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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 IX 開発と教育ー職業教育の展開ー
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:IX 開発と教育ー職業教育の展開ー

(1) 開発と教育
 「開発」問題に関心をもつほどの者ならば,誰もが,いま第三世界で「国造り」のための「人造り」が熱心にすすめられていることを知っている.しかし,さまざまの理由で「人造り」が期待または予定されていたほどに順調に展開していないこともまた周知のところであろう(それでも,教育と軍事だけは他の分野よりも開発効果が著しい,とする見方もある).
 そうした背景があってのことに違いないが,「日本の経験」への関心が最も強い分野の一つは教育問題であった.
ILOの文書は,1966年にすでに,「工業開発が成功するかどうかは,ある程度,熟練を利用できるかどうかにかかっている.工場や設備の生産性は,それを運営する経営者や労働者の能力が低い場合には,低くなる.その場合,国内投資は開発の助けにならないだけでなく,現にきわめて貧しい社会の負担にさえなる」ことを指摘している1).
 未熟練の労働者が過剰か不完全にしか利用されていない現状は,その能力を開発すること(=教育)と利用する方法(=開発と経営)との双方に国民的努力と国際協力の課題があることを示している.
 勿論のこと,我々は工業化万能主義者ではないから,いま発展途上国の直面している「人造り」問題の解決が,いわゆる工業用「マン・パワー」形成問題にのみあるとは思わないし,また,そうさせてもならないとは思う.しかし,それがいま最も重要・緊急な課題の一つであることも確かである.
 この30年ほどの「開発」の経験が各地に開発反対運動を生んでいることを我々も知っているし,「開発」がらみで教育への要求が根強いことも知っている.さらに,インドなどには反教育運動が拡がりつつある.
 開発に教育が必要ではあっても,開発の仕方や教育のすすめ方に問題があるときには,社会的=国民的な合意が形成できず,あるいは合意が崩れて,開発も教育も混乱せざるをえない.
 そうした問題は,実は,日本でも経験されたことである.政府主導の,上からの「近代化」のすべてに当初から全国民的な支持や合意があったのではない.学校教育(と教育内容)への反対が暴動化した例が各地にいくつもある.1873年,敦賀では真宗信徒が真宗説法の再興,キリスト教の排撃,そして学校で西洋の文章を教えることの中止を求めて暴動になった.同年,岡山の農民暴動は学校教育に反対し,46にのぼる小学校が破壊された.このときは徴兵反対の要求も出ていた.鳥取県では1万人の農民が蜂起して,学校・徴兵令・太陽暦に反対している.同様のことは香川県と福岡県にもあって,それぞれ34校と29校が焼打ちされた.
 これらは,みな学制施行の翌年におきたことだが,「反対運動はそれ以後も数年にわたってあとを断たなかった」(永井道雄).
 「一般の人民華士族農工商及婦女子 必ず邑に不学の戸なく 家に不学の人なからしめん事を期す」という1872年の学制公布は教育の機会均等と義務教育の宣言であった.
 全国を8大学区に分け,それが32の中学区に,各中学区が210の小学区に分かれ,そして小学区ごとに小学校をおくこと,小学校は上等と下等に分かれ,各4ヵ年とする構想だった.
 これは「計画としては,70年のちのフランスの制度よりも民主的かつ野心的なものでさえあった」が,財政の裏付けがなかった.ために,学校新設の負担は各地方住民のものとなり,エンゲル係数が60%以上だったからその負担が余りにも大きく(平均年収の8%ほどであった),前に述べたような抗議活動を誘発したのである.政府は必要経費の3分の2しか準備できなかったし,第2年度には予算を半減させている.
 新学制は,それ故,7年めに改訂されて,1879年の「教育令」となる.今度は,フランスの影響から離れて,アメリカの教育制度の影響が認められるものとなった.
 そこには折からの自由民権運動への配慮がみられる.中央集権的・画一的な教育体系ではなくなったものの,公立小学校を強制されなく,私立でもよいことになったために,学校数は殖えはしたけれども,教育内容が低下し,無原則になった.就学率も低下した.こうして「教育令は発足と同時に破産したのである」(永井道雄).
 急速な「近代化」という名の教育の「西欧化」が,後退を余儀なくされているときに,朝廷グループは「伝統の復活によって教育の再建をはかろう」とする動きをみせる.
 ここで,朝廷と政府の問で教育問題をめぐる対立が明らかとなる.直接には元田永孚と伊藤博文の論争を経て,「10年のちの教育勅語の発布をまつまでもなく,日本教育の進路はほとんど決まった」のである.
