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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 IV 沿岸海運と河川舟運
著者名: 増田 廣實
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第6章:戦時下の交通・運輸ー1938~1945(昭和13~20)年 IV 沿岸海運と河川舟運

 (1) 第二次大戦と沿岸海運の統制
 1929(昭和4)年10月に始まる世界恐慌の影響下から船舶改善助成施設等の強力な政府保護政策によって梃入れされ,景気回復をはたした海運界であったが,1937(昭和12)年7月7日に始まる日中戦争により,軍の船舶徴発で一気に船腹不足を生じる好景気を迎えることとなる.そのため同年7月末,逓信省は船腹不足を解消するため,前章で述べたように関東州置籍船・外国船に沿岸貿易を特許し,さらに8月には不急積荷及び運賃傭船料暴騰抑制措置の緊急令を公布した.これに対し,7月より8月にかけ,海運連合協議会,日本船主協会,海運自治連盟は,運賃・傭船料の自主統制を決め,これに対応した.
 しかし,政府は海運界の自主統制を主としながらも,さらにこれを強化するために政府権限の拡大をはかり,1937(昭和12)年9月臨時船舶管理法を公布し10月1日より施行した.同法は,重要物資の輸送,運賃調整,対外航権の維持をはかることを目的に,船舶の輸出入の許可制,航路や就航区域または貨客輸送についての命令権限,運賃や傭船料の制限命令権限をはじめ,造船や船員制度にまで及ぶ広範囲のものであった.同法による命令発動は,政府・議会・海運界代表からなる船舶管理委員会の決議を必要とし,業界の自主統制を建前としたが,国家統制の極めて強いものであった.すなわち,海運に関しては翌1938(昭和13)年4月に公布される国家総動員法に先行し,早くも戦時統制が強力に推進されたということができる.
 この1937(昭和12)年9月に公布された船舶管理令では,船腹不足に対処するため,1933(昭和8)年以来船舶輸入許可規制の下で,正式輸入できないため便宜上置籍船として関東州などにあった変態輸入船の内地転籍を許可した.これにより約40万トンに及ぶ船腹増加をみたが,船腹不足はますます激しくなった.このため政府は船腹獲保を図るため1939(昭和14)年8月海運統制措置要綱を閣議決定し,9月より実施し,同要綱にもとづき同年9月逓信省に海運統制協議会を設置した.これにより海運統制はさらに強まり,運賃統制から配船統制へと進み,一段と戦時統制が強化されていった.
 さらに翌1940(昭和15)年2月,政府は海運の戦時統制を進めるため,国家総動員法にもとづき,海運統制令を施行した.これにより造船の許可制,船舶の修理促進命令,船舶の貸与・委託命令,航海の禁止制限命令,荷役促進命令,運賃・傭船料の公定等が規定された.そして,太平洋戦争を避けがたくなった1941(昭和16)年8月,船舶・船員・造船の国家管理に関する戦時海運管理要綱を閣議決定し,翌1942(昭和17)年3月戦時海運管理令が公布施行された.これにより船舶の国家管理,船員の徴用・管理,国家使用船舶の一元的運営のための船舶運営会の設置等が規定された.
 この時期,すでに内航船のうち1000トン未満約300隻が陸海軍に徴用されていたが,戦時海運管理令により国家使用の対象船舶は,100トン以上の汽船,150トン以上の機帆船となった.この対象範囲はその後1943(昭和18)年10月から50トン以上の機帆船にまで広げられ,さらに1944(昭和19)年9月15トン以上の汽船・機帆船・帆船にまで広げられていった.これら対象船舶は,逓信大臣からの使用令書によって国家使用とされ,国はこれを船舶運営会に貸与し運航させた.この船舶運営会は,日本船舶の所有者または所有者団体をもって構成され,1942(昭和17)年4月設立された.なお同会による運航は,構成員の中から逓信大臣が指定した運航実務者によって行われた.
 1945(昭和20)年4月米軍は沖縄本島に上陸し,敗戦色濃くなる中で軍部は本土決戦にそなえ,国家使用船と港湾の一元的運営をはかることを閣議決定し,大本営に海運総監部を設置した.しかし,米空軍による港湾の破壊,機雷投下による航路封鎖,船舶の破壊による海上輸送は壊滅的打撃をうけ,1945(昭和20)年8月15日の敗戦を迎える.
 連合軍の進駐により,同年9月3日100トン以上の日本船舶はすべて連合国総司令部の管理下におかれ,米太平洋艦隊司令長官の指揮監督に服することとなった.
 (2) 第二次大戦の影響
 この時期の内航船舶による輸送トン数の増減をみると,1936(昭和11)年7926万トンであったものが,日中戦争のはじまった翌1937(昭和12)年には9465万6000トンに急増,以後年々増加し1940(昭和15)年には1億286万4000トンに達した.これをピークに翌1941(昭和16)年9918万トンと減少し,1942(昭和17)年8131万2000トン,1943(昭和18)年6009万6000トン,1944(昭和19)年4479万6000トン,と急減してついに1945(昭和20)年には僅か2475万6000トンとなり,1940(昭和15)年に比較して24%にまで減少した.
