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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 VIII 小規模工業ー近代技術の解体による土着化ー
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:VIII 小規模工業ー近代技術の解体による土着化ー

 (1) 開発における小規模工業
 いま日本では従業員1,000人以上の大規模工場の数が減り出している.これは技術革新によるもので,省力化・省資源化が労働力・素材利用・エネルギー消費の点で急速にすすんでいること,ならびに商品特性を求めての開発競争が激化して,商品のライフ・サイクルを著しく短くしていること,などで説明されている.あるいはまた高い消費水準に到達したことで,高品質の多品種小量生産に移行した量産方式を採用せざるをえない,危険分散のための経営形態だとしてもよい.それに応じて,雇用形態も定形的な「日本型」がそこにはみられないことを,一部は,女子労働の項で若干触れておいた.
 いまここでは主題を製造工業に限ることにするが,第三世界では余り知られていないのは,日本の製造工業全体の中で中小規模工場が占める比重の大きさである.そして,それが有名大企業とリンクしているその構造である.
 中・小規模工場と言っても,定義は時代によって変動し,10人以下,20人以下,100人以上などの時代をへてきているし,それに即した統計もさまざまに利用可能だが,今日では300人未満,資本金1億円以下を中小規模と官庁統計などではしている(たとえば,通商産業省『1980年工業統計表』産業編).
 それによると,20人未満の工場数は全工場のうち87.3%におよび,全従業者数の20.1%,総出荷額の12.6%を占めている.
 逆に500人以上の事業所は,0.3%(実数で1,807),従業員20.5%(224万6,000人),出荷額で38.3%に達している.
 100人以下の工場の国際比較では,日本が工場数で98.0%,雇用者数で58.0%なのに,アメリカは87.7%と25.4%で,西ドイツは72.6%と18.7%であり,1,000以上の規模は日本がそれぞれ0.1%と13.4%,アメリカは0.6%と27.5%,西ドイツは2.2%と38.0%である1).
 この三国の比較そのものに格別の意味があると主張するのではない.高度に工業化された社会も,数多い中小規模工場をもつこと,そして,技術の性格・業種によって大規模化が無意味または不可能であることを確かめておきたかったにすぎない.
 日本の中・小企業は高度成長期の労働力不足で設備の高度化・更新をせまられ,二度の石油危機でコスト増・競争内容の変化と激化に直面し,経営体質・活動の変革を経験させられた.その経過から製品開発力のある中・小規模を合理的選択とする世界的にも有名な企業をさえもつようになってきている.1975,6年頃から中小企業の設備高度化は新しい局面をみせた.その高い技術力が輸出品に国際競争力を与えている.製造工程のIC化が,企業ごとの製造能力と品質の格差を消去したので,大企業間・大中小間のOEM方式(original equipment manufacturing system)が急速にひろまっている.これは,国民技術体系の内部構造としては,新段階であるかどうかは分からないが2),新局面をなしつつあるとは言えるかも知れない.と言うのは,製造業内部に安定型と成長持続型の二極化がみられるからである.
 とまれ,日本経済における中小企業の必要性と重要性とは変らないであろう.ちなみに,300人以下の工場が東京都内では99.5%を占め,工場労働者の74%がそこに雇用されている.さきの例から分かるように,大中小の諸工場が無関係に孤立不散・雑居しているのではなく,技術的・組織的な関連をもちながら並存している,そのことが産業化の内容なのである.
 これを開発問題の脈絡にすえて言うならば,都市型の近代工業技術の普及・展開と言うことに他ならないのだが,その経緯は,ある工程(または職種)の技術を特定水準で獲得したものたちが,その工程(または職種)を独立させ,自営業者になることであった(=工程分解から工程分離へ).
 かれらに取引先が多ければ技術力が自営の保証になる.しかし,工程分解の延長上にあるだけで単純な場所的分離にとどまるのならば,工場内での請負と同じく親工場に付属する一分肢になる.もっとも業種・業態によっては全工程技術の修得が分離の条件となることもある.この最後の事例は徒弟養成型の職人の独立や,商家の「のれん分け」と同じく,本支店/親方=師弟関係により技術の伝達が行われるのだが,初期の投下資本量が少なくて済む技術(そういうものは多く高技能・高熟練を要する)ほど独立・分離が容易になる.
 だが,初期投資額が大きければ,他人資本とくに商人資本への依存がおきる.このときは,原料・機械などを貸与されて,賃加工業者として出発することになるが,各小工程ごとに分断されるから,加工賃を低く抑えこまれる.そこで小自営業者がみせる技能差・技術力は原材料節約と加工方法の能率化である.多くの中小企業家は,こうした技術蓄積を重ねて,完全自立への途を歩んだ立志伝的な小英雄・小勇士たちである.
