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技術と産業公害

論文タイトル: 第6章:被害の社会的構造
著者名: 飯島 伸子
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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第6章:被害の社会的構造

Ⅰ 被害把握は何故必要か

 近代から現代にかけてわが国で問題化した社会的災害の中で,公害,労働災害,消費者災害は,問題の規模においても,大衆運動に与えた影響の大きさにおいても代表的なものである.近代化の過程で現れたこれらの社会的災害は,公害は住民を,労働災害は労働者を,そして消費者災害は消費者をそれぞれ犠牲者としながらも,発生のしくみにおいては深く関連し合っている.
 公害は,工場の敷地内で発生していた労働災害が工場の敷地外にまで溢れ出て住民に被害を与えたものであるし,消費者災害は,労働災害や公害の多発がくいとめられなかった必然的な結果として消費物資の有害・有毒化が進み,全国を範域として被害者が発生するに至った事態である.工場という〈点〉を中心にして地域という〈小円〉へ,そしてやがては全国という〈大円〉へと被害範域が広がるごとに,労災が公害へ,そして公害が消費者災害へと転化しているのである.
 労働災害は理論上も,実際にも,公害に先立って発生するが,現象の発生と問題としての認識とは別物であり,社会問題化するのは公害の方が早い例が多い.公害問題が社会的に大きくとりあげられたのちに,同じ発生源における労働災害・職業病の多発がはじめて明らかにされた例は少なくないのである.労働災害は,歴史的に,被害当事者によってさえ問題として認識されることが少なく,一部の労働者の間で問題認識がされ始めた時期も遅い社会災害である. こうした現象はしかし,労働災害において最も顕著であったとはいえ,ごく近年まで公害や消費者災害においても起きていたことであった.被害の潜在化は,現実には被害の増幅につらなるものであり,実に多くのこれら社会的災害の被害者たちは,損失を賠償されることはおろか,救済されることさえまれな状態で打ち棄てられてきた.
 被害者の多くが下層労働者や農漁民など社会的に低位の人々であり,あるいは,互いに無縁に,広範囲に散居している消費者たちであったことから,抗議や抵抗のための組織的運動が組まれにくく,また,たとえ組まれても抑圧されてきたのである.
 被害者の組織的行動が高揚したのは,戦前に例外的に存在したいくつかの抵抗運動を除くと,たかだか,この10数年のことである.しかし,その動きの中でさえ,未だ問題を認識できない被害者や行動に踏み切れない被害者があり,潜在化のゆえに被害が増幅される状態が払拭されたわけではない.
 そして,この,被害者の側に残る曖昧さに便乗した形で,適切で迅速な救済に不可欠の被害の実態を調べることさえ,行政はきわめて不十分にしか行っていない.たとえば,環境庁の刊行物には,公害認定患者数は統計的に示されるが,患者やその家族,死亡した患者の遺族が生活にいかなる影響を受け,それが患者や遺族の家庭の将来をどう規定することになっているのかなどということは示されない.被害患者の認定数さえ,つねに最小にとどめることに留意している行政であれば,膨大な裾野を持つ被害実態を公表するなどというのは論外なのであろう.
 これから先も,行政の,そして行政の背後にあってこれを律している企業の対社会災害への姿勢が変わる見込みは無い.社会的弱者に及ぼした損害を復旧するのに十分な負担をしたり,損害の実態を明示する行動は,今後も,事情が許すかぎりとらないであろう.しかし,被害者の軽減,被害救済の基本となるのは,被害実態,被害の本質把握であろう.
 そこで本稿は,加害源企業からも行政からも,そして学問研究一般からも等閑視されているこの被害の問題をとくに取り上げ,その構造を明らかにすることとしたい.

Ⅱ 被害構造のイメージ

被害構造は,被害レベルと被害度およびそれぞれに関わる社会的要因から成り立っものである.
 (1) 四つの被害レベル
 まず,被害レベルであるが,公害,労働災害,消費者災害における被害は,①生命・健康,②全生活(包括的意味における生活),③人格,④地域環境と地域社会の四レベル(または四種)の被害様態から成り立つと考えられる.
 このうち,前三つの①生命・健康,②全生活,③人格,の被害は個人とその家族にかかわるものであり,最後の④地域環境と地域社会は,被害家庭を無数に擁する地域社会というより広い場にかかわるものであり,前三者と後一者は段階を異にしている.しかし,四種の被害レベルは,前三者が各家庭内で密接に関連し合って発生し,それが集合して最後の地域破壊が発生するという相互関係のうえに被害の総レベルを構成しているのである.
 被害の受け手は,公害では住民,労働災害では労働者,消費者災害では消費者と類別される.
 第1の被害レベルの生命と健康の破壊は文字通りの内容のものであり,代表的な公害事件の水俣病,イタイイタイ病,亜砒酸中毒,公害ぜんそくなどは,いずれもこのカテゴリーにまず含まれるものである.労働災害や職業病は,すべての事例が,まさしく労働者の死亡や健康破壊という被害様態で現れる.また消費者災害事件は,その主要なものは薬害と食品災害であるが,事件としては,薬害ではサリドマイドやスモン,食品災害では森永砒素ミルク事件,カネミ油症事件などと,いずれも消費者の死亡や健康破壊をひきおこしている事件である.
 この被害様態は,あらゆる被害の中で最も深刻なものであるとともに,そこから他のさまざまな派生的被害が発生する出発点でもある.死者が出た場合は遺族に,健康損傷の場合は本人と家族の生活に影響が生じる.その詳細についてはのちに述べるが,ここで生活というのは,単に経済的側面のみをさすのでなく,生活構造の構成要素であるところの生活空間,生活時間,生活水準,人間関係,生活設計のすべてを含み,その上に成り立っている全生活のことを意味している.
 このように,それぞれに重要な構成要素のバランスの上に成り立っている全生活が音をたてて崩れてゆくような事態は,第1の被害レベルの生命・健康上の問題が生じたことの結果として現れる場合が大半である.ただ,必ずしも結果として生じるのではない場合や,生命・健康上の問題を伴わずに生活への影響が単独で生じる場合もある.
 健康や生活の著しい破壊は被害レベル第3の人格の荒廃という事態をもたらす.社会的災害の被害者は,加害源企業や行政との交渉,医者の対応や被害者以外の地域住民の対応,さらに一部マス・メディアの報道の姿勢などに,持ってゆきようのない屈辱や怒り,憎悪,悲しみなどを感じ,激しく感情をゆすぶられることが多いために,強い支えが無い場合には,人格面の変貌が生じてしまうのである.