 だから,日本の工業化・近代化の展開はあげて教育の「成功」にあるとする見方が,我々の対話の相手方にもあったし,根拠のないことではないにしても,単純化しすぎとは言えよう.教育も,産業技術も,決して直線的に発展してきたのではなく,紆余曲折してきている.そして,これからもきっとそうであるに違いない.
 教育の「成功」があったとしても,それは学校教育のみによって成功できたのではない.たとえば,軍隊が成人教育に演じた役割,とくに一部の機械操作技術とならんで衛生観念・時間規律の定着に果たした役割を無視することは公平でないだろう.それを承認することと軍国主義批判とは矛盾するものでもない.さらに,職業教育・技術教育の中心は,教室における学習よりは,生産活動の現場におかれてきていた.それは,さきに「日本型」エンジニヤとその形成について触れたように,後発者の社会が生んだものであり,それが定形化して定着しているのでもある.現に某社は8,000人の技術者集団をもち,常時5,000人が研究開発に従事しているが,現場に下りている3,000人とは間断ないローテーションが組まれている.基礎科学だけが重視されているのではなく,基礎データが重視され,操作性や生産性に結びつけられているのである.
 技術教育は出発点では,文部省の下に統合された教育体系をなしてはおらず,各省庁ごとに新技術移転のマンパワー養成機関がおかれていた.その名残は,今日でも東京水産大学や商船大学が,農水産省と郵政省の管下にあるところに認められる.
しかし,文部省そのものの発足は早くて,1871年のことだし,イギリス全土に義務教育制度が布かれたのは日本より2年早いだけの1870年のことである.その時点で,職業教育と普通教育とは別系統のものであった.
 別系統のものにせよ,外来で,新規の基礎学科と理論とを消化してゆく人材のストックがあったし,その程度に高い教育水準に人口の一部は到達していたことは確かで,その熱心さは外国人技師たちも認めてはいる.
 しかしそれは,少数精鋭のことである.技術の普及は種が蒔かれただけにすぎないし,成木となり森林になるには普通初等教育も普及しなければならなかった.そして,その中で,技術教育の生産現場主義が貫かれてきている.
 それ故,長い時間をかけて統合的な国民教育の体系はでき上がってきたのだし,国民的な「開発」のニーズに段階的に対応してきているのである.
 その間,激しいさまざまの技術変化に曲折を経て対応してきたものの,いままた改めて技術革新を前に高度の基礎的な知識の必要に,小学校から大学(および大学院)までが応えなければならなくなっている.それ故,後に述べるように,問題が深刻なことは発展途上国と同じで,問題情況と問題内容が違うだけなのである.
 (2) 日本の近代化と教育――離陸と墜落――
 公共の費用で教育された人々が,それに相応した社会的必要を充足することが好ましい.そして,それがほぼ期待通りに実現されたのが明治初期であった.巨額の費用をかけて外国人の学者・技術者・専門家を政府および民間会社は雇ったが,彼らに養成された者たちをさらに留学させることで,10―20年かけて入れ換えが完了した.留学生たちは滑稽なくらいに強烈なエリート意識をもっていたが,反面で同じく強烈な愛国意識と責任意識とをもっていた.それが明治初期に教育された開明的エリートの特徴である.
 技術移転による産業革命の達成は,理工系の人材養成を急務としていたが,その急務の任に当ることが期待されて送り出された留学生たちにとって幸運だったのは,前世紀中葉頃から欧米では科学・技術教育が制度的に定着しつつあった,ちょうどその時期だったことである.
 理工系学生が多く送りこまれたグラスゴー(大学)2)から,好助言を教授陣から与えられて新興のチューリヒ工科大学その他ドイツの諸大学に転ずる者が少なくなかったことを最近の研究は明らかにしている.西ヨーロッパで,英仏に対して後発者であったドイツが,産業革命を達成しつつあり,後発者ゆえの,そしてドイツ文化に根を下ろした技術学で注目され始めていた時期であったから,その後発者の利益に学びうる好事情にさらに後発者である日本は恵まれた.当時の技術の水準と性格は今日に比べると同日の談ではないし,当時の技術は技能的技術の組合せであったから,組合せの原理をマスターすればその後は,技術内・外のリンケージの確立だけが課題だった.在来技能の蓄積が多様にあり,必要資源もあったし,開発についての国民的合意と政府の方針も安定していた.そういうさまざまの好条件に恵まれながら,なお半世紀以上をかけなければ国民技術の基礎体系さえできなかった.その「日本の経験」は,改めて,国際協力の必要性と重要性を物語る好事例ではあろう.
