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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 IV 製鉄技術の移転と自立
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:IV 製鉄技術の移転と自立

 Ⅳ 製鉄技術の移転と自立

(1) 先行条件
かっては輸入した技術をいまや輸出するようになった技術の代表は製鉄技術である.だが製鉄のように複雑・大規模な技術は容易に移転も定着もできるものではない.模索・模倣の時期から起算すれば,一応の技術自立に至るまでが40年,戦後の追加移転のあと技術輸出までには,実に100年かかっている.開発の急務に見合うためにはそんな悠長さは許されまい.それならば,なおのこと周到な検討を重ねて果断な対策を独自に展開する他ないだろう.そうするためのヒントを我々は積極的にも,否定的にも,提出したいのである.
 一見して最も華々しく思われやすい製鉄技術の場合には,技術上の先行条件からして当時の日本が今日の発展途上国よりは恵まれていたと言えそうである.それにもかかわらず,日本に定着できたのは当時のヨーロッパの最先端技術ではなく,最も普及した技術にすぎなかった.
 1850年に日本最初の反射炉が佐賀で造られた.大砲を鋳造するためである.当然ながら前産業革命期の技術レベルのもので,木炭・水車・冷風による操作だった.反射炉は,銑鉄を可鍛性のある鉄(錬鉄)に変えるための装置だから,銑鉄の供給が確保されていなければならない.
 だが,日本の在来技術による銑鉄は「其質精良ナラズ鋳砲ノ料ニ供シガタク」て,「洋法ノ鉄ヲ製セザレバ」用を為さない.改めて熔鉱炉の建設が必要になったのである.下流で始まった技術移転が上流に赴かざるをえないのが技術のリンケージでありメカニズムである.技術はつねにこのような連鎖性と累積性とをもつ.
 日本で初めて高炉を建設したのは薩摩藩であったが,銑鉄の輸入から自給に転ずるためである(1854年).当時ヨーロッパではすでに蒸気力とコークスが高炉に利用されていたけれども,ここでは「石炭乏シキガ故ニ」水車と木炭を利用する設計であった.石炭がないという原料事情に即した設計をしていることに注目しておきたい.この高炉は,反射炉と同じく本格的な近代工業技術には転成してゆけない制約を内蔵していたけれども,それが藩営軍需工場としての市場の大きさに合理的に対応しているのだから,規模・水準に示される設計思想・政策としては適切な選択だろう.
 製鉄・鋳砲を担当した江夏[こうか]十郎は,原料処理や送風に難問続出であったと言うが,それはむしろ当然のことで,驚くに当らない.
と言うのは,佐賀の反射炉も薩摩の高炉も,唯一冊の技術書Ulrich Haguenin;Het Gietwezen in s'Rijks Ijzer-Geschutgieterij,te Luik(1826)を手がかりに,実物を見たこともなければ指導者もなくて挑戦したのだから,今日でならば無謀の譏りを免れえまい.
 だが,それでも一応の成功をみているのはどう解すべきであろうか.技術的には産業革命前夜のところに到達するほどのストックをすでにもっていたのであり,日本の銑鉄の原料であった砂鉄が鋳造にむかないことも確認しているのである.
 明治以前の技術水準がその程度にまでは高くとも,原鉱開発をふくめて,近代技術との格差は未だ大きかった.明治維新が,幕府による技術の独占輸入を破り,外国技術者から直接指導を受ける条件を創り出したのである.
(2) 釜石の失敗と蘇生
 新政府は誕生7年めに近代的製鉄所の建設に着手する.計画の構想を下命されたのは,「お雇い」ドイツ人のビアンヒー(L.Bianchie)と大島高任(1826―1901)であった.大島は南部藩医の子として長崎に遊学,そこで「兵法・砲術・鉱山・製錬の方法」に転じたあと,水戸藩の反射炉を建設し,それに合わせて釜石鉱山に洋式高炉を築いた(政変で中断)実績をもっている.かれは『ヒュゲホニン』の訳者でもある.
 その上,岩倉具視の欧米派遣団の随員として,欧米の技術事情を見聞してきている.
 大島とビアンヒーとは基本設計と立地とで対立する構想を答申した.
 ビアンヒーは高能率の大型高炉2基(日産25トン)を中心に,鉱石運搬用の鉄道と錬鉄・圧延の工場まで付設する企画をたてた.
