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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 VII 繊維産業の技術
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:VII 繊維産業の技術

(1) 日本技術史上の地位
 繊維産業が近代日本の経済と技術に決定的な重要性をもって,それをリードしてきたことに異論をとなえる研究者や実務家はいない・研究書も多く,研究史もながく,詳細な研究は今も続けられている.私も多くのことを先学の業績から学んだし,第3部に総括したところも,この分野の先行業績に負うところが多い.いま,ここでするのは,その研究史的整理でもないし,協力者たちの労作の要約でもない.「開発」と「技術移転」にかかわる重要な諸点を検討することだけである.したがって,専門科学的な吟味は個別の労作を参照していただきたい.
 ⅰ. 技術移転上の特色
 繊維産業の技術は,造船,製鉄,鉄道などの重工業部門が「政府のニーズ」に即したものであったのに反して,「国民のニーズ」に応えて発展してきた.もっと直接には,開国直後の英人旅行者が記しているように「半裸に近い」ほどの貧しい国民の衣料事情に即して,「良質廉価」な木綿を供給して発展してきた.そこに重要性がある.その発展は,素材革命をともなっていた.すなわち麻の重要性が木綿にとって代わられたのである.それが色染めにも反映して紺とか茶の織布染めの他に,糸染めによる縞もの織布を産み,衣料市場を多様化しながら豊饒化させた.
 消費財としての衣料は,それまで庶民には貴価貴重な財産であったし,丁寧に修理して使用されてきた.古い布地の小片を利用したパッチ・ワークや元の布地が分からなくなるほどに太糸を縫い重ねた防寒・防水の労働着(サシコ)がその例である.絹物などは数代も相続されることがあったし,重要な質草になった.古着の需要も多く,今日の東京で盛り場になっているところは多く江戸時代以来の古着市の立った場所であり,古着の流通ルートは全国をおおい尽くしていた.その市場とルートは,そのまま今日でも既成服の流通拠点・経路になっている[中込省三].つまり,上流に生じた技術変化は既存の河床で下流に伝達されるのであって,新規に河床を創り出す困難はまったくなかった.
 それだけではない.生産部門においては,多大の労力を要し・熟練を課す紡績部門だけが,機械紡績は手紡の20倍の高能率だったから機械化/近代化されたのであって,織布部門は伝統的技術部門に委ねられてきた[石井正].したがって,近代技術が在来技術を一掃するのではなく,両者が相互依存関係または相互補完関係を構成していた.このことが理由で,この産業/技術は安定・定着し,かつ国民産業として発展することができた.
我々は,この内外・新旧両技術の間に成立したリンケージを国民技術体系の形成にこの上なく重要なことだったと考える.この新旧のリンケージが,都市と農村を問わず,家内工業と家庭内職(および自家消費)の網の目を拡げ深めることで「外来産業の在来産業化」を果たしたのであり,その流れは縫製にまで及んだのである.
 近代技術が紡績部門に限定されて移転された理由には,当時の欧米織機は広幅ものしか生産できず,日本の需要は専ら小幅ものに限られていたという事情もそこには介在する.だが,そのことは,技術移転が選択的になされたという事実を否定することにはならない.
 技術移転が選択的になされたことは,紡績機械そのものの選定においても認められた.最初に輸入されたのはミュール機であったが,10年たらずでリング機に転換する.リング機が当時としては最新鋭の機械だったという理由から選択されたのではない.熟練節約的で,安価な女子労働力を利用できるからであった.ミュール機の操作は熟練の重筋肉労働で成人男子のみが能くするところだったし,その熟練形成には長期間を必要とした.熟練節約が如何に必要であったかは,高性能のリング機をもってしても,ミュール機を用いる英国の熟練工の4分の1から8分の1以下の生産性しか当時の日本では挙げていないことから説明できるであろう.労働者の技能差は,単純に比較することは危険なのだが敢えてすると,12倍ないし20倍もあったことがリング機にむかわせたのである.
