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技術と産業公害

論文タイトル: 第5章:三池炭塵爆発事件
著者名: 星野 芳郎・飯島 伸子
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第5章:三池炭塵爆発事件

Ⅰ エネルギー転換と労働者

 三池炭鉱の開発は,明治維新以前から行われていたのだが,維新後の1872(明治5)年,炭鉱は国営のもとにおかれた.国営以後,三池炭鉱の役人たちは,囚人労働を大量に使った.1888(明治21)年には,総労働者数3,103人のうち,2,144人が囚人で,前者の69%を占めていた.1890(明治23)年に,三井鉱山会社は,国家から正式に三池炭鉱の払い下げを受けるが,三井はその際,その囚人労働力をそのまま引き継ぐことを希望した.囚人であれば,牛や馬のように酷使でき,賃金も安く済み,労働者の募集費は不要だったからである.
 実際には,三井鉱山会社が三池炭鉱の経営を始めると,まもなく,囚人労働の数は急速に減っていった.だが,それでも1930(昭和5)年まで,三池炭鉱では囚人労働が続けられていた.三池炭鉱は,日本では最も自然条件の良い炭鉱であるが,労働者の使われかたはひどいものであった.それは,炭鉱の近代化が大量の囚人労働によって開始されたという歴史に規定されていると思われる.
 日本軍国主義は,1931(昭和6)年に中国への侵略を開始したのであるが,戦線が大陸に拡大するに及んで,労働者は兵隊として続々と戦場に投入され,炭鉱でも労働力の不足が目立ってきた.その不足を補ったものが,まず朝鮮人労働者であり,やがて中国兵の捕虜もまた炭鉱に投入されるようになった.これは事実上,かつての囚人労働の復活というべきものであった.
 1945(昭和20)年,日本が戦争に敗れると,朝鮮人・中国人労働者は連合軍によって解放され,炭鉱から引き揚げて行った.日本の石炭の生産量は,1941(昭和16)年に5,560万トンに達していたのだが,敗戦の翌年にはわずか2,252万トンと,ピーク時の40.5%に激減してしまった.敗戦直後の三池炭鉱でもまた,炭鉱の一つ,三川鉱の日産量は,ピーク時の4,000トンから300トンにまで落ちこんだ日もあった.
 日本の炭鉱の戦後の再編成は,このような状態から始められたのであった.日本の産業全体の復興からいっても,石炭産業は重要な位置を占めるはずであったが,アメリカ占領軍は当初から石炭にはあまり関心を持っていなかった.日本政府は,国内炭の原価と,国際市場価格との開きが余りに大きいため,その価格差を埋めるために,国家予算をさいて価格差補給金を石炭産業に与えもしたのだが,1949(昭和24)年の占領軍の勧告で,それは打ち切られてしまった.また,アメリカの対日援助資金にもとづいて,基幹産業に重点的に投じられる見返資金も,石炭産業に対しては,1949(昭和24)年の1年限りで打ち切られてしまった.国内炭の価格が上昇すれば,それは鉄鋼や電力の価格にもはねかえって,それらを押し上げることになるのだが,その事態に対しては,占領軍は外国石炭の使用制限を廃止し,C重油の使用制限をも廃止するという行政によって答えた.日本の石炭産業の戦後の衰退は,すでにこの時点で運命づけられたような観がある.
 1950(昭和25)年1月,占領軍は,太平洋岸製油所の操業再開と原油輸入を許可する覚書を発表したが,その直前にすでに,スタンダード・バキューム,カルテックス,タイド・ウォーター,シェルなどの大石油会社は,日本の石油各社と資本提携を開始していた.この頃から,中東での巨大油田が続々と開発され,石炭から石油へのエネルギー転換は,国際的な規模で動きはじめていたのである.
 占領軍だけでなく,日本の財界もまた,石炭から石油への転換に双手をあげて賛成した.だが,炭鉱労働者は,自己の労働の権利を守るために,総力をあげて反対した.その最強の拠点が三池炭鉱であった.1959(昭和34)年から1960(昭和35)年にかけて,あたかも総資本と総労働との対立のような,激烈な争議が三池炭鉱に起こった.争議は労働者の敗北に終わった.約1,200名の労働者が職場を去らざるをえなくなった.そして,炭鉱労働者の抵抗を突破してからは,日本でのエネルギー転換は,世界のどこよりも激烈に進んだ.表5-1に見るように,一次エネルギー供給量のうち,石炭の比重は,1955(昭和30)年において49.2%を占めていた.それが三池争議の終結後,あっというまに激減し,1975(昭和50)年には,わずか16.4%となり,代って石油は,20.2%から73.3%に激増したのである.
表5-1 一次エネルギー供給構成比の推移
 このようなエネルギー転換の過程で,各炭鉱は,石油に対抗して石炭価格を下げるべく採炭能率の急速な上昇を強いられた.三池炭鉱の全鉱員当たり月間採炭量は,1958(昭和33)年6月の14トンから1963(昭和38)年10月の44トンにはね上がった.三池炭鉱のほとんどすべての採掘炭は,三川坑の第一斜坑のベルト・コンベアによって坑外に運搬されるが,その量は増大の一途をたどった.1958(昭和33)年には,それは1日6,000トン余りであったが,1962(昭和37)年には1万トンをこえ,1963(昭和38)年の10月にはさらに,1.3万トンをこえるに至った.
 それにともなって炭塵爆発の可能性をはらむ堆積炭塵量もまた倍増したから,炭塵処理対策はそれだけ強化しなければならないにも拘らず,事態は全く逆に動いた.第一斜坑には,12台のベルトがあり,それぞれの原動機に各1名,それに炭塵処理のための散水,清掃,岩粉散布要員として5名,計17名が三池争議前には配置されていた.しかし,三井鉱山会社は,三池争議の終結後,この17名の要員をわずか2名に減らしてしまったのである.
 三池炭鉱は,増産にむけてまっしぐらに進み,保安要員のみならず,運搬,工作,機械などにかかわる坑内間接員を減らし,坑外労働者もむろん削減し,あげて採炭部門に労働者をつぎこんだのである.当然にも労働災害は激増した.1961(昭和36)年には,16名の労働者が死んだが,これは1951(昭和26)年以来の最高であった。同じ年の重傷者の数は1,922名であったが,これは1949(昭和24)年以来の最悪の事態であった.1日稼働1,000人当たりの死傷者数は,表5-2のように増大した.1960(昭和35)年11月では,争議後の再編成が軌道にのっておらず,労働者の稼働状態も充分ではなかったので,1,000人当たりの死傷者数は0.4に落ちこんだが,翌月にはそれが,いっきょに1.2に飛躍した.三池炭鉱の労働者が最悪の日をむかえる前兆は,年ごと月ごとに濃厚になっていたというべきであろう.
表5-2 三池炭鉱における稼働1,000人当り死傷者数

