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技術と社会:日本の経験

論文タイトル: 第4部「日本の経験」--産業技術の事例研究 XV 女子労働と技術変化
著者名: 林 武
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第4部:XV 女子労働と技術変化

(1) 全家族労働と主婦権
 近代化を工業化・都市化と同義語に用いることは許されてよいと思うが,それは農業社会が変化してゆく過程なのだから,もともとの農業社会がどのようなものであったかをまず問題にしなければなるまい.
 農業生産に基礎をおく社会では家族労働が中心であった.「家族」は,日本では,必ずしも血族だけを構成原理とはしていない.生産活動の規模と種類によって,他人労働も「家族」の中に採りこんだ全体が生産活動の単位をなしており,老若男女の全員労働が原則であった.だから,そこでは,激しい重労働をふくめて,労働の種類に性別分業はなかった.あったとすれば,男のしない労働が女に追加されていたと言うべきである.調理ばかりか食糧・衣料の製造,管理,保存の他に,祭祀・冠婚葬祭などが中心となる社交でも女子労働は不可欠の重要性をもっていた.育児などは仕事の中には計上されていない.
 だから,生産労働と社交は男の任務で家事・育児が女の分担という「伝統的な家族」生活は,農民家族のものではなく,非農民家族の,それも武士ないし大商人・大地主(しばしば商業・金融活動を兼ねていた)の生活様式であった.
 自給自足が原則の生活で高度・多角の生活用品の調達は,農民に100種以上の技能の熟練を課していた,と日本民俗学の父・柳田国男は述べている.それには季節ごとの制約があって人為的に変更はできない.作物に関することばかりでなく,燃料や肥料,俵や縄などの補助用品の製作があり,家屋の補修,共同活動としての道普請や寺社の維持・管理にまで及んでいた.だから,多能な栽培者・耕作者である他に,鍛冶・木工・石工・土工・水利の水文家で獣医・猟師・木樵・織夫(婦)でもあったのが農民(男女)で,それを家族全員で共同または分担しながらこなすのであった.
 家族の小規模化が始まったこの1世紀余は,それ故,成員の欠落が生ずれば家計そのものが破綻する他ない経験の蓄積と並行していた.逆には,新しい小家族の形成は共働者としての妻の労働力に依存してのみ可能なことであった.
 家族成員の増加,つまり子沢山は家族の将来に全員労働という原則からして期待を大きくさせるものではあったが,多すぎる子供は「将来の手助けよりも現在の負担」を耐え難いほど辛いものにしていたのである(村上信彦)1).
 未来と現在とのはざまで,多産多死という低衛生状態と農業開発の限界が別の新しい問題の解決方法と解決場所とを必要としていた.貧困の解決揚所を増加する新・小家族は,農業と農村には見つけられなかったのである.明治の初期から過剰な労働力は流出し続け,農家経営の原則であった「全員労働」が都市に移植されて維持される.大家族は,農村においては,そのこと自体で富裕の証明であり,小家族は貧困と同義語であった.どちらにしても,全員による激しい労働がその基礎であったし,農村に留まっても,脱農しても,家族「全員労働」によってしか生計が成り立たないのであった.それが離陸期の日本家族の姿であった.
 前世紀末に「日本の下層社会」を著して当時の労働事情を報告している横山源之助によれば,50人以上の職工を有する全国1,615事業所に,男工11万1,913人,女工18万4,839人(合計29万6,752人)が就業している.そして,生糸・織物・製茶・綿紡績・燐寸の工揚「多きが故に」全体としては男工に比して女工の数が多いのは当然としても,当時はまだ軽工業中心の時代だから「専ら機械に依頼する時代とならば更に著しく女工の多くなること必せり」と述べて近未来を展望しながら,すでに,「洋燈口金,紡績用品,樟脳工揚」において男子労働者が減り,女子労働者が増加していることを指摘している.
