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技術と産業公害

論文タイトル: 第2章:戦後日本の公害
著者名: 星野 芳郎
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第2章:戦後日本の公害

Ⅰ 戦後日本の公害の歴史的背景
―歴史上前例なき高度経済成長―

 およそ自然を破壊し,人間を殺し傷つけ,工場,事業場,住宅,輸送施設を破壊し,人間を飢餓と疾病に追いやり,工場廃棄物を止めどなく外部に放出させ,農地を荒廃させることでは,戦争に及ぶものはない.環境破壊という言葉を広義に解すれば,環境破壊の最大の元凶は戦争である.
 第2次世界大戦や日中戦争において,日本軍国主義は,中国やフィリピンやビルマなどで大量の殺人をおかし,民家を焼払い,戦場となった都市や農村を広範に破壊した.しかし,その日本も,アメリカ軍の空襲によって,大都市はもとより中都市もまた,無差別に破壊され,広島,長崎は核兵器によって一瞬にして破壊され,沖縄もまた地上戦闘によって一部は廃墟と化した.食糧の不足によって,都市に住む人間の多くは栄養不良となり,肺結核をはじめ,さまざまの疾病におかされた.河川の改修は放擲され,水害を防止すべく堤防付近につくられていた竹藪なども切り払われ,農地と化し,多くの河川は洪水に対していよいよ無防備の状態になった.鉄道車輛もまた40%が破壊されたのみならず,その路盤の保守が手薄になっていて,全国にわたって危険が充満していた.
 アメリカ占領軍も日本政府も,戦後は,まずこの荒廃した国土の復興事業にとりかからねばならなかったのである.いわば,大規模に破壊された環境を回復させ,さらに新たな環境のもとに,新しい都市や農村をつくらなければならなかった.
 アメリカ占領軍は,その際,ファシズムとたたかった国際的な世論を背景として,日本軍国主義の政治的経済的基盤を大きく変えようと試みた.たとえば,戦争中はほとんど実質的な活動を禁じられていた労働組合の権利を,大幅に認め,農村では,約3ヘクタール以上の土地の私有を制限し,かつての小作農民や貧農は,わずかの金で,制限外の農地を買いとることができ,約400万人の小農がいっきょに出現した.このために,労働者はしきりに賃金の値上げを要求し,小農は経営上の工夫がただちに自己の収益を増大させたので,栽培法や施肥や機械化などの技術改良につとめ,戦前にくらべて,国内市場がはるかに豊かになる経済条件がつくられた.
 一方,1930年代以来敗戦に至るまで,日本の機械工業の市場の90%以上は軍需で占められていたのであるが,敗戦によって日本の軍部がいったん消滅し,そのうえに,戦後の日本の憲法は,戦争の放棄をうたっていたので,敗戦とともに日本の機械工業は,あげて民需用の何らかの機械を生産しなければならなくなった.
 日本人民の努力によって,都市の焼野原にバラックが建ち,やがてそれが本格的な商店や住宅につくりかえられ,食糧にも衣料にも,いくらかの余裕が生じてくると,戦後の市場と生産の二つながらの変化は,日本経済のかつてない高度成長をひきおこす誘因となったのである.第1次世界大戦後,1920年代にアメリカに爆発的に広がった家庭電化やモータリゼーションの波が,第2次大戦後,まずヨーロッパに,ついで日本にやってきた.電気洗濯機,電気冷蔵庫,トランジスタ・ラジオ,テレビ受像機,ステレオ電気蓄音機,テープ・レコーダ,オートバイ,乗用車等々の耐久消費財の市場が,1950年代後半から拡大しはじめ,各機械企業は,その市場のはげしい争奪戦を演じつつ,大量生産のための設備投資につぐ設備投資を重ねていった.
 大量生産によって製品の価格が下がると,それによって市場が拡大し,拡大した市場はいっそうの量産を要求するというふうに,生産と消費との相互作用が,日本の経済規模をいっきょに膨張させた.企業の規模が急速にふくれあがるとともに,若い労働力が農村から続々と都市に流出し,東京,大阪,名古屋の三大都市圏は,無秩序にふくれあがった.1970(昭和45)年には,日本の人口の44・2%がこの都市圏に集中したのだった.その半面,長く過剰労働力をかかえていた農村では,一転して若い労働力が不足となり,土壌の鋤き返しや田植えや刈取りの機械化が進みはじめた.
