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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 III 農業技術と開発
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:III 農業技術と開発

(1) 開発と農業
開発のための技術移転が最も難しいのは農業である.気象や地勢植生と水利など自然条件が相違しているからだし,その上に社会的・制度的諸条件の制約が重なっているからである.
 農業技術が自然条件の制約と社会システムへの依存で安定しているときには,生産の上限も下限も経験的に予知されている.そのことが扶養可能な人口数と生活水準を限定することになる.その場合,農業技術は,強い自立的体系性を確立していて,安定的・固定的で,新技術が必ずもつ不安定性に拒絶反応を示す.
 だが,ひとたび何らかの理由で,人口爆発がおきると,農業部門はまっさきに対応をせまられているのに,農業技術の固定的で自立的な体系性の故に,重大な困難に直面する.
農業技術の対応は,(1)同一水準のまま外延的発展をとげるか,つまり耕地拡大をとげるか,(2)自成的な高度化をとげるか,いずれかの途しか採れない.幸運な場合は両者を同時に遂行する.
だが,急速な人口爆発,たとえば20年で倍増するような場合には,前記の(1),(2)のいずれにも必要なサープラスをすでに消費し尽くしてしまっている.そして,既存の資源と施設も利用過度で老朽化している.そこに「開発」の基本的困難ならびに緊急な必要性がある.
 そういう発展途上国の現状から,逆照射してみれば,18世紀末からの日本の人口爆発と制度ならびに技術の条件は全く同じ姿であったと想像される.急速かつ異常な都市人口の膨張があったし,明治維新という大政治変動が在来システムの機能を麻痺させたので,自然災害の被害が一挙に深刻化・広域化した.この理由による「潰れ百姓」が激増している.それが都市に流入して貧民と窮民になったことは既に述べた.とは言え,人口膨張は1世紀で3倍になったのだから,今日の発展途上国ほどドラスティックな爆発ではない.
 この問題に,目本は工業化と農業生産力の増大という二様の対応で,一応の解決をつけえた.だが,その代償にコメ以外の食糧については,自給力を失ってしまった.カロリー換算では,西独なみに50―60%の食糧自給力しか今日の日本にはない.
 この自給力低化の理由は,かつての日本農業が複合的作付経営をしていて,工業化の初期には工業への原材料供給力をもっていたのに,いまでは稲作専業に転じて,耕作・経営規模こそ拡大したものの,そのことで肥料・農薬・機械・燃料の供給を工業に依存しており,そこから脱けられないという意味で工業への「従属」を深めてしまったからである.
 日本農業が雑作からコメのモノカルチュアに突き進んだ理由の一つには,近年,栄養学者が明らかにしたように,単位面積当りのカロリー生産ではコメが小麦や薯より格段に高い(ほぼ2倍だ)ということが,味覚という保守的な嗜好とともにあることに注目すべきではあろう.その上さらに,投入労働量からすればコメは小麦の3倍を要するとも言う.雇用吸収効果はコメの方が高いということは,しかし,労働の生産性よりは土地の生産性の方が重視されてきたということであり,ヨーロッパ風に言えば園芸作物的なコメの生産様式が人口爆発に対応して労働力を吸収し,かつ飢餓線のギリギリに農業労働者を追いこんできた,と言うことになる.
 それでも,これは日本農業と農民が示した非常に高い情況適応能力だ[玉城哲]ということではある.その理由としては,日本では小作人であっても経営者であった点に今日の発展途上国との相違がある.結果としてモノカルチュア化した点で,日本農業は植民地農業と同じになったのだが,違うのは日本には工業力ができたという点である.
 しかし,肥料と農薬によるchemical controlのおかげで,世界一の反当り収量を挙げる日本のコメは過去100年以上にわたって有機肥料で確保してきた地力を急速に失いつつある.しかもこの20年間でそれが著しい.地力の喪失が化学肥料の追加投入を招いているのであり,耕地1ha当りでオランダ(789kg),西ドイツ(471kg)に次ぐ世界第3位(372kg)である.作物の相違に注目すれば,米作民族中の最高で,中国の2.4倍,インドネシアの5.9倍,インドの12倍,タイの22.9倍である(1980/81年,FAO調べ.だが,これは自給肥料が計上されていないから,単純比較を許さないことに注意を要する).
 年々増加する新種の肥料と農薬の追加投入それ自体は地力の補填にはならず,かえってエコロジーの変化を招き,かつてレイチェル・カールソンが「沈黙の春」(Rachel Carson,Silent Spring,1962)で述べたような事態が起きている.