大島は小規模(日産5―6トン)5基,運搬用には鉄道馬車という計画である.南部は,鋳物産地として有名で,良質の木炭をもち,南部駒の産地でもあったから,資本節約的な設計だし,「当時の東北地方の技術水準に即した創業計画」で「小さく産んで大きく育てよ」の路線であった[飯田賢一].
 この大島案は工部省の採るところとならず,大島は秋田県小坂鉱山に配転される.左遷にちかい印象さえ与える処遇である.
 官営釜石製鉄所は,高炉から熱風炉,錬鉄工場の機械は勿論のこと,釜石港,採鉱場,製炭所をつなぐ釜石鉄道の機関車,貨車,レールまで(そして多分,当時は鉄製だった枕木も)ことごとく英国から輸入し,築造・建設・操業に,それぞれ英国人の技師と職工長を雇った.
 操業の開始は,起案から7年後の,1880年のことである.97日間の「順調な」操業のあと,製炭所の失火という事故によって,用炭の欠乏から高炉作業は中止になった.溶鉱炉は一度火を消すと,炉内の耐火煉瓦を取替えなければならないから,致命的なことであった.
 まるまる1年余を経て,再び火入れがされたのは1882年2月であったが,今度は木炭の不足からコークスに転じたところ,その粗悪が原因で,操業は196日で9月中旬に中断した.驚くべきことに,二度の失敗が重なったあと,政府は早くも同年12月に廃山を決定している.
 釜石の失敗が「木炭欠乏」に理由があったとすれば,日本有数の木炭産地に立地していたのだから,輸送力・原料計画・調達予測に問題があったことになる.つまり,前述のM1とM4の問題になるのだが,本当にそれだけであろうか.
 大島の案でゆけば,危険分散効果があったから一挙に廃山に追いこまれることはなかったであろう.それは,つまるところ設計思想と5Msの認識にかかる.政府の外国人技師に対する過度の信頼と自国エンジニヤに対する軽視がそこに認められるだろう.
 釜石は,その後,政府御用商人の田中長兵衛が残材(木炭,鉱石)の払下げをうけ,設備を借用して製鉄所の経営を試みる.「溶鉱炉改良修繕スルコト数十度」のあと,ついに1886年に48回めで銑鉄試作に成功する.それは,ビアンヒーの大型高炉方式によってではなく,大島の規模に到達したことによって達成されているのである.外国人技師,職工長はすでにいない.しかも,従来廃棄されてきた「不良」鉱石の利用を職工たちが提案し,それが成功の決め手になったと言う.
 田中は運搬と燃料の問題について記録を残しているが,それは我々の言う技術的リンケージと周辺サービスの問題であり,技術者大島が周到に配慮したところを経営者の眼で捉えている.そして,安定した規模から段階的に操業を拡充する見通しでは大島と同じなのである.
 釜石は,その後,その製品から当時世界一のクルップ社製の兵用材に劣らぬものができるというテスト結果をえて,初めて安定市場を確保する.しかし,設備更新・品質管理・運搬方法の改善を当局から課せられた.規模拡大にともなう一連の技術問題については,近代的工学教育を受けた第一世代を代表する野呂景義〔かげよし〕東大教授(1854―1923)らの指導により,25トン高炉の復活・操業に成功する.この時,我国最初の高炉コークス技術に成功した.日本製鉄技術は日本人技術者の手でついに「近代」に到達したのである.高炉が復活再開した1894年には前年比で50%以上も多い13,000トンを産出し,たたら製鉄1)の全生産量を追い越したのである.再開12年めだった.しかし,それで「たたら」が消えるのではない.生き続けてゆく.そこに伝統技術の強靱さがある.
 1895年,官営時代の英国式圧延機を修理して,釜石は「レール,板鉄,丸鉄,角鉄,平鉄」の5種類の鋼材を,5トンという少量にもせよ自家製の銑鉄から試作している.技術を模索した佐賀の反射炉から40年,本格的な指導を受けてから15年も経っている.
上質の木炭や有利な先行条件をもちながら,40年かけて200年の近代製鉄技術に追い着いたのだが,細心の計画と熱心な努力で韓国は今や20年で追い着いてきた.