 その上さらに,リング機に適切な低番手の太い糸が需要に合っていたということを追加しておかなければならない.勿論のこと,ミュール機もリング機によって一掃されたのではない(そのことは後の記述をみよ).細い高番手の高級な製品需要むけにミュール機は適していたからであるが,産業としても,技術としても,リング機によってリードされたし,リング機によって新旧技術のリンケージが確立され,広く深い国民市場をもち,「新しい在来産業化」が達成されるのである.そこには,無条件・盲目的な最新技術の移転ではなく,合理的判断による選択が作用していたこと,それが著しい特徴をなしていることに注意を促しておきたい.
 (2) 政府の役割
 ⅰ. 紡績の場合
 紡績産業の発達は,渋沢栄一に代表される民間人によって担われた.そこに著しい特色がある.また,同じく民営で発展をとげた鉱山技術が内陸における「複合技術の孤島」であったのに対して,紡績は都市的で,大規模工場が関西とくに大阪に集中・集積されるという特徴を示していた.その点で,同じ繊維産業と言っても製糸は小規模化と各地方への分散という相違をみせているが,その理由は原料供給にあった.製糸は,生きものである繭の処理に時間的・季節的制約があって,原料生産地に立地するのであった.これに対して紡績は輸入原料に依存するので,輸入港・消費地に立地することになった.それが,どちらも女子を基幹労働力としていたけれども,立地が就労条件に反映して,冬期から早春にかけて操業しない製糸では原理的に単年契約の繰り返しであったのに,紡績では通年の昼夜2交替制(24時間操業)で3年契約が通例である,という出発をしている.
 ついでに言うと,綿花はほぼ全国で栽培されており,農民にとって商品作物としても自家消費にも食糧に次ぐ重要作物であった.しかし,各地の栽培条件を反映して,原料としては統一・標準化されていなかったので,機械紡績には不適格だった.輸入綿が利用された理由がそこにある.したがって,日本の農民は重要な収入源を失った.代わって,娘たちの労働力を紡績工場が利用できる条件となったし,主要な綿作地帯であった大阪南部では貝ボタン,毛ブラシ,後にはクリスマス用の豆ランプや眼鏡レンズ製作などの,輸出向け雑貨の生産に活路を見出すのであった(詳しくは[竹内常善]の労作をみよ).
 紡績と製糸のそうした相違にもかかわらず,極く最初の技術移転は政府によって行われた点では共通している.紡績も製糸も官営模範工場は短命であった.どちらも経営的に失敗した.新政府の財政危機が民間に払下げる契機になった.しかし,技術の移転と普及という点からすれば,製糸の場合には成功であったし,製糸技術上の後進国であるのに,代表的な輸出品目として所期の外貨獲得目的を果した.そして,紡績は輸入代替(全輸入額の30%に達していた)に成功し,やがて輸出品になった点で,成功したのではあるが,2,000錘(1台500錘,4台1組)の小規模工場を全国各地に10ヵ所創った政府の紡績振興政策は,技術的には失敗であった.そこにも製糸と紡績の相違がある.政府の予想では全国に約250工場ができれば,完全に輸入代替が果たせる見込みであった.それが最初の10工場の水準で失敗したのは,次の理由によるのであった.
 (1) 2,000錘という規模は過小にすぎて経費倒れになった.しかし,追加投資によって規模の利益を確立する投資力が政府にはなかった.
 (2) 動力が水車であったから,早期には稲作と用水上の競合がおきたし,既得権は稲作にあった.それのない冬期でも渇水に悩まされて,通年の安定操業ができなかった.この問題の解決を,薪を燃料とする蒸気機関に求めたところでも,用材の長期・安定供給を確保できなかった.つまり動力(とその利用技術)問題が解決できなかったのである.
 (3) 誰もが機械に不馴れであったから,据付けが悪く「総体に震動を生ずる」ことが多く(三重紡績工場からの報告),それが不良品製造と故障の原因であったのに,技術者の絶対的不足が修理と保守を困難にして,操業実績がきわめて悪かった.どこでも外国人技師の雇用を検討していたが,高給を支払う経営・資金余力がなかった.
 三重紡績では,粗紡機と精紡機のメーカーが別々で「作業歩合釣合ハザル」有様だった1).何と今日の発展途上国と似ていることか,感慨なきをえない.
