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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 XII 総合商社ー技術移転と工業化における役割ー
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:XII 総合商社ー技術移転と工業化における役割ー

 (1) 総合商社と技術移転
 このプロジェクトのとりあげた問題範囲に総合商社が入ることを奇異に思うむきもあろう.
 「技術の移転・変容・開発」にまつわる日本の経験のなかで総合商社の役割がどのようなものであったかについての記憶はすでに過去のものとなっている.
 そこにそうした疑問の生まれる理由があるように思われる.あるいはまた,近年の資源開発や開発輸入,そしてプラント輸出などにおける総合商社についてなら,その意味を認める人もいるだろう.しかし,商社はかつても技術移転の主役であった.とくに技術輸入の重要な仲介者であった.この機能はいまもある.それなのに,技術の輸出の方が目立っている最近の20年余の印象が強すぎるので,とかく見落とされやすい.
 ごく簡単な例をあげれば,日本工業化の尖兵だった綿紡績機械は1892年に大増設されたのだが,その時,英のプラット社から全輸入の80%を調達したのは三井物産であった.未だ関税自主権もないその当時,綿紡績機械メーカーとして世界一流であったプラット社を選び,需要家に供給したと言うのは,貿易商社としての見識と力量を示すものであろう.技術情報の蒐集・機械/設備輸入の仲介で,三井物産が専門的技術知識をもつ人材を養成して「抜群の役割」を演じ,「工業化の組織者」となったことは,機械を輸入したばかりでなく,中国綿花を輸入して加工させ,その綿糸の輸出にあたったこと,後にはインド綿・アメリカ綿を輸入して製品に国際競争力をもたせたことで例証できるだろう.
 砂糖輸入商「鈴木商店」を,「工業を土台とする商業」の発展を目指して,一時は三井物産と並ぶ総合商社にした金子直吉(1868―1944)の方がもっと見事に「工業化の組織者」を演じていたと言える1).「エントツ男」の異名をとるほどに工場新設にとりつかれていたこの経営者が,後に倒産したために(しかし,「破産したのではない」と桂芳男は言う)いまでは経営史家にしか関心をもたれないとしても,金子が手を染めた事業は今日の帝人,神戸製鋼所,石川島播磨重工業,三井東圧化学,三菱レーヨン,日産化学,日本化薬,大日本製糖などに変身している.その現在の名称なら外国でも多くの人が知っているだろう2).
 この例は,何れも明治・大正期,つまり軽工業化時代のものであるが,重電機・化学工業期になると三菱商事が浮上してくる.三菱商事は,技術輸入専門の直系子会社として「仏国三菱商事」(1924年)と「独国三菱商事」(1920年)を発足させている.この両社は先進国の技術と情報の輸入にきわめて大きな役割を果たしたことは次のような例をあげるだけで充分であろう.三菱造船や三菱重工は,1937年までに約30件の特許権と製造権を購入しているが,その交渉に当たり,特許料の支払いを三菱商事の各支店が斡旋している.三菱電機がウェスティングハウス社と技術提携すると三菱商事が販売権をもち「市場開発に務めた」ほか,三菱系が弱かった化学工業の分野では電解槽,ガス発生炉,焙焼炉などについて,英・独などの一流化学機メーカーから製作権を買取り,これを系列内の会社に製造させている.製鉄機械,工作機械についても同じことが指摘できるし,航空機・兵器にまでその範囲が及んでいた.
 三菱商事の技術輸入は,主として三菱財閥の重化学工業化にむけられていた点に制約はあるけれども,「競合しない分野では軍工廠や他系列企業にも技術・情報を提供し,またその新市場を開発して,日本産業の重化学工業化の発展の組織者」としての役割を担っていた3).つまり最小・最適規模で重化学工業化を達成するまでの段階で,商社の役割は情報をもつ組織者として必要・不可欠であったし,他にこの機能を担う経営体はなかった.
 ここで明らかになるように,総合商社とは言っても,日本の産業・技術の発展に応じて,その主役と活動の内容と重点とを変えつつ浮沈を繰り返して発展してきているのであって,その運動律は多分これからも変らないであろう.
 三井物産が機械輸入に先駆的であったけれども,鈴木商店はプラント輸入に果敢であったし,三菱商事は重化学工業化をリードした,と大まかになら言ってもよいだろう.