 戦前の日本では,四大工業地帯と言って,東京・横浜,名古屋,大阪・神戸,北九州にとくに工場が集中していたのだが,戦後に工業の規模がかつてなく拡大してくると,これらの地帯だけでは,増大する工場群を収容しきれないようになった.政府は1962(昭和37)年に,全国総合開発計画を定め,新しい工業地帯を指定したが,このために,関東地方から瀬戸内海北岸をへて北九州に至る太平洋沿岸ベルト地帯に,工業も人口も集中するようになった.1970(昭和45)年には,この地帯で日本の工業出荷額の84.5%が生産される結果となった.
 1960年代の後半には,工業労働力も不足するようになり,生産部門でも事務部門でもオートメーション化が決定的に進んだ.この頃にはまた,モータリゼーションも本格化した.労働の職場も,家庭の消費生活も,10年余りのあいだに一変した.表2-1に示すように,都市でも農村でも,主要な耐久消費財はあらかた普及してしまった.
表2-1 都市における主要な耐久消費財の世帯当り普及率の推移
表2-2 主要な工業製品の生産量・生産施設・輸入量の推移
 1億人をこえる人口に対して,このように耐久消費財が普及したのであれば,それにともなって,輸送・通信網も拡大し,都市には高層建築が並び立ち,鉄鋼をはじめとする生産財の数量が飛躍的な増大を示すことは当然である.表2-2に示すように,1960(昭和35)年後半以来の主要工業製品の増大ぶりは,驚異的でさえある.
 このために,1960年代の日本の国民所得の成長率は,10%をこえており,同じ時期の欧米諸国の3~5%の成長を,はるかに上回っていることが注目される.
 ところで,これだけ短期間のあいだに,これだけの高度経済成長が実現したからには,そこに当然さまざまの社会問題が発生せざるをえない.日本には原油や鉄鉱石や強粘結炭の資源は,きわめてわずかしか存在しないから,それらの大半は輸入しなければならず,したがって,特に素材供給産業の工場はすべて海岸に立地することになる.しかも,企業は,それらの工場が消費地に近いことをも要求するから,新しい工場群の大半は,東京,名古屋,大阪の都市圏に近い海岸線に建設されたのである.全国総合開発計画では,全国に比較的平均して,産業立地を進めることが考えられていたのであるが,結果としては,大半の素材供給産業は,太平洋沿岸ベルト地帯に展開することになった.それも,海面の安定している東京湾や伊勢湾,瀬戸内海に集中することになった.
 こうして,たとえば,瀬戸内海沿岸に立地する鉄鋼工場の生産能力は,1970年代において,年間7,000万tに近く,これは西ドイツとフランスの鉄鋼生産量の合計とほぼ同じである.同じく石油工場の生産能力は,日産160万バーレルをこえ,これはイギリスの石油生産量とほぼ同じである.石油化学工場でのエチレンの生産能力は,年間180万tをこえていて,これもイギリスの生産量に匹敵している.瀬戸内海の面積は約1万7,000km2で,アメリカの五大湖のなかでも最も小さいオンタリオ湖のそれに近い.そこに,これだけの生産能力が集まっており,しかも1960年代においては,各企業は充分な公害防止設備投資を怠っていたのでは,瀬戸内海及びその周辺の海洋汚染や大気汚染は深刻をきわめるのも当然である.東京湾の場合は,さらにこれに輪をかけている.その面積は瀬戸内海の10分の1にも満たないのに,ここに立地する石油化学工場のエチレン生産能力は年間150万tで,瀬戸内海のそれに近いのである.
 日本人民は努力をつくして,無謀な戦争によって破壊された環境を回復させ,新しい都市や農村の環境をつくりあげたのであるが,環境保全に対する企業や行政の認識の欠如によって,形は異なるが,ふたたび新たな環境破壊が現れてきた.日本は公害先進国とも評されるようになったのである.

