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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 VI 交通・運輸技術ー道路・鉄道・舟運ー
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:VI 交通・運輸技術ー道路・鉄道・舟運ー

(1) 近代化と鉄道
 今世紀の始まりとともに発足した官営八幡製鉄所が軍需と官需にむけて鉄鋼を生産してきたことはすでに述べたが,その官需とは鉄道用材(レールおよび橋梁材)のことであった.
 1853年に長崎を訪ねて開港を求めてきた帝政ロシヤの使節が,アルコールを燃料とする汽車の模型を幕府の役人に見せて,実物は「日本道二八〇里を,人五〇〇人を乗せて,数艘の車を引きて,一日にして行くと申也」と吃驚させている.その翌年,アメリカ艘隊が2度めに来航したさい,電信機とともに汽車の大型模型がもちこまれている.機関車の長さ2.4メートル,幅1.5メートル,高さ3メートル(この数宇は怪しい,と[原田勝正]は言う)で周囲109メートルの軌間550ミリメートルの線路を1輌の客車を引いて走った.客車の屋根には人が乗れたと言うし,見た者たちは興奮し,好奇心をむき出しにしたらしい.
 同じ年に,機関車のメカニズムを系統的に説明した書物,P.van der Berg,Eerste Grondbeginselen der Natuurkunde,1884の翻訳が出ている.
 こうして鉄道に対する知識が幕末にはすでに蓄えられていた.
 幕府にも鉄道の計画があったと言われるが,それが具体化するのは明治になってからで,しかも,そこには次のような動機があってのことである.アメリカ公使館員ポートマン(L.C.Portman)という者が,1867年に旧幕府の要人から江戸(東京)・横浜間に鉄道を敷設する許可をえていたので,と権利の確認を新政府にせまったのである.鉄道政策をもっていなかった政府は衝撃をうけ,急ぎ態度を決定しなければならなかった.
 政府は,権利の確認を拒絶した.そして,日本の鉄道は,東京・京都間を手初めに官建官営でゆく旨を理由とした.当然,本人およびアメリカ公使館と外交上の紛争になったのだが,外交問題には極度に敏感だった新政権が強い拒絶を表明したのは背後にイギリス公使パークス(H.S.Parkes)の強い支持があったからである.官設官営の方針は,競争者を斥ける英国の外交方針に合致していたし,パークスが仲介してロンドン市場で建設資金を募債することと英国からの技術導入がとりきめられる.
 鉄道敷設権の申請は京浜間の他に大阪・京都問などにもあったが,外国資本の圧力をかわすために,言わば政治的・外交的に決定されて,日本の鉄道は発足した.それは,英国の外交・通商上の利害と並行していたのだが,井上勝〔まさる〕(1843―1910)のような官設官営主義を唱える技術官僚がいたことも重要なこととしなければなるまい.井上は1863年に,伊藤博文らとともに英国に密航して,土木工学と地質学とを勉強し,68年に帰国して,新政府に出仕していた.
 新政権の基礎も未だ安定しておらず,江戸を東京と改称したものの,京都と東京という二首都が並存する状態であったから,二都間を連絡する鉄道の敷設は,政治的安定のためにも必要なことだったし,官設官営はその政治目的にかなうものであった.新政府は実績を挙げなければならなかったのである.
 ヨーロッパの鉄道が産業革命後の経済発展を基礎とする産業鉄道として発展してきたのに対して,明治日本の鉄道は,国内外の事情による,政治鉄道として発足し,産業鉄道としての役割はあとで追加されてゆく.
 第2次大戦後,東京・横浜間に鉄道が初めて開通してから90年を経て,東京オリンピックに合わせた「新幹線」1)の開業で,目本の鉄道技術は世界の第一線に立った.と言うよりは,モータリゼーションと航空機の発達で「斜陽化」に気落ちしている全世界の鉄道関係者を鼓舞したともきく.そして,技術輸出の一翼を担うことになる.
 鉄道の歴史的役割は非常に大きくて,「近代化のかなめ」[原田勝正]と言うこともできる.経済的な「開発」効果ばかりではなく,日本人に時刻厳守の習慣を植えつけたものは鉄道と学校と軍隊であったとさえ評される.鉄道は確かに新しい文明を全国に運んでいった.
