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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年年 IV 内航海運
著者名: 増田 廣實
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第7章:戦後復興期の交通・運輸ー1946~1954(昭和21~29)年年 IV 内航海運

 (1) 占領下の内航海運
 1945(昭和20)年8月の太平洋戦争の敗戦は,内航海運にとって船舶の激減と,国家に変わるGHQの統制支配による新しい時代の開幕となった.
 戦前,世界第3位を誇り,600万総トンに達していたわが国の船舶保有量は,敗戦直後には約150万総トンの船腹を残すにすぎず,しかも,その約70%は戦時中に建造された性能劣悪な戦時標準船であり,残り30%は戦前の建造船ではあったが,平均船齢22年という老朽船であった.このため輸送力は大幅低下し,内航船舶による輸送トン数は,1945(昭和20)年には僅か2475万6000トン,全国港湾への入港隻数99万7000隻と,1940(昭和15)年に比較すると,輸送トン数は24%,入港隻数で13.6%にまで激減した.しかし,この減少傾向は翌1946(昭和21)年にはさらに進み,輸送トン数1755万1000トン,入港隻数96万1000隻となり,ついに1940(昭和15)年に比較すると輸送トン数は17%,入港隻数は13%と最低を記録するにいたった.このことは太平洋戦争敗戦期の内航海運の壊滅的な状態を如実に物語っているといえる.
 このような内航海運の衰退は,船舶の喪失によるものだけでなく,米軍機による港湾関係施設への攻撃によるところの上屋・倉庫・艀・航路標識の破壊や,港湾・航路等への大量の機雷投下等によるものであった.
 こうした状況下で敗戦を迎えた日本海運に対して,当面大本営内におかれた海運総監部が廃され,海運業務は運輸省と船舶運営会に移されたが,連合軍側は1945(昭和20)年9月2日指令第1号により日本船舶の移動を禁止し,翌日に指令第2号をもって,100総トン以上の商船はすべて連合軍最高司令官の管理下におき,米国太平洋艦隊司令官の直接指揮下においた.そして10月からは日本商船管理局(SCAJAP)1)が管理統制することとした.この日本商船管理局の下部機関として,船舶運営会が国家使用船の一元運営業務を遂行することとなり,平和条約の発効をみる1952(昭和27)年まで日本商船の管理業務を続けた.
 こうしてGHQの統制支配の下におかれた日本海運に対し,連合国側は日本海運が政府の保護の下に果たした軍事的役割を考慮し,厳しい方針をもってのぞんだ.そのため,当初は日本の船舶の保有量を150万総トン以下に抑える方針がとられたが,その後東西関係の緊張が増し,世界状勢が変化するにつれ,このような厳しい方針は次第に緩和されることとなった.そして,1949(昭和24)年船舶保有制限が廃され,翌1950(昭和25)年にはそれまで原則的に禁止されていた外航もようやく許可され,定期航路開設をみることとなる.
 この1945(昭和20)年の敗戦後,1950(昭和25)年の外航復活までの間,先述のようにSCAJAPの下で船舶運営会による国家使用船の一元的運航体制が継続した.この間,外航は禁止されている以上,内航が主となったが,戦災復興も不十分であり,その状況は惨澹たるものであった.すでに前章でふれたように,太平洋戦争中,貨物輸送は内航から鉄道への転移が進められており,戦後もそれが継続されていた.しかし,戦後の鉄道輸送は混乱を極めていたから,それを緩和するため,1946(昭和21)年12月貨物輸送を鉄道から内航に転移する計画が実施され,旅客定期航路も北海道と京浜・阪神・関門・新潟等を結んで開かれた.そして,これより先4月以降,小型客船・機帆船の国家使用を解除する方針が実施され,内航の民営化が進められていった.この内航の民営化は,1948(昭和23)年9月,GHQの商船の新管理方式に関する覚書により,翌1949(昭和24)年4月1日から定期用船方式へと切替えられ,国家使用解除の方向に進んだ.これに続いて,GHQは同年8月には,経費節減のため800総トン未満の小型鋼船の民営化を実施,翌1950(昭和25)年4月1日にはさらに800総トン以上の定期用船も民営化を実施した.これにより,1942(昭和17)年以来続けられてきた国家使用船舶の船舶運営会による,一元的運営は終りをつげ,全面的民営移管が完了したのであった.
