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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 XI 金融制度の移転と発展
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:XI 金融制度の移転と発展

 (1) 開発と金融
 開発における主要な問題の一つは金融である.開発に必要な資金をどう調達するかということである.普通には一国内に必要な資金源があれば問題はないが,無いときには,借款か援助か外国企業の直接投資にたよらなければならない.けれども,条件によっては,開発に好ましくない影響をのこす.我々が,自立(経済自立・技術自立など)のための開発にとって決定的な要素に主権国家を挙げるのもそこに理由がある.そして,放漫な開発政策をとったために金融的従属を余儀なくされている国がある反面では,かたくなに外国の資本・技術・経営資金の導入を拒んでいるために開発上の遅延を生んでいる国もある.
 空前の相互依存の時代に生きる我々は,「生きのび」のために,新国際経済秩序を模索してゆかねばならないのだが,「相互依存」ということは,各国が自立した政治・経済の主体であることを論理的な前提としているので,「自立」が原点になる.
 経済的自立は孤立ではないから,強制的に国際経済体制に組みこまれるということは,激しい変化に対応することを強いる.それが,たとえ国民的利益にかなうことであり,国民的な合意が形成されていても,厳しい体験である.
 これまでも,さまざまの産業分野についてそれを検討してきたのだが,金融制度や機関も,それぞれが試行錯誤と多大の犠牲=損失を支払って,日本はどうにか「国際社会」で自立性をもち・主体的に対応できるようになったのである.
 それまで日本通貨に国際的信用がなく,したがって外国企業の直接投資もなかった.だから,圧倒的な資金の不足は「国家を犠牲とするもなおその支払いの責に任ずべき」外債に依存することがあった.
 外国企業の直接投資が始まるのは前世紀末,明治政府が発足してから32年めのことであった.それは,その直前にあった二つの政治・経済的な大事件によって可能にされた.一つは,日清戦争でえた賠償金で金準備を整え,在外正貨にもとづく金為替本位制を採ったことである.次いで,「不平等条約」が実に41年ぶりに改正された(だが,関税自主権の獲得はさらにその10年後になる)ことであった.居留外国人は,居留地在住を強制されなくなったが,治外法権も失った.そこから展開される筈の「自由な競争」の厳しさをさきの横山源之助は,『内地雑居後の日本』で一種の恐怖をもって予測し警告している.
 わが国の企業は未だ国際的信用がないから海外で社債を募集することができなく,外国人の直接投資事業しか外資導入方式は民間になかった.米のウエスタン・エレクトリックが出資して電話機・交換機のメーカーとして設立された「日本電気株式会社」はその最初の例であった(1899年,明治32年).これは前年に倒産した機械製造技術の高い水準で知られる三吉電気工場を母体としていた.この会社が後に,日本の電子工業の最先端を代表するNECとなる.
 外国資本の単独進出には,その翌年に,スタンダード石油の進出があって,油田開発を行う.「このようにして始まった外資導入は,やがて国内の資本蓄積の不足と生産技術の低位を補う有力な方法としてさかんに活用されることになる」のであった(服部一馬).
 この時期が,ちょうど,日本銀行を中心とする商業銀行,勧業銀行,貯蓄銀行という銀行分業主義が制度的に確立される時期と重なっている.このように,法制的に整備されたのは,どこにも「その例を見出すことはできない」と言うが1),そうならば,これは後発者の利益のうちかも知れない2).
 1890年代に体系化される金融制度は,日本銀行の設立(1882年)のときに構想されていたことが,10年以上かかってやっと実現できたものであって,それは日清戦争後の「第二次」企業勃興と銀行数の増加に見合ったことであった.松方財政期の後にきた第一次企業勃興は,十数社の私鉄と銀行によって特徴づけられていたのに対して,日清「戦後経営」は,日清講和後に独・露・仏の三国から干渉を受けて遼東半島の領有を放棄せざるをえなかったことへの「報復」を「兵器独立」(=兵器国産化)で果たすべく,軍備拡張を基軸に銑鋼一貫の製鉄工場の建設,国有鉄道の拡充改良,海運・造船の増強,通信体系の整備と台湾開発を主要内容としていた.
 そのためには,機械や設備を中心に本格的な技術移転と大量輸入が必要であった.けれども,銀本位国日本にとって,国際的な銀価低落は輸入価格の暴騰を意味したから負担の大きいことではあった.(しかし,別項で紹介した渋沢栄一の発言のように,輸出産業にとっては有利な事情となっていた.)