Ⅱ 戦後日本の公害の特徴
―見える公害から見えない公害へ―

 高度経済成集の初めの段階―1950年代では,粉塵による公害が目立った.当時,日本の産業の主たるエネルギー源は石炭であったから,集塵施設をつけなかったり,その能力が不足していたりすれば,煙突からは黒煙が吹きあげることになる.1961(昭和36)年当時,鉄鋼都市である八幡では,1日の降下煤塵量は27t,東京湾岸の工業都市川崎では23tと言われた.この黒煙に加えて,鉄鋼工場から排出される赤煙が猛烈をきわめた.戦後に,銑鉄を鋼鉄に変える平炉に酸素を吹きこむ技術が開発され,良質の鋼鉄が生産されるようになったのであるが,その反応の過程でおびただしい酸化鉄が飛散し,それがそのまま大気中に放出された.ついで,オーストリアにおいてLD炉と言われる新しい転炉が開発され,これも酸素を吹きこんで良質の鋼鉄を高能率で生産したのであるが,やはり同じように酸化鉄の赤煙を吹きあげたのである.この際,注目すべきは,原設計においてはLD転炉に付随して集塵機が存在していたにも拘らず,日本の企業は当初それを除外して転炉本体のみを導入したという事実である.それが粉塵公害を決定的に激化させたのであった.
 粉塵がそれだけ大量に環境に放出されるようでは,生産労働の職場では,それは労働者の体内に吸いこまれて,塵肺病をひき起こすことになる.塵肺病は,工場よりも炭鉱,鉱山の採炭,採鉱作業やトンネル内の掘さく作業においてさらに多く発生していたから,政府も,1955(昭和30)年には,その患者を救済する特別保護法を公布せざるをえなかった.同じ年に,東京都は煤煙防止条令を公布するのであるが,これは戦後の日本での粉塵にかかわる最初の条令であった.
 1960年代に入ると,石炭から石油へのエネルギー転換が急速に進んだ.石炭に代わって重油が工場で使われるようになると,黒煙朦々たる状態は,次第に見られなくなった.それでは,公害はおさまってきたかというと,そうではない.石炭の場合もそうだったが,化石燃料にはイオウが含まれているので,その燃焼のさいには,亜硫酸ガスが発生する.石炭がエネルギーの主役であった時代にも,じつは粉塵とともに亜硫酸ガスが人体に被害をあたえていたのであるが,当時は関心は粉塵にむけられていて,亜硫酸ガスはまだそれほど大きな問題になっていなかった.しかし,石油がエネルギーの主役の座にすわると,日本の工業規模の拡大とともに,亜硫酸ガスは大気汚染防止上の重大な問題となってきた.
 100万kWの火力発電所は,年間約130万tの重油を消費するので,重油中のイオウ分を2%とすると,1年間に約5万2,000tもの亜硫酸ガスが大気中に放出されることになる.石油精製工場や石油化学工場からも亜硫酸ガスが放出されるから,1960年代に太平洋沿岸ベルト地帯に続々と建設された石油化学コンビナート周辺では,呼吸器をおかされる患者が続出した.
 伊勢湾岸の四日市石油化学コンビナートは,1959(昭和34)年に操業を開始するのであるが,その1,2年後に早くも呼吸器疾患が増えはじめ,最初は,その土地特有の原因不明の病気として「塩浜病」とも言われた.政府は1963(昭和38)年になってようやく調査団を派遣し,その報告は翌年国会に提出されたが,それを受けての行政上の対策は怠られ,その間に工場の増設・拡張が続いたので被害は拡大する一方となり,四日市市は,1965(昭和40)年に公害関係医療審査会を発足させて,患者の救済に当たらざるをえなくなった.
 亜硫酸ガスには刺激臭はあるが,眼には見えない.戦後の日本の公害の特質は,こういうところに,象徴的に現れている.黒煙は誰の眼にも見える.だから,その汚染源は明確であるし,住民も警戒心を持つ.その点では,亜硫酸パルプ(sp)工場からの排水も同じである.レーヨン用のSPは,原料のチップの重量の38%程度をパルプの繊維とするにすぎないから,もし公害防止設備がなければ,残りの62%は廃棄物となって水中に放出されてしまう.年間10万tのSPを生産する工場は,16万t余りの廃棄物放出工場でもある.その赤黒い排水は,川にも海にも限りなく広がって,公害は一目瞭然である.こうして1950年代には,パルプを初めとするさまざまな工場排水によって,河川や河口が眼に見えて汚染され,水産被害が目立ち,1958(昭和33)年に水質保全法及び工場排水等規制法が,施行されざるをえなくなった.
