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技術と産業公害

論文タイトル: 第1章:足尾銅山鉱毒事件ー公害の原点ー
著者名: 東海林 吉郎/菅井 益郎
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第1章:足尾銅山鉱毒事件ー公害の原点ー

Ⅰ 足尾銅山の技術近代化と発展

 1868(明治元)年,維新変革によって成立した明治政府は,富国強兵・殖産興業を国是として産業の近代化を図った.そして1870(明治3)年に創設された工部省は,軍事工場を除く官営企業を掌握し,私的企業の保護育成に加えて,地租を資金として広範な新企業を興した.1885(明治18)年,工部省が廃止されるまで,先進資本主義国から新技術・機械の導入・技術者招聘によるこの新企業の設立は,殖産興業の柱として推進された.
 この上からの近代化は,関係法規の整備と相まって着実に成果を示し,1877(明治10)年以降になると,重点産業の一つであった鉱業は,とくに民間の鉱山において急速に伸びていった.とりわけ銅は,多額の外貨を獲得する主要な輸出品となった.
表1-1 銅の輸出率
 こうした銅生産の発展を支えたのは,海外の銅需要であった.日本の銅は表1-1のように,その大部分が輸出され,総輸出額に占める割合は,1890(明治23)年に9.5%を占め,主要輸出品の地位を確立した.世界有数の産銅国として日本の銅は,世界市場に直結しつつ,近代化のための鉱工業生産設備・兵器・機械類輸入の対外支払い手段として,日本資本主義発展の不可欠な役割を担ったのである.この銅生産の主力をなしたのが足尾銅山であった.
 足尾銅山は,幕府直営銅山として1600年代,年産最高1,500トンを記録したが,その後漸次下降し,1800年には廃坑同然となっていた.だが1871(明治4)年,民業許可によって再開され,1877(明治10)年,古河市兵衛の経営となった.そして1881(明治14)年鷹(たか)の巣直利(すなおり)(富鉱),1884(明治17)年横間歩(よこまぶ)大直利(大富鉱)の発見によって,産銅量は飛躍的に増大し,表1-2のごとく1884(明治17)年に早くも2,286トンに達し,古河産銅量の68%,全国産銅量の26%を占め,別子銅山を抜いて全国一の銅山になったのである.
表1-2
 この間,1876~85(明治9~18)年は,需給の不均衡に加えて,先進欧米諸国の冶金技術の飛躍的発展による世界的銅市況の低迷によって,日本の銅生産は困難期にあった.技術の後進性に関わらず,かかる市況のもとでの足尾銅山の好況は,ひとえに大富鉱発見という自然的条件の優位性にあった.
 1885(明治18)年,古河は官営阿仁(あに)鉱山の払下げを受けた.それは単に一鉱山を傘下に収めただけでなく,外国から輸入した最新の機械設備と共に,西欧の近代技術の素養を身につけた技術者多数を加え,さきの自然的条件に併せて,発展的な技術的条件を獲得したのである.
 かくて足尾銅山は,阿仁鉱山の鑿岩機を用い,ボイラー式ポンプを,これまでの手押ポンプと共に坑内排水に稼動させた.また各坑を一本化し,開発と操業能率を高める大規模な通洞(水平坑)工事に,これらの機械と技術者を動員した.だがより大規模な近代技術の導入には,資本の蓄積がまだ不十分であった.
 この技術的制約は1885(明治18)年9月,本口廊下洞鋪の出水による排水設備の潰滅的打撃によって限界をみせた.この年,過去最高の4,090トンを記録したものの,翌々年まで生産量は回復しなかったのである.しかもこれと重なる1886~87(明治19~20)年は,銅市況の世界的どん底であった.ちょうどこのとき,フランス銅シンジケートの銅価吊上げと,世界市場独占を目的とする,東南アジア最大のイギリス商業資本ジャーデン・マジソン商会から,古河産銅の独占的買注文があった.
 古河は,その商談規模の大きさと支払い条件から当初難色を示した.だが1888(明治21)年,この市況を捉えて契約した.それは,1888(明治21)年から29カ月間に,すべて古河産銅で1万9,000トン,横浜渡し100斤(1斤=0.6キログラム)につき,20円75銭で売買するという,総額で600万円を超える巨大な取引きであった.この契約は,資本の蓄積の不十分な古河に,金融資本による融資の道を開いたが,その達成は,足尾銅山の増産以外にありえなかったのである.
 これを至上命令として,全力をあげて足尾銅山の技術近代化にとり組んだ.そして3年来苦しんできた湧水処理をこの年に解決し,坑内外に民間第1号の電話を架設したほか,諸機械を輸入し,排水・選鉱・運搬等を近代化し,処理能力の増大・労働力の節減による低コスト化と共に,生産力を増大したのである.
 しかし銅製錬は,改良しつつあったとはいえ,旧式の吹座製錬であった.1887(明治20)年,この吹座48座のうち8座を廃止し,水套式熔鉱炉1座とピルツ式熔鉱炉3基を新設,銅製錬の近代技術をとり入れた.さらにその高能率化を図り,1890(明治23)年,ジャーデン・マジソン商会との契約達成に可能な水套式角型熔鉱炉12座を新設,旧式吹座・ピルツ式熔鉱炉を全廃するにいたった.
 だが燃料消費と鉱石・製品の運搬手段等にまだ問題があった.このためドイツのジーメンス社に依頼,1890(明治23)年400馬力タービン水車によるポンプ用80馬力・捲上げ用25馬力・電灯用6馬力の発電力を備えた,間藤(まとう)発電所を完成させた.同時にプランジャー型電気ポンプを据付け,排水と鉱石の捲上げを高能率化し,燃料消費もまた節減した.翌1891(明治24)年,本山終点と製錬所を結ぶ電気鉄道も新設された.
 しかし,製品の搬出は牛馬に頼っていたため,天候・気温等によって,しばしば停滞した.このため1890(明治23)年,30馬力ボイラーによる細尾(ほそお)峠を越えて日光に通じる索道運搬を開始.その直後の日本鉄道の日光開通を機に,細尾―日光間に軽便馬車軌道を敷設,足尾産銅の搬出は著しく改善されたのである.
 さらに1893(明治26)年,ベセマ転炉製錬所を完成.これによって鉱石から製銅に要する期間を,32日から一挙に2日に短縮,国内他銅山を圧倒した.かかる足尾銅山の生産性の飛躍的向上によって,古河は産銅資本として揺ぎない地位と,自律的発展の基盤を築いた.