 ただ確かなこととして言えるのは,後発者として国際貿易に乗り出した日本では,海運・保険・為替などの付帯・関連企業が未発達で,それらに参入・挑戦してゆく経営資源も資金も乏しかったから,先駆的企業は,「経営理念においては国益志向(=産業自立),経営戦略においては多角化志向」を,工業化の初発から「自明のこととして」受けとめていた(桂芳男)ことである.
 発展途上国では,いま,そうした諸産業部門間のリンケージの確立と発展が急務だからであるに違いないのだが,総合商社という主題はこのプロジェクトの中で最も関心をあつめた分野の一つであった.アジアとラテン・アメリカを問わず新興工業諸国では総合商社育成策が政府の手ですすめられていることはよく知られているし,アメリカでも一部議員が輸出専門商社振興の法案づくりに奔走したこともある.
 言わば,日本の総合商社は数も多く取引高も大きく,同種の企業が諸外国にいまはないので目立つ存在になっているのである.
 現に三菱商事は売上高日本一であるばかりか,世界企業(製造業をも含む)との比較でも五指に入る売上高である.1980年7月,あるアメリカの経済誌が,米国以外に本拠をもつ125社につけた売上高ランキングでは,三菱商事はロイヤルダッチ・シェルに次いで第2位だった.アメリカ企業を入れてもエクソンとGMが上位にくるだけだから,この年,三菱商事は世界第4位の売上高をもつ企業だった.
 1980年について売上の内訳をみると,国内取引が43.6%で貿易が56.4%(輸入32.8%,輸出17.3%,外国間取引6.3%)である.460億ドルにおよぶ巨額な取引を行う内外の拠点は国内63(本社1,支社2,支店19,出張所29,駐在員事務所3,事業所9),海外142(支店12,駐在員事務所69,現地法人28,その支店33)ある.
 これに対して社員数は9,682名(うち女子3,710名)であるが,この他に出向社員2,544名と海外法人社員3,099名がいるから,合計15,325名となる.だから,1人平均の売上高は7億8700万円余だった(同年の対ドル・レートで)ことになる.
 売上の構成では,年ごとに変動はあるものの,三菱商事の特色をなすのが燃料部門(石油・LNGなどの輸入)で,常に全体の30%ちかくを占め,次いで金属・機械がそれぞれ20%以上,食糧と飼料が10%を超え,10%未満に化学製品と繊維・資材があるというのがこの数年の傾向である.平均して貿易依存度は60%前後になる.
 これを三井物産についてみると,金属が25%以上,石油・ガス20%,機械20%未満,食糧15%前後,化学品10%以上,繊維4―5%で貿易依存度60%前後と変らないが,両社の有力分野に相違がみられる.それが住友商事では,金属と機械で60%,次いで燃料が25%以上,建設10%前後で,貿易依存度は50%にとどまりながら,収益力では三菱商事なみと評されている.
 このように,各商社ごとに比較優位部門が違い,それは同系列グループが総合的にもつ技術力を反映したものである.とくに業界第5位の住友商事が1952年の参入でありながら急速にその地歩を築いたのは,金属・機械・建設に強いからだし,鉱・砿山業を基礎とした複合的技術関連の展開が各種素材部門から製造・加工部門におよぶネットワークを背後にもっていることによる.
 ついでに言えば,60年代なかばから各商社とも理工系大卒の採用に熱心で,某社では2,000人ちかい中の20%以上を占めている.この傾向は今後も強まるとみられている.
 (2) 総合商社の系譜と機能
 総合商社という呼称は,一般の商事会社というのではなく,貿易(輸出・輸入の双方)業務を営みながらも,その取引規模が巨大で,かつインスタント食品から原子炉まで,多数の商品を取扱う企業のことを意味している.
 今日では,九大総合商社といわれる次の九社が日本の全輸出入の50%を占めている(輸出の47.4%,輸入の58.6%).
 三菱商事,三井物産,伊藤忠,丸紅,住友商事,日商岩井,トーメン,兼松江商,ニチメンがそれである.このうち関西五綿といわれてきた丸紅,伊藤忠,日綿実業,東洋綿花,江商は戦前に綿花の輸入,綿糸布の輸出に特化した専門商社だったものが,戦後,重化学工業の急成長を背景に貿易経験のない重工業企業の製品輸出窓口となり,メーカーたちの企業集団を組織する中心となったのである.日商岩井の前身は,鈴木商店系の日商(元,日本商事)と鉄鋼専門商社だった岩井商店とが合併したものである.