 被害が,以上三つの被害レベルの総決算として現れる地域社会あるいは国民社会の問題にまで変わるのは,ここまで来れば時間の問題である.被害農民の長期にわたる抗議運動が最終的に抑圧された足尾鉱毒事件では,残されたものは,広域にわたる鉱毒農地と無数の被害農民家庭,そして廃村になった村々であった.水俣病多発区域の水俣でも,現在,被害者,被害家庭の一部や支援組織によって地域再生の努力が続けられてはいるが,地域の人心の荒廃した状態は,なお,拭い去られないでいる.
 一見,個人や家庭の生活と無関係に見える区域での自然破壊でも,やがては個人や家庭に影響が及ぶものである.日本のように狭い国では,自然環境の破壊は人間生活の破壊に直截に結びつくのであり,この時点で,地域社会崩壊の最初の一歩から踏み出されたことになる.すなわち,地域社会の崩壊は,地域環境の結果としても,また,既述のような個人と家庭の生活破壊が地域的に広まった結果としても生じるのである.
 労働災害でも,労働力集約型工場での労働災害は,工場周辺にかたまって居住する労働者家庭の破壊の結果としての地域破壊が生じる.また,消費者災害は,より広い範囲に被害が及ぶわけであり,公害や労働災害の全国各地での発生と消費者災害の発生が重複する事態が生じるならば,地域破壊発生と同様のプロセスで国民の生活と国民社会の崩壊が起きる危険は十分にありうることなのである.
 地域の,ひいては国の荒廃を未然に防ぐためには,個人とその家庭を破壊から守り,すでに影響が生じているのであれば,早急に回復するための方策をたてることが肝要なのである.
 以上に見てきたような四つの被害レベルは,次に述べる被害増幅要因が関与することによって,多様な被害状況を展開する.
 (2) 被害度を規定する社会的要因
 すなわち,生命・健康,全生活,人格,地域の四被害レベルが,どの程度の被害の度合,どの規模の被害に至るかということは,①健康被害の度合,②健康を損傷された者の,家庭内での役割分担や家庭内での地位,③被害者自身あるいはその家庭の,社会的位置・階層,④所属集団(本人とその家庭の),の四要因によって内的に規定され,さらに,⑤加害源企業,行政,医療関係者,学者,一般市民,マス・メディアなどの外的要因(実は,加害構造の構成要因)という多くの要因によっても影響を受ける.
 ①健康損傷の度合
 健康が損われた度合によって被害者の受ける打撃が異なり,派生的に生じる生活や人格への影響も異なることは,常識的にも推察のつくことである.
 被害が,職場への復帰などの社会復帰が十分に可能な程度に軽傷であれば,本人の衝撃も比較的に軽く,家族への負担や影響も回復可能であるが,社会復帰に長年月が必要な場合や社会復帰が不可能な場合,さらに寝たきり生活になった場合は,本人の苦痛や家族の負担の大きさははかり知れないほどのものになる.後者の例では,健康損傷の最悪の事態である生命の喪失が生じた場合の遺族の生活に生じるものと変わらぬほどの顕著な派生的被害が,生活諸側面に出現する.
 ②家庭内での地位・役割
 健康を破壊された人物が家庭内でどのような地位でいかなる役割を遂行していたかということも,被害の現れ方に変化を与える.
 多くの労災事故のように,一家の支柱である人物が死亡したり健康を著しく損傷された場合は,遺族や家庭に及ぶ影響は全面的である.家計支持のために妻が就労して子供が主婦代りをつとめたり,子供が進学を諦めて就労したり,それでも被災前の生活水準をとり戻せないなど,生活時間,空間,人間関係,生活設計,生活水準のすべての面にわたる後退が生じる危険性が大きいのである.
 主婦の死亡や著しい健康損傷も,公害や消費者災害で発生しているが,この場合は,夫や子供への家事負担の集中やその結果としての夫の職業上の問題,子供の就学上の問題の発生,あるいは夫婦関係の悪化や破綻など,家庭内の役割分担や人間関係の面への影響が著しい.
 幼い子供に被害が発生した場合には,両親,とくに母親の心労と負担の重荷が顕著で,ここから人間関係上の問題が生じがちである.とりわけ,サリドマイドや胎児性水俣病のように,加害源企業の発生責任はゆるがない事実にしても,直接的には母体が与えた毒で,生まれながらに障害を抱えた子供を産みだした母親の苦痛は大きい.この苦痛は,加害源企業追及の原動力になることがあると同時に,一方では,家族内の人間関係を破壊する方向に働くこともある.
 このように,家庭内の地位・役割と被害度の関係は,家計支持者が被害者の場合に最も深刻で,幼い子供のときに最も軽度であるなどとは,一概に言えないものがある.指摘できることは,家庭で占める地位・役割によって,被害が顕著に現れる場面が異なるということである.
 ③被害者と被害家庭の社会的地位.階層
 同じく健康上の問題が生じ,加害側の対応は遅延しても,経済的に十分余裕のある階層であれば適切な医療やリハビリ処遇を早期に受療して回復をはかることが可能でも,貧しい家庭であれば,医療もリハビリも不適切なものを,それも多くは手遅れになった段階で受けることになる.被害の早期自力回復の点で,まず階層差が影響するのである.つまり,この自力回復は,経済力の差によってのみ生じているのではなく,そもそもはまず,適切な医療やリハビリについての的確な情報源を得るだけの学識や知人・友人を有しているか,というレベルから格差は始まる.次に,得た情報を実現するための制度を享有していること,あるいは経済的余裕を有していることと,その間,現在の収入や職業上の身分を失わずに医療処遇を受けられるだけの社会的地位が必要になる.ブルー・カラー層や貧しい農漁民には得るべくもない機会なのである.
 健康被害を最小限にくいとめたならば,その後に派生的に生じる生活上の問題や人格への影響も必然的に異なってくる.問題の当初での被害への対応力がその後の被害を最小にとどめる最良の方法であってみれば,この時点での社会的地位,つまりは階層による対応力の差は大きい.
 よしんば当初の段階で原状回復が手遅れであるような重症な事態に陥っていたとしても,そのことによる生活全般への影響を可能な限り小さくできるかどうかによって被害の程度は異なってくるが,ここでもその差は階層差によって生じることが多い.重症な症状の患者が発生することは,どのような家庭にとっても衝撃的な事態であり,重い負担であることに変わりはない.しかし,重い負担が家庭生活の崩壊を招くのを早めにくいとめられるか,みすみす見逃すかは,その家庭の経済的水準を中心とした全体的な余裕や能力によって決まる.