 孤立無援の中で,周辺に協同し分業し合える諸国民を持てなかったことが,日本をして西欧をモデルにした未熟で粗野な帝国主義国家にしてゆく.つまり,明治国家の教育体系は,基本的には,政府があって教育がある(永井道雄)という政治主導型であったために,教育の一切が国家主義的に組織されて,「自由」に人間を解放し能力を抽き出す方向はついに主流となることができず,伏流のままで,明治型教育の「惨めな墜落」を待つことになる.
 言わば,「見事な離陸」そのことが「惨めな墜落」の理由を内蔵していたのである.
 その過程に,しかし,いささかの救いを敢えて見つけようとすれば,科学・技術教育ないし職業教育の流れがある.これとても勿論国家主義的教育の大洪水の中に呑み込まれてしまってはいたが,科学や技術の論理性と合理性の故に「神がかった」国家神道主義の入りこむ余地がなかったのである.そう言うところに,恐らくは,植民地である朝鮮や台湾からの留学生たちが技術系諸科学にむかった理由もあるだろう.とくに医学に多くの学生が集まったのは,理工科系でも大会社は門戸を開いていなかったのと,医学は容易に自営できる専門科学だったからだときく.
 明治政府は,不平等条約の改正と言う対外問題をかかえ,内には政治参加の拡大を求める諸勢力の運動(いわゆる自由民権運動)が就権10年め頃から各地に台頭した.西南戦争後には運動の高揚に逢って政府内の支持派(大隈重信ら)を追い出して,国会開設を公約することで危機をかわす.自由民権運動は旧士族を主体とするものから,豪農層へと指導権が移り,独自に憲法を起草する動きもあり,1881―89年には尖鋭化した蜂起が問歇的に各地方で噴出する.それが,憲法発布(1889年)と翌年の国会議員選挙で沈静されると,すぐさま,「教育勅語」の発布となる.
 明治維新のもつ解放的性格が,政治参加を求める旧士族と新興の豪農勢力による,政権の正当性根拠の問い直しを生んできた結果,国家神道主義が教育の指導理念として確立されたのである.言わば,政治の産物として「政教一致」が生まれた.永井道雄は,これよりさきの1879年に,明治天皇の諮問に答えた儒学者元田永孚(1818―91)の「教学大旨」(別には「教学聖旨」とも言う)が教育における「行政の優位」を提起していることに注目して,「行政の独走」に対するブレーキが失われた,と言う.この「行政の優位と政教一致の結合こそ,明治教育のアキレスの腱」となるのであった.
 別に言えば,行政官の政治化がすすみながら,国会は未だ立法府であるよりは諮問に応ずる機関にすぎず,制動装置をもたない政治権力化した官僚,その中でも内務官僚,の干渉が教育行政にも及ぶようになる.内務省(1873年創設,1947年廃止)は日本でも,警察行政の総元締であり,治安と政治秩序維持を任務とする国家権力の代表であった.その狂暴は1928年の「治安維治法」改悪と思想統制のための「特別高等警察」強化でピークに達する.
 「教育勅語」以後,教育そして文化一般が政治的な制度とされたことで,「果敢に,進取の精神をもって西洋のモデルから学ぼうと努力した」時代は終る(永井道雄).「教育勅語」体制の10年前に発足した,近代的職業教育の原点である「東京職工学校」は,この「新教育体制」の定着と同じ頃に始動する日本の産業革命が要求する技能者養成の教育機関となった「徒弟学校」に教員を供給する源泉となってゆく.
 (3) 職業・技術教育と師範学校体制
 「徒弟学校」は,初等教育が未だ50%前後の就学率しかない段階での追加・補充的な職業教育制度であったから,不備・不足を免れえなかった.「年季奉公」による徒弟教育という手工業的な親方制の下での技能訓練から,「学校教育による」技能訓練への変革を意図したもの[佐藤守]でありながら,「職人に学問は不要だ」とする反発を沈静させるには,非常に質の高い教員たち[豊田俊雄]による熱心な努力が必要であったし,伝統技術・在来産業が近代化と結びつかなければならなかった.
 日本の在来産業は,世紀の変りめ頃から,近代産業の浮沈につれて変動するようになるし,やがて近代産業に先導されるのだが,徒弟学校も初等教育に追加されたレベルのものから,実業補習学校・実業学校へと「中等教育」の水準に高めて制度化されてゆく.
