技術史・技術政策

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技術史・技術政策

近代日本の技術と技術政策

論文タイトル: 第1章:技術史の視点から見た日本の経験
著者名: 中岡 哲郎
出版社: 国際連合大学
出版年: 1986年
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第1章:技術史の視点から見た日本の経験

 Ⅰ 製鉄業の経験から

 (1) は じ め に
 日本の経験プロジェクトも,ここまで数々のすぐれた個別研究を積みあげてきたが,このあたりで,その理論化と,全体的な構造把握をめざしての,内部討論が始まってもよいのではあるまいか.
 そもそも,私などのような,技術史に関心をもつ人間にとっては,このプロジェクトの研究姿勢は画期的なものであった。日本国内において,日本における近代的工業技術の形成と発展を論じる姿勢は,ごく最近までは,日本の技術は,外国技術の一方的輸入と模倣に基づいた植民地的性格のものであり,かつ軍事にいちじるしく突出した偏った歪んだ技術形成をとげたものであるとする見方が支配的であった.このような見方を集約して表明しているのは講座派の日本資本主義分析に現われたそれであるが,その有効性が資本主義分析に関して疑われてきた後も,技術に関してはこの考えは陰に陽に生きのびてきた.この見方の中には,西欧へ追いつくことを至上の課題とし,西欧を鏡として自らの姿を「歪んだもの」としてとらえ,それを正すべくひたすら自らを鞭打ってきた日本の近代化の百年そのものが反映されており,このような技術観の成立そのものが,日本の工業化の秘密の一つとして,研究対象にすえられてもよいものだ.しかしその反面,この見方によって,日本の工業化の経験の中にある正の側面,他の国々にとって,とりわけ発展途上国の,あるいは世界の教訓となりうるさまざまな面が,見落とされてきたことはまちがいない.
日本の経験プロジェクトは,これまでの見方を逆転させ,日本の技術の形成過程の中にあった積極的な要素を,世界的な視野から見なおし,他の国々の教訓となりうるような形でとりだそうとする,最初の本格的な系統的試みとして大きな意味をもっている.ここまで発表されてきた個別研究も,従来の技術史的研究がほとんど見落としてきた,職人的技術の役割,中小工業の技術,都市形成途上の問題などに照明をあて,知的刺戟にみちた事実を次々に明らかにしてきた.その成果は貴重である.しかし,こうして明らかにされてきた個々の事実を,幕末明治以後の日本とは自ずと異なる条件の下におかれた他の国々の立場とどうつなぐか,とりわけそれらの国々のこれからの工業化の展望をひらくような理論形成へどう生かせるかを考えてみる時,この共同研究全体を通じる理論的立場と,それにふさわしい技術移転研究の方法論の構築が問題とならざるをえない.ここまでのところ,この共同研究は,その画期的な意図にふさわしい理論と方法をもたないままに,とりあえず,従来の日本史学,日本経済史学の方法に従いつつ行われてきたかにみえる.そのことが欠陥として指摘されねばならぬ段階に研究の全体はきているのではあるまいか.
 そのことを痛切に考えさせられる一つの例は,多くの研究が陰に陽に,技術の発展段階の指標として,問屋制家内工業だとか,産業資本主義の段階だとか,経済発展の段階を用いていることである.これらは一つには,技術の発展段階の指標となりうる,有効で客観的な基準をわれわれが確立しえていないことに責任がある.それがないために,人々は止むを得ず経済の発展段階を指標として代用するのであろう.しかし,そうすることによって,人はその立場と意図の如何にかかわらず,問屋制家内工業からマニュファクチュアを経て,産業資本主義の下で機械制大工業へという単線的な発展コースを,歴史の基準として捉えてきた日本の歴史学の伝統にかえることになる.
 かつての日本史学は,この発展コースを,西欧にありえた一つの発展コース,あるいは一番最初に工業化をなしとげた社会の発展コースとして捉えるのではなく,世界史の発展法則として絶対化し,日本における社会経済体制の発展過程を,厳密に詳細にこれと対比する学問方法を発展させてきた1).そこから生みだされるものは,日本の場合は,正常な発展ではなく,特殊であり,例外的であり,著しく偏った発展であるという,無数の例証であり結論でしかなかった.このような歴史観と歴史方法それ自体が,今われわれが逆転させようとしている従来からの日本技術観を生みだしてきたものではないのかと反省してみなければならない.ここに反映しているのはふたたび,西欧的近代への接近を絶対の価値としたこの百年の知的構造であり,このような史観と,決定的に劣った歪んだ偏った技術という見方が,日本の近代化への情熱を支えてきた構造をも含めて,われわれは工業化における日本の経験を対象化することを求められているのではないか.そのためにもまず,われわれは,従来われわれをとらえてきたこの単線的な世界史の発展段階観を,ひとまず相対化する必要があろう.そのことは,日本の経験を,現代の世界の発展の共通基盤の上において比較するために重要である.
 現代の多くの発展途上国に共通する条件は,前資本主義的な農業を中心とする生存経済の段階からの工業化,あるいはその生存経済と工業化経済が相互に作りだす構造なのであって,そこからの社会の発展が,かつてのわれわれにとって絶対であった西欧的発展と同じコースをたどるかどうかは必ずしも分明ではない.例えばこれらの国々が,機械制工業を育てるにあたって,その前段階としてマニュファクチュアの成熟が必要であるという立場をわれわれはとるであろうか.もちろんこうした問題は,単純ではなく,ただちにそれに対して解答をだしうるとは思えない.しかし少なくとも,こうした問題意識を強く共有しつつ日本の経験を見る立場が,日本の経験を現代の世界につなぐために必要である.
 こうした問題意識を共有することなく,西欧型の発展コースを「基準」として用い,日本の発展の中の,そこからズレる部分を,特殊性として,例外性として意識する従来の歴史分析の方法を無意識的にせよ踏襲することは,実は日本の経験の中の,最も普遍的な,現代世界にとって大切な部分を軽視することに通じるのではないかと私はおそれる.この共同研究の中でも,そのような問題意識にしたがって,産業資本主義の成熟という経済的背景なしに鉄道建設がはじまったり,1台の作業機の自給もなしに紡績業の発展がはじまったことが,日本の特殊な特徴として説かれるのを読むとき,私はその危懼を強く感じるのである.それらは特殊性ではなしに普遍性として意識されねばならないことではないのか.ヨーロッパ,アメリカ以外の世界のどの国が,産業資本主義の経済的背景の成熟を待って鉄道建設にふみきることができたか,現在工業化へ向かって最初の一歩をふみだそうとしているどの国が,作業機の自給の上に最初の機械制工業を建設しうるか.特殊性・例外性として意識されてきた点こそが,実は日本の工業化の経験が世界の大多数の国と共有している,共通の普遍的な条件なのである.
 その普遍的な共通の条件であるものが,特殊であると意識されることの中から,自ずと生じる研究の力点のおき方の差異が,ここまでの研究の足をひっぱっているように思える.その共通の条件の中から工業を建設するために,日本がどのような困難と苦労を経験し,どのような矛盾をかかえこみ,それをどのように解決したかを,くまなく詳細に明らかにすることこそが,最も力点をおかれねばならない点であろう.ところが,それは従来の研究では日本の工業と技術のおくれた,歪んだ偏った面として断罪されるだけで,それ以上の構造的解明は放置されてきた部分である.そしてこの共同研究でも,特殊性という認識に足をひきずられてか,各研究は,そのかんじんの部分になかなか踏み込んでゆかないもどかしさがある.だがその部分の解明を抜きにして,日本の技術移転の経験の積極面に光をあてようとすることはむしろ危険であろう.それは日本の経験を発展途上国の経験につなぐ共通基盤を見失わせつつ,日本の成功面だけを強調することによって,従来の「おくれた,歪んだ,偏った目本技術」という像を,全く裏返しにした「何もかもうまくやった,そしてうまくいった日本技術」像を提供しようとする試みと,誤解されかねない可能性をもつといわざるをえない.
 そうした危険性をはねのけるためにも,ここまでの個別研究の成果を基盤にしつつ,幕末・明治以来の日本の工業技術形成の過程の全体像をどうとらえるか,またそれを技術移転と技術形成の一般的理論にどうつなぐかをめぐる討論がはじまらねばならない.そのような討論のための,いわばたたき台として,ここでは,日本の近代的工業技術の形成過程の特徴を,技術史的にどうとらえるかについての試論を提示しつつ,同時に発展途上国の技術形成に資するという角度から,技術移転を検討する方法論を探ることを試みたい.
 (2) 日本はヨーロッパにくらべて特殊か?
 しかし,日本の工業化の過程はヨーロッパの工業化のパターンにくらべて,どの程度にずれていたのであろうか.従来の講座派的史観に批判を呈する人々が多数となった現在でも,過去の長い研究史の中で作りあげられた,ヨーロッパの発展にくらべれば「日本の発展は特殊」という認識だけは,いまだに日本の研究者を,ほとんど潜在意識のようなものとしてとらえている.だが,日本の近代的工業技術が確立され発展してゆくコースは,果してこれまでいわれてきたほど西欧的発展のパターンから,はずれているであろうか.一方の極に西欧のコースをおき,他方の極に現在の発展途上国のたどりつつある工業化のコースをおいて,日本の技術形成コースを考察してみるとき,私はむしろ「日本の特殊性」をいうならば,日本のコースは,従来的見地とは全く逆に,西欧的発展のパターンに似すぎていることをもって,特殊とせねばならないのではないかという印象をうける.この点を,まず事実に即して確認してみることは,われわれの解かねばならぬ問題の位置を定めるためにも,重要であろう.
 試みに,従来のもっとも典型的な見解である山田盛太郎以来の,軍事にいちじるしく突出した偏った資本主義形成→したがって偏った脆弱な技術体系という考え方をとりあげてみよう.鋳砲事業から始まった幕末の幕藩営工業から太平洋戦争期にいたるまで,日本の工業化が常に軍事に突出していたことは疑いない.現にわれわれがこの第1章で素材とする明治期の製鉄技術形成過程も,製鉄原料を国内に求めるべきであるとする軍部の強い意向に助けられていた.しかし,それが西欧とくらべて特殊であると考える見方については,西欧の工業技術の形成コースに関しての幻想的な思いこみが存在したことを指摘できる.それはヨーロッパでは機械技術は,まず非軍事的な軽工業において先行的に発展し,それが一定の発展段階に達した後,軍事的重工業に導入され,民間会社による兵器生産の形をとって発展したという経路である.小山弘健の幕藩営工業の提起をめぐる論争などでも,相互に批判・反批判の立場に立つ論者もこの点では完全に一致し,その認識に立って,幕藩営工業がまず軍備の強化から始まったことを,西欧の「平和的発展」コースに対して異常な,例外的コースととらえる点でも完全に一致している.日本資本主義分析の歴史の途上で,このような認識がどのようにして生じたかは,全く不思議であるが,これが事実とは違うことは強調しておかなければならない.
 ヨーロッパの資本主義的発展の初期段階の技術的基礎が,鋳砲と大型帆船からきわめて多くを得ていたことは,カルロ・チッポラのつとに強調したところであった2).チッポラをまつまでもなく,15,16世紀の西欧における木炭高炉の爆発的展開を刺戟したものは,鋳鉄製砲の需要であることはよく知られている.ヨーロッパ産業の初期段階では軍事技術はむしろ牽引車的役割を果したのであり,これと対比して,幕藩営工業の中核が一つは鋳砲事業であり,もう一つは長崎,横須賀等の造船事業であることを見る時,われわれはそのヨーロッパに対する相違性ではなく,むしろ“Guns and Sails”とのあまりにも類似性に驚くべきなのではあるまいか.
 しかし,機械制大工業の時代の技術的基礎をなす機械工学が,軍事工学の先導によって成長したことはまぎれもない事実としても,もともとさまざまな要因が相互にからみあって成長する産業の領域で,技術の発展をただ一つの要因に帰することは危険である.機械工学の発展のもう一つの源流として鉱山技術が重要であることは,わが国では三枝博音によってつとに指摘されてきたところであった.三枝は,ノルブルガーの著書をとおしてこの説に影響され,アグリコラのデ・レ・メタリカの日本訳を完成するまで,この潮流の解明にうちこんだ.この三枝の説は,例えば産業革命に重要な役割を果した蒸気機関が,鉱山における揚水問題にそって現われてくる過程をたどってみるだけでも納得できるし,更に時代を15,16世紀まで溯ればもっとその重要性は明らかとなろう.しかし,にもかかわらず,この三枝の説も,機械工学の諸技術の現われてくる有力な源流の一つを指摘したものとしてうけとめるべきであって,機械工学は鉱山から現われたという形でうけとめることは危険なのである.