 そして毎年,40人以上の農民が農薬の被害で死亡する,と言う報告もある.農地のほとんどは,化学肥料の故に固くなりすぎてトラクターでないと掘り起こせない,と言う.
 勿論のこと,何の対策も採られずこのまま事態が悪化の一途をたどるとは思えないが,急速に克服できる困難だとは予想できない.
 多くの対策のうちで説得力があるのは,コメ・モノカルチュアからの脱出,つまり雑作化の勧めである.それはちょうど,現代工業技術が単品の大量生産から多品種小量生産へという転換によって活路を拓いたように,コメ作から多作物へ経営転換する他ないとする主張である.現に,世界一高価なコメ価で市場を保証されているのに,コメ作専業農民の所得は相対的に低下し続けて,小規模耕作では家計が維持でき難くなっている.それが,第二種兼業(農外所得の方が多い)コメ作農家を殖やしている理由で,雑作化が必要とする膨大な労働力の投入を見込みうるにはすでに農民の平均年齢は高すぎるし,若年の労働力は農業労働の激しさと長さを嫌う傾向が著しい.問題の別な一面である.
(2) 農業技術の変化――土地生産性重視から労働生産性へ――
ⅰ. 「老農」農法
 明治維新に先立つ200年以上もの間,徳川幕府は,さまざまに農業開発を奨励しながらも,自然利用には厳しい制約を加えていた.長期の安定政権が生む官僚主義の常として,時にはナンセンスな管理が行われたのでもあるが,総じて言えば,意外なほどに自然循環の温存に腐心している.この政体の物質的な基礎が農業にあり,農業は自然依存の生産活動だからであろう.「治山治水」論が(米作)経済問題として基本原理になっていたのは,その具体例である.
 「木曾五木」の例もあるように,木曾が天領であったからではなく,諸藩でも森林を単なる木材資源の供給源としてではなく,農業生産と不可分の用水源として保水力を維持・培養するために伐採を厳しく管理していた.小さい雑木の伐採は認めながら,そのことで要木の成育を促していたので,伐採と再生のサイクルを賢明に管理してきた,と言える.むしろ,瀬戸などでは,明治以降になって森林(資源)の管理が弛み,輸出向け陶器の増産がすすむと,陶土と森林の乱採取・乱伐が始まり,洪水被害が激発してやっとブレーキがかかるようになる.その時になって,言わば基礎資源の「自主管理」=森林再生計画の志向が生まれ,同時にエネルギー転換(最初は供給地の変更,次いで素材そのものの変更)がすすむのであった.江戸時代にも塩田開発が森林伐採をすすめた結果,改めて治山・治水の計画植林,水利土木の事業を起こす他なかった例が瀬戸内海の諸藩にはあった.
 一般的に言えば19世紀の前後に,日本各地に農業技術の改革者たちが多く生まれており,それが各種の「農書」1)の普及と重なっている.だが,ほとんどが土木技術にもかかわっていること,水問題(灌漑利用の水田化と明・暗渠の排水技術による乾田化)を基礎において,その上で施肥や管理による栽培作物の多角化を説いているのは注目すべきだろう.
 広義には「老農」と呼ばれもするこの経験主義的な農業者たちの簇生期が,近世の人口爆発開始期と同じである.農業生産と農民家計の危機だったから,「老農」の知恵が必要とされ,その技術が重要な役割を果たすことができた,と言えるだろう2).
 明治維新とともに農業技術もヨーロッパから導入された.東京と札幌に農学校が設けられるが,当時の学生だった酒匂[さこう]常明が言っているように「余等が学習したるところは,日本の農業にあらずして,全く英国の農業であった」ばかりか,同じく玉造喜造が「喜造等ハ...毫モ日本農業ニ於ケル知識ナカリシ」と述べているように,学生も教師も似たようなものであった.やがて,その学生のなかから横井時敬(1860―1927)などの創造的な農学者が生まれてくるのが,約15―20年を経てからである.世紀の変りめ近くなるまで近代的な日本農学は生まれなかったのである.それまでが「老農時代」であった.
