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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第2部:「日本の経験」ー問題のイメージと我々の対応ー
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第2部:「日本の経験」ー問題のイメージと我々の対応ー

 Ⅰ 問題の所在(1)
 ――外からの期待――

 国際連合大学のある文書は,「日本の経験」プロジェクトを発足させる理由について,次のように述べている.
 すなわち,かつては欧米から技術を輸入した日本が,いまでは逆に輸出するまでに発展をとげた.その変身が如何にして可能であったかが発展途上国の切実な関心になっている,と.
 ほぽ同じ頃に,国際連合大学主催の専門家会議は,開発理論が一種の混迷(disarray)状態にある,と指摘している.その文書は,「混迷状態にある」ことの理由については明確には述べていない.その理由にあたるものを,私が参加した各種各レベルの会議から探ると,(1)かつては有効であるとされていた理論が,その後の発展の結果として,無効化している.(2)もともと有効性に疑問があったけれども,説得的な反論のデータが揃わなかった.(3)情況が多様化してきたので,開発ニーズもまた多様化している.それに応じた理論的対応が欠けている.
 およそ,この三点に尽きるようだ.それが「日本の経験」への注目となっているのである.これまで国際連合大学という「対話」の場を通じて,開発問題の専門家たちからえた反応を要約すると,次のようになる.(1)開発問題の混迷から脱出するための情報が不足である.それを補うために「日本の経験」が利用できないか.(2)具体的なヒント(否定的なものも含めて)が火急に必要である,という実務的かつ課題的な関心があった.その関心の程度と方向とは多様かつ多角的で,容易に概括はできない.ただ明白であったのは,「日本の経験」のすべてが関心の的なのではなく,技術をめぐるものに限られる,と言うことである.それは,開発と技術とは不可分の関係にある,という主張をふくむものである.だが,そうした議論を通じて痛感させられたのは,「開発」一般と「技術」一般とが,言わば無媒介に接合されていて,具体性と緊張感に乏しいことであった.
 技術は,もともと具体的なものである.言わば,具体的にしか論じられないものだと思う.だから,過度に一般化された技術問題の論議は,技術そのものから離れて,技術の上位概念である「技術政策」,または国際的な「技術(移転)の政治学」になりがちであった.
 これはまた,まことに当然なしかも切実なかれらの「国民的経験」の反映に違いない.技術(移転)がすでに制度化されている現状は,まさしく技術の政治学の重要性と不可避性を示している.それも,多くの国では研究上の自由と発表の自由が制約されていることと重なり合っている.だから,「開発モラトリアム」と言うべき要請もまた,途上国インテリの間には根強くある.
 こうした問題への対応は,切実であればあるほど,問題をただ政治化するだけに終る危険があって,技術そのものに内在するメカニズムを軽視または無視することになりやすい.逆に言えば,純技術的に解決されうる問題を,政治問題化することによって,かえって解決を遅らせるという不毛に落ちこむこともある.我々が指摘したいのは,その種の不毛を回避するための,一見したところではマイナーなことの重要性である.
 開発と技術との関係は,開発にさまざまのレベルとスケールがあるように(たとえば,村落レベルの開発から,一地方全体,全国,または諸国間の開発まで),それに対応して選択され関連させられる技術の種類もレベルも規模も多様なものとなる筈である.だから,開発問題と技術移転の無雑作な結合には疑問を呈したくなるのである.
 技術は,目的・手段関係でいえば,開発の手段である.目的・手段の対応関係は,つねに,単一目的に対して多数・多様の手段が選択可能であることを,論理的な前提とする.目的と手段とが,1対1の対応である必要はないし,そうでない方が好ましい.けれども,完熟した技術の場合だと素材も工程も設備も標準化されていて,製法・利用機器・操作技術なども固定されている.各国民がする自力での選択と改良の余地はほとんど残されていない.だから,対応はここでは事実上1対1であり,そのことで「開発」自体がその手段である筈の技術によって逆に制約されてしまう.ここから「開発」の技術問題が始まる.経済的には技術の不経済[デイスイコノミー]が強制される.だから,対応策は(a)標準化される以前の,多様な対応をもっている技術を注意深く検討しなおすことであり,(b)それを「開発」目標に合わせて修正・加工すること,しかなくなる.各国にとって,それこそが「別種の技術」(alternative technology)であり,高度技術(high technology)なのだと我々は考える.
 開発の具体的な経験に即して一般論を言えば,近代技術は移転自由だが接合自由ではないから,周辺条件と先行条件からの制約があって,技術選択には極めて狭い範囲のオプションしかないことが普通である.つまり別種技術化および自国向けの高度技術化の機会は極めて小さい.しかし,そこにしか解決はない.それ故にこそ技術問題は開発にとって切実な課題となるし,それは技術学と技術史についての広汎な知識を必要とすることなのでもある.
 だから,国際連合大学の文書が言うような開発と技術との一般的関係は,技術の通時代性と通文化性という一面のみが,楽天的に誇張されているとみてよい.そればかりでなく,技術の〈突破力〉に対する無差別で過大な期待さえ紛れ込んでいる.それは,「開発と技術」に関する問題の具体的内容が未整理のままである現状の反映でもある.その現状は,他方で,別種の技術や中間技術論の提起ということにも,反映している.