 ここで確認しておきたいのは,結局はビアンヒーの計画に田中が到達したところで,かれの計画や英国人技師たちが正しかったのではない.かれらには技術の規模と水準,そしてリンケージについての錯誤がある.小規模操業にスケール・ダウンしたところで生産が軌道にのったのであり,それが大型高炉復活の契機となるのであって,その逆ではない.技術移転のさいに,適性稼働規模・技術水準の決定・技術操作の手順が如何に重要なものかを示している.
 そして,問題の最終的責任者・解決者は,自国のエンジニヤでなければならないことを釜石の事例は教えてくれるのである.
 釜石は曲折を経てやっとのこと安定操業の契機をえた.第1回の失敗は事故でやむをえないとしても,第2回めの失敗は原料検査に不注意があった点で咎められねばならない主任技師の責任だろう.それにもかかわらず,釜石は「技術的には成功」だったのだ,と言う主張も技術史家の中にある.100日前後にわたる操業を続けたのだからという理由である.だが,我々はその立場を採らない.如何なる技術にも設備にも耐用年数があるし,経済寿命がある.産業技術である限りその両者のいずれかを限界まで全うするのでなければならない.それを実現するのが日常的な操作技術であり,保守管理技術である.いわば技術移転の第一段階において釜石の外国人技術者たちは失敗したのであった.それは技術計画と設計思想における鋭い対立としてビアンヒーと大島の間にあったもので,techno-scientistとengineerの相違を示すものでもある.
(3) 八幡製鉄の失敗
ある試算によれば当時の日本では綱材と錬鉄材の1人当り消費量は1kgにも達していない.今日では高炉をもつ銑鋼一貫工場を安定操業させるには年間1人当り20―30kg以上の水準でなければならない,とも言う.日産1,000トン以上の高炉出力になっているからである.国民人口が少なければ,さらに高い消費水準か,外国市場を予定しなければならない.
 釜石で「近代製鉄」に手が届いたにしても,日産25トンの水準だから銑鋼材の輸入は続いていた.また官/軍需の開発目標も満足させていない.
 そこで改めて,近代的な銑鋼一貫工場新設の計画がもち上がる.官営八幡工場の計画がそれである(今日の新日鉄の前身,釜石もその傘下にある).
 直接の動機は,日清戦争のときにすでに支払い済みの兵器が,開戦にともなう外交問題で,ことごとくシンガポールで抑留されてしまい,「若シ交戦永引クニ於イテハ……終ニ兵器ノ供給不可能ノ窮状ニ陥リ」そうな経験をしたことであった.
 「兵器独立」=自給の必要性と重要性とは,この時このことで,製鉄所新設について決定的な説得力をもった.そのかげで,「兵器独立」という問題が制式化問題と結びつく.これは工業化全体に対して決定的に重要な意味をもつことであるから,また後に触れることにする.
 新製鉄所は海軍の主管になる筈のものであったが,その計画が一度は潰されたあと1901年2月に第一高炉は火入れした.
 設計者はリュールマン(W.F.Luhrman)で,公称出銑能力160トンであったが,実績は80トンから容易に上がらず,しかも銑質が悪くて製鋼に適さなかった.その上,銑鉄1トン当りのコークス比は1.7トンという悪さであった(今日なら平均で0.45トンぐらいだが,当時でも1.0トンぐらいと期待されていたのではないだろうか).1902年7月,20カ月に足らない操業で,第一高炉は操業停止に追いこまれた.
 出力年間6万トン(平炉鋼2万トン,錬鉄製品4,500トン,坩堝[るつぼ]鋼500トンは軍用で,ベッセマー一鋼3,500トンは鉄道用)という釜石の経験しかないにしては野心的なスケールであった.
 設備も,60トン高炉3基,17トン・ベッセマー炉2基,15トン平炉4基,パッドル炉6基,増塙炉1基の他に水圧鍛鋼機とロール機を備える,という計画であった.
 その計画が,建設にかかると,すべて規模を変更して大きくしてしまう.出力6万トンが9万トンに格上げされ,60トン高炉3基が160トン2基に,4基の平炉は15トンではなく25トンにという具合である.当然,予算も2度にわたって追加され,結局は2,500万円の巨額に達した.この資金の一部は日清戦争による賠償金が当てられていた.
 いわば,The Imperial Japanese Government Stee1-Worksという気負った英語公式名称までもつこの製鉄所は,「鉄は国家なり」の意気込みだったのに,あえなく釜石と同じ過ちを繰り返したのである.
