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交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察

論文タイトル: 第8章:交通・運輸の新たな展開ー1955~1980(昭和30~55)年 IV 内航海運
著者名: 増田 廣實
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第8章:交通・運輸の新たな展開ー1955~1980(昭和30~55)年 IV 内航海運

 (1) 経済高度成長と内航海運対策
 1955(昭和30)年,いわゆる「数量景気」ではじまる日本経済は高度成長期を迎える.以後,短期間景気の後退することがあっても1973(昭和48)年オイルショックまでの間,国民総生産は実質で年平均10.4%の高成長を記録した.しかし1974(昭和49)年にはじめて国民総生産は年1.3%のマイナス成長となり,以後高度成長から安定成長へと移行していった.
 この間,内航海運は日本経済の動きを忠実に反映し,1955(昭和30)年輸送トン数を5900万トン,翌1956(昭和31)年6988万トンとし,戦前1934―35(昭和9―10)年の水準を回復したのを出発点として,1973(昭和48)年まで着実に増加させていった.国内総輸送量に対する輸送分担率は,輸送トン数の面では伸長は著しくないが,トンキロではその内航海運としての特性を発揮し,伸長にめざましいものがあり,1973(昭和48)年には51%にまで達した.また,貨物輸送のみでなく,この間,旅客輸送についても伸長がめざましく,特に1965(昭和40)年以降モータリゼーションに結びついたフェリー化の進展するなかで,輸送人員・輸送人キロの伸長が顕著であった.以上のような概況をもとにこの間の内航海運の推移について,次にみることとする.
 1956(昭和31)年の国内経済の活況は,内航海運の輸送トン数を戦前の水準に回復させたが,それを反映して,内航船舶の建造も盛んとなった.このことは,船腹過剰を生む原因となり,1965(昭和40)年度には輸送量は約1億8000万トンに達し,輸送トンキロも800億トンキロと,国内輸送総量の43%を占めるまでに伸長しながら,運賃の長期低迷をもたらした1).この要因についてみると,たしかに船腹過剰が最大要因ではあったが,他に戦後以来の課題であった,戦時標準船などの低性能船舶による船質の悪化と,零細規模の業者乱立による過当競争なども大きな要因となっていた.したがって,日本経済の高度成長のためには,国内輸送――特に原材料輸送に大きな地位を占める内航海運――の安定化が強く望まれるところであった.そのため安定化の諸施策が次々に講ぜられることとなった.
 まず1957(昭和32)年6月,政府は内航海運における零細事業の組織化をはかり,運賃ダンピング防止のため,木船運送業者および500総トン未満の鋼船運航者・貸渡業者を対象に,小型船海運組合法を公布し,10月より施行した.そして,すでに1952(昭和27)年から登録制の実施されている木船業者と競合関係にある500総トン未満の海運業者についても,1962(昭和37)年5月には小型船海運業法を公布し,事業登録要件を強化して運輸省による行政指導を強めていった.また,1961(昭和36)年4月,国内旅客船公団法を一部改正し,同公団を特定船舶整備公団に改組して,船主と公団の共有建造方式による戦時標準船の代替建造を開始した.これは原則として,建造の1に対し解撤1.5の比率で行うものであり,1961(昭和36)年から1963(昭和38)年までの3カ年の戦時標準船代替期間後も,続いて老朽船の代替建造を実施した.
 内航海運事業安定化のため,これらの施策が次々と実施されていったが,内航海運のかかえる船腹過剰問題は依然として解決されなかった.それは,これら関係法規をもって規制対象とされたのは,木船および500総トン未満の鋼船による,小型船の内航海運業者のみであり,大型船による内航海運業者については除外されていたためであった.そこで,内航海運の抜本的対策を講ずるためには,内航海運のすべてを法規制の対象とする必要が生じてきた.そこで,従来の小型船海運業法・小型船海運組合法を改正し,1964(昭和39)年7月,内航海運業法・内航海運組合法として公布し,その対象を全内航海運業者に拡大した.そして,内航海運業法では内航海運における適正船腹量の維持をはかるため,船腹量の最高限度を設定し,船腹量の増加を抑制できることとした.また,内航海運組合法により全内航海運業者の組織化が急速に進められ,1965(昭和40)年12月には各種海運組合の連合組織として,日本内航海運組合総連合会の設立をみた.