 しかし,高度経済成長期に開発された技術にともなう廃棄物には,眼に見えず,それと気づかぬうちに生物や人体をおかすものが少なくない.水俣病は,四日市喘息よりも,さらにそのような特徴を現している.そのうえに,水俣病の原因となった有機水銀は,水中にいったん拡散しても,プランクトンや魚貝類の濃縮作用によって,それぞれ体内に蓄積され,人体内に入ってくる際にはかなりの高濃度に達してしまう.また,水俣病をひきおこした有機水銀は,むろん廃棄物には違いないが,亜硫酸ガスやパルプ廃棄物ほど,大量に水中に排出されたわけではない.水銀は,アセトアルデヒド生産の触媒に使われていたのであり,その触媒の一部が排水にまじって不知火海に流出したのである.
 さらに,水俣付近には大プラントと言えば,チッソ工場ぐらいしかなかったので,海は,少なくとも見た眼には,瀬戸内海や東京湾のようには汚染されていない.だから魚は豊富に獲れた.それで,有機水銀はまず魚貝類を毎日大量に食べる漁民たちの体内に侵入した.そして,体の変調に気づいた時には,有機水銀はすでに脳細胞の一部をおかしていたのである.
 1967(昭和42)年に,その汚染源が神通川上流の神岡鉱山にあることが分かったイタイイタイ病の場合も,汚染物質であるカドミウムは,何の自覚症状もなく体内に侵入し,患者の骨をおかしたのである.神通川から分かれて農村を四通八達する用水は,カドミウムを含んでいたが,見た眼には清澄で,農民たちは,その水で野菜や農具や衣類を洗うだけでなく,米をたく水にも飲み水にも使っていたのである.
 1968(昭和43)年頃から北九州を中心として広がったPCB中毒の場合は,脱臭工程で熱媒体として使われていたPCBが,ピンホール程度の小孔から米ヌカ油の原料中に洩れ,それが人間やニワトリの体内に侵入し蓄積したのであった.
 このような形で発生する公害は,体の変調に気づいた後では,すでに手遅れであることが多い.だから,新しい技術を開発するさいには,あらゆる手段をつくして,それにかかわる製品が生物や人体に及ぼす影響を調査しておかなくてはならない.そして,疑わしき物質は広く使用しないことが賢明である.時機を失しはしたが,日本政府もPCBの生産を禁止し,工業触媒としての水銀の使用を抑制する行政指導を行わざるをえなくなった.逆に言えば,企業も政府も自治体も,環境汚染の恐ろしさについて認識を欠き,高度経済成長のなかで,生産能率だけに注目して新技術を採用したことが,このような被害を発生させた原因だと言うべきであろうか.
 つぎに,戦後の日本の公害を特徴づけるものは,各企業のプラントが,欧米のそれをしのぐほどに巨大化したうえに,それらが狭い土地に集中する一方,都市もまた巨大化し,産業廃棄物,都市廃棄物ともに集中的に大量に排出され,それが自然環境を大きく破壊していることである.
 東京湾岸にはぐるりと埋立地が並び,自然のままの海岸は,ほとんど見られなくなってしまった.瀬戸内海においても,全海岸の20%に近い割合が,工揚によって占拠されてしまっている.それは,巨大プラントが,これらの地域に先を争うように進出してきたためである.短期間にこれだけの海岸がコンクリート化してしまったのでは,海の状態は大きく変化せざるをえない.