 政府が熱心に肩入れした「官営模範工場」は合計17に及んだが,10年余で政府が手をひいたあと,さきに述べた技術的弱点を克服して勃興期の主流に伍してゆくのは,のちの東洋紡や倉敷紡になるたった3工場にすぎず,その何れもが「経営改革に成功した」ところばかりであった.その経営改革が技術問題の解決に連続していたのである.
 「十基紡」と称される官営模範工場の失敗をよそに,政府計画と無関係に大阪紡が民間資金を動員して,周到な事前調査をもとに立地を吟味して,当初から15,000錘という大規模で150馬力の蒸気動力を利用し発足したのは明治15年(1882)のことである.英国留学中の青年山辺丈夫[やまべたけお]をしてランカシャの工場で実習させるかたわら,かれの下で中堅技術者になるべき要員を官営工場に送りこんで研修させていたし,機械の据付けに英国人技師ニードルのほかに大阪造幣局の技師斎藤恒三からも指導・監督を受けている.つまるところ,官営工場の失敗が徹底的に学習されているのである.
 こうなると,改めて,何故,2,000錘という規模が政府工場の標準とされたのであったかを問いなおすべきであろう.この点について,既存の研究は納得のゆく説明を与えてくれない.察するに,計画の中心人物であった石河正竜技術者らの経験主義的発想では1万錘という巨大工場を構想できなかったことに由来するものであっただろう.この熟練の土着技術者には,先進国の工場操業についての体験がなかったし,工学的基礎が不充分だったことによるものに違いない.
 こうしてみる限りで,紡績についての政府の役割は積極的なものではないし,それを認めるとしてもごく端緒的かつ短期のものとすべきであろう.
 ⅱ. 製糸の場合
 鉄道の場合と同じく,居留外国人(オランダ人,他にフランス人説もある)から工場開設の申請があって,政府は急遽「官営工場」の設立に踏み切る.幸い,後のちまで「名師」として尊敬されるポール・ブリュンナー(1840―1908)を雇うことができたし,製糸の技術的成功の過半はこの人の功績に帰せられるだろう.
 明治政府にとって,巨額の輸入に見返り輸出できるものと言えば,金,銀,銅と石炭の鉱産物の他に生糸しかなかったから,重要な外貨源であった.しかし,日本生糸は色の白さ・光沢・柔らかさを重視する製法であったために,デニールが不揃いであったし,それが欧州では商品価値が低く,織物用としてはヨコ糸にしか用いられなかった.撚りの堅い・均一の細い糸をとるためには欧州式の製糸法に転換する必要があったので,政府はフランスから工場設備と技術者および熟練工を雇い入れ,操業指導に当らせた.1872(明治5)年,群馬県の小さい城下町富岡がその場所である.
 政府系のフランス技術の他にも移転された技術(イタリヤ系)があり,ほぼ同時期に入ってきた技術が交配されて日本の原料事情に合った最適の技術体系が完成されるまでに約20年を要している.その時から,日本の製糸技術は安定し,市場も欧州からアメリカに変更しながら,低価格の中国もの,高品位のイタリヤものに対抗して国際的地歩を固めてゆく.
 その技術的変化は,欧式繰糸法の修得とは別に,繭糸の不統一を改めること(繭種の標準化)と原料処理の前工程を追加して,細く粘強性のあるものに改良したところにある.次いで桑の樹の栽培法,さらに蚕の飼育法に一連の改良を施して,技術的なピークに達したのが1930年代であるが,そこで第2次大戦となって一挙に沈滞する.
 官営富岡工場の意義は,第1に全国から600人の工女を集め2年から3年かけて全工程を修得させたことであり,彼女たちが出身地に戻って「教師」として新技術を各地に普及・定着させたところにある.そのさい注目に価するのは,長野県松代出身の和田英[えい](旧姓横田,1857―1929)が,未だ学制施行前なのに,詳細な「富岡日記」を残していることからも分かるように非常に高い知的水準を,旧法による技能に加えてもっていたことが,新法の修得(3週間でよかった)と普及とを可能にしていたことである.富岡の工女は多く旧士族の出身であった.
