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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 XIV 技術政策と技術史
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:XIV 技術政策と技術史

 (1) 現代科学技術と政治
 日本の技術自立は,日本の技術開発力もまたすべての技術分野で世界をリードするようになったことを意味しない.また,そうであるべき理由もない.世界に貢献できる分野が相応にあればよいのであって,技術開発力を独占しようとすることこそ,むしろ危険なことだとしなければならない.とくに,今日の最先端である巨大科学・技術は軍事目標と不可分な性格を備えていることに照らせば,各国民はそれぞれの文化と社会を背景にした「ナショナル・コムポネント」を科学と技術については持てばよいし,そのあとは成果についての情報ネット・ワークを世界的に確立することでよいのである.この点では,ルンド大学などスウェーデンの研究者たちの動向と主張は注目に価する.
 科学と技術の開発が制度化されたことが,第1次大戦以後の特徴であり,先進諸国でも発展途上国でも,科学技術振興に対する政府の支出はきわめて大きいものになっている.
 ところが,日本では,それらにくらべると政府の関与・出資の割合が極めて低い.そして企業の研究・開発投資がリードしている.別な言い方をすれば,先端技術を保持しているのは,日本では,個別企業である.日本のR&Dはr&Dsだと言われる理由もそこにある.
 また,日本は技術開発競争ではなく品質管理競争に勝ったにすぎないのだ(内橋克人)ともみられるのだが,そこに専ら高性能・高品質のみを追求して経済性を度外視する軍事的目的主導の科学技術開発をしてきた諸国と,その理論的帰結の民生利用・商品化に徹した日本との相違がある.人が月に行くことができる時代に,大量の餓死者がでるという状態は断じて正常ではない.その種の政治的狂気と不可分の科学・技術開発力の在り方に異議を申し立てる権利は誰にも保証されるべきであろう.
 その限りで,最新技術の民生的利用は各国でもっと積極的に開発されなければならない.とくに発展途上国で大胆な「実験」が(条件づきでのことだが)試みられるべきであろう.
 しかし,科学技術の産業化には私経済原則がつきまとうから,公害問題の項で触れたような「負の衝撃」をともないやすい.ここでもまた,雇用された科学者・技術者と経営者の人間的品位と人権思想がつねに問われ続けなければならないであろう.ある科学者が正直に述べているように,軍事技術にかかわる最先端分野は,科学者・技術者にとって最も魅力ある問題に溢れているというのは理解しやすい.だが,個人的野心と全人類的生存とを等価交換されるのは困ることである.
 この点で,原子力研究の三原則(自主的・民主的・公開的でなければならない)とした,「世界的モデル」にされている原則を宣言・確認している日本学術会議が1980年に発表した「科学者憲章」は,きわめて格調の高いものである.
 それは,「科学が人間の生活を豊かにするためだけ[・・]のものでなければならない」とし,「科学の健全な発達を図り,有益な応用を推進するために」科学者は次の五項目を遵守する[・・]と宣言している.
 一,自己の研究の意義と目的を自覚し,人類の福祉と世界の平和に貢献する.
 二,学問の自由を擁護し,研究における創意を尊重する.
 三,諸科学の調和のある発展を重んじ,科学の精神と知識の普及を図る.
 四,科学の無視と乱用を警戒し,それらの危険を排除するよう努力する.
 五,科学の国際性を重んじ,世界の科学者との交流に努める.
 この格調高い「宣言」も,1947年から占領軍によって日本の研究・教育体制を「抜本的に改革」しようとして,「勧告」された占領軍の政策の「優等生的な」達成(湯浅光朝)の上に開花したものである.それは,ちょうど,戦争犯罪人を日本人自らの発意で告発できなかったのと同じく,外圧がなければ変革の契機を捉えられない「後発者」日本の内部事情を物語ってはいる.このとき,注意してよいのは,「外圧」があれば,それに呼応できる内在的な諸要素が潜在的に成熟しつつあったことである.その芽が,「明治国家」体制では,科学や技術の世界でも逼塞させられていたのである.