 しかし,このときの技術者たちの大型志向を今の時点から憫笑する気には,私はなれない.先進諸国は銑鋼一貫体制をすでにとっていたし,1901年に設立されたUSスチール社は公称1,060万トンの出力であったから,9万トンに嵩上げしても八幡は1%にみたない「小さい」鉄は国家なりだった.発展途上国の挑戦をみていると,せめて東洋一,東洋最初をと企てた技術者たちを激励してやりたい気が,してくるのでもある.
 大規模化の夢が頓挫したところで,また野呂が呼出される.原因調査に当った結果,判明したのは次のことであった.
(1) 高炉にも平炉にも構造設計のミスがある.
(2) 日本の原料事情に合わない操業指導(装入原料の配合不適,および不良コークスの投入).
(3) 送風方法の不備(度重なる送風停止).
 この設備一式はドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社製で,同社は20名近い熟練の職工長たちを送りこんできたし,政府は他に3名の上級技師を雇用して操業に当らせていたのに,結果は無残だった.基本的な構造設計の錯誤に加えて,操作技術の指導も拙劣だったのである.大型志向・最新設備・外国人盲信という釜石の経験が正確になぞられ,正確に失敗し,そして日本人技師が苦心の末に改修する.建設中の第二高炉の設計を変更し,正常に稼働し始めるのは1904年のことで,野呂の門下生,服部漸[すすむ](1865―1940)の努力によるものだった.勿論その前に技術陣の主脳は解雇されていたし,転炉の職工長1人を除いて日露戦争を口実に帰国した.自信を失ったものであろう.
 平炉もまたドイツのダーレン(R.M,Daelen,1843―1905)の設計になるものであったが,「最も重大な欠点の内,噴出口の配置は実験ののち訂正することを得しも,噴出口の短かきに過ぐるを改めることおよび鎔滓室を設けること等は,場所の関係上遂にこれを実行することを得ず」という始末になる.平炉の改修に当ったのは服部の同期生の今泉嘉一郎であったが,今泉が本人に確かめたとして伝えられるところによれば,この設計は「いづれのところにも実験せられたることなき机上の成案」だったと言うから,技術的安定までには曲折を予想させるに足るものだったのである.
 設備や機械は,つねに,原設計通りの出力を当初から出すものではない.新設計のときには不安定度はさらに大きい.それを原設計のレベルにできるだけ早く到達させ,次いで安定させるのはエンジニヤの力量である.総じて言えば,原設計出力よりも低いところで安定操業に入っていることが多い.それがしばしば出力限度になってしまうのだが,設計出力以上にしてはならないのである.事故と故障の原因になるからである.原設計以上の出力があるとすれば,過度に安全を見込んだもので,それは技術力が甘いので,精密さに対する信頼度が低い.しかし,発展途上国に輸出される機器は,利用条件が異なるから精密度より安全度を重視すべきであろう.そうした教訓も,この事例からは抽き出すことができるのである.
 量産方式を採るアメリカ製鉄技術ではなく,ドイツをモデルにしたのは,少量多品種という需要構造が日本と酷似していたからだ,と専門家は言う.それならば,ここでも技術は周到に選択されて移転されていたのである.その限りで言えば,釜石のときの失敗よりはいささかの進歩を含んだ失敗だったことにはなる.
 いずれにせよ,外国人学者・技師の設計上・操作上の錯誤を修正したのは,ここでも日本人技師であったし,経営上の黒字がでるのは1910年になってからである.
 これとならんで,ソルヴェー(Solvay)式コークス炉の導入とコークス技術の新確立が重要な意味をもつことを専門家は指摘している.
 この節をまとめるに当って言いたいのは,確かに教師が優れた教師ではなく,生徒は優れた生徒ではあったのだが,当時は未だ生徒でしかなかったのだということである.設計図を見て問題点を発見するほどの経験もなく,自ら設計する力も(ましてや製作・建設する力も)なかったのである.
 日本製鉄史上からみて,釜石が操作技術の確立期だとすれば,八幡は修理・改良の能力をつけたことで,ソルヴェー法その他新技術の利用力をもった.いわば技術移転の第四期に入ったのである.
 私の五段階論を修正してくれた[星野芳郎]によれば,第四段階「設計技術力」には(1)完全な模倣・追試,(2)局部的設計変更,(3)全体設計の修正という三つの小段階がある.八幡の第二高炉は正しく(2)に到達している訳だ.