第10表 機関別輸送トン数(1936―1945(昭和11―20)年)
第11表 内航船舶入港数(全国)(1936―1945(昭和11―20)年)
こうした内航船舶の運航動向は,全国港湾への入港状態にも如実に示されている.1936(昭和11)年666万3000隻であった入港隻数は,以後増加を続けるが,1940(昭和15)年731万6000隻をピークに減少に転じ,1941(昭和16)年680万9000隻と51万隻の減少となり,1943(昭和18)年143万2000隻,1944(昭和19)年158万4000隻と急減してついに1945(昭和20)年には99万7000隻となり,1940(昭和15)年に比較して僅か13.6%にまで減少した.この状態は翌1946(昭和21)年にはさらにひどく,入港隻数は96万1000隻,輸送トン数は1755万1000トンと最低が記録された.この数値は,最盛期の1940(昭和15)年と比較すると,近近6カ年間に入港隻数が13%,輸送トン数では17%にまで減少したこととなり,太平洋戦争末期の内航船舶の壊滅的状態を物語っている.
第12表 商船数(1936―1945(昭和11―20)年)
 以上のように内航船舶の運航状態を知ることができたが,これをささえた100トン以上の商船――貨物船・貨客船・客船・油送船――の増減についてみると次のようである.まずこれら船舶の総数についてみると,1936(昭和11)年1431隻405万1000トンから翌1937(昭和12)年1518隻440万8000トンと増加し,年々急増し,1941(昭和16)年1962隻609万4000トンに達する.この年をピークに,年々減少し1944(昭和19)年1705隻358万1000トンとなり,翌1945(昭和20)年には796隻134万4000トンと急減している.最大船腹を保有した1941(昭和16)年と比較して隻数で41%,トン数で22%に激減していることがわかる.こうした状態であるが,これを種別によってみると次のようである.貨物船は1936(昭和11)年978隻280万9000トンから,1941(昭和16)年には1435隻442万4000トンとピークに達し,1945(昭和20)年528隻98万7000トンと急減.貨客船はやはり1936(昭和11)年324隻90万9000トンから,1941(昭和16)年354隻113万5000トンに達し,以後漸減してついに1945(昭和20)年63隻11万4000トンに急減.客船については,鉄道連絡線・内航定期船を含んでいるために少し様子を異にしている.1936(昭和11)年82隻13万8000トンから,1938(昭和13)年89隻14万5000トンをピークとして以後隻数を漸減しながらもトン数を増減し推移していく.そして1944(昭和19)年72隻8万2000トンとなり,翌1945(昭和20)年隻数は122隻と増加するが,トン数は7万5000トンに減少させている.また,戦争遂行に不可欠であった油送船の場合は,1936(昭和11)年47隻19万6000トンから翌1937(昭和12)年には59隻24万3000トンに急増,以後年々増加の一途をたどり,1944(昭和19)年267隻82万4000トンに達したが,1945(昭和20)年には83隻16万8000トンに急減した.
 このようにみると,入港内航船舶の運航状態と船腹の増減との間に差異のあることに気付く.すなわち,内航船舶の運航は1937(昭和12)年日中戦争で急増し,以後年々増加しながら1940(昭和15)年にピークに達し,減少に向かい1943(昭和18)年に急減して1945(昭和20)年にいたり,さらに1946(昭和21)年を最低にしている.これに対し船腹保有は,貨物・貨客船は1937(昭和12)年に急増をしながらも,全体的には比較的ゆるやかに増加し,1941(昭和16)年をピークとして減少に向かうが,その減少は比較的ゆるやかであり,1945(昭和20)年に急減し,ここを最低としている.このような傾向は100トン以上の商船の船腹に関してのみでなく,1944・1945(昭和19・20)年のデータを欠くが,20トン以上の登録汽船・帆船についても推定でき,その原因は三点をあげることができる.第1は,戦争により多大の船舶の損害をうけながらも,輸送力を確保するための造船に努めていたことであり,第2は,特に戦争による海上運送の危険をさけるため,内航から陸上輸送――鉄道輸送――への転換がはかられたことであり,第3は,輸送する物資そのものの欠乏であった.
 造船に関しては,先述した100トン以上の商船――貨物船・貨客船・客船・油送船――についてみると,その第1の点が明らかである.すでに度々ふれたように,1937(昭和12)年日中戦争が開始されると,船腹は不足し船舶建造が盛んになったが,この年から敗戦の1945(昭和20)年までについてみると,この間これら商船の建造総量は1623隻463万7000トン余に上る.そのうち,隻数の約68%近い1100隻285万3000トン余は,1943―1945(昭和18―20)年の3カ年に建造されている.すなわち,1939(昭和14)年4月造船事業法が公布され,船価低減と造船工期短縮がはかられたが,これに対応して船舶改善協会により標準型船型の選定が行われ,平時標準船の建造が始まり,1940(昭和15)年5月から政府は海運統制令によって建造許可制を定めた.