Ⅱ 炭鉱の近代化と労働者

 炭鉱の生産性の増大は,むろん採炭部門の強引な強化や労働密度の上昇によるだけではない.石炭産業は石油産業という強大なライバルの圧力のもとで,近代化・機械化を急がざるをえず,戦前にくらべれば,飛躍的に採炭・運搬などの機械化が進んだ.労働の酷使は,それとともに増したのである.
 戦後の日本の炭鉱の機械化は,1948(昭和23)年に鉄製のカッペ支柱と,切羽に走る平型コンベアとを西ドイツから導入した時に始まる.採炭速度が遅すぎると,取りつけ放しになっているカッペは,磐圧に耐えかねて曲がってくるので,労働者はそうならぬうちに,カッペを移さねばならず,したがって採炭能率を上げざるをえない.
 次に,1956(昭和31)年にホーベル採炭のシステムがやはり西ドイツから導入された.ホーベルは従来のカッターと同様に,炭壁の下端を切りとるものであるが,強力なビット(刃物)を多数そなえていて,カッターよりもはるかに大きく下端をえぐる.そのために炭壁はおのずから崩壊して平型コンベア上に落下し,つぎつぎと切羽外に輸送される.コンベアは水圧で常に炭壁に押しつけられているので,ホーベルが炭壁をくずすにつれて,コンベアはホーベルもろとも炭層に向かって前進する.従来はまず,さく岩機で炭壁に小孔をうがち,火薬をつめ爆発させて炭壁をくずしたが,ホーベル採炭は,そのような工程を大幅に省略したのである.
 切羽の進行速度は,これによって約2倍上昇したが,そのために天磐をささえる支柱の移設速度を早めることが要求され,支柱を抜いたり立てたりする作業に水圧が導入されるようになった.この水圧支保によって,ホーベル採炭を軸とする切羽機械化はバランスがとれるようになり,カッペ導入以前にくらべて,切羽の進行速度は約4倍に向上した.それは当然にも,切羽から炭車へ,炭車から斜坑コンベアへ,あるいは立坑エレベーターへの石炭輸送システムを大きく変えることになった.
 炭鉱の機械化によって,生産速度がこれだけ速くなってくると,労働者の動作もそれだけ早まらざるをえず,危険を注意する余裕も失われざるをえない.炭鉱は地上の工場と違って,いかに機械化が進んだところで,肉体労働が監視労働に替るようなケースは少ない.労働者はあちらの機械からこちらの機械へかけまわらねばならず,そのかけまわる労働環境が地下の坑内であるから,労働災害は,機械化によってかえって増大する傾向をまぬがれない.
 炭鉱での労働環境は,地上の諸工場からは想像できぬほど悪い.土圧は常に坑道内の労働者を押しつぶそうとしている.土圧をささえる坑木が弱まれば,岩石は労働者めがけて天磐から落下する.地下深く採掘するために,いつどこで突然水やメタン・ガスが噴出するかもしれず,炭層そのものは,その本性上自然発火を呼びやすい.土と水と火とが不断に労働者をおびやかし,しかも,その危険は密室に近い地底の空間に充満しているのである.そこへもってきて,石炭や材料を運搬する炭車や鉱車の軌道,各種のコンベアがクモの巣のようにはりめぐらされており,輸送の上の危険にみちている.坑道や炭層での掘進や採炭のつど,炭塊や岩塊が労働者をおそい,炭粉や岩粉は,労働者の肺臓深く吸いこまれる.このような炭鉱で,生産量の増大のために,保安が無視あるいは軽視されたのでは,労働災害が,機械化によってこそ,かえって増大するのは当然であろう.
表5-3 日本の産業別労働災害度数率
 三池炭鉱でも,労働組合の保安を守る運動が盛んであった1959(昭和34)年においてさえ,1万1,711人の在籍人員のうち,死者1人,重傷者1,190人,軽傷者1,753人の死傷者を出さざるをえなかった.在籍人員に対する死傷者の比率は25%に達していた.そして,三池争議終結後の1961(昭和36)年には,1万946人の在籍人員のうち,死傷者は4,230人に増大し,その比率は38%をこえたのであった.
 日本の炭鉱や金属鉱山での労働災害の頻度は,このようにして,地上の機械工場や化学工場にくらべて1桁から2桁は高い.表5-3に見るとおりである.
 そして,炭鉱における異常なほどの危険の頂点をなすものは炭塵爆発である.19世紀末から20世紀初めにかけて,欧米でも日本でも大量採炭が進むにつれて,続々と炭塵爆発が起こった.1906(明治39)年のフランスのクーリエ炭鉱の爆発では1,000人余の労働者が死んだ.この事件の衝撃によって,炭塵爆発の危険性が全ヨーロッパに認識され,これ以後,欧米での爆発件数は次第に減少にむかった.しかし,日本ではその後も爆発は減少せず,国際的な経験は,戦後であってさえ,日本の炭鉱経営者の教訓にはならなかった.先にも述べたように,三池争議終結後,三池炭鉱では保安要員をも採炭部門に投入して,ひたすら生産量の増大をはかった.第一斜坑での炭塵爆発を防止するための要員も大幅に削減されてしまっていた.三池炭鉱は,炭塵爆発についてはほとんど無防備の状態になっていた.1963(昭和38)年11月9日,三川坑第一斜坑において,大炭塵爆発は起こるべくして起こった.458人の労働者が死に,839人の労働者が一酸化炭素(CO)中毒におちいったのである.これは,保安を軽視ないしは無視した炭鉱近代化の当然の結果である.