 機械工学の源流を担う,もう一つの重要な潮流で日本では比較的注目されていないものとして水車大工がある.中世以来,水車および風車の動力としての普及は,産業革命以前のヨーロッパ産業を特徴づけるものであった.したがって水車や風車,およびそれと連結されるさまざまな機構を,設計,組立,あるいは修理,維持する職業が必要であった.当時の機構材料は木であったから,彼らは広義には大工であったが,その実質は機械工であり,労働運動史の中では,機械工の前身としてあつかわれている.産業革命期の機械工学は実質的には自らをエンジニアと名のった機械工たちに担われていたことを考えるならば,水(風)車大工たちによって担われていた,機械についての諸技術にわれわれはもっと注目すべきなのである.
 以上,西欧の工業化の第一段階の技術を特徴づける機械工学の三つの重要な源流,① 鋳砲と帆船,② 鉱山技術,③ 水(風)車大工,をのべた.もちろん歴史を完全に描ききるためには,もう少し多くの分野をあげる必要があろう.例えばマンフォードなどが指摘する機械時計なども,はずすことはできないだろう.しかし,私がこうした源流を枚挙する目的は,明治期との比較のためなので,あまり比較の分野がひろがることは望ましくない.当面は,この最も重要と思われる三分野にかぎって比較すると,幕末から明治へかけて,洋式の機械工学が日本に根を下ろしてゆく過程でも,この三つの経路が,西欧の場合と全く同様に重要な役割を果していることが,はっきり見てとれるのである.
 ①については,すでにのべた所であるが,もう一つ付言しておけば,Guns and SailsのSailsは,単に象徴的な意味においてではなく,日本の場合もほんとうはスタートは帆船であったことを指摘しなければならぬ.幕藩営軍事工業の中で各藩のめざしたのは「●(砲)と船」であった.この「船」は望むらくは蒸気船であったのだが,技術的ギャップから各藩はとりあえず帆船からスタートせざるをえなかった.蒸気船と洋式帆船の同時並行的建造をめざした薩摩が,蒸気船の方は苦心惨憺の末,中途半端な雲行丸の完成でもって断念したのに,洋式帆船の方は5隻を比較的容易に完成させている事実は,この間の事情をよく伝えている.薩摩の洋式帆船についての主要な情報源は,難破して外国にたどりついた経験のある漁師たちからのききとりと蘭書だけであった3).日本の伝統的な船大工の技術に,この程度の情報を加えるだけで洋式帆船の模倣は可能であったのである.
 そのことを象徴的に示す例は,プーチャチンの指導による戸田でのスクーナー型帆船の建造の場合であろう.1854(安政元)年に彼の率いるロシア艦隊が伊豆で津波のため被害をうけ,プーチャチンの乗艦は修理のため廻航しようとしているとき沈没した.プーチャチンは幕府と折衝,船大工や資材の提供をうけて,戸田でスクーナー船を建造した.このことが日本の船大工が西洋型の造船術を西洋人の直接指導によって修得する最初の機会であった.この技術はただちに定着し,プーチャチンの帰国後も,同型のスクーナー船は日本人だけの手で,戸田で6隻,石川島で4隻も造られている.木造を主体とする帆船であった故に,日本の伝統的な船大工たちはこの技術を容易に修得したし,また同時期に各藩の洋式帆船との格闘があった故にこの技術は急速に普及したのである.この時の職人たちはその後留学したり横須賀製鉄所に移ったりして蒸気船についての技術の訓練をうけ,更に各所に移転して明治初の日本の造船業の中心となった.
 [戸田の造船所での修業がもとで,明治時代の造船にあずかった人々には,次のような技術家があるということである.横須賀造船所の最初の工長上田寅吉,日本で最初の私立の造船所を起した緒明菊三郎,大阪難波島に造船所を開いた佐山芳太郎など.スクーナー型の船は,戸田が君沢郡の故をもって,「君沢型」と呼ばれた.幕末には君沢型の船は随分沢山造られた.『日本船舶構造の変遷』(桃木武平)によると,明治12,13年頃でも,大阪及び兵庫で「君沢型の佳名の下」で盛んに製造せられたということである.]4)
 長崎,横須賀の鉄工技術が近代化を牽引したというよりも,すでに定着した洋式木造船技術の一定のひろがりが,長崎,横須賀の「鉄工所」技術をおしつつむような形で明治初期の成長はあったことが,注目されねばならない.このような形で成長した造船業が,明治初年には産業にすでに生産財の一部を提供しうるようになっていた.後にふれるように,明治政府が松方正義のリーダーシップで,綿糸の輸入代替をめざして,いわゆる十基紡の建設を開始した時,紡機こそは輸入品であったが,動力機たる水力タービンの全部,および蒸気機関の一部は,横須賀を中心とする造船業が提供したのである.
 ②の源流,鉱山技術について考えてみよう.新潟の油田と結びついて,日本石油の機械工場から出発した新潟鉄工所,久原鉱業所工作課より分離独立した日立製作所等の名をあげるだけで,この流れが日本の機械工業の形成に果している役割の重要性を指摘するのに十分であろう.こうした単独企業でなく,もう少し地域と結びついた例をあげれば,例えば長岡市の周辺の場合,油田の発展とともに,鑿井機,原油輸送用の鉄管・油槽,精製諸機械,石油発動機等を主製品とする多数の中小機械工場が発生していき,第1次大戦を契機とする輸入途絶と国内景気上昇との二重の原因にもとづく工作機械の需要の急増とともに,その中から工作機械製作を行う工場が何社も現われ,日本における工作機械技術の源流の一つを形成してゆく5).また宇部の沖ノ山炭鉱の成長と共に鉱山機械工場として成長した宇部鉄工所をエンジニアリングの中心に,セメント工場,紡績工場(これは失敗),発電所,硫安工場,油化工場と併設していきつつ,エンジニアリング能力をもった総合化学企業として完成していった宇部興産のような場合も,まさしく鉱山を核として成長していった技術の典型例として注目すべきであろう.
 しかし,これらのように明示的に鉱山と結びついていない場合でも,多くの機械工場の成長が鉱山と結びついていたことが指摘できる.例えば芝浦製作所の場合である.この工場の技術の源流は,佐賀藩における造艦・造機の経験と,維新後の電信機の製作にあり,鉱山とは無縁である.しかし創業以後苦闘の連続であったこの機械工場が初めて経営の安定を得るのは,三井鉱山会社の所属となった1900(明治33)年頃からであることは注目すべきである.当時の主事大田黒重五郎が遂行した労務や工程管理における近代化に,どの程度鉱山経営の経験が生きていたかは不明であるが,『芝浦製作所六十五年史』によって,当時の機械製造品目が,
 [汽機,汽罐,耐震煙突,鉄道用橋梁,水車,喞筒,石油鑿井機,製油機,鉱山用諸機械,捲揚機,木挽機械,精米機械,鉄索運搬機]6)
であることを見れば,その半分は鉱山業と結びつきうるものであり,三井鉱山と結ばれることの経営上の利点は,製品品目上からは明らかといえよう.明治の工業化において鉱山業の占めた位置を思えば,機械工業の技術が鉱山からえたものが大きかったことは容易に了解される.
 ③の流れについては,少しアプローチを変えねばならない.第1に明治期の水車大工の社会的状態についての研究は全く存在しないからであり,第2には,日本における水車利用の最も急速に展開したのは,明治期であり,この時期に水車大工の技能の他分野への流出をうながす社会的動因は,はたらかなかったと見られるからである.したがってこの時期には水車を用いた伝統的な製造業種から近代的業種への転換をとりあげるべきだろう.水車製粉の経験のあった藤倉善八が水車を利用した電線製造を開始することによって始まった藤倉電線などをその例とすることができる.しかしここでもっと重要なのは範囲をひろげて,機大工,一般大工も含めた「大工」業全体との関連を考察することであろう.そうすることによって,わが国の機械製作そのものが大工の技術にかなり広範に支えられていた状況が浮かびあがってくる7).例えば豊田佐吉が大工の出身であったことははずすことのできない例である.彼の最初の織機が木製であったことの意味は後に考察するが,それが木製の伝統的織機製作技術の延長上に立つことはまちがいない.豊田織機からトヨタ自動車に至る技術の流れをこの延長上におくことができる.もう一つ重要な例をあげれば,明治の産業発展の軸をなした生糸産業の場合である.この産業で洋式を模倣した木製機械の果した役割の重要性は,すでに中村隆英などによって指摘されているが8),もちろんこのような模倣を支えたのは和大工の機構工作能力であったのである.明治の産業革命を支えた機械工のかなりな部分がこうした伝統的大工であったことの意味はもっと注目されてよい.そうして,これは,よく解釈されがちなように,日本の「特殊性」なのではなく,時間幅をひろげてみれば,ヨーロッパの発展と類似のことがらなのである.
 以上みてきたように,明治期の日本の機械工学の形成経路をたどってみると,ヨーロッパにおいて機械工学のあらわれてくる経路にくらべて,異質な特異例を構成するどころか,われわれはそれがあまりにも似ていることに驚かされるのである.もちろん水車大工の例で示唆したように,差異はたしかに存在する.しかしその差異は工業化の歴史的条件の差と,ヨーロッパが中世以来数世紀かけて通過してきた過程を,日本はほぼ50年位で圧縮して通過したという差から,十分に説明できる.むしろ,そうしたかなり大きな諸条件の差にもかかわらず,日本がその圧縮された過程の中で,ヨーロッパにおける技術形成にみられる特徴を,次節でもふたたび確認するように大部分くりかえし体験していることの方が,はるかに印象的かつ重大である.
 もし日本を,西欧よりずっと遅れて工業化にスタートし,西欧と同じような工業化に成功した,目下のところ唯一の国としてとらえ,その経験から発展途上国の工業化について何らかの教訓をみちびきだしたいという立場で見るならば,この事実は,ただちに次の二つの重要な問いを誘発する.その一つは,技術の獲得・形成には一定の自然的順序というものがあって,近代工業技術がヨーロッパで形成された歴史は,多少ともその自然的形成の順序を代表しているのではないかという問いである.別な言い方をすれば,この問いは,だから,ある近代工業技術をほんとうに物にするためには,その自然的順序にしたがって重要なすべての段階を通過することが大切なのではないだろうかという問いになる.もしこのことが,例えば近代製鉄技術をマスターするにはどの国もカタラン炉からはじめて木炭高炉を通過した後,はじめてコークス高炉へ進むべきであることを意味するならば,発展途上国が近代工業技術を完全に,しかも早期に土着化させることはたいへん困難な課題になる.しかし次節でも明らかにするように,幕末から明治にかけて日本への近代製鉄技術の移転は,まさしくそのような順序でおこったのである.日本の経験を考察すればするほど,われわれは,技術移転の最適のコースと,技術がその母国で歴史的に発生・形成されてきた経路との間には,ある種の関連が存在するのではないかという考えにとらえられる,もしその種の関連が存在するならば,それをつきとめることは,最適の技術移転コースの設計のためにきわめて重要な課題である.
 しかしこの問いとの関連で浮かんでくるのは,幕末・明治の日本の技術移転が,ヨーロッパにおける技術形成の歴史過程と似たコースをとおってなされたのは,あらゆる途上国に通じる普遍的な現象ではなく,日本がヨーロッパと非常に近いところから工業化を開始したことからくる特殊現象であって,それこそが第2次大戦後に工業化をめざして出発した国々における技術移転と,日本の技術移転を区別する最大のポイントなのではないだろうかという問いである.目下の途上国における技術移転の現状をみる時,この問いは無視できない重みをもっている.もし日本の経験が特殊ではなく,すべての途上国に普遍的な技術形成コースを示唆しているのだったら,明治期の日本とは比較にならぬ,はるかに大きな先進諸国との技術格差から出発せねばならぬ現代の途上国にとって,追いつきの過程は,絶望的に長期を要する事業となる.しかし,逆に,日本の技術形成パターンは,歴史的に特殊な条件から生れた特異なパターンなのだということになれば,今度はいかなる条件がこのように特異なパターンを生んだのだろうか?また,その条件を捨象した時,第1の問いは意味を失うのであろうか?といった問いが生れる.