 ④所属集団
 階層による格差をある程度埋める機能を果たすものに所属集団がある.現代人は,家族や近隣を初めとするさまざまな集団に属しているが,ここでいう所属集団は,地域や職場などに結成されている機能集団のことである.地域には,自治会や婦人会,政党の末端組織,宗教組織,ボランティア集団など地域を地盤とした多くの目的集団があり,職場には労働組合などフォーマル・グループやインフォーマルな趣味・レジャー・教養のための集団がある.
 こうした集団の中には,集団の成員が受けた被害の回復や軽減,補償要求などを集団としてバック・アップするものがある.階層的には機会に恵まれない地位にあっても,所属集団が被害者の支援に積極的であれば,消極的な集団に所属している被害者にくらべて,被害の程度が軽減される可能性がある.
 水俣病をめぐっては,12年間の水俣病タブーの重石が患者支援組織の設立とともに取り除かれたのちの,患者運動が幾通りにも別れてゆく中でそれが現れている.水俣における患者たちの運動体は,ある政党がバック・アップしたもの,ボランティア・グループのバック・アップしたもの,伝統的集団がリーダーシップをとったものなど多様であるが,この中で,企業との正面対決の道を選んだグループに所属した患者・家族は,かつての息をひそめて生きていた状態から解放されて,水俣病の発生を企業による社会的殺人として捉えられるまでに変化した.患者の健康はもはや昔に戻らないが,人格の荒廃する事態からは免れえたし,ある程度の補償を獲得して最低限の生活維持のめどもついた.しかし,これらの積極的集団に加わることを拒否した人々の中には,客観的に患者であるにもかかわらず,患者と認定されるための行動を拒否し,その一方で,補償を得た患者に羨望と軽蔑と憎悪の混在した複雑な感情をもち,経済的にも困窮した生活を送る患者もいる.
 また,戦後労災の代表的事件である三井三池の炭塵爆発事件では,被災者の所属集団は,職組,三池労組,新労そして組夫の四集団であるが,この中で被災労働者を支えたのは,総評傘下の三池労組のみであった.三池労組の被災者を支持する運動の成果としてユニークなものに,坑内労働に復帰することが危険な労働者のための,リハビリ機能を兼ねた坑外職場の新設がある.賃金は安くとも安全が組織的に保証された職場で,心の通い合う三池労組の被災者同士が助け合って働くのであるから,他の集団に所属した被災労働者のように二次災害で生命を失ったり再度被災するということもない.派生的被害や被害の増幅を所属集団がくいとめるのに貢献している典型例である.しかも,三池労組は,家族や遺族の支援にも力をさいており,自力で可能な被害拡大防止の努力は十分になされている.
 ⑤外的要因
 被害者側の自力回復や,自力による被害拡大防止の努力を突き崩すのが,加害源企業や行政,医療関係者,学者,一般市民,マス・メディアなど外部からのかかわりである.
 加害源企業の被害無視,被害者無視の対応は,被害者本人や家族,遺族の心を深く傷つける.その傷口を行政や医療関係者,そしてときには学者までが加わってさらに広げる.マス・メディアの配慮の不足した報道や地域住民の白眼視も,過敏になった被害者の神経をいためつける.
 このように,被害の度合は,本人の健康被害の程度,本人の家庭内での地位・役割,本人と家族の属する階層,所属集団そして加害源企業の対応を初めとする外的要因との関係で変化する.これが,被害レベルに関与して多様な被害状況をつくり出す.この,被害レベルと被害の度合によってつくり出される被害状況は一定の構造をもっており,これを本稿では被害構造と規定したものである.
 以下に,被害レベルの最初の三レベルについて,事例によってその被害構造の実際を見てゆくことにしたい.

Ⅲ 生命・健康の破壊
――被害認識をめぐる問題点――

 生命が奪われ,健康が破壊される事態は,先に掲げた四つの被害様態の中で最も深刻なものであり,また,そこから多くの派生的被害が生じる点でも重大なものである.
 この点については,いかに強調してもしすぎることはないのであるが,現実には,この事態を被害と認識しない層が存在する.その最たるものは,加害源企業当事者であり,また,ほとんどつねに加害源企業と発想を等しくする行政機関である.企業から多額の研究費を受けとっている医学者の中にも,被害患者数を少なく抑えることに,学問上の権威を利用して協力する者たちがいるし,病態について知識の無い無関係な隣人たちが,被害が存在しないことを主張する場合もある.
 企業,行政,医学者がよく採る方法が,〈ニセ患者〉呼ばわりである.水俣病患者については,官僚や医者,企業がこもごもに,患者でない者が患者になりすまして補償金をかすめとっているといった類の誹謗を臆面もなく行っている.患者や支援組織の激しい抗議を受けても前言をひるがえそうとしないまでに強い「信念」で発言しているのである.三井三池の炭塵爆発事件による一酸化炭素中毒患者については,やはり,企業と医学者から,〈組合原病〉との中傷がなされている.この場合も,労働組合が発言訂正を迫っているが,〈組合原病〉とのとらえ方は,地域住民の間にまで広められてしまっていた.
 被害者の苦しみを倍増する被害そのものの抹殺が,企業,行政,医学の協力のもとに試みられているのである.
 加害者に属するこれら機関や個人による被害否定の問題性はいうまでもないが,ある意味で,より問題であるのは,被害者当人による被害否定である.
 古くは,足尾鉱毒事件の例があるが,被害農民たちは,農地や農業被害については明確に被害として認識していたが,鉱毒が奪った生命や鉱毒による健康障害は,その徹底した企業追及運動の中でも,被害として位置づけられることは弱かった.因果関係が確定しにくいということもあろうが,健康や生命の被害を被害として認識する発想を欠いていたふしもある.
 健康や生命の喪失そのものであるような労働災害でも,ごく近年まで,健康の損傷は労働者自身の責任とする発想の中で,被害とはみなされなかった実情がある.水俣病の原因企業チッソは,水俣病を発生させる前には労働災害を多発させる日本有数の会社であった.ここの労働組合は,総評傘下でも戦闘的であることで知られていたが,労働災害の多発をめぐって企業と対決する姿勢は,水俣病発生以前には見られなかった.労働者の間では,「怪我と弁当は手前持ち」というのが,労働災害をめぐっての合言葉であった.
 日本の労働組合は企業別組合であることから,企業の利潤追求と正面から対決せざるをえない合理化反対闘争と公害・労災闘争は組みにくいと言われているが,チッソの労災多発に対して尖鋭労組が表した消極性は,この指摘の通りの行動を労働組合がとるものであることを示している.