 日本では,徳川政権いらい,「和魂洋才」という理念が,進歩的=文明史論的な意味と反動的=排他的民族主義的な意味との双方で,積極的・批判的に主張された歴史と,逆用された歴史とが交錯している.
 科学技術史研究の長老湯浅光朝によれば,6世紀いらい350年にわたって続いた中国文明の吸収体制である遣唐使の廃止を建議したのは,894年に遣唐使に任命された菅原道真(845―903)その人であって,「日本固有の精神をもって中国から伝来した学問を消化吸収すべきであることを強調して」,「和魂漢才」を提唱した.
 そして,鉄砲伝来(1543年)およびキリスト教伝来(1549年)から350年を経て,「和魂洋才」という流行語が生まれた,と言う.それを最も鮮明にした人として,いつも引用されるのは佐久間象山(1811―64)が勝海舟あての手紙に認めている「東洋道徳,西洋之芸」という言葉である.これが「当時の洋学者に共通の考え方であった」.
 その洋学者たちは医家か兵学者であった.すでに述べたように両者を兼ねていたものに佐久間象山と同様に暗殺された大村益次郎がいるし,前者から後者(=造兵技術者)に転じた者に大島高任がいた.
 洋学者=兵学者ではなくとも,彼らに深刻な危機感を与えたのは阿片戦争における中国の敗北であった.そこからにわかに,たとえば林子平の「海国兵談」のような海防論が生まれてくる.
 それは,「技術の政治学」の素材ではあるけれども,近代的技術の内部メカニズムの認識と主張が政治権力と衝突して,抹殺された悲劇的な事例である.技術論として言えば,それは,宋應星の「天工開物」(1637年)のほぼ完全な吸収・利用の上でそこからの離脱を刻印しているだろう1).
 佐久間象山の時代には「和魂洋才」は進歩的意味をもつことができた.そして,それは明治初期に引き継がれてゆく.だが,明治国家権力の安定・確立とともに性格転換が始まり,技術内メカニズムの合理性の軽視や無視が根づいてゆく.その傾向は,軍人と保守派政治家において著しかったし,国民の大方がそれに同調していったのでもあった.
 この科学・技術蔑視にまで転じた「和魂洋才」論に公然と,しかも説得的に反論する人物が現われるまで,つまり日本に近代科学・技術思想が不可逆転的に(一部にもせよ)定着するまでには,半世紀が必要であった,として前述の湯浅光朝は次のように書いている.
 「1915年,田中館愛橘(東京大学理学部教授)が航空研究所の設立運動をかねて」貴族院(当時は超国家主義,日本精神主義者が牛耳っていた)において「航空機の発達および研究の状況」と題して講演したとき,
 「諸君の御覧になるところでは西洋文明は物質的機械文明である.すなわち形而下の文明であって精神的の方面は欠けている.東洋文明は形而上の文明である,精神的である,仁義忠孝は東洋の特有物である,この二つの思潮を如何にして調和せんかというように承りましたが,東西文明の解釈が果たしてそう単純に見てしまってよいものであるか,これが私の疑問であります.……西洋文明の根本はそんな浅墓な土台(形而下のことばかり)のうえに立っているものか,私の疑問はここにあります」と述べている.さらに言葉を続けてガリレイの地動説の例を挙げて「一旦地が動いていると論定すれば,断々乎としてその信念するところを貫く.切らば切れ,焼かば焼け,一切猶予も妥協もない.金が儲けたいの,勲章がほしいの,そんな了簡でできることではない.いわゆる物質的・機械的文明なるものの背景にこの如き精神が漲っているのではないか.今日ヨーロッパにおいてもアメリカにおいても,見る人の目で見たら,幾多の生きたガリレオ,幾多の生きたニュートンがいて文明の源を養っているのではないかと私には思われます.」
 ここに,日本的な曲折をへてユニバーサルな性格をもつ近代科学思想の確立を認めることができるであろう.だが,それが,体制の思想に変質した「和魂洋才」論に勝利したことを意味するのではない.科学と技術とを,その手段的性格にのみおいて利用しようとした軍事ファシスト体制は,一方で近代戦が科学・技術力の戦争であることを承知しながら,同時に近代の科学と技術に内在する「思想」は否定するという矛盾に落ちこみ,自己崩壊していった.