 以上のような内航海運の安定化政策によって一応の成果をあげることはできたが,しかし,1964(昭和39)年から1965(昭和40)年にかけての国内経済の停滞にともなう輸送需要の減退は,船腹過剰を一層深刻化した.当時一般貨物についてみれば,適正船腹量は150万4000総トンとされ,71万1000総トンもの船腹過剰をかかえていた2).それは実に船腹適正量の147%に達するものであった.かかる状況にあって,「内航海運対策要綱」が策定されることとなったが,それは,過剰船腹を処理して近代的経済船を建造することと,内航海運事業を登録制から許可制へ変え,内航海運企業の規模を適正化しようとすることを二本の柱とする政策であった.
 まず船腹処理は,1966(昭和41)年12月に法律を改正し,特定船舶整備公団を船舶整備公団と改め,従来の貨物船の代替建造を拡大し,海運組合の行う共同係船事業について融資・利子補給を行うこととした.また,内航海運企業を許可制とする措置は,同じく1966(昭和41)年12月の内航海運事業法の改正により,3カ年の継過措置後の1969(昭和44)年9月から実施することとした.
 これらの措置により,船舶整備公団が,先の特定船舶整備公団として1961(昭和36)年以来1968(昭和43)年までの8カ年間に,代替建造した船舶量は,3696隻,62万9000トンの戦時標準船等老朽船を解撤し,377隻,46万2000トンの新造船を生みだした.それは,隻数で10%,トン数で73%の規模に縮小され,1隻あたり平均170トンの小型船3696隻が,平均1225トンへと7.2倍の大型船377隻へと姿を変えたことに他ならなかった.
 このような船腹過剰解消の努力と,許可制の実施に加え,1965(昭和40)年秋以来の景気回復もあって,1969(昭和44)年頃には太平洋戦争敗戦後の1945(昭和20)年以来の慢性的船腹過剰解消と,船質向上をはたすことができた.しかしながら,その後1970(昭和45)年秋以降の景気後退の中で,再び船腹過剰が問題となってきたが,日本内航海運組合連合会が行う共同係船事業や貨物船建造の停止等により対応し,1972(昭和47)年度後半からの景気回復をもって切りぬけることができた.
 (2) オイルショックの影響
 こうした状態の中にあって,1973(昭和48)年に起こったオイルショックは,内航海運を直撃することとなった.内航海運の輸送需要は早くも1973(昭和48)年後半から伸び悩み,ほぼ前年と同規模に終った.翌1974(昭和49)年になると経済成長率がマイナス成長となったことを反映しながらも,輸送量は前年度比27.5%増の4億1041万トンに増加した.
第12表 機関別輸送トン数(1956―1980(昭和31―55)年)
しかし翌1975(昭和50)年には前年比8.1%減少の3億7734万トンとなった.そして,1976(昭和51)年からは政府の景気浮揚策による公共事業関連資材の輸送需要の高まりにより,輸送量は増加に転じたが,その伸びは低位に推移し低成長期に入った.特に内航タンカーによる石油輸送は,1973(昭和48)年をピークとして年々減少し,1980(昭和55)年にはその81%にまで減少している3).
 オイルショック以来の内航海運の輸送量の減少は,当然のことながら再び船腹過剰を生みだすこととなった.とりわけ,オイルショック前の好況期に建造を認められた,高効率の新造船が,オイルショック後に次々と竣工すると,船腹過剰を一段と深刻化した.そのため1975(昭和50)年には一般貨物船が66万総トンと20%の船腹過剰となり,タンカーは9万総トン,9%の船腹過剰となった4).これにより,内航海運企業者の経営状態は極度に悪化し,深刻な不況に直面することとなった.
 このオイルショック以降の不況対策としては,1975(昭和50)年3月以降1979(昭和54)年3月にかけて,内航海運を(このうちタンカー事業を除く),倒産関連中小企業に指定し,事業資金融資の対象とした他,船舶整備事業を推進する中で,船舶整備公団が,船舶使用料の支払い猶予措置や債務保証を行う等積極的な援助を行った.また過剰船腹に関しては,日本内航海運総連合会にあって,1977(昭和52)年,20万総トンの共同解撤,1978(昭和53)年4月から一般貨物船の建造・解撤比率を1対1.3に引き上げるなどの方策を取った5).
