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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 IV 沿岸海運と河川舟運
著者名: 増田 廣實
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4章:交通・運輸技術の自立ー1910~1921(明治43~大正10)年 IV 沿岸海運と河川舟運

 (1) 第一次大戦の影響
 1910(明治43)年上期になり,日露戦争後の船腹過剰による不景気から立直った海運界は,政府が翌1911(明治44)年7月から関税改正により古船輸入税を引上げることに決定したため,外国船の思惑輸入が増加する.それに加え,世界海運市況好転を反映し,造船量も増大して船腹拡張期に入った.これにより第一次世界大戦のはじまる前年1913(大正2)年末には,わが国の船舶保有量は汽船3286隻152万8000トン余,帆船1万3169隻57万トン余に達した.
 1914(大正3)年にはじまる第一次大戦に日本も参戦し,青島攻撃を開始した.このため陸海軍は83隻26万5000トンの汽船を徴発したが,日清・日露戦争時に比較し,船舶保有量が増大していたため海運界へは大きな影響を与えなかった.しかし,ドイツUボートの活躍等により,参戦各国の商船の被害は大きく,1917(大正6)年末までには世界の船舶保有量の約30%を失ったから,世界的船腹不足をひきおこした.したがって運賃・傭船料は急騰し,わが国海運界は未曾有の活況を呈し,造船も急増して,日本の船舶保有量は1905(明治38)年に世界第6位であったが,ついに1919(大正8)年,英・米に続いて世界第3
位に躍進した.こうした状況について少し詳しくみると次のようである.
第7表 内地汽船・帆船数(1910―1921(明治40―大正10)年)
第8表 内航貨物量と増減比(1913―1921(大正2―10)年)
 第一次大戦開戦の前年1913(大正2)年を100として,内航について貨物量の比較をすると,トン数では1914―1916(大正3―5)年は94・86・93とマイナス7―14となり,1917(大正6)年に102となり,1919(大正8)年109,1921(大正10)年102となって以後漸増している.しかし,これを貨物価格で比較すると,1914(大正3)年に95とマイナス5となるのみで,1919(大正8)年には最高の389となって急騰している.これは運賃上昇によるもので,たとえば九州・横浜間の石炭運賃は,1914(大正3)年1トン1円25銭ほどであったものが,1919(大正8)年には11円に高騰したという.こうした運賃上昇は傭船料の上昇をもたらし,大型船定期傭船料は1914(大正3)年,年1円75銭ほどであったものが,1918(大正7)年には50円にも高騰したのであった1).こうした好況を反映し,造船所数は1914(大正3)年238であったものが1918(大正7)年には371となり,1913・1914(大正2・3)年には汽船の建造は年産5万―8万トン程度のものが1919(大正8)年には63万4000トン余にも上昇し,帆船の建造も3万―4万トン程度から1918(大正7)年には16万2000トン程に増加した.それとともに船舶輸出も年間5000トン程度から,1920(大正9)年にはそれまでの最高24万1000トン余となる.また船舶保有量も1919(大正8)年には汽船5203隻約287万トン,帆船約3万2000隻120万8000トン余となり,英・米につぎ世界第3位となり,翌1921(大正10)年には汽船6113隻約320万トン,帆船約3万5700隻129万トンに達している.
第9表 船舶新造・輸出入数(1910―1922(明治43―大正11)年)
 このような第一次大戦中の好況により,海運界は驚異的活況を呈したが,1918(大正7)年大戦終了とともに欧米各国が自国の貿易と海運の復興につとめるようになると,好況はたちまち不景気に変わり,?船が続出し,殊に大型船は沿岸内航に割込み,小型船を圧迫し一層運賃・傭船料の下落をまねいた.たとえば大型船定期傭船料は1918(大正7)年にはトン当り30円代から50円程であったものが,1919(大正8)年には14円,1920(大正9)年5円と急落し,さらに1923(大正12)年2円50銭,1926(大正15)年には1円80銭となり,ついに1914(大正3)年の水準にまで下落するにいたった2).