 工業化の初期にまで遡れば,商事会社の系譜は大まかに次の三つになる.
 (1) 財閥を構成する諸事業の一環に組みこまれていたもの.三井物産,三菱商事,古河商事,久原商事,大東物産(野村系列)があったが,古河,久原はともに第1次大戦後の不況期に破綻したし,大東も1920年に解散している.
 (2) 商社を中核にして財閥形成にむかったもの.大倉(大倉組),浅野(浅野商店),鈴木(鈴木商店),森村(森村組),岩井(岩井商店).
 (3) 財閥でついに商社をもたなかったもの.住友,安田.
 この歴史的展開は,(1)の鉱・砿山経営を基礎に独自の金融機関をもっていた三井,三菱を除くと,(2)は商事の利益を多角的に事業投資した結果として財閥化してゆくのに並行して商事会社自体も総合化していった,とみられている(森川英正).
 上のような実証研究とならんで国際比較論的視角から,総合商社の特質を展開したのは中川敬一郎である4).
 明治日本の企業家は,産業諸部門間の相互依存関係が深いことを痛感させられたので,しばしば私(企業)的利害を超えた国民経済的な視野で意思決定をせまられ,高度に組織化された「企業家活動」をした.その代表が総合商社であった,とみるのである.
 欧米の商社が特定品種を特定地域と取引する専門商社型であったのに,後進国日本の条件は全然別であって,世界貿易を支配する強力な諸企業と競争するためには,最初から,大規模かつ強力な商社として組織されなければならなかった,とする.
 第2に,先進諸国ではすでに為替取引商や海上保険業者,海運網も発展させていたが,日本ではそのほとんどが成長していない.この種の貿易補助業務が発達していないことが障碍であった故に,日本の貿易商社はその諸業務を自社兼営せざるをえなかった.だが,補助業務まで採りこんだ大企業が成立するために必要かつ充分な取引量がなければならないのに,初期工業化段階の日本にはそれほど大量に輸出入できる商品はなかった.したがって,少量多品種の取扱いで総量として大規模化することを狙わなければならなかつた,とする.
 さらに,第3点として,総合商社の形成と財閥の形成には密接な関係があり,財閥がその傘下企業の製品を財閥内の商社を通じて取引させたことが総合商社化であったという.他方で,一部の総合商社は輸出品を確保するためには,みずから製造工業に進出したり下請け企業を育成することになった結果,総合商社そのものが財閥へと成長していったと結論づけている5).
 中川の論点は,後発国日本の貿易業が経験しなければならなかった,そしていまそれに直面している新興工業諸国の問題とのレレヴァンスがある重要な指摘をふくんでいる.
 それにもかかわらず,歴史的検証という点では問題がない訳ではなかったことは,前出の森川や三島康雄の指摘にあるとおりだろう.
 日本経営史学会は,1972年に「総合商社の発展」を共通論題にして,それまでの三井物産中心の分析から,三菱商事,鈴木商店,岩井商店へと視座をひろげて,既存の研究成果の検討と総括を試みている.
 このとき明らかにされたことを簡略化して,三島の記述に依りながら6)言うと,貿易論の内田勝敏は,(1)戦後,旧財閥が企業グループという形で復活したかたわら,銀行が中心になって芙蓉(富士銀行)グループ,三和グループ,第一勧銀グループが形成され,グループ内の商社・銀行・メーカーが一丸となって活動するなかで,商社は企画機能と総合的調整機能とを担っている.(2)この他に重工業化の完成と国際化の進行のなかで,商社は取扱商品を多角化しながら,システム化したプロジェクトの登揚にさいして,関連する多数の商品・産業部門を組合せ・統合する能力を示し,諸産業のオルガナイザーとなって機能するようになった.そのことに関連して,商社は資源開発・情報収集・分析の機能を併せもつようになる.
 (3)銀行が,豊富な資金をもち,旺盛な資金需要を前に優良の融資先を選択していた高度成長期に,信用力を背景にして,企業間信用を創出し,銀行とメーカーの中間にあってバッファとしての役割を演じた.(その意味では英国のマーチャント・バンクと機能が類以している7).)(4)この豊かな資金調達力で,企業間信用・投融資を拡大しながら,中堅企業を系列化して子会社づくりにあたってきた.