 我々は,その過程で,これらの学校が堅実な地方産業のリーダーを養成した[豊田俊雄ほか]ことに注目させられる.
 しかも,在来産業が近代技術を採り込んで・経営を革新し・新製品分野に進出することで輸出産業に転化していったのは,瀬戸陶器学校の事例が明らかにしているように,まったく職業学校の卒業生たちの尽力によるのであった.
徒弟学校や実業補習学校にかんして,「工場労働者の補習教育機関としての役割はそれほど大きくはなかった」,あるいは「工場労働者の教育機関としてはその機能を果たしえなかった」と言うのが,これまで日本の学界では定説化していたとも思えるのだが3),在来産業に注目すればこの評価は逆転する.
とくに近代技術の普及=在来産業の近代化という,開発にとって緊急な課題との関係では,徒弟学校や実業補習学校の果たした役割は,農業・染織・商業・工業を問わず決定的に重要であった.
 工業化の初期に,軍工廠その他の大工場は学校の技術教育に依存できなかったために,企業内に技術訓練機関をもたなければならなかった.
 そうして形成された熟練には,製鉄の項でみたように,他企業や他産業に転用できない性格のものが多くて,熟練度と定着率とは低水準で並行する傾向があった.そしてまた,学校での技術教育がすすみ出しても,水準をあげた現場の技術訓練・企業内教育はひき続き行われて,今日に及んでいる.
 周到な実証は将来のことに属するのだが,直感的な仮説のままを言えば,職業教育の教員たちは,普通・初等教育の教員たちとは思想・人格形成のパターンが違っていたようである.
 教育の政治化が進行するとき,そして産業革命による社会的不均衡が顕在化するとき,親たちの生活状態を児童が教室で具体的に示す.長期欠席や栄養状態にそれが判然とみえるとき,教員たちは問題の経済・社会的解決に関心を持たざるをえなくなるのに,それが政治的に「危険」視されることになる.したがって誠実な教員ほど「政治化」せざるをえなかった.そして弾圧された.
 このとき職業教育・技術教育を担当した教員たちは,「非政治化」しながら実践的な教育による解決の途をささやかにもせよ探ることができたのである.
 そのことが,教育学者の言う教育の「複線型」と教育の「二重構造」ということとにかかわって,「師範学校」の性格と問題に,我々の注意をむけさせることになる.
 複線型と言うのは,国家と行政のニーズに合わせて養成されるエリートのコースと,国民と民間のニーズに合わせた実業・職業教育コースとの並行を意味する.前者は東京帝国大学を拠点とするテクノクラットおよび我々がさきにみたテクノサイエンティストの教育に相当するが,後者は産業・生産活動の現場指揮者・実務担当者(の諸層)の形成に相当するエンジニヤ養成だった,と簡略に言いきっておく.
 他方で,「二重構造」は,日本型の「知識人生産の回路」とみられているところで4),初等教育レベルにおける国家主義教育の強制が中等教育・大学教育と教育水準を上げるにつれて弱まり,自由主義の許容度が大きくなる「明治国家」の教育体制を意味している.その極致は,大学で助教授から教授になるためには欧米あるいはまれに中国に留学することが(しかも文部省の費用で),必須の条件であったところにみられる.それが第2次大戦まで続いていたのである.
 極度に単純化してみれば,不平等条約の範を脱して先進諸国に伍したいと願う垂直の方向または上方志向と,国家主義的な統合を強権によって強化しようとする水平的かっ集権的方向とが,直角に交叉していたのである.明治政府の発足時には交叉する点が幾つもあったものが「教育勅語」体制で内務省に定着・集約されることで,産業・技術関係の諸省は傍系化する.後に,内務省的教育支配に軍部がとって代わるのには,政党政治の腐敗と国際関係の影響がある.けれども,そうした国権主義的で独善的な軍人たちを生み出したのは明治国家の教育であった.
 この垂直と水平との知的両極分解または不均衡を調整するものとして,「急進的な」ほどに,教育改革と発展を国家の手でなしとげようとした森有礼(1847―89)初代文相が構想したのが「師範学校」であった.無邪気すぎるくらいに開明的・啓蒙的な専制官僚の森は,「商法を研究せざれば外国人に敵対すべからず」とも言い,「封建主義は親の仇でござる」と言いきった明治随一の啓蒙思想家福沢諭吉(1843―1901,慶応義塾大学の創設者)と相許す仲で,私立の「森有礼氏商法講習所」を設立したほどなのに,そして実業教育をする学校の振興を先駆的に自覚していたその当人なのに,「国造り」のための「人造り」と「人造り」のための教員養成の「師範学校」を,軍隊式の寮生活と規律とで統制したのである.