Ⅲ 炭鉱での最悪の事故――炭塵爆発――

 炭鉱によらず,工場,事業場にあるいはコンビナートの設計や運用において,まず重視すべきは,そこでの最悪の事故に対して,いかに対処するか,常に充分に考えておかねばならぬということである.炭鉱の場合,その最悪の事故は,炭塵爆発である.その理由は二つある.
 一つは,爆発による破壊の規模が,炭鉱でのどの事故にくらべても,ずばぬけて大きいということである.炭鉱での爆発にはメタン・ガスによるものがあるが,このガス爆発は,炭層内部から発生してきたガスが,たまたま排気坑道に充満したような場合を除けば,まず局部的な破壊で終わる.ところが,炭塵の場合は,切羽の排気側には,切羽で石炭を採掘するさいに発生する炭塵が気流に乗って浮遊していき,坑道の下磐はもちろん,天井にも側壁の枠上にも堆積する.また入気側でも,坑口にむけてコンベアや炭車で石炭が運ばれる途中で,炭塵がこぼれ落ち,あるいは風で吹きあげられた微細な炭塵が運搬坑道に堆積する.こうして炭塵は,切羽から坑口まで全坑にわたって堆積しつづけるということになる.
 したがって,どこか1ヵ所でも小爆発が起これば,どこにでも堆積している炭塵が爆風によって吹き上げられ,炭塵雲が形成されると同時に,爆発による火?も走っていくから,炭塵爆発はつぎつぎに伝播し,入排気の両坑口に爆?を吹きだすという大爆発が起こり得るのである.
 炭塵爆発が最悪の事故だという第二の理由は,爆発にともなって,一酸化炭素が大量に発生し,これが多数の労働者を中毒死させたり,長く後遺症を残す中毒症状におちいらせるということである.メタン・ガスの爆発においても,ガスが濃ければ一酸化炭素を発生させるが,ガスそのものの存在量は比較的少なく,また広い区域に存在しているわけでもないので,一酸化炭素の発生量も少なく,比較的早く空気でうすめられてしまう.だが,炭塵爆発の場合は,そうはいかない.炭塵はガスとは違って固体であり,完全燃焼しにくく,また濃密な炭塵雲が形成されれば,酸素も不足となるので,ここに大量の一酸化炭素が発生する.そして,かりに爆発が全坑に及ばなくても,一酸化炭素は入気とともに全坑をまわり,坑内の労働者の全部が一酸化炭素(CO)中毒におちいる可能性もあり得る.事実,1963(昭和38)年の三池炭鉱での炭塵爆発は,このような事態をもたらしたのである.
 三池炭鉱の炭層には,メタン・ガスはほとんど含有されていない.したがって,三池炭鉱ではガス爆発の可能性は少なく,まずガス爆発が起こって,それが炭塵爆発を誘発する可能性も小さい.したがって,ここでは,何かの圧風によって堆積炭塵が舞い上がり,同時に火源が生じて炭塵爆発が起こるというのが,最悪の事故である,炭塵が全坑にわたって堆積し得ることはすでに述べたが,圧風と火源とが同時に発生し得る箇所は,三池炭鉱においては,二つ考えられる.一つは切羽であり,もう一つは斜坑である.
 三井鉱山会社は,第一斜坑における炭塵防止対策において,いちじるしく怠慢であった.炭塵爆発を防止するには,堆積炭塵を掃除して除去し,あるいは散水して圧風による炭塵の飛散を抑え,また炭粉を散布して,たとえ炭塵が舞い上がったとしても,石炭の粒子と粒子とのあいだに不燃性物質を介在させて燃焼の連鎖反応をくいとめることが必要である.
 だが,それにも拘らず,第一斜坑の堆積炭塵については,ほとんど何の炭塵爆発防止策も講じられなかったと言っても過言ではない.労働者たちが福岡検察庁で供述したところによると,斜坑の枠上でも高圧スイッチ操作盤の上でも,爆発当時には1センチから2センチもの厚さで炭塵が堆積し,側壁も炭塵で黒く汚れていたという.福岡鉱山保安監督局の指示によって,堆積炭塵を週1回清掃するように定められていながら,実情は,2週間か3週間に1回しか掃除をせず,それも手の届かぬ高所や眼に見えにくいところは放っておかれた.何かの偶然さえ起これば,大炭塵爆発が起こり得る条件は,充分にととのっていたのである.