ⅱ. 馬耕と交換分合
 この明治「老農」たちによる農業革命の展開が日本の産業革命と並行しているのである.それはちょうど英国で産業革命とノーフォーク農法とが同時期に展開したことを思い起こさせる.言うまでもなく英国農業は畜産と小麦生産が中心だから,役畜としての牛馬で稲作をする日本農業とでは技術体系も技術条件も異なっている.稲作では灌漑の利用が決定的である.だが共通なのは,ノーフォーク農法が分散する小耕地を「囲い込み」で統合し穀物・牧草と根菜飼料を輪作栽培する技術的変化の核心は馬力による深耕であったが,九州(とくに福岡)で開発された新農法も馬力による深耕で多量な施肥の効果を確実にするところに新鮮さがあったことである.「囲い込み」に相当するのが,日本では小農地の交換分合による区画整理であった.これによって馬力を利用するための1aを単位とする方形水田ができ,不定形の水田は消えて,正条植による増収効果もあがった.
 用排水路の統合整理と農道の直線化(による運搬効率の上昇)をともなう交換分合は,灌漑方式の効率化にとって不可欠なシステムの変革であった.システムの変革である故に,利害関係者間の合意形成がなくてはならなかったし,利害を調整する指導力が必要なのでもある.周到に計画された交換分合は,用排水効果をあげながら,しばしば農地の増加をさえともなった.増歩がたとえ些細ではあっても,農民にとって,それは譬えようのない貴重な恩恵であった.ノーフォーク農法は条播機と犂による中耕(それまでにはない新しい作業を加えた)が技術的特徴をなすが,中耕そのことは湿潤地帯の農業に共通なことで,日本では当然視されてきた作業ながら欧米的な見地からは農業よりは園芸に仕訳される作業でもあった.
 ノーフォークの条播機に相当するのが日本では無床犂であった3).別名,抱持立〔かかえもつたて〕犂である.この犂は熟練と強い体力とを必要としたが,増産効果の故にその使用法を教える「馬耕教師」は全国各地で引張り凧であったという.無床犂だからこそ深耕が可能になるのだったが,次いでその重労働から解放される新型の犂=短床犂の工夫も各地ですすむ.今世紀に入るとすぐに,犂先が左右に動く双用型短床犂が発明される.それまでの単用型短床犂ではできなかった,往路と復路で農土の反転方向を同一にすることがこれでできるようになり「平面耕(作)」に好適のものとなったのである.
 これが,「明治農法」の新時代を画したのである.
 明治農法とノーフォーク式の西洋農業との基本的な相違は,後者は巨大な資本を必要とし,かつ省労力的で大規模化の経済的優利を立証するが,明治農法は「内ばなるをもってよしとする」小規模の多角経営を内容としている.「老農」いらい労働力の積極的投入が当然のこととされており,家族労働による入念な耕作・栽培・自家製施肥が原則で,複合的な耕作・栽培をする小規模営農にならざるをえないのであった.福岡農法は,その基礎の上に立って,全国平均の3倍の高収量をあげたが,福岡式に代表される明治農法は馬耕と犂を全国に普及させて農業の生産力をほぼ50%も向上させたのである.
 だが,この農法は乾田むきのものであったから,東目本に多い湿田地帯では利用できなかった.乾田化は排水のための大がかりな設備投資が行われなければならないのであった.
 明治政府が農業開発に,とくに灌漑開発に利用したのはオランダ式の低水工法であった.この工法では乾田化は展開し難い.言わば,明治農法はここで技術上の障碍に突き当るのだが,政府が低水工法を採ったのには理由がある.舟運の便を妨げないためである.鉄道が普及し,鉄道に接続した馬力運送網が確立する1910年代まで,舟運が重量貨物の輸送に威力をみせていたばかりか全輸送力の過半を取扱っていたことを見逃すことはできないだろう.
 かたわら,低水工法による洪水の被害は「3年ごと」に繰り返されたというように頻繁であったが,冠水は同時に施肥の代りでもあったから,農民たちはさして気にしないふうさえあったとも言う.だが,それでは生産力の水準は低位で不安定だから,高位に安定する方策が必要となる.それが高水工法による洪水防止であり,灌漑設備(用排水)の近代化と組合わされる.高水工法は前世紀末(1898年)の全国的大洪水が契機で普及してゆくが,大河川利用の灌漑も,それと前後して始まる.
ⅲ. 近代的灌漑体系の確立
 水源(取水)施設,送水路,分水施設(個別給水)が整備されてゆくのは1910年代から20年代にかけてのことである.その本格的な展開は1923年からで,多数県にまたがる「用排水幹線改良事業」として,政府資金の組織的投入が行われる.
 つまり明治農法と組合せになっていた在来型の小規模灌漑は,この時期から面目を一新してゆくのである.他面では,高水工法は舟運に代る鉄道その他の交通機関が農村に滲透・貫通していったことに見合うものでもある.