 これらの問いは,日本の従来の歴史研究のアプローチの中からは生れなかったものである.まちがいなく,日本はヨーロッパと異なることにおいて「特殊」であるという認識が,これらの重要な問題群を見落とさせてきたのである.しかし,日本の工業化の経験を,発展途上国の現状との対比の上で検討し,そこから何らかの現実的な教訓をひきだそうとする者が,ほんとうに解かねばならないのは,これらの問題群の方なのである.
 (3) 幕末・明治製鉄史から
 この二つの問いと,それに関連した問題群を念頭におきつつ,日本の経験を見るとき,大きな示唆を与えてくれるのは,幕末・明治製鉄史に関する大橋周治の提起である.日本の製鉄技術は,幕末の海防のための鋳砲事業=反射炉建設から,西欧製鉄技術の移転の第一歩を開始し,1901(明治34)年官営八幡製鉄所の完成操業開始をもって,ほぼ技術移転をなしとげたとみなしうるが,その50年間を日本は,西欧の製鉄技術が木炭高炉の段階から近代的溶鋼技術の完成まで,ほぼ400年かけて発展した間の主要な経験を,ほとんどすべて圧縮して経験するような形で通過していると大橋はいうのである9).その間の関係を,大橋の著書から再録した第1図によって示すが,まことにみごとな対応関係がみられる.これは前節の第1の問いに鋭くふれてくる問いである.つまり,幕末・明治における日本の洋式製鉄技術移転が成功裡に進んだのは,全く無自覚にではあるが,それが西欧におけるこの技術の形成の自然的順序を踏んでなされたからではないか,という問いをわれわれは吟味してみなければならない.
第1図 ヨーロッパ製鉄技術史と日本の製鉄技術形成史との対照
 しかし,大橋の提起の中にはこの問いを否定するような内容が含まれていることをいっておかねばならぬ.この50年の歩みを眺めてみると,西欧の産業革命期の技術の核心であるパドル炉=圧延の設備は,何度か導入されてはいるが,結局定着はしていない.実質的には西欧でほぼ100年の生命をもった錬鉄時代をとびこえて,鋼=圧延の技術にいきなりキャッチ・アップする通路を形成しえたことが,日本が400年の過程を一挙に50年に圧縮しえた秘密であると大橋はいうのである.二つの技術の類似性と当時の条件を考慮すれば,このとびこえは十分可能でもあったし合理的でもあった.だから,大橋は,日本の教訓を,あらゆる技術移転は技術の自然発生的形成の順序を一から順に踏んで行わねばならぬというような形で,単純化してくみとることには警告を発しつつ,問題を提起しているとうけとめるべきであろう.どのような条件の下に,どのような意味で自然的形成の順序は重要であり,またどのような条件の下に自然的順序はとびこえうるか,その点をつきとめうるような形で,吟味はなされねばならないのである.
 さてしかし,大橋の提起した問いを吟味するためには,西欧の製鉄技術の発展段階についての,また日本鉄鋼技術の形成過程についての,一定の共通理解が必要である.この点に関しては,幸いこの共同研究には飯田賢一による『日本鉄鋼技術の形成と展開』という信頼できる文献がある.しかも飯田は,やはりヨーロッパの製鉄技術の発展段階についての一定の見解を前提にこの論文を書いており,それを「世界史における鉄鋼技術の歩み」と題する表にまとめて論文の冒頭においている10).そこで西欧の発展に関してはこの表を基礎として採用し,これにわれわれの目的にそって少し改変と補足を加えることで出発点としたい.日本の発展については全面的に飯田の論文にしたがい,そこに書かれていることをほぼ既知の前提としつつ,大橋の指摘しているような特徴が,どのような現実のプロセスの中から生じてきたか,もう少し詳細に検討を加えることにしたいのである.
 飯田の表をもとに私なりの変更を加えた,鉄鋼技術の発展段階区分が第1表である.
第1表 ヨーロッパにおける鉄鋼技術の発展段階
もっとも大きな変更は,飯田の表では単に古代・中世の技術とされていた第1段階を,二つに分けて,原始製鉄期と木炭高炉期にしたことである.その理由から説明していこう.
 飯田の分類のもっとも貴重である点は,技術の発展の特徴を,装置(用具)とその操作法という技術のもっともせまい局面に限定せず,原料,動力,輸送体系,立地などという関連する幅広いつながりの中で浮かび上がらせようとしている努力である.それ故にこそわれわれは,単に孤立した技術としてではなく,社会的な生産体系の中で産業の技術として育ってきたものの,発展の特徴を論ずる手がかりとして,この表を利用できるのである.ところで,近代産業の中での鉄の位置は,もっとも普遍的かつ基本的な加工用素材なのであるから,私たちの発展段階論は当然,鉄がその位置を獲得してゆくプロセスが,明確にみえるようにするものであることが望ましい.少なくとも原始製鉄期の鉄は,その点でもっとも有用で普遍的に使われる金属としての地位を青銅にゆずっていたといえる.
 原始製鉄法はだいたい世界中どこでも同じようなもので,丈の低い炉で木炭を還元剤として用い,比較的低い温度で鉱石を還元する.鉄は半溶融の状態で鉱滓分などを含みこんだ状態でとりだされる.したがってその鉄を炉でもう1度赤熱し,ハンマーで何度も何度もたたいて鉱滓をおいだす方法で精錬した上,更にハンマーでたたいて変形させ,これを所要の形状に仕上げてゆく加工法が必要であった.つまり鍛冶屋の作業である.この過程の低生産性のために,製鉄業は手工業であり,鉄は小型の農具や武器には有用な金属ではあっても,大型の大砲や板などの素材としては青銅や銅にとってかわりえず,今日あるような産業の基礎素材の域からはほど遠かったといえる.
 この原始製鉄技術からの明確な飛躍は,木炭高炉の出現によってもたらされた.高炉の技術の核心はその特異な徳利のような型にあって,上方から木炭と交互に装入された鉱石は還元されつつ徐々に炉内を下降して行き,下部では炭素を少しずつ吸収して融点を下げ,最下部の最高温部で融けて湯になって出てくる.そのことによって鉄を鋳物として使うことが可能になった.つまり鍛冶屋の加工のもっていた低生産性の枠を超えることによって,高炉自体の生産性ともあいまって,鉄はそれまで青銅のもっていた地位にとってかわる,はるかに安価でしかも強い金属素材としての地位を占めた.16世紀から17世紀へかけて中北部ヨーロッパ,そしてイギリスへと木炭高炉は爆発的展開をみせてゆく.この展開の最大の牽引力をなしたものは,鋳鉄砲製造という軍事的要請であったことは,すでに強調したとおりである.
 高炉がいつ完成したかは技術史的に明確ではない.原始製鉄炉の壁が少しずつ高くなり,経験的適応を重ねてゆくことによって今あるような形が成立したと考えられている.この時期が不明確なことが,飯田の表にこの段階が分離されず,古代・中世に一括されている最大の理由であろう.しかし,直接還元法が支配的であった原始製鉄から,近代製鉄技術の中心である間接製鉄法への転換の第1歩を明確に区切るためにも,また産業化の初期における鋳鉄技術の重要性を明らかにするためにも,われわれはこの始点の明確でない木炭高炉の時代を,西欧製鉄技術の第Ⅱ期として区別することが適切とみなすのである.
 このような視点からみれば西欧製鉄技術の第Ⅲ期の重要な指標は圧延の登場におかれることになる.高炉で作られる銑鉄はもろくて可鍛性をもたず,従来の鍛冶屋の方法でたたいたりのばしたりすることができなかった.可鍛鉄を作るためには昔ながらの精錬炉で脱炭する手順が必要であり,この部分の低生産性のため,鉄は鋳物用材料としてはすばらしく有用であっても,今われわれがみるほど柔軟で広範な有用性をもった産業材料とはなりえていなかった.その限界を突破したのがパドル炉である.パドル法は反射炉で銑鉄を融かし,これを攪拌して空気の酸化作用で炭素を酸化,脱炭して錬鉄を作るのであるが,これを圧延と組み合わせたことが画期的であったのである.ロール圧延で大量に作りだされる,鉄板,鉄棒,型材の登場によってはじめて鉄はもっとも有用な工業材料の地位を決定的にしたのである.パドル炉は今全く消えてしまった装置である故に,また大橋の指摘のごとく日本には定着しなかったが故に,あまり大きな注目をあびない.しかしその登場の時には世紀の大発明とはやされたものであり,またそれだけの意義はもっていたのであることを強調したい.その登場の時期が産業革命と一致していたことは,もちろん偶然ではないのである.
 この第Ⅲ期は他方ではコークス製銑法の確立していく時期であった.高炉の高生産性は木炭の膨大な消費をとおして森林の荒廃をもたらした.この矛盾のもっとも深刻であったイギリスで還元剤としての石炭利用の試みが始まる.石炭に含まれる硫黄,其の他鉄の品質を劣化させる成分の除去がこの試みの鍵で,結果は,ダービーの名と結びついたコークス製銑技術として結実する.この技術の確立のためには,スラグ中に不純物を十分に含ませて除去するため,炉内温度は一段と高める必要があり,結局送風の予熱と蒸気機関による送風が鍵であったとされる.
 この関連は,技術の発展がどのようにさまざまな連関をひきずりながらおこるかを考える好例となる.鉄の冶金学的プロセスだけが孤立して発展するのではない.製鉄技術の発展が原料の転換をせまり,原料の転換が新たな冶金学的プロセスを要求し,そこからの要求によって送風の改良と送風動力の革新が行われる.こうした過程の全体がまた,産業用燃料の木から石炭への転換が炭鉱業の急激な成長をもたらし,炭鉱の成長が全国的輸送体系の革新および揚水問題などの技術的要請を生み,後者の中から蒸気機関の発達がもたらされ,それが鉄道と結びつき,鉄道の発展がレールの需要で製鉄業の発展を刺戟し,……という産業革命期の全社会的な連関の中におかれているのである.そうした複雑な連関の全体をみるには第1表は少し貧しすぎるが,ありうる全連関を考えるための手がかりとして,眺めてほしいと思う.
 西欧製鉄技術の第Ⅳ期を,ベッセマーの転炉,シーメンズ・マルタンの平炉,トーマスの塩基性転炉にはじまる溶鋼の技術の時代におくことには,誰も異論はないだろう.溶鋼の技術をまってはじめて,使用目的や加工方法に応じて,異なる特性をもち,異なる形に仕上げられた,さまざまな鋼材を大量に作りだす時代が可能となり,今日製鋼業の基本的生産単位である,銑・鋼・圧延一貫工場という工場の型が成立したのである.
 さて,西欧の発展は以上のような型にまとめるとして,日本の近代製鉄技術史はどのように区分されるべきであろうか.ここでも飯田は前出論文に第2表として,一つの時代区分を与えているが11),この表は私たちの目的には合わない.飯田は自立的な技術の成立した時期を一つのめどに時代を区切っているようにみえるが,われわれがここで検討しようとするのは洋式製鉄技術の技術移転だからである.この面にしぼってみた幕末・明治製鉄技術史は,ほぼ25年おきに試みられた三つの大きな技術移転で区切られる,特徴的な3段階をなしている.第1段階は1850(嘉永3)年佐賀藩の反射炉建設を皮切りとする幕末鋳砲事業である.これは,目的は海防のための大砲製造であったが,鉄をとかすための反射炉の建設からはじまって,とけやすい銑鉄を作るための高炉の建設まですすみ,結果として木炭高炉の技術と,大型の鋳鉄技術の定着をもたらした.第2段階は明治維新政府のもとに,1874(明治7)年から計画に着手し,イギリスからのプラント輸入で建設され,1880(明治13)年操業開始した工部省釜石製鉄所である.これは三つの技術移転の中ではもっともひどい失敗であったが,結果としては民営の釜石田中製鉄所という,日本の近代製鉄技術の確立の鍵を握る製鉄所の成立をみちびいた.第3段階は1901(明治34)年操業開始の官営八幡製鉄所で区切られている.これはドイツよりプラント輸入の,銑鋼圧延一貫工場であった.
 いずれの段階も,技術移転の動機は産業の内的必然よりも,むしろ政治的熱狂により多くを支配されている.第1段階をみちびいたものは,阿片戦争における中国の敗北のニュースに刺戟され,黒船の来航によってパニックの域にまで高められた,国防における危機感であった.第2段階を作りだしたのは維新後の国づくり,とりわけ維新政府の指導者たちの,上からの工業化の熱意であった.第3段階に至ってはじめて,産業革命を進行させつつあった日本産業の鉄鋼需要という,内的要因が入ってくる.だがここでも主導的であったのはむしろ,日清戦争の勝利とそれに続く成長によって高められた,国防と民族意識であったといえるだろう.
