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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 I 政策
著者名: 青木 栄一
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 I 政策

 1922(大正11)年から1937(昭和12)年に至る十数年間には前の時期にひき続いて,全国の鉄道網・道路網・港湾の整備が進められた.とくに交通の質的転換が大きく行われたのは大都市地域であり,都市構造の変化に応じて,交通体系も変容した.
 同時に第一次世界大戦中に急激な発展をとげた日本の工業は,京浜・中京・阪神・北九州にいわゆる四大工業地域を形成し,日本の旅客や貨物流動はこれらの工業地域とこれに含まれる都市に集中した.このため,東海道本線・山陽本線などの幹線鉄道における輸送需要は上昇し,その輸送力の強化のため,急勾配区間の解消が各地ではかられた.
 このように,この時期には大都市交通網と幹線鉄道の強化がはかられるが,一方,自動車が全国的に普及して,小単位・短距離の末端交通に広く用いられるようになった.そして小規模な鉄道のなかには自動車との競争に敗れて廃止されるものも続出した.しかし,道路の整備は国道を中心として進められたものの,舗装されるものは少なく,人力車や馬車も依然として道路交通に重要な役割を果たしていた.
 海上交通においては,蒸気船が前の時期にくらべて普及し,ディーゼル機関を装備した船も数多く登場した.ディーゼル船は燃料消費の面で有利であり,小型船ほど広く普及した.これによって,洋式帆船のなかには,補助動力としてディーゼル機関を装備するものが増え,機帆船という新しい概念の船が沿岸航路で活躍した.
 しかし,小単位・短距離輸送の分野において自動車交通が盛んになったとはいえ,国内交通において鉄道は前の時代よりさらに発展し,最も重要な交通機関としての地位を固めつつあった.とくに機関車の製作を中心として国産技術の自立が確立し,鉄道交通の黄金時代ともいうべき時代となったのである.
 (1) 改正鉄道敷設法と建主改従政策
 1918(大正7)年9月より政権を担当した政友会内閣は,原敬総理大臣のもとで,「交通機関の整備」を重点政策の一つにかかげ,公債を財源として,全国に鉄道網を拡大することを主張していた.
 すでに1911(明治44)年以来,軽便鉄道規格による国鉄新線の建設は,鉄道敷設法によることなく,毎年少しずつ追加されていた.鉄道建設は与党議員の利権であり,そこには何らの長期的展望もなかった鉄道政務次官石丸重美[いしまるしげよし]は,原首相に対して,毎年少しばかりの新線建設を議会に提議して,そのたびに野党の反感をひきおこすよりは,むしろ長期計画に基づく鉄道予定線を法律として確定しておくほうが得策である,と提案し,これが新しい鉄道敷設法を制定する直接の動機となった.
 政府は1921(大正10)年1月,鉄道敷設法改正法案を鉄道会議に提案し,原案通り可決されるや,2月にこれを第44帝国議会に上程した.しかし,この年は貴族院における審議未了で不成立となり,次の第45帝国議会に再度提案された結果,翌1922(大正11)年4月,両院を通過し,4月11日付で公布された.この法律の正しい名称は「鉄道敷設法」で,1892(明治25)年公布の旧法と同じ名称であるが,旧法と区別するために,一般には「改正鉄道敷設法」と通称された.
 改正鉄道敷設法は,1892(明治25)年の旧法が幹線鉄道網の建設を主な目的としていたのに対し,支線網の拡大に重点をおいた.改正法制定時の予定線は全国で149項(178線),延長6349マイル(1万216km)に及んだが,その分布は第1図に示すように,大部分がローカル鉄道であった.そして,とりあげられた予定線は,与党たる政友会所属議員の選挙地盤と密接に関係していた.
 改正鉄道敷設法のもう一つの特徴は,新線の建設順位,着工の時期,予算の決定などに関して,何らの規定も設けていないことであった.旧法では,予定線と建設線は別の条文に示され,建設線の決定には一つ一つの線区について法律改正の手続きが必要であった.
第1図 改正鉄道敷設法による予定線.
しかし,改正鉄道敷設法では,法律の条文を直すことなく,適宜,建設予算の決定だけで着工できることになっており,政府や与党にとっては取り扱いやすい法律ということができた.そのため,「単に路線を予定したるのみにして財源と着手及竣功期限を伴はざるものは一種の宣言に過ぎずして,法律に規定するの実益なきもの」1)とも批評され,建設路線の選定は政党の力関係に左右されて,政治家の利権の材料となった.当時のジャーナリズムはこの状態を皮肉って,「我田引鉄」と呼んだ.