 注目すべき変化が,ほぼ並行して起きている.灌漑施設の拡充・交換分合・乾田化など一連の「土地改良」をこの時期までリードしてきたのは地主層であった.だが,地主層はこの頃から農業(=土地改良)投資に積極的でなくなる.明治以来,高騰を続けてきた米価が1910年代になると,下落の傾向をみせる.「廉価良質」のコメが安定的に量産・供給されるようになったのである.だがそれでもコメが自給水準に達したのではなかったし,とくに農民の全部が日に三度の米飯にありついていたのでもない.450万戸以上の小作人がいて,かれらが収穫の55%(全国平均)以上を地主に提出していたのである.全農業人口の50%を越える部分が小作農民であった.地主と小作との関係は「半封建的」であったと学者たちは性格づけてきている.それほどに苛酷な収奪があったし,人口爆発が小作人間の競争を激化していたので高率の小作料が維持されえた.
 ちなみに言うと,全農業人口の1%が10ha以上の大地主で約4万人,2―10haの中地主が47万,それ以下が350万ぐらいであった(1890年頃に).大地主と中地主の上層は,今世紀に入る前後から不在地主化しているが,かれらが土地改良をふくむ農業投資に意欲を失ってくるにつれて,それと交替に積極的に取組みだすのが中・小地主層,その中でも「手造り地主」層と称される自営農たちであった.しかし,精励恪勤のこの階層も大河川から用水し・排水する幹線水路の建設費を自前で負担する資金力はなかった.巨額の国家資金の投入はその必要に合わせたもので,農民が関係町村間の合意をとりまとめ,技術的に合理性があるかどうかを審査して政府が承認するという,申告・許可制による弛い参加方式を採っていた.これは,農民の自発性を誘導するものではあったが,他面では複雑きわまる用水慣行と利害の調整にかまけることを避けて農民にそれを負担させたのでもあった.そうした農民たちの組織である用水組合や土地改良事業組合の指導者たちは,必ずしも有力地主の家系には属さない.共通しているのは,各戸の農地・用水慣行に対する膨大・精密な知識であり,すぐれた調停能力と対官庁折衝に不可欠な実務文書能力である4).
 こうした指導者が全国いたるところにいたと大まかには言えるけれども,それをもてない村や地方もあった.そうした指導者の有無による地方格差は今日なお鮮明に認められる.
 ⅳ. 小作問題の発生
 1910年代から20年代の日本農村を特徴づけるのは小作農民の窮乏と小作争議の頻発でもあった.小作争議そのものは日露戦争の直後から散発的にみられるが,1920年になって急増する.一般的な傾向としては,先進的農業地帯である西日本から次第に東日本にむかい,1929年の大恐慌をはさんで東北・北海道におよぶ.国家権力が小作争議に(ばかりか労働争議や労働運動にも)直接介入して厳しい弾圧を加えるものの,農業生産力の発展が小作労働に依存することは明白であったから,小作料率は争議を介して低下していった.
 農民の窮乏が,年期契約の紡績労働に若年の少女たちを僅かばかりの前渡金で送りこまざるを余儀なくさせていたのであるけれども,他方では青年将校たちに危機感をつのらせたのでもあった.窮乏をきわめる農民から軍隊が健康な壮丁を徴発するので,労働力を引き抜かれた兵卒の家計はさらに悪化することに,軍国主義者としても関心を深めざるをえなくされたのである.軍事ファシストたちは「地主王政」の改造計画をさえもつようになる(飯沼二郎).左右の急進派は社会「改造」にかんする限りほぼ同様に問題点を捉えていた.それを「国体(=天皇)」の名において軍隊が専断するか,「社会主義」の名において労働者が改革するかの大きな相違こそあれ,社会「正義」問題が浮上してきたことは紛れもない.
 その最初の爆発が1917年の「米騒動」であった.計画的・組織的なものではなく,自然発生的なもので,秋の収穫期まで日本中を突発的に吹き荒れたこの空前の都市騒動の連鎖は,明治以来の「近代化=工業化」では解決できなかったばかりか,かえって深刻化させた構造的な問題の在り場所を明るみに出したものだと言えよう.生産の問題の次には配分の問題が,そして重ねて流通の問題が,相互に不可分のものとして提出されたのである.
 だが,明治型国家にはその解決能力がなく,その鬼子である軍事ファシストたちにとって代られ,かれらもまたその無能力を戦争への突入と敗北とで立証し,戦後になってやっと「経済民主化」の一環として農地改革が果たされ,やっと日本農業に本格的な転機がくる.