 鉄道が何はともあれ,製鉄とともに官設官営で出発したことが技術自立の条件となった.
逆に言えば,鉄道は植民地化の先行条件になりやすいものであったし,現に日本の植民地では鉄道が重要な支配の手段であった.
 鉄道は明治政府の唱える文明開花のシンボルであり,新しい政府の存在を全国民に訴える効果をもっていた.
 (2) 混合交通と「継ぎはぎ」運送
 鉄道によって輸送革命がもたらされたことは確かながら,同時に,輸送手段の混乱を鉄道は加速したのでもあった.
 と言うのは,鉄道が入ってきた時,日本は未だ本格的な馬車交通の時代を経験していなかったのである[山本弘文].明治以前に街道では車輛による運送が禁止されていた.騎馬と駕籠が徒歩の他に許されていたにとどまる.重量物は舟運によるのが普通で,大小の河川と運河がその役に立っていた.物流という点では沿岸航路と河川が主流で,道路はむしろ第二次的でしかなかった.
 そうとは言っても,道路が未発達だったのではない.日本中の全部の村々が,全天候道路ではなかったけれども,道路で連絡されていた.それに舟運網が発達していたから,交通密度は19世紀以前にすでに非常に高かったとさえ言ってよい.
 ある統計によれば,道路の総延長は1980年代でさえ明治維新以前の20%増にすぎない.それほどに完備していた.だが,それは徒歩,騎馬,駕籠による道路交通を前提にしてのことだから,車輛むけの道路幅や勾配ではなかったし,敷石の道路は無視できる程度にしかなかった.
 総延長での伸びは小さくとも,道路面積そのものは全国では数倍になっている.1960年代からは自動車専用道路ができ始め,間もなく全国を貫通する.
 戦後,占領軍が日本の道路の悪さに閉口していたが,それは道路の自動車利用の歴史が新しいことによるものであった.その前に,自動車交通の前史となる本格的な馬車交通時代のなかったことが理由であって,鉄道の普及が早い故に「鉄道先進国で道路後進国」と関係者を歎かせてきたのである.
 徳川幕府が直接管理した幹線道路(いわゆる五街道)は非常に行き届いていて,感銘した記録を残しているヨーロッパ人も多い.だが,統治上の理由から,徳川政権は旅行を制限しており,河川に橋を架けさせていない.
 明治政府は,旅行と運送の自由を認め,架橋も行われ,積極的な道路開発がすすめられて,民間が資金を調達して架橋したものには一定期間有料とすることさえ認めている.言わば,明治は,100年後の第2次道路時代に先立つ,第1の道路時代を拓いたのでもある.
 別に言えば,水上交通に加えて道路交通と鉄道交通の三者が一斉に自由に動きだす,「混合交通」の時代が明治から始まる[山本弘文]のである.
 道路交通だけに限ってみても,駕籠は消えたが大八車と馬力に加えて馬車が登場し,馬車鉄道が生まれ,騎馬があり,そして日本人の発明とされる(すぐのちには輸出もされる)人力車が現われる.それらが,10年余の間に一斉に簇出した.だから,たとえば1878年の東京・京都間(495キロメートル)の至急便は,鉄道1区間,馬車7区間,人力車1区間,徒歩4区間という13区間・60時間の「継ぎはぎ交通」になるのであった.
 東京・神戸間の鉄道が全通したのは1889年のことである.幹線鉄道の延長は,各地に「混合交通」をもたらしながら,「継ぎはぎ」を整理してゆく.とは言っても,島国だから,鉄道網の完備のあとも「継ぎはぎ」の部分が海上交通にどうしても残り,「連絡船」を鉄道当局が経営することになる.本州と九州を繋ぐ関門海底トンネルができるのは1942年のことである.
 海上交通はさきに述べたように産業的な大動脈でありながら,「鎖国体制」が大型外洋船の建造を禁止してきたので,竜骨のない平底・1枚帆のせいぜい50トン級の木造船の技術しか製造上も操作上もなかった.幕府の防衛策は,オランダに依頼して,軍艦(300トン3本マストで100馬力の蒸気船)を購入し,要員の訓練をしてもらうことから始まる.