 第2には,各地への普及・定着のさいには,富岡工場の「銅・鉄・真鍮」の設備と機器が「木となり,ガラスは針金と変り,煉瓦は土間となる」ほどに徹底した資本節約が松代では行われたことを和田は書き留めている.政府が富岡工場に投じたのは現在の20億円にも相当する20万円であったが,松代では300円の資金で発足している.「蒸気が立たない」と富岡帰りから苦情を言われたボイラーも汽船乗員が設計して銅壼師が製作したもので,パイプは鉄砲鍛冶,歯車(木製)は槍師の手になるなど,在地の在来技術が総動員されている.苦心惨憺した成果,近似の機器が製作されて,稼働したことに我々は瞠目させられる.模倣製作にもせよ,出力が悪いにせよ,これは相当なエンジニヤリングの能力である.そこにも,当時の内外技術格差は(工学的原理論を別とすれば)絶望的なものでなかったことが確かめられる.さらに,松代工場に押しかけた見学者たちは,この設備さえ「道楽機械が多い」と評して,一層の資本節約効果を挙げている.
 ここに,いわば「プロテスタント的」とも言えそうな製糸経営者たちの経営的合理主義と鋭い技術評価能力とが立証されている.何よりも製糸家自身がショップ・フロアーでの実践的指導者であった.いわば彼らは自力で設備を設計し操作して,次々と経営規模を拡大して巨富を築いてゆくのだが,その点が「政商型」が多い紡績とは違うところであった.他方でこの製糸家の克己的勤勉主義は,いたいけな少女にまで彼の生活倫理を強制してはばかるところなく,ついには「等級賃銀制」を考えだす.これは女工全体に支払う賃銀総額を予め固定しておき,その額を女工たち同士を生産競争に追い込んで取り合いさせる仕組みである.原料節約の効果を挙げ,上質の糸をより沢山引いたものから順番に1等・2等と格付けして賃銀の多寡を決めるのである[中村正則].
 「対話」の相手方から繰り返し話題にされた「政府の役割」を,この産業技術分野にかんする限りで要約すれば,政府の役割は重要であったが,それは極く初期の短い時間のことであり,イニシァティヴが民間人に握られるようになってからは,対応が消極的になる.そして,苛酷な労働条件・衛生問題などをめぐる立法措置もつねに後追い的だし,法の運用においては私有財産保護を基本的人権より上位においていた.とくに労働争議にさいしては高圧的であり続けた.
 (3) 何故,インドに追いつけたのか――「対話」のための素材――
 これまで述べてきたことをもとに,何故,最大の競争相手で技術先進国であったインドに日本が追い着くことができたのかという問題に触れてみたい.
 実のところ,この問題は,日本でもインドでも(私の知る限りでは)未だ本格的な研究主題にはなっていない.むしろ,これから国際的な共同研究による検討が期待されるところではある.こういう問題は,ただに技術を中心とする国際競争力形成の問題であるにとどまらず,開発問題における政策的優先順位の策定にもかかわることだからである.たとえば,軽工業中心とくに繊維産業優先主義(textile first)の主張もあるほどだが,我々はどの時代にもどの国にも一律に有効な工業化政策というものはありえないと考えていることを付言しておきたい.
 それ故,将来の方法的「対話」のために問題提起をここでするのであって,いま結論を述べているのではない.そのことを予め断っておく.
 ⅰ. 経営(規模)と技術
 専門家的詳細と厳密さを省いて,日・印対比の問題点を指摘すれば,英国との対比で指摘できるように,日本綿業には経営規模拡大に対する制約が全然なかった[米川伸一].あるのは,経済原則からの制約だけであった.その1例に挙げられるのが,昼夜2交替制の24時間操業体制と,それによる高収益の再投資という経営方式である.労働者保護の工場立法が日本では1911年になるまでなかった.
 このことが,発足当時はボンベイの紡績企業よりはるかに小規模であった日本企業に急速な追いあげを可能にしていた2).
 技術的にも,日本では,[加藤幸三郎]によれば,「先進国イギリスとは対象的にミュールからリングへの転換」が有力企業のすべてを通じて一斉であったところに,インドとの対比が認められる.勿論のこと,インドにもタタのようにリング紡機への転換が早い大規模工場もあった.それにしても,インド全体ではリングが圧倒的で,ミュールは傍流ないし従属的であるところが日本紡績業の状態とは違っていた.
