公害

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公害

技術と産業公害

論文タイトル: 結論
著者名: 宇井 純
出版社: 国際連合大学
出版年: 1985年
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結論

 ここに記述した公害の事例は,100年をこえる日本の近代化の歴史の中で起こった,大小無数の事例の中から,代表的な数例をえらび出したものであり,その考察した範囲も,公害の巨大な現実のごく一部にすぎない.しかしそこから,次のような共通の結論と教訓をひき出すことができよう.

Ⅰ 基本的人権

 環境の汚染現象は同じでも,社会にあらわれる被害としての公害は,その場所,時代,自然と社会の条件によって異なる.従って公害の解決は,地域的な差を無視した画一的な手段である法律や技術的対策だけでは不可能であり,そこに必ず関係者としての被害者住民の参加が必要になる.これは広義の政治の重要な課題である.
 公害の予防と解決のための最も根本的な手段は,地域住民の基本的人権の伸長,抑圧からの解放である.日本の歴史においては,基本的な公害抑止力は,被害者住民の自発的な自力救済の運動であり,それに触発された世論がその運動を支えた.法規制や技術的対策はその運動の結果といってもよいものである.多くの運動で有効な手段となったのは,非暴力の直接行動であった.その中でしばしば女性の果たした役割が大きい.これは世界的にも共通に見られる現象として興味深い.
 結局,地域住民の自治が強く,地域の自決が達成されたところでは,公害は出しにくくなる.ここに政治的な地方分権の重要性がある.地域の環境を住民と企業がどのように分け合い,共有するかの問題は,住民の参加なくしては解決できない.このとき,農民や漁民に見られるように,社会的な弱者,貧困層の方が,強者,富裕層よりも,より多く自然環境に依存して生きている.自然環境が破壊され,その豊かな生産力を失うとき,より大きな被害を受けるのはこのような社会的弱者,貧困層である.そして公害の発生により新たな貧困層が発生する.
 このことを考えると,弱者の参加,発言が制度的に優先されなければならない.もしそれが保証されなければ,富と権力が偏在している現在の社会の中で,富者,強者はその無知と傲慢によって有限の資源を浪費し,環境を破壊する.貧者は追いつめられて,やむなく生存のためにわずかな資源を奪いあい,環境を食いつぶす他に道がなくなる.この資源と環境の奪いあいから社会の緊張,不安が激化し,治安を維持するために軍隊や警察などが出動し,被害者である貧者を抑圧するという傾向が生ずる.これが今日,世界の多くの地域でしばしば見られる現象である.