 こうした機能はすべて,すでに戦前からあったことながら,戦後は総合商社数が殖えたのと,商社自身が組織者機能と情報機能を鋭く自覚し駆使するようになってきたにすぎないのである.
 この学会で,ワシントン大学のコーゾー・ヤマムラは,経済理論から総合商社へのアプローチを試みて,(イ)国内・国外取引における需要の増減や為替相場の変動によるリスクを減少させ,(ロ)規模の経済に乗ずる機能を備えており,(ハ)人的・物的な経営資源の生産性を高めることができるし,流通コストを節約する,(ニ)資本の有効利用が可能で,社会的節約に寄与する,という諸点を指摘した.
 三島は,ヤマムラの理論展開を,付帯業務を含めた多機能企業において規模の経済が実現することによって,その広範な分野における巨額の節約分が大きなリスクをより積極的に負担する可能性を総合商社に与えたと結論づけられるものと解説している.
 ヤマムラに限らないが,このような経済学の観点からの分析は明晰で説得力に富むけれども,商社の総合商社化という巨大化が当然のことながら生む弊害についてどう見ているのか判然としない.
 「三菱紳士」の典型と言われた商事にも次のようなことがあった.1980年,水産商社「北商」がカズノコ取引で高値による買占めの行き過ぎから倒産したが,同社と取引関係にあった三菱商事も「共謀」していたとしてマスコミの手厳しい批判にさらされた.懸命な事情説明はしながらも,結局,社長声明の中で,加工業者への供給責任を重視したあまりに,「市場価格原理をこえ,最終消費者への配慮が欠けていた」ことを同社は認めている.
 1973年のオイル・ショックによる混乱期に,総合商社は土地・株式投機・食糧買占めなどで物価を騰貴させて社会的批難を浴びたし,1976年には,ロッキード事件における黒い役割でその「反社会的行動」が明るみに出た.これらはいずれも,巨大化し寡占化した総合商社の弊害である.
 この直前(1974年)に,独占禁止法の監視に当たる公正取引委員会が「総合商社に関する調査報告」を行い,商社の不公正取引の規制や株式保有制限を提言した.そして翌年「第二回報告」が出され,商社に対する銀行の大口融資規制が提言されて,総合商社の活動は一つの転機をむかえた.商社からの反論・弁明も日本貿易会の名で行われたのを契機に,分析や研究がすすむのであったが,「同じ第三次産業部門に属しながら,商社は,銀行や証券会社と異なり,業法がなく,監督官庁による預金者・投資家保護の観点からの検査があるわけでもない」8)ところから,消費者保護の問題が浮上してきたのである.
 商社問題は,70年代に政治・社会問題化したのではあるけれども,その前の60年代には商社斜陽化論が提起されていた.御園生等の論文はその代表的なものであるが9),1960年代に入ってメーカーの直接輸出がすすみ,国内では流通革命による中間マージン排除の要請が出てきていたからである.交通・通信機関の発達が商社のもつ情報機能の価値を相対的に引下げたし,経営の多角化・巨大化が組織の複雑化と経費増になり,利潤率が低下するのではないかと懸念されたのである.「事実,1964年から65年にかけて,商社の倒産や再編成がみられたが,一方で,投融資活動の活発化など,新しい機能の開発に力を尽した結果,1970年頃には,逆に《総合商社発展論》が唱えられるに至った」という高度成長期における変貌の経緯がある10).これに次いで,先に述べた商社批判が出てくる.
 こうした,60年代,70年代の対蹠的な商社論のあと,80年代には開発投融資問題がらみで「国益論の立場からの評価が強まる」と予想する人もいることをコメントぬきに紹介しておこう.
 (3) 総合商社は日本に固有なのか
 総じて言えば,後発者の直面する経営資源と経営戦略の問題について,さきに中川による整理・理論化を紹介したが,それへのコメントを含めて,学者たちは総合商社を日本にしかないものとして議論を展開してきている.
 これに対して,商社研究グループの主査[米川伸一]は,疑問を提起し,どこの国の商社も多くの商品を多くの市場に売りこむことが経営を維持・発展させてゆくのに必要な条件であり,商社活動の本質ではないか,と言う.
 そこから逆に,欧米に総合商社が充分な発展をみなかった歴史的条件こそ特異なものだったのではないか,と問題を提起している.つまり,これまでの特殊日本的存在としての総合商社論を否定する,そのかたわらで,英・米にも総合商社と言うべきものがあったことを発掘するという,二段構えの立論で総合商社問題を解明しようとした.そこに著しくユニークな新地平の開拓がある.