Ⅱ 鉱毒反対闘争と藩閥政府の対応

 だが,足尾銅山の資本主義的生産の優位性の確立過程は,環境破壊―鉱毒被害の顕在・深化過程にほかならなかった.すなわち図1-1のごとく1884(明治17)年暮,横問歩大直利の発見を背景に,製錬所近傍諸山の樹木が立枯れ,翌1885(明治18)年8月,阿仁鉱山の鑿岩機・ボイラー式ポンプ利用による増産強行のなかで,渡良瀬川の魚類が大量死し,技術近代化が一定の段階に達した1890(明治23)年8月の大洪水で,渡良瀬(わたらせ)川流域―,栃木・群馬両県7郡28カ町村の農地1,600ヘクタールに,一挙に鉱毒被害が発生するにいたったのである.
 この鉱毒被害を背景に10月,栃木県毛野(けの)村の早川忠吾は,県立病院に水質検査を依頼するなど,この時期の鉱毒対策の先頭に立った.12月同県吾妻(あずま)村は,公益に害ある足尾銅山の鉱業停止を県知事に上申した.この上申は,その後の鉱毒反対闘争を貫く鉱業停止要求の先駆であった.
 同12月栃木県議会が,翌1891(明治24)年3月群馬県議会が鉱毒対策を県知事に建議.これを受けて栃木県知事は4月,群馬県知事は6月と7月,農科大学その他に被害原因,除毒対策等を依頼した.こうしたなかで,被害農民・町村の連帯も醸成されていった.栃木県足利(あしかが)・梁田(やなだ)郡有志長祐之(ちょうすけゆき)・早川忠吾(はやかわちゆうご)・亀田佐平(かめださへい)らは被害町村有志会を結成,鉱業停止に向けて群馬県山田・新田(につた)・邑楽(おうら)3郡との組織的連合をめざす一方,足尾調査の模様と農科大学の古在由直(こざいよしなお)の土壌分析の結果等を,下野(しもつけ)西南地方の緊急大問題と捉え,『渡良瀬川沿岸事情』(長祐之編)と題して刊行した.だがすぐさま発禁処分を受けたのである.
図1-1
 鉱毒被害は,鉱業停止をめざす戦闘的農民を生み出す一方,金銭による補償を求める動きも派生させた.またこれとは別に,古河と協議した政府の意向を受けて,1891(明治24)年9月栃木県知事は被害町村に対し,古河との被害補償交渉に関する前提条件を示し,受諾すれば仲介する旨を訓令した.これに対し足利郡6カ町村・梁田郡3カ町村の町村長が連合して受諾した.このなかに吾妻村村長の亀田佐平がいたことにみられるように,被害農民は鉱業停止要求から,被害補償を求める方向に,大きく転換していった.ともあれ,足尾銅山の鉱毒被害に対する藩閥政府の対応は,そのまま1889(明治22)年2月に公布された,大日本帝国憲法体制の内実を示すにちがいなかった.
 帝国憲法は,帝国議会の開設,所有権の規定など,一見ブルジョア立憲制的に装われていた.だが帝国議会および人民の権利は,天皇の大権の前に,著しく制約されていた.天皇は宣戦・講和・条約締結等の大権を掌握するほか,陸海軍を統帥し,議会は軍事に関与できず,予算の審議権も制約され,行政各部の官制の制定・任免等も天皇の大権に属していた.
 かかる天皇の神権化と権能の集中は,必然的な権能の一定限度の分散,元老その他による輔弼機関の創出につながった.そしてこれら輔弼機関は,維新変革以来つねに権力中枢にあった薩摩・長州藩閥が独占し,官僚機構を掌握しつつ帝国憲法体制下の政府を構成した.
 また1890(明治23)年11月に開設された帝国議会は,衆議院すら限定選挙を基盤とし,貴族院にいたっては勅令による設置で,華族・官僚・大地主・大資本家などの支配階級が占める仕組みであった.まさにそれは,1881(明治14)年以降の松方デフレ政策,工部省による新企業の設立と払下げ等の本源的蓄積過程を経て浮上した地主および産業資本の利益を反映しつつ,天皇制支配の支柱として編成されたものであった.
 そして,これを集約する藩閥政府は,富国強兵・殖産興業の国是を堅持,産業の近代化と軍備の充実に努めた.このとき鉱工業生産設備・兵器・機械類等の重工業製品輸入の対外支払い手段としての銅生産,なかんずく足尾銅山の政治的・経済的な役割は,帝国憲法体制下において,よりその比重を加えたのである.それのみか古河市兵衛(ふるかわいちべえ)は,藩閥・政財界と強い紐帯関係を築いていた.
 政商資本の典型といわれる渋沢栄一との関係は,その後も持続されていた.また外務・工部卿を経て政商の守護神といわれた長州閥の井上馨もその支援者であり,さらに古河がその二男潤吉(じゅんきち)を養嗣子に迎えて盟約を交した陸奥宗光は,1890(明治23)年から農商務相に就任していたのである.そして,この陸奥の秘書官が原敬であった.
 原は,これを契機に古河との関係を深め,1905(明治38)年古河鉱業の副社長となり,1907(明治40)年内相として,谷中村破壊の強制執行を断行するにいたる.原は,はじめ井上馨外務卿に認められ,フランス駐在中,西郷従道海相や山県有朋陸相のフランス訪問に際し,その補佐と大統領訪問の介添等をとおして,藩閥頂点との関係を築き,後に首相となったことにみられるように,積極的に権力と古河の紐帯関係を強化したのである.
 1891(明治24)年12月,第二議会で栃木県選出議員田中正造(しょうぞう)は,帝国憲法第27条の所有権不可侵条項,日本坑法の試掘・採製の事業が公益に害あるとき許可を取消しうるとする条項,および鉱業条例の同趣意の条項を根拠に,足尾銅山の鉱業停止を要求,併せて陸奥農商務相の責任を追及した.だが第二議会は,軍事予算をめぐる藩閥政府と民党(自由党・改進党)の対立で解散.田中への答弁書は『官報』に掲載された.被害原因は不明で現在試験中である.鉱業人は鉱毒予防に努め,粉鉱採聚器を設置して鉱毒流出を防止するというものであった.
 それは,足尾銅山が被害の原因であることを否定しつつ認める矛盾と,粉鉱採聚器を鉱毒防止装置であるとする偽りを含んでいた.こうして粉鉱採聚器は,鉱毒予防の幻想をふりまきつつ,補償を求める被害農民を示談契約に動員する武器となってゆくのである.
 栃木県では知事主導のもとに,1892(明治25)年2月,県会議員による仲裁機関―仲裁会を設置した.足利地区は鉱毒査定会をつくって分裂するが,この両者によって示談契約が推進された.一方群馬県では,知事は直接的に関与せず,主として県会議長が仲介を推進した.だが両県共に示談契約への反対や躊躇いが根強くあった.このとき待矢場(まちやば)両堰水利組合は,新田郡長が管理責任者であったことから,1892(明治25)年4月両県の先頭をきって,古河側と示談契約を結んだ.これが両県の示談契約の推進に大きなはずみをつけた.示談契約の内容は,およそつぎの三点に要約される.
①鉱山は徳義上の示談金を支払う.②鉱山が対策として設置する粉鉱採聚器の効果をみる期間を,1896(明治29)年6月30日までとし,契約人民はそれまで一切苦情をいわない.③古河市兵衛は水源涵養に努める.
 契約の前提となる被害調査は,県庁→郡役所→町村役場へ行政機構をとおし,町村有力者層を組織してすすめられた.つまり,仲裁機関と行政機構および町村有力層は,古河側の意図を補完して機能したのである.しかも示談金は,きわめて少額であった.
これを栃木県安蘇(あそ)郡植野(うえの)村・界(さかい)村・犬伏(いぬぶし)町の被害農地面積1,163・2ヘクタールに対する示談金1万円についてみると,10アール当たり1カ年の米作収穫金額14円60銭~17円52銭の17~20分の1,85銭9厘にすぎない.またこの金額は,1890(明治23)年の鉱毒被害から粉鉱採聚器の効果をみる1896(明治29)年6月末までの収穫,6年分に当たるもので,1年当たりの金額は,農民の1日分の日当より少ない14銭3厘にすぎないのである.
 この第1回示談は,1892~93(明治25~26)年にかけて完結した.そして国内政局の危機を転化する日清戦争を背景に,1894~96(明治27~29)年にかけて,より強権的に第2回示談(永久示談)を,被害農民に押しつけてきたのである.しかもその金額は,よくて10アール当たり1円40銭,欺瞞や強迫さらには悪質な第三者の仲介によって,多くは25~40銭で永久に苦情をいわないことを契約させられたのである.
 1895(明治28)年3月,日本は日清戦争に勝利した.だがこの勝利によってえた遼東半島は,ロシア・ドイツ・フランス三国の干渉によって,清国に返還を余儀なくされた.これが藩閥政府と軍指導者に,軍備拡張を決意させた.そして陸軍は,利益線として満洲を確保するため,ロシア陸軍を撃破できる近代化と増強を,また海軍は,ロシアがドイツ,もしくはフランスと連合して東洋に派遣しうる艦隊を撃破できる艦隊をつくることを目標にした.この陸海軍ともほぼ2倍の軍備拡張計画を,藩閥政府は至上の課題としてとり組んでゆくのである.
 この軍備拡張計画を基軸とし,これを支える工業立国策を中心とする殖産興業政策,およびこれを達成するための財政・内務・外交・教育等の諸政策の総体を,日清戦後経営と呼ぶ.この日清戦後経営は,日清戦争の勝利と三国干渉の打撃をもとに,日本支配層が朝鮮・満洲をめぐる帝国主義列強の領土分割競争に参加するための政策であり,まさに日本帝国主義の原型であった.
表1-3 足尾山林荒廃状況[1893(明治26)年]
 日清戦後経営の推進は,鉄鋼生産の増強を必須な課題とした.だが日本は,製錬設備・冶金技術共に未熟で,1896~1900(明治29~33)年において,銑鉄(せんてつ)は需要のほぼ50%を生産していたが,鉄鋼は需要の20分の1程度しか生産しえず,ほとんど輸入に頼っていた.したがって鉱工業生産設備・兵器・機械類の輸入に加えて,鉄鋼輸入の対外支払い手段として,日本の銅生産はきわめて重要な意味をもったのである.
 しかも銅生産は,鉄鋼生産を中心とする先進工業生産体系成立への,先導的かつ過程的役割を担うのである.いわば「鉄は国家なり」の時代に先行する「銅は国家なり」の時代であり,その主力,足尾銅山は,銅の軍需原材料の需要増大を含め,日本帝国主義の原型―日清戦後経営の,枢要な一翼を担ったのである.
 1884(明治17)年暮,すでに製錬所近傍諸山の樹木の立枯れていた足尾地区の山林は,1893(明治26)年には表1-3のごとく,その後の乱伐と亜流酸ガスを主体とする鉱煙害によって,植生が壊滅し,自然恢復をはばんで裸地化を進行させ,ついに山骨(岩盤)を露出させるまで荒廃していた.そしてその後も荒廃は進行し,表土・岩石・鉱滓等が流出し,渡良瀬川中流を5尺も埋塞させ,鉱毒加害の構造をより巨大化させていったのである.
 水源地帯の荒廃は,すでに流域では憂慮したことであった.1892(明治25)年栃木県が,1895(明治28)年栃木・群馬両県知事が,足尾官林の禁伐林編入・治山策を農商務相に上申.同1895(明治28)年栃木県議会も同趣意を内相に建議,さらに1896(明治29)年3月,第九議会で田中正造も,この点を捉えて政府を追及していた.まさに不安は的中した.
 1896(明治29)年9月,7月を上まわる大洪水が渡良瀬川・利根川・江戸川流域―,栃木・群馬・埼玉・茨城・千葉・東京1府5県12郡136カ町村を襲撃.鉱毒被害農地面積は4万6,723ヘクタール,被害額は足尾銅山年間売上げの約8倍の2,300万円にも達し,被害はさらに拡大していった.
 この鉱毒被害の拡大・深化に対して,田中正造は翌10月,栃木・群馬両県10カ町村有志と共に,群馬県渡瀬(わたらせ)村の雲竜寺(うんりゅうじ)に群馬・栃木両県鉱毒事務所を設け,鉱業停止をめざして盟約を結んだ.当面の目標を被害農地の免租処分に集約しつつ,全被害地を一丸とする組織化と,その後の高揚に向けての胎動を開始していた.
 農商務省は11月,係技師を栃木・群馬両県へ派遣,被害報告の提出を求め,翌12月委員5名による鉱毒調査委員会を省内に設置した.農商務省のこの比較的早い対応は,陸奥宗光が外相に転出,旧幕臣榎本武揚の農商務相就任のほか,農務官僚の危機意識と世論の動向を反映していた.今回の鉱毒被害は,その規模と深刻さにおいて,近世以来の伝統的農本意識,また当時の教養思想としての儒教的農本思想に挑戦し,政府部内をまきこんで広く民衆的基盤に,切実な危機意識と衝撃を与えたのである.
 翌1897(明治30)年2月第一〇議会で田中正造は,藩閥政府の責任を追及し,鉱業停止を要求.これが新聞に報道されるや,組織化されつつあった被害農民2,000余名は,第1回大挙東京押出しを決行.憲兵・警官の阻止行動を突破して上京した800余名は,関係省庁等に陳情・請願して世論に訴えた.また3月18日,四県鉱業停止請願事務所を東京に設置.そして榎本農商務相の現地視察に重なる同月24日,被害農民3,000余名が官憲の阻止行動を突破して,第2回大挙東京押出しを決行した.
 被害農民の直接行動と鉱毒世論の高揚を背景に,この日政府は,足尾銅山鉱毒調査会(第1次調査会)を設置.法制局長官神鞭知常(かみむちともつね)を委員長とする委員18(含追加)名を発表,その直後,榎本農商務相は辞職,外相の大隈重信が兼務した.だが,この第1次調査会は,世論の鎮静化と,被害農民の直接行動抑制への狙いを秘めて設置されたのであった.