 (2) 内航貨物の増加と質的変化
 この間における内航貨物量は開戦後の一時的減少はあったものの,先述したように量的にあまり増加がなく,1919(大正8)年には1913(大正2)年の約1.1倍となる.その後,戦後の反動不況の中で貨物量は減少するが,1913(大正2)年の水準を割込むことなく,すぐに増加に向い,1922(大正11)年1.14倍と反発して増加を続け,1927(昭和2)年には1913(大正2)年の1.52倍となる(第8表,第5章第9表参照).この時期の内航貨物の構成について,全国港湾中その70%を取扱う代表的19港を対象とした統計によると次のようである.1916(大正5)年は燃料43.3%(石炭42.8%,石油0.4%)と圧倒的に多く,第2位食料品7.8%(米4%,砂糖2.1%,塩1.2%,酒0.6%),第3位建設材5.4%(木材4.8%,セメント0.5%),第4位金属3.9%(鉄及び鉄製品3.8%,銅0.1%),第5位肥料3.3%等となっている.またこれを1925(大正14)年についてみると,第1位は同様に燃料40%(石炭39.3%,石油0.8%)であるが,石炭が減少し石油の増加がみられ,第2位建設材13.4%(木材7.6%,セメント2.6%,土砂石3.1%),第3位食料品8%(米3.9%,砂糖2.7%,塩0.9%,酒0.6%),第4位金属6.1%(鉄及び鉄製品5.6%,銅0.6%),第5位肥料3.2%等となり,この期における重工業を中心とする国内経済発展の姿をうかがわせる.
 これら内航貨物の動きについて,代表的な大阪・横浜2港についてみると,まず出入貨物の数量の全国でのトップは大阪と横浜とであるが,その両港の差は少ない.しかし1922(大正11)年を境にして,横浜は急激に貨物量を増加させていることが目立つ.この両港の関係を貨物価格で比較すると,両港の取扱い貨物に大きな価格差があることがわかり,また横浜港の取扱い貨物量の増加とは逆に,価格については1922(大正11)年を境に急激に減少させている.こうした原因は,大阪が綿工業を中心とする軽工業と消費地帯を後背地とするのに対して,横浜が京浜重工業地帯を後背地とするためと考えられており,これは第一次世界大戦期以降,1922(大正11)年を境に高価物から,重量物へと取扱い貨物の質的変化のあったことを如実に示すものであった.すなわち関東大震災以後生糸輸出に神戸が進出し,横浜の独占が破れたことと,京浜工業地帯の発展を反映するものであった3).
 (3) 造船技術と輸送手段の発展
 この時期は,また海上輸送手段・技術について大いに見るべきものがあった.特に造船については,近代的造船業の基盤を確立して,建造量が増大し世界3位となり,船舶輸出国になったという量的向上だけでなく,船舶の質的向上もなしとげた時期であった.これを内航船についてみると,まず日本型帆船であるいわゆる石数船は,1910(明治43)年頃より西洋型帆船への移行が進んで減少し,1925(大正14)年には5608隻73万5500石(10石=1トンとすると7万3550トン)になり,明治初年に比較して4分の1から6分の1に減少した.そして,1915(大正4)年にはついに日本型帆船を西洋型帆船が追いこし,1921(大正10)年にはその数は3万5685隻129万2016トンとなる.
第10表 内航貨物品目別数量(1916―1935(大正5―昭和10)年)
それ以後西洋型帆船の隻数は漸増するが,トン数ではこの年をピークに漸減していく4).これは,20トン以下の不登録船は増加の一途をたどるが,登録船――特に100トン以上500トン未満――の減少がその理由であった5).すなわち,この時期から内航では日本型帆船にかわって西洋型帆船が主となり,さらに帆船にかわって汽船が進出するようになり,他方老朽船の売却・解体などによる不況対策の進んでいたことを反映している.
 この傾向は汽船についても知ることができる.すなわち,戦後不況の中でも汽船は,隻数トン数とも増加しているが,100トン以上500トン未満は1920(大正9)年の609隻をピークに1921(大正10)年以降590隻前後と横ばいを続け,500トン以上1000トン未満は1919(大正8)年372隻をピークに漸減している.この2ランクを除く,20トン以下の不登録船と1000トン以上は増加している6).つまり汽船は,小回りがきき速力の早い内航用小型汽船と,輸送能率が格段と高く高速の遠洋大型汽船とに分極化しながら,不況に対応していったことがわかる.