 日清戦争以前に,すでに政府部内でも金本位制の是非は検討されていたが,意見の対立が厳しかった.戦後に,機械類の輸入が民間部門で激増してくると金本位制への移行派が優勢になってくる.大市揚であるアジア諸国が多く銀本位であったこと,とくに清国がそうであったことは,当時の日本が国際競争力をもっていた唯一つの部門である紡績業にとって,銀本位制に執着するこの上なく重要な根拠であった.
 しかし,1893年に原綿輸入先であるインドが金本位制に移行したことが,原綿の輸入増大にともない,紡績業界を銀本位に執着できなくさせたし,日清戦争の賠償金が金本位移行の準備になったのである.これが,すでに述べた金融制度の体系的整備なのではあるけれども,そこに至る「技術移転」の経過を以下に概観しよう.その予備知識がこの研究グループの細目にわたる専門家作業の理解を助けることになる筈であることは,他の場合とひとしい.
 (2) 制度の移植過程
 i. 為替会社
 これは英語のバンクの訳語とされるが,1869年に,三府五港(東京・横浜・新潟・京都・大阪・神戸・大津・敦賀)に設立された「内外商業振興のため」に資金の融通を計る機関であった.その業務は,預金・貸付・為替・両替・洋銀および古金銀売買の他に,紙幣発行権が与えられ,金券・銀券・銭券ならび洋銀券を発行していた.
 当時は,「預金,固より発達せず」しかも政変・内戦による通貨混乱期であったから出資金のみでは運用資金さえ充分でなく,政府からの巨額の「貸下げ資金」に依存していた.たとえば,東京為替会社の身元金(=出資金〉は94万8,500両(1872年),政府貸下げ金33万2,000両というほどである.出資者は旧幕府時代の御用為替方であった三井・小野・島田などの大富豪である.貸付けは貿易品(蚕種・生糸・茶・海産物)の生産にむけられ,利息は月1分5厘という当時としては非常な低利であった.事実上無利息の政府出資を受け,発券機能をもち,貸付金の返済については政府機関が督促しようとさえしなかったのに,為替会社は定着・発展できずに終った.
 滝沢直七によれば,その理由は,制度的にも「両替商の習慣に欧州の組織」を接いだもので,「商況に適合せず」・「当事者に適任者なく」経営に適せず,かつ推進力であった通商司が行政改革で廃され,「収支償わぬ」結末になったのであった.
 新政権に安定なく,政治・社会的に激変の時期であったし,外国商社が砲艦外交の保護のもとに圧倒的な交渉上の優位に立っており,農産物輸出中心の生産金融は格段の投機的な性格をおびるので,バンク業務の本質的性格に馴染まない環境であった.もっとも,近代への激変を生きぬいた金融家たちは,その不安定と危険をのりこえた少数の者たちであったことは紛れもない.日本にも,その法則の例外があるのではない.大まかには,金融家としての情勢判断(と情報収集・分析力),経営戦略,資金力によることである.小野・島田がやがて消えてゆくのはこの理由である.
 「各国バンクの法に傚[なら]ひて金銀融通自在ならしむ」当局の意図は,かくして3年余で,信用制度の発展・殖産興業資金の供給ができずに,為替会社が「解散」を余儀なくされて,潰えた.それにもかかわらず,「不完全にもせよ」株式会社という企業活動の形態が必要であり・有効な時代の到来を経験させることにはなった.加藤俊彦は,この経験を「先進国の企業組織・銀行業務・資金運用方法の何たるかを一般に知らしめ,私立銀行の創設に刺戟を与えた」としている3).とくに三井は,これが初めての「近代」体験であり,やがて三井銀行の経営哲学形成になる.
 ii. 国立銀行から日銀へ
 新政府は,旧政権の負債を内外に対して引継いだので,どこでも新政権はそうであるように,その保証を確約せざるをえなかった.しかし,新政府は歳入不足のために,発行した不換紙幣の累積とそれによるインフレに対処しなければ,政権の経済的基礎は足元から崩される.だから,不換紙幣の処理問題が,内外に対して,政治的存亡を賭した対応となるのだった.
 この問題を調査のために,各国に要路の人材が派遣されたのだが,その一人伊藤博文はアメリカで「ナショナル・バンクの制度」が「紙幣発行」の特権をもち「政府紙幣を銷却すると同時に金融を融通する機関」となっていることを知り,「一挙両得の策」であることを建議した(『明治財政史』13巻).
