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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第1部:戦後日本の「開発と技術」
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第1部:戦後日本の「開発と技術」

 Ⅰ 世界のなかの日本

 全世界のGNP総額に日本が占める割合は,1980年に9.0%であった.米ソに次いで,全世界の第3位である.
 今世紀初頭には,米が30%,英が20%を占めていた時,日本は僅かに1%ぐらいであった.ソ連邦が第2位に浮上してきたこととならんで,この急速な構造変化は確かに注目に値する.ちなみに1980年の全世界のGNP総額に占める比率は,米が21.9%で,英が3.6%だから,世界的にみて著しい規模拡大と構造変化が生じていることがその背後にある.
 だが,米国の人口が日本の2倍弱で,英国は半分強だから,1人当りでみれば,そのGNPの格差はほとんど無視できる程に平均化されている.別に言えば,この80年程の間に日本は米に対して30倍あった差をつめ,英に対して20倍の差を埋める高い成長を結果的には達成したことになる.とは言うものの,それはフローにおける格差が埋まったということで,ストックの差は依然として大きく,とくに英との差が,次いで米との差が,まだまだあることを物語っている.簡単な,この種の数字だけからも,日本が未だ両国にはるかに及ばないことを読みとることもできる.
 国際社会における影響力ということになれば,英・米両国間に相違がないとは言えなくとも,英語は共通語であり,世界語である.日本語は国連の公用語でさえないから,同日の談ではない.また,国際政治における影響力ということになれば,経済力の大きさや水準と無関係ではないとは言え,それが決定的なものにならないことは,中国やインドの例がある.
 一国としての人口からすれば,1億以上の人口があれば大国とみてもよい.この点でも日本はやっとそのグループに入れるにすぎない.米ソと言えども,こと人口に関しては,中国とインドにはるかに及ばない.両国は空前の人口大国である.
 ここでいささか先取りになるけれども補足すると,1人当り10,000ドル以上の国民所得と1億以上という規模の人口がないと,近代技術をフルセットでは利用し難い(経済的に合理性がない)という仮説をたてることさえできそうである.
 さまざまな点から,先頭グループにいる国家とは言えないにしても,第2グループに属するとも断じきれない,そういうところに日本はいる.第1の先頭グループと第2グループの差が大きすぎるとも言えそうだが,工業力と政治制度からすれば,日本は「ヨーロッパ」に仕訳されるし,文化からすれば「アジア」である.いわば,両者の交叉点に日本はいる.
 1960年代から,日本は10年以上も連続で10%以上の高い経済成長率を示して「世界の奇蹟」とさえ評された.これは,のちにみるように,その前の水準があまりに低かったのと,戦争の影響とそれからの回復の過程が示したことが与っている.次いで技術移転による生産規模の拡大があった.問題は,石油ショックで世界全体が同時不況に追いこまれるという現代史の転機に直面したさいの対応の仕方にこそあった.大方の国では供給杜絶とみたのに日本は価格騰貴として技術的合理化で対応した,と言わねばならないだろう.先進工業諸国の経済がインフレとデフレの共存という(いわゆるスタグフレーション)で軒なみに低迷しはじめ,戦後世界をリードしてきたアメリカが3.5%,ECが3.1%の成長にとどまった時に,ひとり日本のみが5%台を維持して,70年代末には世界景気回復の「機関車」役を西独とともに期待されるまでになったことで,当の日本人の方が戸惑ってしまった.
 何故,日本がそれをできたのか,と問われても私には説明しきれない.何故,諸外国がそうならなかったのか,日本のようにはできなかったのか,を説明してくれれば,その時,初めて「対話」による相互確認ができるだろう.これまでに与えられている回答の一つは,日本の技術力ないし技術革新の成果によると言うものである.
 確かに1960年代後半からの高い経済成長には技術が貢献している.ある計算によれば寄与率は30%であった,と言う.そして,高度成長にストップをかけた石油ショックも,70年代にかけて顕在化してきた公害防止技術ならびに省エネルギー技術の開発によってきわどくも危機を乗り切ったことで,日本は高度技術国家として全世界から認知された,とは言えるかも知れない.
 日本は発展途上国の最前戦に立っているのか,それとも発展した国々の最後尾にいるのか,どちらだろう.少なくとも,双方の要素をかかえてはいる.
 そして,ある技術分野では確かにリーディングでさえある1).
 我々がこのプロジェクトに着手し始めた頃から,とくに1980年が転機であったようにも記憶しているが,世界中で,技術への関心が急に,異常なほどに強まってきたのを経験した.第二次石油ショックと,それにつれて深まる経済危機のただなかで,現状打破への期待が技術革新に寄せられたように思われた.その期待は,一方で,あまりに大きすぎるのではないか,と警戒の念を抱かせる程に大きなものであった.
 確かに,二つの石油ショックを日本は何とか乗り切ってはきた.そこには,日本の石油需要は大部分が産業用で,直接の民生需要は小さい,という事情がある.だから,省エネルギー技術の開発も比較的容易であり,効果があがりやすかった,とは言える.
 だからと言って,技術だけが何時も,これからも,問題解決の鍵になれるのかどうか,は誰も断言できないだろう.
 もし,技術だけがそういう突破力をもっているのであれば,技術的優位を前世紀から誇ってきたヨーロッパの諸国が,危機から脱出できないでいることの理由は一体何故なのであろうか.技術のストックと開発力とが突然無効になったのではないのだから,問題の在り場所は,技術以外の・技術をめぐるものに探り当てられなければならないのではなかろうか.
 そこで,浮上してくるのが,日本に「特有な」技術管理をめぐる詮議,つまり「日本的」経営の問題であり,その内容としての管理技術の問題である.もし,それのみが危機を克服させた原因ないし理由ならば,それは「日本的」という「特殊解」ではなく,一般解そのものとする他ない筈である.一般解だったとすれぱ,それが「日本的」という新しい形態をとったにすぎない,と言うことになるだろう.すでに,そうした研究も出ているが,このことに関しては,もっと周到な検討がなされるべきであることを,いまは指摘するだけにとどめたい.
 問題が技術にのみ[・・]あるという見方には疑問が残るけれども,技術そのものにもあることはまた否めないだろう.日本の技術―その特殊な形成史,構造,形態―が,問題にされるというよりは関心の的になるのは,この文脈では,自然ではあろう.我々は,問題を,そこから解いてゆくことにした.
 そして,その時に我々の「技術」概念も,「開発」概念も,通例よりは拡張される他なかったことを予め断っておかねばならない.
 結論を先回りしてここで言っておけば,科学はユニバーサルではあっても,技術は断じてそうではない.技術には連鎖性と累積性とがあって,飛躍ができないものである.技術がもつ内部的論理(メカニズム)は自律的ではあるが,技術をとりまき作動させる諸条件は自律的ではない.そこに技術の困難と矛盾がある.
 [注]
 1) このプロジェクト作業の時点で国際的に高い評価を得ていたのは,(1)コンピューター用のガリウムなど半導体素子の製造技術,(2)オプト・エレクトロニクス(光ファイバーなど),(3)複合材料(炭素繊維など),(4)セラミックス,そして(5)耐熱材料である.他には,生命工学と酸酵化学の分野がある.

 Ⅱ 戦後日本の経済と技術

 石油ショックに直撃されたあとの1975年の世界鉱工業生産を100とすれば,80年は124で,日本以外の先進工業国は不振だった.なかでも英国は75年の水準を割り込んだ.石油危機からの立ち直りは日本が筆頭で(81年に142),米(同,128),次いで仏,西独という順であった.だが,GDPを国民1人当りでみると中東の産油国の3万ドルを例外とすれば,日本は9,890ドルで,スイスの61.8%,米の89.9%にすぎない(1980年).全世界では17位である(1975年は15位).だが,所得格差はおそらく,給与所得でみる限り日本はここにあげたどの国よりも小さいだろう.
 こうした計数上の位置は,さらに,日本がエネルギーの95%,主要鉱工業原料の90%,そして食糧の60%以上を輸入に依存しているという事実で修正されなければ,リアリティがない.