 いずれの段階も,初期の熱狂に包まれた技術移転そのものは,成功よりもむしろ失敗にとりまかれている.熱狂的であるが失敗とみなしうる初期と,それに続く長い調整と格闘,そして後半期における技術の同化と安定した成長というのが各段階に共通するパターンではあるまいか.こうしたパターンも含めて,以上のべたような特徴のすべてが,現代の低開発国における技術導入のパターンに通じるものをもっている.大躍進→再調整,文化大革命→その調整期,華国鋒の下でのいわゆる洋躍進→そして現在の再調整とくりかえしている中国の工業化などと比較しても,それが決して他人事とは思えぬほどの親近性を,この幕末・明治のパターンはもっている.それが私が,この経験の教訓を吟味してみることを大切であると考える理由でもある.
 大橋の提起は,日本が,この技術移転の第1段階で,西欧の第Ⅱ期の技術を同化し,第2段階で,西欧の第Ⅲ期―産業革命期の技術―を吸収同化し,50年の準備期間を経て第3段階で一挙に当時の世界の最先端の水準であった第Ⅳ期の銑鋼一貫体系にキャッチ・アップしたとまとめてよい内容をもっている.果してそのように考えてよいか,またそうなるのは何故か,各段階の移転技術の吸収は,どのようなダイナミクスをとおしてなされているか,もう少し細かく検討を試みてみよう.
 (4) 移転技術と社会的技術基盤の落差
 日本への洋式製鉄技術移転の第一歩となった幕末の鋳砲事業をもう少し構造的に眺めてみよう.この事業の究極の目的は黒船と闘うための鋳鉄砲の生産であったのだが,その最大の核心は銑鉄をとかすための洋式の反射炉の建設であった.この反射炉はさきの西欧技術の自然的形成の順序の4段階にしたがっていえば,第Ⅲの「産業革命期」の技術に属するものであったことを注意しておこう.この事業は大島高任による木炭高炉による製銑技術の確立と,佐賀,薩摩両藩を頂点とする大型の鋳鉄加工技術の習得という二つの遺産を明治期にひきついだ12).つまり,第1期(原始製鉄期)の技術基盤から一挙に第Ⅲ期の技術への飛躍を試みて,結果としては第Ⅱ期の木炭高炉期の技術をものにしたのである.
 だが,ここでの技術移転が,後発国の技術移転としては極めて異例の形式によるものであったことは,強調しておかなければならない.それは技術の母国からのただ1人の技術者の指導もなく,装置の輸入もなく,ただ長崎をとおして輸入された1冊のオランダのテキスト(ほぼ第Ⅲ期の鋳鉄技術を解説したものとみなせる)の記述だけを頼りにして行われた,技術移転だったのである.それは毛沢東の中国の「自力更生」より更に自力更生的な,技術移転であったといえよう.であればこそ,ここでは移転されるべき技術と,それをうけとめる土着の社会的基盤の間のギャップが,純粋な型であらわれ,当面の目的のための絶好の素材となるのである.
 この経験の途上であらわれた最大の困難が,たたら炉で作られた和鉄が反射炉ではきわめてとけにくいという事実であったことは,まことに象徴的である.この事実の冶金学的説明は,奥村正二によってほぼ与えられている13).つまりたたら炉のように丈の低い炉で,しかも砂鉄を用いたのでは,たとえ上から順をおって原料を装入していっても,炉の下部にたまる銑鉄の中に,どうしても還元不十分の砂鉄が混入してしまう.これを反射炉で天井壁からの輻射熱で熱した場合,銑鉄の最初に熱せられる表面部で,残存砂鉄中の酸素が鉄中の炭素を酸化脱炭し,表面だけが鋼となり融点が上がってしまう.したがって鉄は内部から融けてゆき,内部は完全にとけても外部は殻をかぶっている.そしてある時殻がやぶれて突然内部からとけた鉄が流れだしてくる.この状態になっても,残った殻が鉄の流動をさまたげ,均質な湯をつくることはきわめてむつかしい.佐賀藩の杉谷雍介はこの問題に苦しめられた克明な記録を残している.
 第Ⅱ期の技術の産物である高炉銑ならば,還元不十分の成分は含まないから,このような現象は生じない.つまりこの事実は,まさしく第Ⅰ期の技術によるたたら銑を,第Ⅲ期の装置である反射炉の中でとかそうとしたことから生じたものだったのである.この問題を解決するには,大橋が推定している佐賀藩の場合のように,和銑に前処理を行うという選択肢もありうるが,やはり,高炉銑を作って反射炉原料にしようとした大島高任の選択がもっとも自然である.高任は水戸反射炉の事業をひきうけた当初より,和銑はとけにくいこと,高炉建設を並行すべきことを主張し,自らその任にあたり,釜石の大橋高炉の建設・操業に成功する.つまり彼はいったん第Ⅱ期の技術をものにした上で,順をおって次に進むような選択肢を主張していたことになる.そして結果として彼の選択は,幕末期の釜石に高炉9基をもつ製鉄地帯を出現させるという,幕末鋳砲事業の中では最大の成果を生むことになった14).
 この経験の中にあらわれている問題は,移転技術をうけいれる社会の全体的技術基盤と,移転されるべき技術のレベルとの間の,ギャップの問題としてまとめることができる.幕末鋳砲事業にとりくんだ藩はきわめて多い.反射炉建設の確認されている試みだけでも,佐賀,薩摩,韮山,水戸,鳥取,長州,岡山,福岡,島原の8藩1代官所,高炉の建設は薩摩,南部(釜石),箱館の2藩1天領,このうちともかくも成功といえる成果を残したのは,あまり多くの資料のない鳥取,島原を一応除外すれば佐賀,薩摩,南部の三つだけといってよい.そしてこの3例とも,まちがいなく,もっともギャップの少なかった技術移転の成功した例として説明できる.中でももっともきわだった例は南部の場合である.
 大島高任が南部の豪商貫洞瀬左衛門と連名で,藩主に高炉築立を願い出たのは1856(安政3)年11月である.そして翌1857年3月から着工し,同年秋に工事を終り,12月1日に「吹試し」を行い,そして12月上旬には試作の高炉銑が,反射炉でとかすために水戸へ送られたといわれている15).これは異常と思えるほどのはやさである.もちろん操業の実態が,翌年にいたっても,何度も中断をはさんだ試行錯誤であったことは,大橋周治によっても確かめられているが,通常,自己技術によって建設される装置でも,試運転から完全な操業条件の確立までには相当期間かかることを思えば,テキストだけによる技術移転としては,異例のスピードというべきだろう.1859(安政6)年の末には江戸城本丸の普請のため1万5,000貫の鉄を送れるまでになり,その2年後には2炉の増設に向かうのである.そして以後,明治初年までにこの地方の高炉は南部藩12,仙台藩7,計19基に達している.他の多くの藩の事業が炉が作られても操業されたかどうかも疑わしかったり(長州,箱館),せいぜい十数門の砲を鋳造したところで挫折したりしているのを思い浮かべるとき,南部での成功と発展のスピードはきわだっている.これは大島高任の天才だけでは説明することのできない事実であり,やはり南部に存在した社会的技術基盤の高さを見なければならない.
 その第1は釜石周辺に,鉱石を用いた製鉄の伝統があったという事実であろう.この「もち鉄」と呼ばれる高純度の磁鉄鉱を用いた製鉄法の概要と,その大橋高炉への接続の重要性については,飯田賢一の前出論文にのべられているので繰りかえさない16).それに加えて,この地方の製鉄業には鎖国以前のヨーロッパからの技術移転になる「南蛮荒吹き」と称する製鉄法があった.これは木灰を溶剤として用いる点で,日本固有のたたら法と少しちがっている17).つまり,同じ古来からの製鉄地帯といっても,南部の伝統的製鉄技術の中には,中国地方のたたら技術とは異なって,かなり洋式の製鉄技術と接続する要素があったのである.
 第2に,経営的基盤がある.幕末の鋳砲関連事業の中で,南部の高炉のもっとも特徴的なことは,それが藩営事業ではなく私的資本をもとにして始められたことである.巨額の資金を要するため出資者はしばしば交替し,1859(安政6)年には藩が経営を試みるが,翌年にはふたたび商人経営に移っている.12基の高炉群のうち橋野高炉(3基)だけが最初藩営でスタートしたが,増設の資本は商人が出資し,実質経営はその手に移っている.こうした商人たちは国防のためではなく,儲かる事業として高炉製銑に手をだしたのである.この背景には,南部における砂鉄精錬業が早くから工場制手工業の段階に達し,幕末には労働者1,000人に及ぶ民間の巨大経営も存在するまでに達していた状況があることは,森嘉兵衛によって詳細に明らかにされている.「山内者」と呼ばれる専業の製鉄労働者層の広範な存在,北日本から江戸までを含む販売網,そしてそれをとおして民間に蓄積されていた資本と技術,それが釜石鉱山にあった高純度の磁鉄鉱とともに,この地方における高炉製銑を,事業として[・・・・・]有望にした条件であった.大島高任の高炉はこの条件に,ちょうど適した技術であったことが注目されねばならぬ.
 第3に,関連技術の面にも眼を向けておかねばならぬ.第1表には,関連技術の一つの代表例として送風がとりあげられている.大島が操業の初期に一番苦労したのも,送風の欠陥で,鉄の融解はうまくいくが,それを2日も継続できないことであった.やがてそれがふいごの不備であったことが判明し,新たに1個作ってみたところ,
 [安政6年3月9日に至り,「始めて鉄熔液となり抜去し去」って,「皆喜悦の声を発し,眉を開く,実に三年の辛苦此に解けり」]
と記録にある18).これは,どのような技術問題で彼らが苦労したかを物語る記録であるが,水車動力でうごく木製ふいごによる送風に関する限り,彼らが問題を独力で解決しながら必要な技術的要請に応えてゆくことができたことを,示している記録でもある.水車動力の利用,木製の機構の工作,築炉,耐火煉瓦等に関しては,江戸時代末期の日本は,十分に第Ⅱ期の製鉄技術の要請に応えられる水準に達していたといえる.
 このように第Ⅱ期の木炭高炉が目標とされるかぎり,南部釜石では社会的技術基盤と移転技術との間のギャップは存在しなかった.いやそれどころか,大橋高炉は,果して西欧からの技術移転なのか,土着技術の西洋からの刺戟による革新なのかという問題を提起してよいほど,発展は連続的であった.大島高任が,大橋高炉を「日本式高炉」と呼び,決して「洋式高炉」とは呼ばなかったという事実も,この関係を象徴するものであろう.この点を強調するため私は大島の製銑法に対して「混血技術」という評価を与えておきたい.
 同様の連続性の考察は佐賀,薩摩の場合についてもいえる.この2藩の場合,ギャップは南部の場合よりはるかに大きかった.しかし地理的に長崎にはるかに近く,西欧の影響の伝統の長かったことと,雄藩としての経済力の大きさが,ギャップを補うものとして作用する.製鉄の社会的基盤がなかったことから,両藩とも武器を中心とする大型の鋳造と,それにともなう機械加工の技術を主に獲得し,発展させてゆくことになる.こうした鋳造と機械加工の技術が,明治の工業化に果した中継ぎとしての役割は,釜石におとらず大きいことは,後に紡績業との関連で考察する.
 ここでも先行する社会的技術基盤との接続は,例えば有田焼の技術と耐火煉瓦の関係だとか色々あげられるが,ここでは銅の技術との接続を例としてあげておこう.ヨーロッパの鋳鉄技術が青銅の鋳造の技術の発展の上に築かれたことを考える時,佐賀藩が反射炉以前にオランダの技術にもとづいて十数年の青銅砲生産の経験をもっていたこと,薩摩藩が鋳砲事業と並行させて,黄銅製のシリンダーをもった蒸気機関の製作を成功させているほどの,高い銅合金鋳造技術をもっていたことは,もっと注目されてよい19).鋳造とは直接関係ないが,当時まだ銅製が主力であったボイラーなどは,極めて早い時期に佐賀藩の手によって,国産を成功させている点も,技術の接続という観点からはみのがせない.幕末から明治の初年頃までの洋式技術模倣の試みの中で,機械加工的側面では江戸時代に発達した銅加工技術に助けられることが極めて大きかった.そのことを考えるとこの両藩での,銅合金鋳造技術と,大型の鉄の鋳造技術の接続関係は注目に値する.従来の日本の製鉄技術史研究は冶金的側面に偏り,加工的側面にはほとんど光があてられてこなかった.両藩の伝統が,明治初期の工業化に果した大きな役割を思う時,ここでも示唆されている社会的技術基盤と,獲得技術との接続関係(ギャップの小ささ)の,より詳細な解明は今後に期待される重要な課題の一つである.