Ⅲ 日清戦後経営の基本的要請

 第1次調査会設置に,新聞は鉱業停止の可能性を示唆し,委員の1人である内務省衛生局長後藤新平は,鉱業停止の外なしと主張していると報じられた.そして3月31日広幡侍従が,ついで4月9日樺山内相が被害地を視察するなど,事態は鉱業停止に向けて進展するかにみえた.確かに神鞭委員長が用意した調査会の決議案(草案)は,鉱毒予防策を講ずるまで,全部または部分的鉱業停止を想定していた.
 だが鉱山派の内務省土木技監工学博士古市公威(ふるいちこうい)・非職御料局技師工学博士渡辺渡(わたる)らは,農商務省の和田国次郎らと共にその骨抜きを図り,鉱業停止派の農科大学助教授長岡宗好・農事試験所技師坂野初次郎らを圧倒した.新聞で鉱業停止の外なしとした後藤は,それを調査会で主張しなかった.また一部委員から提起された鉱業人の被害農民への補償は,閣議決定で立消えるなど,調査会は藩閥政府の意向に,大きく制約されていたのである.
 ともあれ軍備拡張を至上の課題とする藩閥政府の,足尾銅山鉱毒事件に対する基本的要請は,支障ない銅生産の維持と,日露開戦への軍事的国内世論の統一を阻害しないことである.被害農民の最終的な調査によれば,被害地域1府5県1市20郡2区251カ町村,面積10万453ヘクタールに達したのである.この無制限な鉱毒被害の拡大は,反政府世論の拡大要素であり,排除・改善を要す課題であった.第1次鉱毒調査会の鉱毒処分は,前2回を上まわる大規模な鉱毒予防工事命令と,最低限の行政措置―地租免租処分で,まさに藩閥政府の基本的要請に沿うものであった.そうであればこそ,その後の鉱毒被害の拡大・深化に対し,最小限の行政措置で応ずる一方,被害農民の直接的行動等に,治安問題として弾圧政策で臨むのである.
 さて,1897(明治30)年5月,37項から成る予防工事命令が,古河市兵衛に伝達された.その主な内容は,「亜砒酸及煙煤の凝結沈降と硫酸製造その他脱硫による亜硫酸ガスを除く」脱硫塔,「沈澱池濾過池」,「泥渣堆積所」,「烟道及大烟突」等の建設であった.そしてこれらの建設期間を義務づけ,違反したとき,「鉱業停止」するとしていた.だがこの命令書の内実は,命令責任者の南挺三(みなみていぞう)が予防工事完成後,足尾鉱業所長に就任したことにみごとに象徴されていた.とくに脱硫塔は全く機能せず,煙害は一層激化し,製錬所上流の松木(まつき)村は1901(明治34)年に壊滅する.この工事費は,古河側によれば104万円で,その一部を第一銀行の渋沢栄一の融資でまかなったという.
 一方の地租免租処分は,1年も遅れ翌1898(明治31)年5月に実施された.それは五等~特等(2~18年)の6種の免租年期を定め,2万5,500町歩に実施されたが,実際の被害面積の4分の1にすぎなかった.この第1回免租処分の直後の1898(明治31)年9月,またしても大洪水による鉱毒被害に襲われた.このとき大部分を占める五等免租地は年期明けになり,被害農民は免租継年期願を提出しつつあった.この度重なる被害に対し,被害調査後の1899(明治32)年7月,第1回とほぼ同じ農地に,前回同様の第2回免租処分がなされた.
 この免租処分は,被害農民の救済と自立を真に助くるものではない.それのみか,地租の納付を条件とする公民権・選挙権の喪失と,地租(地価)等に依拠していた地方自治体の財源の減少と枯渇をもたらしたのである.いわば鉱毒は,農民の生活基盤を破壊して生存権を脅かし,さらに免租処分―行政措置によって人権を剥奪し,さらに町村自治体を財政逼迫によって破壊した.栃木県足利郡久野(くの)村・群馬県邑楽郡大島村等は,殆ど全村免租となり,公民権者の激減と財源枯渇によって,町村自治の運営が不能に陥り,郡書記が職務管掌して村長を代行するにいたった.
 さて,第2回免租処分の原因となった1898(明治31)年9月の大洪水は,決壊した沈澱池の鉱毒を沿岸地帯に氾濫させ,より鉱毒被害を激化させた.その怒りと打撃のなかから,被害農民1万1,000余名は,堤防増築・救助窮済・自治破壊等の対策を求めて,9月26日第3回大挙東京押出しを決行.憲兵・警官の阻止行動を突破して,同月28日主力2,500余名が,東京府南足立(みなみあだち)郡保木間(ほぎま)村に達した.
 このとき,田中正造が病?をおして駆けつけ,惣代50名を残して帰国することを勧め,願意が徹底しないときは,田中が先鋒となって闘うことを約した.こうして田中は,鉱毒反対闘争の帰趨に関わる指導と責任を担い,地域ぐるみの組織強化に乗り出した.そして田中は,1899(明治32)年3月,第一三議会でその決意の一端を披瀝,翌4月雲竜寺の集会で,請願行動等の目標を県庁・東京から郡衙への転換と,町村長選挙対策を指示した.それは町村・郡単位中堅指導層の訓練と,その兵站基地化をめざすものであった.
 大挙東京押出しが遠心運動であるとすれば,この求心運動は,地域の組織強化と相まって,再び藩閥政府に向けて,組織的エネルギーの爆発となって現れるであろう.それはまさに,つぎの大挙東京押出しに向けての準備作業であった.同年8月30日雲竜寺の集会で,第一四議会の会期(1899(明治32)年11月~1900(明治33)年2月)中に,第4回大挙東京押出しを決行,いかなる妨害も排除して内務・農商務両省に迫り,目的を貫徹する方針を決定したのである.同日,警察側はこの情報を入手した.
 田中は,この決定のもとに,鉱毒被害地の死亡率・乳児死亡の増加を,鉱毒による殺人―非命の死者と捉え,各町村の調査を呼びかけると共に,この問題を掲げて被害町村を巡回,9月12日の雲竜寺の集会で,第四回大挙東京押出しを,正式な組織決定にもちこんだ.表1-4はその統計である.
表1-4
 かくて1900(明治33)年1月18日雲竜寺で,僧侶18名,各町村鉱毒委員ら3,000名が参集して,鉱毒非命者施餓鬼が行われた.これこそ,非命の死者の怨念を,戦闘性に転換を期すものであった.そして青年決定隊も結成され,演説会・宣伝活動に加えて,組織的に低調な地区に対するオルグ活動が展開されるなど,第4回大挙東京押出しに向けて,盛りあがっていった.
 こうした被害者農民の動向に,官憲側の監視・探索・取締りもきびしさを加えていった.前年の9月30日,すでに栃木県警部長は群馬県警部長と連絡のうえに,大挙東京押出しに際しての報告・連絡・取締り等に関し,管下該当警察署,駐在所に指示.また東京見物・年賀・成田山参詣等の偽装計画も察知し,その対策を指示ずみであった.
 そして1900(明治33)年2月6日,栃木県警保安課長は該当警察署長と協議.翌7日栃木県警部長は群馬・茨城両県警部長と取締り分担と方針を協議決定.2月8日栃木県警は警部10名・巡査部長11名・巡査162名を配置し,群馬県警は雲竜寺に警部3名・巡査50名を配置したほか,総員185名を動員.憲兵隊もすでに佐野に待機していた.
 この厳戒体制下の2月9日夕刻,雲竜寺の梵鐘を合図に植野村・吾妻村・渡瀬村でも梵鐘・警鐘を乱打,約300名の青年が雲竜寺に集合,鉱毒悲歌を歌い,翌日午前4時にかけて各町村に示威的勧誘運動を行った.この時期,被害地の町村長は田中の指示で上京し,押出し勢と合流して陳情・請願すべく待機していた.これは被害地町村長を,被害農民の側に確保する方策でもあった.
 2月11日,鉱毒委員ら140名による最終決定がなされた.官憲が,この13日未明出発の情報を掴んだのは,翌12日であった.警備が強化されるなかで,12日午後7時,雲竜寺境内に篝火が焚かれ,梵鐘・太鼓・法螺貝を合図に,被害農民がぞくぞくと集合.翌13日午前8時,約2,500名が隊伍を整えて東京に向けて出発,さらに人数はふえていった.
 そして,館林(たてばやし)警察署前での衝突を経て,佐貫(さぬき)村の川俣(かわまた)に達したとき,約300名の警官による,凄惨な弾圧がなされたのである.この渦中で,事後逮捕を含む100余名が逮捕された.これを川俣事件という.
 会期中の第一四議会で,田中正造はこの不当な弾圧と足尾銅山の鉱毒に関し,連日藩閥政府を追及した.実はこの第一四議会で,工業立国策を中心とする殖産興業関係の主要法案のすべてが成立し,日本帝国主義の原型としての日清戦後経営は,1900(明治33)年を画期として新たな展開をみせる一方,川俣の弾圧と指導層の逮捕によって,足尾銅山鉱毒反対闘争は,大きく組織的退潮をたどるのである.