 このことが理由で,日本は戦闘では負けなかった,敗けたのは科学・技術力によってであった,それ故戦後日本の復興は科学・技術立国でなければならない,という立論が不幸にも「和魂洋才」の再生版として,復活するのでもある.
 ここで私が指摘したいのは,政治の思想と科学・技術の思想との拮抗関係である.我々はいまも断じて一律でない両者の関係の中にいる.田中館が引用したのはガリレイであり,ニュートンである.科学と技術とが「制度化」・体制化されていない時代のことである.科学が制度化された現代における科学者の苦悩はアインシュタインが代表していただろう.しかし,ヴェトナムの枯葉作戦に技術を提供した農業化学者や「殺害率」kill ratioを平然と論じた経済学者に,アインシュタインの苦悩を求めることは見当違いであろう.
 彼らには,「アメリカ」という「国家制度のなかで」,知識/技術の専門職として飼育されている「猛獣」であることの自覚はないし,もとうともしない「感性なき享楽家,精神なき専門家」である.それが,科学が巨大化し制度化された現代の構図なのである.それはマフィアのドンでありながら敬虔な旧教徒であることが本人の意識の中では矛盾していないのと同じく,現代の病状であり,病識のないことが病人であることの証明である精神分裂症候群が科学者と技術者を蝕んでいるのである.
 「優れた」科学者・技術者が「特権的」に聖別されて官僚主義の権力機構に装置化されていることへの警告や批判は,科学者・技術者の中からもすでに多いから,私があえて屋上に屋を重ねることもない.わが国でも,たとえば広重徹や中山茂などの労作がある2).
 その限りで,やや定型的で具体性を欠いてはいたけれども,我々の対話者たちが科学と技術の「専門家」にみせる警戒や敵意には充分共感できる.と言うのも,科学と技術の「行政エリート」の特権と影響力とは,科学者・技術者の絶対数が少ない発展途上国でこそ,巨人国家なみに強大であり,もっと悪いことには「科学と技術の政治的中立性」の故に,政権の交替があっても交替しないからである.「科学と技術のことを,科学者と技術者に委せきってしまうには,問題が重要すぎる」のである.
 (2) 「開発」の技術史と技術政策史
 我々のプロジェクトは,各産業別に技術移転・変容定着・自立の経過をたどっているので,横断的に展望し概括・俯瞰の作業も必要であった.
 [中岡哲郎]は,日本における近代技術の発展史をたどって西欧モデルとの驚くべき類似を指摘する.だが,それは何故か,と問いなおすことによって,日本の特殊性が特殊なる故に一般性をもつこと,つまりどの国民も西欧の発展過程を逐一なぞってゆくことではなく,特殊な途を独自に選択できること,ならびに選択する他ないことを指摘する.
 [中岡]は,日本の製鉄技術と紡績技術という重工業と軽工業の二部門を事例としてとりあげることで,経営・労働・周辺技術・関連サービスの問題に目配りしている.その結果,西欧での製鉄技術の発展段階にくらべると,日本はどのような落差をもって出発し,どのように追い着いてきたかを検討して,その理由を日本伝来のたたら製鉄法における技術的蓄積に見出している.官営釜石製鉄所の起業は,同教授によれば「技術的には」品質・出銑量では「成功」であった,と言う.木炭高炉であったために,充分な燃料供給がえられず,コークス利用に転じたことで失敗したのだ,と指摘している.それが民営になってから経営的に成功したのは,燃料条件と市場に合わせた規模縮小に理由があった.
 そのとき,燃料・動力・運搬問題など周辺条件とのリンケージを調整・確立することが,成功と失敗の岐路になったとみている.同教授は「日本ではバッドル高炉法が事実上とび超えられたに等しい」ほどに,西欧での発展にみられる各段階の時間を著しく短縮した(400年を50年余に)と言う.