 その転機は,地主制の制約と明治農法の遺制の中では,大河川の利用技術の発展と小農具にみられる一連の改良に止まらざるをえなかったところから,つまり土地改良=土地生産性向上から,新たな水源開発と機械化による労働生産性の向上への変化として現われてくる.小作争議の頻発いらいの「自作農主義」化と結び合わされた生産力拡充の政策内容が,農地そのものから農民へとその焦点を移行したのである.
 ⅴ. 農村電化と水利
 そこに至るまでの間にあった技術上の変化に,改めて,言及しておくことが必要だろう.
 その第1に1910年代に普及する小型揚水ポンプが挙げられる.これは低水位の灌漑水路から揚水するのに用いられ省力効果が著しかったが,排水に用いられて乾田化にも貢献している.水力発電がすでに先行していて,その余剰電力が農村電化をすすめていたことに,それは並行している.原動機つきのポンプから電動式への移行は20年代になるとスムーズに行われたのである.別に言えば,工業力の発展が安価なポンプの普及を可能にしたのでもある.
 第2には,農村における電力利用がすすむことで,脱穀機・精米機などが電動化するが,重要なのは電力利用の灌漑方式が始まることである.佐賀平野のように灌漑水位の低いところでは,クリーク灌漑の方式をとっているが,そういう所の水門操作が簡易化した上に,踏み車による揚水では大人が1日4a分しか給水できなかったものを,電動ポンプの利用で,一挙に重労働から解放された[陣内義人]のであった.
 ⅵ. 機械化とその結末
 戦後農業技術の変化を示す最大のものは,1970年代から急速に普及するトラクターやコンバインの利用による農業機械化である.機械によって労働の生産性は急上昇した.農業機械化の進行は,モータリゼーションと並行していたので,燃料や部品の供給が安定しており,操作上・保守上の問題はない.この点が,「開発」初期の北海道で試みられた北米式大農法(畑作)が失敗した理由の一つである輸入機械の故障と修理能力の不足という経験とは,対照的なところである.
 機械導入にあたって,かつて馬力深耕への転化の時と同じ交換分合と圃場整備とが必要であった.今度は最小3aの単位である.また農道も拡充・補強されることが必要である.しかし,すでに経験のある兼併合だから最初の時ほどに困難は大きくなかった.
だが,機械化の進展は思わぬ変化を農村に生ぜしめた.専業農家の減少と兼業農家の激増である.
 1950年に50%であった専業農家が,1965年に21.5%,1982年に13.1%になった.各年次の実戸数は308万戸から,122万戸,60万戸と30年間に5分の1に減少している.
他方で,兼業は,農業収入を主とするもの(第一種兼業)が,28.4%,36.7%,16.9%であるのに対して,農業収入が副次的な第二種兼業は21.6%,41.8%,70%という激増を示している.
 これは,農地改革による自作農化があったとは言え,経営規模が0.5ha以下が41.4%であり,1―0.5haが28.2%,そしてその上の2―1haが21.2%という圧倒的な小規模経営に機械化が重ね合わさった結果なのであった.経営規模と機械化の合理的整合関係は当然ながら大規模経営でこそ成立する.5ha以上の農家は1.5%しか日本にはない.そこに,上位20%の農家が80%の産出を占めるというEC的経営・産出構造との相違がある.
 結果として,機械装備をもつ専業農家による小規模農地の耕作請負がすすむ.小規模でも多数になれば累積的効果は挙がるからである.1965年からのちの兼業農家数の増加は,このことを裏書きしている.
 かたわら,それは,零細経営ということの他に,高度成長期の超完全雇用という状態と,都市化による宅地不足が地価を押し上げて,農地の財産価値を高めながら農業者と通勤非農業者との混住がすすんだことを意味している.
 請負耕作による専業農家の経営規模拡大は,いま限界に近づいているとする見方もある.請負った耕作地がそれぞれ小規模でしかも拡散しているから,機械の移動・運搬に時間がかかって,耕作/時間比が悪化しつつあるのが理由とされる.農家の複合経営への回帰が容易でないとすれば,機械化は,ここで停滞するか,さもなくば新しい交換分合の必要に直面していることになる.だが,その成否は容易に見込めない.新しい転機である.それでもなおFAO年鑑によれば100ha当りの農業人口は,インドの98人に対して日本は128人である.アメリカは1人,イギリスは8人にすぎないが,欧米とは農業の基礎条件・基本作物が違うのだから,この種の比較は余り意味がない.稲作はたとえ機械化しても,高密度の労働投入が必要なのであり,事実,カロリー計算をすればそれでも小麦の作付より有利であることを学者は認めている.それが,「開発顧問」であった欧米人専門家の政府当局への勧告に叛いて,北海道への入植農民が稲作に執着し,高緯度の寒冷地にもかかわらず,成育に必要な日照が充分であることを見抜いて,ついに日本一の産米地にした理由である.