 製鉄技術全体が第五の段階に到達するのは,別種の問題処理技術の開発を達成した時である.それは原料問題にからむのだが,1910年代に動力転換をして電力利用に入っていながら,鋼材1トン当り4トンの石炭を消費しており,1932年になってやっと1.58トンの水準に到達するのであった.
 この間に,増加する銑材・鋼材需要に合わせて,高炉をもたずにスクラップや安価な輸入銑材を利用する民間製鉄業者が生まれてくる.いわゆる電炉メーカーである.八幡は技術力こそ貯えても,夫だ国民的ニーズには対応していないし,そこに「官営」らしい官・軍需優先が貫かれているのを見ることができる,
 電炉メーカーの出現そのものが内需の増大に対応している.そのことは,そのまま原料問題が急浮上してきたことを意味する.
(4) 技術自立と原料の海外依存
 電炉メーカーの出現は,日本製鉄業が出銑力以上に出鋼力をもったということである.その不足分が如何に調達されたのか,と言えば,(1)はアメリカのスクラップであり,(2)はインド銑鉄の輸入であった.だが,為替相場の変動と安定供給についての不安がつきまとう.だから,一石二鳥の問題解決は,目本の植民地に製鉄業を移植することであり,もう一つは供給源を準植民地的に確保することであった.
 しかし,(1)の方法では原鉱の品質が低くて,そのままでは利用技術上の問題があった.(2)の問題は,技術政策の上位にある対外政策の問題となる.だから,技術自立という問題は技術のコンポネントである5Msの第1のものがもつ技術的制約を克服することでなければならなかった.別な言い方をすれば,日本の製鉄技術は自立したその時に外国資源に依存していたのであり.外国資源に依存することなしに技術自立も達せられなかったのである.
 鉄が産業のコメだとすれば,日本の全技術ネットワークは,自立と同時に,資源の対外依存を深めたのである.
 この意味での技術自立は,1920年に南満州鉄道会社鞍山製鉄所で,梅根常三郎(1884―1956)が中心になって完成した低品位の鉱石を事前処理する方法(正確には貧鉄鉱磁化焙焼法)で達せられたことになる.この自主開発技術によって,資源利用の範囲は一挙に拡大されたのである.
 また,黒田式コークス炉の発明も挙げねばなるまい.これは再生燃焼装備をもつ,副産物回収式コークス炉で,熱の生産と移動にかんする基本的型式を創出したものである.黒田泰造(1883―1961)が1918年に発明している.
 その前に,合金の物理冶金的研究から強力磁石鋼(KS鋼)を発明して,この分野で日本がながらく全世界をリードしてゆく基礎を創った本多光太郎(1870―1957)の業績があったことは,いまは指摘するだけにとどめる.
 そうした技術上の開発とならんで,海外から「上質廉価」な原料の安定供給を確立するために,八幡が安定操業に入ったその年,1904年に中国大冶鉄鉱山を支配する漢冶萍公司に対して,大蔵省から融資が行われている2).
 この融資で官営八幡は毎年50―60万トンの原鉱輸入によって発展の契機を掴むが,当時は中国唯一・最大の石炭鉄鋼混合企業であった同公司が衰退する理由となる[名倉文二].
 ときには全輸入の90%にも達した同公司からの原鉱・原料炭の輸入は1920年代に入ると,供給が不安定になり始める.それは借款の増額につれて経営の自由が失われたからであり,揚子江一帯の政情・治安が悪化したからである.
 この時期に石原広一郎の「南洋鉱業公司」(のちの石原産業)が参入してきて,中国鉄鉱石の代替を果たす.石原が1920年に独力で英領マレーのスリメダン(Sri Medam)鉱山を開発した結果であるが,のちに鉱石運搬の海運事業も営み,一代で小コンツェルンを築いた.1930年代になると石原は「南方」資源開発論と軍部専断に反対する「内政改革」論とを説くユニークなイデオローグとして活躍するが,そのことは指摘するだけにする.
 ここで確かめたかったことは,日本の技術にとって,自立段階に至ると資源問題がアキレス腱になるということ,ならびに技術の資源立地として中国東北=満州への技術移転と朝鮮における資源開発とが正当化されたことである.
 しかも一般的に言えば,どちらにも熟練労働力が形成されていないので,当時としては高水準の技術が輸出されたのではあるけれども,技術的なエンクレーヴを形成したことの他はさしたる効果は挙げえていない.