 むしろそこにこそ,過去30年にわたる諸国民の痛切な経験が認められる.そこに,「開発と技術」をめぐる期待と現実の相剋,意志と能力との乖離,手段発見の緊急性がある.
 そうした今日の開発問題の複雑さにくらべると,「日本の経験」が提供できる情報は単純すぎるに相違ない.それでも,後発者としての経験なのだから情報が殖えることは悪いことではない筈である.
 さきにも述べたように,技術(移転)の政治学に我々はできるだけ立ち入らない.それは,すでに戦後技術について述べたことからも判るように政治の重要性を認めた上で,技術内的な解決ができるものに政治を介入させないためである.こうした価値自由な我々の対応は,したがって,一貫した方法的立場と問題意識に裏付けられた具体的な事例研究による論証であって,思弁的かつ抽象的な論理の展開ではない.我々にその用意がないのではない.だが,ここではしないのである.我々の方法は,具体的・個別的な事例研究の中から一般化への契機を探り当てようとするものであって,その逆ではない.
 それが具体的な事例を媒介にした「対話」への期待に支えられている.とは言え,我々はその結果に過度に楽観的なのではない.各国民ごとに,パーセプション・ギャップがあるし,また問題についてのイメージの相違もあるからである.言わばそのこと自体が我々の現在の姿であり,問題なのだから,それを極小化する努力が継続的かつ多角的になされなければならないだろう.それが「人間と社会の開発」プログラムの提起している方法的「対話」なのだけれども,まったく妥当かつ賢明なことである.
 この意味で,社会科学の方法と作業には国境がないとしても,社会科学者のすべてが国籍をもっている.かれらの問題発見・問題構成および研究作業の展開は,個人差があるにしても,それぞれの母国の現実に根ざしており,歴史的・社会的に形成されたものである.だから,それらは何時,どこででも,時限的であり,特殊的である.それぞれの国民が直面している多様な現実のなかに共通性と一般性をさまざまのレベルで確認することが,我々の課題とする理論形成の出発点である.
 だが,今日までのところ,我々が期待する仕方でそのような理論形成は果たされていない.我々の作業は,その遠い遥かな目標にむけての一つの試みであり,全面的「対話」のための方法的序曲なのである.したがって,我々の作業も修正や訂正を当然受ける筈だし,ここでの我々の作業方法は多くの方法のうちの一つに過ぎない.方法的一元論は我々の採るところではない.
 それと全く同じ論理と理由から,「日本の経験」が規範化されたり・普遍化されたりしてはならない.同時に,軽視されてよいことではないし,ましてや無視されることは断然拒否する権利を,他のすべての諸国民と共有している.
 我々の方法的多元主義は,それ故,諸国を横断する分析方法や,通時的な作業視角がもつ実績を拒否するのではない.むしろ,それを不可欠の基礎的作業の一つとして評価している.だが,そうした立場からする技術問題への提言は,すでに出尽くしたとは言えないだろうが,さまざまのレベルで多様化し個別化してきている開発問題の具体的な期待と必要に見合った回答を,方法上からも提起し難いことは確かである.かつては,その方法だからこそ,期待を満足させえたと言うこともあるだろう.だが開発問題の重心は別の局面と方向とに移動してしまった,とみられてもよい.また,そのような科学的立論や問題提起では処理できない別の内容をもった問題が新たに重要性をおびて浮上してきたと言う方がよいかもしれない.その時点で「日本の経験」への関心も生まれてきたと言えるのであろう.
 さて,この時点で確認しておきたいのは,社会科学は必要であり有効であっても,万能ではないことである.あらゆる科学の場合と同じく「過ちを犯しうる」のである.社会科学の有効性には状況的・時間的な制約があることを自覚していなければ,それこそ科学性を失うであろう.このとき「社会科学」とは,現状の確認(歴史的研究)をふまえた理論化に支えられて,政策的提言をできる知的営為という意味である.
 開発問題の最終的で決定的な解決は,各国民だけのものである.それでなければ国民的発展(nationl development)は達成されない.それが達成されなければグローバルな悲劇になる.我々は,各民族の事業に協力できるにすぎない.「日本の経験」の有効性も無効性も,その価値を判断するのは,第三世界の知識人たちである.国により,開発問題の内容にてらして異なる評価が生まれるだろうし,それで当然なのである.
 知的営為一般の例にもれず,「日本の経験」に関する期待が膨張し,知識と情報とが一定量に達することで,関心の内容が多様化し,要求水準も高くなってきている.
 その時には,「知りたい」という要請に応えて「知らせてやれる」ことと,日本人として「知らせたい」こととの間にギャップが生まれてくる.知識と情報の絶対量が不足である時には,関心が,均衡と関連とを失ってしまい,部分化・尖鋭化されて,一方的な断定になりやすい.それをさせないための努力をすることが,我々の仕事としては,高い優先度をもつ.他国を正確に深く理解することはまことに難しい.しかし,他国についての正確な知識と情報は,自国を認識する助けになる.
