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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 III 道路
著者名: 山本 弘文
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第5章:交通・運輸体系の統合ー1922~1937(大正11~昭和12)年 III 道路

 (1) 自動車の輸入増加と国産車の育成
 関東大震災(1923(大正12)年)から日中戦争勃発(1937(昭和12)年)までの時期は,恐慌期の合理化政策を経て,戦時経済への傾斜が急速に深化していった時期であった.この間道路交通の分野では,車両や部品の輸入を通じて,モータリゼーションが一段と進展する反面,輸送コストの低減や輸送体制の整備のために,道路輸送業者の整理と統合が速い足どりで進んだ.すでにふれたようにわが国の自動車交通は,輸入乗用車を中心として,1910年代からしだいにさかんになり,1920(大正9)年前後にはハイヤーやタクシーのほか,乗合自動車も各地にあらわれた.そして大震災後の復興期には,導入がおくれていたトラックの輸入も増加し,都市周辺の緊急輸送に威力を発揮しはじめたのであった.他方,この時期には,従来のヨーロッパ系の車両にかわって,フォードやGM車の輸入が急増し,1925(大正14)年には日本フォード株式会社が横浜に,1927(昭和2)年には日本ゼネラル・モータース株式会社が大阪に,いずれも本社の全額出資によって設立された.その結果両社は,完成車の輸入と輸入部品の組立てによって,わが国の幼弱な自動車工業を圧倒し,1930年代なかばまで,日本市場を支配することになったのである(第3表,第4表).この間わが国の自動車工業は,大地震の被害や外国車の進出によって危機的な状態を続けたが,1930(昭和5)年ころから,国際収支改善のための国産車振興政策が本格化し,政府の指定した標準型トラック,バスの製作に対して,補助金が交付されることになった.
第3表 自動車および部品輸入額(1922―1933(大正11―昭和8)年)
第4表 外国車組立台数(1929―1936(昭和4―11)年)
第5表 自動車生産台数(1930―1937(昭和5―12)年)
その結果,1932(昭和7)年3月には,有力三社(株式会社石川島自動車製作所,ダット自動車製造株式会社,東京瓦斯電気工業株式会社)の協力によって,標準型自動車5種(トラック2種,バス3種)の試作車が完成し,また1934(昭和9)年6月には日産自動車株式会社,1937(昭和12)年8月にはトヨタ自動車工業株式会社が設立されるなど,国産化体制が整いはじめた.しかし普通車の生産はなかなか軌道に乗らず,1937(昭和12)年頃までは気筒容積750cc以下の小型車が大部分であった(第5表)1).
 (2) 自動車交通の発展
 1920年代から1930年代の道路交通は,馬車・人力車・荷車など旧タイプの輸送手段の減少と,自動車・自転車の急増によって特徴づけられる.なかでも,乗合自動車や自転車との競争にさらされた乗合馬車と人力車の減少がいちじるしく,1937(昭和12)年には1920(大正9)年の,それぞれ6分の1および7分の1に減少した.
第6表 1928―1937(昭和3―12)年諸車台数
第7表 自動車保有台数(1930―1937(昭和5―12)年)
これに対して荷馬車・牛車・荷車はかなり抵抗力が強く,牛車の揚合には一貫して増加傾向をたどった(第6表).これはトラックの急増(1937(昭和12)年には1920(大正9)年の60倍)にもかかわらず,地方道の整備が不十分なため,運行範囲が限られたためであった.いうまでもなく貨物の場合には旅客と違って,軒先での集荷とそのための地方道の整備が,ぜひとも必要であった.客馬車・人力車の急速な衰退と荷馬車・牛車・荷車の抵抗力の背後には,このような道路事情があった。
 しかし自動車の保有台数は,前述のような外資系会社の供給によって,この時期に急増し(第7表),1930年代初頭にはその貨客輸送量も,近距離圏の鉄道輸送をおびやかすほどになった.事実,1930(昭和5)年の鉄道省調査によれば,50km以内の貨物輸送の41%,旅客の12%が民営自動車に奪われていた.
第8表 東京市内の輸送機関別輸送分担比率(1926―1935(昭和元―10)年)
そのため同年12月には,鉄道省自身も省営バスの開業に踏み切り,1936(昭和11)年末までに計58におよぶ営業路線(1980km)を開設することになったのである2).