 だが,「鉱山もしくは鉄工場の如き,ほとんど婦女子の用なかるべく覚ゆる工場においても尚婦女労働者を見ること多く」,東京砲兵工廠にも毎日300人以上が作業していると報告している.その大方は工廠「職工の妻子なり」と述べている.
 横山は,「鉄工の妻子にして工揚に入るは,悉く止むを得ざる生活の必要によるのみ」で「労働者の生計の窮乏」に理由があるとしている.横山の観察で注目に価するのは,「わが国において技術の伴う労働を要する工場を数へば硝子,靴等の二,三種と造船および諸機械を製造する鉄工場のみ」としていることであり,やがて確実にくる「機械に依頼するの時代とならば」著しく女工の多くなることを見通していることである.
 その見通しは,横山の言うように,男子職工の労賃そのものが安いこと,そしてそれよりさらに婦女労働の方が安いことによって,立てられている.完全雇用ではなく,「全部雇用」と称される農村的労働形態が都市にはすでに定着していたのである.
 賃金データに基づいて,家計の規模が労働力の供給量を決定することを立証したのはP.H.ダグラス(1902―?)であったが,わが国でも有沢広巳が同じ分析結果をえている2).
 この「ダグラス=有沢理論」によれば,(1)世帯主の所得が低いほど家族の有業率は高く,世帯主の所得が高まるにつれて有業率は低下する,(2)世帯主の所得が一定であれば,他の世帯員の就業機会は賃銀率が上昇するほど大きくなる,(3)家計の中心者(世帯主)は賃銀率と無関係に就業することになる.これは,女子労働力供給の家計的根拠を理論化したものとして説得的であるし,有効性も高い.
 さきの横山の観察と結び合わせれば,技術変化が,少年労働,次いで婦女労働を市場に参入させることを家計の側から解明してくれる.ここにまた,ヨーロッパの熟練労働者たちが技術変化に拒否的な反応を示し,女子労働力の参入に労働組合や左翼政党が反対した理由を逆照射する根拠が与えられる3).言わば,「伝統的な家族=家計」観が危機にさらされていることへの拒否反応がそこに認められるのであるが,資本主義的な技術革新への対応が後発工業国日本では「農民家計」的な全家族労働でなされてきたということになる.この事情は今日においても,実は,余り大きく変ってはいない.
 今日でも,勤労所得に依存する家族の「過半数が何らかの形で共働き」しており,「世帯主の収入が少ない階層ほど共働きの比率が高く,妻の家計寄与率も高い」のである4).無論のこと,横山の観察した時期と今日とでは事情は同一でない.生活水準と消費水準は格段に高くはなっているけれども,同時に,物価水準の上昇に賃銀水準は時間差をもってしか対応していない.とくに,石油ショック以降,家計収入から税金や社会保障費を差引いた実質収入(実質可処分所得)は停滞している.つまり,ダグラス=有沢理論の第二法則を修正する仕方で,婦女労働が増加しており,それが,正規雇用としては変則のパート・タイム労働という低賃銀雇用の増加を生んでいる.
 そこには,さらに,事務労働の機械化=労働節約と経済のソフト化という問題も介在している.別に言えば,石油ショックを一つの転機とはしているものの,それをはさむ激しい技術革新が,石油ショック以前にはインフレに対応した家計防衛としての婦女労働を引き出して労働力不足を補っていたのに対して,石油ショック以後は家計補助の婦女労働を企業が選択的に労働節約的に利用しているのである.それを可能にしているのはFAとOAを軸とする技術革新である.