Ⅳ 田中正造の直訴と遊水池計画

 川俣事件の逮捕者中,68名が兇徒聚衆罪等で予審にまわされ,51名が起訴されて前橋地方裁判所の公判に付された.田中正造は,川俣事件後の被害農民の戦闘意識の低下,組織的退潮を懸命に支え直そうとする一方,弁護団の編成,法廷闘争の組織化にも心を砕いた.また田中は,大挙東京押出しが阻止・弾圧されたために達せられなかった課題を担うものとして,天皇への直訴を決意してゆく.
 田中の直訴は,天皇にすがるものでなく,警護の兵士に殺傷されることによって,社会的衝撃を惹き起こして報道機関を動員し,世論の沸騰に点火し,退潮しつつあった鉱毒反対闘争の活性化と,藩閥政府の譲歩を狙いとしていた.だが容易に協力者がえられなかった.
 この悩みに応えるかのように,1901(明治34)年6月,田中に直訴をそそのかす形で協力を申し出たのが,毎日新聞主筆の石川安次郎(半山(はんざん))であった.そして石川は,みずからの構想を明らかにし,翌々日,直訴状の執筆をも含めて,『萬朝報(よろずちょうほう)』の記者幸徳伝次郎(こうとくでんじろう)(秋水(しゅうすい))の協力もとりつけたのである.
 一方,前橋地方裁判所の川俣事件裁判は,1900(明治33)年12月,治安警察法違反6名を含む有罪29名,無罪22名の判決がなされ,被告・検事側共に控訴1901(明治34)年9月,東京控訴院に舞台が移された.この公判で被告たちは,積極的に被害の実情を訴え,自らの正当性を主張し,法廷闘争を展開した.被告たちの主張は,傍聴の中央紙の記者によって逐一報道され,川俣事件以来鳴りを潜めていた中央紙が,再び世論を喚起していった.
 わけても,10月6日から12日にかけて,裁判長・陪席判事・検事・立会弁護人・鑑定人横井時敬らが,被告および有志総代を案内人として行った被害地臨検は,同行の8社8人の記者によって,公判報道から,その背景をなす鉱毒事件報道に転換していった.
 荒れ果てた被害地,そして被害農民の窮乏を知り,まるで地獄だ,人民の騒ぐのも無理はない,政府が10年も放置しているのには全く驚いた,という記事にみられる論調の変化となり,鉱毒事件の報道を拡大させていったのである.この川俣事件裁判を契機とする鉱毒事件に対する論調の変化と拡大に,牽引的役割を担ったのが,石川の毎日新聞であった.石川は世論の盛り上がりの頂点に田中の直訴を位置づけて,圧倒的な効果を狙っていたのである.10月23日,田中は直訴に備えて衆議院議員を辞した.
栃木県安蘇郡界村麦町の被害(写真 津田 仙)
 毎日新聞は,さらに女性記者のルポルタージュ「鉱毒地の惨状」を連載する一方,鉱毒事件関係記事を一面に載せ,論調もよりきびしさを加えていった.11月30日,古河市兵衛夫人ため子の神田橋下の入水自殺は,鉱毒世論の盛り上がりを背景にしていた.
 1901(明治34)年12月10日午前11時45分,第一六議会の開院式を終え,貴族院を出た天皇の馬車に,直訴状を手にした田中が,お願いがございますと叫んで迫った.田中や石川の考えた直訴は,田中がこの場面で,警衛の兵士に殺されるか,一太刀浴びることによって,衝撃的効果をあげることを狙っていた.だが,鎗を振った警衛の騎兵曹長は馬が暴れて落馬,田中もまたつまずいて転び,警戒中の警官に捕えられた.
 田中の直訴は,藩閥政府を衝動させた.内海(うつみ)内相は直ちに参内して,田中の経歴・性向を上奏.また大浦警視総監は麹町警察署長と共に,官邸に桂首相を訪問して上申.一方,田中は川淵検事正・麹町警察署長等の取調べにおいて,石川らとの謀議を秘匿.ひたすら天皇にすがろうとしたとしたため,罪科を問われなかった.また奥貫(おくぬき)医師の診断によって,精神錯乱および身体に異状のないことが確認され,同日午後7時30分釈放された.
 田中の直訴は,当初の意図どおり達成しなかった.だが世間の耳目を衝動させるに十分であった.まさに世論は沸騰し,社会各層が被害地の救援活動に参加,12月27日の鉱毒視察修学旅行には,約40の大学・専門学校・中学校の学生・生徒800名が参加した.学生たちは被害地の惨状に心を動かされ,学生路傍演説隊を組織して,鉱毒被害地の窮状を訴え,募金活動を行った.わが国学生運動の最初である.
 世論の沸騰を背景に議会でも論議され,藩閥政府は翌1902(明治35)年1月,閣議で鉱毒調査会の設置を決定.世論操作と鎮静化を狙い,川俣事件二審判決に合わせて,3月15日鉱毒調査委員会官制(第2次調査会)を公布した.二審判決は,兇徒聚衆罪の成立を否定,治安警察法等の有罪3名,無罪47(死亡1)名であった.これを被告・検事側共に上告,東京大審院にもちこまれるが,二審判決はそのまま第2次調査会への期待となった.
 なるほど委員に,第1次調査会の鉱業停止派の坂野初次郎や,かつて農民側の被害調査に協力した古在由直もいた.だがその中心メンバーは,法制局長官の奥田義人委員長はじめ,鉱業停止などありえぬと放言してはばからぬ鉱山局長の田中隆三や,内務・大蔵両省の新進官僚に加えて,つねに古河側の弁護に任じてきた東京大学工科大学教授渡辺渡,同大学教授工学博士河喜田能達らで,被害農民の立場がどこまで汲みあげられるか,きわめて疑問であった.
 委員は,現地調査をもとに大学助手・各省の技師21名に調査に当たらせた.この調査結果は10月すぎ各委員に報告され,これによる第2次調査会の報告は,1903(明治36)年3月,桂首相に提出された.そして同年5月,第一八議会に「足尾銅山ニ関スル鉱毒調査委員会報告書」は提出された.だがこれとは別に,委員の意見を述べて参考に供せんとするものでありながら,実は政府の意図と重なる重要な意見の盛られた「被害民生業及衛生状況ニ関スル意見書」
が,首相の手許に提出されていたのである.
 ともあれ,第2次調査会の報告書は,渡良瀬川や被害地に存在する銅分は,さきの鉱毒予防工事以前に排出された「残留物」が主で,現在の足尾銅山によるものは,「比較的小部分」にすぎないと,現実の足尾銅山の加害責任を免罪し,鉱業継続を保証するものであった.
 そして農作物被害は,残留する銅分と洪水による農地冠水に原因があるとし,鉱毒洪水両因説によって,鉱毒処分の根拠とするのである.ここから導き出される処分案は,洪水の原因が,足尾銅山の鉱煙害と山林乱伐による水源地帯の荒廃にあることを無視,もっぱら土木工事中心の洪水対策となる.まさに鉱毒問題の治水問題へのすり換えであった.
 さて,被害農民に直接影響する報告書の鉱毒処分,「鉱毒被害救治ノ方法」
は,6項からなり,つぎの3項がその主なものであった.
 ア足尾銅山における除毒.1897(明治30)年の予防工事の「補修」を目的とし,煙害については,いまだその方法を発見せずと対策を放棄,15項目の除毒工事命令(通算5回目)を,1903(明治36)年7月,古河鉱業に対して発令した.
 イ渡良瀬川沿岸被害地地価修正.地価修正は,被害農地の地価(地租の基準)減額要求に応じたもので,同年10月閣議決定し,翌1904(明治37)年3月衆議院(第二〇議会)で可決・公布した.これは被害の程度によって,田畑を10等~1等(地価1割5分~8割減)に分類,免租の年期明けの農地に1904(明治37)年度から実施された.たび重なる鉱毒被害の重圧のもとで,これがさきの地租免租につづく第2次鉱毒処分の,唯一最小限の救済措置であった.しかも,この地租の減額高は,約2万3,000円にすぎなかった.
 農地の鉱毒被害は,明らかに所有権の侵害であった.にもかかわらず藩閥政府は,所有権の侵害を認定せず,地租免租・地価修正等の行政措置をとっただけで,古河の補償責任をまったく放置したのである.ここに帝国憲法に盛られた所有権不可侵の条項が,産業資本のためにあったことを明確にうかがわせている.
 しかも地租免租・地価修正は,所有農地に対するもので,被害農民を救済するものではなかった.手作り地主・自作農・小作農をつつむ鉱毒反対闘争において,闘いが長期化するなかで,農地の生産性が回復せず,かなりの自作農すら貧窮化をさけえなかった.そして彼らを救うべき自治体すら財政逼迫に追いこまれ,小作層および貧窮化農民の流亡・離脱の要因を,その内部にかかえこんでいたのである.
 ウ治水事業.これは利根川・渡良瀬川とその支川の大改修工事を行い,併せて利根・渡良瀬の合流点附近に,大遊水池築造を推進するものであった.つまり渡良瀬川の勾配は利根川より小さく,ために利根川が逆流,渡良瀬川下流に停滞し,鉱毒激甚地となった.したがって,この激甚地を遊水池にするのが得策であるというものであった.だがこの時点で予定地は発表されず,ただ面積を2,800~3,800ヘクタールと打出すにとどまった.それは遊水池計画が,秘密保持を指令された意見書の生業善後処分の,被害農民の北海道移住政策と表裏一体の関係にあったからである.
 渡良瀬川は利根川にそそぎ,利根川から江戸川に分流する.1896(明治29)年の大洪水による東京府下の鉱毒被害は,膝元の鉱毒世論の盛り上がりを予想させて,藩閥政府を警戒させた.そこで1898(明治31)年,石材とコンクリートで河床を埋め,明治初期に26~30間はあった関宿(せきやど)の江戸川の河口を9間余に狭め,一方渡良瀬川の河口(利根川への合流点)を拡幅し,利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすくした.実に渡良瀬川下流の鉱毒激甚化は,水源地帯の荒廃と渡良瀬川の埋塞の相乗作用に加えて,この工事が大きく作用していたのである.つまりこの工事自体が,すでに遊水池計画の伏線をなしていたのである.
 事実,第2次調査会発足以前から,内務省は秘密裡に栃木県では谷中(やなか)村,埼玉県では利島・川辺両村を当てこんで,両県とそれぞれ遊水池計画を推しすすめていたのである.この計画を利島・川辺両村鉱毒委員が聞きこんだのは,1902(明治35)年1月であった.そこで利島(としま)・川辺(かわべ)両村は,すぐさま廃村・遊水池化反対闘争を,これまでの鉱毒反対闘争につなぎ,田中正造の指導のもとに両村合同村民大会で納税・徴兵拒否を決議して闘いつづけ,ついに遊水池計画を排除した.
 同年12月の埼玉県臨時議会で木下知事は,両村の闘いにふれず,遊水池は結局不利であり,復旧工事にしたと説明した.一方栃木県では,翌1903(明治36)年1月の県議会に,遊水池化のための谷中村買収案を提出し,否決し去られていたのである.
 この間,川俣事件裁判は1902(明治35)年5月,東京大審院は検事側の主張を全面的に認めて,二審判決を棄却,宮城控訴院に移送されたものの同年12月,検事の控訴状が適法性を欠くとして控訴棄却,被告全員が釈放になっていた.軍国化世論の統一を阻む要素として,残るは鉱毒激甚地への対策だけであった.
 かくして,すでに栃木・埼玉両県が放棄した遊水池計画が,1903(明治36)年3月,第2次調査会によって権威づけられ,意見書の被害農民の北海道移住政策とワンセットに,藩閥政府の緊急な課題を担って再登場したのである.いわば第2次調査会の報告書と意見書は,藩閥政府の最終的鉱毒事件処分として,鉱毒問題を治水問題にすり換え,鉱毒事件そのものを激甚地に集中埋没させ,そこに住む被害農民を,強権的に北海道に移住させる棄民政策をもって,その総仕上げを図った.実際には近隣地域への移住が主であった.
 1903(明治36)年12月,藩閥政府は閣議において,ロシアとの開戦に際しての清国・韓国対策(清国に中立を維持させ,韓国は支配下におく)を決定.さらに駐英公使に,対露開戦前の財政的援助の英政府への要請を訓令するなど,日本は日露開戦に向けて,早熟な帝国主義の展開過程にあった.まさに最終的鉱毒事件処分は,その前段をなしているのである.
 そして遊水池計画は,藩閥政府の意図どおり機能した.渡良瀬川上流地帯に,鉱毒被害からの解放の思惑を与え,全流域をつつむ鉱毒反対闘争を分断する楔となった.下流地帯もまた,遊水池として谷中村が確定するにつれて,自らの町や村が救われるならばと,谷中村の犠牲を承認.かつての指導層まで仲間を見殺しにして闘いを離脱,日本帝国主義の構造的一環としての自町村の水利・土地改良にとり組んでいったのである.