 アメリカでは,その当時,南北戦争によるインフレと戦時公債の処理(=価格維持)が政治問題であった.それと,不換紙幣の増発とインフレの処理をせまられていた明治政府とは,共通の問題をもっていたことになる.アメリカのナショナル・バンクは,政府発行の公債を資本金にすることができ,それを政府に供託して,代りに銀行券を交付されていたので公債需要が生じ,公債価格を維持できた.当然,伊藤は飛びついた.
 この分散的発券制度に,イングランド銀行を手本とする中央銀行設立論者たちが反対した.争点は,紙幣兌換か正貨兌換か,発券上の分権主義か中央集権主義か,であったが妥協をみて,政府に都合のよい「一石二鳥」の効果を期待した「国立銀行」論が採用された.そして,「国立銀行は次々に設立される筈」で,巨額の「不換紙幣は回収され」,正貨兌換の体制ができ,銀行経営は採算にのることが期待されていた.
 それなのに,開業は4銀行にとどまった.政府の見込みは何故狂ったのか.安田組が充分な資金力をもちながら開行に参加しなかった理由は,この国立銀行制の不備にあった.すなわち,各銀行は「紙幣を発行すれば直ちに兌換を要求される」から,金融事業に支障をきたすのを察知していたのである.
 1872,3年頃までは金貨と紙幣の差が少なかったけれども,政府の不換紙幣乱発が続いたので,1875年6月には政府紙幣は金貨1,000円につき17.8円の打歩が生じ,輸入増加につれて正貨のおびただしい流出となった.このため横浜第二国立銀行などは発券活動がまったくできない有様だった.
 1876年,金禄公債の発行は公債価格を下落させる恐れがあったために,公債活用の途として銀行の資本金にあてる(80%まで)ことを認め,正貨準備率も引下げた(20%).ここで,兌換制確立から後退して,国立銀行の数を殖やし,何はともあれ通貨供給量を増加することで「開発資金」の調達をはかるという政策転換を行ったのである.そして,たちどころに全国で153行が設立される.各種の特権に護られて国立銀行は好成績をあげた.この時から,実業家とは銀行家を意味する時代が長らく続き,1920年代になって工業家がやっと実業家の仲間に入る.
 外国で銀行業務を勉強して帰国した豪商の息子が,父親に,他人の金銀を預かるのは危険な仕事だから保管料をとって然るべきなのに,利息まで支払うとは無謀だ,と反対されたと言う話があるのはこの頃,明治初年のことである.資金(公債)があり,銀行ができても「銀行実務のことは誰も知らない」状態で銀行が発足したのであった.政府は,それ故,銀行業務や経営の理念から啓蒙してゆかねばならなかった.銀行にかんする知識の普及のために,1872年,イギリス人銀行家アラン・シャンドAllan Shandを政府が招き,銀行簿記の実務指導に当らせたので,経営理念についてもイギリスのサウンド・バンキング(健全経営)原則が滲透した.
 しかし,銀行の制度はアメリカ式であった.そこに形式と内容との相違があり,問題も生じてくる.だが,すでに産業革命を達成し,国際貿易をリードするに至る過程で確立されたイギリスの商業銀行方式が簡単に移植でき機能できる筈もなかったから,「混血」の銀行制度は明治政府の必要に合わせた「殖産興業」資金の調達だけには応えることになる.
 他方で,もう一つの政府の課題であったインフレ排除には効果がなかったことで,国立銀行に対する制限措置がとられるのは1877年のことである.
 国立銀行の総資本金額を4,000万円,総発券高を3,400万円に制限したので,1879年末に設立された京都一五三国立銀行が最後の認可であった.
 そして1882年に日本銀行が中央銀行として設立されると,発券権を独占し,国立銀行の営業期間を認可から20年と定めた.営業期間終了後は普通銀行(私立)として継続できたが,それまでに各国立銀行は既発行の紙幣をすべて償却することが義務づけられた.この時から,銀行は営業活動の合理化をせまられたとしてよい.
 と言うのは,国立銀行は数々の特権と保護を与えられていたが,その営業では預金業務に熱心でなく(政府預金があったから),しかも貸出しは土地・建物を抵当にして特定の企業に集中・固定していたので(そうした企業の役員を銀行の役員は兼ねた)資金に流動性がなく,手形割引や荷為替などの商業銀行活動は不活発で,資金需要に応えられないことが多かった.中小銀行は大銀行から,大銀行は日銀から,資金を調達しては高利で需要家に貸出すのが常態で,当時の関係者が自認するように「サヤ取り銀行」でしかなかった.だから国立銀行は「株式会社の形態をとった高利貸資本の観さえあった」と今日の同業関係者から評されている(『日本勧業銀行史』,1953年).
