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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第2章:移行期の交通・運輸事情ー1868~1891(明治元~24)年 I 政策
著者名: 増田 廣實
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第2章:移行期の交通・運輸事情ー1868~1891(明治元~24)年 I 政策

 明治維新の政治変革によって,封建社会から統一的近代国家へと急速な発展をめざした明治政府は,先進欧米資本主義諸国がその発展の基盤とする工鉱業とともに,近代的交通・運輸・通信機構・体系をとり入れ,その再編をはかった.
 明治政府の成立した1868(明治元)年当時,先進欧米資本主義諸国は,産業革命を終え,工業化の基点となった馬車時代や運河時代を経て,新しい鉄道時代への躍進の時期を迎えていた.この鉄道敷設の波はヨーロッパ・北アメリカはもちろん,広く植民地下のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ等にも及び,現にインドではイギリス資本の進出により,5000km前後の鉄道敷設をみていた.
 このように鉄道時代を迎えた先進欧米資本主義諸国やその植民地に比較し,日本の内陸交通・運輸は大幅に立遅れていた.例えば道路についてみれば,幕府・領主により封建的制約のもとに置かれ,封建的軍事・行政施設として整備されて,庶民の利用には多くの制限が加えられていた.したがって,大河の架橋や車両の使用等も禁止されており,牛馬背・人担による輸送に全面的に依存せざるを得ない状態であった.
 このように世界的な鉄道時代を迎え,大量輸送が行われはじめたのとは対照的に,日本での交通・輸送は大きなギャップの下で近代化=資本主義化の時代への突入を余儀なくされたのであった.こうした先進資本主義諸国との一見埋めがたい程のギャップを,短時日の間に効果的に埋めるためには,政府は「下から」の自主的近代化のコースを待つ余裕はなく,「上から」の近代化コースを強力に推進する必要があった.これにより富国強兵をスローガンに,殖産興業とよばれる一連の政策を中心に,近代化=資本主義化が実現されていくこととなる.以下この時期の交通・運輸事情について政策面から考察することとする,
 (1) 明治初期の運輸政策
 明治政府は,慶応3年12月(1868年1月)に王政復古の大号令を発布したものの,当面する行政的権能は当初従来通り徳川氏に委任の方針を決定していた1).しかし程なく,明治政府は「辞官納地」問題を契機として,鳥羽・伏見の戦から徳川慶喜追討・東北征討にいたる戊辰戦争に突入し,翌明治元年9月(1868年10月)に名実ともに実権を掌握するに至るまで,全国にわたる軍事行動を展開することとなった.この間,自ら行政的権能をはたさざるをえないという軍事上の必要から,陸上輸送の問題もまた自らの手で処理にあたることになった.
 戊辰戦争の遂行を通し,統治権の浸透・確立をはかる明治政府は,大規模な軍事行動とこれにともなう兵器・弾薬・食糧及び人員の輸送手段として,在来の沿道の宿駅とその継立人馬の機能を最大限に利用した.したがって,明治政府による交通・運輸政策は,まず徳川幕府により確立され,明治政府によって引き継がれた公的陸上輸送機関としての宿・助郷制度について打ち出されたのであった.
 しかし,明治政府によって戊辰戦争遂行のために利用された宿・助郷制度は,すでに長年にわたる無賃あるいは定賃銭による休泊や,人馬継立の負担の過重のため,いちじるしく疲弊させられていた.それに加え,幕末以来の政情を反映して休泊・公用人馬の継立が増加し,さらに明治政府による戊辰戦争遂行のための軍事的必要からの強制的休泊・人馬継立が激増したことは,宿・助郷制度の急速な崩壊をもたらす結果となった.
 しかし明治政府は当面,陸上交通・運輸手段について,宿・助郷制度に替わるべき有効な手段を見出すことができなかったため様々な方策をもって宿・助郷制度の維持に努めた.例えば,戊辰戦争の軍事的必要を満たそうと,1868(明治元)年3月から6月にかけて,人馬賃銭の引上げを行い,助郷を海内一同に及ぼし,助郷組替を行って,東海道は各駅7万石,中山道は各駅3万5000石,その他街道は各駅1万石ほどの勤高に再編し,負担の平等化をはかるなどの措置を行った.しかし,こうした措置は崩壊に頻している宿・助郷制度をたてなおすどころか,かえって従来の宿・助郷と新助郷間に新たな対立をひき起こすなど一層問題を複雑多岐にわたらせることとなった.