 このような伝統技術との接続関係が極めて鮮明にあらわれることについては,再び幕末の鋳砲事業における技術移転の特異性を強調しなければならない.すなわちそれはテキストの記述のみにもとづいた移転であり,1人の西欧技術者の指導も,1台の装置の輸入もなしに試みられた技術移転であった.したがってそこでは既存の社会的技術基盤の役割がむきだしにあらわれるのである.適切な技術者の指導と,適切な装置の輸入をともなえば,ギャップの極めて大きな技術移転を行うことは可能である.現に幕末の長崎製鉄所は,オランダ人技術者の直接指導の下に,オランダから輸入した工作機械を用い,輸入鉄材を加工して,蒸気機関さえ製造することができた.現代の技術移転はこの型のものが支配的であってみれば,こうした型の技術移転を視野に入れないでギャップを論じることは十分でない.だが,この型の場合にも,社会的技術基盤とのギャップは問題となりうるのである.そのことを論ずる最適例は,日本近代製鉄技術の第2段階の始点を画する技術移転,工部省釜石製鉄所の場合である.
 この製鉄所の高炉は木炭高炉として設計されているが,熱風炉をとおして予熱された空気を蒸気機関動力を用いて送風する設計といい,その日産能力(25トン)といい,鉄道を用いた構内輸送体系といい,技術段階としてはヨーロッパの第Ⅲ期に属するコークス高炉の技術を,木炭使用のために折衷させたものであった.そして失敗の原因は操業の技術的側面になかったことは注目に値する.17人に及ぶ外国人技術者の周到な指導の下に,第1回目は操業も出銑も順調であった.技術移転は技術の意味をせまくとる限り成功だったといってもよい.矛盾は第Ⅲ期の技術に属する高炉のあまりにも高すぎる生産力と,社会的には原始製鉄技術に見合う状態にあった,木炭の生産と輸送体系の間から生じた.2度までも木炭の供給が追いつかぬため操業停止に追いこまれ,せっぱづまってコークスによる操業へ転換した結果,とりかえしのつかぬ失敗においこまれる.それはイングランドとアイルランドの森を食いつくして発展し,木炭源の涸渇からコークスへの転換に追いこまれていったイギリス製鉄業の歴史を,そっくり圧縮して追体験する実験のようなものだった.そして最終的失敗の主原因もまた,コークス製銑への試みが必ずぶつからねばならぬ,石炭の粘結性の問題だった.つまり,西欧の技術が第Ⅱ期から第Ⅲ期への過渡に体験した問題が釜石に再現されたのである.
 この経験は移転技術をうけ入れる社会的技術基盤とわれわれがいう場合,そこで意味されているものは単に鉄鋼業の内部にとどまらないこと,移転された技術につながってくるかぎりの産業部門,その技術の実現にたずさわる労働者・技術者の能力,そしてその生活に関連してくるかぎりの社会部門が問題となりうることを教えてくれる.木炭の生産,資材の集荷や輸送,労働力の質と供給という点まで広げてみれば,次節でも確認されるように,釜石をとりまく社会基盤は,第Ⅱ期の木炭高炉にこそ適合的であれ,第Ⅲ期の技術に対しては巨大なギャップをはらんでいたのである.このギャップの大きすぎたことを何よりも工部省製鉄所の失敗原因とせねばならない.
 この点を視野におくことにより,われわれは,大橋の提起と先のわれわれの問題設定との間で,暫定的な答をだすことができる.つまり,大橋の指摘している日本の経験の教訓を,近代製鉄技術をマスターするためには,どの国もカタラン炉からはじめて木炭高炉をへた後に……という形で理解する必要は全くない.しかし,そこにあらわれている技術の社会的基盤と移転技術の間の社会力学的関係は,発展途上国の教訓に十分なりうるし,この点から日本の教訓は検討に値するということである.
 問題の輪郭を構造的に理解するためには,技術移転の進行を,設備・装置を建設し運転する工学的段階と,順調な運転を開始した設備がそれをとりまく社会的技術基盤とうまく接合関係を樹立する社会的リンク段階と,2段階にわけてとらえるのが好都合であろう.蘭学者たちが土着の技術と蘭書だけを頼りに,第Ⅲ期の洋式技術の導入をめざした第1の飛躍=幕末鋳砲事業では,矛盾は主として工学的段階で,建設すべき装置と土着技術との巨大なギャップとしてあらわれた.周到な準備の下に全部輸入された装置を,外国人技術者の指導にしたがって建設運転した第2の飛躍=工部省製鉄所の場合,工学的段階では何の矛盾もあらわれなかったが,矛盾は第Ⅲ期の技術が要求する社会的基盤と周辺の土着技術基盤との間の巨大なギャップとしてあらわれたのである.ところが第1の飛躍の試みの産物であった大島の高炉の場合,土着の技術に依拠した試みであったことによって,伝統的技術に対しては1段階の飛躍をはらみつつも,釜石周辺の社会的技術基盤に対しては良好なリンクを保ちえたのである.それがこの混血技術が田中製鉄所に代表される過渡期を担いえた秘密である.大橋の分析した段階構造は,このような移転技術と社会的技術基盤との相互関係のダイナミクスをとおしてあらわれたのである.
 個別的な技術に関してはとびこえは可能であっても,社会的総体に関しては変化は連続であってとびこえは不可能である.どの国もいわば産業化以前の社会的技術基盤から出発して,連続的にそれを高めつつ,先進工業国の水準に最短でキャッチ・アップするルートの形成という点で苦労しているのであれば,日本の経験も,社会的技術基盤と移転技術の相互関係という問題に焦点をあてて分析することが,途上国の教訓となりやすいというのが,われわれの暫定的な結論である.その点を確認した上で,その角度から,今しばらく日本の近代製鉄技術形成の過程を追ってみたいのである.
 (5) 釜石田中製鉄所の教訓
 日本近代製鉄技術の第2段階は,田中長兵衛が,この放棄された工部省製鉄所の払い下げをうけることによって成立した,釜石田中製鉄所の成長過程にそって描かれる.1885(明治18)年,田中長兵衛の手代横山源太郎が最初に試みたのは,敷地を借用し,大島高任型の高炉で,工部省製鉄所と中小坂の経験者の助けを借り,払い下げをうけた原料を用いて製銑を行うことであった.つまり彼は土着化した第Ⅱ期の技術にもどることによって,生産を軌道にのせようとしたのである.このことは注目に値する.1年半以上の苦労の末やっと操業を確立した後,製鉄所の払い下げをうけ,順次高炉の数をふやしてゆく.
 この製鉄所の成長過程で,これまでの技術史に必ず記述される重要なポイントが二つある.第1は1890(明治23)年,陸軍砲兵工厰の砲弾テストで,当時使用されていたイタリアのグレゴリーニ銑に優るとも劣らないとの評価をえて,砲兵工厰に販路を確保したことである.これがこの製鉄所が経営基盤を確立した指標とも,また日本の製鉄業が軍器生産の技術の基礎を確立した指標ともあつかわれてきた.この年この製鉄所の銑鉄年産額は3,864トンであった.幕末の釜石の銑鉄年生産額は,ほぼ3,000トンとされているから,だいたいそこからあまりへだたらない生産規模であったのである.
 第2の画期は1893(明治26)年,野呂景義を顧問に,野呂の弟子香村小録を技師長に迎え,設備改良にのりだしたときである.この時試みられたのは,工部省高炉の改造と操業だけではなく製鉄所全体の整備・改良・合理化であったことは強調しておかねばならない.野呂自身が1892(明治25)年この製鉄所を視察した時,高炉は鈴子に3基,大橋に2基,高炉ガスを回収して熱風炉の燃料とし,水車で動かす木製ふいごで送風していると状況を記述している20).高炉は4基まで日産5トンであるから,大島のものより大型であり,熱風炉の使用とも合せ,幕末の技術より多少前進がみられる.1892(明治25)年の年産量は6,913トンであり,この面でも幕末期とは較べものにならない.野呂は熱風炉を改良して木炭原単位を25パーセント前後改善するなど一連のめざましい改良を行っている.こうした改良の頂点のところに,有名な工部省高炉のコークスによる操業の成功(1894<明治27>年)がくるのである.この年が日清戦争の最中であったことも注意しておきたい.
 この年が,日本の近代製鉄の一つの画期であり,第Ⅲ期の技術がほぼ同化されたことを示す指標であるとする点では,これまでの研究は一致している.われわれもその点に異論はない.あらゆる意味で,田中製鉄所のこの時期が,日本の近代製鉄技術成立を理解する鍵である.それだけに,この製鉄所の成長の背景の検討は重要である.関税自主権をもたない明治の目本は,安価で高品質の外国鋼材の流入を防ぎとめる手段をもたなかった.事実,第2表の示すように鉄鋼輸入は急激なのびを示している.
第2表 明治期の鉄鋼の生産態様と需給
このような条件,つまり第Ⅳ期の商品が氾濫している市場条件の下で,時代おくれの第Ⅱ期の技術にもとづく田中製鉄所が,年産6,900トンの製鉄所を1,200人の労働者で操業するというような状態で,なおかつ十分に成長しえたということは,驚くべきことではないだろうか.その背景をつきとめることは,日本型の技術移転を理解する鍵になるだけではなく,遅れて出発した国に過渡的に成立した中間的技術が,国際的市場条件の下で,どのように成長して土着化した技術の基盤を形成しうるかという,技術移転の根本問題にもふれてくる課題である.
 明治前半期の重要な民間製鉄は,山陰の砂鉄にもとづくたたら製鉄と,群馬県の中小坂製鉄所である.この製鉄所は外国人技師の指導の下に,公称能力日産15トン(実働日産5.5トン)という木炭高炉(蒸気機関動力,熱風送風)によって,1874(明治7)年頃から1878(明治11)年まで順調な業績をあげたが,1878(明治11)年に鉱脈が途絶し,新鉱脈の試掘も成功せず,資金難のため廃業した.表面上の理由は鉱脈途絶,資金難であるが,その背景には輸入銑鉄との競争,とくにそのダンピングによって経営悪化を強いられたことがあると,大橋は推定している.事実1877(明治10)年の輸入銑鉄価格は,ダンピングとしかいいようのない急激な低下を示している.技術移転はほぼ順調であり操業もうまくいきながら,市場競争で苦境を強いられ,鉱脈中断というはじめての難関にぶつかった時,資金も企業余力もなくてそれを乗りこえることができなかったという,後発国の民間企業のたどるコースの典型例がここにのぞいている.
 この中小坂の場合,技術的には第1表と対照してもらえばわかるように,第Ⅲ期のものであった.それを工部省釜石のようにひたすら最新式をねらうのではなく,日本の条件を十分に考慮して,投下資本量は極力少なくおさえ,鉱石の輸送には自然の落差を利用するなど,レイ・アウトにも工夫をこらし,技術移転の模範例といってもよいものであった21).そのような中小坂ですら廃業においこまれたのである.そのことを考えると,それよりはるかに旧式の第Ⅰ期の技術にもとづいた山陰のたたら業者が明治の末年まで,一貫してほぼ7,000トン,時には10,000トンを超える生産を保持し続けえたことは不思議であるし,中小坂の廃業から7年も後に,これもまことに旧式の第Ⅱ期の設備でスタートした田中製鉄所が,順調な成長をとげて日本の近代製鉄業の基礎となりえたということは,輪をかけた不思議という他はない.
 山陰の砂鉄精錬の場合は,そこから産出された玉鋼の品質上の優秀性のために,海軍の優先購入のあったことが,発展の主要原因とされている.もちろんこの時期のもう一つの重要な砂鉄鉄山,官営広島鉄山に政府主導でつぎこまれた近代化努力の刺戟と波及効果で,試みられた数々の改良努力もあげなければならないが,主要な理由は玉鋼の独特の品質にあったことはまちがいない.この品質は主としてこの地方の砂鉄の成分によるもので,現在でもこの地方から産出され,工具鋼の分野で強い競争力をもつ安来鋼の品質は,結局この地方の砂鉄を原料とするところからくるといわれている.
