,その解決への過程においていかに被害者の関与,参加をひき出すかにかかっている.

Ⅳ 公害の長い歴史と経験

 こうして,日本の資本主義体制の発展の一部として公害が存在したため,公害は資本主義発達史の当初からの長い歴史をもっている.発展のごく初期の企業の力がまだ小さかったころには,工場の移転で紛争が解決した例もあるが,移転できない重要産業の典型である鉱山の場合には,例外なく深刻な社会問題になった.その代表的なものが,19世紀末から今日までつづく足尾鉱毒事件であった.これは戦前の公害のうちで最も規模が大きく,社会的にも知られた事件であり,また日本の工業化の過程の中で導入技術による近代化の先頭を切った軍需基幹産業としても,足尾銅山は戦前の日本企業を代表するものである.明治政府は人的にも企業と結びついており,被害者運動を治安問題として弾圧し,農民の公害反対運動は不世出の指導者,田中正造の努力にもかかわらずむざんに敗北した.しかしその悲惨さがあまりにも大きかったために,他の鉱山や工場による公害紛争に対して,ある程度の警告的効果を及ぼした.足尾と同時代,あるいはややおくれて操業をはじめた鉱山の中には,別子や日立のように,被害者の要求を入れた公害対策をとったものもあった.被害者運動に対応するやり方も,足尾にくらべれば前進したものがある.特に第1次世界大戦前後,大正デモクラシーとよばれる政治的な高揚期には,岐阜の荒田川事件のように被害者側の主導権により公害防止技術が前進するという例も見られた.
 しかし日本の帝国主義侵略路線が,泥沼におちいった日中戦争から太平洋戦争へと拡大されると,軍事化した工業から排出される公害は野放しになり,1920年代の若干の進歩もすべて忘れ去られた.被害者運動は徹底的に弾圧され,尾去沢鉱山の鉱滓流出事件や石狩川国策パルプ事件など極度にはげしい被害による例外的な運動を除いては,運動の余地は全くなかった.第2次大戦の敗戦後,工場生産の停止によって一時回復した環境も,生産の再開によってふたたび汚れはじめ,数多くの局地的紛争が起こったが,国民の大部分は生存のために公害に注意を向けるいとまがなかった.高知パルプ事件はその中で珍しく地域住民が先駆的に事前予防をはかった事例であるが,事前の公害防止協定という対策は成功したとは言えず,かえって公害の免罪符として使われた.1955(昭和30)年の森永砒素ミルク中毒事件は,戦後復興から高度成長への転換期に起こり,そこでは専門家による第三者調停というその後の政治的解決の原型が適用され,それによって被害そのものを消してしまう手法がここで成立した.
 1956(昭和31)年の水俣病の発見は,人命にかかわる深刻な日本型公害の前触れであり,もし我々に十分鋭い眼があったならば,それは日本の政治経済路線の選択をやり直す機会でもあった.1958(昭和33)年には本州製紙江戸川工場による大規模な水質汚染事件が首都の近くで起こった.漁民のはげしい運動は社会問題となり,そのために初めての公害規制法である水質保全法,工場排水規制法が制定されはしたが,その内容は世論対策にすぎず,実質的な効果は全くなく,事態はむしろ悪化した.1959(昭和34)年の水俣漁民暴動は治安問題として処理され,さらに1960(昭和35)年から顕著になる四日市喘息,このころから原因がわかり始めるイタイイタイ病など,公害の1960年代を象徴する大問題が相次いで起こったが,いずれも政治問題とは切りはなされた形で処理され,共通な問題とは考えられず,被害者運動も成立しなかった.1960(昭和35)年の日米安全保障条約反対運動という政治的高揚は,高度経済成長路線の成功によって鎮静させられ,合理化による労働強化が進められた.そのような政治的過程が最も先端的に現れたのが,エネルギー転換の現場である炭鉱であった.1963(昭和38)年の三池炭鉱の炭塵爆発はこの合理化の帰結であったといえる.
 公害予防の住民運動が戦後はじめて全面的な勝利を収めたのは,1964(昭和39)年の三島沼津コンビナート反対運動であった.それは,被害者運動にとって前途に展望を見出す転機となった.また1965(昭和40)年には新潟に第二水俣病が発見されたが,その経過は第一水俣病とは同じにはならず,被害者は自立した運動をはじめ,その動きがやがて他の公害にも波及して,被害者運動は横につながりはじめるようになった.そして,やがて新潟水俣病,イタイイタイ病,四日市喘息,水俣病の四大公害訴訟が提起されて,1970(昭和45)年の世論の爆発につながったのである.
 1970(昭和45)年には東京牛込柳町の自動車排ガスによる鉛中毒事件が発生し,さらに光化学スモッグによる被害も各地に現れた.これらの事件は,それまで辺境の局地的紛争と思われていた公害を,一気に都市にも遍在する最大の内政問題の一つに押し上げた.公害規制法を審理するための特別国会が開かれ,1971(昭和46)年には環境庁が発足した.すでに1968(昭和43)年に食中毒事件として発生していたカネミ油症,PCB中毒が,1971(昭和46)年には全国的な食品汚染として認識され,便利な物質として現代技術の象徴とも思われていたPCBの生産が停止された.1972(昭和47)年のストックホルム国連環境会議は,日本のはげしい公害の現実が世界的に知られる最初の機会となったが,ここでも国際的な公害反対運動の先頭に立ったのは,水俣病,カネミ油症の被害者たちであった.外からは奇蹟的な近代化,工業化と高度成長の手本と見られていた日本に,はげしい公害が多発している事実は,その開発過程にあっては,じつはいくつかの可能性が存在し,公害の発生を最小限に抑える路線もありえたことを世界に考えさせる契機となった.
 1970年代後半になると,それまで被害者運動に押されていた資本側は,1973~1974(昭和48~49)年の石油ショックによって顕在化した経済危機を契機に,巻き返しを図った.環境行政は後退をはじめ,第三水俣病の否定(1974(昭和49)年),水俣病ニセ患者発言,イタイイタイ病の原因論争(1975(昭和50)年),水俣病患者の強制排除(1978(昭和53)年),環境権裁判のあいつぐ却下などがつづいた.そしてNOx環境基準の3倍緩和に至ってその態度は誰の目にも明らかになった.はじめは,環境庁は被害者住民運動からその役割を期待されもしたのだが,今やその支持は全くなくなった.環境庁は後発の官庁であることもあって,その政府内の発言力はいっそう低下した.1972(昭和47)年,ストックホルム国連環境会議で国際的に公約したはずの環境アセスメント法は,10年後の今日もまだ成立していない.この後退した環境庁の姿勢は1980年選挙での保守党の大勝によってますます明確なものになり,1970(昭和45)年にある程度形式が整備された規制法体系も実効は期待できなくなった.1982(昭和57)年初頭,志布志湾の石油基地化のための埋立に環境庁が同意したことは,運動へのその敵対的姿勢をはっきりさせた象徴的な事件であった.被害者住民運動はふたたび自分の力で公害を止め,前途を切り拓いてゆかねばならぬ時期を迎えている.しかし,1980年代に入って,巨大流域下水道の矛盾,’広範なダイオキシン汚染,乾電池に含まれる水銀による大気汚染,飲料水源の農薬による汚染などの発見は,各地に住民運動の多発をもたらし,公害問題がふたたび内政の重要課題になる傾向を見せている.
 1970年代に目立ってきた資本の動きの一つに公害輸出がある.それは公害規制がきびしくなり,日本に立地が困難になった公害企業が,土地が安く公害規制のゆるいアジア,ラテン・アメリカなどに転出するというもので,日本化工の六価クロム生産の韓国進出,川崎製鉄の鉄鉱石焼結部門のフィリピン,ミンダナオへの進出など批判されている例は多い.これに古くからある不平等貿易に伴う森林,水産資源などの収奪という環境破壊が加わり,工業国から発展途上国への公害の移転が急激に起こっていることは否定できない事実である.進出企業はすでに公害防止技術をもっているのがふつうで,公害輸出は受入国の規制によって容易に防止できるものであり,また当初の計画に公害防止が組みこまれている場合にはコストはさほど高くならないものである.しかし日本が最近発展途上国に対して技術を売る際,かつて日本が技術の導入においてやったように,現在日本で使われている最低限の公害対策設備まで取り外して,安く技術を売りつけている場合もある.この手抜きは,おそかれ早かれ必ず節約した投資の幾層倍の被害の発生としてはね返ってくることになる.
 今後近い将来に確実に大社会問題に発展することが予想されているものは,原子力産業の廃棄物で,その公海への投棄は公害輸出の一つでもある.特に使用済核燃料再処理工場の立地は,もし万一それが実現すれば,その危険性の大きさからみて,最大規模の公害発生源になるであろう.
 日本の殖産興業政策は,帝国主義列強の支配と植民地化による人権抑圧からのがれる手段でもあった.この政策が旧体制からの脱出路として選択された徳川末期には,すでに人権思想の萌芽があり,それを近代化によって伸長させようとする考え方もあった.しかし実際の日本の近代化過程では,手段そのものが目的と化し,そのためにはげしい公害が発生し,守るべき人権は抑圧されて,被害を回復すべき手段は見いだされがたい.世界の国々がこの失敗は繰り返さないことを,われわれは希望する.