Ⅱ 企業と政府の役割

 本報告でとりあげた足尾銅山,森永乳業,チッソ等の企業は,それぞれの時代において最も急速に高度成長をとげた企業であった.その限りでは,公害防除や食品の安全のための投資を怠ったことが,短期間には利潤の増大にっながった.しかし,公害の因果関係と責任の所在が明らかにされたために,結局は賠償などの経済的負担が大きくなり,さらに他の要因も加わって企業の経営は,かえって悪化した.今日,上記のどの企業もその急成長期の姿にくらべて,各業界の中でも比較的業績の悪い部類に属している.したがって,企業がたとえ因果関係と責任を一時は否定することができたとしても,公害問題は企業にとってもマイナスの要因として,早期に回避すべきものである.また水俣病や森永砒素ミルク中毒事件は,当該企業だけでなく化学工業や食品産業全体のイメージを大きくそこない,他の企業にも不信感をもたらした.広くは経済界全体の問題にもなったのである.
 政治,行政も,日本においては公害問題を治安問題と見なし,その過小評価に固執した期間が長かった.そして紛争の解決法としては原理的に不適当な調停に依存し,本質的な解決をとらなかったことが,問題をかえって拡大し,長引かせ解決至難のものとした.政府に基本的人権を実現しようとする政治的な意思が欠けているとき,環境は不可避的に破壊され,救済不可能な被害を生ずる.
 組織的に強力な企業と,被害者住民との力関係は,そのままでは圧倒的に前者に有利であるから,政府は環境と人権を保護することについて,よほどはっきりした政治的意思をもたなければ,実効ある政策を実現することはできない.このために環境の保存においては,被害者の運動が不可欠であると同時に,政治面での住民参加の制度的保証と,人権を伸長するための民主主義の確立が必要な条件となる.
 日本の経験では,多くの場合,第一次産業である農林漁業が,まず公害の被害をこうむった.日本の工業化の歴史は,工業による第一次産業の侵食,圧迫という形をとる傾向があったために,衰退する第一次産業の中の少数者としての被害者の声は,政治に反映する機会が少なく,そのうちに被害が拡大し,都市にも波及するようになった.日本の第一次産業の衰退は著しく,1例として食糧のオリジナルカロリーによる自給率は40%を切るまでになった.それでも農林漁業のうけた被害によって公害の存在に気づき,ある程度の抑止がなされた.もし第一次産業を重視し,その健全な発展をはかるような政策がとられていれば,もっと早い時期に公害を防止することもできたであろう.この経験は特に工業化の初期段階にあるアジア諸国にとっては重要と思われる.
 三井三池におけるCO中毒の典型的な事例に見られるように,労災,職業病の現実が明らかになったのは労働者の団結権が認められた結果であった.労働組合の強いところでは労災は減少し,その力が弱まったときに大規模な災害が起こりやすくなる.日本の労組の大部分は国際的には特異な企業別組織の形をとり,企業の労務管理を補完する傾向が強いが,先駆的な労組においては,労災,職業病の防止が重要な任務としてとりあげられた.更にその所見は,公害の因果関係の発見,危険の事前予知に貴重な情報となった.労働者の権利保護は,ここでは国民全体の健康の保証につながった.
 労働組合の組織形態を問わず,個々の労働者の人権意識が確立されていたところでは,これまでにも有害な物質の生産停止や,労災の予防に成功した.1970(昭和45)年に日本で四エチル鉛の生産が中止されたのはその1例である.このような労働者の人権意識を促進し,その要求を具体化させる場として,労働組合の存在は重要である.

Ⅲ 裁判の問題

 農村共同体内部での紛争の解決にあっては,被害者が権利を主張できず権威の前に泣き寝入りをし,加害者の主導権下にある調停に従わねばならなかったものである.それにくらべれば,第2次大戦後の裁判への提訴は大きな一歩であった.因果関係と責任を公開の場で追及してゆくことは,企業にとってはその社会的印象を悪くすることになる.法廷は,少なくとも被害者と加害者が対等に発言できる場となった.弁護士や科学者,市民の協力も得られたので,損害賠償請求という形式での裁判の場の利用は,概して成功した.法廷外の大衆運動が法廷活動を上回るほど盛んになったとき,世論は被害者に有利に展開し,判決にもまた有利な結果が得られた.
 1970(昭和45)年前後に進行した公害四大裁判の過程を通じて,日本の公害反対運動は大衆的な高まりを示し,足尾鉱毒事件以来の長い歴史をふりかえり,過去の運動の成果や欠陥を検討するという気運が生まれた.すでに歴史の中で,公害をひき起こした企業が生産を制限したり,危険を生む工程を改良したりした事例もあったが,それは公害反対運動の圧力によって実現していたことも,足尾,日立,別子などの事例で明らかになった.またいったん起こった被害の救済としては,損害賠償請求という方法には限界があることも明らかになった.
 そこでより本質的な公害の事前予防のための差止請求訴訟が,1970年代に入って提起されるようになった.これに対しては政府も企業も,それが開発計画そのものへの変更要求や企業活動に対する基本的な制約を意味するために,きわめて強い抵抗を示してきた.裁判所の挙動にも,公害の実態と本質を知らぬために,保守的なものがあり,住民運動の当事者資格とか,訴えの利益とかいう形式的な条件で判断を回避し,実質的な審理に入らず,訴えを却下する事件が相次いでいる.
 また最近は,弁護士の一部にも公害訴訟の型に慣れてしまって,積極的な学習努力を行わず,自分たちの専門性の中へ事件をとじこめて市民の協力を拒んだり,裁判の成果だけを安易に手にしようとする動きもないでもない.その結果は概して被害者に不利な裁決をもたらしている.大衆行動のない裁判はよい結果を期待できない.ここでも民衆の参加を排除する司法界の中途半端な職業意識は,問題の解決を困難にしている.
 公開の法廷は公害被害の責任確定の場としても,損害賠償をかちとる場としても役立ったが,事前予防の場としては,このような司法界の専門意識が壁となっている.被害者運動が更に力をたくわえて,この権威主義にもとついた偏狭な専門家意識の存在に気づき,専門家の限界を承知したうえでそれを使いこなすことが必要になってきている.共同体の権威のもとにおける調停にくらべれば,たしかに裁判は一歩前進した場であるが,そこにもまた権威主義の限界があり,その克服のためには更に一段の運動の高まりがなければならぬ.なお,形式的には世界で最もよく整備されているといわれる日本の公害規制法体系が,被害者救済にはほとんど役立たなかったことは一つの教訓になる.いわゆる四大公害訴訟は,すべて民法,鉱業法などの古い一般法によって行われ,その中から挙証責任の転換,共同不法行為,無過失責任,規制基準と無関係な不法行為の認定等の前進的な判例を生み出した.この点は日本の公害訴訟が世界に先がけて到達した先駆性である.他方,体系的に整備された公害特別法が,企業に対する事前規制において若干の効果をもち,予防的役割を果たしていることは認められる.しかし警告的な効果においても,四大公害訴訟以降の判例の積み重ねのほうがはるかに大きいと法社会学的には判断せざるを得ない.これは法律の有効性を論ずるうえで今後考慮すべき事実であろう.