 このような自動車の進出は,都市交通においてとりわけ顕著であった.いま東京市電気局編『東京市都市交通統計資料』(1936(昭和11)年)によって,その模様をみれば,第8表のとおりであり,1935(昭和10)年度にはバス・タクシーの輸送人員は,全輸送人員の3分の1を占めるにいたっている.同年度の市内乗合自動車企業は,市営1,私鉄兼営11,その他35をかぞえ,その保有車両数2578両・運転手3327人・車掌3460人にのぼった.またタクシー企業は1万4674,保有車両数2万3160両にのぼったが,そのうち1万604企業は1台業者であった.しかし,その輸送人員は逐年増加し,1935(昭和10)年には私鉄のそれに迫ることになったのである.なお自動車運輸業は,1933(昭和8)年10月の自動車交通事業法の施行によって,鉄道大臣が免許者となり(従来は各地方長官),統一的な免許基準にもとづいて免許することになったので,小業乱立の弊害はかなり改善されることになった.
 (3) 鉄道貨物取扱業者の統合
 すでにふれたようにわが国の鉄道貨物取扱業は,第一次大戦中の好況期を通じて,小業者の乱立をさらに強め,鉄道貨物の輸送効率を両端において大きくそこなったばかりでなく,資力信用や業者間の貸借を清算する計算制度の点でも,多くの欠陥を露呈した.業務の性格上,大戦後,外国資本との競争に直面することのなかったこの業界も,このような国民経済に対する悪影響のために,早急に改革を迫られることになったのである.
 1919(大正8)年6月から実施された鉄道運送取扱人公認制度は,このような業界の体質改善をはかるために,多数の鉄道貨物取扱業者のうちから,資力信用の比較的すぐれたものを選定し,これを一般に公表することによって,業者の淘汰と業界の体質改善に寄与しようとしたものであった.しかし鉄道院は,そこではまだ,具体的な便益の供与によって業者の淘汰を行うような措置をひかえ,業界の自主的な改革を援助するため,「公認」の意思表示にとどまったのであった.しかしもともとその業務が,時間的・場所的にいちじるしく分散し,大規模な輸送手段の効率を十分発揮しにくいこの業界では,戦後恐慌期の失業人口の増加と低賃銀などの要因も加わって,競争による自然淘汰や自主的な改革はきわめて困難であった.そのため,こうした期待にもとづいた「公認制度」は,程なく限界に直面しなければならなかったのである.
 このような結果,「公認制度」の制定によって業界の改革にのりだした鉄道当局は,その目的の達成のため,さらに業界への介入を強めなければならなかった.鉄道貨物取扱業の合同を求める1926(大正15)年6月の鉄道省の声明がそれであった.この声明とその後の新貨物制度に関する当局の発表によれば,新しい施策の要点は,一部の小口取扱貨物について,鉄道が戸口(後に戸口から戸口まで,すなわち集配とも)までの輸送責任を負い,当局の方針に沿って合同した団体にその配達(後に集配とも)を委託するというものであった.このような方針は一部の業者から,旧来の慣習と営業の自由をおびやかすものとしてはげしい攻撃を受けた.しかしその営業の大部分を鉄道に依存した業界は,結局,当局の新しい方針に沿って,合同への道を歩むことになったのである.
 業界の合同は,このような事情を背景にして,中央・地方のそれぞれにおいて,ほぼ1926(大正15)年秋から1928(昭和3)年春にかけて行われた.まず中央での合同は,内国通運,国際運送,明治運送の三大会社の出資によって,1926(大正15)年10月,合同運送株式会社が東京に設立された.同社はその後約1年の間に,全国各地の有力計算会社を相ついで合併し,1927(昭和2)年10月には,特別小口扱貨物その他の集配元請を担当する,総括請負人に指定された.そして1928(昭和3)年3月,同社と上記三社の合併によって,中央における独占的運送請負会社(国際通運株式会社)が成立することになったのである.
 他方,各駅の貨物取扱業者の合同は,上記有力会社の店舗もふくめて,ほぼ1927(昭和2)年から1928(昭和3)年にかけて行われた.その結果,各駅には,新貨物制度の集配を担当する合同会社が相ついで誕生することになったが,それらの会社はいずれも,1927(昭和2)年10月以降,特別小口扱貨物その他の集配下請人に指定され,あらたに総括請負人となった国際通運株式会社のもとで,各駅の貨物の発着取扱や積卸・集配などの業務に従事することになったのである3).

 [注]
 1) 柳田,前掲書,337ページ以下参照.
 2) 日本国有鉄道『日本国有鉄道百年史』第8巻.
 3) 前掲『国有鉄道の小運送問題』,日本通運株式会社『社史』第4章.
[山本弘文]