 それは未だよい.森はもっと陰険な仕方で師範学校を「軍隊化」している.「秘密忠告法」という制度を創り,各クラスから1人または数人の「忠告者」を選んで,同級生の日常の素行について,秘密に校長に報告させたのである.
 この何とも憂鬱な,理念と実務との乖離・矛盾は,論理に注目する者からは見えても,現実の混乱のなかに身を置いている当事者からすれば,ある種の必然であったかも知れない.
 その当時,「自由」とは自己責任性をともなう高い倫理に裏付けられた政治的・思想的主張の自由とは理解されておらず,一切の責任から解除されたアナーキーな自己主張・利己主義とさえ理解されていたからである.そこに,社会的責任の意識など訓練されることのなかった農・工・商階層の「前近代的」社会的性格と,森に代表されるような「士」階級の「前近代的」な責任意識との衝突がみられる.
 この「師範学校」に進学した「平民」の大半は農民であったとする説がある.けれども具体的に実証することは必ずしも容易ではない.それを承知の上で「社会学的な」想像力から言えば,師範学校的な「人格形成のパターン」は,農民的であるよりは(とくに社会変化に対応できたのは手作り地主層である),没落士族的であるように思えてならない.その中でも,新政権に抵抗したために窮乏・零落の甚だしかった諸藩の小身士族は,旧幕藩体制下での忠誠競争に,忠誠の相手を変えただけで,恪勤したのではなかったであろうか.幕府体制が安定して以来,武士は戦士でなく行政官僚であり,保身のための迎合ないし情況順応は悪魔的なまでに美事だったし,破廉恥なまでの変り身のはやさとをみせているからである.それは多分,当時の教員身分が不安定で給与も驚くべき低さであったこととも無関係ではなかったであろう.そして,かれらの社会的序列意識は明治維新の「身分解放」によって怨嗟[ルサンチマン]にまで凝り固まっていたのである.日本軍隊の非人間性と無人格性を代表していた下士官層と,没落士族層が旧制「師範学校」で形成した不幸でグロテスクな人間形成には共通項があるように思える.軍隊では,中等学校以上の卒業生が低学歴の下士官たちに「天皇陛下」の名において理由のない鉄拳制裁を受けたように,学校では無力・無産の家庭の子女が公平な評価を富貴権門に卑屈な「師範型」教員からは受けられなかった.
 この種の下級官僚的メンタリティに共通なのは,徹底的不服従や反抗を敢然と確信的に貫く部下や児童・生徒に対して,迎合・懐柔の挙に出ることである.その種の「規律違反」分子の存在そのことが,上司による彼らの評価を低くする,つまり忠誠競争で不利になるのである.個性的「異分子」の存在そのことが周囲に公然化しないように秘匿されるのである.
 (4) 後発型の先行教育投資
 しばしば引用される有名な言葉に,開明的な官僚浜尾新[あらた](1849―1925)が,1881年,東京職工学校の開設にあたって述べた「本邦ニ於テハ……工業工場ガアッテ工業学校ヲ起スノデハナク工業学校ヲ起シ卒業生ヲ出シテ而シテ工業工場ヲ起サシメントシタノデアル」と言うのがある.ここに「開発」初期における人材養成への先行投資政策が明瞭に示されている.
 東京職工学校の第1回卒業生は24名であったが,その中,すぐ就職口のあったのは3名にすぎなかった.
 こうした事情は,同志社大学の創設者新島襄が当初から理工科系の職業教育を目指しながらも,学生が集まらなくて軌道修正を余儀なくされたことにもみられるように,社会的な理工学教育需要が未だ熟していなかったのである.僅かにあったとすれば,医師法を新設したので,医学校と薬学校に限られていたとしてよいだろう.総じて言えば,私立学校が理工科をもつのは第1次大戦後のことである.つまり,日本の技術が第一次的自立を達成する時期になってからである.
 そこに理工系で官学が先導した理由がある5).
 人材養成=先行的高等教育投資の主張は,しかし,浜尾のみにあったものではなく,たとえば佐野常民(1822―1902)などの政治家,山尾庸三(1837―1917)らの開明的技術者にもあった.と言うよりも,かれら自身が幕末の各藩がとった人材養成政策の成果だった.その彼らが,藩のレベルを超えて,国家的レベルで,人材養成の拡大再生産にむかうのであった.それはちょうど「殖産興業」という明治国家の産業政策が,新政権の独創ではなくて,諸藩での経験を全国的規模に拡大し,中央集権的に展開されたのに対応する.