 ローカル線拡充の考え方は,限りある予算のなかで,幹線の改良よりも新しいローカル線の建設を重視することを意味する.これを「建主改従政策」と呼ぶ.この考えを帝国議会で代弁するのが政友会であり,地方開発のために,不経済なローカル線であっても,あえて建設するのが国鉄の義務であると主張した.これに対して,幹線鉄道の改良を進めなければ,近い将来に幹線輸送はゆきづまり,経済性の低いローカル線の建設は,将来の国鉄の経営を危険におとしいれるであろうと主張し,幹線や大都市の鉄道の改良により多くの予算を投ずる考えがあった.これを「改主建従政策」と呼んだ.この政策は,憲政会,のちの民政党によって代弁され,政権の交替ごとに,この二つの鉄道政策は浮沈をくりかえした.しかし,民政党といえども地方の農村を選挙区として無視できず,その限りにおいて,ローカル線の建設に無関心ではあり得なかった.したがって,現実には「改良建設併行主義」と考えるのが正しい見方といえるであろう.
 (2) 大都市構造とその交通の変容
 日本で大都市への人口集中が顕著に現われるようになったのは日露戦争後のことであった.とくに,第一次世界大戦(1914―1918(大正3―7)年)期における京浜・中京・阪神・北九州の四大工業地帯の形成にみられるように,重工業の発達を中心として,日本の経済は急速な成長をとげたが,これによって大都市への人口集中は激しさを加えた.大都市の発達は,東京や大阪自体が一つの工業都市であり,多数の工場労働者を吸収したことに原因の一つがあるが,それ以上に,大都市が官庁や大企業の本社のような管理中枢機能の集中するところであり,商業・金融・文化・各種のサービス機能も集まる地域であることが,大都市を膨張させ,その社会構造を変えた大きな要因であった.とくに1920年代には,大学・高等学校・専門学校などの高等教育機関の充実が進み,それらの卒業者が事務ないし頭脳労働者として,大都市に集中し,中産階級を形成するようになった.
 すでに1910年代には,東京の都心部を形成する丸の内には,「一丁ロンドン」と通称された貸事務所街が形成され,日本の経済の管理中枢機能となりつつあった.また,銀座・日本橋などの地域も近代的な商業地域に変わりつつあった.従来の都市では,多くの人々が,働いている場所に住みこんでいたり,徒歩で通勤できる範囲に住んでいた.しかし,貸事務所街や近代的な商業地域の発達は,働く場所と住む場所との地域的な分離を促進し,かつその間の距離を次第に大きなものとしていったのである.すでに1910年代の東京では,都心から放射状にのびる主要な街道沿いに住宅地の発達がみられ,その分布は当時の東京市の行政区域を越えて,周辺の郡部に拡大しつつあった.
 1923(大正12)年の関東大震災によって東京の都心部は壊滅的な被害を蒙り,これを契機として,郊外への遠心的な人口移動はさらに急速に進むこととなった.とくに東京の南西郊と西郊にあたる荏原[えばら]郡と豊多摩[とよたま]郡における住宅地域の発達が顕著であった.
 周辺郡部の人口が急増した結果,これらを東京市に合併して,市の行政区域の拡大を要求する主張が行政当局や住民の間で強くなり,1932(昭和7)年に,荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の5郡に含まれる82町村が東京市に編入されて,新たに20区に再編成された.これによって東京市は従来の15区に新しい20区を加え,35区となった.さらに1936(昭和11)年には北多摩郡の2町が東京市域に編入されて,世田谷区の一部となった.
 このことは大阪においても同様な傾向がみられ,人口の周辺部への拡大と行政上の市域の拡張が行われている.
 このように,大都市の外縁部に住宅地域が拡大すれば,都心部との間に通勤や買物などのための交通需要が発生する.そしてそれはもはや徒歩によっては解決できない距離であり,かつその交通需要は馬車や路面電車の輸送能力を越えるものであった.そこには新しい交通機関の発達が要求され,既存の大都市の交通網は再編成を余儀なくされるのである.このため,京浜地域や京阪神地域の旅客交通網は高速電車(rapid transit)を中心とする交通体系に再編成され,蒸気鉄道や路面電車の地位は低下してゆくことになる(第2図参照).
 同時に,新たに登場したバスも大都市の交通機関として積極的に導入され,そのすぐれた機動性が活用されて,路線網は急速に拡大した.各都市の公営交通事業においても,バスは急速に採用され,都心部における急増する輸送需要に応じた.