 開港と同時に外国船が沿岸航路に進出してきたし,和船は速力・積載量(したがって運賃)でも競争力をもてなかった.対抗上,政府所有船(旧政権から引継いだ外国製の船舶)を利用して半官半民の廻漕会社を組織したが,数年で失敗してしまう.そこで有力民間業者の育成に転換した(1875年).こうして三菱会社は,政府所有船13隻と10年間に253万円の助成金をえて,競争相手のPacific Mail Steamship Co.(米),Peninsular and Oriental Steamship Co.(英)を沿岸航路から駆逐し,次いで横浜・上海航路に進出する(1876年).この年から三菱は船員養成のために商船学校の開設を義務づけられ,以後14年にわたり運航助成金を下付されて,のちの大発展の基礎を固めてゆく.その中でも,造船技術の自立には長期間を要したが,その技術自立の時期が鉄道技術の自立と完全な一致をみせていることは注目されてよい.技術的に重要なのは,基本設計力こそもったが細部設計や造船の工程や仕様が分からないので,外国に製作を発注して,図面・書類を一切つけて納品させていることで,そこに,造船技術修得の姿勢がどのようなものであったかが認められよう.
 ここでは鉄道技術についてのみ紹介してゆく.と言うのは,鉄道の普及につれて全国の各地方に機械部がおかれ,そのことを通じて機械工業技術が伝達されて,地方的な技術集積拠点が多数形成されたことを重要視するからである.
 その例を一つだけ挙げれば,浜松工場は,日本鉄道の黄金時代を画する「特急つばめ」の蒸気機関車C51型第1号の出生地となった.1919年のことで,機関車の全面国産化の7年後である.当時すでに東京・沼津間が電化されていたのに蒸気機関車がこの花形列車に用いられていたのは,高い信頼度による.
 その機関車が一地方工場で製作されている,そのことを重要だと我々は考えるのである.1920年に浜松は人口65,000に足りないが,第2次大戦前に,すでに機械工業,電波技術の一中心都市になっており,戦後は世界的に有名な楽器や二輪車メーカーの発祥地になってゆく.その基礎が鉄道工機部の設置にあったのである.さらにその背景を探れば,木工技術と織機製造技術のストックがあったことも確かではあるが,このプロジェクトとしては,工機部から始めてもよいのである.
 鉄道は,また,製作技術に到達する前の技術利用の段階においても,複合技術だから,建設技術の他に通信・信号・電気・給炭水などの諸施設,機器・動力の利用と管理を内容とする複雑・精緻なメカニズムで稼働している.その技術的連鎖と累積の規模も大きく水準も高い点では,国民的技術形成のシンボルにさえなる,少なくとも,日本ではそうであった.このことが鉄道技術の自立に焦点を合わせることを正当化するのである.
(3) 鉄道政策の争点
 鉄道技術は,大きくは次の五大系統に分けてよいだろう.(1)操作(a.運転,b.通信・信号),(2)保守(a.保線,b.修理),(3)製作(a.設計,b.製作),(4)建設(a.測量,b.敷設=トンネル掘削・架橋・配送電をふくむ),(5)駅務(a.旅客実務,b.貨物実務,c.運行・操車の企画と管理,d.安全事務)という広範さである.
 だから,技術の自立と言っても,どの分野における自立なのかは常に問題になるし,相互に関連し合ってもいる.だから技術上のリンケージがスパイラルにしか発展できないことも明らかだろう.
 鉄道技術は,利用技術としてまず確立されたが,その前に建設技術の有無が問題になる.
 基本設計は外国人技師がこれに当ったけれども,かれらの記録によれば測量・土木技術の水準がすでに高く,新しい技術の修得も早かったと言う.それは築城技術にその粋をみる在来技術のストックが活用されたからである.
 日本の鉄道は欧州なみの標準軌間(1,435ミリ)を採用しなかった.狭軌は,インド(ボンベイ・ターナ間),オーストラリア(フリンダーストリート・メルボルン間),中国(上海・呉淞間)などに例をみる「植民地型」とも称されるもので,3フィート6インチ(1,067ミリ)である.この「植民地型ゲージ」の採用については疑問の解けない点も少なくはないが,鉄道技術を政治家たちが知らなかったことに理由はあるし,資金も資材も英国で調達したことで,英本国の鉄道・金融関係者がアジアで採っていた鉄道建設の基準に同調させられた,としてよい.広軌より狭軌の方が安価につくという事情も,この時期では重要な要素であった.