 我々の「日本の経験」への接近は,多様でさまざまなレベルにわたる開発の問題群または問題塊を,発展途上国での生活体験・実態調査旅行・各種の学術情報,そして何よりも発展途上国の知識人たちとの直接かつ継続的な「対話」によって,いくつかに整理して枠組を構成することから始まった.その作業仮説に即して,その種の問題が日本では如何に克服され,また何故克服されずに今日に至っているか,を説明しようとした.その意味では,我々の「開発」問題の把握は未だ中間的・暫定的である.
 5年間におよんだ本作業の過程で,1929年いらいの世界大不況に直面して,諸外国(とくに先進諸国)から技術にかんする「日本の経験」への関心と情報需要は急増し,強化されてきた.それは切実な現実的困難の反映であろうが,そういう期待に我々が応えうるのかどうか解らない.もともとの我々の出発点とは異なる情報需要だからである.にもかかわらず,開発問題の緊急性が加重されていることを感じないではいられない.そのことが,このプロジェクト作業には未だいくつもの不足と不備が残っているにもかかわらず,「対話」の必要に見合い,またその「対話」を介して修正と補足とが加えられるためにも,総括を急いだのである.だから,本書は私一人の責任でなされた総括であるし,決して最終的・決定的なものではない.だが,精一杯の努力の成果ではある.たとえば,本書の第1部「戦後日本の技術」発展はプロジェクト作業では取り扱わなかったことである.

 Ⅱ 問題の所在(2)
   ――内からの対応――

 (1) 経済と技術
 日本の「開発」と技術の関係は,これまでの日本の研究史に即して言えば,次の二つの方法的立場があって,相互補完的である.
 (1) 技術を経済の従属変数とみる立場.
 (2) 技術には固定のメカニズムがあって,技術外的要素とは相対的に独立である,とする立場.
 (1)の立論と結論を要約してみよう.
 19世紀の中葉に日本は,すでに産業革命を達成したヨーロッパ列強から「開国」を強制された.開国に当たって,圧倒的な軍事力の格差を背景に不平等条約を押しつけられた日本は,植民地化の危機に直面して,自力で近代国家に転成する他に独立を維持する途がなかった.それなのに,旧政権は近代国家に転成する指導力をもちえなかった.新政権=明治政府は,富国強兵を政治目標にかかげて,国民的合意をとりつけ,「維新」という一連の政治・社会改革による「脱亜入欧」を強行する.
 国家権力の主導による経済開発は,軍事力強化を第一目標にして,積極的な技術導入により,有司専制で行われた.だから,「富国強兵」化は,経済発展の「自然史」に即してではなく,「上から」の資本主義化という形で行われた.したがって,「開発」は内からの抵抗を抑えるためにも,国防上の必要からも,「兵器独立」=兵器自給の工業化が中心になった.しかし,その工業化のためには外貨源をもたねばならず,外貨源となる産業への技術移転も国家の手で行われた.官営工場である.
 19世紀末までの日本の産業技術は,前近代的な手工業が圧倒的な多数の中で,例外的に少数の官営工場が輸入の近代的機械設備を誇り,民需ではなく官需をあてに経営されていた.したがって,輸入品より高価につき・品質も耐久性も劣るという意味で,経済的合理性は無視されていた.その結果として新政府の財政問題が深刻になると,官僚的経営では採算がとれなくなったこれら官営工場は民間に払い下げられる.その時,設備だけでなく技術者も労働者も同時に転籍されたから,ここで大規模な技術普及(または第二次技術移転)が行われた.
 陸海軍の工廠は,そのまま官営として残されたが,ひときわ高い設備と技術とをもっていた.この軍民=官民格差は,エネルギー利用においても,人力または水力と蒸気力の相違として,出発点からあった.
 それ故,日本の工業化,あるいは「産業革命」の名で呼ばれる近代的な国民技術体系の形成は,官と民,農業と工業,大経営と小経営,重工業と軽工業(および手工業),中央と地方という二重構造を内容として完結されてゆく.
 このように(1)の立場は日本の近代化を性格づけるのである.勿論,そこでも政府が万能だったと言っているのではない.また万能でありうる筈もなくて,民間からの積極的な対応があった.それは新政府成立後20年ほどして,「官業払い下げ」のあとに,一大「企業ブーム」として展開された.技術移転による産業革命の開始である.その中心は軽工業であり,とくに繊維・食品加工であるが,鉱山と鉄道の開発が先行または並行していた.
 明治政府は,外にむけては国民主義的であったが,内にむけては国権主義的であった.そして「上から」の開発の強行であったから,本来は資本主義の悪(経済悪)とされてしかるべきものまでが政治悪(国家悪)とみなされやすかったのは自然であり,一連の都市暴動・農民一揆が繰り返されてはいた.だが,それにもかかわらず,反国権的であることが対外的に国民主義の否定にはならなかった.それが明治的情況である.
 この立論から見通すことができるのは,日本の工業化はおおよそ軽工業から重工業へという「自然史」的展開を,「上から」の資本主義化であったにしても,経過してきている,と言うことである.しかし,具体的内容に即してみると,官民格差という初期構造が基礎となって,技術格差ばかりか技術開発能力も格差のあるものに固定されて,大資本優位の体制ができてきたことを指摘できる.