 政府は,助郷組替の完全実施をめざし,繰返し布告を発して宿・助郷諸村の怠慢を叱責し,あるいはその宥和につとめたが容易に効果をあげることができず,1870(明治3)年9月,先の助郷組替を廃止し,宿人足・定助郷の復活を行った.しかし,かかる措置も結局は宿・助郷問題の解決とはならず,翌1871(明治4)年から1872(明治5)年にかけ,東海道を手はじめに各街道宿駅に陸運会社を設置させ,助郷制度を廃し,人馬継立は相対賃銭をもって行う政策が施行された.
 この各駅陸運会社は,結局のところ会社目的以外の営業や,自由な附通しをゆるされず,助郷制は廃されたものの宿駅の運営は従来と変わるところがなかった.これらの会社は附通しの人馬に対する刎銭の強要等旧宿駅的運営に終始し,明治政府の全国統一を背景とした新しい時代の要求する全国的陸上輸送のための機関としては多大の障害を内在させていた.したがって,地域的人馬継立組織としての性格の強い各駅陸運会社とは別に,全国的輸送機関の設置が政府による全国統一の発展とともに考慮されはじめた.
 政府による全国的運輸機構設置の意図に対し,その目的に合致するものとして注目されたものは,江戸・大阪・京三都間定飛脚問屋仲間によって,1872(明治5)年7月,東京に設立された陸運元会社であった.定飛脚問屋は東海道を中心に公私の信書・貨幣・物貨の運送取扱業務を行い,すでに江戸時代,三都本店は全国各主要地に支店をもち,また仲間相互に組織を利用しあうことによって全国的運送取扱業務を行っていた.しかも,問屋仲間をもって陸運元会社を設立することにより一層組織を充実させ,運送取扱業に加えて各駅陸運会社や旧街道・河岸問屋を組織化して継立業をはじめ,馬車による長距離輸送にもあたるようになった.このため政府は陸運元会社に大きな特権を与え,全国的運輸機構として育成していく政策を打出すこととなる.すなわち,1873(明治6)年6月太政官布告第230号をもって,同年9月1日以降,陸運元会社に入社・合併するか,規則・資本等会社内容が妥当と認められ駅逓頭の免許を受けた者以外,私に輸送業務を営むことができないこととして,陸運元会社に陸運上の大きな特権を与えその育成をはかったのであった.
 陸運元会社は,この布告第230号を武器にして,この布告の出された6月中に各地に社員を出張させ,出張店・会社・取扱所等の名称の下に傘下3480店を全国各地に開店させることに成功した.この成功をうけて政府内部でも各駅陸運会社解散の意見が次第に高まり,ついに1875(明治8)年5月末日を限りに各駅陸運会社を解散した.そして,同年2月内国通運会社と社名変更を行った陸運元会社は,鉄道諸貨物の取扱いを含め,全国陸運を総括する地位に立った2).
 (2) 殖産興業政策と交通・運輸
 このようにして全国的運輸機構を確立しようとする政策は,1874(明治7)年内務省設置をもってはじまるいわゆる大久保政権下での殖産興業政策の一環をなすものとして,強力に推進された運輸・交通政策の一つであった.1873(明治6)年,遣欧米使節の一員として,欧米先進国における資本主義の発展をつぶさに視察して帰朝した大久保利通は,西郷隆盛等の反対勢力を政府部内から逐い,政権を握ると,内務・大蔵・工部三省の官僚機構の全力を結集して近代化=資本主義化のための「上から」の政策――殖産興業――を推進した.この政策課題遂行の基礎として交通・運輸の発達を意図し,全国的運輸機構の確立を目論んだのであった.