 さらに,繊維産業の技術についても,三段階をへて到達した近代的な発展の歴史を吟味して,関連技術と周辺サービスの重要性を確認しながら,経営者の変容(経世家から専門技術をもつ企業経営者への移行)と熟練労働の形成(管理と拘束を嫌う農民型から工場労働者型への変化)をあとづけている.
 ミュール紡機が発明されたときには(1780年)未だ木製であったことに注意を喚起しながら,紡績の周辺技術として,木製機械の製作技術つまり機[はた]大工(自動織機の発明者豊田佐吉がそうであった)と水車大工そして鋳物職人の高い技能が,機構・動力・部品製作で(歯車は英国でも19世紀末まで鋳物が多かった)外来技術と出逢うことで,その時代における「中間技術」である混血技術を生みだし,工程間分業をふくむリンケージが形成されるのであった,そこに「日本の成功」の背景を認めている.
 [石井正]は,新技術が在来技術を抹殺・一掃したのではなく,紡績と織布の間の分業を工場労働と家庭内職という相互補完の工程分担によって,共存・共栄してきた,その技術的連関[リンケージ]の構成の仕方に注意を促している.そして,それは,最終製品の需要が,当時は,小幅物にしかなく,日本人の衣料は未だ圧倒的多数が和服であったことに対応していたのだが,欧米製織機は小幅物を生産できなかったという事情もある.早い時期から広幅織布は大工場で生産されているが,それは軍用その他の内需よりはアジア諸国の市場むけであった.
 なおついでに言えば,綿紡績業の発達が衣料素材として木綿を不動の王座につけて麻の地位を奪ったのである.そしてやがて化学繊維の時代を経て,いま再び麻と木綿の天然繊維が奢侈的に愛好されるようになってきている.
 [内田星美]は,1825年から1935年までの110年にわたる技術政策史を検討した.全体は四つの時期に区分されて,それぞれの特徴をえぐり出している.
 第1期(1825―68年)は明治維新までで,明治政府の技術政策の原型が徳川幕府および諸藩の政策の中にみられる.そして,それは,鎖国という中央政府による技術(情報)の独占が内外の事情から弛む他ない過程でもあった.明治初期に新政府の中心政策となる「殖産興業」は,すでに諸藩が現金収入の増加を図るための財政政策として経験を重ねてきたものを,全国的規模で統一的に実施しようとしたものであった.
 新生国家が,そうした経済・技術政策を展開できたのも,徳川政権確立以降武士はすでに戦士ではなく行政官僚になっていたから,比較的容易に行政マシーンを形成できたのであった.
 第2期(1868―85年)を特徴づけるのは政府直営の模範工場による性急な「西欧化」で,設備・機械が輸入であったばかりか,技師・職工までが<お雇い>外国人で,操業の指導に当っていた.1873年にその数は239人に及んでいた(1875年から減少し始める).
 だが,この時期の政府には統一的な技術計画や技術政策がない.有力政治指導者の間に意見の対立があり,各省庁が勝手に技術導入や人材養成をすすめていて,中央政府レベルでも整合性がなかった.
 第3期(1885―1910年)において初めて政策転換がみられる.官僚主義から民間企業育成へのスウィッチであるが,直接の理由は直営事業の累積赤字と財政難であった.
 このとき,官営事業の人材が民間に放出されたから,技術の普及する契機となった.そのかたわら,政府が管掌した鉄道・気象・通信などの分野では,各省庁が学校を開設して人材の養成と確保に務め,かつ農・工・水産技術の試験所・研究機関・観測施設をもち始める.
 その中でも注目すべきは,陸海軍の技術政策であって,兵器独立(国産化と制式化・標準化)の志向が強く作用している.その目的が達成されるのは(海軍では技術の性格水準からして遅れるけれども)1910年代の初頭である.