 欧米人たちが(そして西欧化された発展途上国のインテリたちが)表見的な観察から下す日本社会における婦女子の地位についての判断に修正を加えておかねばならない.それは,農民的家計運営のなかに確固として定着している「主婦権」の存在である.日本の世帯主は財産管理の責任は負うけれども(財産があればの話だが),家計の管理・運用は主婦の責任だから,世帯主は収入の全部をいったん引渡す.そして,その中から必要な経費として主婦の合意をえた額を世帯主も再配分を受けるのである.主婦の家計支配が日本では普通であることは注目されるべきであろう.夫が妻の家計管理に干渉するのは例外的であり,経済学者でも(彼らは国民経済学者だから)日常物資の個々の価格を知らないのが通例である.家計を夫婦の共同管理にする例は,若い共働き夫婦にはみられるが,未だ少数派である.主婦の家計管理・支配は所得の多寡とは関係がないけれども,全員労働でなければ家計が維持できないときには,その支配力が極大化する.そのことの責任が,主婦を専業主婦たらしめずに,家事労働を全部引き受けながら,なお家計補助のために労働市場に参入させるのである.
 家計補助の労働を不可欠にしている理由の最大のものは,今日では住宅費の負担,とくに住宅建設費の支払いである.「新しい貧困」問題は住宅に尖鋭的に表現されている.宅地の高騰・供給不足から,東京では平均通勤時間が片道90分というのが大多数で,それさえ庭付き一戸建ての自宅ではない.
 次いで挙げられる理由は,子女教育費の負担である.総じて言えば,この100年余に日本人が経験した数次にわたる激しい政治・経済・社会の変化と現に経過しつつある見通し難い技術変化の中で,最も安定した価値であることを立証したのは,教育によって得られた知識・資格・技能だった.そのことが,高い教育関心を生んでいる.都市化と工業化そして情報化した高度技術社会に生きる,所得はあっても財産のない階層(それが国民の圧倒的多数である)にとって子孫に残してやれる唯一の財産が教育であり,それしかないという判断が作用している.
 ダグラス=有沢理論によって,家族全員労働のこの1世紀ほどの日本での変化を説明すれば,世帯主の賃銀の相対的上昇が子供の就労をおくれさせ,おくれた分が教育期間になっていること,そして住宅問題が小家族にとって深刻な負担であることから主婦の就労が避けられない,ということになる.
 私は,そこに「主婦権」ないし「主婦責任」の健在を確認するのだが,勿論のことこれは法律に成文化されている権利や責任なのではない.日常生活のなかに埋没して機能している倫理であって,日本人にとっては自然なことなのである.それ故にまた,しばしば,とくに2世代または3世代同居,共働きの農民家計では,主婦候補である嫁は苛酷な無償労働による教育と訓練を長期にわたって課せられるのを自然視してきたのでもあった.
 (2) 技術変化と婦女労働
 これまでの経験からすれば,世界中どこでも,新技術の移転が新技術間関係を発展させないかぎり,あるいは新種の産業分野を開発するのでないかぎり,在来技術部門にのみその変化の影響が限定されて,雇用創出効果はみられない.しかし,その場合でも,技術移転による生産性の向上と製品特性の開発が低価格化と市場の深化拡大をともなえば,雇用削減にはいたらない.低価格化も市場拡大もなければ,技術移転は雇用削減効果をもつ.
 近代技術の特徴の一つは熟練節約的な性格にある.しかし,経済が発展過程にあれば,技術変化が熟練労働力を排除することはない.むしろ,節約される熟練は新規参入の未熟練労働力が代替する.一般的に言えば,近代技術が節約するのは熟練者の総数であっても,専門化した高度の熟練そのものが不要になるのではなく,その重要性はかえって増加するとさえ言いうる.そのとき,従前よりは高い知識・教育水準と多角的な技能力や判断力という経験知が必要となる.総じて,熟練節約的であることは,熟練形成に要する時間の短縮と軽労働の増加と並行している.そのことは,女子労働の増加という事態と経験的には一致する.
 それを簡単に指標化してみせてくれるのが,直接労働と関接労働の対比である.1950年の日本全体で,男子就業者についてみると,直接労働部門は間接部門の1.26倍であったが,女子は3.1倍であった.その大方が農業労働であった.それが1970年には,男子が1.53倍で女子は1.06倍に減り,1980年になると1.15倍と0.61倍になってしまう.就業人口総数では,1950年の3,202万(うち女子1,394万),70年に5,211万(うち女子2,039万),80年は5,565万(うち女子2,107万)である5).