 戦後の大衆運動をある時期まで指導した労働運動がこのありさまであるから,1955(昭和30)年の森永砒素ミルク事件や1956(昭和31)年の水俣病の集団発生の公表がなされた頃には,これらの事件が健康権や基本的人権の侵害であるとの発想は無かった.乳児の飲む粉乳に,猛毒物質の砒素が混入していたり,数十年も豊漁地として知られてきた海でとれる魚がいつの間にか重金属の水銀で有毒化しているなどという想像を絶する事態に直面して,被害者と家族は呆然自失の状態だったのである.
 対応の方法も知らない被害者たちの孤立した状態を利用して,加害企業は,患者に対してはもとより,死者に対しても僅少な見舞金を支払って終わりにしている.被害者たちは,少額さに割り切れぬ思いは持ちながらも,その金額が,健康や生命の値段として安すぎると判断するための知識も情報も持ち合わせず,やむを得ず,黙って僅少額を受けとっている.それがあまりにも低額なもので,企業の行動が人権無視も甚だしいものであることを指摘して高額の賠償請求があらためてなされたのは10年以上ものちのことであり,それも,被害者ではなく支援者の運動がきっかけであった.
 三井三池の炭塵爆発事件の死者に,同じ日に国鉄事故で死亡した赤子の賠償金の数分の1でしかない見舞金が支払われたのも1960年代半ばであった.三池の被災者が,炭鉱労働者の生命の値段があまりにも安いことに気づかされたのは,この国鉄事故における賠償費との大きな格差によってであった.
 生命の値段の見直しとともに健康の価値も見直され始め,そうした中で,基本的人権としての健康権の発想が培われ,損害賠償請求の基本に,「生命を戻せ,もとの健康な身体を戻せ」の要求がすえられるケースが出てきた.失われた生命は戻すすべがなく,失われた健康も,多くの場合は回復がむずかしい.そのことを承知のうえで,加害企業が責任をとるべき対象は,人間の力では取り戻しの利かない生命と健康であるのだ,との事実を突きつける段階にまで,ようやく認識が高まってきた.
 被害救済への本格的要求も,ここから始まるのである.
 ところで,生命の喪失は,いかなる場合でも死の招来の状態を意味するのであるが,健康の損傷には,さまざまな段階や種類がある.三井三池の炭塵爆発事件による重症の一酸化炭素中毒患者や水俣病の重症患者に見られたような,いわゆる植物人間となった状態は,健康損傷の中でも,死と紙一重のきわめて深刻な被害である.これに対して,日常生活を初め,家庭や職場,地域での生活に必要な行為の遂行上にほとんど支障のない程度の被害は,最も軽症な場合である.そして,この,最重症と最軽症の健康損傷の二極の間には,常識的に考えられているような,ただ一つの段階としての中等症の程度があるだけではなく,無数の症状の程度,様態がある.
 その症状の一つ一つが,被害者にとっては苦痛であり,また,外部から見てわかりにくい症状であれば,身体を侵された苦痛の上に,その苦痛を家族を初め他の人間に理解してもらえないことへの焦燥,不快,怒り,悲しみに苦しめられる.こうして,一旦,健康を破壊されたならば,よほどに軽い被害である場合を除くと,問題がこのレベルにとどまることはなく,家族との関係や家族と形成している生活に派生してゆくことになるのである.

Ⅳ 生活構造の破壊

 生活が全般にわたって影響を受けるような事態は,被害レベル第1の生命・健康上の問題の結果として現れることが多いのはすでに述べたとおりである.この経過をとらないで生じる生活への影響もあることはあるが,それも,問題が長引けば,やがては健康への影響が顕在化して,結局は同様の経過を辿ることになる.
 たとえば,高知パルプ事件では,硫化水素を含んだ排水が流しこまれた市内の川の両岸の住民に,健康上の影響と生活上の影響が同時的に生じている.高知パルプの問題は,他方では,自然破壊の問題として知られているのであるが,自然破壊が進行するかげで,一部市民の健康と生活の破壊も進んでいたのである.
 また,問題が長引く前の足尾鉱毒事件では,発生した被害は主に,農漁業被害であった.事態が悪化する期間が続いたのちに健康障害や乳児死亡率の上昇などが発見されている.
 いずれにせよ,どこかの段階で健康上の問題が生じ,その時点に至れば,生活が全般にわたって影響されるのは時間の問題となっているのである.生活構造の破壊について例によって見てゆくことにしよう.
 (1) 死者の発生と生活への影響
 1963(昭和38)年に発生した戦後炭鉱災害史上の最悪のケースの一つである三井三池の炭塵爆発事件では,死者458人,一酸化炭素中毒患者839人が一瞬にしてつくり出された.1,300人にも及ぶ犠牲者は,すべて一家の家計を中心的に支えている労働者である.この事故は,見方を変えると,458世帯の大黒柱を永久に奪い,839世帯の大黒柱を大幅に弱体化させた事故なのである.
 遺族の家庭では,経済的負担を初めとする生活全般の重圧が,残された妻にもろにかかっていった.家計中心者であるとともに,日常的な家族の団欒に不可欠の存在であり,心の支えであり,相談ごとの相手であり,性的結合の対象である夫を失った痛苦のうえに,その痛苦に浸っている余裕もなく,残された妻は働き始めねばならなかった.就労は,家にじっとしているよりも,夫を奪われた苦しみを和らげるのに役立つという効果はあっても,主婦が家計支持者として働き始めたしわ寄せは,幼い子供や年老いた父母など,他の家族員にいくことになる.世帯主がいなくなり,主婦も外に働きに出た火の消えたような家庭で,主婦代りの家事を代行する子供や老人の心細さも大きい.
 さらに,加害源企業の遺族への対応が,遺族を傷つける.三井鉱山は,死者は,死亡した時点で退職者とみなしており,事件後は,50万円を支払った以外は一切の責任を回避しようとしたばかりか,一時は,遺族に対し,社宅からの退居さえ求めている.死者に対する,そして世帯主に死なれた不安の中にいる遺族へのこの不当な仕打ちは,遺族を著しく傷つけた.しかも,最後のよりどころの三池労組も,患者救済で手いっぱいで遺族へのきめ細かな配慮までしている余裕はなかった.三池労組以外に所属していた組合員の遺族や所属組織のない組夫の場合は,精神的な支持さえも受けられなかった.
 経済上の問題,家族内人間関係,生活空間や生活時間上の問題,生活設計の変更,人格への影響―そこには,生活構造を構成するこれら重要な生活諸側面の極度の破壊が生じていた.