 かたわら,技術自体が価格をもち,技術はその開発に費用がかかるものだから,技術は経済のメカニズムに従属する他ない.後発者は,絶えず先発者の技術力(と技術開発力)との競争にさらされる.だから,官・民の大企業内部に移植・定着させられた技術と工程の一部は,内外の技術競争と技術革新に対応した危険分散対策,そして固定費用軽減策として,別会社に分離・独立させることが珍しくない.また技能工も,好況時には,転職したり離職して自営に転じた.こうして分離・独立して自営業者になっても,かれらは主要かつ不可欠の製品・部品の納入者・加工業者として,技術的・経営的に親会社に系列化されている.この中・小企業の多様さと技術水準の高さが,実は,日本の技術力の基礎である,と評されている.
 その一方で,中小工場は親会社の技術革新への同調がおくれたり,技術の自己開発力がなかったりすると,系列から脱落する.逆に充分な実力(技術力と開発力)が涵養されれぱ,取引関係を拡大して,安定した地歩を確立できた.この工程分離の過程は,親会社からみれば緩衝機関[バツフアー]としての技術的スピン・オフであり,資本の論理による工程の編成換えである.日本では,企業規模による賃銀格差問題という意味での二重構造問題,あるいは大企業の経済的横暴ないし収奪問題という意味での中小企業問題として,今なお,批判的な研究の対象となっている.こうしたスピン・オフから一大技術者集団の形成に成功して世界的な大企業になった例もあるが,反対に,次々とスピン・オフさせたために,固有の自社技術が必要となった決定的な時点で技術能力の蓄積を欠き,経営が破綻した例もある.どちらも砿山業の経験である.と言うことは,近代的な鉱・砿山の開発が複合的な技術の体系を必要とするものであること,そして経営と技術との関係について周到な検討が必要であること,を示唆しているだろう.
 さまざまの問題的内容をもつ経営=技術上の二重構造は,戦後になって高度成長期に解消された,という見解も経済学者の中にはあるが,いまなお大工場の内部で,本工・下請会社工・臨時工という職種・技能・給与・福祉厚生施設利用上の相違をふくむ労働内部における二種構造として残っている.この部門では,生涯雇用は定着せず,転職率も高い.総じて,急速な技術革新とリーディング・セクターの交替が,日本では全国的な産業別労働者組織の成立に馴染まないこと,そして労組が企業別組合であるところに,この労働編成内部の二重構造の背景はある.
 近年の著しい技術革新は,全世界的にみて1960年代以降に原理的な技術的変化をともなってはいない既成熟技術の分野では,規模の利益の追求にむけての大型化・高速化・自動化の方向にそってのみ展開してきた.一般的に技術が標準化されてしまっている分野にはその傾向がみられるのだが,そのことはかえって,ある種の技術分野では,たとえば工作機械などでは,技術開発能力および超高度の特殊な熟練技能の蓄積に,中小のスケールこそが最適規模である,という事例を続出させている.しかも,それが最先端技術に多いことは注目してよいだろう.
 こうしたことは,日本的工業化の内容として(1)の立場の分析から明らかにされることで,いまなお二重構造は,形態と水準を変えながら,存続している,とみてよいだろう.しかし,発展途上国をとりまく二重構造問題は,国内的であるばかりか,国際的な構造に制約もされているから,日本の二重構造とは質的な相違をもつものとして把握されなければならないのも確かである.
 他方,この二重構造は後発者の工業化には避けられないものだと,仮定してみてもよい.
 途上国の研究者と日本各地で工場見学をした時,かれらは,競争原理に媒介された共棲関係である二重構造のシステムが機能していて,雑然と相互に無関係に併存しているのではないことに,鋭く反応していた.また,ある輸出専門工場では,かれらの母国にくらべて,その規模の小ささと設備の古さ,しかしそれらを埋め合わせる高い操作技術と経営能力に注目していたことを,思い起こさせる.
 それは,かれらにとって「日本発見」であったにしても,同時に,日本人の日本認識が現在の「開発」問題には制限づきでなければ適用できないことを明らかにしてくれる.日本人にとって当然すぎることが,かれらにとっては当然ではないのである.それは確かに,歴史の相違ではある.だが自然の相違,自然がもつ生産力に対する制約の相違でもある.だから,その歴史と自然の相違は「発展段階の相違」に無雑作に解消してはならない.そうなると,(1)の立場に立った分析は,さらに注意深い各国・各産業別の事例調査によって,適用の可否と限度とを明確にしなければならないのであるが,それは日本人だけの作業でできることではない.国際的な共同作業でしか果たせない課題となる.その「対話」の開始のためにも,「日本の経験」は従前の接近法に追加する多くの目配りがないと,有効な論理とも分析ともなりえない.この意味で,諸外国からの協力者をえていたとは言え,我々の作業は未だまったく端緒的なものにとどまっているのである.
 (2) 技術の論理
 (2)の立場は,技術移転そのものが非常な困難をともなうことを明快に指摘できるのが特徴である.技術の移転が「自然史的に」なされるとみなす(1)の立論とは対照的である.(1)の立論が結果論なのに対して,(2)は始動と経過に注目する.そこでは,技術の問題が技術「内」問題ならびに技術「間」問題として,具体的かつ詳細に検討されるので,技術問題に相対的な独立が与えられ,政治や経済の論理に埋没させないところに特色がある.