 この変化で著しいのは女子就業者における非直接生産部門の比率増加であり,かつて3対1であったものが1980年には3対5(または1対1.7)になる.絶対数で1.5倍に達していながら,直接生産部門の比率低下は,女子労働が間接部門で急速に増加したことを意味する.
 この間の技術変化を考慮すれば,技術変化による軽労働化ないしサービス経済化が女子の就業構造を変化させている,と言いうる.ちなみに男子でも比率は低下しつつあるものの生産部門人口の方が依然として僅かながらも多いのと鋭い対照をなしている.これを具体的にみると,女子労働は農業において激減して(5分の1になり),事務・管理部門で3.6倍増しているのである.
 ところが,男女間の賃銀格差をみると,42.8%(1960年),47.8%(65年),50.9%(70年),55.8%(75年),53.8%(80年)という変化を示している.つまり高度成長期における労働力不足が賃銀を引き上げ,かつ女子も生産部門に雇用されたことが男女格差を縮小させたものの,石油ショック以降の安定成長期になると再び格差が緩やかながら開きつつある.
 だが,このような巨視的指標では格差があることは確かだが,微視的にみて,専門的技能/資格と長期の勤続年数(=熟練)を必要とする職種では男女差はない.したがって,男女賃銀格差は専門的高技能以外のところにみられることで,しかも女子就労者に多い経歴の中断と多くはその結果としての職場(および職種)の変更が理由にされてよい.別に言えば,女子労働力は労働市場において固定的・基幹的要素である割合が小さく,総じて言えば流動的・周辺的性格をおびている.
 そのことと,女子の労働力率(15歳以上の人口に対する就業者の比)とが関係している.
 1980年に女子の労働力率は47.6%だが,1975年が戦後の最低で(45.7%),以後は緩やかな上昇傾向にある.この1975年という年は,女子労働における直接生産労働と間接労働の比率が逆転した年でもあった.石油ショックによる景気の落ちこみが女子労働を減少させている.この年,完全失業は戦後初めて100万人をこえたが女子は34万人に達している.言わば,女子労働力は企業にとって,男子高齢者と同じく景気変動のバッファであることを示している.
 女子労働力率は20―24歳で最も高く,25―35歳までが最低で,その後,40―50歳代で再び高くなる(都市で55%,地方で70%).このM字型労働力率は工業化した諸国の中では日本が最も鋭い角度を示しており,結婚・出産・育児の時期に労働市場から離脱する事情を説明する.20―24歳までがピークになるのは,15―20歳までの就学率が高いからである.
 これを先進諸国にくらべると哺育サービス機関の不足・不備(とくに通勤時間をふくむ長時間哺育の未発達)が著しく,発展途上国のように廉価な家事労働力がなく,かつ核家族化が進行したことに対応している.
 「アジア的」家族の構造を,かりに,拡大家族だと仮定すれば,第2次大戦後の日本家族は高度工業化と都市化のせいで急速に核家族化(=非アジア化)してきている.世帯総数は3,408万だが,1戸当り人員は3.30人である(1980年).インドでも大家族制が維持されているのは富裕層に限られていると言う報告もあるが,1946年に「稀有ではない」15―20人家族は今日ではもはや稀有である(同年の平均家族数は5.09人.しかも,これは敗戦直後の都市荒廃という事情を反映したもので,1920年には4.85人であり,それがその50年前にくらべてもほぼ変らない数字であった,と考えられている).
 全労働力の中で女子の比率は,1920年に38.2%で,1980年には37.9%だから,長期的趨勢としてはほとんど不変とみてよい.平均世帯人口数が安定しているのに対応して,女子の労働比率は変っていない.変ったのは就業形態で,第一次産業部門から第三次部門への移行が著しい,ということである.長期的にみれば,これは技術進歩と女子教育の高度化を反映したことでもある.