 第4期(1910―35年)の中央に,私の言う「技術自立」は達成されるのだが,近代技術の諸分野が最小限の必要なリンケージを確立して,発展し始めた時期にあたる.この時期の技術政策は,民間の潜在的技術能力の開発と発展にむけられる.陸海軍は軍事大国を志向して技術政策を展開するけれども,それが一流工業国を志向する政府与党の志向とたまたま合致していた.
 重化学工業化の著しい発展をみたこの時期に,第1次大戦による輸入杜絶を契機として,金属機械工業と化学工業が輸入代替を果たしている.また,新興コンツェルンが重工業技術を基幹とする大企業集団を形成するのもこの時期である.その一つである理化学研究所は政府からの援助によって生まれた(1916年)基礎科学研究所が転成,膨張したものであった.
 このように第2次大戦直前までの技術政策を概観して,[内田星美]は,日本で技術が国家の政策全体のなかで独立の項目として現われるのは1942年の技術院の創立からである,と言う.
 付 記
 戦後の科学技術政策にとって重要なのは,1959年に発足した,首相を議長とし蔵相,文相,経企庁長官ならびに科技庁長官,日本学術会議会長の他に首相任命の学識経験者3名を加えて構成される「科学技術会議」である.空前に強力な科学技術行政の体制である.
 この前に,「科学技術の振興を図り,国民経済の発展に寄与するため,科学技術に関する行政を総合的に推進すること」を目的に科学技術庁が発足している(1956年5月).
 湯浅光朝によれば,科学技術会議が公表した二つの10カ年計画,(1)1960年の「10年後を目標とする科学技術振興の綜合的基本的方策について」と(2)1977年の「資源有限時代の科学技術政策――科学技術10カ年基本計画」がきわめて重要な意味をもつ.官庁文書の常として,平板で総花的ではあっても,日本が直面する問題と課題は網羅されている.
 これに対する「学術会議」の対応は「転換期の科学・技術」(1978年)にまとめられている.さらにこれと一対をなすものが,同会議の決定した格調高い「科学者憲章」(1980年)である.
 これはユネスコの「科学者の地位にかんする勧告」(1974年)を科学者の「権利章典」であると同時に「倫理綱領」でもある(野村平爾)と捉えている点で注目される3).
 なお,「科学技術の史的展開」(政策研究会・研究グループ,議長佐々学)は,これまでの科学・技術の方法原理を吟味して,現象科学から要素還元主義(atomism)と巨大科学に結晶するハード・パス(hard path)を摘出し,その克服がハードとソフトの調和をもつ「新しい途」であるholonic and flexible pathを提起している.基本になるのが「全体子」(holon)という概念である4).

 [注]
 1) J.Needham,"Science and Civilization in China"のなかで,「天工開物」はExploitation of the Works of Natureとして紹介されている.英訳には,T‘ien-kung K‘ai-wu,Chinese Technology in the Seventeenth Century,translated by E-tu Zen Sun and Shiou-Chuan Sun,The Pennsylvania U.P.(1966)がある.
 面白いことには,日本で諸版があり,さらに写本も多く残っているこの技術書が,清朝中国では「あまり読まれず,一時この本の所在すら明らかでなかった」ことである.そして日本への留学生によって中国にもち帰られ,関心をあっめたのであった(藪内清).
 2) 入手しやすいものだけを挙げておく.
 広重徹『科学の社会史――近代日本の科学体制――』,1960年,中央公論社.『科学と歴史』,1965年,みすず書房.『近代科学再考』,1979年,朝日新聞社.
 中山茂『科学と社会の現代史』,1981年,岩波書店.
 なお,広重徹・伊東俊太郎・村上陽一郎『思想史のなかの科学』(1975年,木鐸社)は簡潔に科学(思想)史の問題点をまとめている.
 3) 岡倉古志郎「ユネスコ勧告と科学者憲章」(渡辺直経・伊ケ崎暁生編『科学者憲章』,1980年,勁草書房,29ページ)による.
 湯浅光朝「日本の科学技術100年史(上,下)1970―'84,中央公論社.
 4) 『科学技術の史的展開』,1980年,大蔵省印刷局,42ページ.