 こうした措置に加え,1978(昭和53)年中頃から民間設備投資の伸長による内需拡大により,内航海運もようやく輸送需要を増し,経営状態も次第に好転しつつある.しかし,オイルショック以後の安定成長期に入った日本経済の下で,内航海運の発展が平坦な路をたどることは困難である.とはいえ,内航海運のもっ大量輸送と運賃の低廉性等の特性は,輸送分野での重要性を失わせはしないだろうと考えられる.
 (3) 内航海運の近代化
 以上述べてきたように日本経済の高度成長期を迎えた1955(昭和30)年段階で,輸送量で戦前の水準に達し,以後その特性とする大量輸送と運賃の低廉性とを武器に,国内貨物輸送量のトンキロベースで約半分を輸送分担するにいたった内航海運であった.しかし,すでに見てきたように,戦時標準船に代表される低性能木船を中心とする船質の低さと,慢性的船腹過剰をかかえながら,輸送の効率化・合理化を強く要請され続けてきた.この点よりするならば,この時期日本経済の高度成長による輸送需要の伸長とともに発展してきた内航海運ではあったが,厳しい近代化の努力を強いられ続けてきたといえる.しかも,この間にエネルギー革命が進行し,内航海運の輸送品目の中核は石炭から石油へと変わり,そのためのタンカーが,内航海運中極めて大きな比重を占めるようになった.また,この間日本の粗鋼生産量は上昇を続け,1969(昭和44)年以来鋼材輸出は世界第1位となっているが,鋼材の内航輸送量は増加の一途をたどり,1966(昭和41)年には内航ドライカーゴの品目別輸送量第1位となり,1980(昭和55)年には内航ドライカーゴの21%を占めるにいたっている.それは,高炉7社の生産する鋼材の70%にあたる6.この他,鉄鋼,セメント向け石灰石,セメント,石炭,コークス,自動車,穀物,飼料等の輸送に内航海運は重要な役割を担ってきた.このように,これらの各種品目の原材料と加工生産品と内航海運との不可分の関係は,銅材や石油生産に代表される新たな臨海工業地帯の発展をもたらすこととなった.
 以上のような日本経済の高度成長は,産業構造の変化をもたらし,荷主の側からもこれに即応した内航海運の変質――近代化が求められる結果となった.したがって,内航海運の側からもこれに対応し,技術革新に裏付けされた合理化を進めるにいたった.それは,一つには船舶を大型化するとともに,特殊(専用)船化することによる運航能率の向上であり,他の一つは,船舶設備の向上による船員の削減――省力化の追求とであったといえる.すなわち1955(昭和30)年以降のこの期こそ,内航海運の徹底した近代化の時期としてみることができよう.この近代化の進行状況について次にみることとする.
 内航海運の近代化は,先章で述べたように木船の小型鋼船への転換から始まった.鋼船は木船と比較すると,速力・堪航性に優れ,運航が安定しており,海難が少ないなどの特性を持っている.1955(昭和30)年の内航船腹量131万9000総トン中木船は67万7000トンと51%を占めていたが,以後木船は1965(昭和40)年89万1000総トンをピークに減少に向かい,1980(昭和55)年には16万8000総トンに激減する.