 ただし,第一次産業部門に着目すれば,軽労働化やサービス経済化は認め難い.むしろ農業機械化が女子労働を強化している.それは機械購入のために世帯主が農外雇用の機会を求めざるをえないことが専業農家では普通のことになり,しかもその機会は次第に遠隔の都市部にしか見つけられない.そして,都市住民の回避する重労働と汚れ仕事ないし深夜労働しかない.これをある農村青年は,「仕事をラクにする,能率をあげる,そのために金が要る.その金をとりに外に出て働く.どこかバカげているように思えて仕方がない」と新聞投書している.およそ15年前のことである.
 農民たちは,これを「近代化貧乏」と呼んでいるが,高能率・多能の機械ほど高額だから,かれらの遠隔地・都市部への出稼ぎは長期化し定期化する.つまり,農作業は機械化できない部門をふくめて,女子労働化するのである.その結果,家事労働を節約するための家電機器や工場製食品が農家にも普及する.
 途上国の研究者と連れ立って農村に行くと,大方の反応は,ラジオが畑まで持ち歩かれ,家ごとにテレビがあり,東京の新聞が読まれているし,自家用車があるなど,「これは農民ではない」と言う.本当の農民に接したい,とかれらは言う.だが,家長を長期にわたって欠き,家計と農業経営万般の責任を負いながら労働し,したがっていままではなかった機械による怪我や工場労働者と同じ身心傷害が農婦の間に殖えていることには,かれらの眼は届かない.
 かつて農業労働は家族労働が原則であったし,それが効率を支えてもきた.それがいまでは,「共稼ぎ」と都市で言われてきた職場を異にする夫婦労働の用語が農村にまで滲透しているのである.
 漁村では,機械化によって,逆のことが起きている.小型船舶の機械化と普及により,その以前には夫の獲ってきたものを妻が売って歩いたり,加工したりするという夫婦分業と家族協業が普通であった.それが今日では,小漁船でさえ機械化し原動機化されたことで,出漁海域も拡大して,運航にせよ,網立て・網上げにしろ,協同労働者が必要になり,それが夫婦労働化している.しかし,そのことで家事労働の負担が減っているのではない.確かに一家族当りの収入は増加している.だが,負債と必要経費も増大する.そのことは,実際には夫婦労働の強化・拡大が保証していることでしかない.言わば現代漁業労働はかつての農業労働化をすすめているのである.
 これが,農業労働の都市=工業労働化に対応した漁業労働の変化である.勿論,ここでも「生活様式の都市化」である家事労働の節約を助ける家電機器や工場製食品や衣料の普及は著しい.
 そこに認められるのは,生活の形態変化ではあっても,生活の質の向上であるのかどうかは疑問である.そして,この生活の質の変化は,おそらく不可逆的であろう.もし,そうだとすれば,それは生活と文化についての新しい問題を我々に突きつけていることになる.そして我々はこの問いに対して,いまは,確信的な回答をもてない.ある人は,我々の調査のなかで,「昔は貧しかった.しかし,美味いものが沢山あった」と語った.味覚などというものは習慣の問題だ,と言うことに一面の真実があるにしても,通時的・共時的に,特定の共通水準はある.そうでなければ,フランス料理と中国料理の普遍性は語れない.
 味覚に示される生活の「質」の問題は,習慣と価値観の問題に他ならないが,生活の質と内容とについていま日本人が経験している変化は,重化学工業化の結果であり,次いで生じつつあるソフト経済化によるものである.これを肯定的にみるか,批判的にみるかは別として,家族生活が形態と内容で急速に変化しつつあることは確かである.
 一次産業にまで及んでいるこうした技術変化の影響は,総体としてみれば,一方で女子にも労働の機会を拡大しながら,他方で女子の失業を深刻にするという特徴をもつ.提供される雇用機会は技術変化に対応できる教育と技能をもつ者に限定される.同時に,対応できない労働人口を排除するし,排除しない部門では競争を激化させる.結果は,低賃銀化と雇用・労働条件の低下であって,企業負担の小さい臨時労働化と間接雇用化,そしてパート・タイマー化である.こういう意味で,就業希望がかなえられない女子失業は高度化する技術社会では深刻になる.それが,中高年層において著しくなるのは,「全員労働」という労働の構造と主婦権という文化が危機をむかえているとも言える.
