交通・運輸

論文一覧に戻る
交通・運輸

交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第8章:交通・運輸の新たな展開ー1955~1980(昭和30~55)年 I 政策
著者名: 原田 勝正
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
本論文の目次を見る本ページのPDF版を見る

第8章:交通・運輸の新たな展開ー1955~1980(昭和30~55)年 I 政策

 (1) 高度成長体制と交通政策
 第二次大戦後における,いわゆる経済復興は,朝鮮戦争を契機に,資本主義体制の再建を軸として一挙に推進された.そして,1950年代なかばに入って,技術革新と呼ばれる根本的な自動化,とくに電子工学などの応用による自動化技術の採用によって,生産財・消費財両面にわたる生産力のいちじるしい向上がみられた.
 これが,いわゆる高度経済成長の現象を生み出す基礎となって,1960(昭和35)年に成立した池田勇人内閣は高度成長政策をその政策の中心に据え,積極的な経済発展の体制強化にのり出していった.ここにおいて,交通体系にも大きな変化が起こってきた.すなわち,従来の鉄道優位の体制が,あらたに登場してきた自動車の急速な普及・進出によって,その王座に動揺を来たし,輸送シェアは一変するに至った.
 この変化は,国の公共投資の政策,エネルギー政策とかかわる根本的な変化であり,1950年代中期以後における政府の経済政策の中に,この変化の推移を決定づける条件をまず見出すことができよう.さらにこれとともに,自動車工業の異常ともいえる生産力の向上がもたらした影響を考えるとき,単に交通政策だけでなく,1950年代後半以降の産業政策についても注意を払う必要があると思われるが,ここではまず,政府の経済政策の中で,とくに交通政策がどのような推移をたどったか,また,公共投資の方針と実現とがどのような推移をたどったか,この2点からみていくこととしよう.
 1957(昭和32)年に決定された「新長期経済計画」は,朝鮮戦争を契機として回復した資本主義経済体制の基盤をさらに強固なものとし,国内における経済活動の活発な展開,とくに生産・流通の能率上昇を実現することを目標としていた.交通政策については,とくに輸送需要が増加している現状にもかかわらず,輸送力が十分にともなわない実情を指摘し,輸送力の整備,とくに鉄道における線路,道路,港湾など輸送力の基礎となるべき施設の整備をはかることが緊急な課題であるとした.実際に,鉄道,自動車,船舶ともに,基礎施設の水準は,戦前のそれに十分到達しないまま,戦後の増大する輸送需要に対応しなければならなかった.そのために,輸送能率の低下ばかりでなく,不測の事故を招くという危険が常に潜在していた.
 この場合,輸送力の不足が,長期的にみた経済成長の阻害条件となっているという立場がここにはあり,そのような阻害条件除去のための輸送力強化という課題として,この問題は提起されていたのである.
 このような輸送力の基礎施設の整備のためには,膨大な投資を必要とする.とくに鉄道や道路,港湾は,公共投資の対象とされ,ようやく戦後12年を経て,体系的な公共投資がここにおいて実行されることとなったのである.戦後の弥縫的な投資からみれば,それは大きな進歩を意味した.
 鉄道の場合には,まず第一次5カ年計画によって,幹線・通勤両面における輸送力の強化をはかることとし,これによって,戦前を上回る輸送需要に対応し,それだけでなく,将来の輸送需要の伸びに対応できる基礎施設整備のいとぐちをつけることを目的とした.
 しかし,1960年代にはいりいわゆる経済の高度成長が開始されると,旅客・貨物ともに,第一次5カ年計画によって実現した輸送力の向上では,輸送需要に対応することができない状態となった.とくに第一次5カ年計画で,まだ十分に達成できなかった施設改良の遅れが輸送力向上に大きな障害となっていることが明らかとなった.この段階に入ると,すでに戦争の荒廃からの復旧というかたちではなく,より大きな輸送力を確保するために,単線区間の複線化をはじめとする線路の増設,急勾配線における勾配改良のための線路のつけかえなどの大規模な工事が,とくに緊急の要請として表面化してきた.