 こうした分極化傾向は,造船能力の飛躍的発展にささえられながら,より一段と経済性の高い船舶を作るための技術的努力に裏付けられ,さらに多角的に進められていくこととなる.そうした現われの一つはディーゼル機関の実用化であり,また帆船の機関を装備しての機帆船化であった.小型で高出力のディーゼル機関は,すでに第一次大戦前,海軍により潜水艦に用いられていたが,戦後商船への装備が研究され,やがて1923(大正12)年,最初のディーゼル船「音戸丸[おんどまる]」(688トン)の誕生をみることとなる.また機帆船化は日本独自の発達をとげたが,その最初は1900(明治33)年とされ,1910(明治43)年80隻約4000トン,1921(大正10)年1162隻7万2000トンに達し,20トン以上の西洋型帆船の8%程を占めるようになり,以後飛躍的増加を続けた.
 以上のように,大戦を背景とする好況期とその後の不況期を,造船技術の進展にささえられ切抜けてきた海運界に対し,行政面では造船・港湾について政策上見るべきものが多い.造船関係では,世界的船腹不足による造船界の活況に対応し,政府は1917(大正6)年には1896(明治29)年以来続けられた造船奨励法による奨励金交付を中止した.そしてこれにかえ,翌1918(大正7)年,日本興業銀行法を改正し,船舶融資を開始した.また戦後不況に対応しては,海軍増強政策をもって造船界救済に努力した.しかし,ワシントン軍縮によりこれが不可能となると,1921(大正10)年,関税定率法を改正,船舶用鋼材輸入・艤装品輸入税の免税措置を行い,さらに1925(大正14)年には製鉄業奨励法を改正し,造船のための鋼材生産に奨励金交付を行い,関税定率法を再改正して輸入船税の引上げをもって国内造船業の保護につとめた.
 港湾関係では,1918(大正7)年には港湾工事の増加に対応して,これを内務省が一括する方針を決定した.それとともに1920(大正9)年,港湾工事によって生じた国有財産の地方移譲の道を開き,1921(大正10)年には公有水面埋立法を公布,港湾修築の際の埋立に法的根拠を与えた.なお1913(大正2)年に定められた運河法は,港湾修築の際の運河造成に法的根拠を与えるものであった.この間,1913(大正2)年,京浜運河開削と川崎港埋立が行われたのをはじめ,大戦期の好況を反映して,新潟,室蘭,小樽,名古屋,下関,鹿児島,伏木等の諸港の修築が行われ,横浜港も1917(大正6)年には大桟橋が竣工した7).
 (4) 都市内河川舟運の発展
 1899(明治32)年,淀川で高水工事がはじめられたのに続いて,利根川筋など全国各地で高水工事が普及していった.このことは,低水工事に比較して河川での舟運を次第に困難にしていった.しかし,これが直接的に河川舟運を終わらせることとはならなかった.例えば内国通運の場合も,1911(明治44)年には利根川筋にあった各航路のうち,20ちかくの不採算線を整理し,残る11航路に浮いた船腹をあて経営の刷新をはかっている.しかしついに1919(大正8)年,内国通運は永年にわたる利根川での汽船業を他に譲渡し,利根川舟運から手を引くこととなった8).この状態を利根運河通過船数と貨物量についてみると次のようである9).すなわち,1890(明治23)年の開通の年は年中途のため翌1891(明治24)年をみると,2万9696隻55万4613トン,1896・1897(明治29・30)年にトン数で僅かに増加するが,隻数は漸減し,1901(明治34)年2万3082隻47万4481トン,1911(明治44)年2万676隻43万3948トンと減少し,1921(大正10)年1万1932隻26万51トンとなる.特に1911(明治44)年から1921(大正10)年までの10カ年での急落が目につく.この10カ年で約半減するという傾向はその後の1931(昭和6)年までについても同じようにみられる.
 この1911(明治44)年から1921(大正10)年にかけての減少は,すでに述べたように,第一次大戦を中にした時期の飛躍的な経済発展を背景とする貨物量の増加を考えるといかに利根川舟運での貨物量の減少が激しかったかがわかる.事実,1920(大正9)年の東京築港計画説明書10)によれば,この時期東京における取扱い貨物の総トン数は,1908(明治41)年を100とすると1917(大正6)年には陸運は356,水運は146となり,平均で251となっている.