Ⅴ 田中正造の谷中村入り

 1903(明治36)年1月,栃木県議会にはじめて谷中村買収案が提出されたおり,田中正造は,政府がこの激甚地を捨てれば,これを拾って一つの天国を新造せんと表明,後日の谷中村入りを予告した.天国とは,彼の信仰とも重なるが,何よりも思想と行動を規定する理想,自治思想に連なる言葉であった.
 すべての人民は,平等に個人として尊重され,自由と安全が保証される.そして個人は,あくまで個人の顔と表情をもち,あらゆる創意と可能性の探求をとおして,自治の発展を支える.川俣事件以後,田中が構築した自治思想である.田中はこの自治の思想―天国を,谷中村の闘いの彼方にみようとしたのである.
 また田中は,日露開戦への足音の高まる1903(明治36)年2月,日本はじめての非戦争論を唱え,世界の軍備廃絶を訴えた.世界史の帝国主義突入段階において,田中は帝国主義列強の領土・経済再分割に呼応する日本の対ロシア・満洲侵略政策の推進―満洲問題を煽動する大倉・古河・三井・三菱・浅野ら財閥資本の特質を明確に捉えていた.しかも軍備こそは,彼ら資本の帝国主義的化身であった.田中の非戦争論が,世界の海陸軍全廃と一体であった理由である.
 それは,鉱毒被害地に対する藩閥政府の暴虐を,ツアーリズムの殺戮と同じであると捉え,両国の人民的連帯をその視野に収めることであった.そして日露開戦前夜,ロシアはわが敵にあらずと明言,また日露問題より谷中村問題が重大であり,社会主義は時勢の正義であると断じた.日本の対ロシア宣戦布告に対して,自分は非戦争論者であり,その正しさは絶対であると言いきり,1904(明治37)年7月,自らを日本帝国主義に対置させて,予告どおり谷中村に身を投じたのである.
 いままさに,国家権力によって破壊・亡滅させられようとする谷中村に住みつくことは,相手の国家を否定し返し,国家以前の権利―生存権と自治権を主張して,国家権力と対峙することである.この田中を指導者として,また田中自身の闘いとして,谷中村残留民と共に,谷中村の闘いがたたかわれるのである.

[東海林吉郎]