 新幹線の計画は,このような要請の一環として採り上げられた.この計画は,1957(昭和32)年にその最初の計画が立てられ,1958(昭和33)年には軌間を1435mmの国際標準軌間とすることにより動力分散方式による時速200kmの運転が可能であるという結論が出された.そして,東海道本線東京・大阪間に線路増設という名目によって,この軌間の異なる線路を増設し,これによって3時間運転を実施するという目標が立てられた.この工事は1959(昭和34)年に着工された.この計画は,前章でふれた第二次大戦中の「広軌新幹線」の計画を踏襲していたが,もちろん戦時輸送の手段ではなく,運転方式も電車によるものであり,当初予定されていた貨物列車も,電動貨車の方式をとることとされた.しかし,歴史的に通観すれば,1910年代に唱えられた「広軌論・広軌改築計画」が,半世紀にしてようやく陽の目を見たということになる.
 新幹線の技術は,車両だけでなく,信号・保安技術に画期的な自動化技術を採用した.列車集中制御方式(CTC)はこれまでに開発ずみであったが,電子技術を応用した自動列車制御装置(ATC)は,CTCと組み合わせることによって,運転士の手を借りることなく,列車の速度を制御し,信号現示は,これまでより徹底した速度制御による速度現示に切り換えられた.自動化された列車制御,それは,鉄道における安全確保技術に飛躍的な発展をもたらしたということができる.当時,信号技術は,在来の方法では限界に達していた.列車本数の増大,とくに単線区間で1日90往復以上,複線区間で1日250往復以上の列車本数が設定されるようになり,自動閉塞方式の場合,閉塞区間を短縮して,区間数をふやすなどの措置がとられたが,運転士の側からの信号認識能力を越えるほどの労働力強化をもたらす結果となった.少なくとも停止信号現示の場合,運転士にこれを伝えると同時に,運転士がこれに対応する措置が即座にとれなかった場合に,列車を停止させる方式が必要とされた.当時の大きい運転事故には,こうした信号の見落としや制動処置不適切といった原因が多かった.そこで,自動列車停止装置(ATS:Automatic Train Stop)が開発されて,1966(昭和41)年までに国鉄全線に設置された.新幹線のATCは,これをさらに徹底した方式であった.
 しかし,このような技術も必要手段ではあるが,増大する列車に対応するには,線路増設が不可欠であることは言うまでもない.前にふれたように,新幹線の建設は,東海道本線の線路増設工事であり,何よりもこのような線路の増設を早急に実施する必要がある.第一次5カ年計画で実施のおくれたこうした部分の問題を解決しようというのが,1961(昭和36)年に開始された第二次5カ年計画であった.
 この計画は,いうまでもなく,経済の高度成長段階に対応するもので,東海道新幹線の建設のほか,主要幹線1100kmの複線化(1960(昭和35)年当時複線化率12.7%を18.5%とする),主要幹線を中心に1800kmの電化(同じく13.2%を22%とする),非電化線区の無煙化,大都市通勤区間の改良などを盛りこみ,投資額9750億円に達する大規模な計画とした.
 このうち,線路増設については,戦後とくに輸送量の増加した東北本線,北陸本線,上越線,鹿児島本線門司港・熊本間などを重点的に実施することとした.しかしこの複線化計画は,用地費の高騰などによって計画どおりには進捗せず,4年後の1964(昭和39)年度末で531km,進捗率62%といった状況であった.この計画は,1965(昭和40)年度からはじまる第三次長期(7カ年)計画に引きつがれ,1960年代後半に完成をみることになる.
 また通勤線区の線路増設は,この段階ではまだ十分な対策がとられず,これも第三次長期計画の段階に持ち越された.
 このように,他の改良にくらべて線路の改良が後手に回るという傾向があらわれ,これが,輸送力の問題解決を先に延ばす結果となった.