 その意味で,日本は「経済大国」とは言っても脆弱な体質の「大国」で,「技術立国・貿易立国」にしか活路がない資源小国であることを物語っている.だから,フローで計算された各種経済計算指標が如何に高くとも,ストックを考量すれば,日本国民がもはや貧しくはなくとも裕福でもないことは,ECの要人が「兎小屋に棲む仕事気違い」と評したことに美事に言い尽されている.
 だがそれでさえ,第三世界からみれば,富裕でなくとも貧しくはない「日本の状態」は「羨む」にたる身近な目標にはなるだろう.まず「仕事気違い」とはいえ,それも仕事があってのことで,第三世界の低雇用・潜在失業の大きさにくらべたら,「仕事がある」ことだけでも大変なことであるだろう.また,「兎小屋」とは言っても,上水道があり,家電機器が備わって,その上清潔で衛生的である.しかし,そうなったのは近々25年この方のことでしかない.
 さきの鉱工業生産指数で,日本が124を示した時,世界一だったのは韓国(210)である.指数表示は,成長率比較と同じく,絶対値の大きさと直接の関係がない.絶対規模が低いほど指数は大きくなるし,絶対規模の大きいところほど指数値が小さくなりやすいことに留意しなければならない.日本が戦後ひき続き高い経済成長率を示してきたのは,戦争の被害が如何に大きく,如何に小規模の経済活動と低い生活水準から出発してきていたか,ということを立証するデータに他ならない.
 (1) 戦禍から復興への低迷
 広島と長崎はそれぞれ1発の原爆で吹きとんだ.京都・奈良などの例外はあるけれども,日本中のほとんどの都市が戦災を蒙り,119都市で220万戸(約20%)が焼失し,900万人が家を失った.戦争中から新築家屋が事実上なく,戦後は老朽した1戸建家屋に,1家族が住むのではなく,1部屋に1家族が生活するのが,大都市ではどこでも普通のことであった.
 戦災は工場,道路,橋梁,電線,水道から学校,病院,通信網まで,日常生活の万般と細目に及んだ.
 民生用の国富の40%が失われたし,生きのびた設備・機器のすべてが,長期にわたる酷使と保守の悪さ・部品の不足で,老朽していた.
 敗戦後の数年間,生活水準は戦前(1935―37年)の30%にまで落ちた.1946年の鉱工業生産は戦前の6.6%しかなかった.
 被害が最大だったのは船舶で,630万トンが153万トンに減った.24%の残存である.
 それでも,鉄道はレールの50%が残り,車輔の被害が10%にとどまったし,水力発電施設は被害が非常に少なかった.けれども,海外から600万人の引揚げ同胞をむかえ,とくに進駐軍需要が優先されたから,この両部門も需要に追いつけなかった.
 戦前・戦中から朝鮮(米,豆,鉄鉱石,無煙炭),台湾(米,砂糖),樺太(木材,パルプ,石炭),満州(鉄鉱石,石炭,大豆),中国(塩,鉄鉱石,石炭)に依存していた物資が杜絶したので鉱工業生産の不振は著しく,生活必需物資の不足は極端であった.不足の著しかったのは繊維部門で,戦前最高能力比で33%しかなかった.また硫安42%,洋紙46%,自転車20%の供給力であった.それらの設備がすべて手持ちの原材料を使いきったあとは,ことごとく遊休化していたのである.当然のことながら,物不足=インフレが進行する度合は激越であった.
 そして,「軍事ファシスト国家」を物質的に武装解除するために,戦勝国による「現物賠償案」が作成され(1945年末),残存工作機械の50%,軽金属・ベアリングの全製造設備,造船所20カ所と旧海軍工廠,250万トン以上の製鋼能力の工場全部(当時の設備能力は1,100万トン),合計1,O00以上の工場設備が撤去されて,賠償に当てられることになった.
 大まかに言えば,残される工業力は賠償支払いのためだけのものであった.日本は,当時の欧米人の考える「アジア的水準」の,小農業国に立ち戻るべきなのであり,1929年の世界恐慌後のレベルに押し返されなければならない,という厳しい懲罰的な「戦後処理」がそこにうかがわれる.
 日本の水準は「かつて日本が侵略したアジア諸国の水準を超えてはならない」とされたのである.それを粗鋼でみると,国内資源のみの利用による生産で150万トンを限度とする,つまりその20年前,1926年の水準となる.
 敗戦の年は,今世紀二度目の大凶作で,それに台風と水害が加わって,米作は平均作の60%に落ちた.8,O00万の人口のうち10%は餓死するのではないかと言う不吉な予想さえあった.1人当り1,300カロリーという病人なみの食糧配給制度を維持する能力さえ当時の行政は失っていた.それほどに混乱は根深かったのである.
 「横浜に近づくにつれて日本の損害の重大さがはっきりしてきた.見渡すかぎり一面の廃墟だった.ボロボロの着物を着た人たちは取り乱した様子だった.……新築の建物は一つも見当らなかった.鉄道の車輛や機関車の骸骨がレールの上にそのまま放りっぱなしにされていた.……腸を抜かれたようなバスの車台や自動車が道ばたに転っていた.ここはまさに人間がこしらえあげた砂漠だった.なにもかもみにくく荒れはて,崩壊した煉瓦とシックイから立ちのぼるほこりのなかにかすんでいた」というのが,敗戦の年の年末に,日本に到着したアメリカの新聞記者マーク・ゲインの見た日本の姿(「ニッポン日記」)であった.これを,ある学者は「一方に無価値になった大量の戦争用生産設備の残骸が横たわっており,他方に残された消費物資に対してあまりにも多すぎる人たちが右往左往していた」状態の記録としている(『日本産業百年史』下,1967年,日本経済新聞杜,6ページ)1).
 原材料の輸入ができず,燃料,輸送力にも障害は大きかった.国民全体が虚脱した状態だったし,通貨に信用はなく,物々交換が経済の基調であった.極端な物資不足による猛烈なインフレがもたらした限界的な生活状態が3年以上も続いた.
 今日では超高層ビルの屋上からでないと望めない富士山が,江戸時代以来の名前を残す場所ならば東京のどこからでも晴れた日にはその秀麗な姿をみることが,当時はできた.「悪法も法である」として廃墟と荒廃のなかで一切の闇物資に手を染めなかったある判事はついに栄養失調で死亡した(1947年10月).いわば殉職である.米記者の見た状態は,敗戦直後だけのことではなかったのである.電圧が極端に低く,白熱球にはローソクほどの照明力しかなかった.
 ⅰ. 傾斜生産方式とドッジ・ライン
 前述の荒廃のなかにも,希望はあった.「日本の非軍事化」と,それを実現するための「民主化」が着々と具体化されていたからである.天皇神話のヴェールが剥がされたことで,天皇の不可侵性をかくれミノにする勢力は葬られた.成人女子が選挙権を得た.労働者は団結権を確保した.教育の制度も内容も改革された.特高警察制度がなくなり,言論・出版の自由も保証された.
 何よりも重要なのは,「半封建的」な地主・小作関係を一掃した「農地改革」であった.
 1946年から3年がかりで,最高所有制限1haとして小作地の81%,187万haと24万haの牧野が開放され,農家の大部分が自作農になった.このことが,日本の国内市場を拡大・深化する基本的な前提となる.多額納税者であること(その実は大不在地主だった)が資格であった貴族院は廃止された.天皇の不可侵性を理由にあらゆる改革に反対してきた超保守派の物質的基礎もまたこうして崩れたのであった.農地改革がかくも短期間に達成できたことには,幾つもの理由がある.何といっても,それが不可抗の占領軍命令だったこと,第2に農民組合が全国に組織されていて地主たちの違反を許さなかったこと,そして戦争中の経済統制を通じて(肥料の配給や産米の供出制度によって)地主の小作人支配は弱まっていたこと,などが挙げられる.さらに,1910年代から頻発し深刻化した小作争議いらい,各県に警察権をもった「小作官」が派遣されて,克明な紛争記録を貯えていたことが行政的な事務処理を扶けた.