(5) 熟練労働力の形成,その他
 我々の技術研究論からすれば,技術者教育・熟練形成の問題に触れなければならないのだが,それは別のところでとりまとめる.ここでは鉄鋼労働についてのみ手短に述べる.
 熟練形成の核になったのは,1904―5年に帰国していった20名に足りないドイツ人職長たちの他に,釜石から派遣されてきた熟練工10名である.製鉄労働の技術的な孤立性(他業種への転用がきかない)と重筋肉労働は労働力の移転を高いものにしていた.そこには,釜石付近では雪深い冬期に農作業のできない農民が副業に鉱山労働に従事してきていたのと,二毛作地帯である九州で調達された労力(1920年で80%に達していたが,当初からこれ位であっただろう)との相違も見逃しえない事情としてある.八幡では,炭砿労働者と運送労働者(鉄道の開設で失職するまで遠賀[おんが]川の水上運送をしていた),そして建設工事の過程で機械操作などを習得した農村出身者が常雇いとなって,熟練工への道を歩む.当初,常雇い504名(1902年)の他に,間接雇用(=請負3)による)「各種職工および人夫」などの臨時工が常雇いを越える数でいた(この事情は今日でも変わらない).操業初期は雇用数に伸縮があるので単純な比較は無意味だが,年間60万人(平均,毎日1,500人)のこともあった.
 人員配置からみると,直接生産部門よりは,間接部門の方で労働力が多くなっているのが初期では特徴をなしている.主要設備がドイツ製であったことから保守・修理が重要視されていたこともあるが,関連する機械設備を設計し製造することさえ所内でしなければならなかったからである.関連技術が未発達であった当時としては,これはやむをえないことだし,発展途上国ではこの他にも突発の停電に備えた自家発電装置や電圧の変動に対処する設備であるficker compensatorなどを追加しなければならないことがある.
 労働者の学歴水準は義務教育(1900年までは4年,以後6年となる)が過半で出発したものと推定されるが,定着率は低かった.定着率と学歴との相関は明らかではないが,宿舎その他福祉施設の拡充や共同購買組織の設置,退職金の累進制,永年勤続者の表彰などで,製鉄所当局は定着率の高度化をはかっている.
 総じてこうした対策は,給与とともに,経営的安定に並行して充実されてゆき,それにつれて労働者の選抜も厳しくなる.90%以上が義務教育修了者(1920年)となったが,同時に,労働者としての自覚が容易に強まり,労働条件その他の要求水準を高めて経営批判を展開することになる.その頂点が1920年2月5―9日のストライキ(参加者1万数千人)であり,争議指導者19名の検束のあとも,再び2月29日から3月1日まで続き,12時間2交替を3交替9時間の労働条件改善に成功している.このとき「不徳・無能の高級職員の大淘汰」と「優秀な労働者の抜擢・昇進」の要求が,労務・業務の管理体制を整備させることになったし,「宿老」制という超優秀技能工を「生涯にわたり」職員待遇とする八幡に特有の制度ができた.1930年までに7名が「宿老」になっているにすぎないが,この労務対策は,堅い工員・職員間の障壁に小さい穴をあけたことになる.これが労働者の定着率を高めることになったとは思われないが,第1次世界大戦後の不況もあって年間離職率は10%台に落着いている(工場労働者全体の平均は66%).1919年には36.1%でさえあったのは,八幡製鉄の労働条件,賃銀などでの比較優位が戦争景気ととも崩れたからであった.

 付 記 兵器独立と製鉄技術
 長崎の出島という小さい窓口を通じて,オランダと中国との交易を続けてきた徳川政権は,砲艦外交の圧力に屈して開港を余儀なくされた.それは近代兵器の威力に対する開眼であったが,日本の知識人にとって深刻だったのは1,000年以上にわたる文明の師表だった中国が阿片戦争に敗北したことである.
 このことから,「海防論」がおき,鋳砲の技術が研究される.それが反射炉建築になる.
 だが,反射炉にせよ,その前提になる高炉にせよ,その建設に必要な耐火煉瓦や,操業に必要な鉄鉱石と石炭を自給できる藩は一つもなかったから,そこに幕藩体制と近代技術の間に矛盾があった.幕末の洋学者たちの国防技術論にはそうした政治体制批判がこめられていたので,外国事情や外国科学を研究していた知識分子(医者が多かった)を弾圧する「蛮社の獄」(1839年)は避けられないことであった.