 瀬戸内海では,このために,海藻が生い茂っている藻場が埋め立てられてしまって,魚類は産卵場を失い,生態系は大きく変化した.日本人に好んで食べられ,高級魚とされているマダイ,クルマエビ,タコなどの漁獲は年ごとに減少し,汚染に対して比較的抵抗力のあるカタクチイワシやイカナゴの漁獲量が増大した.埋立ても,農業用地造成のための干拓のように,海底を自然に干上がらせるような場合は,その部分の藻場だけが消滅して,被害はさほど他の水域にまでは広がらない.また海中に土砂を投じたとしても,農業用地のように,新たな斜面が海中につくられる場合は,いずれその斜面に藻場が再生して,自然環境は変化はするが,それなりに生態系のバランスはたもたれる.
 しかし,巨大なタンカーや鉱石船を工場用地に横づけできるように,20メートル近いコンクリート壁を海底にきずいたのでは,藻場はもう再生することはできない.そのうえ,海岸が次々に埋め立てられる速度が余りに早いと,海の生態系は新しく回復する余地を失い,生態系のバランスは狂ってしまう.瀬戸内海では,17世紀の初め以来,河川のデルタ地帯に干拓がつづけられ,明治維新以後は,それに加えて,埠頭や工場用地が建設されたが,それでも埋立てが進む速度が早すぎるということはなかった.だから,瀬戸内海の生態系は変化しながらも,漁業に大きな打撃をあたえるほど,そのバランスをくずしはしなかった.しかし,図2-1に見るように,1945(昭和20)年以来,事態は一変した.江戸時代の約300年をつうじて,農業用地の干拓のために,1万9,000haの土地が造成されたと言われるが,戦後わずか28年のあいだに,それに近い1万8,000haの土地が埋め立てられたのである.
図2-1 瀬戸内海における土地造成の拡大
 そして,工業用地が造成されれば,そこに大工場が並び立ち,工業製品とともに廃棄物をも大量生産し,打撃をうけた生態系の上に汚染がかぶさっていく.瀬戸内海では,内湾の工業地帯付近のみならず,内海中央部にも海底生物(ベントス)の存在しない水域が生まれつつある.
 工業地帯の膨張が環境破壊をもたらしていると同様に,都市の膨張もまた,深刻な環境問題を起こしている.自動車その他による排出ガスによる大気汚染や騒音にくわえて,各家庭が排出するゴミの量が急速に増えている.東京都では市民1人1日当りのゴミ排出量は,1960(昭和35)年において約400gであったものが,1970(昭和45)年には1kgをこえ,1977(昭和52)年には1.7kgにも増大している.その増大の主たる原因は,スーパー・マーケットなどの包装用プラスチックや,ジュースなどの金属製空缶であり,流通機構が無人化し自動化すればするほど各家庭のゴミ発生量が増大することを示している.1970年代における東京都の1日当りゴミ発生量は約1万6,000tであり,そのゴミの投棄のために,東京湾岸をさらに埋め立てる計画が進んでいる.
 1970年代以来,戦後の高度経済成長も,耐久消費財市場の飽和とともに,ようやく頭打ちの状態に入った.とくに素材供給産業の経済的不振が目立ち,プラントの稼動率は大幅に低下している.そのために,工業廃棄物の排出量もまた頭打ちとなり,海洋汚染については,やや小康状態をたもっているが,破壊された自然の回復は遅々たるものである.
 公害病におかされた人体もまた,多くの場合,元の健康体に戻ることはむずかしい.政府によって公害病患者発生地域として指定された地域で,患者と認定された人の数は1980(昭和55)年において8万1,222人,認定された水俣病患者,イタイイタイ病患者,慢性砒素中毒患者の数はそれぞれ1,893人,42人,121人である.さらに医者がキノホルムを大量に投与したために中毒におちいったスモン病患者の数は1万1,007人に達し,PCB中毒患者の届け出は1万3,000人をこえたのである.
 これらの患者のうち,特に重症である者は病気であることが一目で分かるが,次第に軽症になってくると,ちょっと見た眼には患者とは分かりにくい.しかし,発作が起こった時はもとより,日常的にも患者の苦痛には耐えがたいものがある.そのうえに,その症状は,公害とは直接には関係のない通常の病気の場合に似ている点もあるから,いよいよ公害病患者であるか,どうか,容易には判定しにくいことになる.こうして,患者が働いている職場や家庭生活にまで医者が立ち入らないと,公害の真実はとらえがたい.汚染物質の発生や人体内への侵入が,眼に見えないばかりでなく,それによって公害病におちいっても,軽症であれば,なおかつ通常の病気とは区別がつきにくい.これが,戦後日本の公害の第3の特質である.