 この紡績機械の種類にかかわる技術問題は,再び,経営の問題とからむ.タタは当初から経営代理制に反対してきたことでは例外的であったが,それを,タタのリングへの転換が早期であったことの理由にできるかどうかは分からない.インドの経営代理制が原理的に技術変化に消極的であったのかどうかは,あまり簡単に断定できないことではあるだろう.と言うのは市場問題がらみの経営戦略があって技術政策が生まれるからである.原理的にはともかく,結果的には,リングへの転換が緩るやかであった.仮説としては,経営代理制は技術変化に敏感ではない,としてよいだろう.
 他方,後発者の日本は輸入代替を目指して新技術の修得に必死であった時に,(1)リングの方がミュールよりは熟練節約であったのと,(2)国内市場は低番手の太糸が中心であったし,それにはまたリング機が好適だったという事情がある.
 この事情は次のように言い換えられる.すなわち,リング機は最新鋭機ではあったが,市場と労働条件に最適の機種だったのである.このことは,技術移転が選択的に,しかも一斉に日本紡績業で行われたことで立証されている,と言えるであろう.
 このことが,さらに,大工場が低番手紡績の専業から織布の兼業へと移行するようになると,それは朝鮮・中国市場への進出と並行することなのではあるが,中番手・高番手糸の紡績および織布のために,リング機の特性に合わせて,新しくすすめられた操作技術上の小改良である,いわゆる「混綿技術」の発展に連なる.
 ⅱ. 混綿技術と商社
 この混綿技術そのものは,日本以外にもあった(とくにインドに)らしいけれども,高級原料を生産できない日本が「最も割安な綿花を利用する」技術として独自に開発・定着させた,という点では重要視しなければなるまい.リング精紡機の特性に依存しながら,利用する原料綿の混合比を変化させて高級品の精紡・織布に移行してゆく過程として,次にかかげた表を読むことができよう.
 日本綿が,10年そこそこで,その染色効果のよさを生かした製品特性以外の市場むけには利用されなくなってゆくこともそこから読みとれる筈である.
 ところで,この混綿技術の展開には,別の側面がある.異業種とのリンケージである.
 「マンチェスターから程遠からぬリヴァプールに世界最大の綿花市場があって……ランカシャーの紡績業者は原綿の買付けには別個の商業的活動と商業的組織を必要としない.……専心紡績に全力をあげることができた」という事情は,日本にはない.そこから,「貿易会社と紡績会社との密接な原料綿花輸入,信用供与の関係,さらには製品綿糸布販売における役割」が生まれてくる[加藤幸三郎].「特約紡績」と日本で言われている商社と加工・製造部門との契約関係は,こうして必然となるのであった.つまり,商社は原綿の「産地直買」方式で確保する特定量の原料を紡績業者に供給し,かたわら製品の販売を引受ける契約関係の発展であるが,大手貿易商社と大手紡績業者の関係は互恵的なものとなって安定した.産綿国でないからこそ生まれたのが混綿技術であった,とも言えるだろう.付言すれば,そこに日本型「総合商社」の役割と機能とが原形的に見られるのであり,さらにそれは原綿運搬を担当した商船団の存在という第二・第三次のリンケージ問題があった.
 ⅲ. 工程分解とローテーション
 これから述べることは,仮説的性格が強くなるので,疑問の提起とでもみるべき内容にとどまる.専門家の多くは,24時間操業という点に注目しているが,工程の合理的な分解と配置転換による日本型熟練の形成ということも,それに劣らず重要なことではあるまいか,というのがここで私の提起したい問題なのである.
未熟練労働力の大量雇用と長時間労働とは不可分に結びついた工業化初期の工場労働の形態であるが,それは単純労働を内容とする場合に限られる.それだけからは,多角的・多能的な高度な熟練の形成は果たされえない.混綿技術は熟練を要する機械「操作技術」であるし,織布となれば高品質の製品ほど熟練の水準は高くなる.そこに経営の側からも,
 熟練形成の対策が必然化してくる理由がある.そこで採られるのが主要工程の分解,しかも合理的分解であり,合理的に分解されることで単純化された小工程なら短時間でマスターさせられる.その上で,小工程間を移動させると主要な一工程全体にわたる技術知識と技能とを修得できる.それが,日本的熟練形成の仕方であった.