 だが,鉄道の産業路線的価値が高まると,広軌の効率性・高速性を求めて,繰り返し軌間改訂問題がもちあがる.鉄道技術者・官僚は原則的に広軌主義者であったと言ってよい.先進国なみの広軌鉄道にするということは,八幡の場合と同じく当時はImperial Government Railwayを正式の英文名称としていたことからも察せられるように,後発者として先行者たちと同列にならび,それに伍してゆきたいという悲願ではあっただろう.
 軌間改訂の問題は,トンネルや橋梁の改修をふくむから,早期に着手される方が有利で,鉄道網が完成してしまう2)と困難と負担が大きく,事実上でき難くなる.それだけに技術的合理主義者たちは焦慮したであろう.
 他方で,鉄道の地方開発効果に着目するものは,この技術中心主義を否定する.技術的上質化よりも絶対量の不足を訴えるのである.
鉄道政策は,だから,自立にむけて国際水準に改訂するのか,それとも開発効果を優先させるのか,という対立,技術の垂直的高度化をとるか水平的拡大をとるかの,二者択一をめぐって政治的な争点となったのである.
 これは,1910年代には,政党政治の展開とからんで,各政党の深刻な「選挙」対策=利益誘導工作として展開される.結果としては,大船渡線(岩手県)のような「なべづる路線」さえ出現する.有力国会議員が,出身選挙区の利益のために,最短距離の鉄道敷設ではなく,最短距離をさけてその3倍にあたる冂型の路線を敷設させたのである.同様のことは,第2次大戦後にも繰り返されて,日本国有鉄道の全般的な斜陽化の原因となってゆく.
 それは後のことであるとして,鉄道開設初期に軍隊が演じた役割が技術的には見逃せない.前に述べたような外交問題がらみの鉄道敷設,しかも官設官営には前政権の対外負債を引継いだ新政権の財政的基礎の弱さがあった.当時の主権者であった天皇には直轄の親衛軍がなく,反徳川家の有力な諸藩が拠出した諸軍しかない状態では,鉄道は「金を失う道」であり国軍の新編成こそが急務である,と西郷隆盛(1827―77)のような明治維新の設計者たちが主張していたように,根強い反対論があった.軍部は西南戦争(1877年)のときに鉄道の軍事的価値を認識する.その上で,東京・京都問幹線の経路決定では太平洋沿岸路線の防衛的弱点を理由に東海道線に反対で,巨費を要する中央山岳部を貫く中仙道案を主張した.結局,技術・財政の両方の理由で陸軍は譲歩するものの,1887年以後には強硬な広軌論を展開する.それが1898年には一転して,広軌論を撤回するが,かたわらで,全国の鉄道について設計・運転・信号・管理についての統一規格を提唱し,確定させる.
 その1889年は,やっと東京・神戸間が全通した年であるが,「官設官営」原則は財政的な理由から行詰り,私鉄が台頭して,日本最長の路線(上野・青森間の日本鉄道会社)をはじめ神戸以遠の敷設権も官有にはならなかった.1890年には私鉄が1,364キロに対して官鉄は885キロであった.こうした事情を考えれば,鉄道建設を「兵商二途」に焦点を合わせて政策調整ができたこの時期としては,全国の鉄道網の一貫利用体制を一元的な技術規格で統一することが不可避・必然のことであって,鉄道技術官僚と軍事官僚の利害は完全に一致したのであった.そのことが,さきに述べた五大系統の複合技術に官鉄・私鉄間に技術上の互換性,一貫性をもたせることになる.そして,その前にすでに各鉄道会社は「非常兵乱の時には政府に鉄道を自由に使用せしむる義務」を課せられていた(1881年).
 1890年には,最初の資本主義恐慌に日本は見舞われた.私鉄の中にはその打撃から立直れず解散するものも現われ,救済としての「国有論」も政府外から出てきた.ここで,鉄道建設の主導権が再び官僚(軍と鉄道)の手に落る.そのことで鉄道は「国有化」へと大きく歩み出す.