 日本銀行は,松方正義が創設したけれども,財政確立(と不換紙幣整理)と中央銀行設立の構想とは不可分であったし,維新直後に九州で地方行政を担当したときに不換紙幣乱発の被害を彼は痛感していたからである.
 1878年に,大蔵大輔の松方は仏国博覧会事務副総裁として渡欧した.このとき各国の金融制度を視察し,とくにフランスの大蔵大臣レオン・セイから中央銀行制度・兌換銀行券制度の必要を指摘されている.
 そして「因襲ノ久シキ,条理ニ従ヒ之ヲ究明シ難キ」フランスの例にならわず,その創立が比較的若く各国の経験を採りこんでいるベルギー国立銀行に範をとることを勧められた.ここでも「後発者の利益」に与ったのである.
 その日本銀行設立のさいに,既存の銀行を日銀が中心となる商業銀行の系列に位置づけ,これとは別の二系統である勧業銀行と貯蓄銀行とからなる三本立ての体系を構想していた.
 日銀は商業金融の中核として出発したにもかかわらず,1890年に日本最初の近代的恐慌にあい,鉄道・海運・保険など「一五種ノ株券ヲ担保品トシテ手形ヲ割引」いて,「早くも産業金融の中央機関となった」のである.
 とまれ,松方の構想した銀行制度の体系は,
 (1) 商業金融機関としての日銀と普通銀行
 (2) 長期金融機関としての勧業銀行
 (3) 大衆の貯蓄機関としての貯蓄銀行
からなるものであった.
 この中,(2)が「開発」銀行たる性格をおびていて,「土地家屋等ヲ抵当トシテ起業資本ヲ貸付ケ或ハ田野開墾ヲ勧メ或ハ地質改良ヲ翼ケ或ハ製糸鑿溝港湾等ノ事業ヲ振作スル」ことが目的であった.言わば,銀行分業の整然たる体系の中に農工業開発銀行が位置づけられていることは注目してよいであろう.
 もっとも,この銀行分業論はドイツの抵当銀行,フランスの動産信用銀行,不動産銀行などを参考にしたものであるが,具体的細目には「幾多の創意」も認められる内容ではあった.それだけに「理念が先立って,当時の経済の認識と将来の見通に確実に立脚したものとはいわれない」きらいはあった(福島正夫,拝司静夫).
 曲折を経て,その理想は具体化されてゆくのだが,「殖産興業ハ目的ニシテ銀行ハ之ヲスル手段」に過ぎないことを明示して,1896年に施行された「日本勧業銀行法」で同行は営業を開始している.勧業銀行は中央機関で,その下の地方機関として農工銀行が各県に1行ずつできたのだが,農工銀行は「二〇人以上ノ農業者又ハ工業者申合セ連帯責任ヲ以テ借用ヲ申出デタルトキハ,信用確実ナルモノニ限リ五箇年以内ニ於テ定期償還ノ方法ニ依リ無抵当貸付ヲ為ス」ことができた.このように,勧業銀行は,殖産興業のために,不動産を抵当とする長期貸付機関である.
 「資本ノ欠乏実ニ言フニ忍ビザルモノ」ある新開地の北海道では,他府県の農工銀行のように不動産を抵当とする長期貸付の他に「農産物及株券債券ヲ担保トシテ貸付ヲナシ債券ノ応募並預金荷為替ノ取扱ヲナス」北海道拓殖銀行が設けられた.資金需要が大きいのに「地元の資力が乏しい」ところから,当時北海道では月2―3割という高金利であったので,この銀行の開発効果は非常に大きなものであった.
 農業・農民金融は第1次大戦後,小作問題が激化してくると,営利性をもつ勧銀・農工銀行では対応できないところから,農民の協同組合の金融活動を集約した中央金庫・信用組合連合が生まれる[千葉修].協同組合金融は,構成員間での資金循環が理想の姿であるけれども,実際には他の金融機関との競合が生じ,若干の変容を免れることは難しいにしても,その意義は否定されてはならないだろう.