 しかし,大都市郊外における高速電車網の発達にもかかわらず,当時の大都市の市街部では,依然として路面電車が公共交通の中心であった.これは大都市の市内交通は市営で行うべきであるとする考え方が,東京においても,大阪においても強かったことによるが,現実に既存の市街地に通常の地上鉄道を建設することは,経費の上でもむずかしいことであった.この種の困難を克服して,地下鉄がこの時期に登場する.東京においては,1927(昭和2)年12月に東京地下鉄道という私鉄によって,大阪では1933(昭和8)年5月,大阪市営として,それぞれ開業した.しかし,その路線網はいずれも小規模にとどまり,第二次世界大戦の終わる1945(昭和20)年までに,東京では14.3km,大阪では8.8kmを開業したにすぎなかった.
第2図 首都圏交通網の発達(1895―1984(明治28―昭和59)年).
 一方,工業生産の集中する地域であり,同時に大きな人口を擁する一大消費地域となった大都市では,商品の集散が増大する.その結果,従来の貨物輸送の交通網もまた大きな改良を要求された.
 たとえば,東京に集散する貨物は従来は沿岸航路によるものが最も多かったが,鉄道による輸送が急速に増加した結果,1920年代前半には鉄道による到着量が沿岸航路によるそれを凌ぐにいたった.大阪においては沿岸航路は主要な地位を保っていたが,鉄道輸送の増加は著しかった.そのため,鉄道の貨物駅や貨車操車場の改良は,前の時代から引き続いて行われ,かつその規模はさらに大きなものとなった.とくに大都市のターミナル駅のさまざまな機能が場所的に分離し,貨物取扱いを専門とする貨物駅が多く誕生した.
 これらの貨物駅に共通していることは,河川や運河を構内にひき入れた船だまりをもっていたことである.当時の道路上の貨物輸送は依然として馬車と大八車が主力であり,長距離,多量輸送には不適であった.これに対して,重量貨物の都市内輸送には艀[はしけ](barge)が用いられ,このため,都市内の運河が前の時代に引き続いて急速に整備されて,その沿岸への工場立地も進んだ.
 (3) 鉄道と自動車の競争
 自動車が日本に輸入されたのは20世紀初頭であるが,有力な公共交通機関として国内各地に普及するのは1920年代以降のこの時期からである.
 1920年代のバスは,その多くが定員5―15名程度の大きさで,シャシーとエンジンは主としてアメリカ合衆国から輸入された.フォードT型(20馬力)はその代表的なものである.バス業者は所有台数5両以下の小規模業者が大部分を占めたが,その前身の多くは馬車業者であった.舗装のほとんど行われていない劣悪な道路状況にもかかわらず,これらのバスは大都市や地方都市を中心として定期路線網を次第に拡大し,鉄道と激しい競争を演ずるようになった.バスは鉄道を上回るフリークエントサービスの機能と,鉄道にくらべて便利で,かつ多くの停留所を設置することによって,鉄道に大きな脅威を与えたが,とくに地方都市周辺においては多数の小規模な鉄道が廃業に追いこまれた.
 鉄道側はガソリン動車を導入することによって,列車運転のフリークエンシーを向上させるとともに,みずからも自社鉄道の沿線地域でバスの運転をはじめることによって,バス業者に対抗した.また,沿線地域で営業するバス業者を逐次合併,あるいは買収して,地域内の交通の独占をはかった.一方,貨物輸送においても鉄道の独占はくずれ,トラックが道路交通に進出して,とくに短距離の鉄道貨物を奪うようになった.
 バス・トラック業者は急増し,鉄道との間に激しい競争を演じたのみならず,業者間でも激しく旅客・貨物を奪い合った.当時の自動車交通事業に対する監督権は逓信大臣に属していたが,現実には道府県知事の許可によって事業がなされていた.自動車交通が発達するにつれて,その監督権の確立が必要となり,道路管理の立場から監督権を主張する内務省と,既存の監督権を主張する逓信省が対立したが,鉄道を含む陸上交通機関を総合的に監督し,相互間の調整をはかる立場から,1928(昭和3)年11月より,鉄道省に業務が移管され,監督局が所管することとなった.
 1933(昭和8)年10月には,さまざまの自動車事業に関係する法律が総合化された自動車交通事業法が施行され,定期自動車路線はすべて鉄道大臣の免許を受けることが義務づけられた.
 一方,国有鉄道を経営する鉄道省においてもまた自動車交通への関心が高まり,鉄道の補助交通機関として活用しようとする動きがおこった.