 1950(昭和25)年4月,国家使用船の民営移管が完成し,多年にわたる海運事業の国家の管理統制は終った.しかし,私企業としての海運事業の再建も,折からのドッジ・ライン下のデフレ政策の進行下では,船腹過剰の悪条件に苦しまなくてはならなかった.このため,政府は1950(昭和25)年6月船舶運航管理令にもとづく係船補助金交付規則を公布し,さらに同年8月には船腹過剰解消のための抜本的対策として,戦時標準船と船齢30年以上の低性能老朽船舶の買入処分を意図した低性能船舶買入法を公布施行した.
 (2) 朝鮮戦争の影響
 このような状況下で1950(昭和25)年6月に起こった朝鮮戦争は,単に海運界のみでなく日本経済を一転させる活力源となった.すなわち,1951(昭和26)年度6億ドル,1952・1953(昭和27・28)年度各8億ドル以上にのぼる巨額な特需と,世界的軍拡気運を反映した輸出の増大とが,日本経済に活性を与え,日本の経済的自立を急速に進めさせることとなった.このことは,先の低性能船舶買入法の施行状況にも明確に反映している.
第9表 内航船舶入港数(全国)(1946―1955(昭和21―30)年)
第10表 機関別輸送トン数(1946―1955(昭和21―30)年)
すなわち,同法にもとづく買上げ申込船舶は154隻,27万総トンに達しながらも,海運市況の急回復により買上げ申込みキャンセルが続出し,実際に買上げられた船舶は,97隻,13万総トンと,総トン数では僅か48%に過ぎず,その目的は不徹底に終った.
 このような1945(昭和20)年の敗戦以来容易に復興に向かわなかった内航海運が,1950(昭和25)年の朝鮮戦争によって急速に回復にいたる様子を,全国港湾への入港船舶と輸送量についてみると次のようである.入港船舶については,すでに述べたように,1946(昭和21)年は96万1000隻の入港によって1755万1000トンが輸送され,最低を記録した.その後入港隻数は1947(昭和22)年126万2000隻,1948(昭和23)年272万8000隻,1949(昭和24)年355万1000隻,1950(昭和25)年476万6000隻と増加し,翌1951(昭和26)年にはさらに急増し728万4000隻とついに戦前最高時であった1940(昭和15)年の731万6000隻の水準にまで回復するにいたった.これを輸送トン数でみると1947(昭和22)年2990万2000トン,1948(昭和23)年4223万5000トン,1949(昭和24)年4078万7000トン,1950(昭和25)年4928万2000トン,翌1951(昭和26)年には6424万3000トンに急増する.しかし,この数値をみてわかるように,その増加は必ずしも順調な発展を示してはいない.1948(昭和23)年は,1946(昭和21)年の2.4倍に達してはいるが,海上運賃が陸上運賃の2倍もの高額であったこともあり,加えて,ドッジ・ライン下のデフレ政策の影響により,翌1949(昭和24)年には前年を下回る実績となっている.したがって,入港隻数ではたしかに1940(昭和15)年の水準を回復したが,輸送トン数での戦前の水準への回復にはなお数年を要した.