 それは,工業化を生活水準の向上のために選択した,また選択する他なかった近代日本が直面している問題なのである.それは価値判断からする是非の主題なのではなく,日本国民の歴史であり経験なのである.それが問題ならば,回帰的にではなく,創造的に解決されなければならない国民社会と国民文化の問題であって,失敗の責任を他に転嫁できることではない.この点に注目すれば,日本人という名で総括される日本農民の示した適応能力の高さは,改めて驚きに価する.しかし,そこには日本が「近代化」に着手した時期の,そしてその当時の国内事情の好条件が,今日の発展途上国にくらべれば,あった.
 それにもかかわらず,そうした客観条件を主体的に展開させた契機は「全員労働」と「主婦権」という構造と文化にあったことは確認されておくべきだというのが私の主張である.
 その上でなお,全員労働と主婦権と言うものが,独立小生産者的=自営業者的な生産活動のエートスであり,生活原理でしかない,という批判はあるだろうし,それは的確なコメントでもある.だが,ダグラス=有沢理論が,それを,資本主義の開始期に限定されるべき「性格づけ」ではないことを立証してくれる.そして,また,大規模化の社会的利益というものが,歴史的な発展の経過の中でこそ必須・不可欠の段階ではあっても,恒久的・永遠的なものではないことは,大量生産=大量消費の体制が画一的な単品需要の経済性に応じたものにすぎなくて,その次の段階では,多品種・少量生産の総和が大量生産・大量消費の内容となる,技術・経済史の現在が立証している.
 主婦権という用語は柳田国男の創意によるものであろうし,それを私がこのように理解したのは「日本の経験」を発展途上国の問題に合わせて解析する「対話」の可能性を潜めていると思うからである.日本では,全労働力人口の70%が雇用労働力である(アメリカは90%)が,30%は自営・家族労働である.その30%の人口だけが日本社会の活力を培養・温存していると言えば明らかに言い過ぎではあるが,そこにこそ「全員労働」と「主婦権」(=責任)の活躍がダイナミックに認められることは疑いない.にもかかわらず,それは70%を占める雇用労働人口の家計でも「主婦権」と「主婦責任」とが貫徹していることはまた明らかであって,それが家事労働,育児の負担が軽減された主婦たちの就業意欲となっている.現状はしかしそれを利用・吸収しきれていない.それが男子に比して高い女子の失業率として表現されている(男子2.6%に対する女子3.1%,1980年).「失業」概念が各国ごとに異なっているので,安易な国際比較は許されない.これは,日本の「失業」概念は労働市場への新規参入を考慮していないので,実態は,もっと高い数値になる.この点に注目すれば,日本の失業問題は構造的に深刻で,表見的な統計には決して出てこない性格を備えているのである.それにしてさえ,女子の失業率の高さは,1970年と1980年とで同じである.両者を区別するのは,OA化による労働力節約が中・高年層の排除にむけられたということ,すなわち若年労働化をすすめているところに他の工業先進諸国との相違が認められるだろう.
 以上のような予備的な知識をもった上で,この問題と取組んだ諸論文,「都市下層の婦女労働」[三宅明正],「砿山の技術革新と女子労働」[西成田豊],「製糸業における労働力の構成と労使関係」[中村正則],「農・漁業における技術革新と女子労働」[加瀬和俊],そして「戦後日本の技術革新と女子雇用労働」[塩田咲子]の詳細と真価が理解されることになるだろう.