 だから,(2)の立論は(1)の論議を具体的に,かつ精密に検証し補完できる.技術内メカニズム(技術法則と言ってもよい)は任意に変更や修正ができないことに,この立場は関心を払う.とくに,技術移転が政策的・意図的になされた場合について,その成功または失敗が技術的理由によるものか,技術以外の理由によるものかが解明される.たとえば,ある技術が移転されて,一旦は所期目的を達したとしよう.それが間もなく故障をおこす.その時,故障の理由が何であるか,原料に問題があったのか,操作が拙劣なのか,保守・修理ができなかったのか,経営(=技術管理)が失敗だったのか,計画自体に無理があったのか,を明らかにすることができる.それらは,大情況に制約されてはいても,大情況さえ左右する小情況の具体的な説明となる.
 明治以前に,九州のある藩(佐賀)が試みていた蒸気機関の製造について,当時合法的に日本に駐在できた唯一の西洋人であったオランダ人商館長は秘密報告で次のように報告している.「日本人は,製造技術を唯造作なく,直ちに修得できるものと想像している.けれども,設備はまったく不完全な溶鉱炉,鋳型工場しかなく,品質の悪い鉄を不充分な機械で未熟な職人が加工する.意志はあるのだが,手段がないのである」(大意)と.
 この短い通信が当時の技術事情を描写している.完成品としてみたものを手本に,技術書を頼りに手探りで製造しようとしている有様なのだが,耐火煉瓦も不充分ならぱ(同藩領には資源がなかった),溶鉱炉の内部設計も必要温度も分からない.したがって,どのような品質の鉄を,どのように加工するのかもノウハウがないままに,苦心惨憺していたのである.欲しいもの・造りたいものの見本はある.けれども,手段(すなわち技術)が分からなかったのである.原料,燃料,工具,機械,製法のすべてに問題がありすぎたのである.この商館長がエンジニヤであったかどうかは分からないが,かれの見聞しているところからすれば,それ程の技術格差があった.技術要素のどこかにだけ問題があったのではない.すべてに問題があったのである.だが,注意すべきことは,それが在来の技術と技能との総動員によってできる・不可能ではない,として挑戦していたことである.
 それを無謀とみるか,野心的な開拓者の姿とみるか,は意見の分かれるところであろう.
 (2)の立場は,さまざまの技術要素が低レベルでもすでにあった,ということに着目する.それらがそのままでは使いものにならず,それぞれが技術的に高度化された上で,全体が再設計しなおされなければならなかったにもせよ,先行する技術としてすでにあったことと,それがなかったことの落差の大きさを指摘するのが(2)のユニークな視点となる.
 240もの大小領域=藩に細分されていた当時の日本では,原・材料条件が全国各藩で一様ではなかったから,大工,石工,鋳物工,鍛冶工,陶工などが蓄積してきている経験的な知識と技能を全日本的な規模で工学的な理論にまとめあげることができなかった.それは政治的に不可能なことであった.だからこそ,幕末の洋学者たちの自然科学知識は,政治体制への危険な批判と同じものとして,断罪される(「蛮社の獄」,1839年)のであった.爆発的な西欧科学技術導入が始まる明治維新のたった30年前のことである.各種の職人たちが科学の言葉を理解していなくとも,ストックしている経験的知恵を的確に評価し活用できる・近代科学の洗礼を受けた「技術者」が,明治維新によって政治的に断罪されなくなった.在来の技能と経験的知恵を活用することは明治政府が雇い入れた外国人には期待できないことであった.後に述べる機会があるように,「お雇い」たちが移転したのは,それぞれの母国での技術そのままであったし,成功著しい製糸の場合でさえそうであったように,外国人技術者というものは,どこでも何時でも,技術の通時性と共通性の信奉者である.そこにこそ,かれらの有用性と限界とがある.製鉄に典型をみるように,日本人エンジニヤだけが結局は技術を安定させるのである.技術は安定されることで,普及するのである.
 (2)の立場をとる学者たちは,「技術に飛躍はない」とのことを強調する.
 垂直的にも,水平的にも,飛躍的な発展は操作および製作上の技能のストックがあって初めて実現が可能になる,と言う.技術的ストック活用の過程に関心をもつのである.素材・加工・設計の技術が別々に発展させられたあと,それらが収斂されて初めて工学的な理論水準が高められ,そのことによって技術的応用範囲は拡大される.その過程を各国,各時代,各企業に特殊な技術的個性としてとらえるのである.
 さらに重要なことは,(2)の立場では技術要素としての人間,つまり労働の役割,とくに技術者[エンジニヤ]と熟練労働者とが不可欠であることに注目する.機械・設備が標準化・固定化されているときには,当然,各国・各地方・各工場ごとに生産および生産性に格差が生まれないものと想定されやすい,だが,事実はそうした想定をくつがえす.操業条件は各工場ごとにさえ一律ではないのである.
 一律だと仮定した場合でも,工場ごとに差が生まれるのは,まずもって,技術における人間的要素に帰す他ないのである.前世期の後半に,当時最新鋭のリング紡機を,日本の紡績工場では採用していた.ミュール紡機にくらべてはるかに操作性のよい,したがって英国でのように3~4倍も能率があがる筈であったのに,日本では旧式機械を利用する英国工場にくらべて,約3分の1しかあげられていない.甚だしいところでは,8分の1でしかなかった,と当時の報告は述べている(農商務省編『職工事情』,1903年).