 たしかに朝鮮戦争による特需ブームは,輸送需要を激増させ,1950(昭和25)年から1951(昭和26)年にかけて内航海運にあっても入港隻数で53%,輸送トン数で30%もの増加をみたものの,1952(昭和27)年特需ブームの終了と景気の後退は,輸送需要を減退させることとなった.このことが,再び船腹過剰を生む原因となり,一層輸送トン数の戦前の水準への回復を遅らすことともなった.すなわち,これを入港隻数でみると,1952(昭和27)年830万3000隻,1953(昭和28)年898万3000隻,1954(昭和29)年909万7000隻,1955(昭和30)年928万7000隻と漸増していくのに対し,輸送トン数では1951(昭和26)年6424万3000トンに達したものが,翌1952(昭和27)年4927万1000トンと23%も激減し,1953(昭和28)年4959万トン,1954(昭和29)年5157万7000トン,1955(昭和30)年5915万2000トン,1956(昭和31)年6988万2000トンとなる.漸増にしろ増え続ける入港隻数に比して,1952(昭和27)年に急減した輸送トン数が漸く回復し,なお戦前の水準に達するのには1956(昭和31)年まで待たねばならなかった.なお,政府は1952(昭和27)年2月に港湾法の一部改正を行い,重要港湾56港,特定重要港湾7港を定めている(第2図).
第2図 高度成長期直前の特定重要港湾と重要港湾(1955(昭和30)年)

 (3) 船腹過剰問題
 この1952―1956(昭和27―31)年にかけての入港隻数と輸送トン数の不均衡は,とりもなおさず船腹過剰を示すものであり,その調整がこの時期再び問題となった.この状態についてみると,1952(昭和27)年度末において,内航貨物船は64万総トンあり,うち戦時標準船などの低性能船舶は48万総トンと,75%を占めていた.これは先に1950(昭和25)年8月低性能船舶買入法の実施が,朝鮮戦争の特需ブームにより不徹底に終ったことに原因するものであった.しかし,このような状態を放置する限り,船腹過剰を解消し内航海運の不況を打開することは困難であった.そこで,これら低性能船舶を減少させ,あわせて高性能の外航船舶の建造を促進し,海運の船質向上を目的とした臨時船質等改善助成利子補給法が1953(昭和28)年8月公布された.これは1953(昭和28)年度外航新造船(第九次計画造船)に対するものであったが,これにより74隻7万総トンの低性能船が解体され,船腹過剰解消にあてられた2).しかし,その効果は十分ではなく,また同じ8月臨時船舶建造調整法も公布実施され,500総トン以上の鋼船建造を許可制とし,船腹過剰の悪化を防ぐ措置がとられたが,当面する船腹過剰を解消することとならなかった.
 以上のようにして1945(昭和20)年の太平洋戦争の敗戦以後1955(昭和30)年にいたるこの期の内航海運は,80%をこえる資産喪失と75%をこえる低性能船舶をかかえ,船腹過剰に悩みながらも次第に戦前の水準に回復を果たしていった.この期間,船種別の輸送分担率についてみると,鋼船の大量喪失の影響が続く中で,機帆船が大きな比重を占めていた.機帆船は内航船舶に対し1946(昭和21)年に約70%,1950(昭和25)年に約60%,1955(昭和30)年に約54%,1959(昭和34)年に約49%を占める.またこの期間,内航貨物を主要商品別にみると,石炭が38―42%を占め,砂利・石材等9―10%,鉄鋼8%,非鉄金属9―11%等が主たるものであり,中でも北九州方面を中心とする石炭輸送がエネルギー源として重要な地位を占めていたことがわかる3).しかしながら,この時期すでに重油の占める比重が次第に増加しつつあり,1946(昭和21)年の2.6%から1956(昭和31)年には7.3%へと着実に地位を確保しつつあった.
第11表 内航船種別輸送量(1946―1955(昭和21―30)年)
しかも重油輸送にあたる鋼船タンカーと木船タンカー(沿岸タンク船)との輸送分担率は1946(昭和21)年の約54対46から1956(昭和31)年の70対30へと変わり,木船の機帆船から鋼船への転換がはじまりつつあった4).すなわち,内航海運はこの時期ほぼ戦前の水準を回復し,船質を向上させながら石炭から石油へのエネルギー革命を軸とする次期日本経済の発展の下での飛躍を期しつつあったといえる.

 [注]
 1) SCAJAP=U.S. Naval Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine.
 2) 『運輸省三十年史』,運輸経済研究センター,1980(昭和55)年,119ページ.
 3) 『日本輸送史』,日本評論社,1971(昭和46)年,444-53ページ.
 4) 同上,446-49ページ.
 [増田廣實]