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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 I 政策
著者名: 原田 勝正
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 I 政策

 (1) 戦時体制下の交通政策
 日中戦争の開始は,この当時日本の政府・軍部のあいだで構想されていた国策ないしはそれにもとづく戦略構想から逸脱する方向をとるはずのものであった.なぜなら,1936(昭和11)年6月に政府・軍部が策定した「国策ノ基準」は,日本の対外進出の方向を,中国東北(満州)だけでなく,東南アジアをその中に含めるものとし,そのために起こり得べき戦争の相手国を,従来中国東北の支配をめぐって起こるべきソ連・米国としてきたのに加えて,新たにイギリス・オランダを含め,とくに米国およびソ連との戦争を最も起こり得べきものとした.そして,この戦争の準備のため,1937(昭和12)年から5カ年計画で,陸・海軍の勢力を充実し,同時にいわゆる総力戦体制のための国内経済体制の確立,なかでも強力な経済統制の体制を,この間に確立することを強く求めていたのである.
 このような国策ないしは戦略構想からみると,日中戦争は明らかにこの路線からの逸脱を意味した.それは,日本の政府・軍部が中国の国力,とくに戦力や国民の抗戦意識を過小に評価し,この戦争を数カ月で勝利に導くことができるという安易な見通しの下に戦争を開始したからである.然るに,中国の抗戦体制は日本側の予想に反して強力であり,日本の政府・軍部は戦争を短期間に収拾することに失敗した.
 そして,結局この戦争を遂行するために,従来準備してきた総力戦体制をこの際一挙に実現しようという方向に進むことを決意したのである.1938(昭和13)年4月1日,政府は,議会内部や一部世論の反対を押し切って国家総動員法を公布し,全般的な戦時統制を実施する法的裏付けを得た.この法律は,政府が戦争遂行に必要と認める政策・措置は,議会の承認を経ることなく,この法律によって,政府の命令として実施することができると定めていた.すなわち一種の授権立法であり,議会の権限は,この法律によってほとんど奪い去られることとなったのである.
 このとき以後,1945(昭和20)年の日本の敗戦による太平洋戦争終結にいたるまで,この法律にもとづくあらゆる面での統制が,日本の戦争体制をかたちづくっていくこととなった.戦時経済体制は,この法律によって基本的な経済統制の枠組みをつくられ,戦争遂行に必要な手段がつぎつぎに実施されることとなった.
 戦時経済体制の中で重要な部門をなすのは,いうまでもなく軍需生産であるが,ただ単に軍需生産だけでなく,総力戦体制の下においては食糧その他の生産もすべて戦争遂行に必要な部門として重視された.そしてまた,生産だけでなく,流通部門についても,戦争遂行のための輸送力の確保は,戦時経済体制の重要な一部門とされた.この場合も,軍事輸送のみが重要とされるのではなく,戦時生産に必要な原料・製品の輸送,工場・事業所労働者の通勤輸送など,貨物・旅客を通じて全面的な輸送体制の強化が,緊急な課題とされるに至ったのである,
 このような観点に立って,交通政策は急角度に転換するに至った.従来,とくに1960(昭和5)年以降の世界恐慌以後局部的に実施されてきた統制政策は,資本主義体制の危機を打開するための経済統制という意味を本質的に持っていた.しかし,日中戦争開始ののち,とくに国家総動員法公布以後の交通政策は,日中戦争および来るべき大規模な戦争を遂行するための輸送体制確立という目標に集約されることとなった.
 この場合の交通統制は,いうまでもなく,陸上運輸各部門,すなわち鉄道・自動車という輸送手段,幹線・局地ないしは都市という輸送分野と,海上運輸各部門,すなわち沿岸航路と外洋航路という輸送分野と,その両方の輸送部門にわたり,従来まったく手を染めることがなかった総合的な交通統制を実施しなければならなかった.このような交通統制は,第一次大戦後,欧米列強が総力戦体制の研究を本格化していったとき,各国で取り上げられた問題であった.日本では1920年代終りの時期から陸上運輸部門全般にわたる監督権をもつこととなった鉄道省が,鉄道・自動車両方の輸送手段について総合的な交通事業統制の主体として,軍部と連?を保ちながらその研究を開始していた.
 最初は,欧米諸国における交通統制のプランについて学ぶところからはじまり,これを基礎に,日本の状況に適合した交通統制の方策が検討された.しかし,戦時体制の進行にともなうこの段階における交通統制については,まだ十分な検討が行われていなかった.したがって,海上輸送部門を含めた総合的な交通統制の方策の確立が急務とされたのである.その場合問題となるのは,国内輸送体制の分野と,日本を中心とする周辺地域の輸送体制の分野とであった.
