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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第2章:移行期の交通・運輸事情ー1868~1891(明治元~24)年 IV 沿岸海運と河川舟運
著者名: 増田 廣實
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第2章:移行期の交通・運輸事情ー1868~1891(明治元~24)年 IV 沿岸海運と河川舟運

 (1) 開国と沿岸海運
 河川をはじめとして,湖沼を含む内陸水運は,溯航終点にあって牛馬背・人担などの陸運と連絡し,他方河川流末部分に発達した河口港にあっては沿岸海運に結ぶことにより,陸・海運双方と補完しあいながら,江戸時代を通して全国的な展開をみた.こうした運輸体系に大きな衝撃を与え,その変化を生みだした第1の原因は,1854(安政元)年にはじまる開国であり,第2は,明治維新の政治変革であった.
 開国による開港場を通しての輸出入の増大は在来の運輸体系の変化を生み,明治維新の政治変革は,幕藩領主支配を崩壊させ,共に近代的運輸体系を生みだす要因となった.こうした中で,在来の運輸体系のうち最初に変化の生じたのは沿岸海運であった.
 在来の海運の近代海運への脱皮は,海上輸送手段としての船舶とその操船技術の取得からはじめられた.1853(嘉永6)年ペリー(M.C. Perry)来航による開国要求を契機に,幕府は1635(寛永12)年以来の鎖国政策の一環であった大名への「大船建造の禁」を解き,1853(嘉永6)年浦賀に造船所を建設した.そして幕府自ら西洋型帆船建造を行い,幕命による水戸藩の石川島造船所をはじめ,薩摩藩等雄藩による造船もはじまった.他方操船技術の習得も,幕府がオランダから軍艦スンビン号(観光丸)を贈呈されたのを機会に,1855(安政2)年長崎に開設した海軍伝習所においてはじめられ,1860(万延元)年には咸臨丸による太平洋横断をはたすまでに技術向上をみた.また海運については,幕府は1854(安政元)年江戸・大坂間定期船である菱垣廻船問屋仲間株の制度を廃止し,仲間以外の船荷の自由取引を許可し,1861(文久元)年にはその所有する千歳丸をもって上海出貿易を行った.また同年には庶民の大船建造・外国船購入を解禁し,それら船舶を国内運輸に使用することを許可して海運業の発達を促し,1867(慶応3)年には六組飛脚屋仲間に汽船を貸与し,江戸・大坂間定期船運行を行わせた.また海上保安のためには,幕府は1866(慶応2)年,英・仏・米・蘭との間に締結した改税約書により,三浦半島観音崎等8ヵ所に灯台を,横浜本牧・函館に灯船をおくことを決定し,水路の安全を期した.
 以上のような幕府の海運対策は,外圧に対する海軍力の充実を意図する一方,米国太平洋郵便蒸気船会社の上海航路線の日本寄港等にみられる外国船の日本近海・沿岸海運への進出への対抗的措置をとることが中心になっていた.かかる状況は維新政府の成立後も変わらず,対抗措置はむしろ兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市により一層必要となっていった.したがって,明治新政府の海運対策は,まずこれら一連の幕府の行った諸政策の継承に重点がおかれた.
 (2) 新政府の海運政策と沿岸海運
 明治政府は,1869(明治2)年11月,一般国民に西洋型船舶の所有を許し,その製造・購入の届出を布告.翌1870(明治3)年2月には西洋型船舶の安全性を強調し,将来日本型船舶を残らず西洋型船舶に変換する意図のもとに,西洋型船舶所有者を特別優遇する主旨をもって商船規則を布告している.このような一連の布告の意図するものは,前者の布告の際の外務省伺(1869(明治2)年9月)によってわかるように,外国船の日本沿岸海運への進出に対抗するための日本人船主育成と沿岸海運企業の育成とにあった.しかし,明治初年の西洋型船舶の所有状況は,明治政府と雄藩の所有するものがほとんどであったから,緊急を要する沿岸海運企業の育成は,政府・雄藩の所有する西洋型船舶の貸与・払下げ以外になかった.こうした沿岸海運企業としては,次のような例をあげることができる.1869(明治2)年2月,紀州藩から汽船6隻を貸与されて,神戸・横浜間の貨客回漕にしたがった紀ノ国屋萬蔵等の紀萬船.1870(明治3)年11月,岩崎弥太郎が土佐開成社を九十九商会と改称設立し,土佐藩から3隻の藩船を貸与されて,東京・大阪・高知間の回漕に従った後の三菱会社.また1869(明治2)年3月,三井八郎兵衛の手代吹田四郎兵衛が後藤象二郎等と謀り,通商司の所管の下に政府・紀州藩等5藩所有汽船11隻を貸与され,東京・大阪間の回漕に従った回漕会社,をあげることができる.