Ⅳ 1963(昭和38)年11月9日,三池炭鉱爆発す

 1963(昭和38)年11月9日午後3時12分,第一斜坑の坑底から,石炭採掘の際の硬[ズリ](岩石片)を積んだ鉱車が,10輛編成で巻上げられつつあったが,3輛目以下のどれかの鉱車が脱線し,巻上げに対して強い抵抗がかかったために,3輛目の連結環が破断した.坑口から約1,180メートルの地点から,8輛の鉱車が坑底めがけて逸走しはじめた.約360メートル走り,秒速約33メートルまで加速されたところで坑道の鉄製のアーチ枠などを引き倒しながら,全車輛が脱線?覆したが,その瞬間,轟然たる炭塵爆発が起こったのである.
 逸走した8輛の鉱車は,周囲に激しい風を巻き起こし,それが斜坑内の堆積炭塵を空中に浮揚させ,朦々たる炭塵雲が形成されたのであろう.そして,鉱車の脱線?覆の際に,その車体と鉄枠などとの衝突によって摩擦火花も生じたであろうし,また衝突によって高圧ケーブルが損傷したので,そこから溶損火花も発生したであろう.火花は炭塵雲に着火し,爆発が起こり,坑口にむかった爆風は,最初の爆発位置から約100メートル離れた地点で,強力な二次爆発を発生させた.坑口での爆風の速度は,秒速1,000メートルに達したと推定されている.坑底にむかった爆風は,それ以上の爆発を引き起こしはしなかったが,爆発にともなって発生した大量の一酸化炭素は,入気の気流に乗って全坑内に広がり,大規模で悪質な一酸化炭素中毒を発生させたのである.
 当時,坑内では,二番方(午後2時から10時までの勤務)の労働者が,早いところは作業を始めており,遅いところは入坑中であり,一番方(午前6時から午後2時まで勤務)の残業者と常一番(昼間勤務)の労働者は,作業が終わって昇坑の途中であった.炭塵爆発の範囲は斜坑に限られたから爆死者は20名にとどまったのであるが,坑内に流れだした一酸化炭素によって,438名の労働者が急性中毒で死亡,839名が中毒に侵された.坑内にあった1,403名の労働者のうち,死傷者の数は,じつに1,297名に達し,歴史上,世界の10大炭鉱事故に入るほどの大惨事となったのである.
 おどろくべきことには,三井鉱山会社は,三池の労働者たちに対して,炭塵爆発の危険についてほとんど知らせなかった.一方,労働者たちは,炭塵爆発は,メタン・ガスの爆発によって誘発されるもので,単独では起こらないものと信じていた傾きがあった.三池の炭層にはメタン・ガスはごくわずかしか含有されていない.だから三池炭鉱では爆発事故は起こらないと思いこんでいたのである.大惨事はその迷信をあとかたもなく打ち砕いてしまった.もし経営者が,炭鉱の最悪の事故について,平素から考慮し,労働者に教育していたら,また,労働者が迷信にとらわれなかったら,かりに爆発事故が生じたとしても,労働者たちは適切に避難し,被害ははるかに少なく食い止めることができたであろう.
[星野芳郎]

Ⅴ 有毒「跡ガス」をめぐる問題

 死傷者の内訳からもわかるように,被害者数は一酸化炭素中毒者の発生によって巨大にふくれあがった.言いかえれば,炭塵爆発の結果必然的に発生する一酸化炭素ほか有毒跡[あと]ガスを遮断しさえすれば,被害の及ぶ範囲は爆発地点にとどめられ,最小の犠牲で済んだはずなのである.
 しかし,鉱山側はそうしなかったし,また前もって労働者に跡ガスのこわさを教育する義務も怠っていたと考えられる.三井鉱山会社では,炭塵爆発の起きることはないとのマイナス教育ばかりが行き届いて,炭塵爆発に付随して発生する跡ガスについての教育も無用のことと考えられていた節がある.
 三井鉱山会社がもし,炭塵爆発に伴う跡ガスの発生と,それによる無傷の状態での中毒死者多発の関係について知らなかったとすれば,これはこれで炭鉱経営者として無責任きわまりないことになる.従来,国内外で発生した炭塵爆発事故では,犠牲者の大半は爆風や爆?による直接死ではなく,身体は無傷のままで跡ガスに侵されて死亡するかあるいは助かっても重症の中毒症状が続く例がほとんどだったからである.
 三井炭鉱会社は知っていた.知っていたが,坑内の約1,400人の労働者を跡ガス被害から未然に救出するための有効な対策を一切とらなかったのである.その言い分は,爆発後の坑内の状況が,電話が不通になったこともあって不明であり,坑外の従業員を入坑させるにも危険が大きかったからである,というものだ.危険とわかりきっている坑内に閉じこめられている1,400人の労働者を,どうせ助からないものとして見放したということになる.
 これに対して現場の労働者は怒る.――責任者が酸素ボンベでも背中にかついで,とっさに坑内に飛びこんでくる気持があったのかどうか,その辺が問題ではないのか,と.
 地上で経営者が身を安全な所に置いているとき,地下350メートルから450メートルの全長80キロメートルにおよぶ海底坑道では,爆発を知らなかった1,200人の労働者たちが,突然の停電と電話線の不通になった中で右往左往していた.図5-1は,爆発の起きた三川鉱の断面図であり,災害発生時に労働者が配属されていた地点と労働者数,そして死者数を示したものである.
図5-1 災害時配属人数と死者数比
 爆発が起きたことを知り得たのは,せいぜい第一斜坑と第二斜坑およびその坑底付近にいた労働者たち200人前後であった.しかし,爆発音を耳にするほど災害現場に近かったこれらの労働者のうち50人ほどは,爆風,爆?で即死するか,発生した濃度の高い有毒ガスで急性死した.残りの150人ほどは,人車乗場にいた人々で,爆発音を耳にしたものの,係員(職員)から待機するよう命ぜられて動かずにいたために,跡ガスから逃れる機会をみすみす奪われ,やがて迫ってきた有毒ガスによって中毒死してしまった.爆発を知り得た200人前後の労働者はこうして死亡してしまい,他の地点の仲間に事の重大さを通報に行けた者は皆無だったのである.
 図5-1で見ると,450メートル坑道には労働者が120人近くいた中で死者が1人も発生しておらず,350メートル坑道の方で多くなっているが,これは,450メートル坑道には,同じ三井鉱山三池炭鉱の四山[よつやま]鉱からの新鮮な入気がはいってきて有毒ガスを薄めたからだと言われている.それに対して350メートル坑道の入気道には,鉱山側が,跡ガスを爆発地点にのみ遮断するための対策をとらぬままで通気用の扇風機をまわし続けたために,有毒跡ガスが充満する一方であり,何も知らずに,新鮮な空気の通っているはずの入気道を歩いて昇坑しようとした労働者たちの生命を奪ったのである.
 鉱山側は,毒ガスを爆発地点のみに遮断する方法をとるどころか,平常時には坑内に新鮮な空気を送るのに使用する扇風機を運転し続け,その結果,入気にのせて毒ガスを坑道のすみずみにまで送り届けた.毒ガスの発生も知らされず,常日頃から,入気道は命綱と教育されていた労働者たちが,暗闇の不安の中でともかく入気道を探しあて,そこを辿って坑口へ向かおうとしたのはまったく自然なことであった.この労働者たちを,毒ガスが迎えたわけであった.
 本来ならば死を免れた跡ガス中毒による死者438人は,こうして,まさに,三井鉱山会社によってつくり出されたといえる.生き残った939人にしても,そのうち839人が重軽症の一酸化炭素中毒患者となった.跡ガスの恐ろしささえ労働者に知らされていたら,そして何よりも,鉱山側が非常時の迅速な対応・対策に十分な時間と金をかけて準備していたならば起きずにすんだ被害であった.