 ここでいう水運の内訳についてみると,①横浜港にあって本船に積卸しをする東京関係荷物,②本船が品川沖で荷役する品川沖荷物,③本船が隅田川に入り荷役する河内荷物,④小名木川その他市内各河川に於て取引する河川荷役,の四種類をあげている.これでわかるように,利根運河通過貨物は④に属している.この④の部分の減少が明らかであるにもかかわらず,水運全体量の増加がみられるのは,いうまでもなく内航海運の増加によるものである.さらにここで重要なことは,利根川筋など舟運自体の貨物量は減少しながらも,内航海運での積卸しとそのための配送に,都市内河川が重要性を増し,舟運の従来からあった艀としての面に一層の比重がかかることとなったことである.
 こうした東京への貨物輸送については,1913(大正2)年の東京における石炭市場の調査に関連して,次のように報告されている11).そこでの年間水陸出入貨物は979万トンであり,このうち水運476万トンと,鉄道による503万トン中約248万トンは,河川によって市内に運搬されるとしている.すなわち,東京での出入貨物の74%は河川によっているとしている.この数値をみてわかるように,この時期東京では海運・陸運(鉄道)を問わず出入する貨物の多くが河川舟運によらなくてはならなかった.このことは,都市の肥大化に原因する都市内運輸での河川舟運の重要性が,前時期よりさらに増加したことを示している.他方,経済性から考えて艀取りがいかに不経済であり,特に横浜港での積卸しが経済発展の阻害要因となっていたかがわかる.したがってこのことが,1885(明治18)年以来の東京築港の最大の理由となっていたのであった.
 しかし,こうした艀取りによる輸送上の不経済性は,東京の場合に集約的にみられたにしても,大阪等をはじめ全国港湾がいずれも持っていた問題であった.もし,海(河川舟)運と陸運が直結され,艀取りをなくして輸送が可能であるならば最も経済的であったから,そのための港湾の整備が,貨物量の増大とともにこの時期に起こってきた.すなわち,港湾は浚渫によって大型船の着岸を可能にし,他方鉄道の臨港線建設により海運と陸運を直結させる努力がなされた.そして,港湾荷役を能率化するため,港湾運河を開削し,起重機等の積卸し機械を設備し,機械化をはかっていった.それは,前章でふれた日本鉄道による秋葉原・隅田川駅における鉄道と艀(都市河川舟運)の結合をさらに前進させたものといえる.
 このような近代的港湾修築に際し,鉄道臨港線を建設した例で早いものに名古屋港がある.同港修築第二期工事は,1911(明治44)年から1919(大正8)年にかけて行われ,堀川・新堀川運河の開削をみるが,これにより市の商工業地域と名古屋港が結ばれてきた.臨港線はすでに1912(大正元)年に名古屋・名古屋港間,1916(大正5)年に同線から分かれて新堀川沿いに八幡・白鳥駅が開業した.また他方名古屋港駅から先,堀川運河口まで延長され,堀川口駅が1928(昭和3)年に開業した12).
 横浜港は,1921(大正10)年に第三期拡張工事に着工,以来度々設計変更を行いながら工事を進めた.このため,沿岸臨港線も複雑な発展をとげた.1915(大正4)年に横浜駅から分岐した高島駅は,臨港地帯の中心駅として取扱量も増大したが,1924(大正13)年,東神奈川駅との間に東高島駅が開設された13).
 こうした港湾の近代化と臨港線の発達は,さらに次の時期に入り一層の発展をとげることとなる.

 [注]
 1) 『日本経済統計総観』,朝日新聞社,1930(昭和5)年,801ページ.
 2) 同上,802ページ.
 3) 『日本輸送史』,日本評論社,1971(昭和46)年,421ページ.
 4) 同上,428‐29ページ.
 5) 『日本経済統計総観』,836ページ,「内地帆船噸数対照表」.
 6) 同上,835ページ,「内地汽船噸数対照表」.
 7) 『内務省史』第3巻,86ページ.
 8) 松村安一「利根川汽船交通の変遷」,『交通史研究』第7号,13‐4ページ.
 9) 川名晴雄『利根運河誌』,崙書房,1971(昭和46)年,82‐8ページ.
 10) 『東京市史稿』港湾篇五,東京市役所,1927(昭和2)年1月,857ページ.
 11) 「東京に於ける石炭市揚概要」,『日本産業資料大系』第五篇商業,396ページ.
 12) 『日本国有鉄道百年史』第9巻,253ページ.
 13) 同上,252ページ.
[増田廣實]