 死者が森永砒素ミルク事件のように乳児に限られている場合は,遺族の生活は精神面で強く影響を受ける.ここでは,母親が,毒入りの人工ミルクを自分の子供に飲ませて死なせたことの苦痛を負わざるをえない.森永乳業との関係では被害者でありながら,子供に対しては直接的な加害者である板挟みの苦しさは,この事件の被害児の母親たちに共通のものであった.
 (2) 健康障害と生活への影響
 一方,幸いにして生命をとりとめた場合には,被害者本人とその家族の生活上の問題が生じる.
 再び,一家の支柱が健康を破壊された三井三池の事件から見てゆこう.
 ここでは,一酸化炭素中毒症と認定された839人のその後の内訳は,被災後15年目の1978(昭和53)年の時点で次のようなものである.
入院中         63人
通院中(労災等級7級) 12
死 亡         30
行方不明        17
退職者         394
坑内職場復帰      138
坑外職場復帰      185
 入院中の63人は,例外的な数人を除くと,被災後から現在に至るまで入院生活を続けている.ほとんどが,労災等級1級と2級に認定されており,1級認定を受けた労働者は,寝たきりか,起きられても意識障害,脳障害が著しく,家族を認識する力も失われている.かつては三池炭鉱の労働者として誇り高く,優しく男らしかった夫や父が,まったく別の人格に変わってしまったのである.妻や子供らは,死亡された場合とはまた異なる苦痛や負担に直面する.しかも,このまったく別の人格に変わった夫や父におりる傷害年金が,被災当初の妻や子の生活の経済的支えとなった.経済的には最低の生活が保証されたとは言っても,家族にとっては廃人と化した患者の存在は重いものであった.
 労災等級2級に認定されて入院生活を続ける労働者の場合は,記憶,思考力障害,情意障害,うつ状態などが見られるが,身のまわりのことは自分で始末できる程度の症状で,具合の良いときには,健康者とも対等に会話を交すことができる.したがって,月に1度,リハビリも兼ねて家庭に帰される.ところが,帰宅すると,粗暴さや幼児性が表面化して,些細なことで子供や妻に乱暴する.幼児とテレビのチャンネル争いをしたあげくに暴力をふるうとか,妻に嫉妬心を募らせて肉体的にも精神的にも傷っけるということの繰り返しになる.こうして,月1回の「外泊」日は,妻と子供たちにとっては恐怖の日となっている.かつての貧しいけれども幸福な家庭,満たされた生活は,もはや,片鱗も見出せないのである.
 坑内作業に復帰できるほどに軽症と見られる労働者は,労災等級では14級該当者が多いが,7級や9級で復帰している労働者もある.健康な労働者にしても危険な坑内に復帰するのであるから,健康者と変わらないほどに回復していると思われがちであるが,不眠や記憶障害,体力低下を伴う7級や9級には危険すぎる職場であり,労働者本人にとっては辛い職場復帰である.しかし,坑外職場の賃金では生活が維持できない家庭では,危険や無理を承知で,症状のある労働者が坑内職場に復帰する.会社も,三池労組以外の組合もそれをとめようとはしない.無理な職場復帰は,職場の同僚にとっても負担なものであるが,それ以上に,帰宅後の疲労の強さとそれを理解できない家族との間の家族関係の悪化の方が問題である.職場復帰が可能なほどに健康を回復した患者の場合でも,生活上の影響は小さくない.
 労働災害では,一家の支柱である働き手が健康をおかされるが,消費者災害の森永砒素ミルク事件のように乳児が被害者の場合,公害の水俣病のように乳児から老人,主婦,世帯主,青少年と,年齢,性,家庭内の地位にかかわりなく無差別に被害者の出た場合には,被害様相も幾分ことなる.
 乳児が健康をおかされたときは,訴える言葉を持たないことから,看護者の心痛は一般に倍増するものであるが,砒素ミルク事件では,原因不明の段階では,高熱,下痢,嘔吐,体重減少が生じながら,医者にも診断がつかない症状であったために,家族の心配はより深刻であった.しかも,原因が森永乳業の砒素入りミルクとわかった3カ月あとには,厚生省の定めた委員会が一方的に治癒認定をして被災児の存在そのものが正式には抹殺された.治癒と宣告されても,現実には,乳児たちには後遺症がある.医療も自己負担となったわけである.これから14年間,阪大の丸山博教授らによって,被災児14年目の実態が発表されるまで,被災児と被災家庭はあらゆる救済から完全に放置されていた.この間の家族の経済的,精神的負担は,階層によって差はあるものの,生活水準の低下,家族関係の悪化,生活設計の変更にまで連続していっており,生活構造の破壊という観点からすれば,労災被災者とそれほど変わらない影響が生じている.
 一家に1人の健康をおかされた者が出ても,これほどの影響が家族全体に及ぶのであるが,水俣病では,一家に複数の被害者の出た家庭が少なくない.水銀で汚染された魚を多量に,しかも頻繁に食べることの多かった働き盛りの男性や,夫とともに漁に出かけてともに汚染魚を食していた妻たち,抵抗力の弱い子供たち,そして妊娠中の母親の摂取した水銀をそっくり引き受けて生まれながらに水銀中毒にかかっていた胎児性水俣病患者.
 原因不明のところに水俣病患者は伝染病扱いを受けているが,その根拠にされた一つが,家族内に複数の患者の出ていたことである.複数の病人が家族内で出ると,それだけでも家庭は大混乱をきたす.そのうえに,奇病を出したことで地域で爪はじきにされる,医療費はかさむ.やがて,原因が魚にあるということが判ってくると,こんどは,生業の漁業が不振になる.生活はコナゴナに砕かれてしまった.
 家族の中に死者や患者がつくり出された場合,外的要因もかかわって,その家庭は,経済的負担増,人間関係の悪化,生活空間の縮小,生活時間の変化,将来設計の大幅手直しなど生活の全側面に影響を受け,被災前に築いていた家庭,被災前に描いていた将来設計を大きく変えられたり,根こそぎにされる事態に至るのである.

Ⅴ 人格上の変貌

 被害レベル第3の人格上の変貌は,生活破壊レベルときわめて密接な関連を持つ.
 健康を損われた人々の中には,人格上の変貌が病状の一面であるのか,それとも罹病の結果であるのか判然としない例もある.神経損傷をきたした健康破壊がこれに該当するもので,病名でいえば,水俣病,一酸化炭素中毒,スモンなどが代表的である.これら神経損傷疾病の被害者に共通してみられるところの,被災後に怒りっぽくなったという性格上の変化は,病状の一つと見なされている.