 全国的運輸機構を具体的に構成する交通・運送手段は,陸上における人担・牛馬背・馬車等,陸上交通・輸送を補完しより一層それを高率化する内陸舟運,これらと河口港等を結節点とする内航船舶,それに鉄道であった.これら交通・輸送手段を充実させるため,道路建設,内陸運河,修・築港,鉄道敷設などの土木事業がとりあげられることとなるが,このための財政措置として1878(明治11)年計画・具体化されたのが,わが国最初の公債――起業公債――の募集である.この公債をもって行われたものが起業基金事業とよばれる一連の諸事業であった3).
 こうした近代化政策遂行にあたっての最大の問題は,先進資本主義諸国によるわが国諸産業への進出と支配とをいかに排除するかであった.特に諸産業の基盤としての交通・輸送面への先進資本主義諸国の進出は国家の政治的独立さえも危うくさせるものであったから,明治政府はこれに対し全力をあげて阻止をはかった.そうした例として,明治初年の合衆国公使館員ポートマン(A.L.C. Portman)による江戸(東京)・横浜間鉄道敷設免許獲得問題と,1875(明治8)年以降の三菱汽船会社育成による内航及び近海航路からの外国汽船の駆逐とをあげることができる.
 ポートマンが王政復古の2週間後,幕府外国事務総裁小笠原長行から江戸(東京)・横浜間鉄道敷設免許を獲得し,これの契約確認を明治政府に求めたのに対し,1869(明治2)年2月,明治政府はこれを拒否し,自力で敷設する方針を打ち出した.この政策決定は1869(明治2)年12月に行われるが,それは英国公使パークス(H.S. Parkes)の助力を得て,ロンドン市場での募債と英国からの資材・技術導入によって東京・京都間に政府直営鉄道(官設官営)を敷設するという内容であった.この方針により1870(明治3)年4月着工された東京・横浜間鉄道は,1872(明治5)年10月竣工をみたのである.ここで示された,敷設権を求める外国資本の圧力を排除して政府直営鉄道を敷設しようとする方針は,私営鉄道の発展を阻害し,他方政府資金が不足したこととともに鉄道敷設停滞の原因にはなったが,外国資本による鉄道敷設を契機とする植民地化を阻止した.
 1854(安政元)年開国以来,日本沿岸や近海への外国船舶の進出は著しく,合衆国の太平洋郵便蒸気船会社,英国のP & O汽船会社などが定期航路を開いたのをはじめ,多くの外国船が開港場間の貨物輸送に積極的に参加した.これに対し政府は様々な対抗措置を講じたが十分な成果は得られなかった.たとえば日本型帆船が竜骨を欠く平底で一枚帆であるという構造的弱点により,西洋型帆船・蒸気船に比較して,積載量・運航の定期性・安全性に劣るため,日本帆船の西洋型帆船への転換を奨励した.また,政府所有船を運用し,沿岸海運に大きな比重を占めた貢米輸送に従事する半官半民の会社を設立した.
 この政府の直接関与による海運企業育成は1875(明治8)年に失敗するが,政府は大久保内務卿の建議により民営保護政策を海運政策の基本とする方針を決定し,新たに三菱汽船会社の保護育成に努めた.これにより同社は社名を郵便汽船三菱会社と改め,海運界での独占的地位を確立するにいたった.すなわち1875(明治8)年,横浜・上海航路を開いて合衆国の太平洋郵便蒸気船会社と対抗した三菱会社は,さらに横浜・函館航路でも同社と競争を開始し,運賃値下げに勝ち,船舶・航権の譲渡をうけた,また,翌1876(明治9)年横浜・上海航路に進出し三菱会社に競争をいどんだ英国P & O会社も,強力な日本政府の援助にささえられた三菱会社との競争に敗れ,進出後6カ月で横浜・上海航路から無条件撤退した.このように三菱会社は内航・近海での定期航路からの外国船の駆逐に成功したのであった.