 たとえば,すぐれた繊維労働者の記録『女工哀史』(1925年)を残した細井和喜蔵(?―1925)は,紡織兼業の大工場で紡績部門の「綛[かせ]場」(=リール),「ミュール精紡」,「試験方」を経験している.細井が書きとめているように,日本繊維産業が国際的地位を確立した時期になると,大工場と小工場とでは「技術的組織」に(したがって工程分解に)大きな相違があった(それが工場規模による生産性格差と賃銀格差に反映する.いわゆる賃銀と技術における二重構造である).次いで,紡績専業工場と紡織兼業工場とでは「機械・器具も一様でない」ように,経営の規模と形態の相違によって「技術的共通点がとぼしい」のであり,大小工場の労働者には経済理論が前提としている労働の互換性はすでに失われてしまっていることを細井は指摘している.細井当人は大工場の単能型熟練工であったが,彼によると,その工程は次のように編成されていた.
 以上は紡績部門のみについて細井の記述から引用したが,「これ以上の分業が実際に於ては行われている」し,これに織布部門(8主要工程,全18小工程と18職種)とその付属工程そして原動機,修理,営繕の基幹サービス部門を合計すると,全体は50―70の職種(=小工程)からなっている.
 これと,細井より四半世紀ほど前の1894年に出たルポルタージュ『日本の下層社会』のなかで横山源之助が記述しているところとの相違は,主工程のみについて*印を付しておいたところから明らかである(また,横山がつけたルビは括弧で示した).横山は付属部門(と織布部門)については述べていない.両者が同一工場について報告しているのではないけれども,大工場の技術編成は19世紀末までにすでに標準化されており,横山も精紡機にリングとルビを付しているから機種も同一であっただろう.横山の報告[ルポルタージユ]と細井の記録の間にある30年近い時間差は,紡績技術の確立期と成熟期の差であるから,リング機自体にも改良があったことを想像させるものの,革命的な技術変化ではなかったであろう.ちなみに豊田佐吉の自動織機の最終的完成は1925年で細井が記録を完成した年であるが,普及はすぐのことではなかった.だから,横山と細井の両著からすれば,大工場では精緻な小工程への分解(と特殊工化=単能的熟練工化)がその間にすすんだ,としてよいに違いない.そして,小工場では,細井の「技術別分類」による「一分科の仕事(=我々の言う主要工程に当るだろう)を一人で兼務する」状態が残るのであった.小工場の分業体系は,恐らく,ミュール精紡機時代の名残りであっただろう.大阪紡のリング採用は第二工場操業の1886年からで,大手工場はすぐそれにならっているけれども,その大手工場でも熟練に長時間かかるミュールを排除していないことは,横山の報告からではなく,細井の記録から確かめることができる.それは恐らく,長繊維綿花を使用する高番手の綿糸・綿織物の生産と不可分なミュール紡機の機械的特性によることであっただろう.その段階では,競争相手は低・中番手製品のインドではなくイギリスになる.イギリスでは紡・染・織の三部門にわたって高度の水平分業がすすみ,各工場が小規模化していて,紡織兼業は少ないとされているけれども,日本はそれに垂直統合で対応していったと見立てることもできるだろう.
 技術移転から技術自立(そしてとくに技術開発)に至る過程で,ここで述べた「追い着き」の時期は別とすれば,水平分業が効果的なのか,それとも垂直統合が合理的なのかは,一概には断じきれないことである.
 他産業の事例を挙げると,日本の時計産業がクォーツから電子利用時計へと技術変化をリードしえたのは,一貫生産の工場制を維持しながら技術開発に集中してきたからである.クォーツの時計原理は半世紀も以前に発見されていたことだから工業利用の機会はどこの国にも公平にあった筈である.だが,有名時計メーカーが,実態は,設計と組立てに専業化していて,それが分散した独立な高技能の部品生産者の広範な存在を基礎としていたスイスの機械時計産業の場合には,原理的にはともかく,結果的には,時計最先進国だったのに,技術革新を自らの手で達成しなかった.