 徳川幕府は,そのかたわらで,自ら海軍を持とうと努力して,従者の数と給食の都合から小身・軽輩のものからだけ能力主義的に登用する他なかった.新しく重要な技術の移転が数百年来の身分序列を放棄させたのは危険なことであった.
 それだけではない.譜代大名と旗本のみで軍事技術・知識を排他的に独占できず,諸藩が大砲の鋳造を試み洋式軍艦を建造するのを黙許する他なかった.やがて,その雄藩の軍事力に幕府が敗北することで,明治政府による積極的な技術移転期をむかえる.だから,この時期になると技術移転には国防的・軍事的理由から国民的合意が与えられるのである.勿論,合意が与えられても,その負担が軽いもので済んだのではなかったが,明治政権はこの国民的合意によって技術移転をすすめ,その「成功」によって政治的に安定もできたのであった.
 国防に動機づけられた造船・造艦のためには,製鉄所をもたねばならず,製鉄所をもつためには,鉱山と砿山を開発しなければならなかった.また交通体系を開発しなければならなかった.いわば,「自然史的発展」の順序を逆転させることが必要だったから,それは困難の多い曲折した経過をたどった.それにしても「順序の逆転」または「溯行」が可能であったのは,先行条件.先行技術が皆無ではなく,おしなべてマニュファクチュア段階の技術水準には達していたからである.勿論,ここでも先行技術がそのまま無修正で近代技術に接続する例は多くない.
 そして,当時の西欧技術の水準は,原理さえマスターすれば,部品に解体が容易な組合せの体系であったから,近似的・類似的な構成部品は在来技術の総動員によって製作可能なことが多かったのである.
 製鉄技術は最も複雑で大規模な技術であった.それが「自立」できたところで,最先端との格差は依然圧倒的であった.にもかかわらず,技術的体系が最小の規模・最低のレベルでひとたび確立されると,その後の技術移転は容易になり,加速される.苦しいのはその「自立」までの時期なのである.
 我々の言う「自立」は排他的・閉鎖的な技術アウタルキーのことではなく,飛躍への基礎固めと理解されて差支えがない.
 兵器独立が近代的大製鉄所構想を推進したのは,日清戦争の時に,支払い済みの兵器がシンガポールで抑留された厳しい軽験であったことはすでに述べた.そして,それが兵器の制式化に結びついていたが,互換性をもつ部品の大量生産と,この制式化・標準化という近代兵器システムについての開眼は,西南戦争の経験に溯る.この時,政府軍も反政府軍も輸入兵器で戦っていたのだが,銃砲の種類が多すぎて弾薬補給上の混乱が生じ,必要種類の弾薬が必要量だけ必要な場所に供給されていない4).
 このことから,一将校が兵器の制式化=規格化という問題を提起したのであった.製鉄所計画が兵器独立に動機づけられていたから,ここで国産化と標準化が結びつけられたことになる.したがって,未だ小火器についてだけだったとは言え,国産化・標準化・量産化が,内外の政治問題を介して,制度化されてゆくのである.このことが工業化全体に対してもつ意義は決定的であった.開発と技術をめぐる焦点の一つはいまもそこにある.
 以上のように,私がバランスを失した紙幅を製鉄技術に与えたのは,製鉄技術が日本工業化の機関車であったからに他ならない,
 繊維,鉄道,鉱・砿山技術の役割がそれに並行する.鉱・砿山機械の国産化に造船技術が重要な役割を演じたし,のちに造船技術と機械および工作機械との接点も生まれてくるが,この両部門はこのプロジェクトではカヴァーしきれなかった.

 [注]
1) たたら製鉄については,大橋周治『幕末明治製鉄史』(1975年,アグネス社)というすぐれた業績がある.なお,製法の図解は『ボイス』1984年7月号をみよ.
2) もっと正確には同預金部資金が横浜正金銀行(現,東京銀行)経由で貸付けられた.この資金は全国の郵便局に貯金されたもので,政府が運用していたのだが,工業化のための資金調達に絶大の効果を挙げた.
3) 北九州には今日でも「労働下宿」という日雇労働力の調達組織がある.
4) 日清戦争の時,はるかに優秀な装備の中国軍とくに海軍が同じく補給上・整備上の問題から敗北している.総じて工業化の開始期に保守・管理(部品補給と修理)が軽視されるのは万国共通である.