 大久保政権による殖産興業政策遂行の一環としての全国的運輸機構の確立は,このようにして陸運では内国通運,海運では三菱会社の保護育成を中核として推進されていったが,これら交通・輸送のための鉄道・道路・港湾等諸施設の整備建設事業は大久保政権成立初期より計画されていた.しかし,西南戦争等で着手が遅れ,1878(明治11)年になって起業基金事業として実施された.すなわち,同事業のうち内務省関係では野蒜築港,新潟修港,宮城・山形間新道開削,岩手・秋田間新道開削,清水越新道開削がそれであり,工部省関係では京都・大津間鉄道建築,敦賀・大垣間鉄道建築,東京・高崎間鉄路測量をあげることができる.
 これらの事業は,内務省の行った野蒜築港にみられるように,殖産興業政策推進の基礎作りとして,以後行われる諸事業の中核としての交通・輸送環境の整備をはかるものであった.北上川の河口港として,土砂の堆積のため機能低下した石巻港にかえ,野蒜港を築き,野蒜港へは北上運河をもって北上川舟運を結び,他方,東名運河により仙台港,さらに貞山運河をもって荒浜・阿武隈川舟運を結び,東北地方各主要道路と日本鉄道会社の敷設する東京・青森間の鉄道を野蒜港に集約することによって,ここを東北開発の中心地としようとするものであって,以後行われる諸事業の中核をなすものとして施行された(第4図参照).
 また工部省の行った鉄道敷設についてみるならば,これは1869(明治2)年12月に決定された東京・京都間鉄道敷設の具体化であり,当初中山道経由による鉄道敷設の一部として進められ,幹線鉄道敷設計画完成への一部として実施された.このため,1883(明治16)年12月条例公布・募集された中山道鉄道公債による資金が一部流用されたのであった1).
 (3) 企業勃興期の交通・運輸
 これら起業基金事業は,1878(明治11)年から1885(明治18)年にかけ実施されたが,殖産興業政策そのものがこの時期大きな転換期を迎えることとなる.1878(明治11)年に事業推進の中心者大久保が暗殺され,西南戦争後のインフレ対策の失敗,自由民権運動の高揚,北海道開拓使官有物払下げ事件の生じる中で,1881(明治14)年の政変により大隈重信の参議・大蔵卿罷免,それに続く大蔵卿松方正義のデフレ政策が強力に遂行された.このような政治状況の変化の中で巨額な財政投資にささえられた殖産興業政策は次第に整理統合され,縮小がはかられ,官営諸事業の民間への払下げが進められていった.それは,明治政府自身が産業革命における「最初の企業者の失敗」を肩代わりすることによって,次の段階における民間企業の基礎をきずきあげる役割をはたし終えたことに他ならなかった.このようにして1880年代後半には民間投資ブームをひき起こすこととなる.
 このような殖産興業政策の転換は,交通・輸送面に関しても顕著にあらわれる.政府が全国的運輸機構確立のために強い保護政策を推進した陸運と海運,また官設官営方針を堅持してきた鉄道についてみると次のようである.陸運では1873(明治6)年,内国通運保護育成のために出された太政官布告第230号は布告の内容が穏当を欠き,海運についてこのような制限がないことを理由に1879(明治12)年5月,廃止された.海運についてはたしかに布告第230号のような制限はないにしても,三菱会社に対する保護政策が実施されていたことは前述のようであった.これに対しては,政府は三菱会社に1882(明治15)年2月,第三命令書を下して,海上輸送以外の事業禁止,船舶の増備・改良,助成航路における定期航海の厳守,運賃の適正化など監督・干渉を強めた.他方政府は,三菱会社に対抗する新海運企業の設立を考え,1882(明治15)年7月,半官半民的色彩の強い共同運輸会社を設立させ,三菱会社と競争させる政策をとった.鉄道については1881(明治14)年,官有物払下げ方針の線にそって参議伊藤博文が鉄道株券発行を提案したが,工部卿山県有朋の反対によって中止された.そうした動きの中で,1881(明治14)年6月,官設を主張する工部省の意向を満足させながら,民間資本を結集した日本鉄道会社の設立をみた.同社は上野・青森間の鉄道敷設を目的として華士族豪商資本を結集しながら,右大臣岩倉具視の斡旋により政府より日本鉄道会社特許条約書を下附され,政府による工事・営業の代行や利子補給など手厚い保護を与えられた.すなわち,鉄道についても従来の官設官営方針の転換が行われ,民間資本による鉄道企業勃興の端緒が開かれたのであった.