Ⅳ 科学技術の役割

 現在の環境科学の水準はまだ決して高いものではなく,自然科学的にも社会科学的にも複雑な現象である環境の現実に対して,公害問題を全面的に記述し,表現し,把握できる段階に達しているとはいえない.従来のアカデミックな手法だけでは,公害問題を十分に解明するには限界がある.科学者は,現実の中で生きている地域住民,公害の被害を身にうけて感じている被害者と協力して,そこから学ばなければ全体像をつかむことは困難である.公害の多くはまず被害によってその存在に気づくのであり,研究は被害から出発し被害へもどらねばならぬ.また住民や被害者と協力してこそ,環境科学の新しい方法論が生まれ得ることを,本報告の執筆者はいずれも体験している.環境科学者は現実の前に謙虚でなければならぬ.しかし日本に限らず,いわゆる環境科学者として専門性を強調する者の中には,この謙虚さと現実をつかむ能力をもたぬ者が多いことも指摘しておかねばならぬ.
 まして環境を管理する試みは,自然と社会に対する慎重な姿勢を必要とする.技術ですべてが操作,管理できるという考え方は危険であり,誤っている.これは科学の官僚化のあらわれであり,公害対策としては低水準にあるというべきである.あまりに技術的な規制のみに依存し,複雑な規制体制を作ってしまうと,公害規制の間接的費用が増大し,かえって企業と運動の双方の活力を殺してしまう結果になる.公害防止条例や公害防止協定にはその危険が含まれており,それだけに頼るのでは効果はごく限られている.これを支える運動があって,はじめて効果をあげることができる.環境アセスメントについても,この指摘はあてはまる.,現在日本で用いられている手法は,技術的に偏向した性格をまぬがれず,それに実効を期待しても,多くは徒労に終わると懸念される.
 日本の公害規制,技術的対策の効果については,国際的に過大評価をうけている傾向がある.まず,規制を現実のものとした運動の存在については,ほとんど外国に知られていない.これは圧倒的な量の政府広報,あるいはそれに類した情報が,運動の存在については全く触れず,政府が自発的積極的に規制を行ったように書いているからである.その記述はきわめて技術的なものに限定されており,歴史的,社会的なものにはふれないのが通例である.
 次いで,成功した部分については宣伝が盛んだが,失敗した部分,あるいは企業からの圧力によって後退した部分については,それらの記述は触れていない.たしかに大気中のSO2や工場排水中の重金属のように,技術的対策が容易であったものについては,顕著な改善が見られた.しかし,NOxのように技術的対策が困難な問題に対しては,基準を大幅にゆるめることで問題を見えなくしてしまい,その結果,事態は悪化する傾向にある.水汚染における技術的対策としての下水道のように,不完全な対策に執着してかえって水を汚す結果をもたらしているものさえある.流域下水道の計画はむしろ利権を伴う土木工事として建設されているといってもよいほどである.従ってその効果も限られており,いたずらに巨大化した計画のために,かえってその完成がおくれ,普及を妨げている.PCBを使用禁止したために,それより検出のむずかしい安全性の疑わしい代替品が普及した例,またある種の排水処理が更に処分の困難な汚泥に問題を生む場合もあり,現在の技術は決して万能ではない.しかしそれにもかかわらず,政治の側では,技術的対策をしばしば誇大に強調して宣伝し,世論の関心をそらせようとする.足尾鉱毒事件を治水問題にすりかえて以来,このやり口は支配層がたびたび利用してきたものである.歴史的な考察を行えば,このようなごまかしははっきりするであろう.
 日本国内では,高度成長経済下に科学技術によって公害は解決されるという科学技術万能の幻想と自然の複雑微妙さへの軽視が広がった.この風潮のもとで,政府と企業の宣伝が効果をあげ,公害問題の大部分がすでに解決したような印象を内外に与えていることは否定できない.しかし,貿易量の増大に伴う労働の国際分業の進行によって,現状では公害輸出のように,むしろ問題が国際化させられてきている.日本国内における公害対策の成功とされるものにも,むしろ見せかけのものとしか受けとれないものがある.それを文字通りに受け取ることは賢明ではない.