 第1の国内輸送体制については,すでに明治後半以後,輸送部門の中心にすわった鉄道を,ここでも輸送体制の中心とすることが必要とされた.そして,従来形成されてきた輸送体系,すなわち鉄道を動脈として,これに自動車を毛細管とする方式を,あらためて国内輸送体系をめぐる交通統制の基本的なパターンとすることが確認された.
 第2の日本および周辺地域との輸送体制については,まず,日本・朝鮮・中国東北を結ぶ輸送路の確保が,戦略上からも第一義とされた.これは日露戦争後の日本の支配体制が要求した輸送体制であった.これに日中戦争開始後は,中国における日本の占領地域を含め,当時の表現を用いれば「日満支」を包含する輸送体制の確立が要求された.この場合この地域が,総力戦遂行のための,自給自足経済――Autarkie――圏成立の空間的範囲とされていたことは注目されてよい.すなわち当時ドイツ・イタリアなどのファシズム国家が主張していたAutarkieの理論を,日本の政策担当者たちは,「日満支」の地域に採用したのである.この地域の経済体制を強化するとともに,さらに東南アジアのより豊富な資源地帯を確保し,多くは欧米諸国の植民地であるこれらの地域を,「アジア解放」のスローガンの下に植民地支配から「解放」し,日本を中心とするAutarkieに編入させるという目標がつぎの目標とされた.太平洋戦争の「大義名分」はこうして確立するのだが,しかし日中戦争段階では,まず「日満支」の地域における輸送体制の確立が当面の課題とされたのである.
 (2) 戦時下の交通統制とその矛盾
 それでは,このような交通政策がどのようなかたちで推進されたか,この問題を,1930年代末期から1945(昭和20)年にいたる時代の流れを追って概観することとしよう.
 1937(昭和12)年7月に日中戦争が開始されると,大量の軍事輸送が実施されたが,この戦争が短期間に収拾不可能という事態が明白となるにともなって,戦争遂行のための基本的な面における輸送力の調整が必要とされるに至った.まず,採り上げられたのは,燃料問題であった.日本の資源状態からみて,重油・ガソリンは,船舶・航空機・自動車・戦車などの長期的な作戦使用に耐えるほどの備蓄がなされているとはいえなかった.これを輸入によって補うにしても,燃料の消費規制は不可避的な措置とされた.また軍事輸送のために一般船舶が徴発された結果,深刻な船腹の不足が生じてきた.このいずれの場合も,自動車・船舶から鉄道に輸送形態を転移させることが必要とされるに至った.
第1表 鉄道による旅客輸送人員
 戦争開始ののち旅客・貨物のいずれもが急激に増加した.にもかかわらず,資材・労働力の不足から,輸送力はかえって減少するという事態が起こっていた.
 このようにして,輸送の需要と供給との均衡が崩れはじめるという状況がまず起こってきたのである.これを防ぎ,均衡を確保するために,輸送統制強化の方策が考えられるに至った.1940(昭和15)年2月1日,陸運統制令,海運統制令がそれぞれ公布された.これは,前に述べた国家総動員法の規定によるもので,とくに戦力となるべき物資の輸送力を確保し,そのために戦時における陸上運輸部門のあり方について国家が直接に統制を加えるというもので,国有鉄道はもちろん,地方鉄道,軌道,自動車運送事業,小運送業を統制の範囲に含めることとした.
 この陸運統制令は,太平洋戦争開始の直前1941(昭和16)年11月15日全面的に改正された.この改正によって,国家事業と民間事業とを問わず,輸送統制の強化,輸送施設の管理・使用または収用,輸送用物資の統制,運送設備・資材の統制,輸送事業の統制など,この陸運統制令は,輸送全般にわたる統制を一挙に実施するための法的根拠をなすものとなった.
第2表 鉄道による貨物輸送トン数
すでに,この勅令による統制のほかに,1938(昭和13)年4月1日,国家総動員法公布と同時に陸上交通事業調整法が公布され,都市および周辺地域における交通事業の統制が開始されていた.東京の場合には,増大する通勤輸送需要に対応するため,国鉄山手線を中心とする環状線の内側および外側のすべての交通機関(高速電車・地下鉄道・軌道・バスなど)を同一経営体に包括し,同時に防災上の理由から地下鉄道路線の延長をはかるため,帝都高速度交通営団を設置しようとした.ロンドンにおける都市交通機関を統轄するロンドン運輸公社の制度と類似するこの公団設置の計画に対して,それぞれの交通機関を保有する国有鉄道や東京市電気局,その他民間企業は,かならずしもこれに同調せず,結局1941(昭和16)年3月7日,帝都高速度交通営団法が公布されて,地下鉄道企業の統合と公有化とが実現したが,国鉄電車・市営電車・バスなどをこの営団の経営体に含めることはできなかった.