 付 記
 和田英(1857―1929)たちが官営富岡製糸場で研修を終えて郷里の松代に戻るとき,工場長の尾高淳忠(新五郎)は「繰女勝兵隊」と揮毫して与えている.1874年のことだが,明治の中期以降には考えられない官営工場長の闊達さである.「殖産興業」が「富国強兵」に優越していた明治初年のことを思わせるに足ることではないかと考える.これを「人が御覧になりましたら(殊に軍人)さぞ立腹されることでありましょうが,日本全国の模範に政府から立てられましたる大工場の長たる人は,この意気組でなければ勤まりますまい,と只今に折々考えて居ります」と和田英その人が記したのは明治時代が終り大正に入って2年めの1913年のことで,職業軍人であった夫が日露戦争のときに受けた負傷を永らく患ったあと死去した年のことである.その『富岡日記』を脱稿したのは,足尾銅山の古河鉱業の社宅においてであった.多分,お互いに会うことはなかっただろうが,この年に田中正造(1841―1913)が足尾銅山から近い谷中村で息を引きとっている.
 「一等工女」,将校の妻,そして足尾の上級職員の母(二度めの足尾在住のときに1929年に同地に歿したが)としての和田英の生涯は,さながら近代日本史の断面を示す恵まれた部類であると言えよう.
 『富岡日記』は,六工社の関係者から依頼されて執筆したものらしい(隅谷三喜男)が,謄写印刷に付されたのは1927年で,それが信濃教育会の手で「学習文庫」に収めて刊行されたのは1931年,著者の死後である.
 細井和喜蔵は,念願の『女工哀史』を改造社から出版した翌月(1925年8月)に急性腹膜炎で死去している.大正の初期と末期とに,期せずして我々は二つの重要な記録を提供されたことになるのだが,執筆の早い『富岡日記』が公刊になるのは後の1931年で,そのさきに,存命中だった著者の許可をえて,「その資料的価値を高く評価して」限定配布の印刷物にしたのは長野県工場課長池田長吉であったと言うが,多分,その人は『哀史』を知っていた筈である.そして,この年(1927年)の夏,日本製糸業の一大中心地長野県岡谷市にあった大手工場「山一林組」で3週間におよぶ空前の大ストライキがあった.工場側は,最後には,ロック・アウト戦術に出て,給食を停止し宿舎を封鎖するという暴挙に訴えた.1,300人の女工は惨敗した(山本茂実)のであった.このとき,警察ばかりか在郷軍人や青年団員が争議側に暴行を加えている.
 そして,1931年と言えば,1929年の大恐慌の傷手から回復の兆候がみえ出し,かたわら戦時経済への移行が始まる年である.その年に,信濃教育会が『富岡日記』を副読本に指定して,公刊する.「繰女勝兵隊」は,そこでどのように受けとめられたものだろうか.この頃,信州の人々の記憶には未だ「山一林組」のストライキが生きていた筈だから,さまざまの読まれかたをしたものであろう.
 繊維産業の資本家たちは,さきにも述べたように,政商=鉱山主・経営者とは異なる背景と技術形成史をもっている.とくに,製糸業は「生死業」とも称されるように,激変する相場に翻弄される.1919年の生糸ブームのときの莫大な儲けを翌年1年ですべてなくしている[中村正則]ように,糸価は製糸家の制御できることではない.これに対応する経営政策は,生産費の80%以上を占める原料繭の買い叩き,そして巧妙な賃銀制度であった.
 等級賃銀制と言うのは,製糸にのみあった賃銀制度で,女工全体に支払う賃銀の総額をあらかじめ決定しておき,女工たちを相互に競争させることでパイの奪い合いをさせる仕組みであった.この制度では,つねに他人以上に働いていないと自分の賃銀が下がるという不安と危険に女工たちはさらされていた[中村].このことで,工場全体の高い労働生産が維持された.原料を効果的に利用し良質の糸を沢山引いた女工を順番に1等から50等位までにランク付けして賃銀の多寡を決め,検査に合格しないような悪い糸を引けば罰点をつけ,その分だけ賃銀を差し引くことになっていた.