 しかしその出発では統一や計画があったのではない.各省がそれぞれに学校をもって必要な人材の調達・養成を期していた.それらの直轄学校がひと通り出揃う明治10年についてみると,工部省の工部大学校,文部省の東京大学(旧開成・医学の両校統合),司法省の法学校,開拓使の札幌農学校,内務省の駒場農学校および陸軍の士官学校,海軍の兵学校があって,「七つの人材養成の連峰が妍を競っていた」のである(三好信治)6).
 1886年に帝国大学ができて,東京帝国大学は工部大学校・駒場農学校を併合する(札幌農学校も1895年に文部省に移管する).そしてここに名実ともに綜合専門大学となる.これをもし,中世以来の伝統をもつヨーロッパの大学と比較するならば,神学部を欠いているところに,大学の世俗主義的性格が明瞭になるだろう.仏教系の学林は宗門ごとに7世紀以来いくつもあるけれども,それは明治国家の学術政策の埓外にあった.しかも,神道主義の専門教育機関が私立学校として創設されて,帝国大学の宗教学科の中立性とは別の活動を展開してゆくことになる.それは明治国家の文教体制のパラドックスではあるが,同時にまた,大学を含む日本の私立学校が多くは体制「順応型」であったのと美事に対応している.
 「順応型」の私立学校の多くは,フランス法やイギリス法などの専門学校であった.東京帝国大学が工科大学と農科大学をふくむ「アメリカをのぞけば世界ではじめて技術系大学をふくむ綜合大学となった」(永井道雄)のではあるが,官吏を養成する任務をおびた法科大学の充実に力を注いでいる.
 そこで養成されたのは所与の価値を実現する社会技術者(social engineer)としての法律家であって,価値自体の研究と創出を任務とする「自由な探求者的知識人ではなかった」のは確かであるが,明治の前半では社会技術学としての法律学には今日とは異なる開明的性格があった.法の支配と法による秩序維持ということが実務的に普及してゆくその担い手が供給されたからであり,国際法についての関心と要求とが小さくなかったからである.そのことは,たとえば,日露戦争の時まで国際法学者が前線司令部に配置されていたことにも示されている.これは不平等条約という制約の下で後発の小国家が余儀なくされていた国際的対応に他ならないにしても,そういうブレーキがかかる状態ではあった.その装置が作動しなくなるのは,日清・日露の戦争に勝ち,不平等条約が改訂されてからである.法律は保守から反動へと転じてゆくのである.
 帝国大学が医・理・工の他に農学部をもったということは,一つの見識ではなかったかと思う.必ずしもアメリカの州立大学制度にならったものとは言えないにしても,当時の大学のプラグマな性格をみせてはいる7).
 大学が養成したのは,何れにせよ一握りの理工学者(techno-scientists)にすぎず,エンジニヤの軍団ではなかった.しかし,その理工学者たちがエンジニヤ養成の必要を「国家のために」痛感していたし,それが具体的には帝国大学体制の確立以前に遡るものであったことに注目したい.それは,「人材養成」の目的が国際的な科学技術情報の集積と科学技術政策の立案,そして最後に後継者群の養成に向かう一連の過程で,直接生産の担い手およびその補助者としてのエンジニヤの養成を開始したのが「東京職工学校」であった.
 東京職工学校は,1881年に予科1年,本科3年の課程で,「将来職工学校ノ師範若クハ職工長製造所長タルヘキモノヲ養成スルノ目的ヲ以テ之ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル所トス」るものであった.
 東京職工学校は,実技教育のモデル校となり,やがて各地にできる初・中等工業教育機関の原型・母型となりながら,それらに教員を供給する源泉となった.しかも,一定の場所,つまり学校に定着するよりは同窓生組織を通じて全国にわたる転職の機会をもち,社会的な上昇を達成している.
 また,教員・公務員・自営業者の間に互換性があったのも今世紀初頭までの技術者層にみられる特殊な経歴パターンである.こうして東京職工学校は見事に設立目的を達成するのである.
 当時,職人という言葉はあったけれども「職工」という用語は未だ珍しい新鮮な響きをもつものであったらしいし,ましてや工場労働者という含意はない.工匠とか,技術力をもつ経営者と言うほどのニュアンスではなかったであろうか.何れにせよ新しいタイプ・職種の職業人と専門職を意味していたもののようである.