 このことは市場競争における品質視点とでもいうべき見方の重要性を示唆してくれる.木炭を還元剤として用いる第Ⅰ期,第Ⅱ期の技術が,この時期コスト視点からは不利であっても,品質視点からは有利であったことは,イギリスのコークス製銑の技術の確立期に,スウェーデンの木炭銑の高品質に対抗できず,ダービーたちがどんなに苦労したかを,ふりかえってみるだけでも明らかであろう.事実,後の八幡製鉄所のコークス製銑も,一応操業安定にこぎつけたあと,さまざまな用途に応じた品質上の多様な要求に,十分応えわけうる柔軟な技術を獲得するまで随分長い期間を要している.その時期に,例えば仙人鉄山のような田中製鉄所以後の新規参入製鉄所が,小規模木炭高炉で,木炭銑特有の高品質の故に,主として軍部の需要に頼りながら,経営的に成功していることは,第Ⅱ期の技術が品質視点からは決して不利ではなかったことを証拠だてている.中小坂の品質もスウェーデン銑にくらべられ,中国から注文がくるほど優秀であった.したがってこの品質を武器に競争に生き残る可能性は,中小坂にもあったのである.不幸なことに明治初年の日本の鉄工業は,銑鉄の品質を柔軟に使いわけられるほどのレベルには到底達していなかった.品質のすぐれていることが,競争の決定的きめ手になるような市場が日本にはなかったわけだ.つまり中小坂は早すぎたのである.
 田中製鉄所は10年遅れてスタートしたことがしあわせであった.そのおかげで,出発の早期に,品質の優秀性を購入の絶対的基準とする顧客に出会うことができたのである.それが陸軍工厰であったことは,鉄製品の品質に突出した強い関心をもつ陸・海軍工厰だけが,ようやくこのころ品質に明確な基準をもつレベルに達してきたことの,指標ととらえるべきであろう.釜石銑の品質がこの時突然向上したわけではない.田中製鉄所が大島式の高炉に若干の改良を加え辛うじて製銑試験に成功したのが1886(明治19)年末,翌年から本格生産に入り,グレゴリーニ銑との比較試験があったのは4年目である.だからそこで試された品質が,何らかの「田中製鉄所の技術」というようなものを反映したものである可能性はむしろ少なく,第Ⅱ期の技術にもとづいた釜石地方の木炭銑の品質のよさが,この時はじめて陸軍に認識されたのだとみるべきであろう.したがって,山田盛太郎の考えたように日本の技術が,この時あるレベルを突破したことを示す指標ととらえることには疑問がある.
 むしろこの頃から,軍の需要を中心にして国内の鉄鋼市場の中に,製造コストがある許容範囲にあれば,第Ⅱ期の木炭銑が品質上の特性を生かして,輸入銑との競争に対抗して生きのびうる条件が生まれてきたとみるべきなのである.ところで,その製造コストについて,野呂景義が,当時東京における釜石銑の売価は品質に従って,特別1号,1号,2号,3号の四段階にわかれており,最高の特別1号はトン26円50銭,最低の3号は19円50銭であったことをのべ,何故こんなに安く作れるのかと問いを発していることは,注目に値する22).この売価は最高のものでも,後の八幡製鉄所の銑鉄製造コストより安い.製造コストと売価のちがいを考慮すると,これは驚くべき事実である.釜石銑は品質だけではなく,価格競争力も十分にそなえていたことになる.これは極端な低賃金と木炭の低価格とによると野呂は説明している.
第3表 中小坂の銑鉄原価構成
 第3表に中小坂における1874(明治7)年頃の銑鉄製造コストを示した.『由利公正伝』にのっている作業実績にもとづくもので,当時の原価資料としては最も信頼できるものである.原価構成中の最大の部分は木炭費で37.4%,2位は月給並諸雑費,3位は設備の償却であって,ここまでに薪を加えたものが原価の87.5%を占める.だから野呂のあげている二つの要素がどれだけ決定的であったか,納得できるのである.
 ここでは分析を木炭にしぼろう.薪と木炭をあわせると製造原価中の45%である.第Ⅱ期の銑鉄は原価構成からみると,鉱石が姿を変えたものでなく,薪炭が姿をかえたものであるといってよかった.釜石では木炭は「工場着10貫目15銭内外」で入手できたと野呂は書いている.中国山地でのたたら用大炭の価格も10貫目14銭強であったと彼は記録しているから23),これは伝統的製鉄地帯での,かなり平均的な木炭価格だったのであろう.ところで廃業した中小坂鉄山が1878(明治11)年官営に移され,再建を試みたが成功せず,1882(明治15)年に廃業する直前,その最終的な継続可能性の診断を行ったのは野呂であった.野呂はさまざまな可能性を検討したが結局,木炭が「10貫目につき工場着42銭以上」でなければ,どうしても入手できないことを確認し,採算の見込みを断念したと書いている.だから釜石の木炭の安さは,どんなにか野呂にとって印象的であったろう.しかしわれわれにとっても,この極端な差は印象的である.
 第3表の計算に使用した木炭価格を10貫目当りに換算してみると22銭となるから24),何故6,7年の間にこれだけの値上がりが生じたのか,もう一つはっきりしない点があるが,操業当初のこの木炭価格でも20年後の釜石の価格よりも5割近く高い.もし中小坂が釜石の価格で木炭を入手できたら,原価は仮に外国銑のダンピングがあっても,十分に対抗できるものになっていただろう.この差はどこから生じたのだろうか.
 一つには,群馬は東京という大消費地に近く,値上がりの可能性が大きいことがあったであろう.だがそれ以上に,中小坂の場合には,それまで民生用の木炭需要しかなかった場所に,新たに製鉄産業という木炭の大需要が追加され,それに応えるための,設備投資,山林の確保,焼炭夫の不足,等々にもとづく費用が木炭価格をおし上げていたことが,十分想像されるのである.事実,官営にあたって政府が最も配慮していることも,薪炭のための官有林の確保,専従の炭焼きの確保,木炭輸送のための荷牛の購入等なのである.これに反して伝統的製鉄地帯は,釜石周辺も,中国山地の場合も,木炭高炉を上まわる木炭多消費技術であったたたら製鉄を支えるための,伝統的木炭生産地帯でもあったのである.何百年かけて作りあげられた,たたら需要に適応した,経済的な木炭生産と集荷・輸送のシステムによるが故の,そしてまたそのシステムに従う限りでの木炭の低価格であったとみるべきであろう.
 この立地の差が,中小坂製鉄所と田中製鉄所の運命をわけたものであった.では同じ釜石に立地して,工部省製鉄所と田中製鉄所の運命をわけたものは何であったろうか.
 [釜石において政府が製銑業を開始するや,労働賃金並に諸物価俄に騰貴し……木炭1トンおよそ13円余に昇騰し,]
と野呂は書いている25).さきの例にしたがって10貫目あたりに換算すると48銭となる.驚くべき値である.この製鉄所の失敗の最大原因は,木炭生産力とアンバランスに巨大なその生産力=木炭消費力にあったことは,すでに書いたが,木炭が物理的に涸渇して操業停止する以前に,経済的にはまことに当然の木炭の値上がりのために,採算はとっくに破局にきていたことがこの数値だけからでも推定できる.採算を無視した政府事業であればこそ,木炭の物理的涸渇までいきえたのである.第1回の操業停止のあと,政府は体制たてなおしのため遠く[摂・河・泉・紀等の各州から焼炭夫]26)を募集した.東北近辺の焼炭夫はさらいつくしていたためこうなったのだが,こうしたことが全国的な木炭生産体系や,市場価格にあたえる混乱はどれほどだったであろうか.そこまでしてなおかつ木炭生産は操業に追いつかず,しかも操業は粗悪な木炭の品質に悩まされ続けたのである.
 伝統的木炭生産地帯に立地することの有利は,およそそこに慣行化している生産集荷の体系に適応し,かつその生産能力にも適応する限りにおいて成りたつことを,工部省製鉄所の経験は教えている.だから釜石周辺が伝統的な製鉄地帯であったことから生じる木炭の低価格というメリットを最大限に生かす立地は,生産能力の大きすぎない小規模高炉を,伝統的な木炭供給能力に見合うように分散配置してゆくことであった.大橋に3基,橋野に3基,佐比内に2基というふうに分散立地した幕末の高炉は,まさしくこの法則どおりに立地したのである.
 田中長兵衛はこのことを,経営の条件として認識していた.1887(明治20)年2月の払下願に付された素志書はいう.
 [釜石の地は山間の辟地にして,薪炭運搬の不便極り,故に鴻大の溶鉱炉を一ケ所に設置するも,第一に薪炭に欠乏を生ずるの困難これあるにつき,漸次便利の地をえらび鉱炉を数ケ所に分設するときは,薪炭の便利をえ,鉱業永続の目途相立ち,……]27)
 みごとな企業家的見通しというべきだろう.そのとおり彼の製鉄所は鈴子に3基,大橋に2基という,幕末規模の分散立地であった.この分散立地故に,彼は釜石における木炭価格の安さという条件をフルに利用しえたのである.
 こうして,彼は,第1段階では安価な払い下げ原料と立地条件に助けられて,経営を軌道にのせ,第Ⅱ期の技術の品質視点からの利点を生かして,陸軍砲兵工厰という安定した販路を確保した.この段階ではこの節の冒頭に確認したごとく,生産は幕末規模であり,木炭生産体系との矛盾はまずありえない.第2段階では陸軍からの注文にも支えられながら,急激な成長をとげてゆく,1891(明治24)年5,490トン,1892(明治25)年6,913トン,1893(明治26)年8,000トンという急激な成長が,この成長の基盤である低木炭価,低賃金の社会的条件をゆるがさなかったはずはない.そのことが,野呂に指導される全面的合理化,コークス製銑への転換という第3段階への圧力となったという概略の見取りを描くことができよう.
 (6) 技術の社会経済的リンク
 前節で分析した木炭価格の問題は,移転された技術と,それをうけとめる社会的技術基盤との関係という私たちの問題意識に,大きな示唆を与える.洋式の製鉄技術が移転される以前に日本には,たたら炉を軸にする伝統的製鉄業が存在した.この伝統的製鉄技術の存在は,大島高任の高炉の場合に明らかなように,洋式技術を同化するための基盤として有効に働いている.だが他方では,この木炭生産の例のように,移転された技術と伝統的生産体系の接合というもう一つの問題がおこるのである.工部省製鉄所は第Ⅲ期の技術であるからコークス製銑である.だからこの移転がはじめからコークス一本で慎重な準備の上に行われていたら,もちろんこの種の接合問題を,われわれが観察する機会はなかっただろう.たまたま日本の条件を考慮して,木炭にもコークスにもどちらにも使用可能に作られていたことが,伝統的な木炭生産体系との接合という,われわれの関心の核心とつながってくる問題を観察する機会を与えてくれたのである.
 技術と社会的基盤の関係は,決して一般的包括的に考察すべき問題ではない.それぞれの技術はその固有の特徴に応じて,いくつかの決定的なリンクを他の生産分野,または社会的関係との間にもっている.その決定的なリンクにそって問題を考察すればいいのである.この関係を考察する絶好の素材は,たたら製鉄の場合である.まずたたら製鉄は極端な木炭多消費技術であった.鉄1トンの生産に対してほぼ6トンの木炭を消費した.したがって,木炭の生産システムという問題はたたら技術を有効に廻転させる関連問題としては最大のものであった.第2にたたら製鉄は一種の輸送産業であった.原料の砂鉄は木炭とほぼ同量消費したから,1トンの鉄を生産するのに12トンの原料を輸送する必要があった.もちろん立地は山中であったから,道路事情はよくなることが期待されぬ山道の輸送である.大量の牛馬の使用とその飼育問題がともなった.第3はその砂鉄の採取である.これは「かんな流し」と呼ばれる比重選鉱が用いられたが,大量の泥水を排出し農業用水を用いる農民とのトラブルがたえなかった.もう一つ,送風の問題をとりあげておこう.第1表では,送風の問題が関連技術の代表にあげられているからだ.たたらに用いられた天秤ふいごはかなり高度な装置であり,高度な木工技術の存在を前提にしている28).