Ⅵ 足尾銅山鉱毒事件の歴史的位置

(1) 銅山の公害
 これまでわれわれは,日本の「公害の原点」と称され,明治期後半でもっとも大きな社会問題の一つに数えられている足尾銅山鉱毒事件の経緯についてみてきた.われわれはこの事件の歴史的位置について論ずる前に,鉱毒問題について簡単に説明しておきたい.それはけっして遠い過去の公害問題の事例ではなく,現在の日本においてもまた世界のいずれの国々においてもきわめてありふれた身近な公害問題の一つなのである.
 さて銅山などに代表される非鉄金属鉱山においては,その操業にともなって必ず公害を発生させるが,その被害は製錬過程に生ずる亜硫酸ガスや重金属の粉塵などによる煙害と,採掘,選鉱,製錬の全過程から出てくる重金属を多量に含んだ酸性排水による河川の水質の悪化,汚染された潅漑用水による農地の鉱毒被害(土壌汚染)の2種類がある.
 日本の銅鉱石はほとんど硫化鉱で,鉱山によって多少の違いはあるが,だいたい30~40%くらいの硫黄分を含んでいる.そのために製錬に際しては大量の亜硫酸ガスを発生させることになる(CuS+O2→Cu+SO2).煙害はこの亜硫酸ガスが無処理のまま環境中に排出されるためにひき起こされる.また銅鉱石はふつう砒素・カドミウム・亜鉛・鉛などの有毒な重金属類,金・銀などの貴金属も微量ながら含有しているが,当時の製錬方法ではもっとも有毒な砒素が亜硫酸ガスとともに大気中に飛散してしまうので,あらゆる生物に対してとくに深刻な害を与えたのである.
 高濃度の亜硫酸ガスは草木の葉を漂白し,ついには枯死させる.一度かぎりなら新芽も出てこようが,絶え間ない亜硫酸ガスの襲来に樹齢数百年の大木も枯れ,時間の経過とともに根も露出し,まったく再生不可能となる.とくに足尾地域は年間2,000ミリ近い降雨量を記録する日本でも有数の多雨地帯であるために,森林を失った当然の結果として表土はまたたく間に流出し,保水能力ゼロのはげ山になったのである.こうした森林被害に加えて,亜硫酸ガスと砒素は牛馬をはじめとする家畜類を直撃し,さらに人々の健康を損ない,居住を困難にした.こうして前述したように,製錬所より上流に位置した松木村などは廃村に追い込まれたのである.
 足尾地域は,古河市兵衛が銅山経営に成功する以前は,日光山地に連なる鬱蒼たる森林であったと伝えられているが,煙害に加えて古河が製錬用の薪炭材を大量に伐採したことも,満洲の砂漠に擬せられるほどの荒野となった原因であった.渡良瀬川の源流地域のはげ山化により,ちょっとした降雨も下流の洪水につながり,逆に晴天が続くと旱魃が発生した.鉱毒による農作物の被害は,洪水時ほどひどかった.もちろん日常的にも大量の酸性の坑内水が排出されているが,降雨があるといたるところに野積みにされた鉱滓やまだ銅分をたくさん含んだ廃石堆積場から,鉱滓や廃石の一部,あるいは酸性水に溶けた重金属などが流出する.とくに足尾地域では台風が襲来すれば1時間に100ミリメートル以上の降雨も珍しくなく,そうした場合には大量の鉱毒が流出する.これに加えて,山間地のために廃石や鉱滓の捨て場を欠いていた足尾銅山では,鉱毒被害が一大社会問題となった1890年代において渡良瀬川の出水を利用してこれらの廃石や鉱滓をダイナマイトで爆破するなどして下流に流したために,下流の鉱毒被害はいっそう激甚になった.
 重金属を含んだ微細な廃石や鉱滓は,潅漑用水を通って田圃に堆積し,耕起した田圃をあたかもセメントで固めたような状態に変えた.重金属の毒性に加えて土壌の団粒構造が破壊されるために,無酸素状態になった土壌の中で稲や麦,野菜の根は生育不能となり,ひどくなれば作物は枯死した.かつて洪水はその年の収穫を減少させはしたが,他面では上流から肥沃な新しい土を運んでくる天の恵みでもあった.しかし上流の足尾銅山の発展とともに,今や洪水は農民に損害だけを与えた.上流に雨が降ると渡良瀬川は鉱毒で白濁し,農民たちは鉱毒水を田圃に入れないために取水口を閉鎖し,鉱毒被害の軽減に努めた.しかし鉱毒と洪水の被害は,両者の相乗効果によってはるかに甚大となり,その被害面積は10万ヘクタールにおよんだ.このため当時の農民たちは,「鉱毒と洪水の合成被害」と称したのである.
 鉱毒被害は農地の土壌汚染,潅漑用水の汚染にとどまらなかった.農作物の生育不良は,農民の経済状態の悪化と栄養不足をまねくとともに,飲料水や生活用水の汚染をもたらし,直接人々の健康を害した.1900(明治33)年頃の被害統計については正確には知る術がない.しかし現在,渡良瀬川から上水道用の原水を取り入れている群馬県桐生市水道局の最近の水質分析によれば,採鉱・選鉱部門が閉鎖され,鉱毒防止施設も整備されているはずなのに,今なお大雨の後などには必ず水質基準の数十倍もの砒素が検出されるほどである.したがって鉱毒対策がまったくとられていなかった当時にあっては,水質汚染の程度は現在と比較にならぬほどひどかったものと思われる.しかし当時は,微量の重金属汚染による被害も知りえなかったし,それが人体や家畜にどのような悪影響を与えるものか解明されておらず,それゆえに政府や大部分の学者たちは,鉱毒は農作物の生育障害の原因とはなるが,人体や家畜には影響はない,と開き直ることができたのである.しかしそれから70~80年たった現在,鉱毒で汚染された米を食べていた農民たちのカドミウム障害が問題になっていることをみれば,当時においても鉱毒による健康障害が発生していたことは疑う余地がない.だからこそ田中正造や農民たちは,はっきりと鉱毒による「非命の死」を訴えてやまなかったのである.以上述べてきたことから明らかなように,上流に鉱山をもつ地域では,目に見えるか否かに関係なく必ずや鉱毒被害があるものとして,対応がなされなければならないのである.
(2) 鉱毒事件の政治経済的背景
 足尾銅山鉱毒事件が社会問題化した時期は,1890(明治23)年頃から約20年間であるが,被害民の運動がもっとも高揚したのは1896(明治29)年から1902(明治35)年にかけての間であった.この日清戦争(1894-95<明治27-28>年)から日露戦争(1904-5<明治37-38>年)にかけての間は,繊維産業部門を中心に産業資本が確立,発展した時期で,日本資本主義発達史の上でもきわめて重要な位置にある.もっとも軽工業部門の発展に比し,製鉄や造船などの重工業部門はまだようやくその発展の基礎がつくられたにすぎなかった.初めての本格的な対外戦争であった日清戦争は,かろうじて日本が勝利したが,このとき清国から獲得した2億3,000万両(テール)(約3億6,000万円)という当時の日本の財政規模の3倍にも上る巨額の償金は,軍備の拡張と重工業の育成に用いられた.
 経済的に大きな変化を遂げたこの時期は,政治的にもきわめて波瀾にみちた時期であった.1890(明治23)年に帝国議会が開設されたが,初期議会ではかつて自由民権運動の活動家であった民党派議員が圧倒的多数を占めていた.彼らは当初手作地主として農民層の利害を代表し,「経費節減」「民力休養」を掲げて薩摩と長州出身者が独占する藩閥政府とはげしく対抗したが,1898(明治31)年頃を境にしてしだいに官僚たちとの癒着を深め,必ずしも農民層の利害を代表しなくなっていった.というのは,彼らが豪農的手作経営をやめ,寄生地主化していったからである.同時に藩閥政府の側も民党派議員の協力なくしては円滑な政治運営が不可能になっていった.
 鉱毒被害地の農民たちが「足尾銅山の鉱業停止」を訴えて「押出し」(大挙上京請願運動)をはかったのは1897(明治30)年のことであるが,藩閥政府に批判的な新聞人や民党派議員,インテリ層の大部分は被害民を支援し,首都東京の世論は沸騰した.鉱毒事件の社会問題化という事態にたいして,産業の育成保護を第一義的課題とする政府は,第1次鉱毒調査会を設置して古河に鉱毒予防工事を命令し,世論と被害民の運動の鎮静を狙った.しかし農民たちが繰り返される鉱毒被害に怒り,4度目の「押出し」を決行したとき,政府は激しい刑事弾圧で臨んだ.このため農民の運動は後退を余儀なくされた.そうした中で行われた田中正造の天皇への直訴は,再び首都の世論を沸騰させたが,政府はこれにたいして第2次鉱毒調査会を設置して,鉱毒事件を体制内的に処理するための方策を検討し,鉱毒問題を治水問題へとすりかえていった.治水対策を中心とする政府の鉱毒処分案ではあったが,闘争と刑事弾圧に疲れた農民たちはしだいにこれを受け容れ,鉱毒反対運動は遊水池設置計画地点の谷中村周辺だけにしぼられていった.
 一方農民を支援していた民党派議員や首都の新聞人,インテリの大多数は,対ロシア強硬論をもって政府追及に走り,鉱毒問題を口にしなくなった.こうして首都の鉱毒世論は,日本が日露戦争に突き進む過程で急速に消滅していった.あれほど広範に組織された鉱毒反対運動も,日露戦争中に完全に挫折解体してしまうが,それには日露戦争に向けて体制側からの国民的統合が強化されたという事情も大きく影響している.いわば戦争が,足尾銅山に原因するこの公害問題を,未解決のまま闇に葬り去るのに大きく寄与したのだといえる.
(3) 鉱毒事件の影響
 足尾銅山鉱毒事件の社会問題化に手をやいた政府は,足尾銅山以外の諸鉱山にたいしても,最低限の鉱毒予防施設の設置を義務付けた.当時すでに足尾銅山と同じように長い歴史をもち,足尾銅山に次ぐ日本第2の銅山であった住友の経営する愛媛県の別子銅山でも,煙害問題が大きな社会問題になりつつあった.それゆえに政府は足尾銅山の鉱毒被害民の運動が,この別子銅山をはじめ他の諸鉱山に波及することをとりわけおそれたのであった.というのも足尾銅山鉱毒被害民の鉱業停止要求運動が,当時の政府や財界が鼓吹する「商工立国論」,すなわち資源が少なく,国土の狭い日本が世界の諸列強と肩を並べるためには,工業を発展させそれを土台に貿易を盛んにすることが唯一の途だとする考え方と真正面から対立するものだったからである.もし「鉱業停止論」が全国各地の鉱山地帯の住民の間にひろがっていくことになれば,政府のすすめる国家建設計画は阻害されることになると見られたのである.
 政府は1897(明治30)年3月の鉱毒被害民の「押出し」を契機とした鉱毒事件の社会問題化に対処するために,第1次鉱毒調査会を設置し,この調査会の答申に基づいて古河市兵衛にたいして,下流の鉱毒被害の原因となる鉱滓や廃石の堆積場の設置,沈澱池の設置,および坑内水や製錬所排水,沈澱池からの放流水を石灰で中和することを命令した.これらの鉱毒予防施設は,きわめて不完全なものであったが,その後も繰り返し古河に施設の改善を実施させることによって,ある程度鉱毒被害を軽減させるのに役立ったし,何よりも首都世論の鎮静に大きな効果を発揮した.そこで政府は足尾銅山の鉱毒問題を総括して,全国各地の鉱山にたいしても鉱毒予防施設の設置と改善を命令した.そして資金不足などから鉱毒予防施設を設置しえない鉱山にたいしては,操業認可が取り消された.そのために中小鉱山では他の大鉱業資本家に身売りするところも続出した.現在の日立製作所の母体となった茨城県の日立鉱山の前身の赤沢鉱山もそうした例であった.このように鉱毒被害にたいする発生源対策は,不十分ながらも,足尾銅山鉱毒事件の社会問題化以降,鉱山の操業の前提条件とされたのである.