 発掘された事例は,イギリスではギブス商会とガスリー商会で,貿易業を中心に海運・保険・鉱山・製造業・農園などの多角経営であったし,活動は海外各地に及んでいた.アメリカの事例は,アンダーソン・クレイ社で,綿花商から諸産業部門へと多角化していった.
 こうした立論と検証とは,次いで,アジア・中南米・アフリカなどの諸国で総合商社への芽がどのような形であり,これまで展開を抑えてきたものは何かをめぐって,改めて,「対話」の契機と素材とを提供していることになる.
 日本で総合商社の巨大化を可能にしたのは,所有と経営とが早くから分離していたこと,そして経営と実務に当ったのが優秀な大学卒業者の集団であったこと,の二点が強調されている.この点は多くの学者たちも合意するところであろうし,欧米の有名な同族会社にみられる経営上の人材調達・養成法と異なるところであろう.
 このグループの成果は,商社は世界中のどこの国においても総合商社化しうる論理的必然性をもっており,共同研究者たちが個別的事例を通じて検証している条件さえ整備されると,その可能性が具体性に転じてゆくことを明示したところにメリットがあるだろう.
 内容的に,総合商社化の条件は,社会経済史的背景と関連した経営管理方式,組織機構の合理的・適合的編成であり[前田和利],多数の商品を原料から最終製品に至るまで組織化してゆく機能をもつこと[鈴木恒夫],各国の支店・出張所網を介して世界的な規模での活動範囲を確立し,次いで現地法人・合弁事業を展開しながら日本の輸出入,三国間取引,技術移転,資源開発,現地生産を行うこと[川辺信雄],経済発展の段階と国際関係に即応した活動で経験を蓄積し広範な展望と柔軟な適応能力を形成してゆくこと[坂本雅子]である.
 総合商社は,外国にその例があったにしても,その経営技術を移転したのではなく,日本で形成したのであり,形成せざるをえない国際環境におかれていたのである.
 その最初は,外国人に定められた居留地での貿易であったが,これは不平等条約の貿易版で,外国銀行による金融操作,外国海運会社による航路の独占などを背景とする外商に商権を握られて,日本商人は直接輸出入業を営めなかった.外商に商品を売込むときには見本によって契約したあと,総量を商館まで運び入れ,検査と計量を受ける.そのとき看貫料という理由のつかない手数料を支払わされる(1910年頃までこの習慣は残った)のが例であったし,商況が不利になると一方的に破約してはばかることがなかった.
 明治初年に,生糸の輸出価格は海外市場価格の2分の1ないし3分の1に買い叩かれた上で,諸税・輸送費・手数料を負担させられていた.外商の大きな儲けの他に経費の一切を負担させられていたと言うべきだろう.
 だから,「商権回復」・「直輸出」が貿易商・産地商人・生産者にとっての合言葉であった.
 1881年に「横浜連合生糸荷預所事件」がおきている.三井,三菱など有力な貿易商に渋沢栄一ら銀行家が加担して,生糸預所を発足させたが,これは輸出生糸を預かり,かつ荷主に金融の便を与えることで商品を一括し,外商に対して同所での現金取引を求めた事件である.外商は預所との取引を拒否して,両者は3ヵ月間対立したままであった.だが,累積する滞貨に資金不足で融資できず,預所側の敗退に終った.
 1880年設立の横浜正金銀行では,生糸・茶の直輸出品を担保に荷為替を貸付けているし,政府も多額の資金を国庫から直輸出振興の目的で同行に貸付けているが,直輸出は停滞し,いくつかの大手商社が倒産している.当時は,商社に資金力が十分なく,金融機関も発達していなかったし,貿易付帯業務も外国人に握られていたので,直輸出が伸びられなかったのである.
 1887年頃から,紡績の工場制工業が展開するにつれて,原綿の大量輸入が不可避となり,大阪の綿花商が輸入会社を設立した.この「内外綿会社」は紡績連合会から中国綿買入れを委託されて,1890年から上海綿の直輸入を開始する.これが,本格的な直輸入の起点だったとされる.開港(1858年)以来,30年以上を経てのことである.同社は,その2年後にタタ商会と特約を結びボンベイ綿の輸入を始める.ひき続き別の輸入会社がインド綿とエジプト綿さらにアメリカ綿にまで手を拡げる(1896年).