 また,春繭のときの賃銀の一部は「差引き」ないし「後勘定」と称して,秋繭のときに再び働きに出ないと「なかなか返済してくれなかった」と言う(山本茂実).これが,女工を引き留める効果をもつことになっていた.
 世紀の変りめの頃,田舎では大工の手間賃が米3升=60銭という相場で,東京では66銭,そして米価は10kgで1円19銭ぐらいのとき6),上等工女は1年に賃銀賞与の合計で100円以上,普通でも40―50円だったとする記録もある(1899年).俗に言う「100円女工」たちの誕生であり,飛騨地方では水田1反が100―150円の時代にそうであった.
 だが,それは頑健で高技能の持主たちのことであり,年末の精算が赤字になる「借金女工」が4人に1人の割合になるほど多かったのでもある.
 明治20年代は女工の賃銀に変化がなく,30年代に入るとすぐ高騰した.
 明治10年代には「ほとんど賃銀らしいものはない」例が多く,古着や三尺などをもらうのが飛騨から信州に出稼ぎに行った娘たちの手にするものであったらしい.いわゆる「口減らし」であっただろう.同じ頃,同じ場所で(平野村,現岡谷市)標準女工は道路工夫なみの賃銀をえているから,飛騨の女工は窮乏に乗ぜられたのであったかも知れない.
 製糸家自身が熱心な技術追究者であり,並外れた勤勉な作業者であったが,その当人と同じことを,10代前半の少女たちにも強制してはばからなかったところに,資本蓄積期の彼らにあるプロテスタント的な一途さと,そこからくる苛酷さがある.その労賃が,製糸原価の5%前後でしかない(1894―98年の平均)のに原繭価格と同じく,経営上の節約目標にされている.
 しかし,労働力の調達がこの経営活動には決定的に重要だったから,そして,熟練による技能差が製品価値を大きく左右したから,熟練の優秀工を継続雇用することに腐心していた.その工夫と賃銀政策が等級賃銀制と賞与(および罰金)制になるのであった.
 製糸と綿紡績とは労働と技能の内容に相違があったものの,機械操作の熟練に関しては互換性があったらしく,優秀工として各地の紡績や毛織工場を移転して歩き,熟練女工の不足を逆手にとって,自立的な自己形成をした例に,『女工哀史』を「必死の思いで」書いていた,労働運動の前歴の故にどこでも雇わない,失業中の元「織布の経験工」細井和喜蔵を助けた「友情結婚」の妻堀(のちに高井となる)としを(1902―?)の場合がある.
 「女工で10年,女給で1年半,ヤミ屋で5年,ニコヨン20年,なかの20年は主婦といわれる労働者」として過ごしたその人は,「家も年金もなし」と言い放ちながら,年老いて「労働もできなくなって」しまったのを恥じるように言う.そこに,和田英の生涯と対蹠的でありながらも重複する,女性の社会史がある.この人の回想録『わたしの女工哀史』(1980年,草土社)は,細井の『女工哀史』と連続して読まれるべきことは当然ながら,『富岡日記』と併読されて然るべきであろう.社会史的な関心から言えば,この他に,林芙美子の自伝的作品『放浪記』は,少なくとも追加されるべきだと思う.
 この付記で言及した著作はほとんど外国には紹介されていない(少なくとも我々の「対話」の相手方には知られていない).そこに,将来の「対話」の主題の一つがあることを指摘しておくことが,この付記の狙いである.

 [注]
 1) 『明治女性史』1,1977年,講談社,53ページ.
 2) 中山伊知郎編『賃金基本調査』,1956年,東洋経済新報社.
 3) J.P.Aron,La femme du XIXe siecle,1980,Paris,の女工の章をみよ.邦訳,片岡幸彦監修『露路裏の女性史』,1984年,新評論.
 4) 庄司洋子「家庭とくらし」,『婦人白書』,1984年,草土社,51ページ.
 5) 篠塚英子『日本の女子労働』,1982年,東洋経済新報社,34ページ.
 6) 週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』,1981年,朝日新聞社.