 東京職工学校は,その下部に徒弟学校をもち,やがて工業学校,高等工業学校,工業大学と変貌をとげて,「蔵前」は日本のMITと称される存在になる.井上毅〔こわし〕(1834―95)のような実業教育に熱心な官僚がいても,このような上向的発展は,工業教育そのことを天職として献身した手島精一(1849―1918)のような創業者型の指導的人物がいなければ,予算がつき法令が整っても,推進されるものではない.
 手島は「工業教育の概念を拡大して実業教育として意義づけた」こと(三好信好)では,まさに偉大な教育家であったし,手島の個性と哲学ぬきに東京工業大学の基礎は固まらなかっただろう.
 しかし,実業教育全体の中では,工業技術の教育が当初から主流だったのではない.数の上では農学校の方が多かったし,次いで商業学校であった.それらがいずれも,伝統的な地場産業と結びついて発展してきた.教育体系としては後にその上部に高等農林学校,高等商業学校,高等工業学校ができ,やがて農科大学,商科大学,工業大学という単科大学になって完結する.それは,中学校,高等学校,帝国大学という系統と並行する.この二系統が完成するのは,1910年から20年代にかけてであるが,それはちょうど日本に国民的技術形成(=技術の第1次的自立)が達成された時期にあたる.
 技術教育としては,重工業化の達成に至る過程で,生産現場指揮者(=日本型エンジニヤ)の形成に決定的な役割を演じたのが,ドイツのホッホシューレにならった,各種専門学校の卒業生たちであった.
 それと同時に,忘れてならないのは,手島らが,実業教育の起点を小学校にまで下降させたことである.小学校の教科に手工・工作を加えることに成功したのは手島らの功績とされている.だが,技術というものはどんなに高度になっても技能と不可分のところを失わない.そして,技能の形成は長時間かかるので,初等教育の段階から技能を訓練することは必要かつ重要なことである.手島たちがそこに注目したことは,当時の英国での職業教育が救貧的性格のものにとどまっていて,高度技術と技能との相関を見失っていたのにくらべると,技術と教育との本質を洞察していたと言える.
 初等教育の段階から理数科目や図工を教えることができるのは,日本社会が単一の国語しかないから可能だとも言えることで,多民族・多言語社会には日本にない困難があるし,初等教育ばかりか高等教育における科学・技術用語(および言語)をめぐってさまざまの主張があることを我々も知っている.我々は科学と技術の自立にとって自国人エンジニヤの重要性を指摘してきているが,科学・技術教育が外国語で行われることは技術の普及に障碍になることを恐れている.教材が外国語であることは初期には致し方のないこととしても,技術者能力の他に外国語能力を何時までも併せて課すことは得策でない.
 日本が技術移転を開始した「明治の初期につくられた学校,教科書,教師の養成方法など,主要な制度で日本人自身が案出し,設計したものは一つもない」(永井道雄)からこそ20年以上もにわたって就学率が50%に達しなかったのである.当初は,小学校の国語の教科書でさえアメリカのウィルソン読本の翻訳にすぎなかった.そういう事情では,国民の日常生活にも文化にも馴染まないので,教育内容は定着し難い.ただ,留意すべきは,明治時代の翻訳・翻案にはまことに見事なものが多くて,外国原産の童話や民謡なのに元々日本のものだと勘違いさせることがいまでもある.そういう稀な生きのびの例は,一般化してはならないし,国民生活と民族文化に適合するものでなければ,定着できないことに変りはない.そうした努力と工夫を日本は20年以上も続けたのである.
 科学・技術教育と一見かかわりがないようだが,国民教育という観点から重要な大事業に国語辞典の編纂がある.大槻文彦(1847―1928)が日本最初の近代的国語辞典「言海」を,好条件に恵まれながら,しかし家族の犠牲において,独力で完成させたのは,新政権発足以来24年めのことであった8).
 教育の普及と定着について,永井道雄は「内から,そして下からの変化に,外からそして上からの力が加わったとき,はじめて(日本の)教育が近代化された.その点が後進国の特色だったのである」と言っている.
 このプロジェクトの「開発と教育」についての取組みは「下からの変化」に注目している.そして,中央よりは地方に目配りした.永井道雄の言う「教育の近代化」を我々は「教育の国民化」であったと読み換えた.だが,国民化は実は近代化=現代化と同じことでなければならない.それを認識するために,そして,そのことが確固たる原則に立ちながらも間断ない点検と柔軟な軌道修正によって,創造と自由にむけた活動でなければならないことを確認するのに,日本人は「教育の国家主義化」という手痛い経験を経なければならなかったのである.その意味で「教育の近代化」は日本では未だ完了していないと言えるのでもある.