 この報告は,英国の紡績労働者を長年の訓練をへた正規軍兵士に,日本のを「烏合の衆」にたとえて,平均勤務年数の極端な短さを指摘している.とくに,2ヵ月ぐらいでの退職が多いことは,今日の我々の注目をひく.社会科学の理論は農民の労働と工場労働者の労働とを同一のものとしているが,そして理論的にはそれでもよいのだが,具体的に言えば,農民が即座に工場労働者にはなれないのだと言うことを,さきの「報告」から抽き出せるだろう.
 同様のことは,東南アジアに進出した時計工場やカメラ工場でもおきている.最終製品の規格検査合格率は,当初,日本での10%でしかなかった.この2例が意味するのは,農民的勤勉と工員的勤勉とは,周辺条件がまったく違うので,互換性がないと言うことである.近代機械は熟練節約的になっているから,単純な用具・工具に依存していた時にくらべて熟練・未熟練の生産性格差は確実に縮小された.それにもかかわらず,その差は依然としてなくならないのである.と言うことは,機械系の技術ばかりでなく,技術一般について言えることだが,熟練(または経験の蓄積)という人間的要素が何時でも・どこででも技術には不可欠だと言うことなのである.機械も設備も変化する.それにつれて熟練の形も内実も変化はする.だが,熟練そのものはどこまでも不要にはならないのである.
 もう一つの例をひいておこう.
 世界で最も新鋭の設備をもつある製鉄工場のことである.各工程の情報がオートメーション化されて中央管理室に刻々伝達されてくる.プログラムの通りに稼働していない工程があると即座に信号があり,対応策がとられる仕組みである.ある時,プログラム通りに稼働していない旨の信号があり,所定の対応をしても効果がない.連続的な工程だからトラブルはたちまち下流部門全体に波及した.各小工程間のチェックでは問題がないことも確かめられた.プログラム自体に欠陥がないことも判った.けれども依然として対応に効果がない.
 オートメーション化されているのだから,記録を検討すれば,たちどころに問題は解消される.だが,そのためには2週間を要する.2週間もの間,操業を中止はできない.発注者からのクレームは当然あるし,納品おくれにともなうペナルティも課せられよう.また,不良品の処理(他の製品への転用や再処理による利用)問題もあるが,何よりも重要なのは,操業中止によってある設備は廃棄されなければならないことさえおきる.つまり,操業をしながらトラブルを除去しなければならない,のである.
 この工場では,すでに引退した他工場の老熟練工やベテラン熟練工の協力を仰いだ.急遽,チャーター機で運ばれてきたかれらが,各設備・機械のある諸工程現場において,音や光,温度や加工過程での形状をみて即座に対応を指示したら,一連のトラブルは次々と解決された1).
 オートメーションにしても,それは熟練工の動作や判断を基礎にしてしか設計されていないものであり,機械はつねに高い能力をもつ人間にはおよばないのである.そうした熟練に基礎をもつ高い能力は,継続的な安定操業に入っているオートメーション化された近代工場では,もはや重要性はかつてほどでないが,起業時と定期的修理を経た再開始期でこそその威力を示すのである.化学工業では,起業と定期点検後の再開のみを専門とする熟練者集団や企業が生まれてきている.それがオートメ化にともなう熟練のひとつのあり方と言うことになる.
 原理的に,または理論的に,確実に可能性があることでも,それを生産技術化することはまったく別のことである.生産技術は,停止条件つきの実験とはまるで違う制約と条件のなかで,確立されなければならないからである.そこにも科学と技術との相違がある.医学的に正確な診断がつくことは完全に治療できることを意味しないのと同じである.
 [注]
 1) 7年余も前と現在とでは,オートメーション機構の能力が違っている.とくにセンサーの高度化が著しい.それがまたプログラムを精密化させることになっている筈だ,とある技術者は指摘した.多分,かれの指摘は正しいだろう.
 にもかかわらず,コンピューター化が,また高センサー化が,熟練労働者のレベルに達したということにはならないし,そうなるべき理由も,原理的に(技術上,経済上)はないのである.コンピューター化は低位の熟練を高度化し,ときに無用化するけれども,高度の熟練そのものを追放できるのではない.だが他方で,高度な熟練形成の機会を奪うものであるところに,ME化の別の問題が近未来に待伏せている.

 Ⅲ 問題の所在(3)
 ――何故,明治維新から始めるか――
 (1) 自立への60年
 開発と技術移転をめぐる「日本の経験」を検討するプロジェクトの作業報告の冒頭に,我々が研究作業としては取上げていなかった「戦後日本の技術」についての私見をおいた.
 その理由は,これまで繰返してきた「対話」のなかで,対話者たちの関心がそこに集中していたからである.