 この回漕会社は1871(明治4)年5月,回漕取扱所にその業務を引継ぎ閉社,さらに取引所は1872(明治5)年9月,日本国郵便蒸気船会社へと発展解消されていった.この間,1871(明治4)年8月,廃藩置県により各藩船は政府所有となり,駅逓司の管理下におかれていたが,日本国郵便蒸気船会社設立によって同社に払下げられた.同社はこれに高嶋長右衛門等の所有船をあわせ,東京・大阪間定期航路の他,東京と函館・石巻間の不定期航路,沖縄航路での運航にもあたり,全国年貢米の回漕も取扱った.しかし,同社は米国太平洋郵便蒸気船会社1)等外国船や三菱汽船会社の運航に対抗できず,営業不振から1875(明治8)年9月,同社所有船18隻等を駅逓寮に売却解散した.
 1870(明治3)年11月,九十九商会として岩崎弥太郎により,土佐藩船3隻の貸与をもってはじめられた回漕事業は,1871(明治4)年廃藩置県に際し,土佐藩船を廉価・長期年賦で払下げをうけ,翌1872(明治5)年三菱商会,1875(明治8)年三菱汽船会社,さらに郵便汽船三菱会社と改称して発展していった.特に同社は,経営状態を次第に悪化しつつあった日本国郵便蒸気船会社が,1874(明治7)年佐賀の乱・征台の役に充分対応できないことを機会に,政府購入船の運航を委ねられ,資本蓄積を進め飛躍的発展をとげた.この1874(明治7)年は,内務省設置によって成立したといわれる大久保利通内務卿を中心とした,いわゆる大久保政権の成立と,大久保の下における殖産興業政策の本格的な展開がはじまった時期であった.
 (3) 殖産興業政策と沿岸海運の発展
 この大久保政権の政策課題としての殖産興業は,大久保が1874(明治7)年5月提出した「殖産興業ニ関スル建議書」2)にみられるように,航海条例公布以来のイギリス資本主義の発展を規範とした工業化構想によるものであり,海運業をはじめとする国内交通・運輸の発展を基盤とするものであった.このため,1875(明治8)年1月,大久保は米国太平洋汽船会社に対抗するため,三菱商会に上海・横浜航路開始を命じた3)のを皮切りに,破綻に瀕した日本国郵便蒸気船会社にかえ,三菱の保護に努め,民営保護政策を海運政策の基本として推進していった.これにより,内務省は,1875(明治8)年9月,同省所有汽船13隻を無償で払下げ,15ヵ年運航費助成金毎年25万円と,海員養成助成金毎年1万5000円を三菱会社に下附する第一命令書を下し,さらに政府の郵便航送も行わせた4).
 かくて,同年10月,三菱会社は米国太平洋郵便蒸気船会社より横浜・上海線の使用汽船・陸上設備を買収して,開国以来横浜に支店をおき,日本沿岸海運に進出した同社にとってかわった.そして,また三菱会社は翌1876(明治9)年2月,香港・上海・横浜航路に参入してきた英国P & O汽船会社に対しても競争をいどみ,同年8月上海・横浜航路を廃止させることに成功した.こうして沿岸海運の独占に成功しつつあった三菱会社に対し,同年9月政府は第二命令書5)を下し,沿岸定期線の助成金支給と,前年倒産した日本国郵便蒸気船会社から買上げた政府所有船15隻を下附した.そしてさらに翌1877(明治10)年2月,西南戦争が起こると政府は三菱会社に補助金を与え,汽船10隻を購入させ軍事輸送に従わせたから,三菱会社は一段と規模を拡大し,独占を強めた.
 1877(明治10)年2月にはじまる西南戦争を契機としたインフレーションの中で,三菱会社の成功に刺戟され,海運企業の隆盛をみる.それにより西洋型船舶をもって全国主要港湾の連絡がほぼ完成するにいたった.しかしこのことは,三菱会社のみ政府保護を受けることの批判を増大させ,1881(明治14)年,大隈重信の失脚にはじまる松方財政下での殖産興業政策転換の中で,三菱会社への政府の監督干渉強化を生んだ.そして,政府は1880(明治13)年8月設立された東京風帆船会社等が資金難から政府に対し資金援助を請願したのを契機に,三菱会社に対抗させる新海運企業の設立を考え,1882(明治15)年7月,同社等を合併させ半官半民的な色彩の強い共同運輸会社を設立させた.こうして,1883(明治16)年1月,共同運輸会社が営業を開始すると,同社と三菱会社との間に激しい競争が展開され,両社の経営は悪化し,一時期政府の両社間の仲裁により小康を得たものの,1カ月後には再び競争が開始された.ここに至って政府は国防上の理由から両社を説得し,1885(明治18)年9月,両社を合併させ日本郵船会社が誕生した.