 ここに,我々は,技術を一般論的にではなく,具体的に論じなければならない根拠をもつのであるが,話を再び繊維技術に戻せば,繊維職工は,「五十以上七十の各々変った」職種から成りながらも,そして細井が「ここに挙げた以上の分業が実際には行われている」と指摘したその上で,なお,大工場では職工を「運転工と保全工の二種」に分けるのが普通であり,しかも「両者が確然とした色で分けしきれない」とも述べている.つまり,分業が細分化していながらもなお,分業が職能別に固定的ではないことに,たとえば19世紀末のインドなどに比較してのことながら,我々は注意を喚起させられるのである.
 ⅳ. 技術変化と女子労働
 ミュール紡機からリング紡機への移行は,後者が強い筋力を必要としないところから,そして婦女子の賃銀が割安であったから,紡績産業の労働力構成の比重を男子工中心から女子工中心へと変貌させた.
 横山は,すでに,連条[ドローイング]・粗紡・精紡・綛[リール]が「婦女子の労働」であることを述べているが,「最も職工を要するは精紡にして,しかも年少の労働者を見るも精紡部最も多く,労働最も激しきは粗紡部なるべし」と指摘しているように,紡績産業は婦女労働に依存して発展したところに特徴がある.この産業は,雇用創出力が大きい反面で,大量の低賃銀労働力を調達できて初めて存続できるのであった.だからこそ,紡績業は,都市立地であったけれども,貧民・細民の居住区に近いところを選定して工場を建てている.地価が安いことも理由になるが,労働力調達の見込みと不可分な立地である.
 そのさい,男子工の妻や学齢前後の子供まで一緒に雇用していた.賃銀の低さが家長である男子工から一家扶養の能力を奪っていたからである.一家総就労でやっと最低生活が維持できるという,工業化初期の状態を,「完全雇用」に皮肉に対応させて,日本の学者は(造語者は東畑精一だったとも言う)「全部雇用」と呼ぶこともある.
 だが,10年余で都市内での労働力調達が不可能になってしまう.激しい都市人口の増加,とくに貧民・細民の大都市での増加にもかかわらず,労働力の調達と補給に各工場は難渋している.労働の激しさと労働時間の長さが,労働移動率を高めたのであった.
 都市内での労働力調達が限界に近づくと,各企業は「事情に不案内な」遠隔の諸地方に募集人を派遣し,3年の年期労働の契約をさせて,僅少の先渡金で労働者を拘束するのであった.そうして調達された「募集」女工がどこでも全労働力の80%で,「志願工」は20%しかなく,全工員の70%以上が女工であるのが繊維産業の雇用構造であった.しかし,女工は毎年30%以上が待ちかねた「契約」期間満了と同時に退職するので,その分だけ補充が毎年必要だった3).そのためにかける募集費用は,未熟練労働者の数ヵ月分の賃銀に相当するものであった.それが募集女工の負担であったから,賃銀カットと同じで,募集人費用がなければ賃銀増になる筈なのに,その程度の賃銀増では「志願工」を必要なだけ調達できない事情を反映していた,
 募集女工たちの圧倒的多数は,農林漁業に従事する家庭の子女で,「家計補助」が動機であった.契約と前渡金を理由に,外出さえ厳しく制限された寄宿舎生活を強いられ(逃亡と引抜きの防止のために),昼夜2交替の2人が同一の寝具を間断なく利用する仕組みであったから,衛生状態も悪かった.
 そこに,和田英らが富岡で経験した寄宿舎との甚だしい相違がある(それでも病人は少なくなかったし,工場付属病院は富岡に初めてできた).そればかりか,初期の製糸女工たちは4),後には紡績と同じになるが,冬期には実家で団欒を楽しみ体力を回復できたのだが,紡績の発展と技術変化が,女工たちにそれを許さない.紡績女工たちを苦しめたのは,激しい長時間労働と郷愁であったと言うが(細井和喜蔵),それは,農業的勤勉と工業的労働との文化的相違の反映でもあって,きびしい工場作業への適合過程であり辛い文化変容の個人史でもあった.だから,会社側のさまざまの引き留め策を振切って彼女らは帰郷してゆくのであったが,その一方で,多くは健康を損ねてしまっていた.