第13表 商船建造数(1937―1945(昭和12―20)年)
そして,太平洋戦争が始まると,戦時標準船を急ぎ大量に生産するため,1942(昭和17)年5月計画造船を開始した.この1942(昭和17)年5月にはじまる第一次戦時標準船建造は,先に船舶改善協会が選定した一般貨物船6種に,鉱石船1種,油送船3種を加え,各造船所ごと1―2種の船型に限定し,政府命令をもって建造するものであった.この計画造船はその後1943(昭和18)年第二次として貨物船3種,油送船2種が制定されて建造が行われ,翌1944(昭和19)年第三次,1945(昭和20)年第四次と次々に制定をみたが,この間第三次までで合計1009隻260万7000トンが建造された1).したがって,先にあげた1943―1945(昭和18―20)年の3カ年に建造されたもののうち大部分は戦時標準船であったといえる2).商船は,この3カ年間に1100隻285万3000トンが建造されながら1945(昭和20)年には,796隻134万4000トンしかなかった.このことは,3カ年間の建造隻数の約2倍,トン数の約2.4倍にあたる2125隻687万6000トンもの損失を推定させる3).
 このような建造量をはるかにこえる船舶の損害は,他方木造船建造の推進となった.1943(昭和18)年1月木造船建造緊急方策要綱によって,最長4間の標準直線角材で建造できる100・200・250トン3種が木造戦時標準船として制定され,1000隻以上の計画造船が推進された4).しかし,これら木造船はもとより,戦時標準船はいずれも資材節約と工事簡素化を重視した結果,粗悪な船舶を大量に生みだすこととなり,輸送能率を一層低下させることとなった.
 このような状態の中で第2点としてあげた内航から鉄道輸送への転換がはかられ,国内の輸送機関別貨物輸送で内航の占めるシェアは,輸送トン数で20―22%の範囲から,1942(昭和17)年以降17.1%,1943(昭和18)年13.6%,1944(昭和19)年12.2%と下がり,1945(昭和20)年には9.9%となった.これにかわり鉄道――特に国鉄――を中心に貨物輸送量は上昇し,1941(昭和16)年40.6%,1942(昭和17)年43.9%,1943(昭和18)年51.5%,1944(昭和19)年53.5%に達した.しかし,1945(昭和20)年は米空軍による空襲の被害大きく,鉄道も41.3%と減少し,自動車が34.3%から48.8%に急上昇した.
 このように惨澹たる状態で敗戦を迎えた内航海運であったが,戦後再び新しい時代へ即応し,発展することとなる.
 (3) 河川舟運の終末
 河川舟運についてみると,前時期までみられた中国地方の高梁川・江川・太田川や四国の四万十川等続けられていたものもすでに廃止にいたっていた.利根・江戸川筋でも1931(昭和6)年に東京汽船に汽船の一部を譲渡し,下利根川に営業を移した東京通運は,ついに1936(昭和11)年に破産し,銚子汽船も1942(昭和17)年には小型船4隻を所有するのみとなって,利根川からは貨客船の定期船は姿を消した5).この終末期の利根・江戸川筋にあって,両川を結ぶ重要な利根運河も1935(昭和10)年の台風により被害をうけ,さらに1941(昭和16)年には台風のため水堰が破壊され利根川口を締切り閉鎖された6).
 すでに河川舟運など内陸水運は,交通・輸送手段としては命脈がつき,観光事業の一環としての観光船として一部河川に生残っているのみだった.例えば霞ケ浦・琵琶湖遊覧船をはじめとして,天龍川の天龍峡下り,木曾川の日本ライン下り,保津川下り,球磨川下り,熊野川のプロペラ船などがあげられる.しかし,これらとても,国家総動員体制の下で次々と姿を消していった.
 [注]
 1) 青木栄一『日本の海上交通――その歴史と現状――』,運輸振興協会,1981(昭和56)年,14-5ページ.『運輸省三十年史』,運輸経済研究センター,1980(昭和55)年,24ページ.
 2) 『近代日本輸送史』,458-59ページ,表15「船舶建造量」によれば,1943―1945(昭和18―20)年の3カ年の建造総量は1286隻313万8000トン余である.したがって戦時標準船は隻数の78%,総トン数の83%となる.
 3) 1942(昭和17)年の商船数1821隻536万7000トンに,1943―1945(昭和18―20)年間建造商船数1100隻285万3000トンを加え,1945(昭和20)年商船数796隻134万4000トンを減じ,推定根拠とした.
 4) 『運輸省三十年史』,24ページ.
 5) 松村安一「利根川汽船交通の変遷」,『交通史研究』第7号,1982(昭和57)年,16ページ,
 6) 川名晴雄『利根運河誌』,崙書房,1971(昭和46)年,120ページ.
 [増田廣實]