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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 I 何故、事例研究が必要か
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年

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第4部:I 何故、事例研究が必要か

 技術は如何ようにも論ずることができるし,現にさまざまに論じられてきている.
 だが技術は抽象的なものではなく,具体的かつ日常的なものである.だから,開発と技術をめぐる「対話」は具体的な事例に即して出発し発展させられねばならないし,またそうすることが可能であり,そうすることが有効なのである.
 これまでの「対話」では技術文明論や技術本質論とも言うべき議論にも出合ったが,我々の作業はそういうものとは直接のかかわりがない.「開発と技術」が問題の中心であり,その問題の緊急性は哲学的本質論の大問題をどうするかではなく,具体的な小問題の輻輳を処理できていないところにある.問題としての権威を楽しむよりは,具体的な問題の切実さに圧倒されている.永久的な解決よりは,近未来にむけた現在の中・小規模の問題の小解決の方に関心をもっている.
 それでさえ,解決が即座に可能だなどと考えているのではない.問題の時限的な小解決が次の新しい問題をもたらすことは確かだし,問題の提起それ自体がすでにある解答を用意しているような,そういう小解決しかありえないことを承知で,それを理想としているのでもある.
 したがって,「開発」問題の混乱と解決の模索という現状に対する挑戦が,国際連合大学の提起した「方法的対話」であり,参加して試みるに価する,と言うよりも,すでにその中に放りこまれている実験的実践であると我々は考えた.
 「対話」の方法的意図は,まことに新鮮だが,その成果はまだ多くもないし,評価は定まってもいない.
 また,方法的「対話」という参加者の個別性と等価性を前提とする活動は,これまでのところ,文法さえ確立していないとさえ言えそうである.だから,もうすでに失望の声さえきくし,そこにもっともな理由もある.これまでは確かに方法的無方法が「対話」を支配してきている.だが,その種の失望は希望と期待の逆表現だという意味で,開発問題の性格と現状とを表現している.開発には即効薬もなければ万能薬もないように,方法的「対話」もまた当分はそうなる他あるまい.
 にもかかわらず,方法的「対話」は学術上のpax Romanaでもpax Britanicaでもないところに意味がある.方法的無規定性にこそ「対話」の積極的意味である問題発見的・発掘的な意外性とその切実さへの期待がかけられうる.
 「対話」参加者の作業方法は,それ故,アナーキーなほどに多元的であっても,「問題の共有」があれば無方法のカオスに溺れこむことはない.いま我々に必要なのは,各国の技術問題にかんする具体的な情報であり,その内容の確認である.
 問題内容の確認の仕方も一様・一律であるべき理由はないのだけれども,具体的事例の提示でなければならない.その具体性も,工場レベルの具体性から宇宙的レベルのものまで,「対話」の中にもちこまれてきたが,我々はまず「国民国家」レベルにおける具体性を第1に措定する.「開発」の主体が国民国家であり,開発は主権行為だからである.次いで工場レベルに降りる.
 国民国家は,そのさい,国家間の共同主権行為として国家横断的な開発の方向と,国家内の地方的な開発の方向とを,並行して採用してきている.そこには,国民国家の形成史と国民社会の統合水準とが反映してくる.そうでなければ「開発」は具体性をもてないからである.
 日本は国民国家をすでに事実上形成していながら,国民国家という自覚を持つことが遅かった.「黒船」に開国をせまられるまで,小宇宙を宇宙としてきた.高い社会統合の水準は示していても国民社会という規模で一元的に統合されたのは産業化によってであった.その過程は,国際的な圧力を蒙って,余儀なく開国すること(1854年)から始まった.だから「開国」に先行した「鎖国」(1639-1854年)の評価,したがってまた「鎖国」が形成した地方的な小帰属意識とその上にできた権力機構が,技術にからめて,さまざまに吟味されることになる.
 鎖国体制で完成される日本の封建体制は,ヨーロッパの歴史家が定式化する発展史の図式と国民的規模において符合している.だが,権力と権威とが名目上は併立していた.新しい権力は権威の回復・権威との一体化を,国民国家という規模で実現したのではあるが,新政権成立の10年めに内戦を経験したし,内戦は「開国」いらいの経済的混乱をさらに悪化させて,新生の国家は存亡の危機に直面した.対外的には植民地化の危険も深刻であった.外国軍隊が横浜に常駐しており,日本政府の負担で便益を提供し,治外法権を認めていた.横浜税関は,旧政権の借款を支払うために新政権が抵当に入れていた.関税自主権は勿論のことなかった.