 これより先1877(明治10)年の西南戦争後,関西以西の沿岸航路には多数の中小船主が誕生し,激しい競争を展開していたが,これら中小船主が企業合同し,1884(明治17)年大阪商船会社の設立をみた.また1887(明治20)年には東洋汽船の前身である浅野回漕部が設立され,さらに三井物産船舶部の母体となった同社回漕業が本格的な活動に入るなど,わが国海運業の発展期を迎えることとなる.
 以上のように維新期を経て,やがてはじまる殖産興業政策による政府の民間企業の保護の中で育成され,その後の企業勃興期を迎えて発展期に入った海運企業は,造船をはじめとする水路調査・港湾修築・海員養成等幅広い基盤条件の整備充実にささえられていた点は見落とせない.
 例を造船にとってみるならば,いかに政府が西洋型船舶の優秀性を力説しても,鉄鋼業をはじめとする関連工業の未発達の状況下では造船業は進展しない.したがって,造船業はまず木造西洋型帆船にはじまり,やがて鋼鉄汽船におよぶこととなる.このため1877(明治10)年頃から約10年間は急速な西洋型帆船の増加をみることとなり,1883(明治16)年頃より作られた錬鉄船は1890年代より鋼鉄船に変わり,汽船数の急増をみることとなった.これら造船は,1876(明治9)年10月平野富二による石川島平野造船所をはじめとして,1878(明治11)年4月川崎正蔵による東京築地造船所,1881(明治14)年ハンター(E.H. Hunter)による大阪鉄工所,また1887(明治20)年6月大蔵省から三菱社に払下げられ,翌1888(明治21)年12月より三菱造船所と改称した長崎造船所などによって進められた.かくて,1890(明治23)年5月三菱造船所で日本最初の鋼製貨客船「筑後川丸」が建造されて大阪商船に引渡され,近代的造船が開始された.
 このような海運企業の発展と造船業の近代化は,当然船舶の安全基準の作成を必要とした.このため1884(明治17)年4月船舶積量測度規則6)が作られ,同年12月西洋型船舶検査規則7)の公布をみる.これにより船舶検査制度がはじまることとなる.他方水路調査・航路標識を充実させ,より船舶の安全を確保するため,1881(明治14)年11月日本全国沿岸測量12ヵ年計画がたてられ,翌1882(明治15)年5月より本格的測量を開始し,1885(明治18)年6月には私設灯台を禁止し,1887(明治20)年10月には,航路標識条令を公布した.そして港湾の整備にもつとめ,1878(明治11)年から釜石湾で野蒜築港を開始し,新潟港の改修に着手し,雇外国人を派遣して三国港の改修にもあたらせた.また1884(明治17)年11月には神戸港に神戸桟橋会社による洋式埠頭が誕生し,1888(明治21)年9月からは横浜港の水堤および桟橋築造がはじめられるなど,次第に港湾設備も近代化されていった.
 (4) 全国運輸機構の確立と河川舟運
 1868(明治元)年の明治政府成立以後1890(明治23)年前後にかけての時期の河川舟運について次にみることとする.
 維新期河川を主とする内陸舟運の規模を総括的に把握することは困難である.しかし1901(明治34)年の,内務省土木局第10回統計年報による全国135河川調査を中心にした黒崎千晴氏の調査8)によれば,河川等航路延長は1万kmをこえ,河舟数は9万3000隻以上180万2000石余であったという.すでに1900年代に入り,鉄道の内陸運輸での優位が顕著となり,内陸舟運の減少のはじまった時期であったことを考えると,明治初年は河舟の隻数等はこの時期に比較してさらに多かったことが推定できる.この数値をそのまま1872(明治5)年の船舶構成中大多数を占める大和型帆船の総数1万8000余隻,331万2000石余と比較すると,河舟は海船に対し隻数では約5倍,石数でも約2分の1に達することがわかる.これは極めて乱暴な比較ではあるが,内陸舟運の運輸上に占める重要性を示す数値といえよう.