 しかし,三井三池の被災者について前述したように,病状の一つとしての怒りっぽさが,妻子との関係を悪化させている事態は,家族の言動に,被災者の怒りを誘発するきっかけがあってのことであるのを,あわせて理解しておく必要がある.健康破壊の症状であるにしても,精神面の症状の発症には,社会的要因のかかわりのあることは見逃せないのである.
 患者にしか察知できない,些細な言動で動揺するほどに緊張している神経には,生活構造の構成要素である経済的水準を初めとする生活各側面が次々と破綻してゆく事態は支えきれない.派生的生活被害の発生する過程で,患者本人の人格上の変貌も進んでしまう.また,このような患者をかかえている家族にしても,生活構造の変形と患者との人間関係の悪化が重なれば,同様に,人格上の変化を生じさせることがある.三井三池の被災者の妻が,別の人格に変わったような被災者を,もう夫ではない,と言わざるを得ないのは,やむを得ぬこととはしても,客観的には人格上の変容を示すものである.
 だが,被害に由来する人格上の変化は,家族内の人間関係や生活構造の悪化のほかに,加害企業や行政,医師,マス・メディアの対応によっても生じる.さらに,加害者側との交渉や対決のための被害者運動自体が誘因になることもある.
 加害企業の対応には,被害者の神経の逆撫でするような対応が多いし,行政や医師の対応には,加害企業の利益のみを擁護する傾向が強く,これが被害者の怒りを呼ぶ.マス・メディアのセンセーショナルな報道も,被害者の神経をたかぶらせる.
 戦後に発生した大きな社会的災害には,ここに挙げた外的要因は例外なくかかわっている.この中で患者も家族も遺族も,一方的になぶられ,こづかれ,ゆすぶられて,被災前には見られなかったような性格的人格的変貌を示すことになる例が多いのである.

Ⅵ 被害構造を打破する力

 (1)極度の被害のはざまから
 こうして被害の構造は,被害家庭に磐石の重みでのしかかる.そしてやがては,各家庭や個人の受ける被害の累積は,古典的には谷中村のように,彼らの生活している居住地域の存亡を問う事態にまで至る.地域がたとえ物理的には辛うじて存続することがあっても,実質的にはゴースト・タウンめいた様相を呈すようになる.足尾銅山山元の消滅した村々,亜砒酸中毒被害者が地域的規模で多発した宮崎県土呂久地区,ある時期までの水俣やイタイイタイ病多発区域の神通川流域など,そうした例は少なくない.
 加害源企業も行政も,個人や家庭を襲っているこの重く耐えがたい責苦を取り除く責任を,自発的には果たそうとしない.行政が行動をとるとすれば,優先するのは加害源企業の存続であって,そのために必要であれば,地域もともに救済する.個人や家庭の救済はつねに後回しである.
 被害者たちは,加害源企業や行政からの救いの手を座して待っている限り,巨大な被害構造の重石を取り除くことはできない.歴史的事実として,実に多くの人々が実際に被害に押しつぶされて消えていった.しかも,重みに悲鳴をあげることさえせずに,黙々と消えていった被害者が多い.
 江戸・封建時代の鉱夫たちは,現代のそれよりもさらに苛酷な,牛馬にひとしい作業条件,劣悪な作業様態,作業環境で働きづめであったため,ヨロケ(今日でいう塵肺)にかかって若死にしており,32歳まで生きれば長命として祝う風習があったほどである.しかも彼らは,その作業環境や作業様態について鉱山側に抗議することもせず,短命を宿命として甘んじて受け入れていたようである.
 資本主義時代に変わっても,製鉄,紡績,鉱山,化学工業などの初期の工業化の基幹となった業種のすべてで,多くの労働者が事故死し,あるいは健康を蝕まれて生命を失った.しかし,大部分の労働者は,そうした状態を,定められた運命のごとく自然に受け入れている.外部の人間で,たまたま実態を知ったものがいても,日本の工業界全体を敵に回すことになりかねないために,事実を公表するのには相当の勇気が必要であった.現に,紡績業労働者に結核が蔓延し,彼女たちの帰村先にまでその被害が及んでいる実態を学界で発表した医学者石原修は,職を賭す覚悟で発表に踏みきっている.
 被害者が悲鳴をあげれば,あげたことがそのまま被害の増幅につらなり,自ら被害そのものによる差別をさえ招くようになる状況がそこにはあった.
 公害をめぐっては,労災の場合といく分異なる状況があった.産業資本の生成期にあっても,足尾鉱毒事件での被害農民たちの果敢な抗議運動を初め,いくつかの公害反対行動の例がある.被害構造という重石を取り除こうとの行動である.しかし,第2次世界大戦前のこうした行動は,最終的には,富国強兵,殖産興業の国策によって追い詰められ,沈黙していったものが大部分である.
 被害者が全国的に抗議の声をあげ,被害構造の打破に立ち向かうようになったのは,第2次世界大戦後も20年以上が過ぎた1960年代後半以降のことである.この時期は,水俣病に続いて第2の水俣病が新潟で発見され,森永砒素ミルク中毒事件に続いてカネミ油症事件が発生し,サリドマイド事件に次いでスモン病が表面化し,また,全国的に大気汚染状況が悪化してぜんそく患者が多発する兆を見せた時期である.換言すれば,高度経済成長のツケが,住民,消費者,労働者に集中した時期なのである.一方,戦後民主主義がようやく大衆に浸透し始めた時期でもあった.そしてその背景には,日米安全保障条約の締結・延長に抵抗する学生,研究者,労働者,消費者,市民によるそれぞれの場での大衆運動の経験の蓄積と,全国的な革新へのうねりとがあった.公害や労災や消費者災害の被害者たちにも当然,民主主義や革新の波は及ぶ.
 基本的人権擁護の精神への洗礼を受けた被害者たちが,被害を被害として認識し,被害と被害放置とが人権侵害であることを確信したとき,初めて,それまでの宿命観や事なかれ主義から脱皮して,加害源企業の責任を追及するまでに変身し得たのである.加害源企業追及のための本格的な公害訴訟が,1967(昭和42)年の新潟水俣病訴訟を筆頭に,患者本人や家族,遺族らによって,全国の公害被害地で次々と起こされた.健康を損われた患者が,不自由な身体ながら,加害源企業の責任追及と同胞への被害の波及を防ぐための戦いの先頭に立ったのである.