 しかしながら煙害の防止については当時の技術ではまったく手のほどこしようがなかった.1897(明治30)年の古河にたいする鉱毒予防工事命令でも,亜硫酸ガスによる煙害を防止するために,製錬の排ガスを石灰水で洗浄してから大気中に放出する装置である脱硫塔の建設を命令したが,脱硫塔は建設と運転に莫大な費用を必要としたにもかかわらず実際には少しも効果がなく,さすがに政府も他の鉱山にその設置を義務付けようとはしなかった.当時全世界を見渡しても,排煙脱硫技術などまだ実用化にはほど遠い段階であったから,足尾銅山に建設された脱硫塔は最初から亜硫酸ガス除去の見込みなどなかったのである.足尾銅山の場合,亜硫酸ガスの被害が大きかった製錬所の上流地域に,きわめて少数の住民しかいなかったために,古河は全戸移転によって煙害問題そのものを消し去ってしまい,かつての森林は草木一本もとどめない死の谷と化してしまった.古河が有効な排煙脱硫装置を設置したのは,何とそれから60年後の1955(昭和30)年以降のことであった.しかしながら足尾銅山以外の日本の鉱山においては,製錬所の周辺に多数の住民が居住していたし,農地もひろがっていたので,全戸移転という方法を採用することは不可能であった.いずれにしても1900(明治33)年前後の段階においては,煙害を発生源で防止もしくは軽減しうる技術的対策はとりえず,煙害問題の処理は先に延ばされたのである.
 ところですでに発生している鉱毒や煙害の損害にたいしてとられた対策について述べると,旧徳川幕藩制社会においては,被害状況に応じて年貢(封建的貢租)の減免がなされるのが普通であった.もっともそれは,あくまでも農民側の反対運動の強弱に左右されてはいた.しかしながら明治維新以降は近代的な租税制度の下で,租税の減免措置は講じられなくなり,農民はかえって不利な扱いを受けたが,鉱毒事件が社会問題化したことによって地租の一部減免措置が実施されることになった.また銅山側は「永久に苦情を申立てぬ事」を条件に見舞金名目でわずかの補償金を支払った.だが,その主目的は反対運動の切崩しにあった.それは古河の足尾銅山だけでなく,住友の別子銅山や藤田組の小坂鉱山でも同様であった.
 日露戦争後になると,足尾銅山の鉱毒被害地をのぞいて,ほぼ煙害が第一義的な問題になっていった.それは鉱毒被害にたいしては,ある程度の発生源対策が義務付けられるようになったことと,住民たちの鉱毒反対運動が激化した場合には,きわめて不十分ではあったが被害に対して補償金が支払われるようになったことから,いかなる対策も講じられていなかった煙害問題が前面に浮かび上がったためである.
 日露戦争前後から大きな社会問題となる鉱山の煙害問題でもっとも著名なのは,別子銅山の四阪島製錬所の煙害問題である.別子銅山は住友財閥の発展の基礎となった銅山で,足尾,小坂,日立などとともに日本の四大銅山の一つと称されている.徳川時代から一貫して住友の経営下にあり,明治維新後も官営にはならなかった.住友は明治維新後独力で別子銅山の近代化計画を推進したが,その中心は,それまで愛媛県の奥深い山中にあった製錬所を,現在の住友グループの拠点となっている瀬戸内海沿岸の新居浜市に移転することであった.輸送の利便をねらった製錬所の移転は,新居浜に輸入技術による近代的な製錬所を新設するという形で行われた.だが1893(明治26)年に新設の製錬所の一部が操業をはじめるや否や,付近の農作物に激甚な煙害が発生し,農民たちは製錬所への直接行動を含む激しい煙害反対運動を展開した.しかし,農民たちの運動は日清戦争の勃発と官憲による刑事弾圧によって分断され,わずかの見舞金で涙をのんだ.一方,住友側は煙害問題が将来的にその発展を阻害するものと予想し,新居浜から約18キロメートル離れた四阪島への移転を計画した.ちょうどその頃足尾銅山の鉱毒被害民の「押出し」によって鉱毒問題は全国的な問題となったことにより,政府は住友に対しても1898(明治31)年にさまざまな鉱毒予防施設の設置とともに,新居浜製錬所の四阪島への早期移転命令を下した.ところが翌1899(明治32)年に別子銅山の生産能力の半分を占めていた別子山中の旧式の製錬設備が集中豪雨で流出したために,住友は四阪島への2カ年の移転延期を政府に願い出るとともに,新居浜製錬所の製錬設備を倍増させた.農民たちは住友の約束違反に怒った.折しも首都の世論は田中正造の直訴を引き金にして,再び鉱毒世論が沸騰しており,新居浜の農民たちも鉱毒事件の再度の社会問題化に影響されつつ住友への抗議行動を強めていった.このとき農商務大臣は県知事を通して農民と住友の調停を試み,住友に損害賠償金を支払うよう説得したが,調停工作は住友の拒否により失敗した.しかし,住友は農民の圧力の前に2カ年の延期を短縮し,1904(明治37)年8月には四阪島製錬所の一部操業を開始した.
 ところが操業開始後まもなくして愛媛県の瀬戸内海に面する越智・周桑・新居・宇摩の東予四郡の広大な農地に煙害が発生した.四阪島製錬所から放出された亜硫酸ガスが,20キロメートル以上の海上をほとんど拡散せずに東予四郡に襲来したためであった.それは当時の一流の学者たちもまったく予期しえないことであった.住友は農作物被害の原因に早くから気づきながら,農民たちの抗議行動には言を左右して応えなかった.農民たちの追及行動は激しく,数千人規模の集会が繰り返された.1908(明治41)年の夏には住友の新居浜支店を封鎖する事態にまでなった.そうした事態になってようやく住友は農作物被害の原因が四阪島製錬所にあることを認めたが,その対策は遅々として進まなかった.
 同じ頃秋田県の小坂鉱山,茨城県の日立鉱山でも煙害問題が深刻化し,農民の煙害反対運動は全国的問題となっていった.政府は1909(明治42)年4月に「鉱毒除害ノ方法ヲ講シ鉱業ト他産業トノ調和ヲ計ルハ刻下ノ急務」であるとして,農商務省の管轄下に第3次鉱毒調査会を設置し,主に煙害対策の検討を開始した.海外へ技師を派遣して煙害の発生源での技術的対策の研究をさせたり,被害地に農事試験場の技師を派遣して被害の実態調査に当たらせたりした.政府は住友側の対応の鈍さのために,農民の反対運動がいっそう拡大することをおそれ,1910(明治43)年周到な準備工作の下に両者間の調停を行った.政府は損害賠償金の支払いをしぶる住友と被害者である農民の代表の双方を農商務大臣官邸に集め,およそ20日間にわたって協議したのち,農商務大臣自らが調停案を提示し,ようやく住友と農民側の合意をとりつけたのだった.調停の内容は,1910(明治43)年以前の被害にたいしては約34万円,1911(明治44)年以降は毎年7万7,000円の損害賠償金を支払う(3年毎に改訂),年間処理鉱量を約21万トンに制限する,米麦の生育時期の40日間の鉱量制限,そのうち10日間は熔鉱炉を全面休止する,など住友に対してはきわめてきびしい内容のものであった.住友はその後とくに年間の鉱量限度という制約条件から逃れるために,亜硫酸ガスの発生源対策に努力した.それは亜硫酸ガスを硫酸として回収し,それを用いて肥料の硫酸アンモニウムを製造するシステムであった.結局住友がその全システムを完成したのは約30年後の1939(昭和14)年のことであった.この間に住友が農民側に支払った損害賠償金の合計は600万円を上回った.
 別子銅山の四阪島製錬所の煙害事件においては,農民側の指導者たちは,田中正造を鉱毒反対運動の手本としてつねに引合いに出しつつも「鉱業停止」要求に目標を限定せず,多様な運動目標を掲げていた.政府の調停斡旋は,「農鉱併進」を合言葉になされ,農民の指導者たちもまた同じことを口にしながら農民層を組織し,政府に白紙委任したのであった.これに対しては鉱業停止もしくは製錬所の移転を要求する小農や小作人たちからの反論や異議申立てなどが行われた.こうした小農や小作人と地主との利害対立の顕在化という事態は,旧来の農村秩序が動揺し始めていたことを示している.つまり政府が自ら煙害問題の調停斡旋に乗り出した背景には,日本が,1910(明治43)年8月に韓国を併合し,対外的に本格的な帝国主義的侵略を開始したことと関連して,それを支えるためにも動揺し始めた日本の農村秩序の再編強化が要請されていたという事情があったのである.
 政府は発生源での技術的対策が困難な煙害問題については,鉱量制限,損害賠償,製錬の季節的調節の3点を住友に約束させたが,この当時にあっては,きわめて画期的な公害対策であったといえる.鉱量制限は別子銅山に特有のものであったが,損害賠償もしくは補償はこれ以降全国の鉱山でも一般的に行われるようになった.製錬の季節的もしくは気象条件による制限は日立鉱山においても実施された.
 なお日立鉱山(久原房之助経営)について若干付け加えておけば,同鉱山は1907(明治40)年に本格的な操業を開始したが,わずか2年足らずの間に日本の四大銅山の一つに数えられるようになるほど急成長した.鉱毒被害対策としては,操業開始と同時に排水路の完備と鉱毒被害が予想された土地の買収を行った.煙害対策については,被害が発生した場合には補償金を支払う旨の契約を付近の住民と前もって結んだ.しかし新設製錬所が本格的に稼働しだすと,鉱山側の予想したよりはるかに広範な地域に煙害が発生し,生産量の増加は補償金支払額の急増となって現れた.そこで農商務省の命令に基づき電動ファンを用いた強制稀釈拡散方式ともいうべき大口径の低煙突を建設したが,それは亜硫酸ガスの工場内への逆流,停滞を招き,労働者の健康を害したために工場の操業を不可能にした.この役に立たないばかりか有害ですらあった煙突を,人々は「阿呆煙突」と呼んだ.久原はこの煙突を短期間で使用中止し,それ以前の日立鉱山に独特の通称「むかで煙道」による排煙に逆戻りした.それは山の斜面に築いた長大な煙道にたくさんの穴をあけ,そこから排煙するもので,あたかもむかでのように見えたためにそう呼ばれたのであった.しかしついに,久原房之助は補償金支払いの圧力にたえかねて,農商務省の命令とは逆に,高煙突稀釈拡散方式を思いつき,1915(大正4)年製錬所の近くの山上に高さ約155メートルの大煙突を完成させた.それは当時としては世界第一の高さを誇り,現在も日立市のシンボルとなっている.久原は同時に日本で最初の高層気象観測を実施し,気象状態に合わせて鉱量と鉱石の種類の組合せを変える「制限熔鉱」を行い,被害を最小限に抑えながら生産量を最大にするための調節を行った.その結果補償金の支払い額は大幅に減少した.久原はまた植林事業にもきわめて熱心で,そのために日立鉱山の周辺には現在もハゲ山はほとんど見られない.
 日立鉱山の鉱毒・煙害問題は,この地域でも一時的には大きな社会問題となったが,久原が比較的よくこれに対応しえたのは,日立鉱山の位置が太平洋岸にきわめて近く,立地条件に恵まれていたためである.もし足尾銅山のように内陸立地であったならば,排水路の建設はコスト的に不可能であり,また高煙突拡散方式は被害面積の拡大の原因となるので採用できなかったであろう.したがって足尾銅山の悲劇の要因は,関東平野という日本でもっとも農業生産性の高い地域を流れる渡良瀬川の源流に位置している,という立地条件の悪さにもあったといえよう.
表1-5 四大銅山鉱毒・煙害事件対照表
表1-6 四大銅山鉱毒・煙害事件に関する主要事項一覧
 足尾銅山鉱毒事件を頂点とする日本の四大銅山の鉱毒・煙害事件の大よその経過は,表1-5に示されている.また表1-6は各事件を特徴づけている主要な事項について整理したものである.この二つの表は,足尾銅山鉱毒事件における被害農民側の鉱業停止運動が,結果的には挫折したとはいえ,その後に鉱毒予防工事と被害に対する金銭による損害賠償を一般化させる条件をつくり出したことを示している.と同時にまたそれは,産業資本段階から急速に独占資本段階へと突き進んだ日本資本主義が,農民と農業を犠牲にした工業化一本槍の政策から,工業化の犠牲となる農民をも一定程度保護する政策を新たに必要とするようになったことを示している.すなわち,不十分ながらも社会政策的な施策の実施なくしては,農村秩序を維持しえなくなっていく過程を示すものでもある.