 こうした内陸舟運が,明治政府によって交通・運輸政策の中にとりあげられたのは,全国的運輸機構の確立の過程においてであった.政府は全国的運輸機構を確立するために,旧定飛脚問屋により1872(明治5)年に設立された陸運元会社の保護育成を企てた.そして1873(明治6)年6月,太政官布告第230号を発し,同年9月1日以降私的運輸営業を禁じ,営業を希望する者は陸運元会社へ合併するか,独自に会社を設立することを命じた.この布告の適用範囲は海運を除く水陸運輸業者すべてであることが指令されている9).このことは,これまで陸運のみ重視してきた政府が,全国的運輸機構確立のため,陸運と相互に補完する内陸舟運に対し,積極的姿勢を取りはじめた結果であった.
 この全国的運輸機構確立のための陸運元会社育成の方針は,1873(明治6)年11月より翌1874(明治7)年1月にかけての内務省開設を機として成立した,いわゆる大久保政権の下で,殖産興業政策の一環として組込まれ,強力に推進された.かくて翌1875(明治8)年2月陸運元会社は社名を内国通運と改め,全国的運輸機構を確立し,同年5月各駅陸運会社は解散される.この過程にあって,内陸舟運もまた河岸間屋の内国通運への合併等により全国的運輸機構に組込まれていった.これと同時期,河口港をもって河川舟運に結びつく内航海運も,すでに先述したように政府による三菱会社の保護育成により全国的機構を確立していったから,陸・海運を一体とする全国的運輸機構がここに確立をみたのであった.
第3図 1890年代の可航水路.
 (5)河川舟運の発展と起業基金事業
 こうした政府による1873(明治6)年の太政官布告第230号にはじまる全国運輸機構確立に先がけ,河川を中心とする内陸舟運には,さまざまな面から近代化の動きが生じていた.例えば1869(明治2)年には利根川・江戸川筋での川蒸気船営業が,東京府により許可されているし10),陸運元会社は1872(明治5)年8月高崎川岸に回漕所と,阿久津河岸に出張所を開設して物貨回漕を開始している.そして,翌1873(明治6)年6月利根・荒・鬼怒三川に水路を開き,1874(明治7)年東京日本橋小網町に出張所をおき,奥州筋への水陸継立荷物の取扱いをはじめている11).また富士川では1872(明治5)年6月通船取扱人等から会社設立願が出され,1873(明治6)年富士川運輸会社の設立が計画され,翌1874(明治7)年1月許可された12).そこではわずか6kmではあったが,新たに運河を開削することにより,岩渕・蒲原間で従来の陸送への継替えの不便を取りのぞくことが行われた13).この他にあっても,利根川と荒川とを結ぶ見沼代用水にあっては,1869(明治2)年通舟区域の拡大を出願し,1873(明治6)年にはさらに元荒川・星川・忍川等にまで通舟区域を拡大することが許可され,1874(明治7)年9月見沼通船会社設立をみた14).
 これらの例でわかるように,従来の内陸舟運を継承する中で,水路の改修・新水路の開削・汽船の導入等輸送手段の改善に努める一方,従来からの輸送機関としての河岸問屋・船主・船頭等の組織化も進んでいった.特にこの組織化は,1873(明治6)年太政官布告第230号の発布によるところが極めて大きく,国と地方府県の強力な指導で行われた結果,千葉県にみられるように,汽船や在来の川舟での貨客輸送とそのための河岸場新設の出願が続出する状況を生んだ15).
 殖産興業の基礎は交通運輸の発達にあるという政府の考え方が,具体的事業として結実していったものが,1878(明治11)年からはじまる一連の起業基金による事業であった.それは,内務省所管の内航のための築港と,内陸交通運輸のための河川・水路と道路の修築,工部省所管の幹線鉄道の建設とに大別できる.特に内務省所管の野蒜築港とその関連事業とは,東方地方における河川舟運と陸運とを,野蒜港において内航に結ぶことを目的としており,全国運輸機構確立のためにも画期的事業であった.
第4図 野蒜築港図.