 大蔵卿松方正義による財政整理政策の成功による経済安定と企業勃興のための条件の創出は,1880年代後半の民間の投資意欲を刺激し,産業全般にわたる投資ブームをひき起こす.陸運についてみると,1879(明治12)年の太政官布告第230号廃止を契機として,物貨輸送業の認可は地方官庁が与えることに改正されたこともあって,各地に馬車輸送・河川舟運関係にわたる各種の輸送会社の設立をみることとなる.このことは当然ながら各社間における激しい競争をひき起こすこととなり,内国通運も1891(明治24)年逓信元請業務の入札に敗れ,1873(明治6)年以来請負ってきたこの業務を一時期日本運輸会社に奪われることとなった.また海運では,前述したように政府政策により三菱会社に対抗して1882(明治15)年,東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社が合併して共同運輸会社が設立され,両社の激しい競争がはじまった.この間の1884(明治17)年には大阪を中心とする中小船主が企業合同し大阪商船会社の設立をみた.その後,三菱・共同両社は激しい競争に疲れ,1885(明治18)年政府勧告により合併して日本郵船となるが,1887(明治20)年には後の東洋汽船会社の前身である浅野回漕部が設立されるなど,海運にあっても次々に新しい民間企業の設立をみ,新たな競争を生んだ.
 このような民間資本による企業勃興の中にあって,特にめざましいものは鉄道であった.鉄道企業勃興の一因は,1881(明治14)年設立され,政府の保護の下にめざましい成果をあげつつあった日本鉄道会社の成功であった.日本鉄道会社は,1883(明治16)年7月上野・熊谷間の開業を皮切りに,1891(明治24)年9月ついに上野・青森間の全通開業をはたす.中でも1885(明治18)年の山手線開通による,生糸・絹織物産地上毛地方と輸出港横浜との鉄道連絡の成功は,同社の収益を飛躍的に増大させた.こうした日本鉄道会社の成功にあやかろうと,鉄道投資ブームが起こり,鉄道建設申請があいつぐ結果となり,ここに政府は1887(明治20)年5月私設鉄道条例を公布し,法的に私鉄敷設を公認するにいたった.
 この間,1886(明治19)年7月官設鉄道は東西幹線鉄道建設を中山道から東海道への変更を公布して着工し,1889(明治22)年7月,ついに東京・神戸間の全通をみることになった.かくして,1891(明治24)年7月,鉄道局長官井上勝が「鉄道政略ニ関スル議」を内閣総理大臣に提出し,経営収支を度外視した官設主義を強調し,私鉄の買収を論及した.この3550マイル(5711.9km)の鉄道建設による路線拡張計画がたてられた時期には,官私設あわせて1400マイル(2252.6km)の鉄道の完成を見,さらに1000マイル(1609km)に及ぶ予定線の測量がはじめられていた.
 このようにして,翌1892(明治25)年第三議会で鉄道敷設法の成立を得て本格的な鉄道時代を迎えることになり,鉄道を優先とする交通・運輸の再編が行われることとなった.

 [注]
 1) 慶応3年10月20日,大政奉還間もなく徳川慶喜からの朝廷への政務に関する8ヵ条の伺書に対する解答として指示された(「続徳川実紀」慶応3年10月28日,「復古記」慶応3年10月19―26日).
 2) 山本弘文『維新期の街道と輸送』,法政大学出版局,1972(昭和47)年,同「戊辰期における軍事輸送」,『日本近世交通史研究』,吉川弘文館,1979(昭和54)年,所収,参考.
 3) 増田廣實『殖産興業政策と野蒜築港』,国際連合大学,1979(昭和54)年,寺谷武明『日本港湾史論序説』,時潮社,1977(昭和52)年,参考.
 4) 3)と同じ.増田廣實「殖産興業政策と河川舟運」,『社会経済史学』第48巻第5号,参考.
[増田廣實]