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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 III 道路
著者名: 山本 弘文
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 III 道路

 (1) 戦時下の自動車工業
 1920年代から日本フォード,日本GMの圧倒的な支配が続いていた自動車工業は,1936(昭和11)年5月に公布された自動車製造事業法によって,一つの転機を迎えた.この法律の背後には,世界恐慌後の国際緊張の高まりのなかで,普通自動車の国産化体制を急遽確立し,有事に備えるという,軍事的な動機があった.そのため年産3000台以上の自動車を製造する企業を許可制とし,これに対して税制上の優遇措置や資金調達上の制限の緩和などの保護助成を与える半面,外国企業に対しては営業規模の制限(年間組立台数を日本フォード株式会社1万2360台,日本GM株式会社9470台以内に制限)や輸入関税の引上げによって,その支配力の削減をはかることになった.許可会社には,同年9月,(株)豊田自動織機製作所(1937(昭和12)年8月,トヨタ自動車工業株式会社創立)と日産自動車(株)が指定され,それぞれ製造計画が定められた.製造台数はその後,機械設備の充実や工場の拡張(日産横浜工場の充実や豊田挙母[ころも]工場の建設)によって急速に増加し,1940(昭和15)年ころには,軍用トラックを中心とした国産化体制をほぼ確立したが,資材不足の深刻化にともない1943(昭和18)年以降急激な減産に転じた.この間,日本フォード,日本GM両社は,円為替の下落や輸入関税の引上げ(1936(昭和11)年12月)などによって打撃を受けたが,さらに輸出入品等臨時措置法(1937(昭和12)年9月公布)による厳しい輸出入統制のため,事業の継続が困難となり,1939(昭和14)年に生産を停止した。しかし軍需によって緒についた普通車の国産化体制も,敗戦によって烏有に帰することになったのである.
第3表 自動車生産台数(1937―1945(昭和12―20)年)
第4表 普通トラック・バスの生産と軍民別用途(1937―1945(昭和12―20)年)

 (2) 道路輸送業者の統合
 昭和恐慌期を通じて合併・整理を迫られた道路輸送業は,その後,準戦時体制期および戦時体制期を通じて,さらに徹底した合同と国家統制を余儀なくされた.
 鉄道貨物取扱業に対する国家統制は,満州事変の勃発(1931(昭和6)年9月),国際連盟脱退(1933(昭和8)年3月),ロンドン海軍軍縮会議脱退(1936(昭和11)年1月)など国際関係の緊張を背景に,1930年代後半からしだいに強化された.いわゆる小運送二法(小運送業法と日本通運株式会社法)の公布(1937(昭和12)年4月)と,これにもとづく小運送業者の合同および日通への統合がそれであった.
 小運送業法と日本通運株式会社法は,相互に密接な関連のある小運送業(鉄道貨物取扱業)の統制法であった.すなわち小運送業法は,従来自由に開業できた小運送業を免許制にして,その乱立を防ぐとともに,日本通運株式会社法は,半官半民の統轄会社を設立して,小運送業の全国的な統轄と統制をはかろうとするものであった.同社の創立は1937(昭和12)年10月1日に行われたが,資本金3500万円は,政府出資800万円,国際通運株式会社ほか有力計算会社6社の現物出資1624万5000円,国鉄共済組合950万円などから成り,国際通運ほか6社は,その純資産を現物出資して,9月末に解散した.
第5表 小運送業における日通の占有率(1939―1946(昭和14―21)年)
その結果,交互計算,貨物引換証の発行と整理,各種元請業務など既存7社の統轄業務は,すべて日本通運株式会社に引継がれ,各駅の貨物取扱業者は,すべてその統轄に服することになったのである.しかし各駅の業者数は,日通法と同時に公布された小運送業法が,既存業者の反発を危惧して公布前の全業者を免許したため,1938(昭和13)年3月末現在7789にものぼり,年間貨物取扱量5000トン以下の零細業者が,全体の60%を占めた.そのため1938(昭和13)年後半から1941(昭和16)年にかけて,各駅の業者を1駅1店の合同会社に集約する運動が,鉄道省の指示にもとづいて進められ,1941(昭和16)年6月までに全国の国鉄駅の90%が1駅1店(総計5010店)となった.そしてさらに同年9月から,これらの各駅合同会社の日通への統合(吸収合併)が進められ,鉄道貨物取扱業(小運送業)における同社の独占体制が確立することになったのである.
 他方,路線バス,タクシー,トラックなどの自動車交通事業も,日中戦争の勃発(1937(昭和12)年7月)以後,ガソリン・車両・部品の補給が逼迫し,代用燃料への切換え,競合路線の廃止,企業の整理・統合といったきびしい国家統制を余儀なくされた.なかでも1938(昭和13)年3月に始まったガソリンの消費規制は,第6表に見られるように追年厳しさを加え,1941(昭和16)年8月には,米国の対日石油輸出禁止によって,バス・ハイヤー・タクシーへの割当てが,ほぼ全面的に停止された.トラックの場合はバス・タクシーより削減率が低かったが,1941(昭和16)年10月には4分の3以上の削減率となり,大部分,代用燃料に依存しなければならなくなったのである.
第6表 部門別ガソリン消費規制率(1938―1941(昭和13―16)年)
第7表 路線バス事業の推移(1936―1945(昭和11―20)年)
第8表 貨物自動車運送事業者数の推移(1939―1945(昭和14―20)年)
第9表 自動車輸送力の推移(1936―1945(昭和11―20)年)
 また燃料・資材の節約と効率的な利用のため,業者の整理・統合も足早に進められた.その模様は第7表および第8表の通りであり,路線バスについては,1942(昭和17)年8月の鉄道省指令によって,極限的な統合が実施された.その結果1945(昭和20)年には,1936(昭和11)年の業者数の10分の1以下に激減することになったのである.
 このような整理・統合は,もともと零細業者の多かったトラック業界では,軍需輸送との関係で,さらにドラスティックに進められた.とくに1940(昭和15)年9月および1942(昭和17)年12月の政府指令にもとづいて進められた第一次および第二次統合は,きわめて大規模な政策的統合となり,従前の業者数を80分の1近くに減少させることになったのである.
 しかしこのような措置にもかかわらず,燃料・資材の補給は,戦局の推移にともなって悪化の一途をたどり,バス,タクシー,トラックなどの稼動率は年を追って低落した.その模様は第9表の通りであり,1943(昭和18)年以後は,40%を下回る状態となったのである.敗戦時の実動車数は,1936(昭和11)年の4分の1以下となっていた.
 [山本弘文]