Ⅵ 無かったにひとしい救護態勢

 一酸化炭素中毒の発生した場から被害者を救出する際の心得は,①被災場所から走り出るほどに元気に見える者ほど症状が進行していると見て注意すること,②罹災者は決して歩行させてはならない,③一刻も早く新鮮な空気のある場所に運び出し,適当な治療をその場で加えること,の3点とされている.これは三井鉱山山野[やまの]鉱業所病院にいたことのある医師が,いくつもの爆発事故の体験をもとに1936(昭和11)年にまとめたものである.しかし,三井鉱山は,ここに記されたどの心得も守っていない.
 まず,救助団(坑外や他坑の労働者)の編成が始められたのが災害発生後2時間以上たった午後5時すぎであり,最初の救助団22人が三川鉱350メートル坑道に到着したのが6時すぎ.労働者たちが毒ガスを吸わされてから3時間が経過して,ようやく最初の救助団が現れたわけである.〈一刻も早く新鮮な空気のある場所に搬出〉するどころではない.遅れに遅れて始められた救助であった.
 三井鉱山は,炭塵爆発が午後3時12分に発生した30分後には,三川鉱内で跡ガス被害者が発生したことを知り得ていた.毒ガスでふらふらになりながら,三川鉱内でつながっている四山鉱や宮浦[みやうら]鉱(図5-1参照)の坑口に辛うじて脱出した被災者からの情報で,跡ガス被害発生の通報が三井鉱山本部に届いたのがその時点なのである.遅くとも午後4時までには,350メートル坑道,450メートル坑道,520メートル坑道の各所に労働者たちが集団で避難しているとの連絡が本部にはいっていた.にもかかわらず最初の救助団は,その時から2時間半たって被災現場に派遣された.その間に被災労働者たちの多くはやみくもに歩きまわり,あるいはまだ正気の労働者は倒れた仲間を支え,かついで,安全と考えられていた入気坑道を歩き始めては跡ガスのために倒れていっていたのである.
 救護態勢で犯した誤りの第2点は,一見重症に見える者のみを救助対象としたことである.すなわち,虚脱状態にある者,意識の朦朧とした者,または昏睡状態にある者のみを救命具で搬出し,外見上は元気そうな者や無症状に見える者は,自分で歩いて昇坑するにまかせたのである.一見元気そうだが膝下の力がぬけた労働者の場合でも,肩を貸しただけで歩かせている.心得の,〈元気そうに見える者ほど重症のおそれがあるから注意せよ〉〈罹災者を歩かせてはならない〉のいずれもまったく守られなかったわけである.
 救護態勢の問題第3点は,ガスにおかされた労働者が仲間の救助作業にかり出されたことである.すなわち,被災現場から自力で脱出した一見元気そうな労働者が正規の救助団にまじって被災現場に逆戻りしたり,被災現場で救助団を待っていた労働者たちが,到着した救助団にまきこまれて,倒れた仲間や歩行不能になった仲間を搬出する作業を行った例が,把握されただけでも227人にのぼる.被災したうえに救助活動までやらされた労働者は,一見元気そうであった様子とは裏腹に,昇坑後,職場に復帰できた率がきわめて低い.すなわち表5-4に示したように,救助にかり出された被災労働者で,出勤時に比較的元気だった者の職場復帰率(予後欄の出勤の項)はきわめて低いのである.
表5-4 救済活動出動の被災労働者社会復帰状態
 本来,安静にしていなければならない有毒ガス吸入者を重労働の救助活動にさし向けた三井鉱山の意図は,被災しなかった坑外の労働者=健常者を救済に派遣して一酸化炭素中毒にかからせる損失を最小にとどめることにあったとしかいいようがない.もし,労働者の身の危険を配慮してのことならば,対応はもっと違って,坑内にいる被災者の一刻も早い救助と,救護団のための十分な保安防備がはかられたはずだからである.そのどちらもなされてはいない.救助団を送りこめばその救助団員が一酸化炭素中毒にかかることがわかり切っているほどに,三井鉱山の跡ガス対策も救助態勢もお粗末だったということである.
 実際に送りこまれた救助団員は,坑外や他の現場(宮浦鉱や四山鉱)で働いていた労働者約800人のうちの323人であった.残りは,1,400人もの仲間が危険にさらされているのも知らずに宮浦鉱や四山鉱の坑内で生産労働を続行させられていたのである.
 救護態勢をめぐる第4の問題点は,上にも触れたことだが救助団の労働者たちが,一酸化炭素など有毒ガスに対してまったく無防備の状態で入坑させられたことである.それどころか実は,どのような事故が発生し,何を救援するのかも知らされることなく,無理矢理,被災現場に連れていかれた労働者がほとんどである.現場について初めて,炭塵爆発があったこと,跡ガスの発生しているおそれがあるので,互いに手をつないで救助を行うこと,息のある倒れている者をまず搬出すべきことなどを言い渡され,酸素ボンベもガスマスクも無い文字通りに無防備の姿で,毒ガスの広がる坑道に追いやられている.
 無防備で無知識の労働者で編成された救助団のほかに,坑内には,白い制服で身を固め,酸素ボンベと一酸化炭素検定器を携行した一団も派遣されている.この一団は,しかし,救助団ではなく,坑底の被害状況の調査や電話線の切替など,生産再開の準備のために派遣されたのであった.無防備の救助団労働者と重装備の生産再開準備団―坑底における災害当日のこの対照的な二集団の存在は,三井三川鉱爆発事故に際して,真の意味の救護活動はなされなかったに等しいことを象徴的に示すものである.
 三井鉱山側に,被災労働者を救護する意図が無かったとみられる以上は,一酸化炭素吸入者救出の際に守られるべきとされている心得が,何一つ守られなかったのも当然であった.救護の欠如もまた,三井三池鉱山における炭塵爆発被害を,かくも巨大なものに至らしめた要因であった.