 労働災害では,長い歴史を持つ鉱山労働者の塵肺をめぐっての補償要求闘争だけは戦後まもなくの時期に全国的に展開されたが,健康を守る視点での運動は,公害反対闘争よりもさらに遅れた1970年代以降に展開され始めた.エネルギー転換政策と合理化政策の犠牲である三井三池炭鉱の炭塵爆発事件の被災者のうちの二家族が,三井鉱山を被告とする損害賠償請求訴訟を不退転の決意をもって提起した1972(昭和47)年に,その端緒は求められる.労働者やその家族が,自らが生計を得ている企業を被告とした訴訟をおこすのには,公害被害者の場合よりも,さらに確固たる信念を要するものである.それだけ被害が深刻だとも言える.
 (2)大衆運動との連携
 いったん被害者自身が立ち上がると,全国的に高まっていた大衆運動の構成メンバーの中から,被害者を支援する動きが湧き起こった.学生,研究者,労働者,消費者,市民,医師,弁護士,ジャーナリスト,作家―支援にかけつけた層は多様であった.
 各地で提起される公害訴訟や労災訴訟,消費者被害訴訟には,平均して数十人の弁護士が名を連ねたし,医師や研究者,労働者などで訴訟に直接的間接的に貢献した人々も,自らの反体制の証として行動した.不自由な身体の患者の裁判所通いや日常生活を,無数の学生や労働者,市民らが助けた.これらの支援者たちには地元の人々もいたが,全国各地から被害地域に集まった人々も少なくなかった.その中から,被害地に定着して,被害者とともに生きる道を選んだ若者もまた現れた.
 加害源企業の製品の不買運動(森永砒素ミルク中毒事件における消費者の行動)や加害源企業の労働者による被害者支援(水俣病や三井三池の一酸化炭素中毒事件),医者は診察室で患者の来るのを待つものとの常識がこうした事件では弊害であることに気づいて被害家庭を自分で回った医師たち(水俣病)など,従来のわが国では見られない新たな型の支援活動も見られた.
 そして,こうした被害者自身とこれを支える多くの支援者の行動が織りあげる加害構造攻撃=被害構造打破の戦いを,新聞記者,報道記者,写真家,映画製作者,作家,劇作家たちが,さまざまなメディアを通じて支持し,加害源側の横暴さ,無責任さと被害者の悲惨な実態・悲壮な行動を全国民に訴えた.国連を初めとする世界的機関や米国の環境問題への積極的姿勢が,ちょうど,この動きに重なった.こうなっては,企業も行政も司法も,被害者救済の方向に踏み出さないわけにはいかなかった.1960年代後半に提起された公害訴訟はほとんどが1970年代前半に勝訴判決を見たし,被害者を救済するための法制定や制度も幾分前進した.
 巨大な被害構造が,こうして,高度経済成長のツケを集中的に回されたことに抵抗して戦い始めた被害者自身と,これを支える学生,研究者,近代的労働者,消費者,市民,ジャーナリスト,文筆家および国際的世論によって,部分的にではあるが打破されたのである.もっとも,日本の労働組合は,欧米とは違って,企業を横断する職能組織というよりも,個々の企業内組織という性格が強いために,企業が公害を起こした場合,住民の被害に無関心であったり,時には敵対するという事実を指摘しておかねばならない.労働組合が真に普遍的な人権に目覚め,全面的に被害構造の打破にむけて動きだすことは,今後の重要な課題の一つである.
 (3) ユニークな事例――高知パルプ事件――
 1980年代の今日.中東からの石油供給情勢の悪化を引き金とする不況が訪れ,それを理由として,被害者救済や被害者の人権復権に,再びかげりが現れている.しかし,若干の落ち込みがあっても,被害構造にあけた風穴は,やすやすとは塞がれはしないであろう.この10数年の大衆運動と被害者運動の経験は,被害者の中に,人権擁護の貴重さへの認識を根づかせ,ゆるがぬものに至らしめているからである.
 ここで一つ,具体的な事例を紹介しておきたい.高知市に戦後まもなく立地したパルプ工場の排気.排水による被害と,長年にわたって闘い続けた高知市民の運動の例である.この事例は,本書でこれまでに取り上げてきた足尾鉱毒事件や三池炭塵爆発事件,森永砒素ミルク中毒事件が,被害規模においても被害の深刻さにおいても,それぞれ,公害,労働災害,食品災害の代表的事例であったのにくらべると,代表性においては二次的である.しかし,被害住民の行動の独自性が被害構造を打破するうえで有効性を発揮した点,また,その独特の行動が,全国的な公害反対運動が高揚したのと時期を一にしてとられたものである点,さらに,その行動が問題解決に連結するものであった点などにおいて典型性を示すものなのである.
 さて,その高知パルプ事件であるが,この事件は,世界第2位を誇る多様な魚種の住処であり,かつ変化に富んだ美しい風景を形作っている浦戸湾の湾口の高知市に,高知県が挙県的事業としてパルプ工場の誘致を強行したことに始まる.
 高知県下では,徳川時代から,豊富に原料が求められる自然条件を生かして和紙生産が盛んであり,明治以降も引続き製紙業は代表的な地場産業であった.すでにこの段階で高知市内の河川は,製紙工場からの排水によって汚染され始め,漁民や住民にその被害が及びつつあった.昭和戦前期の1930年代にはパルプ工場も操業開始したが,農漁民に与えた被害が原因で操業中止に追いこまれている.製紙業,とりわけパルプ工場に対する市民感情が,こうした過去の体験にもとついて否定的になっているにもかかわらず,第2次大戦後,パルプ工場が,高知市の,それも旧製紙工場の跡地に建設されることになったのである.
 パルプ工場設置認可申請が業者から高地市に出されたのは1948(昭和23)年5月であるが,この時から,県や市など行政による工場建設支持と漁民や住民による建設反対の対立は表面化した.立地先が決定するまでには,県内の諸地域からの誘致運動や立地反対運動もからんだが,立地企業の高知製紙が最終的に選んだのは,敷地が狭く,人口密集地区に位置する高知市内の旧製紙工場跡地であった.この立地条件は,公害防止の観点からすれば,排水処理用地や緩衝地帯用地さえも欠く劣悪なものであった.工場排水は無処理の状態で,市内住宅地を流れる小河川の江の口川に排出されて浦戸湾に運ばれることは明白であったし,水問題のみならず,亜硫酸ガスによる周辺住民被害も十分に予想される立地であった.
 漁民を先頭に展開されたパルプ工場立地反対の住民運動は,1949(昭和24)年1月に工場建設が開始されたのちも続けられ,ついに同年7月には工場操業を前提としたうえで,工場との問に公害防止協定の締結をかちとるに至った.戦後復興期のこの時期に公害防止協定が締結されたということは,住民側の公害反対への意思がきわめて強固であったことを示すものであるが,さらに,協定の内容は,その後の他地域で結ばれた多くの公害防止協定も及ばぬ厳しいものであった.