Ⅴ メディアの効果

 公害問題の存在を全国に知らせ,世論を形成するうえで,大小さまざまなニュースメディアが果たした役割は大きい.日本のマス・メディアの大部分は商業主義的基盤をもつか,電波の免許制と記者クラブ制度の存在のように,政府の強い支配の下にあり,完全な報道の自由はなかなか実現しない.それでも個々のジャーナリストの正義感と,公害反対運動側の工夫によって,多くの場合この壁は乗り越えられた.このために,一見局地的に見える公害問題も,じつは全国のどこにも形を変えて現れている問題だということが理解され,世論がその公害反対運動を支持し,さらに運動が全国に伝播するような情況が生まれた.
 政府や企業の側は,マス・メディアの重要性については知りつくしており,しばしばあらゆる手段で工作し,報道の自由に圧力をかけている.しかしその圧力,工作の隙間をぬって,さまざまの工夫によって真実が伝えられた.第2次大戦前の厳重な国家統制のもとにおいてさえ,足尾鉱毒事件に見られるように.ジャーナリストの果たした社会的役割は大きかった.それにくらべると第2次大戦後1960年代までのマス・メディアの公害問題へのとりくみには,持続性と系統性を欠いたうらみもあった.しかし1960年代後半以降,住民運動側もマス・メディアの重要性に気づき,積極的に利用,協力するようになったので報道の質も向上した.
 被害者,住民運動の中では,既存のマス・メディアに頼るだけでなく,独自の情報伝達方法を創出し,全国に向けて叫び声をあげる努力が広がった.これが最も積極的になされ,マス・メディアの中のジャーナリストも個人的に匿名で参加したものが水俣の場合であった.独自の運動通信を発行し,全国に送付することは決して小さな経済的負担ではすまないが,水俣では今日まで運動の多様な局面,思想までを含めてニュースの定期的刊行がつづけられていて,それがまた逆に運動を支えている面もある.水俣を先頭として,多くの住民運動でそれぞれのいわゆるミニ・コミュニケーションが試みられ,それらは相互にはげましあうネットワークを形成している.
 しかし現在までのところ,日本のメディアが未だ著しく立ちおくれている分野は,その国際化であることも指摘しておかねばならない.島国であるための言語.文化の壁は大きく,日本の公害,環境問題の国際化にくらべて,明らかに日本の運動の体験の国際化は立ちおくれている.また世界の環境問題の情報についても,日本では極めて限られたものしか一般に知られていない.捕鯨反対運動についてのかなり偏った報道は,その一例である.日本のマス・メディアは,島国の地理的.歴史的条件を反映して,国内問題と国外問題とを別々なものとして扱うという単純な二分法をとりがちであり,しばしばナショナリズムの傾向を示しやすい.しかし日本経済の巨大化と国際化がここまで進行した今日,日本の公害反対運動もまた,世界とアジアの中での自己の相対的な位置と役割を見定める必要がある.特に運動の独善化のおそれをさけ,国際的な協力の実をあげるために,交流の強化は絶対に重要である.