 列車の増発は,こうした状況の下でも避けることはできなかった.1961(昭和36)年10月には,白紙ダイヤ改正が実施され,改正工事の進んだ部分を活用しながら,全国的な列車運行体系を根本的に改めることとなった.それまで東海道・山陽・鹿児島・東北・常磐の各線だけに運転されていた特急列車を,ディーゼルカーの導入によって,主要幹線全般に及ぼし,特急列車網とこれに接続する各列車の運転時刻を改め,これによる到着時間の短縮を実現することとした.
 この時刻改正は,ようやく回復してきた生活水準に見合う要素も含まれ,レジャー旅行誘発の効果をもたらすこととなった.この改正から,1964(昭和39)年10月の東海道新幹線の開業を経て,1968(昭和43)年10月の白紙ダイヤ改正にいたる時期は,国鉄の輸送力増強が,いっせいに軌道にのった段階であり,旅客列車ばかりでなく,貨物列車についても,コンテナ輸送,特急貨物列車の増発と地域間急行貨物列車の新設など,荷役の機械化とならんで,貨物輸送についても,画期的な能率向上が実現したのである.
 (2) エネルギー転換と交通体系の変動
 1950年代後半頃から,自動車輸送についての認識が改まり,自動車の有用性が高く評価されるにいたった.機動性,とくにdoor to doorといった高い機能,それに個人性といった輸送機能の特性は,あらたな輸送手段のあり方を示唆した.これにともない道路整備があらたな課題として登場した.
 1957(昭和32)年4月に国土開発縦貫自動車道建設法,1958(昭和33)年3月に道路整備緊急措置法が公布された.これは1952(昭和27)年6月公布の全面改正道路法以後,道路整備が必ずしも積極的に進んでいなかった実情にかんがみて,より効果的な道路整備を推進するための法的措置であった.すでに,道路法全面改正と前後して公布された道路整備特別措置法により有料道路建設の法的基準が明らかにされ,1956(昭和31)年,有料道路建設にあたる政府機関として日本道路公団が設置され,有料道路の建設が開始されていた.
 しかし,都市間を結ぶ幹線道路の改良は,もともと水準の低いままで放置されてきた日本の道路の場合には,有料道路の建設によって解決される問題ではなかった.幹線道路そのものの改良が不可避的な条件とされたのである.この改正は,既成の道路拡幅,舗装方式の改善などを推進するとともに,自動車専用の高速道路の建設をも含んでいた.
 日本の道路の幅員や舗装状態は,「文明国」のそれとしては想像できないほどの悪条件であり,1945(昭和20)年以降日本を占領した連合国軍隊によって,そのことははやくから指摘され,占領軍にとって必要な道路の改良がまず着手されてきた.1952(昭和27)年の道路法全面改正は,占領終了後の道路行政のあり方を根本的に検討しなおす法的準備という意味をもっていた.
 したがって,1957―1958(昭和32―33)年の法的措置は,道路の改良事業を,長期的な経済成長の見通しのもとにさらに積極的にすすめることを定めたものであったといえよう.このうち国土開発縦貫自動車道建設法は,日本列島を通じて主要都市を結ぶ高速自動車道路の建設を定めたもので,これにもとづいて,まず名古屋・神戸間の名神高速道路,次いで東京・名古屋間の東名高速道路の建設が着手された.これらの高速道路は,すでに1930年代から計画され,それは,ナチス・ドイツにおけるAutobahnの例にならった経済・軍事両面の効果をもつ道路として構想された.しかし,第二次大戦中,このような計画はすべてその実現の可能性を絶たれた.それは,鉄道輸送における広軌新幹線,すなわち,東京・下関間における国際標準軌間による高速鉄道列車計画(東京・大阪間4時間半,東京・下関間9時間)が,同様に1943(昭和18)年その工事を中断したことと共通している.こうして,戦後のこの時期に至って日本最初の高速道路の建設が開始されたのである.日本政府はこの東海道沿いの高速道路の建設決定にあたり,アメリカ合衆国からワトキンス(Watkins)調査団を招き,その助言を得て,実現の可能性に確信を得た.この高速道路の建設は,前に述べた戦前・戦中の広軌新幹線計画が,戦後その東の部分を東海道新幹線として具体化され,1959(昭和34)年に着工をみたこととよく似ている.