 政治的独立を維持するためには対外負債を清算しなければならなかったし,そのためにも経済開発が不可避だったのである.ヨーロッパ技術の移転による産業革命の達成を不可避の選択として決断する他なかったのである.
 そこに「日本の経験」が開発の経験として検討される問題的レレヴァンスはある.こうした「開発の経験」として近代日本をかえりみることは,日本の学界にはないことであった.これまでは自立と発展(national development)のみが日本の学術的関心であって,日本と先進国とが直接に比較検討されて,アジアもアフリカもラテン・アメリカも視界に入らなかった.
 日本が「開発」にむけて歩み出さざるをえなかったときには,今日のような国際協力の条件は全然整っていなかったので,共同し提携できる近隣諸国がなかった.つねに政治的・経済的なモデルであった中国が阿片戦争で敗北したことは日本の知識層を動転させた.価値の基軸に大転換がそこから始まる.同盟して新しい国際情況に対処するべく李朝韓国と交渉したが,同国の「鎖国」体制は変らず,逆に日本は兄事することを求められて,失敗した.勢い日本は極東に孤立して,自らの手で「西欧化」という近代化を急ぐほかないところに追いこまれた.したがって,その「開発」は性急であったし,性急だったから失敗の連続であった.
 無差別で素朴にすぎた「開発」のための技術移転が一連の失敗に終った結果として,選択的になることを余儀なくされた.野心的・楽天的にすぎた高価な「実験」のあと,やっと現実的かつ合理的なレベルとスケールに修正された技術移転が行われるようになった.
 技術が政府と政治家の手を放れたところから5Msが整い始め,そこでだけ技術は定着した.
 5Msが整い,技術が定着したのはまず繊維産業と食品加工産業など軽工業の分野であり,そして鉱山業であった.重工業はあったものの小規模にすぎず,技術的にはともかく,産業的にはリーディングでなかった.国防に動機づけられた国家的必要は,造船・造兵の目標に合わせて,製鉄を,製鉄のために鉱砿山開発を,鉱砿山開発のために鉄道・港湾の建設をという,言わば「ヨーロッパ近代」の「自然史的発展」の順序を逆にした開発努力が政府の手ですすめられたのであった.だが,工業化の総過程としては,日本もまた英国の産業革命の経過と同じく,軽工業から重工業へという「自然史」をたどってきた.
 しかし,その過程は加速され短縮されている.加速された理由の一つに,あくまでも一つにすぎないのだが,政府の「殖産興業」政策があった.それさえ路線の対立をふくむものであったし,もっと重要なことは開発計画が中央政府のレベルでだけ樹てられたのではなく,有名な衣料メーカーにその名を留めているように,郡や村でも郡是・村是が提起されていたのである.
 そして,「殖産興業」政策そのものにしても,それは明治政府の創作ではなかった.前政権下で,地方の諸藩(たとえば福井藩で横井小楠〈1809-69年〉が実施していた)がすでに経験を重ねてきていたことで,それが全国規模のものにされたのであった.
 国家の必要に合わせた軍事工業化にしても,圧倒的な技術格差は設備や機械を購入しただけで埋まるのではなかった.操作に馴れることが先決であったし,保守・修理に難渋している.
 その前に,機械設備の購入のために外貨は調達されねばならなくて,外国市場むけの製糸技術が官営工場によって導入される.
 人はそこに逆説を見ることになる.工業技術を買うために,まず農業を振興しなければならなかったからである.
 鉱山業も19世紀末までは,銅山が技術移転による開発で実績をあげているけれども,石炭と同じく,内需むけではなく,輸出むけであった.
 農産物および原材料など第一次産品の増産・開発が,まず輸出を目標にすすめられるのは,後発者の工業化にとって不可避なことである.農業が自国の工業に原材料を供給するようになるのはそのあとのことである.
 それ故,どの農業部門がどう開発され,どのような工業技術がどう移転され・定着したかを,産業部門別に,個別の事例に即して検討されなければ,開発問題をめぐる国民的経験は具体性のある情報にはならないのである.