 ここにも我々は,安易に「専門家」とくに「外国人」専門家に依存することの危険をみるのである.
 そして最後に,いま発展途上国で行われている事態に即して言えば,目本の中央と地方の政府機関は農業生産発展の基礎である灌漑施設というハードウェアに巨額の投資はしてきたものの,その管理と維持とは「むら」を中心とする在来システムに委ねてきている.それが,運用上での成功をもたらしたのであることは,たとえばインドやパキスタンの例に照らせば明らかなことである.我々は決して「参加」ロマン主義者なのではない.むしろ官僚的統制の画一主義の無効が農業技術(とその管理・維持)でこそ最も確実に証拠だてられるということを指摘するだけのことである.
 なお,最後に付言したいことがある.本書でも,またこのプロジェクトの農業技術研究グループも,明治以来日本各地に設けられた農事試験場の役割と,農事試験場と在地の篤農家の協力関係について触れるところがなかった.試験場が各地方の必要に応え,疑問に回答してきたことを我々は重要視している.とくに作物の品種改良や馬匹改良(これには陸軍も関与した)と普及,栽培法の改善などでの成果は注目に価する.発展途上国で農業技術の「中間化」問題が切実であることを知っているから,余計このことに関心をもっているのだが,要求が強ければやがて国際的な比較研究の主題にできるだろう.
 第2には,農業学校の果たした役割がある.水利組合のリーダーを含む各地の農業技術の指導者たちは,ほとんどが農学校出身者である.いまでは若手は大学卒でもあるが,かれらの役割は依然として大きい.この問題については,「開発と職業教育」研究のグループが取り上げているので参照してほしい.
 第3には,協同組合の役割がある.広範なその活動内容のすべてに触れることはしなかったが,その中の信用調達・金融活動に関するものは「開発と金融」研究グループが取り上げている.
 なお,このグループとは別に,農村図書館運動の創始者である[浪江虔]のユニークな農村活動の自伝的記録がプロジェクト成果の中にある.1930年代における東京近郊の農民についてのリアルな報告なので参照してほしい.
 さらになお,人口爆発と「開発」問題にかんしては,漁業問題についても関説しなければ「日本の経験」としては不行届きである.そのことは充分承知している.だが,限られた時間と予算の中では,重点的に,主題選択的になる他なかった.あれもこれもと総花的に,百花斉放的に,そして底浅いものになることによって,(国際連合大学のプロジェクト計画がそうであるが)かえって問題の比重に対する評価の観点を放棄するような反/非歴史的な視座を採ることはしなかった.
 そうすることで,我々が問題的価値判断から自由であるなどという形式論理的な「価値自由論」に立つのではなく,価値の多様性と多義性を承認するからこそ,我々の自脚点を明示し,そのことで我々の立場への論理的/具体的な批判への門戸を広く開いているのである.それこそが,国際連合大学の提起している「方法的対話」の(理想的に言えば)無限の可能性を保証するものであると理解されるからである.
 農業と漁業の関係は水の問題において繋げられているばかりか,農業の工業への従属化につれて(それが農業生産力の「発展」なのであるが),対立を深める第一次産業内部の問題である.

[注]
1) ここで言う「農書」とは「斉民要術」(6世紀に華北で成立した)などの「中国農書の影響は受けても,近代科学の影響のない,日本人の農業研究の成果である」技術書のことである.(古島敏雄『農書の時代』,1980年,農山漁村文化協会)
2) たとえば西岡虎之助『近世における一老農の生涯』(旧題は『老農渡辺斧松翁伝』,1924年,最近では講談社文庫版,1978年)をみよ.渡辺は1793年の秋田県生まれで1856年に没している.二宮尊徳(1787―1856)の同時代人である.二宮ほどに有名でもなく影響が広範ではないけれども,この2人に限らず各地に同様の農業技術の改革者が多く出たのはこの時代であった.
3) 飯沼二郎『日本農業の再発見――歴史と風土から――』1975年,NHKブックス.
4) [旗手勲]の調査報告をみよ.