第2図 たたら製鉄の維持に必要な技術リンクとそれにともなう矛盾
第3図 たたら製鉄を支える社会経済的リンク
 以上の連関とそれにともなう矛盾の所在を第2図で示した.それぞれの矛盾が社会的にどのような関係をみちびいたかが第3図で示されている.中国山地のたたら地帯でどのような木炭製造体系が用いられていたか詳細は不明であるが,明治・大正期にとられていた方法から推測してみれば,まず竈手と呼ばれる製炭単位があった.それは2町歩位のまとまりをなした山林で伐採された木の運搬,焼かれた木炭の運搬を十分に考慮し,地形を読んで竈を打つ.竈の構築,伐採,炭焼,運搬全部含めて1家族の焼炭夫のうけもちであり,したがって竈手は彼の住居の近くに複数のものが連続してあることが望ましい.2町歩の山林を伐りつくし製炭しつくすと,次の竈手に移り,新しい竈を打つ.山林が枯渇しないように,この移動には厳密なローテーションが守られ,30年たたないと元の竈手にはもどってこないのだが,その間必要な竈手のすべてを焼炭夫の住居のそばに確保することは不可能だから,炭焼はその家族と共にローテーションの順を追って,住居を移しながら製炭していったらしい29).一つのたたら業者は数千町歩の山林を保有して製炭のローテーションを確保していたといわれるが,これらの山林はもちろん山でありさえすればよかったのではなく,伐採,輸送,居住等を考慮に入れた竈手として最適の山林が数千町歩保有されていたのである.現存する糸原家の山林をみても,たたら場に近い道路にそったなだらかな丘陵,または裾山であり,製炭にも牛馬による運搬にも焼炭夫家族の生活にも,実に好都合な場所であることがわかる.たたら業者にやとわれた何十家族かの焼炭夫が,このような山林を,長い歴史をかけて確立した秩序にしたがって移動しながら製炭してゆくことによって,コスト・ミニマムの製炭が行われ,森林の破壊も防がれていたのである.前節にもふれた中国山地の驚異的に低い木炭価格はこのようにして生まれている.
 こうした体制は,近隣の山村との一定の関係を含みながら確立してゆくものであることが,森嘉兵衛の研究からよくわかる30).岩手のたたら地帯では輸送は牛によって担われていたが,もちろん生物である牛を山間地で一定頭数たえず保持するためには,仔牛の段階から育てておく準備が必要であり,それは時として1経営で千数百頭の飼育の例をみるほどのものであった.これらの仔牛は,鉄山で直接飼育すれば莫大な費用を要したであろうが,若干の手数料で近隣山村へ預托され,山村の現金収入源となると同時に,その糞を肥料に用いることで農業の改善にも役立っていた.この仔牛の預托をもっとも明確な例として,鉄山への労働力の供給,輸送の牛方の供給など,鉄山経営と近隣山村の生活の間にはいくつかの強い社会経済的リンクがみられ,そのリンクをとおして輸送問題などの矛盾が吸収されると同時に,鉄山の存在が山村経済にも若干の貢献をしているのである.
 こうした双方に若干なりとも利益をもたらすリンクとは対照的な関係が,かんな流しに使われた水と農業水利の矛盾である.中国地方の鉄山で使用された泥水は,斐川をとおしてその河口に沖積平野を発達させるほどのものだったのだが,その黄濁はたえず農民の抗議の的であり,松平藩の最大の社会問題の一つであった.これは結局一種の双方の妥協の上に,かんな流しは稲作の水使用のほぼ終る秋分から開始して,翌年の水使用の始まる前の春分で終るという社会慣行が成立した.つまり双方が犠牲をしのぶという形の慣行である.この慣行は昭和に入ってからも守られていた.
 こうした社会慣行もふくめて,たたら製鉄の技術の周辺には,第3図で示されたより恐らくもっと多くの社会的なリンクが存在していて,そのそれぞれが,リンクが安定的に保たれているかぎり製鉄はコスト的にも品質的にもうまくゆくという意味で,たたら製鉄の技術を支えていたのである.(1)以来,私が社会的技術基盤というややあいまいな表現で呼んできたものは,具体的にはこのような構造をさしているのである.こうしたリンクの存在は決してたたらだけではない,異なった技術は異なったリンクによって支えられねばならない.その関係は第1表の関連項目を横につなぐことによってある程度理解することができる.
 釜石に移された第Ⅲ期の高炉は基本的にはコークス高炉であった.コークス高炉の操業上必要な温度は,強力な送風を必要とし,それは蒸気機関の使用を前提とした.したがってたたらの場合の木工技術ではなく,機械工業の技術とのリンクが必要であった.コークスの使用は森林とのリンクを不要にしたが,代わって立地と交通の問題が重要になる.産炭地に立地すれば鉱石の輸送が,鉱山に立地すれば石炭の輸送が,いずれにしても全国鉄道網の存在によって支えられることが必要であった.更にこの高炉を錬鉄生産と結びつけて生かすためには,製品となる板,棒材,レールなどの市場のひらけていることが必要であった.これらを全部くまなくひろっていけば,つまり産業革命期のイギリスの産業と交通と社会の全部とリンクすることになるだろう.しかし,ここでも全部を覆う必要はなく,特徴的ないくつかで代表させれば十分である.
 工部省製鉄所の事業の全体は,つまり,第Ⅲ期の高炉を,それを支えている社会経済的リンクから切りはなし,第3図で示した,たたら製鉄の社会的リンクのたたらの場所に置いた形になっている.たまたまそれは,本来はコークス用なのに,木炭を使用するように作られていたため,旧来の木炭生産体系との不接合をとおして,一種のアレルギー反応をひきおこし,そのアレルギー反応は木炭価格の極端な上昇として,われわれに観察されたといえる.この構図は,単なる工部省製鉄所の失敗の説明としてではなく,技術移転全般を代表する重要なものであることを指摘しなければならない.
 どのような技術移転にも多少とも通じることであるが,とくに発展段階を異にする先進国からの技術輸入の形で行われる技術移転は,技術をその母国における社会経済的リンクから切りはなし,それを輸入国における全く異なった社会経済的リンクの中へおくのである.だからこの構図は,現代のもっとも一般的な技術移転の形式に通じる,普遍的な構図であることを主張したい.技術がともかくも移植されるためには,このリンクがうまく接合することは,絶対的必要条件ではない.しかし前節が雄弁に示しているように,このリンクがうまく接合しないことは,必ず経済的不効率をまねく.輸入された技術はその母国でよりはるかに低い経済効率でしか稼動しない.一般に多くの技術移転論では,先進国の技術は無条件に“effcient”であると考えられて,この社会的リンクとの不接合から生じる不効率が深刻なものとしてはとらえられていない31).このことをもっと大切な問題ととらえるべきことは,日本の経験が語りかける第1の教訓としてもよいと私は考える.Ⅱで紡績業について明らかにするように,移転された技術が,まちがいなく根づいていながら,母国における効率の10分の1以下の経済効率でしか動いていない例も珍しくないのである.だから技術移転を国民経済の発展のために行われるものととらえるかぎり,この接合関係の考察は決定的に重要である.
 何故明治期の製鉄業の技術移転が大橋の指摘するような構造をもつことになったかという問題も,この技術とそれを支える社会経済的リンクの関係を基礎にすることによって,より明確な説明を与えることができる.洋式技術の移転に先だって日本には十分に発展した伝統的製鉄業が存在していた.その技術はちょうど西欧における発展の第1段階の末期に相当するものであった.この事実が,大橋の指摘するような圧縮された発展の構造をきめた.このような条件はどの国にも存在するものではない.もし伝統製鉄業を日本が全くもたなかったら,当然移転のコースは全く異なったものになったろう.幕末から明治にかけて試みられたさまざまな洋式製鉄技術の中で,経済的に有利であったものは,発達しつくしたたたらの社会経済的リンクを,あまり乱すことなく利用しつくすことのできるものであり,当然に第Ⅱ期の技術であった.過渡期を担う役割を果したのは大島高任の高炉であり,この高炉は木炭原単位が1.5トン前後である点からみても,また炉が恒久的であってたたらのように1回毎の作りかえを必要としない点においても,たたらよりはるかに効率がよく,たたら製鉄のために発展した木炭生産や輸送の体系,周辺山村との社会的リンクを,大きく乱さないように利用される限りにおいて,極めて経済的であった.幕末の釜石から田中製鉄所に至るまでの状況はこの条件に一致している.こうして,工部省製鉄所で試みられた第Ⅲ期の技術の移転の大失敗という状況もあって,1894(明治27)年まで,日本の製鉄業は第Ⅰ期と第Ⅱ期の技術の共存で支えられたのである.
 だが,たたらよりもはるかに効率の高い第Ⅱ期の技術による生産は,その発展の中から伝統的社会・経済体系との矛盾をひきおこさずにはいなかった.われわれは前節の終りでもみたように,その時期を,田中製鉄所の年産額が工部省製鉄所の能力にほぼ近づいた時,またはこえた時というふうに見当をつけることができる32).その時期になれば木炭の涸渇,大幅な値上がり,人件費の急上昇などが田中製鉄所を苦しめることになったであろう.野呂景義の指導によるコークス製銑への飛躍によって,この危機は未然に回避されている.この段階以降を,従来の技術史の通念にしたがって,日本の製鉄技術が西欧の第Ⅲ期の技術を獲得しはじめた段階とみなすことができる.
 このように,第Ⅰ期の技術を基礎に,第Ⅱ期の技術へ,第Ⅱ期の技術を基礎に第Ⅲ期の技術へという,明治期製鉄業を特徴づける段階的な移行は,たたら製鉄を支えていた広範な社会経済的リンクと,移転技術との相互関係によって条件づけられたものとして説明できるのである.だからこの教訓はこのような相互関係に注目することの重要性を教えているとうけとるべきで,必ずしも,あらゆる技術移転はこのように段階的に行われるべきであると,うけとめられる必要はない.そのことは大橋の指摘したもう一つの重要な特徴であるパドル炉とびこえも,このような相互関係に注目しつつ説明可能であることからもわかる.
 ここまでの議論を逆転させていえば,工部省製鉄所の技術移転の失敗は,それとリンクすべき最低限の社会的条件の形成されていなかったことにも求めることができる.機械工業,交通,市場等を私は指摘した.この市場の問題は前節でもふれられている.同じタイプの工場でありながら中小坂製鉄所の失敗,田中製鉄所の成功をわかつ条件の一つは,前者の場合には木炭銑の高品質を競争に生かせるような市場条件にめぐまれていなかった点にあることを,私は示した.このことは機械金属工業の発達の度合いと微妙に関連をもっている.後にⅡでふれる事実であるが,1881(明治14)年,赤羽工作分局が紡機の試作を試みた時も,材料として釜石銑を遂に使いこなすことはできず,最後はより柔らかい輸入銑に頼っている.最も高い水準を代表すると思われる政府工場ですらそうだったのである.どんなに優秀な素材が作られても,それを使いこなす工場が存在しなければ市場はないにひとしい.ただ可鍛鉄に関していえば,鉄道および橋梁建設の開始,造船・造艦の需要の増大などによって急速に市場は拡大していった.しかし,それとほぼ同時に可鍛鉄素材の錬鉄から鋼への転換も始まっていた.そして工部省製鉄所の失敗などもあって,錬鉄製造技術の定着の進まないうちに,市場の方は鋼への転換を完了していたのである,第2表の数値によってみても1894(明治27)年92,000トン,1901(明治34)年186,000トンという輸入量の大きさは,八幡製鉄所の形による製鋼技術移転に対し,十分以上の市場条件が準備されていたことを示している.しかしそれはあくまで鋼材の市場だったのであり,今更錬鉄の技術とリンクする必要は毛頭存在しなかったのである33).
 第Ⅳ期の技術移転を代表する八幡製鉄所の建設の場合,市場的条件の先行をはじめとして,維新後の社会変動と工業化努力の結果として,移転される技術とリンクすべき社会・経済的条件はかなりととのっていたといえる.だから,矛盾はそれまでの場合のように,社会的リンクをとおしてはあらわれなかった.むしろ,この技術移転は,初期の操業上の困難にぶつかった時,その状況を的確に診断し,洋式設計の欠陥を正し,操業を軌道にのせた野呂景義たち技術者集団のめざましい活動をとおして,技術移転における土着技術者集団の役割の重要性を強く印象づけている.この技術者集団の形成という問題も,ここまで論じてきたような,必要な社会的リンクの一項目としてもよいものだが,技術と技術者の必然的なつながりを尊重して,社会経済的リンクの問題とならぶもう一つの重要な問題として,最後に論じておきたいのである.