 したがって,水俣病をはじめとして,政府によって公害病と認定されない患者の数はきわめて多い.それも政府に認定申請をしている人の数にすぎず,実際には,公害病でありながら申請の手続きをとらず,あるいは公害病の自覚もない人の数もまた多いであろう.
 日本では現在12カ所の原子力発電所(総出力155/万kW)から,少量ずつ放射能が環境に洩れ出ているが,そのうち半減期の長いものが次第に蓄積されるようになると,通常の病気とは見分けにくい放射能中毒患者が増大する可能性がある.1960年代にくらべれば,ずっと毒性が低下したとはいえ,各種の農薬は依然として,全国土にわたって散布されており,複合汚染として有毒物質を体内に侵入させる媒体となる可能性を持つ合成洗剤もまた,至るところで使われている.それらが長期にわたって環境に存在し,生物や人体と接触しつづけた場合,どのような状態が生じるか,それもまた未知の問題であり,長期にわたる安全が確認されているわけではない.また,食品添加物や医薬品の大量使用も依然として改められておらず,それが人体に直接にどのような被害をもたらすか,これもまた憂慮されている問題である.誰の眼にも見えるような公害は,住民運動や行政の対応によって,次第に抑制されていくが,眼に見えにくい公害が,今後どこまで深刻なものとなっていくかどうか,今はまだ予断しがたいものがある.

Ⅲ 公害に対する住民と行政の対応

 戦後の日本で,このように公害が猛威をふるったについては,収益の増大を求めて,ひたすら生産の拡大と生産能率の上昇をめざした企業や政府に責任があることはもちろんだが,住民の側に基本的人権の意識が薄く,また生活の近代化の魅力に眼を奪われて,それを許したこともまた否定できない.
 1960年代までは,工場用地を造成するために,農民から土地を,漁民から海面の漁業権を取りあげることは,企業にとっても政府にとっても容易であった.住民の不満は,国のためとか土地の繁栄のためとかの言葉で抑えられてしまった.また,工場が操業を開始して,明らかに公害が発生しはじめたにも拘らず,企業も政府も自治体も,最初はその事実を否定し,否定しきれなくなると過小評価し,それもむずかしくなると,住民の救済というよりも企業の救済を考え,住民の権利擁護のためというよりも,治安対策のために何らかの妥協を講じるのが通例であった.この点では,企業や行政のふるまいは,戦前とは違って自ら民主主義の旗をかざしているにも拘らず,やはり戦前の軍国主義下のやりかたと,本質的に変わりはない.
 しかし,かりに民主主義が形式にすぎないとしても,住民の側からすれば,それは自己の基本的人権に目覚め,人権をつらぬく拠りどころとなる.環境汚染に反対する住民運動は,すでに1954(昭和29)年に,アメリカの水素爆弾の実験による核分裂物質の降下への抗議として,全国に爆発的に広がった.
 1960年代に入って,国内の工場群による公害が年を追って拡大してくると,水俣病や四日市喘息に関する報道が新聞の紙面をにぎわしはじめ,各地の住民は,すでに被害の生じているところでは,その責任を追及し賠償を要求する運動を起こし,住民や自然環境を無視して強引に工場を建設しようとする企業に対しては,はげしく抵抗しはじめた.1964(昭和39)年に太平洋岸の駿河湾奥の三島・沼津に石油化学コンビナートがつくられようとしたが,住民はこれに反対し,ついに計画を中止させてしまった.
 1960年代末からは,公害に反対する住民の意識は,全国にわたって熾烈なものとなった.特に水俣病患者やその支援者たちの粘り強い運動や,三里塚空港建設のための土地取り上げに抵抗する農民の運動に対して,全国の住民は注目し,それらの運動にはげまされて,それぞれの土地でそれぞれ独自のやりかたで,公害に対して鋭く反対した.