 これらの商社は,間もなく,綿糸・綿布の中国むけ輸出を行うようになり,繊維総合商社化してゆく.「関西五綿」の誕生である.
 「日本の貿易商社は綿花輸入商社を先頭に発展した.それは日本の産業資本がまず紡績業において確立したことと照応する動きであった」(海野福寿).
 これより先の1876年に,三井は直接貿易を目的とする商社を政府の意を受けて設立したが,輸入するのは陸軍へ納入の毛織物で輸出するのは米であった.米はロンドンまで三菱の船で運ばれたが(日本船を使った直輸出の嚆矢),売捌きと買付けとを短時日に行うことは当時の三井にできることでなく,三井が引継いだ井上馨の先収会社の顧問R.Z.アルウィンが自分の名でロンドンに開いた商会の信用によってやっとできたことであった.
 同じ年,三井は官営三池炭砿(のちに三井が払下げを受ける)の出炭の一手販売権をえて政府の石炭輸出策に同調し,上海,天津,香港,シンガポールに仕向けている.欧米からの輸入,アジア各地への輸出という日本貿易の「二重構造」はこの頃から定着し始めて,第2次大戦の中断をふくめて,ほぼ90年も続くことになる.石炭は,とくに原料炭は綿花とともに,工業化の展開につれて重要な輸入品目に転ずることは別項ですでに述べた通りである.原・材料を外国に依存する加工工業国化の途をとった日本で,商社は,その往復過程を仲介・組織しながら多角化・巨大化してきたのである.

 [注]
 1) 桂芳男『総合商社の源流鈴木商店』,1977年,日経新書をみよ.
 2) 金子直吉は,経営管理の体制を整えずに経験のない製造工業の分野に猪突盲進したようにみえるし,それが破綻の理由にされている.しかし,それが問題になるのは後のことで,創業者的「企業者」と堅実な「経営管理者」との決定的な相違に鈍感な「銀行的」管理感覚が支配的になってからのことである.金子は,一切の「私欲のない」まさしく「プロテスタント的な」企業家であって,「天命」に忠実なる故に偉大な楽天家であったし,「自己確信的」になりえた「歴史の子」ではなかったかと思われる.(直吉の息子武蔵が,ヘーゲル哲学研究のパイオニアだったことは,いまでは多くの日本人インテリさえ知らない.)
 鈴木商店とは別の系譜で財閥を一度は形成しながら,別の理由で破綻して今日にまで生きのびていない例に「日産コンツェルン」がある.エンジニヤの出身で,鋳物産業での技術的成功によって重工業中心の「新興財閥」形成の雄となった鮎川義介が,経営の多角化を始める契機は親族の鉱山を引受けたことであったが,創始した事業と関係のない水産業や自動車製造にも進出していった.旧財閥との競合もあって,拠点を満州においたこと,ならびに基幹銀行によらず公開市場で資金を調達していたそのことが,戦後の再起を不可能にした.
 だが,明治以前からの事業実績をもつ旧財閥は,結果的には,経営を多角化しているものの,従来の事業と関連ある分野か業種,あるいは経験からして利益が確実な分野・時期でないと進出していないことは格段の注意を要する.
 政治の要求によって三井物産を創立した三井は,その必要も重要性も認めていたから合意したにもせよ,その新事業の危険と責任とが三井本家の家産を脅かすことのないように「周到な手をうって」おり,「資本金も多くは与えなかった(形式的には無資本であったことになっている)」のである[安岡重明].
 3) 三島康雄「三菱商事――財閥型商祉の形成――」(『経営史学』8巻9号)および『近代日本経営史の基礎知識』,1981年,有斐閣の記述をみよ.
 4) 「日本の工業化過程における〈組織された企業者活動〉」(『経営史学』2巻3号,1967年).
 5) この部分は三島康雄の記述に依存している.『総合商社――戦後における研究史――』,日本経営史講座3,1976,日本経済新聞社.
 6) 前出論文.
 7) 日興リサーチセンター編『三菱商事の研究』,1980年,東洋経済新報社,9ページ.
 8) 同上,23ページ.
 9) 「総合商社は斜陽であるか」(『エコノミスト』1961年5月28日号).
10) 日興リサーチセンター編,前掲書,18―19ページ.