 こうして前世紀末に,日本の金融組織は形態を整えてきたのだが,さらに特殊銀行に触れなければならない.その一つは,「工業の中央銀行」としての日本興業銀行が発足する(1900年)ことであり,それが外資導入機関として機能するのであった.これは政策的に直接投資を制約する政策的意図によるものだが[浅井良夫],かたわらで輸入した外資を植民地に再投資する役割をやがて担うようになる.
 横浜正金銀行(現,東京銀行)は,外商に対抗して直輸出をすすめ,為替を通じて商権を回復し,金銀貨の相場安定のために機能させる目的で設立された特殊銀行である[斎藤寿彦].
 この他に特殊銀行としては朝鮮と台湾における植民地銀行があった[波形昭一].
 後発資本主義国では特殊な社会問題が先進国に比して早期に発生するものだが,それに対して自主的な対応が庶民による金融活動として展開されていた.無尽講の仕組みがそれであり,それが改良された無尽会社の活動は重要であった[麻島昭一].それが今日まで相互銀行という名で残って,地方色をとどめる独自の営業・活動分野を確保している.
 また庶民金融の王「質屋」と公益質屋(政策)についても,この研究グループは目配りしている[渋谷隆一].
 だが,日本の「開発」過程で郵便預金制度が果たした役割と重要性とは格別のものである.英国のPostal Savingsをモデルにして1875年から活動しているが,「政府が最初に公衆の貯蓄機関を設立したことは欧米にも例がない」と言われる.そのこと自体でも重要なことだが,これが開発政策にもつ意味は大蔵省預金部を通じて政策的な投資(財政投融資)にまわされたことである.またこれによって政府は数次にわたる財政危機に対処してきている.1905年に,その1人当り貯金額は9.29円(単純平均)で(製造業男子工員の賃金の半月分),3円未満の預金者が70%に達するほどに零細(英国の12分の1)であったが,大衆預金の3割を吸収していた.職業別にみると農民が圧倒的だった.小口零細な預金の集積は資金コストが嵩むので普通銀行は敬遠したのに,公債投資など低利に運用しながら,なお他の金融機関と同等の利子支払いができたのは,郵便貯金業務の費用を政府の一般会計で負担していたからである.発足110年めの1984年に残高は89兆円で,郵便預金を金融機関とみなせば世界一の銀行と言える.郵便貯金の総額が全部の普通銀行・信託銀行の総残高とほぼ同じ水準にまで達した今日では,その歴史的使命を終えたという見方も行政改革がらみでは出てきて当然であろう.
 この研究グループの組織者である[渋谷隆一]は,先進国を模倣した銀行分業の理想が長・短期金融の分離を実現するのではなく,農工商の業種別分業と本国・植民地別の地域別分業を生み,そして短期金融機関である筈の普通銀行が機関銀行化して長期資金を供給していると総括して,そこに金融の日本型構造をみている.
 第2次大戦後,日本の金融制度は大きく変ったが,基本的体質と構造は変っていない,とみてよいだろう.
 だが,いま金融問題をめぐる国際環境と世界情勢の巨大な変化のなかで,日本の金融機関と制度全体がテストされようとしている.
 この研究グループの作業は,そこに至るまでの経過をとりあげ,どこの国でも避けられない「開発」過程における技術移転=制度移植としての金融機関の創設と運用,その中でも「開発」自体にかかわる特殊金融機関を中心に据えてきた.ここでも,私の仕事は,この研究グループの作業をより正確に把握してもらうための予備的解説であるにとどまる.
 付 記
 特殊金融機関としての性格をさえもつ北海道拓殖銀行は,フロンティア・資源供給地としての「開発」に重要な役割をもつのに,このグループの取扱い範囲から外している.それは,北海道全体の「開発」を「地域研究」という学際的な総合研究として行うという構想が私にあったのと,その「地域研究」はその地域に在住する学者・研究者に中心になってもらう原則をたてていたのに,距離・時間・費用の点で事務局の負担が大きすぎて,予備的な作業で終ってしまったから,ついに北海道拓殖銀行の問題は欠落したままになった.いまにして思えば重大な欠落である.
 今日,北海道の全預金の70%以上が北海道で活用されずに本州各地に投資されている.そこに「開発」をめぐる問題が日本内部にいまもあることは誰の眼にも明らかだろう.
 [注]
 1) 有沢広巳ほか『日本産業百年史』上,1967年,日本経済新聞社.141ページ.
 2) 後藤新一『日本金融制度発達史』,1980年,教育社,11ページ.
 3) 加藤俊彦『本邦銀行史論』,1957年,東京大学出版会.