 戦後日本の技術発展は戦前の技術水準に基礎があったからこそ可能だったのであり,それがなければとうてい不可能なことであった.このことは重ねがさね強調されてよい.何となれば,技術移転が可能な条件は日本にだけあったのではないからである.戦後になって,日本は初めて完全な技術的自立を果たすことができたことは確かなことながら,それは戦前水準の回復ということを介してだけできたことであり,回復から自立に至るのであった.回復が技術移転能力を保証したのである.勿論,回復そのことが技術移転をともなうものではあったが,回復の仕方は非軍事化の方向にむけたものであったことが重要である.そこに戦前と戦後の技術形成の決定的な相違がみられる.工業化・高度技術化は潜在的に軍事的利用を可能にするものであるが,それが直接目的でも究極目標でもないことが国民技術の再形成の内容を異なるものにしていた.
 第2次大戦後においても,日本は確かに後発者であった.戦争中の技術的鎖国状態が日本技術に開発能力を失わせたのであった.だから,いまなお日本は,後発者として,発展途上国とは,時間差をもちながら共通の体験を分け合っている.両者の間にある相違は,国民的技術の形成の水準とその規模における相違として認められる.この意味で,我々はさきに日本を後発者の最前列にいるものとして位置づけたのである.
 この位置づけからすれば,「日本の経験」と他の発展途上国民の経験の相違を明確にするのは,国民的技術の形成の仕方と形成の過程であり,国民的技術形成の時期の相違である,ことになるだろう.他方でまた,それは,その時期の相違による技術水準の変化ということとも関連づけられなければならないだろう.技術の水準(とそして規模)の変化が技術移転の難易に密接な関連をもつからである.
 国民技術の形成を,技術移転によってなしとげた「日本の経験」の検討は,それ故に,技術水準の変化に対応した技術移転の諸段階に即してなされなければならないのは当然である.そのさい,とくに,技術移転の開始期が注目されることになる.のちに技術形成の方向と速度とに影響をもつからである.つまり,日本の「原」経験は明治維新に遡らなければ解明できないことになる.
 明治維新そのものは政治的転機でこそあったが,純技術論的にみての転機ではなかった.しかし,政治的転機によって技術的転機は創り出されたのである.
 別の見方もできる.幕末以来の技術導入は,前近代的な政治・社会体制下では,定着と発展の条件をもてなかったし,明治維新によって初めて,それらの条件が創り出された,とみてもよい.
 同様に,第2次大戦後の技術発展上の転機もまた敗戦という政治的大変化が生んだ一連の改革ぬきには創り出されなかったのである.
 明治維新にしろ,敗戦にしろ,ともに技術と政治・社会体制の関係を明示するものである.しかし,明治維新と敗戦とでは,その政治・社会事情がまったく異なっていた.明治維新の方が,技術的にみれば,より決定的な転機であった.
 農業社会が工業社会に自己転化を試みた時期だったからである.この点で戦後は,工業化の一応の基礎の上に立った方向転換と水準の高度化ではあっても,「原」体験ではない.「第二次」体験は,原体験ほどに長期間にわたる苦痛にみちたものではないところに特色がある.
 (2) 自立が加速する技術移転
 だから,工業化の開始にともなう社会的・文化的な衝撃も摩擦も,明治の方が深刻であった.外国技術への瞠目という点では,明治も戦後もほとんど変りはなかった.いわば盲目的なまでの外国技術崇拝がこの二時点を特徴づけるのだし,洪水のような技術移転でこの両時代は共通しているが,移転技術の吸収力という点では確然とこの二時期は区別されている.何故,その確然たる相違が生まれたか,と言うことになると,我々は再び国民的技術の基本的な形成がその中間の時期(1920年代)にすでになされていたからだ,という指摘を余儀なくされる.
 1920年代も,そして,1960年代もだが,国民的技術の形成(および,それへの回復)が外国技術の排除に向かうよりは,かえって外国の高度技術の移転を容易にし加速するものであった.
 こういう歴史的背景があるからこそ,後発者としての「体験」の総括は,まず,明治維新から1920年代までに,第一次的な焦点を合わせることを必然たらしめるのである.
 発展途上国と日本とが共通に分け合うのは,基本的に農業社会であるものが,工業社会に転成・転化する社会的・技術的諸問題なのであるけれども,いま発展途上国には全面的な工業化の拒絶という選択も勿論可能である.そして現にそれを言う国民もある.美事な選択である.だが,すべての国民がそれを選択できる訳ではない.日本は農業社会との袂別を1世紀も以前に国是としてしまい,それに国民が合意を与えてきた.このことの重要性は特筆に価する.
しかし工業化に合意した国民も工業化のすすめ方については是非の反省を繰り返し噴出させてきた.いまなお,日々に新たでさえある.だが,近未来には農業杜会への回帰を望めないところにまで日本はきてしまった.
 しかし,日本の工業化と人口増加をこれまで支えてきたのは農業生産力の増大であった.初期工業化を支えてきた農業は,今日では,農業機械,肥料,農薬で工業への依存を深めている.工業なくしては日本農業はもはや成立しない.このことが,農業立国を選択している諸国民に対して工業化の全否定では近未来に困難があるのではないか,という感想を我々に抱かせるのである.
 とくに人口増加の著しい諸国についてはそうである.日本がアジアで孤立して工業化の歩みをすすめざるをえなかった時代と今日とでは,事情はまるで違っている.だから,かつての日本ほどの困難と苦痛を経なくて済むだろう.にもかかわらず,別種の困難や苦痛がなくて済むとは誰も思わないだろう.