 さらに道路整備緊急措置法は,戦時中に一時廃止され,1949(昭和24)年に復活した揮発油税を道路整備のための財源とし,国道などの整備を行おうとするもので,これによって,とくに国道の急速な改良を推進することとなった.
 これらの法的措置によって,1960年代にかけて,幹線道路の改良はようやく進捗しはじめた.しかし,増大する自動車輸送は常に道路の改良を先回りしており,さらに都市における道路交通の問題がこれに加わって,道路政策は,つねに後手に回るという状況をくり返したのである.
 その背後には,もちろん,1950年代にはじまる自動車生産量の急速な増加があった.日本資本主義の再建は,技術革新とともにさらに急速なテンポですすみ,1960(昭和35)年,池田内閣の「所得倍増計画」は,1950年代における経済成長計画による未達成部分を早急に補うだけでなく,これをはるかに越えた経済成長を実現しようとするものであった.したがってここでも輸送力増強のための公共投資の必要性が強調され,各部門の均衡のとれた輸送力基礎施設の整備がすすめられるはずであった.しかし,のちに述べるように,この計画には鉄道と自動車との均衡が破られる条件を本来無視した立場があり,それが重大な結果を招いていくのである.それ以前にいま述べたような自動車生産量の急速な増加が,さらに道路事情を悪化させる原因をつくっていったことを無視してはならない.
 自動車各メーカーは,1960年代にはいると自動車の大量生産態勢を完成し,また国内における自動車市場は,かつてないほどの販路を確立していった.これは,大企業はもちろん中小企業の経済活動にとって自動車が必需品とされたこと,またそれについで自家用乗用車の需要が急速に増加したことが大きな原因となっていた.これに対応して自動車生産量は急速に増加し,これが道路の改良をつねに先回りするという結果をもたらしたのである.
 したがって,所得倍増計画において,各交通機関の輸送力増大・近代化がうたわれ,道路の改良が緊急課題とされたことは,もちろん必要条件をみたすための方策として肯定されるべき面をもっていた.しかし,この道路改良は,二つの点で,重大な結果をもたらした.まず第1に,それは鉄道とくに国有鉄道の輸送力増強については占領当時以来の独立採算制の枠を外さないままに放置したため,国鉄の輸送力増強は,国鉄に多大の負債を課する結果となり,これが国鉄財政を危機に追いこんだ.これに対して道路には一般財源をも充当して改良を促進する措置をとった.したがって公共投資自体に不均衡を生んだばかりでなく,ひいては輸送分担比率の均衡を失わせる結果を招いた.第2に,道路に対する投資は,重工業を中心とする輸送需要に対応するという特性をもち,このため,道路の建設・改良は,一般利用者に不利をもたらすばかりでなく,沿線の環境破壊をもたらすという結果を生んだ.
 すなわち,資本主義の再建・成長の重要な軸の一つとなった自動車生産量の増大が,道路に対する公共投資を常に要請し,それが鉄道との輸送分担比率の不均衡をもたらすとともに,生活環境の破壊をもたらすという弊害を生んだのである.
 その後における交通政策は,この問題を解決できないばかりか,むしろ問題はさらに深刻の度を深めていった.
 すなわち1964(昭和39)年,交通基本問題調査会の内閣総理大臣宛て答申では,従来の交通政策が鉄道の陸上輸送における独占的地位を前提として立てられ,これによって鉄道を中軸とする交通市場の形成に重点がおかれてきたが,交通の構造が変化してきた現状では,各輸送手段の公正な競争の確保,交通費用についての利用者負担の原則の導入,および交通手段の独立採算制の確立などを政策の中心に据えるべきであるとした.