 そういう状況があってもインフレに加速された窮乏の日常は改まらない.そこで提案されたのが,基幹産業(鉄鋼,石炭,肥料,ガス,セメント,鉄道)中心の回復策であった.「傾斜生産」方式とよばれるもので,まず石炭と鉄鋼の生産回復を目標におき,石炭に労働力と資金を最重点的に投下し,その石炭を製鉄に投入して生産された鋼材を再び石炭にふりむけて,石炭3,OOO万トンの生産回復をはかる,というものであった.こうして生産を拡大軌道にのせ,次第に関連部門をまきこむ計画である.
 物不足によるインフレは,生産の回復が諸部門に及ぶことで,次第に克服されてゆく筈であった.
 原理的には妥当なこの再建案は,しかし,やや迂回的でもあった.まず第1に,石炭産業は戦中の増産強行で,施設が老朽化しており,保安のために必要な作業さえ限界的なまま放置されていたし,熟練砿員の絶対数が不足していた.ほぼ20%が砿山労働の未経験者だったから,生産の回復には3年ないし5年もかかる砿山も少なくなかった.当時,砿員1人当り出炭量は90トン/年しかなかった.1930-34年には平均200トン/年であったことを思えば,これはまったく惨憺たる状態であった.
 第2に,日常生活の消費物資の不足が甚だしい反面では,鉄鋼その他の生産財・基幹資材の需要は小さく,それが遊休の施設と労働力とをかかえていただけに,生産費が市場価格より高くつく有様だった.だから,基幹資材の公定価格を生産費以下に設定して,生産実費との差額を財政から補給する政策を政府はとった.
 鉄鋼産業は砿山よりも装置産業的性格が強いから,輸入原料の供給と補給金とで,生産回復のテンポを速めることができた.だが,ここでもまた問題なのは,傾斜生産方式が生産回復の刺戟にはなっても,それがインフレの克服には直結しないことである.
 この両部門とならんだ最重点は稲作用の硫安の増産におかれていた.食糧不足が経済危機の象徴であったし,政治・社会不安の中心問題であったことは,1946年のメーデーが「食糧メーデイ」と銘うたれ「米よこせデモ」を産んだことに示されている.化学肥料部門だけは手厚い政治的保護もあって例外的に49年には戦前水準に回復している.
 敗戦の翌年中に必要とされた砿山むけの鋼材98,000トンに対して,割り当てられたのは8万トンにすぎなく,そのうち25,00Oトンは横流しされ,実際に投入されたのは必要量の半分でしかなかった.占領軍は民生用に月間200万トンの出炭を命じたが,政府は目標を120万トンに引上げることにさえ苦心していた.1945年11月の実績は55万4000トンしかなかった.鋼材同様にセメントも必要量の7割まで配給計画では認められていたが,実投入量は50%以下だった.資材の隠匿や横流しが,経営陣の「生産サボタージュ」として労働者から攻撃され,合法化されたばかりの労働が食糧と資材を管理して生産にあたるという「生産管理」闘争にと発展する例もあった.当時,対日理事会で英国代表が「財閥系炭砿の3年間国家管理」を提案していたことからも判るように,巨額の国家投資をしている炭砿の経営を,もっとひろくは戦後の復興を,資本家の手に委ねることに対する不信感が根強かった.「国家管理」案は,やがて,経営陣の必死の捲き返しで撤回され,「生産管理」に入った砿山でも生産復興の指導権は経営者に握られてゆく.
 一方に緊急援助,他方に傾斜生産方式で,回復基調の生産がインフレに追い着ける状態になったところで,1949年,占領軍は政策転換を日本政府に命じた.その第1は,対日援助の打切りであり,第2は価格差補給金の廃止であった.インフレ対策としては均衡財政主義を採り,それまで品目ごとに一律でなかった為替レートを固定すること(1ドル=360円)で国際経済に編入されたのである.
 この政策転換は,石炭産業にそれまでの人海戦術とも言うべき無条件増産体制から,生産拡大によって低価格化を果たすこと,つまり生産性をあげるための合理化と機械化を強いることになった.と言うのは,鉄鋼その他の基幹産業は,補給金制度によって1トン1,000円で入手できた一般炭を3,344円で購入することを余儀なくされたから,高炭価が経済再建上のネックになったのである.
 そこで援助資金を利用して,アメリカの採炭機械と積込機械が一斉に輸入された.けれども,坑内事情や炭層など生産条件がまるで違うので,とびついてはみたものの時ならずして利用されなくなってしまう.火急の必要に合わせるためとは言え,ここに援助による安易にながれやすい技術移転の失敗例を先駆的に見ることが許されるかも知れない.ここで注目してよいのは,アメリカ製砿山機械の遊休化(その分だけ炭価を押し上げることになるのだが)は,国産機械を登場させる契機になったことである.機械工業は戦時中に軍需依存が格別大きくなっていたから,戦後は新しい市場と製品とを開発しなければならなかった.この分野への進出・参入はむしろ自然ななりゆきでさえあった.
 アメリカ技術から欧州技術に眼を転じた石炭産業は,ドイツからカッペ式採炭法を導入する(1950年).翌年から大手炭砿でひろく採用されるこの技術は,その前年から着手され始めていた一部の大砿山での抜本的な立坑開発と相侔って,生産性を急速に高める.51年には5,O00万トンにせまるところにまで達し,生産性も欧州の大方の国と同列になった.
 鉄鋼業は,最盛期に37基あった高炉が,八幡製鉄所に残った3基から出発した.新鋭設備は賠償に指定され(22工場,全能力の4分93に相当),幹部が公職を追放され,巨大企業として「経済民主化」のために解体指令を受けるという状況がそれにからんだ.生産の回復が難渋するのも不思議ではない.けれども,敗戦の年に56万トンであったものが4年後には戦前水準の70%(粗鋼484万トン)にまで回復した.そこで突然の政策転換に逢着する.それ故,ここでも打撃は深刻で,石炭と同じ事態がおきる.鉄鋼は,原料炭ではなく一般炭を利用する技術の導入に成功したとは言え,価格差補給金によってのみ市場性をもちえていたにすぎなかったからである.
 日本経済を支えてきた「二本の竹馬の足」(ジョセフ・M・ドッヂ,GHQ顧問)を一挙に切捨てる政策転換は,回復基調の経済から即座に活気を奪ってしまった.
 大企業は滞貨をかかえ,経営の方向展望を見失い,大量解雇や倒産に追いこまれるものが続出した.回復が充分でないところに,急な緊縮財政策だったから,インフレは急速に沈静はしたものの,回復しきらない生産力は市場ニーズに見合う経済性を挙げられなかった.回復しきらない生産力でさえ市場に対しては大きすぎた,と言うよりも生産費が高すぎるのであった.復興ならず混迷ますます深まる,と言うのがドッジ・ラインに直撃された日本経済の姿であった.
 傾斜生産による再建方式はこうして一頓挫することになって,かたわら重点が海運と電力(と運輸)に移行させられる.この両部門は何れも占領軍の需要に合わせたものであったが,船舶は戦争の被害が最もひどい分野であり,国際経済への編入がその回復を不可欠のものにしていたのは事実である.しかし懲罰的な「賠償指定」を受けて小規模の造船所しか認めなかった占領初期とはほんの数年で生じた微妙な変化がそこに潜んでいた.
 「冷戦」の進行によって,日本と西独とを,近隣諸国の復興にむけた「工場」として利用する動きが占領軍内部に生まれてきたし,日本経済の自立を促さなければアメリカ市民の負担は減らない,と判断をする政治家たちもいたからである.
 ⅱ 朝鮮戦争から復興へ
 こうした沈滞のさなかに,思いがけないことがおきて,日本経済はにわかに活性化する.荒廃と混迷のなかで実効のあがらなかった一連の社会的改革も,経済の活性化につれて進展する.1950年6月に勃発した朝鮮戦争が引き金である.「特需」(special procurement)は1年めで3億4000万ドルに達したから,ドッジ・ラインによる滞貨の総額を超えた.国連軍用の諸資材は機関車,レール,トラックから鋼材,鉄柱,電線,有刺鉄線などの重工業製品から化学工業製品,加工食品や衣料,医薬品の民生安定用品まで,産業の全分野に及んだ.金属,機械,繊維だけで特需の7割を占めた.