 (5) 企業内訓練
 工業化の開始期に,ごく少数の理工学者・専門技師の小集団と,未熟練の過剰・遊休の労働力が大量にあるとき,両者を一部で架橋したのは練達の親方職人とその徒弟職人であった.だから,在来産業ばかりでなく,大工場においても,内部には親方・徒弟制があった.
 しかし,全く新しい技術・技能の分野は親方職人層にも馴染めなかった.そこでの熟練形成は,初等・基礎的学力を技能の他に必要とした.その必要に応えるために,さまざまの企業内訓練機関・工場内学校が創られる.
 徒弟学校・実業補習学校は,親方・徒弟型訓練では未分離だった訓練の内容を学習と実習とに区別し,一般性と応用性のある体系化された内容を,専門のエンジニヤが教員となって指導し教える所であった.初等教育の普及が充分でない段階では,年季奉公で熟練を形成した者との相違が明瞭にはならなかったが,工場内訓練さらには中等教育を課題として確立されてくると教育効果は判然として,経験主義的訓練から脱した合理的な内容となり,かつ経験主義の内に潜む技術の論理を理解するようになる.中等教育化した企業内学校と職業教育で中堅の日本型エンジニヤが第一次的に養成されることになった.それは未だ完成とはほど遠い.長い熟練形成の過程が始まるのは,そこからである.それが,しかも,大工揚・大企業むけの中堅エンジニヤだけを生んだのではなく,在来産業の技術進歩を担う技術者・自家経営者たちを養成したのである.
 国民的規模で技術の内・外リンケージが確立される時期には,この職業教育の階梯が単科大学として完成される.しかし,実業学校・専門学校・単科大学という階梯を下から順次に上昇してきた者たちにとって,上級学校で新しく学習することの多くは,第二外国語など間接の関連分野の学科であり,中心の技術分野そのものの基礎はすでに基本的にできていて,格別の努力なしに消化できたと言う.別に言えば,「教養ある職業人」を単科大学は供給するようになったのである.たとえば,東京商科大学が外交官を銀行員の他に生み出すと言うようになる.東京帝国大学が,法学部の中に経済学科をおくのは1908年で,翌9年に商学科を開き,1919年に経済学部が新設されている.ここに,上からの専門教育と下からの専門教育とが,一つの接点をもつことになった.1920年という年は,横浜高等工業学校(現,横浜国立大学工学部)が開設され,無試験・無採点主義というユニークな方法を採ったことで記憶される.そのことで,学生が不勉強になったのでもなければ,評価が低かったのでもない.今日から考えれば,それは最も「自由な教育」時代を象徴するできごとである.
 私は教育問題に比重をかけすぎていると人は思うだろうが,実は,この問題こそが「対話」の中で最も頻繁にとりあげられた主題であった.日本についての誤解もまた教育問題と制度の誤解に根差していた.

 [注]
 1) Human Resources for Economic Development,1966,ILO,p.5.
 2) このことは,日本の工業教育に大きな足跡を残したヘンリー・ダイアー(Henry Dyer:1848―1918)の活動と無縁ではない.グラスゴー大学出身のダイアーは,鉄道技師エドモンド・モレルが進言して創立させた工部省の工部大学校の教頭であったが,その工部大学校での「実験」が逆にイギリスにおける工学教育改革の提案となる.ダイアーの実験については,創価大学の北政巳による「工部大学校とグラスゴー大学」(『社会経済史学』46巻5号),その他の業績がある.
 3) 隅谷三喜男編著『日本職業訓練発達史』上下,1952年,日本労働協会.上巻216ページ以下をみよ.
 4) 永井道雄『近代化と教育』,1969年,東京大学出版会,102ページ以下をみよ.
 5) この点については,森川英正『技術者――日本近代化の担い手――』,1975年,日経新書が詳しい.
 6) 『明治のエンジニア教育――日本とイギリスのちがい――』,1983年,中公新書.
 7) 東京帝国大学については,手短には,中山茂『帝国大学の誕生』,1978年,中公新書がある.
 8) 『言海』および『大言海』の完成については最新の労作に,高田宏『言葉の海へ』1978年(新潮社)があり,いまでは文庫版も利用できる.だが,少数民族語であるアイヌ語の研究はずっと遅れて,1953年に知里真志保が完成する.