 これまで述べてきたことは,産業を規模の大小という点で分類した見方である.これとは異なる分類に近代産業か在来産業かの区分法がある.この区分法を採用してみると,小規模経営の大部分が在来産業であり,消費財生産とサービスにかかわっていることが浮かび上がってくる.近代技術を利用するのが工場制生産であるとすれば,在来技術と機器に依存するのが家内工業である.しかし,その規模には,数百人から数人というバラつきがあるけれども,一説によれば,1930年代に至っても,この家内工業が総工業生産額の4分の1を占めていた.
 前世紀中葉からの統計によれば,日本のGNEの80%は個人消費であり,そのほとんどが伝統的な消費財(食品・衣類/織物・陶器・その他日常雑貨)であったのだから,小規模工業の国民経済に占める位置は,農業に次いで高いものであった,と言うことができる.
 しかし,繊維産業の技術について述べたように,原糸は近代工場で生産されても織布は在来技術による家内工業/問屋制に委ねられてきていたように,両者は排他的な関係ではなく,相互補完/相互依存の関係に立つことによって,お互いに発展しえたのであった.最終的には,第2次大戦後になって,在来技術の近代化によって様相は変化するものの,つまり規模の大小は技術的特化に並行するようになるのだが,それだって徹底的にそうなりきるのではない.
 重要なことは,在来技術と新技術とにリンケージができることであり,そのことで,やがて在来技術が近代化してゆくことである.それは,技術の利用が経営の在り方を規定する段階を経て,経営が技術の方向と水準を規定する段階に至ることである.
だから,この過程は経営能力と技術力とが不可分に統合されてくるところに特色があり,小規模であるほど経営者の技術能力に依存する度合いは大きい.
 日本の工業技術が自立する前の1900年の段階においても,小規模企業の製品が輸出に高い比率を占めていたことは注目されてよい.綿糸,石炭,銅という近代工業技術の製品を除くと,生糸22.3%,絹織物9.3%,緑茶4%,マッチ2.9%,絹ハンカチーフ2.2%と在来技術の製品が全輸出の40%を超えている.小規模工業の産品がもつ重要性はそこにも認められよう.マッチなどは最終工程(包装)を都市下層の家庭内職に依存した産品で,就学前の子供までが手助けに動員されていたほどに労働集約的なものであった.
 (2) 釦産業の農村工業化――一つの事例――
 釦産業という事例は,恐らく,我々の対話者たちにとって意表にでるものであろう.これに注目する理由をあげれば,非常に特殊な例である故に,似たような特殊な技術分野の発見が開発上の課題である雇用吸収力をもつだろうし,そして零細・小規模を特色とする技術の普及経路についてのヒントとなる好例だと判断するからである.
 釦は,軍隊,鉄道,警察などが制服を着用するようになって,輸入されたものであった.金属製,骨製などの釦の他に,下着用の貝釦も,上質の原料が豊富にあるにもかかわらず,輸入されていた.
 もっとも,1878年頃から小規模に製造はされていたが,「高価な」ものであったから,鑢,砥石,剪刀などを用いて,恐らく錺職たちであったと思われるが,高級品を製作してはいた.しかし,市場そのものが当時の衣生活からしてきわめて狭く,産業として確立されるためには輸出をテコにする他ないのでもあった.
 豊富な原料に着目して,ドイツ人ヴィンケレルが貝釦機械設備一式を揃えて神戸の居留地に工場を開いたのは1890年のことであった.彼は神戸産の「ドイツ製」貝釦を,日本市場にも供給していた.ドイツ人たちが技術的秘密にしていた「漂白」工程を日本人加工業者が独自に解決したことで,日本製釦は,それまでの「半製品」扱いから脱出することができて,一挙に優位にたち,外国人経営の工場を撤退させるに至った.
 そういうことが何故可能であったのか,と言う疑問への回答は徹底的な工程分解にある.ほとんど一工程一業種にさえなっていたことで,機械・設備などの必要がないまでに零細化してゆき,熟練の必要がない在来の簡便な用・道具を利用させるのである.次いで,加工賃の猛烈な低廉化であった.それは,分散マニュファクチュアに商人が与える統一と同じものとみてよい.「製造家」は加工者たちに対してそのように振舞っていた.