 朝鮮の戦後復興までをふくむ広義の特需は4年間にわたり,約24億ドルを日本に落とした.この間の原材料輸入を差し引いても,ドル貿易は黒字になった.これによって,日本経済は混迷から脱出した.
 だが,特需への対応は既存の老朽・遊休設備を総動員して可能になったことであったから,間もなく設備・機械の更新が必要となり,かつ外貨ストックが更新を可能にしたのである.日本の戦後復興への契機は朝鮮戦争の特需によって言わば外から与えられたのである.
 たとえば,傾斜生産方式による再建を頓挫させられた鉄鋼業は,朝鮮戦争を奇貨として新鋭設備を輸入して生産能力を拡大しながら,低価格化と品質向上とを達成する.規模拡大による低コスト化は比較的容易であるが,それと高品質化とを一挙に達成できたのは,まったく当時の国際的技術市況によるものであった.技術移転が非常に自由だったからである.しかし,その技術移転の仕方と技術選択とが功妙であった.この事はまた後に触れる.
 移転した技術の代表的なものは,ストリップ・ミルである.従前の方法にくらべると,別種の設備と言えるほど大出力・高速力でかつ自動化されたのであった.とは言え,この技術は鉄鋼先進国ではすでに熟成した技術であった.日本の鉄鋼業の軍需むけの性格と国営企業の体質がこの技術の移転をおくれさせてきたと言える.けれども,基本的には戦争が生んだ格差だった.それは言わば,回復と追い着きにむけた技術移転であった.
 第2は酸素製鋼法の採用である.LD転炉法とも称されるこの設備は,この当時の最新技術であって,のちにイタリアの例でみるように,世界的にみても未だ安定している技術ではなかった.だが,いわば最先端性を先取りする恰好で技術を導入し,操作技術上の新工夫を加えることによって,のちの「発展の基礎」を確立したのである.
 ストリップ・ミルは圧延加工を連続的な工程でするものだったから高速化と大量加工とを可能にした.そればかりでなく,以前の製法ではできなかった高品質の薄鋼板を生産するから,自動車,家電機器,その他各種の耐久消費財に好適の素材がこれで国産化できるようになった.それまでは厚板鋼や棒鋼,型鋼しか製作できなかったのに,一般機械工業の需要に見合う素材を量産できるようになったことの意味はまことに大きい.だが,圧延部門の量産体制に前提とされるのはLD転炉の導入であった.両工程間に入出力のバランスが生まれたのである.(ちなみに言えば,発展途上国ではこのバランスを欠くことが普通である.)
 しかし,それにも増して,のちに全世界の製鉄業に日本が影響を与えることになる革新的な工場設計がこの時期に至ってついに陽の目をみている.
 川崎製鉄が臨海銑鋼一貫工場という構想を実現した.これは製鋼所の立地とレイァウトを一新したもので,臨海の工場敷地にある埠頭に原料(原鉱と原料炭)が荷揚げされると,それが所定の工程を経て,他の一画にある埠頭から移・輸出されるのである.わが国最古の八幡製鉄所では半世紀以上にわたる増設や改修で,製鉄所内の運搬用軌道が累計で400キロ,新幹線の東京・岐阜羽島間に相当する長さであったものが,一挙に約lO分の1に減らされている.たかだか工場レイアウトの変化ぐらいと思われやすいが,運送・時間コストと燃料費の節約だけでも生産規模が大きくなると,その効果が絶大なのである.以後,この立地と工場レイアウトは日本中の製鉄所の習うところとなる.このアイディアは,しかも,戦争中からあたためられてきたもので,かつては軍部が反対して果たされず,戦後も時宜をえなかったものが,朝鮮戦争を奇貨としてついに,日産700トンの規模で実現されたのであった.しかし当時,電炉メーカーの川崎製鉄が高炉メーカーに転身することには過剰生産化を案ずる声が政府筋にさえ高かったのも事実である.1950年当時,日本の粗鋼生産力は500万トン/年しかない.過剰生産が現実のものとなるのは1970年代になって年産11,000万トンの生産力に達してからのことである.全世界的な需要の落ちこみによって,80年代に入ると年産5,000万トンの粗鋼出力をもつ日本最大の製鉄会社は操業度を60%にまで落とすことになる.
 ただ1社でさえも敗戦直後の全日本の生産額の10倍を越すに至ったのは,純技術的にみると,つまり資源問題や公害問題をぬきにして検討すれぱ,当時の世界鉄鋼産業が規模拡大競争のさなかにあり,製鋼技術を構成する諸々の要素技術が各国でバラバラに発展していた時代だったから,周到に技術情報を集め検討して,それらを個別に購入・移転してまとめ上げれば,それで最新式のプラントになった,と協力者の[星野芳郎]は指摘する.つまり,技術情報が世界各地から集められ,その上で一つの設計概念にまとめ上げられたのである.そのことを必要ともし,可能ともする事情に,日本はたまたまおかれていたのである.
 いわば,後発者の利益を極限的に利用できたのである.このことは,しかし,何も鉄鋼技術にのみ限られたことではなく,当時は,技術のすべてについて同じことが言いえた.情報を蒐集し,解析・評価して,合目的的に整合化することは疑いもなく後発者がもつ(べき)技術「開発力」の一部である.(この時,日本の商社がもつ役割も無視はできない.)けれども,いま第三世界が直面する問題にてらしてみると,後発者の利益を利用できない条件が,現代技術そのものに内在しているし,周辺条件の不備・未成熟という両面にまたがっていることは確かである.それは,本質的には「開発」の政策と哲学にかかわらしめて決定されるべき,各国独自の段階的な目標設定と選択的な実施計画で克服されねばならないことである.究極的には,それは各国の主権行為としての開発活動になる他ない.その限りでは,戦後日本には,復興という火急の必要があり,復興のための科学技術振興と科学技術の移転について100%の国民的合意があった.敗北の理由が軍部の専断と反科学主義にあったと受けとめられていたのでもある.勿論のこと,さまざまの主張や批判,そして反批判は具体策をめぐってはあった.その主要な争点は,アウタルキックな開発と自立か,それともオープンな国際環境のなかに位置づけられる日本のそれか,と言うところにあった.けれども,科学と民主主義に対する信頼と合意とがゆらぐことはなかった.言わば,それが高度成長期までの思想情況を特徴づけていた.
 (2) 復興から急成長へ
 ⅰ. 復興と技術移転
 朝鮮戦争が,未だ復興ならず安定恐慌の淵に沈みかけていた日本の経済にとって,まったく思いがけない浮上の機会になったことはさきに述べた.朝鮮戦争が1950年代全体を通じての急速な回復と再建の契機となり,次の高度成長期へと接続してゆく.
 だから,朝鮮戦争が日本経済の姿を変えた,と言う見方にしてさえも,決して見当外れなものとは言えない.
 私は戦後日本を次のように時代区分している.
 (1) 荒廃と混乱の5年間(1945―50)
 (2) 復興の10年間(1950―60)
 (3) 高度成長の10年間(1960―70)
 (4) 調整の10年間(1970―80)
 (5) 模索の時代(1980年代)
 朝鮮戦争を高度成長の起点とする見方だって無いのではない.1950年の後半からすでに国際的にみても高い経済成長率を日本経済は示しているからである.そして,政府文書は,戦後10年めの昭和31年(1956)に,はやばやと「もはや戦後ではない」ことを主張しているほどである.ある種の指標からみれば名目的には,朝鮮戦争の特需で戦前に回復したことにさえなってしまう.その論法からすれば,50年代後半から高度成長に入り,それが73年の石油ショックまで持続された,ということにもなる.またこの系列の立論では,60年代後半から73年までが国際化の波にもまれた「模索期」ともされる.
