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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年 III 道路
著者名: 山本 弘文
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年 III 道路

 (1) 戦後改革と道路輸送
 太平洋戦争の終結によって,道路輸送をめぐる状況は一変した.終戦によって小運送統制の根拠が崩壊し,小運送二法の廃止をはじめとする制度の改革が,急ピッチで進行した.
 まず戦後の一時期を特徴づけた小運送制度の改革は,各駅小運送業者の複数化と日本通運株式会社の改組を中心に進行した.小運送業の複数化への動きは,独占禁止法(1947(昭和22)年4月公布),過度経済力集中排除法(1947(昭和22)年12月公布・施行)などの経済民主化立法が施行され,日本通運株式会社が「過度経済力集中企業」の指定を受けるに及んで(1948(昭和23)年2月),抑止できないものとなった.そして1948(昭和23)年11月には,運輸省から小運送業複数制要綱が発表され,免許基準その他の重要事項を審議する小運送審議会が設けられた.その結果1949(昭和24)年3月には,新しい免許基準と33駅にのぼる小運送業者複数化駅が発表され,またその後相ついで複数化駅の追加指定が行われた.そして1950(昭和25)年2月には通運事業法の施行によって,複数化指定駅の枠も廃止され,免許基準にかなった業者は,一律に免許されることになったのである.
第2表 道路輸送業者数の推移(1946―1954(昭和21―29)年)
 他方,半官半民の小運送統轄会社としての日本通運株式会社も,「集排法」にもとづく「過度経済力集中企業」の指定(1948(昭和23)年2月)や,日本通運株式会社法を廃止する法律の公布(1949(昭和24)年12月)を通じて,徹底的な改組を余儀なくされた.しかし前者については,米麦をはじめとする重要物資の輸送体制を確保するため,当初の機械的な分割案にかわって,鉄道駅構内の小運送施設や,船舶・他社株式の譲渡を中心とした再編成が指令され,1951(昭和26)年6月までに終結した.また国策会社としての特質を除去し,民間会社に改組する作業は,上記の日本通運株式会社法を廃止する法律の公布・施行と,これに伴う同社の定款改正を通じて進められた.そしてこのような措置と並行して,従来小運送統制のよりどころとなってきた小運送業法も廃止され(1950(昭和25)年2月),かわって小業乱立を防止しつつ自由な競争を保障する,通運事業法が公布(1949(昭和24)年12月),施行(1950(昭和25)年2月)されることになったのである.
 他方,自動車輸送業の戦時統制の柱となった自動車交通事業法も1947(昭和22)年12月に廃止され,かわって営業や監督行政の民主化,自家用車をふくむ輸送秩序の確立を目的とした道路運送法が公布(1947(昭和22)年12月),施行(1948(昭和23)年1月)された.そしてこれに伴ってハイヤー,タクシー,バス,トラックなどの業者の新規免許が進行した.その結果,業者数は1950(昭和25)年ころから急速に増加し(第2表),一般免許制と自由競争にもとづく,新しい発展が始まることになったのである.
 (2) モータリゼーションの開幕
 戦後改革後の道路輸送は,モータリゼーションの開幕によって特徴づけられる.すでにふれたように自動車による貨客の輸送は,わが国においても1910(明治43)年ころからしだいに盛んになり,1930(昭和5)年ころには,鉄道輸送に対してかなりの影響を及ぼすほどになっていた.しかしその後は,戦時中の燃料・資材の欠乏のため発展を阻まれ,本格的なモータリゼーションの開花を見るにいたらなかったのである.
 このような事情は,戦後の経済復興が進むなかで,大きく変化した.当初,占領軍とその軍人・軍属の中古車の払下げに始まった自動車の供給は,その後国産自動車メーカーの復興によって,1950(昭和25)年ころから増勢を早めた(第3表).
第3表 自動車生産台数(1947―1954(昭和22―29)年)
その結果保有台数も1946(昭和21)年度末の16万5000台から1954(昭和29)年度末の81万5000台へと,約5倍に増加することになったのである(第4表).