 作業の単純化と加工賃の安さが,細部工程を自立にみちびくよりは,家内副業化をすすめた.そのことが,本来は都市型の近代工業であったものを,まず都市下層の家内副業にする.次いで,より安い加工賃を求めて近郊農村へと滲透してゆく.都市雑業層から農村雑業層へと標的を拡大・深化してゆくのである.だが,単一の小工程ではなく基本的な一工程の技術全体(または主要な数工程)は「製造家」の徒弟となることでしか習得できない.しかし,技術を修得した者には容易に分離の機会が与えられる.と言うのは,職人たちの加工・製品そのままでは未だ商品ではないからである.
 貝釦の場合,上のように生産拡大が「製造家」兼商人の利益になっていたが,それを変化させたのは,生産拡大の結果である国産原料の不足,そして原料輸入への転化・依存である.原料の激しい価格変動から原料投機が始まり,それまでの流通経路が動揺する.それに好況期の需要増加が重なると,問屋・製造家の統制はきかなくなる.ひとたび,この種の混乱がおきると粗製乱造が始まり,問屋・製造家の厳しい鑑識・検査眼は無効になる.余りに低廉に抑えこんできた加工賃への反動がこうしておきる.
 総じて言えば,営業上の規制が一切なくなった明治維新いらい,粗製乱造問題はほとんどすべての在来産業と技術で生じている.また在来産業化された新技術についても同様であった.これに,さらに原材料の変化,つまり新加工技術の追加・開発がおきると,旧い業界体制は改変せざるをえなくなる.親方的統制から組合的統制へと,共通の利益を擁護するために業界内の調整が一種の民主化をともなって行われる他なくなる[竹内常善,武知京三].
 こうした農村工業化のすすんだ地域は,農業で商品経済化の先進的な地域でもあった.
 この研究グループがとりあげた事例は,大阪南部と奈良県の,原綿栽培と木綿工業そして絞油業のあったところだが,近代的紡績業の発展によって原料供給地としては輸入のインド綿に敗れ,さらに近代的な食用油生産の発展によって没落させられた地方なのである[笹間愛史].
 この他に釦工業が農村工業として展開した香川県も,在来の製塩(塩田法)と養蚕とが経営的基礎を失ったところであった.商品経済と副業化とが深く滲透していた故にもった適合能力とみることもできる[安岡重明].
 ついでに言えば,戦後の混乱期にクリスマス・ランプの対外輸出で貴重な外貨を稼ぎだしたのは香川県の農民であったし,河内地方はメリヤス加工やブラシ製造の拠点となった.
 この他にも,この研究グループは,養蚕業の発達と軌を一にし,かつは近代化を基底で制御している時間管理という規律を農民に日常化させるのに実効のあった掛時計の国産化[武知京三],初期ガラス工業技術[菊浦重雄],眼鏡産業技術[上田達三],そして自転車産業技術の展開をとりあげている[竹内常善,上田達三].
 自転車産業の技術は,腕時計産業ほどに部品点数が多くはないけれども,機械工業技術としては,それが全部国産であれば,ミシンの一歩手前にある技術水準の指標にできることが「対話者」たちにとっての関心でなかった.意外なことであり残念なことでもあった.自転車の完全国産化はエンジンをもつことで自動二輪車の前提となる.つまり,自転車は一国の技術的収斂の程度を示す指標にできるのである.その意味では新工業国への第一関門とさえ言いうる.とくにボール・ベアリングの製作能力とその品質が技術的指標になる.
 当然のことながら,それは,ボール・ベアリングの素材である特殊鋼の生産とリンクしているし,あるサイズの製品を安定的に継続生産できるようになってから,それを大型化するのにも小型化するのにも,格段の技術的蓄積が必要なのである.勿論のこと,開発のためには一挙にそれを目指さなくともよいし,精密・高度の部品は輸入に依存することが現状では有利でもあろう.自国民の体格に合った設計と市場調査のあとでは,部品を世界中から調達すればそのことだけでも完成車の輸入の数分の1の価格になり,市場を拡大できるに違いない.その修理と部品の単品製作から,日本では自立への途を,懐中時計と同じくこの分野でもたどったのである.自転車の修理(と製作)に当ったのは鍛冶屋,旋盤工,ポンプ屋,時計屋などであったと言う.鉄砲鍛冶だった宮田栄助は,1890年代に「タイヤ,リム,スポーク,ボールの四品以外は全部出来る」技術水準をもっに至るのだが,一貫生産の計画を途中からやめて,部品メーカーを活用するようになる.採算上の理由である.部品メーカーの技術力と価格についてはさきの貝釦「製造家」のアナロジーが成立する.
 (3) 「工業化」の二側面――技術変容の過程――
 工業化には,とくに技術移転から自立に至る過程には,「技術変容」の過程がなければならない.言わばそれは技術の青年期である.