 そういう諸説と私との見解の相違は,政府文書が「もはや戦後ではない」と表明した時点の判断にかかわる.この時,日本の国民所得は1人当り220ドルであった(アメリカの15分の1,西独の半分).人口の45%以上が第一次産業部門に集中していたし,特需を除くと(もうすでに終っていたが)輸出力があったのは繊維・雑貨の軽工業製品だけであった.確かに幾つもの指標は,1930年と55年とで酷似している.正確な比較のためのデータを揃えることはできないのだが,戦争で損失したものが次第に回復されてくるのは1960年代に入ってからだと判断してよい.この時期になって所得倍増(1970年までに)論が提唱されてくるし,国際圧力の下に完全雇用が達成されて労働力不足が始まる.貿易と資本取引の自由化の日程が発表されたのにつれて,外国資本と外国技術の上陸という新しい「国難」にそなえた技術移転が急速に展開するのもこの時からである.
 1960年代の技術移転は,その前の10年間に移転されたものにくらべると,技術の様相が一変してしまったとさえ評されている.
 戦前レベルへの回復にむけた生産規模拡大の志向が,1960年からは外国商品の流入を防遏するための,国際商戦にそなえた規模拡大となり,そのスケールも国内需要を超え,最先端技術に照準が合わされていた.それは,遠く明治の初めに(1870年代に)殖産興業と輸入防遇のスローガンで国民全体が工業化に主権護持の悲願を託した時のことを思わせる.明治と昭和の決定的な相違は,「富国強兵」と言うかつての国民的合意の後半分「強兵」が排除されていることであった.
 だから,この時期の技術移転は,それまでの技術移転のように生産拡大=機械化=合理化というレベルのものではなく,生産のシステムそのものの抜本的改造が目指されており,自動化による高速の大量生産が技術目標になっていた.
 50年代において,すでに,素材生産部門では大量生産の路線が選択されていた.だが,未だ高速化は目指されていなかった.ましてや自動化は良質な労働力が豊富な段階ではインセンティヴを欠いていた.
 50年代と60年代とを意識的な仕方で対比してみれば,精確さには欠けるところがあっても,特徴化は次のようにできる.
 (1) 回復期の技術移転は,鉄鋼・造船・化学肥料・繊維などすでに日本にあった産業部門で,戦争中のギャップを埋めるために行われた.それが50年代.
 (2) 60年代には,欧米においては成熟産業であったけれども,日本では「幼稚」産業であった自動車・家電機器および石油化学の技術が移転されて大量生産化する.言わば国産体制が確立する.国内で外国製品に対する競争力をつけてしまう.
 (3) 70年代には,戦争中から戦後にかけて開発された最新技術であるエレクトロニクス・高分子化学・原子力などの技術が移転される.そして,原子力以外のこの新技術分野で,とくにエレクトロニクスの分野で短期間に追い着き,そして引き離され,次いで追い着き,追い越す分野さえ生むという経過を経て,日本の技術力は世界から注目されることになる.
 しかし,新最先端技術の分野での国際競争力が注目を浴びる前に,さきの(1)の分野で日本技術がすでに世界的に注目されていた.1964年,当時,ヨーロッパ最大級の新鋭製鉄所,イタリアの「タラント」は2,000トン高炉2基と3,000トン転炉を完成したものの操業実績が悪くて,八幡製鉄所に高炉操作の技術指導を申し入れている.同所は,僅々6ヵ月の指導で15%もの生産向上をみせている.次いで,近代製鉄技術発祥の地であるイギリスにも転炉技術を輸出することになる(Steel Co.of Wales).こうした製鉄技術の移転の頂点に立つのが一連のプラント輸出であって,ブラジルのウジミナスUsinas Side-rurgicas de Minas Gerais(Usiminas in Brazil),マラヤワタ(Malayawata Steel Co.Ltd)2),そして中東のカタル(Qatar Steel Co.)である.
 1960年代に,世界の鉄鋼業は大型高炉時代,純酸素転炉(LD転炉といわれる)時代に入っている.設計上・製作上では実用化に到達していた大型高炉やLD転炉が,操作技術では未だ不安定であった(だから古い製鉄国でも日本から指導を受ける)と言うことは,この技術の内 容[コンポーネント]が単純ではない例証である.言わば技術の構成要素(のちに述べるように我々は五つの要素をとり出した)は,それが全部ワンセットで揃わなければ実用化はされないものであり,その要素間に優劣はつけ難いのである.そのいずれかの一番低い要素のレベルに全体が合わされる.そこが,新しい原理の発見や理論的構築が使命である科学と技術の決定的な相違であって,科学・技術と一口に言ってしまうことへの反省材料にされるべきことである.
 科学者の創造性は着想と原理の発見に認められるとするならば,技術者の創造性はその具体的適用法の発見(=製法の創造,工程の新しい編成)と言うことになる.「開発」問題がらみで言うならぱ,開発にはR&Dが不可欠であり,Rは具体的にはdの総和R=d1+d2+...+dnとして表現される.
 これまで,日本の科学と技術についてr+Dであると性格づけられることもあったが,それ自体が世界全体としてはRs&Dsのなかに位置づけられるべき国民的貢献なのであり,このことの故に卑下する理由もなければ,また尊大になる理由もない.全く同じ理由から,絶対視されてよい国民的経験である筈もないが,同時に無視されるべきものではさらにないだろう.全ての国民的経験は等価・対等のものだからである.そこにある相違は,文化の場合と同じく,断じて優劣ではない.形態における相違を価値の相違に換置することは,純粋科学の評価法を産業技術に適用することであって無意味なことである.技術の場合にはとくに禁物である.
 そのことを,いま途上国でもさまざまの開発ニーズから期待が寄せられているME(micro-electronics)を例にとって戦後「日本の経験」をとりまとめてみよう.
 真空管が放送・通信・計算器に利用されていたのはつい先頃までのことである.日本が真空管の性能をあげながら増産のラインにのせるべく腐心していた時に,痛烈なショックを与えたのはトランジスターの発明であった.日本ではソニーが当時は軍需むけだったこの技術を導入し,民生用に利用して,56年からトランジスター・ラジオの開発と製造に入った.だが当時の日本では非常に高価なものだった.60年には日本製のそれが米市場に流入する.トランジスターは米粒ぐらいの大きさだが,真空管より組立てが簡単で人手もかからない.とは言え,小さいトランジスターの一つ一つにリード線をつけ,それをラジオに組立てるには抵抗とコンデンサーとコイルとバリコンを揃えなければならないし,複雑な配線も必要である.だから「トランジスター・ラジオ工業がふくれあがればあがるほど,沢山の労働者が要る.トランジスター工業は比較的高水準の技術をもち,比較的低賃銀の豊富な労働力をかかえていた当時の日本にとっては,うってつけの成長産業となった」(星野芳郎『もはや技術なし』,1978年,15ページ).1960年代の中頃に,日本はこうして世界一のトランジスター生産国になった.
 だが,1960年には再びパンチを浴びる.ICショックである.T.I.社が米空軍に納入した価格は1箇700ドルという高価なものであった.トランジスターの時はゲルマニウム半導体基板であったが,集積回路ではシリコンになった.この転換に,日本人の科学者が発見したダイオード(エサキ・ダイオード)が利用されている.ここにも日本産業の性格を指摘することは容易であろう.古くはKS鋼の発明(本多光太郎,1933年)の例もあるように,実用化は日本企業の手では果たされない.科学も技術もニーズがなければ実用化の契機をつかめない.だが,ニーズがあれば即座に対応できるのでもない.日本にはそうした軍事的ニーズはなかった.
 1966年に日本でもICの製造が開始された.ICには二つの型があって,高速演算に優れてはいるが精密度の劣るバイポーラ型と高速性には劣っても精密度の高いモス型とがある.宇宙開発やミサイル用には前者が高速の論理回路の故に選好されるが,もっぱら民生用にむけた日本の製造・利用技術開発は後者の記憶性を選択した.