第4表 自動車保有台数(1946―1954(昭和21―29)年)
第5表 輸送機関別国内貨物輸送量・分担率(1946―1954(昭和21―29)年)
第6表 輸送機関別国内旅客輸送量・分担率(1949―1954(昭和24―29)年)
 このような自動車保有台数の増加によって,その貨客輸送量と輸送分担率も急速に増伸した.すなわち貨物輸送の分野では,1946(昭和21)年度の20億トンキロ(7.8%)から1954(昭和29)年度の89億トンキロ(13.0%)へ,また旅客輸送の分野でも,1949(昭和24)年の61億人キロ(5.3%)から1954(昭和29)年度の241億人キロ(15.5%)へと,輸送量・分担率とも大幅に増加した.そして年を追って,鉄道の輸送独占をおびやかすことになったのである.
 (3) 道路法の改正と道路の改修
 終戦直後の道路は,国道,県道,市町村道を問わず,戦時中の酷使と補修難,戦災などによって,ひどい荒廃状態にあった.また管理・補修のよりどころとなった道路法も,道路の編成・利用上の集権主義と負担上の地方主義を柱とした旧道路法(1919(大正8)年4月公布,1920(大正9)年4月施行)が,そのまま存続していた.しかし国道の維持・保全費をふくめて道路費の負担者とされた府県には,戦争によって疲弊しきった財源しかなかった.
 このような事情のなかで最初に始まったのは,連合軍によって接収された施設を結ぶ,国道・県道の補修工事であった.1948(昭和23)年ころまでの主流となったこれらの工事は,いずれも政府予備金や終戦処理費などの,国の高率な補助金によって進められた.なかでも多数の施設を抱えた神奈川,福岡,山口,長崎,青森,東京などの都県では,この種の工事量がきわめて多かった.しかし,それらの工事はいずれも指定区間に限られたため,道路状態の全体的な改善に寄与することはできなかった.
 1948(昭和23)年11月,連合軍司令部は日本政府に対して,「日本の道路及び街路網の維持修繕5箇年計画」に関する覚書を手交し,日本側公共事業計画の一環として,既存道路および街路の維持修繕を主目的とする5カ年計画の策定を命じた.覚書は,(1)農林工鉱業資源の開発に必要な生産道路,(2)定期的な自動車運行のある市街道路,(3)主要交通中心地を結ぶ連絡道路,(4)前記(2)と(3)への取付道路,の四種について策定を求め,60日以内に1949(昭和24)年度の計画,180日以内に残り3年度の年度別計画の提出を義務づけることになったのである1).
 1949(昭和24)年度から1952(昭和27)年度にいたる工事は,この覚書に従って策定された政府の計画にもとづいて,補修工事を中心とした国庫補助事業として進められた.その結果1952(昭和27)年度末までに,第7表のような改良を見ることになったのである.
 1952(昭和27)年6月10日,新道路法が公布され,12月5日から施行された.
第7表 国道・都道府県道の改良実績(1952(昭和27)年)
第8表 国道・都道府県道の改良実績(1954(昭和29)年)
さきにふれたように1919(大正8)年に公布された旧道路法は,路線の選定その他において行政・軍事上の目的を優先させ,道路をすべて国の営造物とするなど,集権的な色彩が強かった.また道路費の負担についても,軍用・指定国道費(全額国庫負担)と一般国道新設・改築費(一部国庫負担)を除けば,原則として地方負担とするものであった.
 このような特徴は,地方自治法にもとづく戦後の行政機構に対して適合性を欠いただけでなく,国民経済の復興・発展にとってもきわめて不都合なものとなった.その結果,朝鮮戦争後の経済発展のなかで,新しい行政機構と経済発展に見合った,道路法の全面改正が行われることになったのである.改正道路法は,道路を一級国道,二級国道,都道府県道,市町村道の四種に分け,国道については都道府県知事,都道府県道については都道府県,市町村道については市町村をその管理者とした.そしてこれに伴って道路整備のための特別立法や政令が相ついで公布され,1954(昭和29)年には,第一次道路整備5カ年計画(1954(昭和29)年5月閣議決定,予定事業費総額2600億円)が発足することになったのである.1954(昭和29)年度末までの改良実績は第8表の通りである.

 [注]
 1) 日本道路協会『日本道路史』,1365-68ページ,参照.
 [山本弘文]