 「技術の変容」の程度は,操作上の工夫からシステムの変更に至るまでさまざまのものがあるが,最も初歩的な例をあげれば,日本が最初に移転した繊維機械は英国人の身長に合わせたものであったから,小柄な日本人は上を向いて手を伸ばしきった姿勢で作業しなければならず,疲労が激しく効率も悪かった.そこで,踏み台を据付けることで,問題が処理された.疲労が軽減され,生産性が向上したのである.そんな些細な修正で効率が変化するのだし,そのことが生産技術にとってはこの上なく重要な結果を生むのである.
 製糸機械についても,最初に導入されたイタリヤ式では60人操りの大枠直繰方式であった(築地工場)ものが,次に輸入された富岡工場のフランス式繰糸機では25人分が1連の小枠再繰式に改められた.その上で,フランス風の共より式より掛け装置はすべてケンネル式(イタリヤ式)と交換されてゆく.「各国技術を十分に比較検討してから最適のものを導入すればよかったのだが,開国後まだ日の浅い当時としては望みえないことだったろう.だが,その結果はイタリヤ式,フランス式,その亜流と各種が普及することになり,最適のものへと統合されるまでに約20年を要することになった」3)と技術史家奥村正二は述べている.
 こうした「技術変容」の過程は,大まかには次の二つの途のどちらかを経ている.それらは,
 (1) 在来技術の近代化
 (2)  近代技術の「在来」化
であるが,(2)は近代技術の修得の時間を短縮するために,工程を細分割し,その上で労働者に工程間の移動を課して,主要工程の熟練工に仕立て上げるために採られた方法であったが,その主要工程をさらに小工程にして分離・独立させることで(つまり下請化して)完成していった.これを(2)A型とすれば,(2)B型は紡績と織布のように,前者の工程を近代的機械制工場が,後者の工程を在来の手織り機器を用いる家内工業または家庭内職に委ねることで,機能を分担し合い,相互依存・補完の関係を確立しえたし,またそのことで前者も後者も発展したのであった.
 (1)は,(2)B型とからみ合うことだが,たとえば動力源は人力から水力へ,水力から電力へ,または陶磁器の場合には木炭から石炭へ,石炭から電気へ(およびその三者を工程ごとに分離利用と併用する)という経過をたどった.
 その技術変容の過程には,在来技術の拠点地域(それは基礎資源の地方的存賦にかかわっていた)間に各地で市場シェアをめぐる競争があったけれども,その市場もまた「近代化」以後は国内に限られなくなる.そこにマーケット(=ニーズ)に対応した技術の側からの変容が認められる.そこに科学技術上の最先端をゆくことが必ずしも「開発」上の利益を約束するものではない事例を我々はみるのである.大きく言えばそこにalternative technologyの必要・必然とともに,その具体的な「在るべき」姿をみることができる.
 工業化にかんするマクロ経済分析のデータを我々はすでに沢山もっている.そして,そこから多くの施策が長期的視野から提起されてきている.だが,そのことで「開発」の課題が具体的に解決されてはいない.その理由がどこにあるのかを問えば,まったく簡単なことながら,ミクロ・スコピックな「初期条件」と「始動条件」の分析がないからである.「初期条件」と「始動条件」は,各国で,各地方で,季節ごとに,各産業(技術)ごとに断じて一様ではありえない.つまり,我々に利用可能なのは「結果」についてのマクロ・データにすぎず「始動の条件」ではない.
 問題は,「長期」論の「ユニバーサルな妥当性」にもかかわらず具体的な無力と,「短期」論の具体的な説得力にもかかわらずユニバーサルな妥当性を欠く,両者の乖離にこそある.だから解決策はただ一つ具体性のある事例研究を蓄積することであり,その中から理論化の契機を掴むことである.
 中小企業にかんする事例研究は,このプロジェクトでもそうであったが,興味も尽きないし範囲も限定しきれない豊饒な森林に似ていて,容易に要約を許さない.その魅力は,たとえば,歴史の魅力に似ているとさえ言ってよいだろう.

 [注]
1) 日本は1980年末,アメリカは1977年(平均),西ドイツは1980年9月の調査.なお付言すれば,中規模工場とは日本では300人以下,アメリカでは250人以下,ヨーロッパでは500人以下をさすのが例である.
2) と言うのは,食品工業界では,機械工業界に先行して,「パッカーとブランド・オウナー」と表現こそ違っても,この生産様式を採用してきているのである.
3) 『小判・生糸・和鉄――続江戸時代技術史――』1973年,岩波新書,109ページ.