 官設官営が,私鉄全盛を経て,国有鉄道へと展開したのである.しかし国有鉄道主義は幹線については実現するが,私鉄はなお生きのびる.そして,第2次大戦後になると,私鉄の繁栄と国鉄の凋落という現象がおきる.新幹線の営業係数は60%(つまり実コストは運賃の60%である)なのに,それは例外的なことで,多くの地方路線が赤字で,総体としては巨額の赤宇を積年続けて経営体質の改善をせまられることになる.
 (4) 自主設計と模倣製作――自立への道――
 1878年に着工した京都・大津間路線は,連続勾配や橋梁(賀茂川)があり,切取・築堤も多い,複雑な難工事であった.このとき前出の井上勝は「外国人は顧問の地位に立たしめ,トンネルまたは鉄橋の設計等を命じ,其敷設施工の監督一切は少しも容喙せしめず皆日本人を充用」した.結果として,日本人の手で完成した.トンネル工事には日本の鉱山技術(生野[いくの]銀山の鉱夫の技能)が役立てられている.
これは言わば,我々の5Ms論の前段階における問題であるが,外来の新設計技術と在来の技能ストックとの合理的結合の例としてよい.それは,技術移転過程の問題である.
 ここでの関心は「技術自立」にある.つまりハード・ウェアの国産にある.
 この限りで言えば,陸軍の鉄道規格統一論は,未だ,利用技術における一元化政策にすぎない.それが製作技術に如何にして到達できるかが,技術自立の起点と終点の相違となる.「日本の経験」は,移転しやすい(知識化=情報化された)設計技術をまず修得することによって,概念設計を示して,細部設計を外国の製作者たちに委せる,という方法を採った.そして,到着した発注機器の組立て方法を修得しながら,部品の模倣製作に入る.
 鉄道技術の利用者から生産者になることで一番難しかったのは,当然,機関車であった.さきの五段階理論で言えば,第四段階と第五段階の格差が大きいのである.
 日本の技術者はこれを次の様に処理した.
まず,機関車についての基本設計を仕様書に明記して(軸配置2C,重量52トン,軸重12.5トン,動輪直径1600ミリ,シリンダー470×610ミリ,使用圧力12.7kg/m2,全伝導面積159.8m2,過熱面積28.5m2,罐中心線の高さ2286ミリ,弁装置フルシャート式,過熱機シュミット式,許容最高速度96km/h),独・米・英にそれぞれ12輛,26輛,12輛を発注した・
 車は,納品されると国鉄技術陣とメーカー各社が各部品を精密に測定し,全く同じ寸法と素材でデッド・コピーを製作したのである.
 仕様書は同一でも,製品は各国の技術事情を反映して全部が同一同型にはならないものである.たとえば,英国製が過熱器を備えていなかったのは,当時の英国にはその技術が確立していなかったからである.仕様書と違うものでも納品させた理由はさまざまに推測されている.いずれにせよ,機関車を組立てたり,各構成部品の分析・テストを通じて,各国の機関車の設計・製作の過程を学びとることができる.このときは工場別に四形式のモデルが揃ったから,比較検討は能率がよかった.
 こうして,設計から製作へ,また製作上の制約を設計に投影するという,ノウハウが蓄積され,そのことで翌年からはボイラーや水タンクの容量増加という小改良に転じてゆく.
 1913年には,日本の自然条件と技術条件に合わせた設計による全く日本型の機関車が旅客用・貨物用とも製作された.その完成した姿が名車の誉れ高いC51型急行旅客用機関車(1919年)と貨物用D50型(1923年)である.
 こうして,1920年代に日本の鉄道黄金時代の技術的準備は整えられた.狭軌で広軌なみの出力が達成されたのである.
 さらに,1920年代は,電気機関車の出現した時期で,国鉄も独自に電源を開発して電化計画をすすめる.各国から各種の機関車が輸入されたものの,日本の操作条件は欧米と違うし,技術的安定度も当時は低かったので,故障が多く,各型式間に部品の互換性は当然ながらなかった.そのことが国産化に拍車をかけさせる.1928年のEF52型がその産物である.
 まったく技術史的な関心からすれば,日本で機関車が製作されたのは,1893年のことである.外国人技術者の設計と製作指導で,機械工業,重工業の基礎を欠いたままで2年余をかけて製作されている.手工業製品としての機関車である.モデルがあり,技能工が多いと,人海戦術的に単品の製造なら可能であるという実例だが,その技術自立は,内容的には前近代的な自立であって,累積性こそあっても連鎖性がない.また国際競争力をもたない.製品は1台ごとに細部機構が異なるようだと,部品交換も修理ももとの製作工場でなければできなくなる.それでは,工業製品ではなくて,美術工芸品に等しい.