 この時,アメリカの有力メーカーは,1箇ごとの細片に切断されたチップをパッケージングする過程を,労賃の安い東南アジアの諸国で製造させた.これまた日本メーカーには打撃になったが,量産化して2倍の生産規模にすればコストは30%低下するところから,6倍以上の自動化ラインをひくことで日本の企業は対抗する.
 1971年にはLSIショックが襲いかかってきた.国産ICは敗北した.しかし,これには素子の集積密度を1桁上げればコストが1桁下がることで対応してゆく.この時は,工程数の削減が決め手になった.既設のSSIやMSI設備は新設2年にならない工場をふくめて大量にスクラップ化されてLSI3)への転換が行われた.それは技術開発力と製作技術力との凄絶な攻めぎ合いであった.無駄といえば無駄な努力である.この戦争は,いまなお,さまざまな商品開発として,日米間だけではなく,日本内部でも繰り返されている.
 結果として,軽く小さく薄く短いという四つの形容詞に集約される製品を産み,LSIは,1970年代になると機械に装置されて性能を高める.エレクトロニクスが各種計器やエンジンと組合わせになって出力と制御に大変化が生じた.それが,「大きく,長く,重く,厚い」という四つの形容詞がつく50年代・60年代をリードした産業技術部門にとって代る.
 LSIの技術戦争では,精密度と複雑化がICの段階とは格段に違うので,もはや手作業の入る工程は非常に少なくなる.と言うことは製造のための機械と装置の高度化・複雑化をともなう.つまり巨大な設備投資が必要となる.それだけに,大出力に見合う大市場が必要になる訳で,軍事よりは民生目的の商品化をこそ最適当分野と選定したのが日本技術だった.
 ⅱ. 技術への疑問
 このような半導体技術の急速な開発は,何を,我々の近未来にもたらすであろうか.このことについては諸説があって,予見し難い.たとえば,MEの発達と低価格化が発達途上国の情報・通信網に一大転機をもたらす,という見方が現に国際連合大学の会議で発表されている.それを,教育目的に利用することの効果も論じられた.確かに,それは効果的だろう.だが,即座に反論も出た.それは中央政府の押しつけたがる情報が一方的に流されるだけという事態を生むにすぎない,中央のニーズには合っても,地方の開発ニーズは別のところにある,と言うのである.
図1 自動車産業の分業構造
図2 自動車の生産構造〈1975年価格,自動車100万円当りの生産取引構造〉
 議論を技術内問題に限ることにする.論点の一つは,LSIが新しい革命なのか,どうか,と言うことである.この論議は,ICが工作機械に利用(NC工作機)された時から始まり,マシニング・センター(MC)を経て,溶接や塗装の単能ロボットが登場するに及んで,関心の的となった.最初のNC工作機と今日のとでは,出力においても価格においてもICとLSIほどの相違があるといわれる.1980年の製品は前年にくらべて80%の出力向上になっている,とさえ公表されている.こうした自動機械が生まれた背景には,高速化と大量生産化そして精密化という機械工業からのニーズがある.たとえば,5,000種,3万個の部品を必要とする自動車工業では,各社とも内製率が30%ほどである.あとの部品は独立の業者(中・小メーカー)が納入する.そういうところにNC工作機械のニーズがある.自動車工業が,どのように構成されているかは,掲載図1に示されている.溶接ロボットや塗装ロボットには,労働力の不足とLSIの低価格化という背景があった.我々が調査したかぎりでは,自動化ラインのタクトは手作業の時と同じスピードであった.工作機械という機械工業の原点がNC工作機械の出現によって革新されたことは重要である.1960年に機械の様相が変わった,と前に書いた.1970年になると工場の姿が変わってきた,のである.だが,この種の機械を使いこなすには,最低日本の工業高校卒業程度の基礎知識が必要だといわれる.そこに高技術化の前提に教育水準の上昇ということが必要なのは明らかである.
 NCとMCが部品製作工程を革新したとしても,機械工業の労力と時間の75%は組立て工程に集中している.したがって,工程合理化=工程節約の焦点は組立て工程の自動化に移行することになる.いま日本では,組立て工程の自動化(FA=Factory Automation,さらにすすんでFMSC=Flexible Manufacturing System Complex)が実験段階に入っているのだが,それが現実のものとなれば,労働の生産性は30-40倍も上昇すると見込まれている.
 その時には,かたわらで,労働者には単純な熟練ではなく,多能工的熟練が期待される筈である.すなわち,追加的教育投資(それが誰の負担によるものにせよ)が不可欠だろう.
 新しい複合生産システムの高い生産性が製品の低価格化につらなるし,製品の多様化になるだろう.現に,製造過程におけるLSIの利用は,大量生産ラインの性格をすでに変えてしまった.大量生産方式というのは,標準化された互換性のある単一品種からなる多数の部品を組立てることによる,同一種の製品の生産に威力をみせてきた.それはアメリカで前世紀にコルト拳銃の生産から始まって,フォードT型自動車に一つの完成した姿をみせるものであった.ところが,現在の大量生産ラインは,コンピューターを利用することによって,同一型[モデル]の自動車でさえ実に200種類をこす仕様をこなしている.別に言うならば,量産体制というものの内実が,単一品種の大量生産から多品種少量に,しかも総量としては大量の生産であることに質的変化をとげてきている.それを可能にしたのは50年代にはなかった電子工業の発達であり,生産過程への導入である.
 この発達に対する警戒は,雇用問題への影響にむけられてきている.従来はとも角,今日までのところ,日本では影響がない,とある官庁調査は述べている4),これは,クォーツ時計の出現の場合にみられたことであるが,ある工程の技術革新がその部分の生産性を4倍増すと,そこの労働力を4分の1に減少させるのではなく,他の部分をそれに同調・増員させる,というのが日本型高度成長の経営原則であった.そこに,日本と欧米型の職能主義体制との相違がある.もっとも,こうして上昇させられた生産力と生産性は,製造原価の低下に反映させられて,市場の拡大が実現するのでなければ存続できない.高度成長期は,実に,そういう時代であった.製品特性(多様化と高・多機能商品)の追求による市場拡大がなければ,技術革新による生産性の向上は,逆に,雇用削減の方向に作用することになった筈である.
 日本の場合は,生産性の向上が,完全雇用の達成と賃銀引上げに媒介されて市場を拡大・深化することになって,所得倍増という成長主義が実効をあげたのである.その結果,もはや,日本製品について戦前から言われた「安かろう悪かろう」ではなく,「安くて良い」60年代を経て,70年代からは「高くてもよい」という高品質についての信頼度を確立してゆく.IC生産の自動化いらいまずアメリカ市場で,コスト・パフォーマンスが評価され始める.
 雇用問題とは別に,雇用構造にいま変化が見え出している.総雇用数のなかで直接生産の部門の比率が減少しつつあり,それとほぼ同じ比率で間接部門,とくに営業と研究開発部門の人員増が始まっている.一般論として言えば,技術的な成熟が完成に近い製造部門では,IC化やLSI化によって技能節約効果が著しく,製品の品質や性能にメーカーによる格差はほとんどなくなりつつある.我々の用語を用いれば,M3,M4,M5,の比重が大きくなりつつある.ある計算機メーカーでは3,500人の社員のうち,1,000人が「技術センター」でR&Dに従事している.ある二輪車メーカーでは,技術開発会議にセールスマンが参加して市場のニーズを生産技術に反映させる工夫をしている.そのかたわらで,生産部門では現在の部署と直接の関係がない技能の修得が奨励されている.たとえば組立てラインの工員に,整備士資格をとらせたり,配管工や高圧機器運転者資格をもたせたりしているのである.
 このことは技能工の離職率を高める危険を企業にとっては大きくするものの,他方では単純熟練(単能工)から複合熟練(多能工)への転化であるから,企業にとっても本人にとっても好ましいこととされ,巨額の教育投資がなされている.
 技術発展ないし技術革新が,工学的知識の収斂の結果であるように,技術者と技能者にも技能的収斂がこのような形で行われるのである.いわば熟練形成の新しい姿である.
 だが,こうした達成は,国民的経験としては,対価の支払いなしにできたのではなかった.このことだけは,念を押しておかなければならない.