Ⅶ 初期治療における致命的過誤

 一酸化炭素中毒患者に対する初期治療の原則は次の10点であると言われている.
 ① 登坑者全員についての速やかな検診
 ② 被災場所,意識障害の有無,被災現場の状況,脱出状況についての正確な把握
 ③ 安静の確保
 ④ 通風と保温
 ⑤ 重症者に対する緊急措置
 ⑥ 輸血,輸液など考えうる医療処置の緊急実施
 ⑦ 患者の個別症状に応じた適切な検査および治療
 ⑧ 定期間の定期観察
 ⑨ 精神症状に対する適切な初期治療
 ⑩ 家族,付添に対する指導
 緊急事態で混乱していたとはいえ,三井鉱山側の初期治療はこの原則から大きくはずれている.
 事故当日から翌日にかけての自力での脱出か,救助されての昇坑かは別として,939人の生存者が地上に辿りっいた.程度の差はあっても,全員,一酸化炭素ガスなど跡ガスを吸入している.この膨大な数の一酸化炭素中毒患者に対して三井鉱山が実施したのは,そのうち412人のみをそのまま入院させ,残りの527人は歩いて自宅へ帰すことであった.
 鉱山側が,入院組と帰宅組とをふるい分けた根拠は,昇坑した労働者が自己歩行しうるか否かという点のみであった.被災状況や脱出状況については尋ねようともせず,多少とも意識のある労働者たちが,ふらふらしながら訴える頭痛やめまいや吐き気についても気にもとめず,昏睡しているか,意識障害がひどそうに見えるかの症状のある者だけを入院させたのである.
図5-2生存者の救出時状態と救出当日の入院・帰宅別
 図5-2は.救助された(あるいは自力でともかく昇坑した)ときの労働者たちの状態と,入院・帰宅に分別された内訳であるが,徒歩で帰宅させられた帰宅組の中に,意識が朦朧としていた者とふらふらになっていた者が2割以上含まれていることがわかるであろう.一酸化炭素中毒について多少とも知識のある者であれば,この状態で1人で歩行して帰すことの危険さは重々わかっていることである.しかし鉱山側は,こうした状態の労働者にビタミン注射や強心剤を打ち,他の比較的元気に見えた労働者には,ミカン2,3個を与えただけで自宅へ徒歩で帰したのである.
 初期治療の原則は何一つ守られていない.この直ちに帰宅させてしまった530人近い患者を,せめて一定期間,医療の管理下において安静を確保させ,適切な初期治療を施したうえで家族に注意事項を教授したのちに退院させていたならば,救護態勢の欠陥による事態の悪化も,早期にくいとめられたはずである.
 帰宅した患者たちは,生還を喜ぶ家族や親類・知人の応待,死亡した多くの同僚の葬儀への出席,入院中の同僚の見舞などに多忙をきわめ,その間に相当量のアルコールも摂取し,初期段階の一酸化炭素中毒患者としては最悪の環境におかれることとなった.最低限の必要条件としての安静さえもまったく得られなかったのである.こうして,帰宅組の大半は,治癒困難な状態におちいっていった.
 では,入院患者はまともに処遇されたかというと,ここでも,最低限必要な条件の安静すら確保されない極度の喧噪状態があった.三井鉱山の付属病院(天領病院)はベッド数384であるが,事故当日の空ベッドは83床であった.そこへ大量の昏睡状態や放心・健忘状態の患者が運びこまれたのである.診察室,処置室,手術室,準備室そして待合室まで,あらゆる空間を利用して収容したが,361人が限度であった.残りの患者は,市内の他の病院に分散して収容された.
 昏睡状態から半ばさめて一酸化炭素中毒特有の狂躁状態になる患者――大声を出す,暴れまわる,泣き騒ぐ,吠える――,肉親を探し求めて患者の間を歩きまわる家族らのまきおこす喧噪,11月の霜夜に毛布1枚の寒さ,煙草の煙や人いきれからくる息苦しい屋内など,いかなる症状の患者にでも入院を勧められないような状態が病院内にはあった.
 治療はおろか,投薬や回診さえまともには受けられない中で,入院患者たちもまた,ただ寝かされて放置されていた.医師は,救出後に呼吸困難になった患者数十人の治療と屍体の検案に手いっぱいであったのだ.