 脚気と肺結核が女工を蝕んでいた.労働環境の劣悪,長時間労働,低栄養の給食が原因であった.しかも多くは工場内騒音のために難聴になった.これがまた大声で話す習慣となり,社会的に女工が嘲笑を浴びる理由ともなる.脚気は後に特効薬ができる.けれども,原因が判るとかえって消化の悪い飯米を供され,食後の休憩もないほどに(出来高払い制と褒賞金制とで)追いまわされていたから,女工に胃病を殖やす結果を生んでいる.結核は,保菌者の娘が治療を受けぬまま年期を了えて帰宅することで伝染の範囲を拡げて,「国民病」と称されるほどになる重要な原因となった.細井の記録によれば,「志願工」の既婚者にしたところで,総じて出生率が低く,流産・早産は平均婦人の2倍以上もの高率で,ハンディキャップをもつ子供も同率で高い.それは母体保護策が全然採られていなかったことの影響であるのは言うまでもない.母体保護以前に年少の募集女工雇用に対する当時は唯一の制約であった義務教育期間でさえも,各工場が学校を付設することできりぬけている.そこでは義務教育が労働過重の効果さえおびることになる.
 ⅳ. 開発問題の「原点」
 女工たちが健康を代償にして紡ぎだした綿糸と絹糸とで,日本は軍艦を購い,機械を求め,輸出を殖やし,輸入代替を果たした.技術自立を達成し,独立主権国家として生きのびてきた.そして主権防衛のための「生存圏」確保でアジア諸国民に被害を与え,自らもまた深く傷ついた.余りにも高価な国民的・社会的代価は,女工たちが日本では最初に支払ったのであった.
 戦後日本の技術自立と発展は,一方で戦前の技術編成を回復することで始まるが,同時にそれは戦争放棄ということと連結されている.そこに至ってもなお,かつて女工たちが支払った高価な代償を,今度は日本人全体で「公害」という経験を介して支払うのであった.
 戦前の女工哀史にせよ,戦後の公害にせよ,いずれも「開発」が国家的・国民的緊急課題である時に,その課題の正当性と正統性の故に,政治・行政・経済・技術のエリートたちはその善意と責任感のあまりに自らの特権行使に気づくことなく,傲慢にも強行してはばかるところのない「開発」行為が,非特権者たちの人権を軽視または無視していることを顧みないところから生まれたものであった.開発の緊急性と開発至上主義,または開発と民主主義との関係は,こと人権にまつわる限り,主権行為としての開発行為ではあっても,外国市民にさえ批判活動の自由があることではないのだろうか.そうでなければ,我々の期待する国際比較研究,「方法的対話」による共同研究は意味をもちえないだろう.
 「方法的対話」を期待したために,問題を拡大しすぎた感がなくもない.改めて今日の日本の繊維産業とその技術に立ち返ると,もはや天然繊維への依存は脱却している.天然繊維そのものは依然として有用だし不可欠ではあるけれども,戦前ほどの重要性は失っている.そして,いまでは純天然繊維のみに依存する手紡・手織の麻布・綿布も絹布も超高級の工芸品になってしまった.
 大手の旧繊維企業は,かつての社名こそ残してはいるものの,原材料が輸入できなかった戦争中から化学繊維の研究開発をすすめてきていて,いまでは化学工業に転進し,異種の技術部門にも参入している.ビニロン(ポリビニアルコール繊維)の工業化技術は国産技術であることさえ,もはや多くの日本人が忘れてしまっているほどであるが,その技術ストックが最先端技術への参入の基礎にはある.
 また,綿花・綿製品の専門商社は,その輸出入実務の経験を元手に綜合商社に転身・転成してしまっている.「日本の経験」のそうした側面は,また別項で取り上げる.

[注]
1) 神立春樹の論文(『技術の社会史』3に所収).
2) 米川伸一「紡績業における企業成長の国際比較」(『経済研究』1978年10月)およびその英訳.
3) [泉武夫]の論文およびDeveloping Economies,Vo1.10の論文をみよ.
4) 300人を越す元製糸女工だった老女たちからの「聞き書き」,山本茂美『ああ野麦峠』1952年,角川文庫をみよ.これは映画になって感動をよんだ.