 その第1は地域間格差の拡大である.
 第2は,公害の深刻化である.LSI工場による地下水汚染は,最近にわかに注目されだした.
 言わば,こうした社会的コストは,成長主義の経済計算では,価値原理が異なるから,平然と捨象されてしまうのである.たとえば,公害患者が被害の故に所得を失うと経済計算上ではマイナスになるが,治療を受ければプラスに計上されるのである.公害防止施設もGNPの増加になる.マクロ・アプローチの経済計算の結果を利用するときには,この種の常識とその非常識とを心得ておかねばならない.
 回復から高度成長の時期にかけて,日本の産業地図はすっかり塗り変えられてしまった.戦前の日本の四大工業地帯とよばれていた四中心地がベルト状に連続させられてしまったのである.集中の利益の追求が,都市と農村の所得格差を拡大したので,当然,大都市への人口集中が激化した.住宅問題が深刻化し,都市と周辺の地価は暴騰した.「兎小屋」の簇生である.その一方で,農村から若年労働力の流出が続いた.結果として,過疎という問題がおきた.一定数以下の人口になるとコミュニティは存続力を失う.また,中堅年齢層を流出させたことで,社会的な生活機構がバランスを失い,「ムラ潰れ」という現象が各地でおきる.それが,工業化にともなう第一次産業人口の減少と言うことの他の一面なのである.それが労働力の減少に応じた機械化の進行と表裏の関係をもっている.新しい環境と労働条件に適応できない中高年齢層は,こうして,高度成長のなかの陥没地帯となる.それは,「開発」の過程で,第三世界に発生している問題を,高い次元と異なる形態で示しているものではあっても,本質的には同一の問題的[・・・]性格と構造のものである.
 第2の問題も,事情としては途上国とまったく変わらない.重化学工業偏重の高度成長は,公害に対して無神経であった5.自動車の排気ガス,新幹線による振動の他に,鉄鋼生産の膨張は煤煙と塵挨を耐え難いものにしたし,石油化学工場の大気汚染は局地的な特殊疾病である喘息を生み,肥料工場から排出された重金属が魚類に吸収されて,魚を常食としていた人口を治癒不能の中毒症にしてしまった.その悲劇の最たるものは,胎児性の水銀中毒者で,母体そのものは胎児に毒を吸収させてしまったから健常であるという事態である.ここで注目すべきことは,普遍主義の論理にたつ「専門家」が公害発生の現場で因果関係を否定したことであり,次いでそれが否定できなくなると公害の発生原因者たちの主張する被害の過小評価に与したことである.当然「専門家」への不信が噴出した.被害者の救済に既成政党や労組が有効な活動をできなかったことも記憶されてよい.結果的には,被害者たち自身の抗議運動とその根底にある人権意識だけが有効であった.
 第一次産業は重化学工業化が復興する過程での犠牲者だったが,高度成長以降においては第一次産業自体が加害者にまわる例が多くなる.化学肥料の大量投入によって土壌と水質を汚染させ,農薬の多用によって加害者自体が被害者にもなる.機械化と化学肥料に頼る増産は,その一方で,地力を急速に消粍させる.それを補填するために別な肥料の追加投入しかないという悪循環が,すでに自給力を失ってしまっている日本農業の将来に,無気味な警告を発する多くの論評を生んでいる.
 だからこそ,遺伝子工学に期待をかける人もいて,将来は肥料の不要な量産新品種が生まれうるし生まれさせなけれぼならない,と言う学者はいる.けれども,こうした農業や生態系問題の工学的解決に楽観的な人ばかりではない.むしろ,公害問題は,科学と技術の結果であるものは科学と技術で処理できる,とする19世紀いらいの機械系中心の工学的万能主義に対する警戒を生み,科学者や技術者からその不逞な自信を奪うことになった.客観化=数量化ができないし・しない故に「科学ではない」とさえアメリカなどではみられてきた生態学がかえって脚光をあびることになった.ここにも,19世紀いらいの科学観・科学哲学が批判的吟味を受けざるをえなくなった理由がある.
 そういう技術への疑問が顕在化してきたのが1970年代であった.
 その上で,日本の行政が近未来の技術水準を国際的な比較ではどう予想しているかを,コメントぬきで紹介しておく.
 また,近隣諸国がそれぞれどのような未来像をもつかについて,アンケート調査のデータを紹介しよう.(32,33ページの表を参照)
 そこで確かめられることを言っておけば,アジア諸国の著しく速い軽工業化のテムポである.労働集約的な産業の急速な発展がみられる.
 労働集約的であれば技能水準の高度化(つまり熟練)が求められる.当面は内需に支えられているにしても,発展の趨勢からすれば輸出に向かわざるをえないだろうし,国際競争力は熟練の形成に左右される.
 だが,長年月を要するものであった熟練の形成は新鋭機械によって極度に短縮されつつある.その時,原材料を国産できる部門は,新鋭機械の導入で国際競争力をつけるだろう.
 労働集約性の高さに依存しているだけで原材料を外部に依存している諸国では,急速に国際競争力を失うに違いない.かつて移転した技術が陳腐化すると同時に,技術は資源立地と消費立地に両極分解して,低賃銀に依存する加工立地のメリットはなくなるかも知れない.市場問題の創造的な再編成が発展途上国間で改めて不可避になる理由がそこにある.
 一般的には,技術革新は雇用削減効果をもつ.雇用削減に至らないためには,(1)技術革新で増大した生産力に見合う市場の開拓があればよい.市場の開発は購買力の創出(=雇用増加)を不可欠とする.(2)次いで,節約される労働力が同一技術部門で吸収されることが好ましい.とすれば,余剰化した労働力を吸収する新投資の余力(または信用創造)が必要となる.
 一方で技術革新に投資し,他方で投資余力があると言う情況は,「投資が投資を招く」という好況の構図であるが,それは日本では高度成長期にのみみられた稀な事態であった.
 その好況が,加速されたインフレ情況を生まない筈はない.そのインフレが企業間でも産業間にも格差を生む.その格差は技術上および経営上の,ときには国際的な,二重構造を定着または加速させる契機になる.社会統合の水準が高くもなく,開発目標と開発方法について国民的合意ができていないところでは,政治的・杜会的な混乱と不安が深まるに違いない.それが技術を機能麻痺させるし,最悪の場合には逃避させる.
 そこに技術革新への周到な配慮が開発担当者に望まれる所以はあるし,国際的な協力を組上げてゆかなけれぱならない理由がある.

 [注]
 1) なお,以下の記述では同書およぴその姉妹篇『昭和経済史』下(1980年,日本経済新聞社)に負うこと多大である.
 2) マラヤワタの「開発」効果については慶応大学の鳥居泰彦による産業連関分析がある.さし当たり「マラヤワタ・プロジェクトの経済効果」(『鉄鋼界』1978年10月号)を参照のこと.なお,我々はマラヤ,日本,プラジルの三国で共同の比較研究を実施した.
 3) 数ミリ四方のチップの上に装置される素子の数が,100までをSSI,1,000までをMSI,1,000以上をLSIと呼ぶのが普通であり,5,000以上(ときには10,000以上)が超LSIと称されている.
 4) だが,長期的に問題がないとは何人も言い切らない.近未来では第三次部門の雇用増加(労働力の移動)が見込まれている.ただし,成長率が5%以下では失業を生むとする見方もある.にもかかわらず,この技術革新が正当化される理由の一つには,日本社会の急速な高齢化がある.将来,そのことによる若年層の社会的負担を軽減するためには,いま生産力の増大は不可避・不可欠欠のである.
 5) 大気汚染についてヨーロッパでの規制は各国とも日本より緩いが,酸性雨問題が国際的に重大化するにつれて,規制強化に向かいつつある.

 Ⅲ 戦後日本の技術移転にみられる特徴

 これまで少なからぬ紙幅を費やして,戦後日本の技術史に触れてきた.
 その最大の理由は,「対話」を通じてのこれまでの経験からすれぱ,発展途上国のみならず先進国でも,日本への関心は戦後技術とくにハイ・テクノロジーにしかないとさえ言いうるからに他ならない.