 ただ,東京周辺の多くの郊外電車企業を統合する方策が実行され,東京東北部は東武鉄道,東部は京成電鉄,西北部は西武鉄道,西南部および南部は東京急行電鉄にその大部分が統合された.また路面電車のほとんどは東京市が吸収した.東京以外でも,大阪・福岡・高松・富山など各都市を中心に,このような企業の合同,路線の吸収などが実施され,輸送能率の向上が図られた.
 太平洋戦争が開始されると,前にふれた日本を中心とするアジア諸地域との交通政策の基本的な方針の策定が緊急の課題となった.すでに開戦前の1941(昭和16)年2月14日交通政策要綱が閣議で決定され,この中で,東アジアにおける,つまり「日満支」を中心とする総合的交通体制の確立が要請されていた.しかしこの段階では,まだ東南アジア諸地域との交通体制についてふれることはなかったのだが,太平洋戦争が開始されると,「日満支」だけでなく,東南アジアとの交通路の確保が要請され,交通政策の範囲に,これらの地域を含める必要が生まれてきたのである.
 開戦直前,政府・軍部が決定した南方占領地行政実施要領では,戦争遂行のために東南アジア占領地域における資源を可能なかぎり確保することが方針として定められていた.これらの資源を日本に運ぶための交通路の確保は,戦争遂行のための必要不可欠の手段とされたのである.1942(昭和17)年8月21日,政府の諮問機関である大東亜建設審議会は「大東亜交通基本政策」を答申した.この基本政策は,日本の総力戦体制の完成と,日本を中心とする大東亜共栄圏の確立のために,東アジアおよび東南アジアをその範囲にふくめた総合的交通体制を確立しようというものであった.
 この政策は,交通施設の計画的な整備と運用の統制をはかることとし,交通施設の整備については,陸運・海運・空運・通信・気象の全般にわたって輸送力増強の方策を徹底すること,交通統制については,「日満支」連絡交通路の統一的運用,運賃体系の再検討,海陸輸送分野の適正化,とくに海上輸送の陸上への転換,船舶運航体制の集約化および計画的配船の徹底などが方針として定められた.
 このうち,日本本土と大陸における輸送施設の規格統一が方針として含まれ,この方針のもとに,すでに鉄道省が着手していた東京・下関間の国際標準軌間による新幹線の建設が促進されることとなった.戦後における新幹線の建設の前史は,このような要請にもとづくものとして発足した.さらに,当時掘削されていた関門トンネルとならんで,日本本土と朝鮮とを結ぶ関釜海底トンネルの可能性の検討が開始された.
 海運については,すでに1937(昭和12)年から船舶管理・造船事業統制がすすめられていたが,1940(昭和15)年以後海運・港湾運送事業についての統制法規が制定された.1941(昭和16)年太平洋戦争開始をひかえて,8月19日海運国家管理要綱が決定され,海運はこの段階で,全般的な国家管理の下に服することとなったのである.このような国家管理は,太平洋戦争開始後,より強力に進められ,船舶運営会といった政府・民間共同の組織による計画造船・船舶運航の体制が成立していった.
 太平洋戦争の戦局が,初期の日本側の有利な状況から一変し,戦局の主導権が連合軍側に移るのは1942(昭和17)年6―10月の時期である.このころから交通政策と実態との間の矛盾は急速に拡大していく.交通政策は,さきに述べた「大東亜交通基本政策」にもとづき,陸運については,1942(昭和17)年10月6日閣議が「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」を定めた.この方策によって,国内における鉄道・自動車など各輸送手段を通じて,政府の手による計画輸送体制を強化し,同時に海上貨物を陸上輸送機関に転換する方策が実行されることとなった.
 しかし,この方策はいずれも計画通りには実行されず,1944(昭和19)年3月閣議決定の「決戦非常措置要綱」にもとづき,同年8月16日応急運輸措置要綱が決定された.これらの措置によって,旅客の徹底的な制限,大都市からの疎開輸送の実施などが行われたが,すでに資材・労働力ともに不足し,計画輸送自体が破綻状態となっていった.積極的な建設計画,たとえば新幹線の建設や関釜海底トンネルの計画などはすべて中止され,1945(昭和20)年にはいると,本土空襲によって被害が続出するなかで,来たるべき本土決戦のための軍事輸送だけが計画的に実施されるといった状況となったのである.
 海運・空運もほぼ同様,戦争による被害が当初から予想をはるかに上回り,とくに船舶の被害は大きく,1941(昭和16)年保有638万総トンは1945(昭和20)年8月156万総トンとなっていた.これでは計画輸送そのものが不可能な状態であった.
 こうして敗戦までに,輸送統制はまったく実施不能の状態となった.管轄官庁は1943(昭和18)年運輸通信省,1945(昭和20)年運輸省と,陸海総合の体制がつくられたが,この時期には,このような破綻状態で,統制など思いもよらないという結果となったのである.
[原田勝正]