Ⅴ 本書の構成

 本書では,第1章に明治期の最大の公害であり,今日でもなおその被害がつづいている足尾鉱毒事件を,第2次大戦前の公害の典型として考察し,その現在までを記述する.第2章では,戦後日本の高度経済成長の概況を記述し,戦後の典型的な事例として,多数の事例のうちから,森永砒素ミルク,水俣病,高知パルプ,三池炭鉱炭塵爆発事件をえらんで記述する.最後の事件は労働災害事例であるが,我々の研究では工場内の労働災害,職業病と工場外の公害とは,同一の問題の二つの側面としてとらえているので,ここにとりあげた.そしてまず被害を認識することが公害問題の出発点であり,被害が具体的にだれにどのように現れるかという研究がこれまで殆どなされていないことを考察して,被害の構造の解析に一章を割いた.研究グループの参加者は共同討論ののちに執筆を分担し,「総論」「水俣病」「結論」の章を宇井純「足尾」「砒素ミルク中毒」のそれぞれ前半を東海林吉郎,後半を菅井益郎,「戦後日本の公害」および「三池」前半を星野芳郎,「三池」後半と「被害の社会的構造」を飯島伸子が執筆した.各公害の中で起こった事件についてはできるだけ総合年表に整理し,各章においては,全体の流れを歴史的に記述するようにつとめた.それぞれの事件については詳細な資料が存在するので参考資料をあげ,今後の研究の手がかりとしている.

[参考文献]
飯島伸子編『公害・労災・職業病年表』,公害対策技術同友会,1978年.
宇井 純『公害原論』,亜紀書房,1971年.
庄司 光,宮本憲一『日本の公害』,岩波書店,1975年.
都留重人編『世界の公害地図』,岩波書店,1977年.

[宇井 純]