この野蒜築港は,当初北上川舟運と河口港石巻港の改修に端を発したことでもわかるように,河川舟運の発達を意図していた.したがって,野蒜築港は,北上川舟運を北上運河で,阿武隈川舟運を貞山運河・(松島湾)・東名運河で,鳴瀬川舟運は直接にそれぞれ野蒜港に結ぼうとするものであった.そして,これら舟運に連絡する道路整備を行おうとして,起業基金事業中に作並・関山間,黒沢尻・横手間道路開削工事も含まれていた16),
 (6) 河川舟運と鉄道との補完
 この起業基金事業の開始された時期は,内陸舟運が次第に整備され,発展を迎えた時期にあたっていた.例えば,内国通運会社による利根川筋への汽船の投入は,1877(明治10)年よりはじまり,急速に航路を多様化した.それとともに1880(明治13)年永島良幸の永島丸5隻の参入,1882(明治15)年銚子汽船会社の開業等による競争激化にみられるように,内陸舟運の発展期であった.したがって,起業基金事業にも内陸舟運とこれを補完する内航海運が強く意識されていた.それは,野蒜築港はもとより,工部省所管の鉄道建築にも見られる.すなわち,野蒜が日本鉄道による東北線建築にあたり一起点とされただけでなく,敦賀・大垣間鉄道も,大垣と四日市とを揖斐川舟運で結び,敦賀・四日市で内航海運に結ぶことを意図し17),大津・長浜間は琵琶湖舟運による鉄道への連絡方法をとったなどの点に示されている.
 この工部省所管の鉄道建設は,1880(明治13)年京都・大津間鉄道が完成すると,これに続いて着工した敦賀・大垣間の鉄道資材を神戸に陸上げし,大津から琵琶湖上を専用船で輸送した.そして1884(明治17)年,敦賀・長浜間開通後は,大津・長浜間を太湖汽船を利用する貨客船車連絡が行われ,1889(明治22)年東海道線全通開業まで続けられている.このような,鉄道との協業もしくは共存状態はその後も続く.1885(明治18)年に着工され1890(明治23)年一応竣工をみる琵琶湖疎水事業も,1874(明治7)年神戸・大阪間,1876(明治9)年大阪・京都間,1880(明治13)年京都・大津間と次第に延長してきた鉄道に並行する舟運の開始が目的であった.これは1894(明治27)年に鴨川運河が完成し,琵琶湖疎水・鴨川運河・淀川と連絡し,大阪に連絡することとなる.また,淀川では1888(明治21)年(1887(明治20)年ともいう)に淀川汽船が開業するが18),
第5図 琵琶湖周辺の交通路(1887(明治20)年).
これも鉄道に並行するものであった.他方,富士川舟運の場合,1889(明治22)年東海道線全通後甲信への輸送量を増大させ,富士川から東海道線岩渕駅への新運河が開削され19),1906(明治39)年中央線の篠井線連絡まで活況を呈した.
 この間,富士川舟運にみられるように,清水港にあって三菱会社定期船等と連絡し,東京・横浜,四日市・大阪等との貨客輸送に活況を呈したもののあった反面,北上川・阿武隈川舟運のように,鉄道開通により急速に衰退していったものもあった20).

 [注]
 1) Pacific Mail Steamship Companyは幕末開港以来,横浜に支店を開設,サンフランシスコ・上海間定期航路開設.
 2) 『大久保利通文書』第五,561―66ページ.
 3) 2月3日,上海・横浜航路は開始され,わが国最初の外国航路となる.
 4) 以後三菱汽船会社は郵便汽船三菱会社と社名変更した.
 5) 第二命令書中には商船学校設立義務に対する年額1万5000円が含まれた.
 6) 1884(明治17)年4月24日,太政官布告第10号.同年7月1日より施行.
 7) 1884(明治17)年12月22日,太政官布告第30号.翌1885(明治18)年7月1日より施行.
 8) 黒崎千晴「明治前期水運の諸問題」,『日本近代輸送史』,成山堂書店,1979(昭和54)年,162―63ページ.
 9) 『法規分類大全』運輸門,駅逓,349―50ページ.滋賀県からの適用範囲についての問合せへの回答.
 10) 『東京市史稿』港湾篇一,594ページ.
 11) 『利根川汽船航路案内』,13―4ページ.
 12) 増田廣實「富士川運輸会社の創業について」,『文教大学女子短期大学紀要』第20集.
 13) 増田廣實「蒲原新水道の建築と経営について」,『文教大学女子短期大学紀要』第22集.
 14) 『見沼代用水没革史』,1136ページ.
 15) 『千葉県史料』工業.
 16) 増田廣實『殖産興業政策と野蒜築港』.
 17) 『日本国有鉄道百年史』第2巻,206―11ページ.
 18) 黒羽兵治郎『近世交通史研究』,日本評論社,1943(昭和18)年,387―402ページ.
 19) 増田廣實「蒲原新水道の建築と経営について」.
 20) 増田廣實「明治前期河川舟運の展開――富士川運輸会社清水出張所を中心として」,『盆地――その歴史と地域性』,雄山閣,1984(昭和59)年.
 [増田廣實]