 しかも,日本の高度技術化はことごとく技術移転によってのみ達成されたかの如くに錯覚されている.そうした見方が如何に事実にそむく誤ったものであるかは,技術史の問題に少しでも触れたことがある者ならば誰でも知っていることである.けれども,人はみな技術史を知ろうとする人ばかりではない.そして,技術への期待が大きすぎる.それでは必ずや技術から手きびしい反撃を受けることになるだろう.それを回避するためにも,できるだけ正確に技術(とくにその技術内論理)について心得ておくことが好ましい.
 第1に,確かに戦後日本技術の変化は著しい.歴史的事実に即してよりは,特徴的なことを誇張して理解しやすく言えば,10年ごとに日本技術は変化してきた.世界史的には確かに例がない,と人は言う.それならば,これまでの世界史の先例にこだわることはない,と言うことになる.いま「開発」問題と格闘している人たちは,そのことだけで元気づけられてよい筈である.10年で機械が一新され,次の10年で工場の姿がまるで変わった.そういうことが起きうるのである.
 そこには,勿論,一連の技術移転があった.このことは紛れもない.しかし,技術移転は日本だけでなくどの国民にも公平にそのチャンスはあったし,いまもある.だから問題の第1は,何故,技術移転しようとはしない国々があったのか,と言うことであり,第2には,技術移転しようとしてもできなかったと言うのならば,それは何故であったか,と言うところに焦点はしぼりこまれるであろう.
 第1の問題については,日本は戦争の荒廃から回復しなければならなかったのである.その火急の必要は,一寸記しただけでも分かる敗戦直後の日本の状態から,理解できよう.
 だが,すべての産業が技術移転に成功したのでもなければ,どれもが技術移転に熱心だったのでもない.最も「成功」した鉄鋼業の場合をみると,最終工程の圧延から技術を導入した.これは日本が最も国際水準からおくれた部分であった.だから,回復そして「追い着き」の手順としては,そこから着手するのが当然のことであっただろう.どの国でも,そうするに違いない.現に東南アジアではそうしている.この技術移転方法を採れば,銑鋼一貫工程を焼結工程から高炉・転炉・圧延という生産工程の順番に建設してゆくのにくらべると,燃料費の他に建設費と運転費を節約できる(日本では在来の約30%の建設費で済ませた).
 技術移転が,たとえば,LD転炉の場合もそうだが,後発者に最適の「選択」でなされてきたのである.転炉比率は,1975年に,日本80.1%,西独68.8%,米56.1%,ソ連21.4%である.高炉(3,000=m3以上)も日本12基(トン/日),ソ連2基(1,808トン/日),西独1基,米Oであった.
 60年代は日本にとってLD転炉への転換期であった.50年代に平炉の大増設をしたアメリカ製鉄業はLD転炉への転換が必要な時期ではなかったし,また資源事情からして硫黄含有量の多いアメリカの鉄鉱石は上質鋼を生産する平炉にむいている.
 当時,LD転炉は40チャージ/日で,日本のY社は50トン/チャージであった.平炉では5-6チャージ/日で,1回200トン以上あったとは言え,LD転炉と平炉の設備能力格差は明白である.しかも燃料費では6対10で転炉が有利だったし,建設費は1対2であったから,その技術的格差というよりは経済的な設備能力格差は判然としてくる.
 総じて,1960年代には原理的な技術革新が,全世界的にみて,この技術分野ではなかった,とするのが日本では定説化している.そうならば,いきおい競争力はスケール・メリットの追求,つまり工場規模の巨大化に左右されることになるし,日本では巨大化に障碍がなかった.さらに巨大化にともなって,設備能力に対応した技能である操作能力(その人材養成には長い時間がかかる)の格差もまた顕在化する.こうして,後発者が先発者より優位に立つという「稀有な事態」がおきたのである.その背後には,全工程設計の革新(工場レイアウトの変更)という自力の開発成果も作用している.言わば,そうした工学的にはマイナーな革新が集積されるとマイナーな効果にはとどまらないほどに,この技術分野は標準化されていたのである.鉄鋼技術はそれほどに成熟していたのであり,技術的完熟は操作技能や工場レイアウトなどの「利用技術」によって競争力が左右される状態を生むのである.このことに注意が払われていなかったのは,不思議なことであり,各種技術についてその成熟度を考量しないで,大まかな技術開発力と創造力のみがいまなお詮議されることが多いのは,いささか奇妙ではある.工学主義的技術論の欠陥とされてよい.
 第2の問題に入ろう.近代技術の特徴は商品として移転自由なところにあ
る.そこが,前近代技術とは違う.しかし,近代技術は接合自由ではない.関連技術と周辺サービスとが不可欠である.だから,移転したいのに移転ができないとか,移転したのに所期の成果がえられない,と言うことであれば,それは移転のための先行条件と周辺サービスが整っていないことを意味する.
 それは明らかに,選択した技術の種類,レベルおよびスケールなど技術の移転方法における錯誤または過失である.つまり事前調査の不足である.そうでなければ,移転した技術に即応した先行条件と周辺技術のレベル・アップにおける失敗に違いない.何れにしても,それは「成功」ではない.
 そこから,逆に,日本の「成功」の理由は見えてくるだろう.結論的に言えば,日本の「成功」は,そうなるように技術を「選択」したこと,ならびに先行・周辺条件がすでに整備されていたこと,さらに,技術移転に並行してそれらが発展させられたことに理由を見付けねばなるまい.
 確かに,そこに理由を見出す他ないところに我々はきた.そうならば,先行条件と周辺技術は如何に形成されてきたのか,を歴史に溯って探求する他ないことになる.そういう条件が,戦後に突然できたのではないし,外国から与えられたのでもないからである.繰り返すけれども,そうした「成功」のためにかけた社会的コストは厖大だったのである.職業病はかつてもいまも深刻である.公害問題や過疎化問題(ムラ潰れ)の他には1例だけ挙げるにとどめておこう.圧延工程は旧い製鉄所の中では,労働者たちが20年も30年もかけて形成した熟練の,最も絵画的な・危険の多い・男性的な作業の見せ場であった.塩を口に含みながら,汗に光る裸形の筋骨逞しい男たちが気合いをこめて立ち働く,労働に畏敬の念を抱かせるあの現場は消えてしまった.その男たちの熟練に,コンピューター化された最近の工場が助言を求めることが,のちに生ずる.熟練が自動化によって無効になったのではなく,高水準の多能工という新しい熟練を要求している.単能的な熟練の稀少価値を奪ったにすぎない.そして,それさえ最新の自動化工程もついに人間の熟練には及ばないものだという例は,やがて紹介することになる.
 そうした熟練の存在そのことが,技術移転の先行条件であったことを,ここでは確認しておけばよい.
 ついでに言えば,完熟度を高い水準で示している鉄鋼技術は,いまその将来展望を,鉄に限らない新素材をふくめての素材供給部門に残留するのか,それともより高い付加価値をもつ複合的加工技術部門に転身するのか,それとも新規の綜合的エンジニヤリング能力で生き延びるか,その選択をせまられている.
 製鉄所は起工から落成までにlO年以上を必要とするが,日本の設備はすでに経済的寿命の最終期に入りつつあって,しかも更新のための設備投資はさし当たり活発ではない.世界的にみて,消費立地から資源立地へと技術が移行する趨勢のなかで,発展途上国で計画されている製鉄所の出力が1,000万トン/年であれば建設・設備用に鉄鋼1,000万トンが必要となるから,鉄鋼需要は,長期的には増大の傾向が見込まれている.しかし,短期的には需要の落込みが操業短縮を余儀なくしている.操業短縮にもかかわらず,損失を出さないためには高度の技術(開発)力がなければならないし,技術開発投資が行われなければならない.それが新規・新設投資のブレーキになる.総じて鉄鋼技術はいま「晩年の栄光につつまれている」と評されることもあるのだが,確かなことは,もはや先導的技術部門ではないと言うことである.