 その意味で,我々は鉄道技術の自立を1910―20年と規定しているのである.
 多くの協力者が言及しているように,1911年には,新大型軍艦を英国に発注し,製作過程から技術者を派遣して研修させている.このときは,解体してコピーを製作することができないから,細部設計の図面と仕様書,作業手順書までにおよぶ膨大な書類を入手している.それによって,発注したのと同型の新鋭軍艦の国産化を達成している.
 この意味で,模倣能力は技術能力の重要な一環であるし,模倣製作にもせよ技術的周辺・関連条件に左右されて,模倣できる水準と内容が違ってくる.模倣から生産=自立へという回路は,多分これからもどこの国でも繰り返されてゆくことであるに違いない.
 (5) 外国人技師の役割
 製鉄技術の場合は,外国人技術者の役割が積極的なものではなかったことはすでに述べた.
だが,鉄道の場合は違っていた.京浜鉄道の技師長として1870年に日本にきたモレル(Edmond More11,1841―71)や建設技術者ポッター(William F.Potter)など,すぐれた人材に恵まれたのは幸運であった.モレルは,当初買付けられた鉄製枕木が日本の多湿の沖積土質には不適であること,および上質の木材が利用できることなどの理由から,鉄製枕木の輸入に反対している.
 また,政府は鉄道その他あらゆる工事全般を統轄する独立の一省を設置する必要があることを進言し,その機関が技術関係者の人材養成に当るべきことも指摘している.それが工部省設置(1870年,1885年廃止)になり,すでに開明的な技術者たちの提唱と重なって工学寮の設置となる(1871年.それが工部大学校を経て東大工学部となる).かれは,いまなお横浜の外人墓地に眠るが,短い滞在なのに大きな基礎を築いた「日本鉄道の恩人」とされている.
 モレルにせよポッターにせよ,日本の経済事情についての理解にも日本人(技術者と労働者)に対する愛情をさえ感じさせる.つまりは,文化の多様性について感受性が豊かなのである.だから,日本の在来技術と技能を評価する仕方,活用の仕方をもっていた.そういう技術者が鉄道の場合には多かったことが京都・大津間路線で架橋やトンネル掘削で日本人に実績をあげさせたし,責任と自信とをもたせたように思う.
 技術を移転するということは,技術を受けとめる側の技術能力を開発することなのだ,と鉄道の事例は示している.
 新橋(東京)・横浜間に1日5往復,約30キロを50分で連絡した鉄道は,貴賤を問わず同じ客車に乗せることで新しい社会哲学を日本に持ちこんだ.料金による等級格差は,その次の段階で生まれる.それを,客車に白・青・赤の三色・三等級で表示することは私鉄から始まった.
 輸送に動脈の地位を確立した国鉄は,営業キロ数21,400キロ,年間旅客69億44万人,貨物1億トン,駅5,290,機関車3,757輛,電車18,235輛,気動車4,683輛,客車556輛,貨車84,923輛,職員数387,000人に達した(1982年).この巨大企業が,いま,1兆4,619億円(60億ドル/対ドル240円で)の営業損失を同年に出して,累積18兆円(1,080億ドル)の赤宇になっている.と言うことは,巨額の支払利息に追われているのである.それでも鉄道は全旅客の40%(貨物の9.7%)を依然として賄っているし,その近代化の役割が終わったとは断じきれない.

 [注]
1) 1964年に東京・大阪間515キロを3時間で結ぶ世界に例のない高速列車として開業.のちに北九州まで延長され,他に2路線が追加された.各車輛は長さ25メートルで16車輛まで連結でき,最高時速210キロ,平均時速170キロで営業している.車体,構造,信号,安全制御などあらゆる点で最新技術が採りいれられている.
2) この前に,鉄道行政の中枢である「鉄道会議」の議長は陸軍参謀次長が占めていたほか,陸軍の代表2名が議員になっていた.「非常事態」のさいには,私鉄にも政府に協力することを義務づけ,全国ダイヤの編成には,軍用列車の分離を確保していた.その上で統一規格を設定したのであった.