 公害は重大な政治問題となった.1970(昭和45)年の国会は,改正公害対策基本法,公害罪など公害関係の14の法律を可決し,それにもとづいて,翌年に環境庁が発足した.住民の側にも,無条件に近代化を讃美してきたことへの反省が広がりはじめた.新幹線の騒音に反対してみると,なぜ,誰のために新幹線が必要なのか,なぜ早いことが良いことなのかという根源的な疑問が生ぜざるをえない.そして生産施設についても,消費生活についても,基本的人権の視点から,その功罪を見つめざるをえなくなってくるのである.
 日本の明治維新は,間接的には,封建制下の領主に抵抗する農民運動の圧力によって実現した政治変革ではあるが,直接的には下級武士による上からの政治改革という要素が強く,この時点では,市民革命と言えるほどの市民の自覚は,ごく一部にとどまっていた.1945(昭和20)年の敗戦によって,日本軍国主義はいったん消滅し,民主主義が政治の根底に据えられたとはいえ,それもファシズムに反対する世界の世論の圧力をうけて,占領軍が持ちこんできたようなものである.
 戦後の労働の民主化,土地改革などによって,労働者や農民の職業上の権利意識は確かに高められたが,市民が自ら自治体をつくるという市民意識は未だ充分には高揚しなかった.その市民の意識は,1960年代末から全国に広がった公害反対運動において,はじめに本格的に高められだしたという観がある.しかも,水俣病をはじめとして,被害者が他人から救済されるのを待つのではなくて,自ら運動の先頭に立つ場合が多く,傷ついているにも拘らず,自らの足で立つという被害者の姿勢は,他の市民や労働者にも大きな影響をあたえたのである.
 日本人民のそのような意識の変化にささえられて,熊本水俣病,新潟水俣病,イタイイタイ病,四日市公害にかかわる四大公害裁判は,1971(昭和46)年から1973(昭和48)年にかけて,いずれも原告側の勝利に帰した.しかし,裁判に勝って賠償金を手にしても,傷ついた肉体は元に戻ることはできない.公害裁判の教訓は,公害を未然に防ぎ,二度とこのような犠牲を生じさせないようにすることが先決,ということであった.1970年代からは,賠償要求のみならず,工場や発電所の建設や操業の中止を迫る差止め請求の訴訟が増大してきた.だが,企業や政府としては,それは自己の経営や行政の基本理念の変更を迫られ,政治経済の大きな変革につながるものだけに,差止め請求の裁判においては,住民の前には厚い壁が立ちはだかっている.
 だが,政府もまた,従来の高度経済成長一本槍の政治に対して,少なくとも形の上だけでも,何らかの手直しを講ぜざるをえなかった.政府は1969(昭和44)年に,全国総合開発計画の次の段階として,新全国総合開発計画を発表したが,それはさらに飛躍的な高度成長を実現しようというものであり,1970(昭和45)年代に入ると世論の袋叩きにあう状態となった.また,行政上の事実としても,三大都市圏の水や電力や廃棄物に関する行政は,都市人口がなお増大しつづけば麻痺する可能性があり,政府は新全総の見直しをはじめ,1977(昭和52)年に,新全総の理念とは大きく違う第三次全国総合開発計画を発表した.三全総は,居住環境の整備,国土の保全と利用,経済社会の新しい変化への三つの基本目標をかかげたが,その最後の「対応」のなかで,たとえば次のように述べている.
 「四半世紀にわたって世界にも例のない高度成長を続けてきたわが国経済は,内外環境の変化によって,新しい段階へと移行しつつある.その中で,国民ひとりひとりの価値観や欲求は多様化し,多元化してきており,生活の安全性や安定性の確保など生活の質的充実,うるおいのある生活環境が強く求められている.」
 新全総では,「情報化社会といわれる新しい未来への転換期」に際して,「情報化,高速化という新たな観点から国土利用の抜本的な再編成を図り」とうたわれたものだが,三全総では,そうした言葉は全く見られず,「住民ひとりひとりの創造的な活動によって,安定した国土の上に総合的居住環境を形成すること」が強調されている.とはいえ,今のところ,そのための行政上の転換は,ほとんど行われてはいない.今一度の高度経済成長への幻想は消えず,日本の公害の抜本的解決への道はほど遠い.

[参考文献]
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[星野芳郎]