Ⅶ 鉱毒問題のその後の展開

(1) 鉱毒問題の治水問題への転換
 足尾銅山鉱毒事件は,日本の産業資本確立期に一大社会問題となったが,日露戦争への過程で農民側の「対政府鉱業停止要求」運動が挫折を余儀なくされたことにより,日露戦後日本資本主義が早熟的な帝国主義への転化を遂げるなかで,谷中村の抹殺―遊水池化という形で終りを告げた.しかし社会問題としての鉱毒事件は終っても,鉱毒被害は消滅したわけではない.なぜなら足尾銅山鉱毒事件の場合,鉱毒を発生源で防止するための有効な対策がとられなかったうえに,10万ヘクタールにおよぶ鉱毒被害地の汚染土壌の除去も農民の負担にまかされたままであったし,加えて古河からの鉱毒被害にたいする損害賠償金の支払いも公式には行われなかったからである.ではあの多数の農民を結集した鉱毒反対運動は,まったくの無に帰したのであろうか.たしかに渡良瀬川沿岸地方の鉱毒被害地では,運動によって直接得るものはほとんど何もなかったが,上述したようにこの事件の一大社会問題化は,日本の他の鉱山の鉱毒・煙害問題にきわめて大きな影響を与えたのであった.
 谷中村の抹殺過程は,渡良瀬川が利根川に合流する最下流部と,それより上流地域の農民を分断することによって遂行された.政府は治水こそ鉱毒被害を消滅させる方法であり,その治水計画の実施のためには谷中村とその周辺地域を犠牲にして遊水池化するのも止むをえない措置だ,と宣伝した.権力の弾圧と日露戦争中の翼賛体制の中で,谷中村より上流の農民たちは,しだいに政府の宣伝を受け容れていき,鉱毒問題は治水問題へとすり替えられたのである.谷中村の遊水池化の過程については,荒畑寒村の『谷中村滅亡史』(1907<明治40>年)をはじめ数多くの著書があるのでここでは省略するが,強制破壊された16戸の旧谷中村の残留民は,生活に困窮しながらもそのまま居住を続け,土地収用価格についての行政訴訟を展開しながら谷中村復活闘争を行った.しかし渡良瀬川改修工事の進行により,ついに1917(大正6)年に栃木県当局と妥協し,谷中村残留闘争に終止符を打ったのである.この間,1913(大正2)年の9月に鉱毒反対運動の指導者田中正造も72歳の生涯を終えた.田中正造を慕う残留民は,彼を「田中霊祠」に祀った.それは田中の不屈の闘いの精神と鉱毒反対運動の意義を現在にまで伝えている.
 さて鉱毒問題は治水問題へと転換され,大部分の農民は渡良瀬川の改修に期待するようになった.渡良瀬川の改修工事は1910(明治43)年に着手され,およそ1,200万円の巨費を投じて1927(昭和2)年にようやく完成をみた.この改修工事が開始されてまもなく,農民たちは依然として鉱毒被害が継続していることに気づいた.それは工事が完成した後も同様であった.その原因は明らかであった.足尾銅山の山元での鉱毒流出が続いていたからである.沈澱池や堆積場はあっても,その規模も小さく,機能も不完全であったし,さらに煙害でハゲ山となった渡良瀬川源流の広大な地域は保水能力を欠いていたために,渡良瀬川の流量は天候によって急激に増減した.潅漑用水を渡良瀬川から取水している鉱毒被害地は,その度に旱害と洪水被害に悩まされた.洪水時には山元の鉱毒が流出してくるために,鉱毒被害も繰り返された.潅漑用水を鉱毒の被害から守り,必要な用水量を確保するために,つねに農民たちは用水管理にさまざまな工夫をこらしたり,新たな取水施設や用水路を建設したり,たいへんな努力を積み重ねた.それらの建設に際して古河の寄付を要請した場合もあるが,ほとんど自前か国からの補助金でまかなわれたのである.農民たちにとって,鉱毒問題は決して終ったのではなく,社会的に潜在化したにすぎなかったのである.潅漑用水を通してたえず農地に蓄積される鉱毒を取り除くために,農民は用水取入口に「鉱毒溜」をつくったり,汚染農地の天地返しを行った.古河は農民たちから強硬な抗議があったときにのみ,石灰などを現物供与しただけで,公式の損害賠償には第2次大戦後もまったく応じようとしなかった.
 一方,渡良瀬川の改修工事は一応の完成をみたといっても,それを上回る洪水が繰り返し発生した.そのたびに新しく改修工事計画が作成された.とくに第2次世界大戦後の1947(昭和22)年のカスリン台風による洪水被害は,渡良瀬川中流域から東京都内にまで及んだ.このため数百億円以上の巨費を投じて,遊水池の大改修を含む抜本的な治水工事が実施され,現在に至っている.(なお谷中村事件以降の鉱毒問題,治水問題については,拙稿「足尾銅山の鉱毒問題の展開過程」,国際連合大学《人間と社会の開発プログラム研究報告》1982年を参照されたい.)
(2) 鉱毒問題の再燃
 鉱毒被害は継続しているのに古河は,1897(明治30)年の鉱毒予防工事以降の被害には責任はなく,それは徳川時代の残りであると開き直っていた.農民の方は諦めから石灰供与の申入れやわずかな寄附金を要請することにとどまっていた.しかし1958(昭和33)年5月30日に発生した源五郎沢堆積場の突然の決壊は,鉱毒問題を再び顕在化させることになった.
 古河鉱業は足尾銅山の鉱毒事件が谷中村の抹殺という形でしめくくられた後,産銅業から商事,銀行,電線,ゴムなど各種産業部門に事業を拡大し,第1次大戦の戦争ブームの中でコンツェルン形態をとった.しかし,商事部門の破綻から銀行部門も閉鎖し,事業の縮小を余儀なくされた.満洲事変から日中戦争,第2次世界大戦に至る戦時経済の過程では,古河財閥は工業部門を中心に再び急成長を遂げた.第2次大戦後,単独の持株会社をもたなかった古河財閥は,GHQの財閥解体の対象とはならなかったが,古河系企業間の持株関係は整理され,古河鉱業は独立の会社となった.足尾銅山の生産高は,戦争末期になると乱掘によってしだいに減少し,戦争直後は経済の混乱や資材の不足のために著しく低下した.しかし,戦後復興政策の柱である傾斜生産方式の実施と,それに続く朝鮮戦争の過程で足尾銅山の生産は徐々に回復した.1955(昭和30)年にはフィンランドから自熔製錬法を導入して製錬施設を一新させた.それは鉱石の成分である硫黄を燃焼させることによって鉱石を熔融するもので,その際に生ずる亜硫酸ガスはきわめて濃度が高いために,容易に硫酸製造が可能であった.前述したように足尾銅山はここでようやく煙害防止施設を設置したのである.もっともその施設は完全ではなく,煙害がほぼなくなるのはそれから約20年後,今から10年前のことである.鉱毒問題が再燃したのは,この新式の製錬施設が操業をはじめてまもなくのことであった.当時,足尾銅山はようやく戦前の平均的な生産水準を達成した段階で,目本経済は高度成長へと離陸を開始した時期であった.
決壊した源五郎沢堆積揚は戦時中の1943(昭和18)年から使用されてきたが,足尾銅山の14の堆積上のうちでも比較的小規模のものであった.この堆積場が決壊した当日は天候もよかったので,決壊の原因は明らかに古河鉱業のずさんな管理にあった.流出した鉱泥は約2,000立方メートルで,国鉄の線路もろとも渡良瀬川へ流れ込んだ.農民たちは足尾に大雨があると,鉱毒被害を少なくするために用水の取入口を閉じる習慣になっていたが,晴天が続いていたうえにちょうど田植の直前だったために,用水を田圃に引き入れていたときであった.そのため流出した鉱泥による被害は,田植前の田圃約6,000ヘクタールに及び,直接被害を受けた農家戸数は,待矢場用水の取水口のある群馬県山田郡毛里田村(現在は太田市)を中心に,約2万数千戸に上った.そのため毛里田村では,当時農業協同組合の組合長であった恩田正一が中心になって,足尾銅山への抗議行動を展開した.恩田は農民たちが旧来と同じように,古河にわずかの寄付金を要求しただけで泣寝入りしようとすることに強く反発した.7月になって恩田は毛里田村鉱毒根絶期成同盟会(以下毛里田村同盟会)を組織した.また8月には群馬県東毛3市3郡渡良瀬川鉱毒根絶期成同盟会(以下3市3郡同盟会)を組織し,いずれもその会長に選ばれた.
 源五郎沢堆積場の決壊はけっして予想されなかったことではない.全国各地の鉱山では,それまで何度も堆積場が決壊し,農地の汚染ばかりか多数の死傷者さえ出していたのである1).幸いにして足尾銅山では大災害を発生させるような決壊事故がそれまでに起こらなかっただけである.この堆積場の決壊事故が起こった頃,東京都にある本州製紙株式会社江戸川工場の排水タレ流し事件が社会問題化した.この製紙工場から放出される未処理のドス黒い排水によって,江戸川河口一帯の東京湾沿岸の魚貝類が全滅する被害をうけたために,付近の漁民はいっせいに本州製紙に抗議行動を起こした.なかでも千葉県浦安町の漁民は,町をあげて決起し,東京都庁をはじめ関係諸官庁への陳情と本州製紙江戸川工場への直接行動を展開した.漁民側は警官隊との衝突によって多数の負傷者と被検挙者を出した.この浦安事件の後に政府はようやく水質規制の立法化を急ぎ,いわゆる水質2法,すなわち公共用水域の水質保全に関する法律と,工場排水等の規制に関する法律を制定した.この法律は実効のあまりないザル法ではあったが,日本で最初の水質規制法であった.前者の水質保全法は1959(昭和34)年4月に施行され,これにもとづいて水質審議会がつくられた.水質審議会は各地の河川や湖沼などの水質基準の作成に当たった.
 毛里田村同盟会と3市3郡の同盟会は,渡良瀬川も水質規制の対象河川とするよう数百人の農民を大型バスに分乗させて上京陳情したが,政府はようやく1962(昭和37)年になって渡良瀬川も審議の対象とした.政府は同盟会の会長である恩田にたいして,会長の辞職を条件に審議委員に任命した.恩田はその条件に怒りつつも実をとるために会長を辞して委員となったのである.ところが渡良瀬川部会での議論は,恩田が銅の基準を0.01ppmとするよう主張したのに対して,通産や農林官僚たちは0.06ppmを主張して並行線をたどった.しかし1968(昭和43)年3月,官僚たちは農民の代表である恩田の意見を多数で押し切り,0.06ppmに決定した.そして同盟会も年間平均0.06ppmに同意したのだった.
 1969(昭和44)年から1970年代のはじめにかけては,日本は公害問題を告発するキャンペーンで埋り,1970(昭和45)年は「公害元年」ともよばれているほどである.このように公害世論が高まっている中で,大雨で増水した渡良瀬川の水から砒素など各種の有毒金属が検出され,恩田の主張の正しさが不幸にも証明されたのである.また毛里田地区の1971(昭和46)年産米から,基準値を大幅に越えるカドミウムが検出され,1972(昭和47)年1月にその一部が出荷停止処分となった.このため毛里田村同盟会では,1971(昭和46)年に発足したばかりの環境庁に陳情するとともに,1972(昭和47)年3月には公害紛争処理法(1970<昭和45>年施行)にもとづいて,公害等調整委員会にたいして,古河鉱業が鉱毒被害の損害賠償を支払うことを求める調停を申請した.この調停の申請は,毛里田村同盟会の第2代会長の板橋明治など970人が,約39億円の損害賠償を求めたもので,調停は全国的な反公害住民運動の高まりの中で,農民側にかなり有利にすすめられた.
 この調停が進行中の1972(昭和47)年11月,古河鉱業は足尾銅山の操業中止,閉山を突然発表した.閉山について古河鉱業は鉱量の枯渇を理由として挙げ,既定方針通りであるとしていたが,進行中の損害賠償を求める調停と密接な関係があるとみられている.足尾銅山は2月に閉山された.また同年3月には足尾とならんで古い別子銅山も閉山された.しかしそれはいずれも採鉱部門のみ閉鎖したのであって,輸入鉱石による製錬は続行されており,足尾銅山の場合は閉山後かえって生産量が増加している.
 調停作業は1974(昭和49)年5月11日,農民側と古河鉱業側の双方が,公害等調整委員会の調停案に同意し,調停書に署名することで終了した.その内容は,15億5,000万円の補償金の支払い,鉱毒流出防止施設の改善,農地の改良,公害防止協定の締結など四項目からなっていたが,古河鉱業が鉱毒被害の責任を認め,寄付金ではなく,損害賠償金としての補償金の支払いに応じたことは,足尾銅山鉱毒事件100年の歴史の中でも初めてのことであった.ただこの調停作業が非公開で行われたことは,公害反対運動全体への波及効果をほとんど生まず,その社会的意義を低くしてしまった点はおしまれる.データや交渉経過の公表こそ,あらゆる公害を予防する最良の方策だからである.
 1958(昭和33)年の源五郎沢堆積場の決壊を契機に再燃した鉱毒問題は,政府機関の調停という形で一応の結末を迎えたが,足尾銅山の鉱毒被害はそれでも継続している.足尾製錬所の周辺には14の堆積場が谷を埋めており,地震や集中豪雨などによっていつ崩壊するかもしれない状態になっている.もちろん古河鉱業が日常的に管理しているといっても,鉱毒はたえず流出しており,それは下流でも容易に検出される.また製錬所周辺の山は,3,000ヘクタール以上がいまだにハゲ山かそれに近い状態で,営林署はこれまでに100億円にも上る国費を用いてその緑化に努めているが,この地域に森林が回復するためには,おそらく数十年あるいは数百年の長い年月と,莫大な資本投下が必要となろう.1977(昭和52)年に立案された全体計画では約1,300億円の巨費が見込まれているが,それだけの資本投下を行っても,土壌がすっかり流出し,岩盤の露出した山を緑化するにはまだ程遠いであろう.ひとたび失われた自然の回復は,日本のように気候のよいところでもきわめて困難なことなのである.
[注]
1) 日本近代史上最大の鉱滓ダム決壊事故は,三菱鉱業(現三菱金属)経営の尾去沢鉱山において,1936(昭和11)年11月20日に発生した事故で,死者362名,重軽傷者81名,崩壊家屋400棟の被害を出した(通産大臣官房調査統計部編『本邦鉱業の趨勢50年史・解説編』,1980(昭和55)年,68ページ).

むすび: 足尾銅山鉱毒事件の今日的意義

 足尾銅山鉱毒事件が最初に社会問題化したときから,すでに90年も経過している.鉱毒被害は現在も継続しており,さらに将来的に堆積場が決壊して大災害の発生する可能性も依然として強く残っているのである.鉱毒と煙害による自然破壊がいかにすさまじいものであったかは,今なお渡良瀬川の源流地域と利根川に合流するもっとも下流の地域に,いずれも3,000ヘクタール以上もひろがっている荒野をみれば,一目瞭然である.その荒野は,世界史的にはきわめて遅れて資本主義化の途を辿った19世紀末の目本が,「富国強兵」,「殖産興業」の二大スローガンを掲げてやみくもに先進資本主義国から近代技術を導入し,公害を顧みることなしに生産第一主義に奔った結果を物語っている.われわれはそこに近代技術の取入れ方の問題性と,あまりにも物質万能主義に冒された現代文明のあり方の問題性を見ないわけにはいかない.
 しかし,現在もなお生産性を高める技術への信仰と,安全性を無視した生産第一主義的な経営は改められてはおらず,むしろますます強まっているといえる.さまざまな生産過程から吐き出される環境汚染物質は,かつての製錬ガスなどと異なって人間の五感では感じることができないうえに,放射能のようにその毒性が人間の一代限りにとどまらないものも急増している.まさに現代は,かつて田中正造が近代の機械文明を評して述べたように,「世界の人類の多くは,今や機械文明というものにかみ殺される」といった事態に刻々と近づいているときだとはいえまいか.今は宗教法人「田中霊祠」に祀られている田中正造は,訪れる公害反対運動の活動家や公害病患者たちに,また数多くの市民や研究者たちに,近代の高度に発達した機械文明,資源浪費型社会によって,人類がかみ殺されないように抵抗せよ!公害を発生させ人権を侵しても責任をとろうとしない社会をつくり変えよ!と強く訴えかけてくるのである.
[菅井益郎]

[参考文献]
『田中正造全集』(1~20巻),岩波書店,1977~1980年.
島田宗三『田中正造翁余録』(上下),三一書房,1972年.
『栃木県史 史料編・近現代九』,栃木県教育広報協会,1980年.
『群馬県史 資料編20』,群馬県,1980年.
『古河鉱業創業100年史』,古河鉱業(株),1976年.
五日会編『古河市兵衛翁伝』,五日会,1926年.
『栃木県警察史』(上),栃木県警察本部,1977年.
『埼玉県議会史』(2),埼玉県議会,1958年.
永島与八『鉱毒事件の真相と田中正造翁』,佐野組合基督教会,1938年.
荒畑寒村『谷中村滅亡史』,平民書房,1907年.
鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』,三一書房,1974年.
『足利市史 近代別巻 史料編鉱毒』,足利市,1976年.
菅井益郎「足尾銅山鉱毒事件」『公害研究』第3巻第3~4号(1974年).
東海林吉郎『共同体原理と国家構想』,太平出版社,1977年.
渡良瀬川研究会編『田中正造と足尾鉱毒事件研究』(1~6),伝統と現代社,1978~1983年.
東海林吉郎・菅井益郎『通史足尾鉱毒事件―1877~1984』,新曜社,1984年.