第13表 船質別内航船腹量(1955―1980(昭和30―55)年)
これに対し鋼船は1955(昭和30)年64万2000総トン,1965(昭和40)年213万総トンと急増し,1980(昭和55)年には373万8000総トンに達している.したがって,木船の占める割合は1955(昭和30)年の51%から,1965(昭和40)年29.5%,1980(昭和55)年4.3%と激減するにいたった.この木船の鋼船への転換とともに進められたのは,船型の大型化と荷役能力を増大させ船の運航回転数を増加させる,運航能率の向上による運賃コストの引下げであった.このことは,先述したように船舶整備公団の代替建造の数値に明らかなように,1961(昭和36)年から1968(昭和43)年の間に代替建造された船舶は,解撤されたものの7.2倍の大型船に姿を変えていったのであった.しかも,単に大型化し荷役能力を高めるだけでは運航能率の向上に限界のあるところから,より一層運航能率の向上を求める中から生まれたものが専航船であった.しかし専航船とて一般船であるから,さらに効率の高い船の開発が望まれ,やがて積荷の品種に最も適合した専用船の誕生をみることとなった.すなわち,石炭,石灰石,セメント,自動車,LPG,アスファルト,コンテナ等の専用船がそれであり,1965(昭和40)年以降には自動車専用船がロールオン・ロールオフ方式をとったことにはじまるRORO船が開発され,船艙内に自動車が直接入り積荷の積降しをするものが盛んに用いられるにいたった7).
 以上のような船舶それ自体の近代化と不可分の関係にあり,これに対応して近代化の進められたものは,港湾施設であった.これは1956(昭和31)年を初年度とする経済自立5カ年計画をうけて策定された港湾整備5カ年計画(1962(昭和37)年開始)によってはじめられ,第五次を数えるにいたっている.またこれと同時に全国各地に臨海工業地帯の開発が進められていったが,これにより,従来行われていた艀[はしけ]による積降しは減少し,直接埠頭に接岸した船舶から荷役が行われるようになった.このことは内航船舶輸送量中の艀の占める地位に明確に示されている.すなわち,艀の輸送量は1968(昭和43)年8111万7000トンをピークに年々減少しており,1977(昭和52)年には4979万7000トンとピーク時の61%に減少し,内航船舶輸送量に対する割合は1968(昭和43)年の30.9%から1977(昭和52)年は12.1%へと激減している8).このような荷役の合理化による輸送原価引下げは,港湾整備や臨海工業という立地条件の改善だけでなく,流通面でも内航海運の大量輸送と運賃の低廉性という輸送特性をさらに一層利用しようとする方向を生みだした.その一つは物資別の大規模な流通基地を,消費地に近い港に設け,ここへ専用船で大量に輸送・保管し,輸送・流通をより合理化しようとするものである.こうした流通基地は一種の中継基地ともいえるが,他に外国からの輸入物資について,中継基地(Central Terminal)を設け,内航海運により二次輸送を行い,輸送・流通の合理化をはかる中継基地方式(CTS)がある.これらもまた広義の港湾の近代化ということができる.これは1970(昭和45)年,日本石油グループが鹿児島県南端喜入に設けたのにはじまり,石油の他,LPG,工業塩(メキシコ塩)等の場合をあげることができる9).
 以上のような木船の鋼船への転換にはじまる船舶の近代化は,船舶設備(レーダー,自動操縦装置,機関部遠隔操縦と自動化装置,オートテンション・ウインチ等荷役装置,スチール・ハッチカバー等)と船舶構造(二重甲板,プッシャー・バージ,各種専用船等)の技術革新はもとより,港湾整備での技術革新にささえられながら発展してきたといえる10).しかし,このように1955(昭和30)年以降求められ続けてきた内航海運の近代化は,高度成長の中に大きな成果をあげてきたが,1973(昭和48)年,オイルショック後の安定成長期の厳しい経済環境の中では,更に一層強く要請されてきているといえよう.

 [注]
 1) 『運輸省三十年史』,333-36ページ,Ⅳ-1-4図,Ⅳ-1-5図.
 2) 同上,363ページ.
 3) 『内航海運』,日本内航海運組合総連合会,1982年,170ページ,表28「内航タンカーによる石油輸送実績」によると,1973年1億8656万キロリットルを100とすると74年95,75年91,76年91,77年91,78年90,79年87,80年81となっている.
 4) 『運輸省三十年史』,526ページ.
 5) 同上,527ページ.
 6) 『内航海運』,121ページ,表1「鋼材輸送機関別輸送実績」.
 7) 同上,18-184ページ.各種の物資別専用船を紹介.
 8) 『昭和国勢総覧』上巻,440ページ,「内航船舶輸送量」.
 9) 『内航海運』,184-85ページ,「流通基地」.
 10) 同上,189-98ページ,「船舶の技術革新」.
 [増田廣實]