Ⅷ 一酸化炭素中毒とは

 一酸化炭素中毒とは,一酸化炭素(CO)が血中のヘモグロビン(Hb)と結合して酸素の著しい欠乏をもたらし,生体,とくに最大の酸素消費器官である脳神経細胞の機能を大きく退化させ,細胞を短時間のうちに不可逆的に破壊する状態をさす.いったん脳細胞が破壊されると蘇生した後にもさまざまな障害をのこすことが知られており,重症患者は植物人間化する例の少なくないことが指摘されている.これは,医学関係者の間では常識的な事柄である.これに対し,中軽症の場合には,この三井三池の炭塵爆発事件で初めて大量に観察されたことであるが,いったん急性症状が回復しても,それは症状の潜在化にすぎず,時間を経過したのちに,振せん(ふるえ),吐気,頭痛,めまい,平衡感覚や集中力の低下,記憶力,構成力の低下,人格変化などの全身症状として出現することが多い.しかし,この事実について医学関係者の間でも,必ずしも認識が行きわたっていない.
 表5-5は,血液中のヘモグロビンと一酸化炭素が結びついた濃度と対応する症状を示したものである.血中に10%の一酸化炭素が含まれただけでも頭痛などの症状が出始め,20%含有であれば,容易に興奮し,感情の起伏が目立つ,いわゆる一見元気そうな外観を示す症状の出ることがわかる.また,救出後自宅に徒歩で帰された患者が,医師に対して頭痛や吐気,めまいを訴えたのに相手にされなかった例を前節で紹介したが,この患者たちの血中には,表5-5から推測すると30~40%の一酸化炭素が含有されていたのである.
表5-5 血中CO-Hb濃度(%)と症状
 ところで,たとえ血中酸素が一酸化炭素に置きかえられても,被曝状態から直ちに隔離し,人工蘇生器などを使用して速やかに酸素を供給すれば,ヘモグロビンは一酸化炭素を次第に解離して再び酸素と結合するのである.一方で酸素を迅速に供給し,他方では酸素を消費するいかなる行動もとらせない.これが一酸化炭素中毒症や酸素欠乏症の場合の初期治療における最も有効な方法である.
 だからこそ,救出に際しての心得は,歩行厳禁,元気そうな者への要注意,新鮮な空気の供給を基本とし,初期治療の原則においても絶対安静が強調されるのである.しかし,現実には,これまで見てきたように,適切に処遇され,治療されれば回復が間に合ったはずの数百人の労働者は,三井鉱山の誤りにみちた対応のために,脳神経細胞を不可逆的に破壊される状態に追いやられていったのである.

Ⅸ はかり知れない人権侵害

 生命や健康の損失は,本来,金銭や物質では償い得ないものである.しかし,死傷者に対して何らかの償いをするとすれば,賠償金や生活・受療保証のための補償金の支払いと制度の確立という形をとらざるを得ない.三井三池の炭塵爆発災害の被害者に対しては,このいずれも,きわめて不十分にしか行われていない.
 まず死者458人に対しては,死者1人あたりに弔慰金40万円と葬祭料10万円の計50万円が支払われたのみである.これさえも,当初は弔慰金が10万円であったものを,三池労組が100万円を要求したことで40万円にまで増額されたのである.
 それまでの炭鉱災害では,死者にはほとんど何も支払われないのが普通であった.その炭鉱業界での常識=慣行を三池労組は打ち破って死者1人につき100万円を要求したのだが,このとき,三池労組上部団体の炭労や総評は,要求額が非常識に高いとして三池労組を批判した.それほどに炭鉱労働者の生命の値段は安かったのである.
 三池の炭塵爆発と同じ日に東海道線が横浜市鶴見区内で二重衝突事故を起こし,161人が死亡したが,この方は,死亡者は最高500万円,赤子に200万円の賠償金が支払われた.三池の労働者の間では,こののち,炭鉱で死ぬのは死に損で,同じ死ぬなら国鉄事故,飛行機事故で死ねばもっとよい,との寂しい冗談が言いかわされるようになった.夫を爆発事故で失った妻たちも,炭鉱労働者の生命が国鉄事故で死んだ赤子の片腕にしか評価されない無念さに打ちのめされたのであった.
 死亡者の所属・身分別内訳は,三池労組員163人,第2組合の新労組員242人.職員組合員25人,組夫(下請労働者)28人であったが,この中で,遺族のための補償要求行動をとった組織は三池労組のみである.その三池労組にしても,生存者の一酸化炭素中毒労働者の生活や医療保証の闘いに気をとられ,力をとられ,遺族については手が十分にはまわりかねた.
 こうして遺族たちは,頼りにすべき夫や子,父を奪われた痛苦のうえに,同じ被害者の中でも周縁部に押しやられ,希望も支柱も無い苦痛にみちた長い余生を歩まねばならなかった.
 一方,生存患者839人も,遺族とはまた異なる打撃に耐えながら生き続けねばならなかった.839人のうちの744人にのぼる大多数の患者が,当時の労災法の定める3年の期限のきた1966(昭和41)年10月25日に,突然,治癒宣告,労災保険の打切り通告を受けた.3年を過ぎてなお治癒せずとして長期傷病給付金受給者となったのは26人,もう少し様子を見るための猶予期間をおかれた経過観察者が59人,すでに行方のつかめなくなった者10人であった.
 治癒との認定を労働省から下された744人の実態は,入院先病院から1人では自宅に戻れないような精神障害のある患者や寝たり起きたりの生活の患者などの,明らかに治っていない患者が大部分であった.しかし,治癒認定通知とともに,三井鉱山は就労命令書をも患者に送りつけていた.そのままでいけば,744人は,症状が固定したものとして坑内に戻って働き始めるか退職するしか方法はなかった.
 このとき,三池労組員は,一括して治癒認定書も就労命令書も返上し,ただちに再審請求を行った.新労組員で返上したのは2割余,職組では1%,組夫ではゼロである.非返上組は,早速,職場復帰訓練にはいらねばならない労働者たちである.職場復帰の方法は二つである.一つは,被災前と同じ職場に戻る原職復帰,もう一つは,坑外の仕事に変わる方法である.前者であれば,収入は坑外より多いが,症状を抱える患者労働者にとってはきわめて危険な職場復帰である.後者であれば,危険ははるかに小さくなるが収入は半減する.
 表5-6は1978(昭和53)年時点での患者たちの状態を示したものであるが,坑内復帰率は三池労組員で最も低く,組夫で最も高い.労働者の人権を守る闘いを最も強力に展開してきた三池労組で原職復帰が低いのは,二重災害を繰り返させぬ,二度とこの大災害を起こさせぬことをモットーに三井鉱山と対決しているその方針からすれば当然のことである.危険な症状のある労働者は坑内に復帰させず,低賃金でも安全な坑外職場に復帰させ,生活保証については別途要求する方針を持つ組織なればこそ可能な決断であった.
 組夫は,坑外復帰者はゼロである.炭鉱労働の中で最も危険で困難な作業が集中するのは,どこの鉱山でも組夫と呼ばれる下請労働者である.坑内に復帰した三池の一酸化炭素中毒労働者,とりわけその中でも組夫労働者を待ち受けていたのは続発する二次災害であった.まだふらつく足は暗い坑内ではつまずきやすく,つまずくと平衡をとりにくくなっている身体であることから怪我も大きくなる.機械操作も,集中力の低下した労働者には危険であり,機械に巻きこまれて死亡したり大怪我をする例が出た.
表5-6 839人の一酸化炭素中毒患者の現況
 三池労組の要求した再審請求も結局は却下され,最終的には表5-6にあるように総数737人が治癒認定されたのであるが,三池労組は,坑外労働者のためのリハビリを兼ねた安全な職場の新設を要求する運動を続けて,ついに1971(昭和46)年10月に,造成職場を開設させる成果を得た.労災等級7級と9級の労働者のために設置されたもので,万田作業所,新港[しんこう]作業所と呼ばれる二つの作業所から成る.前者では主として花の栽培,植樹[まんだ]など農作業と竹細工など工作を行い,後者では,少し症状の軽い労働者を対象とすることから,坑内部品の再生・修理などのやや重労働を行っている.二つの造成職場は,ガス中毒のために日常的には奇怪な言動をすることがあっても労働者魂だけは失わない一酸化炭素ガス被害者たちの,人権を守る運動のとりでにもなっているのである.