Ⅵ 日本の未来

日本においては,ここに取りあげた公害に加えて,農薬の大量使用に依存した農業から生ずる環境と食品の汚染,医療制度の欠陥から起こる医薬品の大量投与によって生じた薬害,加工食品の大量生産と大量消費のために不可避となる食品添加物の大量.多種の使用,原子力発電所の多数の操業に伴う微量放射能の増加,その他たくさんの汚染が重なっている.更に都市機能の過度の集中による都市化,過密と過疎の存在がそれらに加わって,内部環境,自然環境共に深刻な複合汚染と破壊が進行している.ここではすでに原因と結果の相関関係を見出すことは不可能に近く,日本の国民は一般的な健康水準の低下や寿命の短縮,原因不明の病気の増大という形で,その複合した結果としての影響に直面する恐れが多分にある.
 これが日本の近代化,工業化がGNPを唯一の指標として進められたために生じた一つの結果であった.現在環境破壊が世界の南北を通じて深刻化し,その中で環境を考慮せずに開発の効果だけを追うとき,安定した開発の成果は得られないという考え方が次第に増えている.その一つの実例として日本の経験が役立つならば,公害被害者の苦しみも一つの積極的な意味を持つことになる.真の生活の質的向上のための開発の方向を探るために,日本の経験を否定面を含めて生かすことが必要である.
 いったん汚染された環境は,容易に回復せず,不可逆な損害を生ずることが多い.そして生じた損害の中には,人の生命や健康の被害のように,本来金銭で補償不可能な,経済学で言う絶対的損失が存在する.そこから更に日常生活の広い範囲に及ぶ二次被害が生ずる.このために,公害が起こってからの事後の被害救済と対策は,本質的に不十分なものになる.たとえば水俣病は不治の病である.このため公害を起こさせない予防措置と,そのための歴史的事例の批判的な検討が最も重要になる.
 しばしば公害の予防に要する費用は,損害にくらべておどろくほど小さい.チッソ水俣工場のアセトアルデヒド合成工程からの水銀流出を完全に止める費用は,わずか150万円であった.水俣病患者の補償に数千億円もかかるかもしれぬという損害にくらべて,これは比較にならぬ小さな費用であった.これを教訓として生かし,開発計画において事前に十分な予測を行い,当事者住民の参加によって地域開発を実行することが重要である.もしその配慮を怠るとすると,日本の失敗を,有限の地球上で拡大して繰り返す危険が迫っている.
 日本における公害は,まず日本の近代的軍事国家としての出発と結びつき,戦争に伴う人権の無視によって促進された.そして第2次世界大戦後にも大量生産.大量消費の軍事生産様式の遺産を基盤とした一見平和産業化した大量生産.大量消費の高度成長の中で公害が激化した.しかし,公害への抵抗を通じて,長い時間を要しはしたが,人権思想は定着し始め,被害者たちの幾多の苦難の運動の結果,ようやく公害問題の取組みに改善が見られた.しかるにいま再び,軍備拡張,核戦争の危機が深刻化しっつあり,積み上げてきた成果さえ失うかもしれない段階に至っている.日本において無数の犠牲者を出した公害を,世界中で繰り返さないためには,人権を尊重した政治を民衆の参加によって実現し,核兵器をはじめとする軍備を縮小撤廃させることが必要である.何故なら,戦争こそ最大の公害だからである.
[宇井 純]