 その一つは,鉄道省みずからがバス事業を開始したことである.1922(大正11)年に制定された改正鉄道敷設法によって建設が予定された路線は大部分が人口の少ない,産業活動の乏しい地域を沿線としていて,経営的には採算のとれない路線と考えられた.すでに木下淑夫[きのしたよしお]の主張2)のように,このような地方支線では,鉄道よりもバスを運転するのが合理的であるとする考えもはやくから現われていたが,この考えが実現したのは1930(昭和5)年12月であった.この年に改正鉄道敷設法による予定線の一つである岡崎・多治見[たじみ]間と瀬戸記念橋・高蔵寺[こうぞうじ]間に最初の省営自動車が開業し,後年の国鉄バス開業の第1号となった.しかし,この省営自動車事業は,沿線地域の住民のなかでは,鉄道とバスを比較して合理的な選択が行われたこととは意識されず,鉄道が建設されるまでの暫定的な移行措置と考えられていた.
 第2は国鉄貨物の末端輸送にトラックの積極的活用をはかったことである.従来の鉄道貨物における末端輸送は原則として荷主の責任で行われていたが,1935(昭和10)年10月,宅扱[たくあつかい]制度を開始し,荷主の要求に応じて集荷・配達を行うこととした.これは従来,特別小口扱[こぐちあつかい]と呼ばれていた制度を拡大強化したものであった.また,1931(昭和6)年には駅における小口扱貨物の積卸しの合理化のため,1トン積コンテナの使用がはじまり,荷主の好評を博した.その後さらに150kgコンテナも用いられた.これらはいずれも新興のトラック輸送に対抗して採用された措置といえよう.
 (4) 観光開発と交通
 この時期には全国的に観光開発が進められ,交通にも大きな影響を与えた.
 従来の日本におけるレクリエーション活動は寺社参詣や温泉での湯治に代表されていたが,この時期には大都市の住民を中心とした野外レクリエーションが盛んとなった.たとえば,登山・ハイキング・スキー・スケートなどで,従来は上流階級の一部で行われていたにすぎなかったが,1920年代以降次第に大衆化したのである.
 同時にすぐれた自然景観や歴史的な文化遺産を保存するために,国立公園の制度を確立しようとする運動が1920年代から盛んとなり,1931(昭和6)年国立公園法の制定が実現した.最初の国立公園地域の指定は1934(昭和9)年に行われ,瀬戸内海・雲仙・霧島の三地区がその最初となった.以後1937(昭和12)年までに,日光・富士箱根・阿寒・大雪山などが国立公園に指定されている.日本の国立公園はその理念をアメリカ合衆国の国立公園に模したため,単に自然景観や文化遺産を保存するだけでなく,これを多くの人々が観賞できるようにすることが求められている.そこで,国立公園,あるいはこれに準ずる地域を中心として,多数のすぐれた自然景観や文化遺産を含む地域のなかで,交通機関や宿泊施設などを整備することが必要であった.
 また,海外からも多くの観光客を誘致し,外貨獲得の一助とする政策も並行して進められた.1930(昭和5)年,鉄道省の外局として国際観光局が新設されたのは,その一つのあらわれであった.
 これらの社会的背景のなかで,日本各地で観光開発が進められたが,そのための交通機関や施設の整備に私鉄企業が大きな役割を果たし,同時に観光客の輸送は各地の交通企業にとって重要な輸送需要として意識されて,その促進がはかられた.
 たとえば,多くの私鉄企業はすぐれた自然景観と文化遺産を含む広い地域に交通路や施設を整備し,かつ地域内の鉄道やバス路線を独占的に営業する経営方針を進めた.とくに大都市と観光地を結ぶ鉄道の整備が急速に進められたのが特徴である.大都市の私鉄では,東武鉄道による日光・鬼怒川地域の開発,京阪電気鉄道による琵琶湖沿岸の開発などが代表的なものであり,地方私鉄によっても,長野電鉄と志賀高原,富士山麓電気鉄道と富士山北麓地域などに同様の関係がみられる.
 国有鉄道もまた観光輸送に大きな関心を示し,大都市と観光地との間に直通列車を運転したり,割引乗車券を発売することなどが行われた.

 [注]
 1) 中川正左『帝国鉄道政策論』,鉄道春秋社,1928(昭和3)年,34ページ.
 2) 木下淑夫『国有鉄道の将来』,鉄道時報局,1924(大正13)年.
[青木栄一]