 このような自由競争,利用者負担,独立採算制の原理の採用は,自動車,船舶,航空機など従来鉄道と並んで輸送力を構成してきた各分野の輸送分担を,いわば無統制の状態に開放する結果をもたらした.交通市場確保のためのはげしい競争が展開され,施設の改良を利用者負担によって実現するという名目をふりかざして運賃・料金の引上げをはかり,しかも,結果としてはサービスの低下をもたらすという状態が起こってきた.
 こののち,1967(昭和42)年には経済社会発展計画が立てられ,国土の有効利用のための交通施設の整備がかかげられた.もちろん,各交通手段相互の協調と,全体的にみて最大限の効用の発揮とが強調された.そして,公共投資による交通設備の充実整備が必要とされた.しかしここでも,高度成長の下における輸送施設の整備が一方で叫ばれながら,その整理にさいして利用者負担の原則を賦課し,それはまた交通主体の独立採算制の強制によって不可避的とされていたのである.
 しかも,前の所得倍増計画以来急速に進行してきた環境破壊は,ここでもほとんど無視された.交通事故は激増し,都市だけでなく騒音,振動,大気・海洋の汚染は全国的な現象となっていった.これらの公害発生源は,自動車・航空機・鉄道・船舶と各交通機関にわたり,これらの公害が原因となって,施設の拡張・整備・改良は,周辺住民の協力が得られないままに,いたずらに期間が長びいてしまう傾向が強まった.
 また利用者負担,独立採算制といった名目にもとづく運賃・料金の値上げがあいつぎ,かえって利用者の減少を招くという結果となって,それはまた企業の経営の悪化を招き,独立採算制をおびやかしはじめた.とくに国有鉄道,地方公共団体の経営する交通機関,各私鉄,バス企業の経営悪化が引き起こされた.現在にいたって破局的状況となった国鉄の経営危機は,1957(昭和32)年以降第一次5カ年計画から1961(昭和36)年以降の第二次5カ年計画,1965(昭和40)年以降の第三次長期計画というように,いずれも計画達成前につぎのより大規模な改良計画に移行せざるを得なかった当時の拡張投資と,その際の利用債等の鉄道債券発行による債務負担の激増,不採算線区の増加とを引き出してしまった.したがって,これは経営努力の不足といった問題が中心というよりも,高度成長政策における基本的立場が問題の根源にあると考えるべきであろう.
 1970年代に入って,こうした問題についての認識が政府・民間ともに高まった.政府では1971(昭和46)年の閣僚協議会決定による「総合交通体系について」以来,自由競争の原則を交通政策の基本におくことが弊害をもたらしつつあることを認め,政府みずからが交通需要の調整に当るべきことを認めた.しかし,利用者ないし受益者負担の原則はそのまま踏襲され,1973(昭和48)年に閣議決定を経た経済社会基本計画では,やはり運賃・料金・使用料の引上げが原則化されていった.
 1973(昭和48)年の石油危機以来,交通政策にも一定の変更の必要性が認められるようになった.とくに公共投資費用の一部を交通発生責任者が負担すべきではないか,公共大量交通機関を優先し自動車を抑制すべきではないか,といった議論が生まれてきた.しかし,自動車産業の負担部分は依然として問題とならず,大量交通機関の建設費は暴騰して利用者の負担は増大の一途をたどっていく.また建設・改良の速度は明らかに低下し,計画の手直しがくり返されるばかりで,その経済的効果はまったく期待できない状態となっている.
 こうした矛盾を解決するための基本的契機を早急に確立しないかぎり,交通問題はさらに深刻な社会的問題となって国民生活を圧迫する.近代100年を経て,めざましい近代化を実現してきた交通の変革は,現在深刻な問題に直面しているといわねばならない.
 [原田勝正]