 協定は次のような誓約条項から成り立っていた.
 ⅰ) 工場の操業に原因するあらゆる公害に対し,工場は無過失損害賠償責任を持つ.
 ⅱ) 公害監視と賠償業務のためには,地域住民が過半数を占める管理委員会を設け,工場は賠償原資として200万円を銀行に預託し,その取扱いは管理委員会に委任する.
 ⅲ) この原資から賠償金が支払われたときは,工場は不足分を直ちに補充し,補充が遅れたときには管理委員会が強制取立てを行う.
 ⅳ) 賠償不可能な損害が生じたときには操業を停止して対策を立て,対策の見通しがつかない場合は工場を閉鎖する.
 以上のような厳しい内容を含む公害防止協定書には,さらに,県知事や高知市長ほか地域の有力者が連署して保証している.
 しかし,工場建設は,こののち,インフレに伴う不況のあおりで中断され,挙県的事業として後援してきた県や市当局,地元経済界は再建のための代替企業を求めて奔走する.この求めに応じたのが隣県愛媛県に本拠を有する大王製紙である.大王製紙が投資して高知製紙から分離独立させた西日本パルプによって,1951(昭和26)年初頭からパルプ工場は操業開始となる.高知製紙から大王製紙子会社の西日本パルプに代わったところで公害対策への姿勢は,全体としてふたたび後退した.
 西日本パルプの工場建設に反対して座りこんだ住民は警察によって強制排除されたし,工場操業とともに発生した高濃度の亜硫酸ガスによる住民の健康障害や大量の黒色の排水による河川や浦戸湾の魚類の大量死に際しても,発生源企業は対策をとらず,県や市,さらに先に締結された公害防止協定で定められた管理委員会も締結内容を守るための行動を一切起こさなかった.むしろ,その反対に,県は,水質検査の結果を被害状況も原因も不明と発表し,管理委員会は預託された200万円を地元住民の接待費などに浪費するなどして,発生源企業を陰に陽に擁護している.公害のたれ流しを公権力に黙認された西日本パルプおよび親会社の大王製紙は,漁民や住民の被害をよそに1950年代を通じて急速に成長している.
 10年近くパルプ工場の無処理排水が流された結果,浦戸湾の漁業は著しく疲弊し,漁民たちは,1962(昭和37)年には,1億円余の補償金を県から受けとって漁業権を放棄するに至った.浦戸湾漁業はここで消滅したのである.水汚染に敏感に対応する漁民が存在しなくなったことで,こののち,浦戸湾の汚染は一層進行した.住民による抗議行動は,西日本パルプに経営が切り替わったところで切り崩されていたのである.
 漁民から漁業権を買収することに成功した県は,1960年代を通じて,浦戸湾沿岸を埋立てて工場用地を造成する工事に遙進した.住民からの反対も,2,3の例を除くとほとんどなく,県としては自由に水辺をいじりまわせたのである.しかし,1970(昭和45)年8,月に台風が高知市を直撃した際,市内のほぼ全域で家屋浸水が生じたことは,高知市民に,浦戸湾埋立て工事の問題点を認識させた.また,この浸水に,市内の河川に堆積したパルプ排水の汚泥が加わって被害を一層大きくしたことが,埋立て工事の問題点と並ぶパルプ工場公害に,全住民の目を向けさせるきっかけともなった.
 パルプ工場公害への反対運動第2期は1970(昭和45)年に始まる.折柄,全国的な公害反対運動も急速に高揚しつつあり,労働運動や学生運動など社会運動がかつてなく力を持ち始めていた.そうした全国的な傾向と歩調を合わせて,地元の知識人や教育者などをメンバーとする高知市内の自然保護運動団体や浦戸湾を守る会が,汚染源のパルプ工場の移転または工場内における公害処理を求める運動を開始した.その運動の理論軸には,自然は公有財産であり,貧困層の生活維持に自然が重要な役割を果たしていることから自然を破壊する工場の行為は許されるべきでないことおよび,技術の利用者はその有限性を認識していることが利用を認められる前提条件であることなどが置かれた.1950年代の高知製紙立地反対運動とはもとより,同時期に各地で起こされた多くの公害反対運動と較べても,きわめてユニークで高い知性の香りを備えた運動方針であった.
 しかし,10年間の運動のブランクは,この新しいタイプの汚染追及運動によっても,埋めるのが困難であった.しかも,パルプ工場は,親会社は大王製紙のままであったが,1960(昭和35)年に,西日本パルプから高知パルプへと再度,経営が切り替わっていた.西日本パルプに輪をかけて無責任に汚染水をたれ流しつづける高知パルプは,1971(昭和46)年5,月31目,浦戸湾を守る会に対して交渉打切りを通告した.残された方法は実力行使以外に無いと判断した守る会の幹部4人は,6月9日,工場の排水口を生コンクリートによって封鎖し,操業を15時間にわたって停止させた.信望の篤い守る会のメンバーによるこの実力行使を高知市民は全面的に熱狂的に支持し,県や市はこの事態を迎えて狼狽し,工場に対して公害処理設備の設置を要求,また,それが不可能であれば工場移転をすることを要求した.高知パルプ工場は,このいずれをも満たせず,ついに翌1972(昭和47)年5月に閉鎖された.20年余にわたるパルプ工場公害は,こうして,一部の住民の思い切った実力行使とこれを支持した全住民によってようやく追放されたのである.
 実力行使をした4人の高知市民のうちの2人について,検察当局は威力業務妨害罪を適用して起訴したが,この裁判は,浦戸湾を守る会にとっては,高知パルプ,高知県,高知市の犯罪性を全国に訴えるための恰好の場となった.全国の主だった公害反対運動団体,自然保護団体,公害研究者,そしてマス.メディアが実力行使を強く支持するなかで,1976(昭和51)年3月31日,2人に対し,各5万円の罰金を課す微罪判決がおりた.実質的には,住民運動側の勝利であった.
 高知パルプ事件のハイライトは,工場排水口への生コンクリート投入とその後の裁判の場を逆用した見事な運動の展開にある.このハイライトは,被害構造を打破するためには,そしてそれを成功に結びつけるには,多様な被害レベルと被害度のもとにあるすべての被害者を結集できる運動の理論運動家の高潔な人格そして信念にみちた行動力が重要な要素であることを示している.

 [参考文献]
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【飯島伸子]