Ⅹ 損害賠償請求訴訟の提起

 患者を抱える家族の負担も大きかった.傷病補償年金給付者は妻を識別することも困難なほどに記憶力や構成力が退化した患者たちであり,入院先からたまに帰宅させられると,些細なことで狂暴化して妻子に乱暴するほど抑制の利かなくなっている患者たちでもある.女手一つで子を育て生計を維持している妻の目にそれは夫と見えず,子の目に父とは見えない存在に変わっている.
 似たような人格変化は,坑内に職場復帰ができるほど軽傷の労働者にも現れている.一酸化炭素中毒労働者の多発は,家族たちにとっても人生が一変してしまう災厄であった.
 家族をも巻きこんだ苦難の年月が過ぎ,1972(昭和47)年11月6日,2家族4人の被害者が三井鉱山を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した.家族に2,000万円,患者本人に3,000万円の賠償を求める訴訟である.1973(昭和48)年4月には,4家族8人にふえた.
 一方,1973(昭和48)年5月11日には,遺族161人,患者259人が同じく損害賠償請求訴訟を提起した.後者は三池労組が全面的にバック・アップしたマンモス訴訟,前者は三池労組の訴訟決意の遅いのにしびれを切らして提起された単独訴訟である.マンモス訴訟の請求額は,死者3,450万円,長期入院患者2,300万円,その他の患者1,150万円(いずれも1人あたり)である.
 10年前には,死者1人に100万円の弔慰金を請求して炭労や総評から高すぎるとたしなめられたものであるが,今回は,単独訴訟もマンモス訴訟も,他の災害や社会問題の被害者とくらべて遜色のないだけの賠償請求にこぎつけることができたのである.
 もとより,単独訴訟の原告たちやマンモス訴訟の原告,三池労組が口々に強調しているように,これらの訴訟は,現行の民事裁判の制約上,金による賠償を請求しているだけのことで,訴訟の真のねらいは,三池の炭塵爆発がもたらしたような災害の根絶にある.法廷では,三井鉱山によってつくり出されたこの大災害の実態が明らかにされてきている.いかに鉱山が保安を手抜きして労働者を危険に瀕させていたか,その結果としてどのように炭塵爆発が発生し,また鉱山側の無責任さがいかに被害を大きくしたかが立証されつつある.
 しかし,訴訟提起のもう一つの意義は,1963(昭和38)年には赤子の片腕にしか見積もられなかった炭鉱労働者の生命の値段を世間並みの水準にまで引き上げたことにある.
 労働運動は,労働者の生命と健康を守るところから出発しなければいけないことを,苦渋にみちた長年月の闘いのあとに,三池の労働者,その家族,遺族たちは認識したのである.
[飯島伸子]

 [参考文献]
増子義久著『三井地獄からはい上がれ』,現代史出版会,1975年.
三池炭鉱労働組合編『みいけ20年資料編』,労働旬報社,1968年.
九州鉱山学会,石炭坑爆発予防調査委員会編『防爆対策・炭じん爆発篇』,白亜書房,1950年.
星野芳郎「三井三池CO裁判における告発の論理」『星野芳郎著作集』第7巻,勁草書房,1978年.
炭塵爆発の瞬間を表現したポスター写真(撮影は植埜吉生氏)