 後発者日本の「経験」から,困難と苦痛を軽減するためのヒントを掴み出して欲しいというのが我々の希望なのであるが,日本人として「日本の経験」を総括する時には,近代化の「原」体験としての明治維新から始めるのが今なお日本の知的状況であり,知的遺産である.だから,技術をめぐっては,世界的な規模での技術独占体が成立した時期から研究を開始した方が今日の発展途上国の開発問題とのレレヴァンスは大きいのではないか,という指摘は繰り返し慎重に検討した.けれども,結局はその立場を採らなかったのである.その理由を改めて,一つだけ言えば,世界的独占体がもつ技術はいつも最先端技術に限られているということであり,最先端技術だということでかれらのもつ技術のすべてが「開発」に合目的的であるとは言えない,とするのが我々の判断である.それよりも,いま緊急なのは「中間的」な技術であり,別種の技術体系(alternative technologies)だという判断なのである.
 (3) 農業社会から工業社会へ
 明治維新が農業社会から工業社会への転機であったということは,さらに,次のことを意味している.全国的な規模において農民が工業労働者およびサービス部門の労働人口に変身していったことである.
 一般的に言えば,農民が工業労働者に転化することは,長い時間のかかる苦痛にみちた個人史を経験することである.個々人がそれぞれに新規の技能と熟練を獲得し形成しなければならないからである.
 工業化の初期においては,農民から工員になることと,その逆である工員が農民になることは,何れもできることではある.けれども,工業化の進展につれて労働力の互換性は失われる.農民が工業労働者になることさえ次第に困難になるのと同時に,工業労働者が農民になることもできなくなってゆく.農民は単純労働の工業労働者にしかなれない反面で,工業労働者は農民ではなく農業労働者にしかなれなくなる.産業的には農家は次第に農業に専業化・特化してゆき,農家副業であったものをことごとく失ってゆく過程でもあった.
 その転機は明治維新と共に始まり,ゆるやかなテムポでひろがってやがて日本社会全体をおおい尽くしてしまった.こうして日本社会は工業化社会への移行を完了した.そして,牧歌的な農業杜会への回帰が不可能になった.
 この社会変動の過程で,農村出身の婦女子が果たした役割は絶大であった.工業化社会への変化をリードしてきたのは,日本でも繊維産業であったが,1910年頃までは日本の産業労働力の過半は女子労働者が占めていた.軽工業リードの段階がすぎて,重化学工業化がすすむにつれて成人男子労働力が女子労働力を数の上で越えるようになる.また,高級マンパワーとして国家目的にそうべく養成された人材である,東京と京都の帝大卒業生が,官吏になるよりも,実業界つまり財閥系大会社と銀行に入るものの数の方が多くなったのもこの頃(1917年)からである1).
 日本技術が自立に至るまでの時期を支えたのは,激しい長時間労働に耐えてきた若年の婦女労働であった.農村から押し出された労働者の家庭では,家長である成人労働者の賃銀だけで家計を維持することができず,妻子ともども雑役に従事したり,家庭内での内職から補充しなければ生活できなかった.この状態をある学者は,完全雇用概念と対置されるべき「全部雇用」と命名している.それは紡績工場で働く若年婦女子の安い賃銀でさえもが全部送金されて,農家家計の補助にあてられていたのに対応することであった.
 したがって,技術移転の政治学から問題は始まったとしてもよいが,それはすぐさまに技術の社会史と技術移転の経済学に移行しなければならないのであり,それはともども技術の社会学と技術移転にともなう社会変化の研究で総括されなければならないのである.
 この故に,第2次大戦後の技術発展に注目しても,その前史の研究をぬきにしては正確かつ具体的な「日本の経験」の分析にはならないので,「後発者」としての体験を典型的に共有していた時期から,すなわち明治時代から我々は研究を開始したのである.
 そのことは,断じて日本の歩みの通りを他の「後発者」たちが踏襲しなければならないことを主張するものではない.工業化のためのエネルギー源が石炭でなければならぬ理由がないように,原子力の選択が必然なのでもない.風力でも,水力でもよいのである.
 確かなことは,工業化の初期,農業社会から工業社会への移行期にこそ問題と困難が多く,その不可逆行点への到達に長時間かかるということである.日本の「経験」からすればそこまでに60年かかっている.そのあと世界のトップ・レベルに到着するまでが60年であった.全時間の半分が,不可逆行点に至るまでにかかっている.それでも,ヨーロッパ諸国に比べると早い追い着きではあった.後発者の不利益を越えて,利益のみを享受するためには先行者の経験を周到に分析し,分析した結果を理論化して,具体的な政策に適用することである.現に日本の周辺諸国は,日本の半分の歴史で製鉄技術をマスターしてしまっている.各国民が独自の技術自立策を確立するための情報素材を我々は「原」体験にまで遡って提供しようと心に決めたのである.
 [注]
 1) ちなみに言うと,1919年に東京大学では経済学部が法学部から分離独立する.また慶応,早稲田の両校が初めて私立大学として認可され,次いで6私大が生れ1高商が単科大学になるのは1920年であった.日本の工学・技術教育に絶大な貢献をした東京工業大学の昇格はおくれて1929年のことであった.