 野呂たちということばで表現するのは,維新後の留学生派遣と工部大―東京帝国大学系の技術者教育で養成され,初期の工業化の中で経験をつんだ技術者集団のことである.彼らの活動のきわだってくるのは,前出の田中製鉄所の改良のころからである.この時彼らはすでにのべたように,工部省高炉のコークスによる操業だけではなく,田中製鉄所の全体の合理化を行ったのであるが,この時に野呂を中心に行われている改造,大は工部省高炉の改造から,小は熱風炉の鉄管のおきかえに至る個々の項目をみる時,私は野呂を頂点に当時日本に育ちつつあった技術者集団の力量が十分に産業を「推める」力となりえていたことを確認できる.彼らは洋式設計や旧式設計の欠陥を十分に批判し,それが日本の原料や使用条件に合わない理由,あるいは不経済である理由を科学的に解明し,欠陥を除去する設計を行い,そのとおりに改造する力量を十分にそなえていたのである.状況が田中製鉄所に要求していた技術的飛躍をなしとげさせたのは,彼らの力量であったといってよい.
 この時期,彼らの活躍はめざましいと形容してよいほどのものである.野呂は,東京砲兵工廠の小型平炉を借りて釜石銑と砂鉄を用いた製鋼法を実験している.旧工部省製鉄所から残されたパドル炉を用いて錬鉄製造の系統的実験も行っている.彼の弟子の高山甚太郎と香村小録は,日本中の耐火煉瓦材料を系統的にテストして,それが製鋼炉に適するかどうかためしている.こうした努力を頂点に,すそ野のところでは今泉嘉一郎の硫化銅含有硫化鉄鉱による製銅残滓を用いた製鋼法の研究や,野呂自身の砂鉄を用いた海綿鉄製造法の研究を含めて考えると,彼らは一面において,日本に吸収すべく残された最後の領域である製鋼と圧延の技術を吸収すべく,精力的な努力を行っていると同時に,他方において,それを単に吸収するだけではなく日本の固有の資源と風土の条件に適応した日本的な製銑・製鋼技術体系に統合しようとする,野心的な目標を追究していたことがわかる.
 彼らとは少しはなれて中国山地でたたら製鉄の近代化を追究していた小花冬吉や黒田清暉なども含めて,これらの技術者群は維新後の近代化政策の生みだした成果とみなすことができる.彼らは西洋の冶金学で系統的に訓練され,近代工学の手法をひととおり身につけていた.その上彼らは必ずどこかの鉱山,または製鉄所で実地の問題と格闘した経験をもち,身につけた手法を日本の条件に合わせて使うことができた.
 彼らの活動の内容は,外国からの技術移転に際して,受入国の土着の技術者集団の果すべき,輸出国側の技術者とは自ずと異なった役割の所在を示唆している.その一つは,輸入された技術を土着の既存の社会的リンクにうまく合うように改造する能力,土着の技術を輸入技術と結びつけることであった.野呂とその弟子がもっとも得意とした高炉設計は,工部省高炉よりはやや小型の,しかし大島の高炉より段ちがいに改良された,日産6トンから15トン規模の,安価な木炭高炉であったことが,雄弁にそのことを証明している.これらの高炉は,仙人鉄山などでは発展をもたらすにいたらないまでも,木炭銑特有の高品質と,局地的な社会経済的リンクとの結合関係に助けられて,少なくとも大正初年頃までは経営的に十分成功している.小花や黒田のたたら[・・・]近代化の努力も注目に値する.それはたたら製鉄そのものを救うことはできなかったが,彼らの設計した角炉は,第2次大戦後まで生き残って山陰に第1級の工具鋼技術を育てるために貢献した.
 彼らの第2の重要な役割は,洋式設計を日本の原料に合うように改良する能力であった.これは製鉄業のような冶金技術ではとくに大きな問題で,工部省製鉄所の場合も,八幡製鉄所の場合にも,炉の設計は日本の原料の性質を知らないことからくる欠点をはらんだものであり,どちらの場合も派遣されてきた外国人技術者は,それを解決することはできなかった.八幡の場合にもただちに状況を把握して,高炉設計の欠陥とコークスの不適切を正し,原料配合を改めた野呂たちの急速な反応が,事態を救ったのである.
 こうした技術者集団の形成は,維新政府が何よりも力をそそいだ,洋式の科学と技術の教育の成果がこの時期にあらわれてきたものだとみることができる.だが,何よりも経験の蓄積が物をいう技術の領域では,科学と工学で教育をうけた後にかれらが,明治期をとおしてともかく存続していた第Ⅰ期と第Ⅱ期の製鉄業の中で,現実の問題と格闘したことが大きい.とくに,八幡製鉄所の準備過程と並行して,彼らが砲兵工厰の設備や,田中製鉄所の設備を利用して系統的に行った試験研究は,彼らの力量を高め,八幡製鉄所で行われた第Ⅳ期の技術移転をうけとめるに十分なものにするためには,まことに効果的であったというべきである.その意味では,ここまでたどってきた明治期製鉄技術の段階状の発展は,日本の特殊な条件から生まれた特異な構造であるとしても,土着の技術者を第Ⅳ期の技術導入に向けて準備してゆくためには,まことにめぐまれた,有利な基盤であったといわねばなるまい.
 (7) ま と め
 このⅠの目的は明治の製鉄史を論ずることにあるのではなく,製鉄史はあくまで素材であることに念をおしておきたい.私たちの目的は,日本の技術の形成史を,発展途上国の技術移転問題と共通の基盤において観察できるような視点を構築することにあり,またより直接的には,日本の技術が,冒頭に検討した機械工学の場合に代表されるように,ヨーロッパの技術の形成の順序と,非常に似たような順序をたどって形成されたように見えることを,どう考えるかという問題を解くことにあった.その目的へ接近する手がかりとするために,製鉄技術の形成にあらわれた段階状の構造に着目したのである.したがって,前節までの分析は製鉄技術形成の全体的叙述をめざしたものではなく,その点では部分的であることに念をおしておきたい.
 私たちの分析をとおして明らかにされた事実の第1は,この段階状構造は,西欧からの技術移転に先だって日本には発達した伝統的製鉄業が存在し,その社会基盤を基礎に洋式技術がうけとめられたことの結果として生じたということである.この伝統産業の存在,その技術が移転技術のうけとめに一定の役割を果しているという事実は,明治期の日本の技術形成を特徴づける特殊性だとすることができる.Ⅱでもまたわれわれは,明治期の機械工業の洋式技術移転が,伝統的鋳物技術や機大工の存在に大きく助けられていることを確認するであろう.こうした伝統産業の役割が明治期の日本の技術形成を特徴づけるものとしてきわだっている.こうした特徴がどこまで特殊性として片づけられうるか,どこまで発展途上国の現状に通じる普遍性をもつものであるかは,Ⅱの分析の中でなお検討を加えられねばならない.
 明らかにされた点の第2は,移転された技術を支えるものとしての技術者集団の形成の重要性と,技術を支える社会経済的リンクとの接合関係の重要性とである.われわれの関心をもつ技術は産業の中の生産技術であるから,主要には工場を形成する機械設備と,その運転のための知識と熟練を技術移転の内容とすることができる.それは工学的なレベルでは周到な準備と,移出国技術者による指導と,計画的な労働者訓練とがあれば実現可能である.だが移転された技術は,移転された国の生産諸関係とうまくリンクをつくりあげてゆくことによって,はじめて現実の経済の中で力となる.そのリンクをつくりあげる仕事は,土着の技術者集団の仕事となる。その能力をもった技術者集団が,どのように形成されてゆくかは,今後の研究の重要な目標となるだろう.
 こうしたリンクを分析してゆくための一つのモデルを,私は(4)と(5)の分析で提出したつもりである.この分析モデルが,どの程度一般的なものとなりうるかは,Ⅱで更に確認せねばならぬが,ここではたたらの例で示したようなリンクは,同時に技術が一種の波及効果を社会にひろげていく伝達経路にもなっていることを注目しておきたい.この点でもふたたび森嘉兵衛の山村研究は示唆的である.彼によれば,岩手の山村は鉄山との間にさきのような社会経済的リンクを結ぶことによって,少しずつ自給経済の解体をすすめ,鉄の市場への輸送のための交通の発展にも助けられて,この地方の商品経済は江戸時代の日本社会としては先行的な発達をとげていたという.
 釜石に近代製鉄業が発展し,コークス製銑にとってかわられてゆく,一つ一つの過程は,同時にまず伝統的たたら業者が姿を消し,次に製鉄と木炭生産や牛馬輸送のリンクがたち切られ,釜石の製鉄業が発達した交通を媒介に,はるかに遠い炭鉱や機械工業地帯との間に強力なリンクを確立してゆく過程であった.それと同時に周辺山村の商品経済の発展はとまり,以後それらの山村は,日本でも有数の僻地としてとり残されてゆくのである.こうした変化は,ある種の論者の強調する「低開発の開発」という状況にも通じるものであり,こうしたリンクに注目することが,工業化にともなう社会変動や,技術の波及効果をめぐる社会動学の問題に,一つの解き口を与えてくれることを期待させる.
 Ⅱではこの期待を,もう少し異なった技術分野をえらんで確かめることにしよう.

 [注]
 1) こうした見方を成立させた客観的条件として,現実に幕末から明治へかけての伝統産業,とくに織物業が問屋制家内工業からマニュファクチュァ類似の段階をへて,工場制工業へ発展したという事実があげられねばならぬ.だが,Ⅱで論ずるように,このことを,後発工業国としては「例外的」であったととらえる視点が必要なのである.
 2) Cippola, Carlo M., Guns and Sails in the Early Phase of European Expansion 1400-1700, London, 1965.
 3) 市来四郎の談話.公爵島津家編纂所編『薩藩海軍史』上,[復刻版]『明治百年史叢書』71巻,1968年,650-52ページ.
 4) 『三枝博音著作集』第10巻,中央公論社,1973年,60ページ.
 5) 沢井 実「第一次大戦前後における日本工作機械工業の本格的展開」,『社会経済史学』Vol.47,No.2,1981年,53ページ.
 6) 『芝浦製作所六十五年史』,東京芝浦製作所芝浦支社,1940年,40ページ.
 7) 一寸木俊昭「明治・大正期の産業機械」,『経営史学』Vol.7,No.1,1972年,49-51ページは参考となる.
 8) 中村隆英『日本経済』,東京大学出版会,1978年,81-82ページ.
 9) 大橋周治「明治期の製鉄技術」,『経営史学』Vol.7,No.1,1972,30-32ページ.『幕末明治製鉄史』,アグネ社,1975年,279-82ページ.
 10) 飯田賢一『日本鉄鋼技術の形成と展開』,HSDRJE―8J/UNUP―28,4ページ.
 11) 同上,5ページ.
 12) この鋳造技術については従来の日本技術史研究ではあまり重きをおかれていないが,産業革命期の西欧で,機械製作の極めて大きな部分が鋳鉄に依存していたことを考えると,もっと重い評価を与えられねばならぬと私は考える.
 13) 奥村正二『小判・生糸・和鉄』,岩波新書,1973年,185-89ページ.
 14) 釜石周辺の高炉建設数については研究の進行につれ,まだ増えるかもしれないが,ここでは岡田広吉にしたがって,明治維新までに9基,明治初年まで入れると12基,仙台藩領の江差鉄山周辺では明治維新までに4基,明治初年を入れて7基とする.岡田広吉「幕末から明治の高炉遺跡」,『産業考古学』28号,1983年,参照.
 15) 三枝博音・飯田賢一『日本近代製鉄技術発達史』,東洋経済新報社,1957年,17ページ.
 16) 飯田賢一,前掲論文,20-22ページ.
 17) 大橋周治『幕末明治製鉄史』,204ページ.
 18) 三枝博音・飯田賢一,前掲書,18ページ.なおこの原文の不明箇所安政○年を三枝は5年としているが,岡田広吉の指摘にしたがって6年と訂正した.『産業考古学』28号,参照.
 19) 『薩藩海軍史』上,620ページ.大橋,前掲書,45ページ.
 20) 野呂景義「本邦製鉄事業の過去及将来」,『鉄と鋼』第1巻第1号,1915年,12ページ.
 21) 大橋周治,前掲書,240-44ページ.
 22) 野呂景義,前掲論文,13ページ.
 23) 野呂景義,前掲論文,『鉄と鋼』第1巻第2号,1915年,148ページ.
 24) 木炭59,568貫目 此金1,317円4銭8厘.
 25) 野呂景義,前掲論文,『鉄と鋼』第1巻第1号,9ページ.
 26) 三枝博音・飯田賢一,前掲書,50ページ.
 27) 同上,87ページ.なお小林正彬『八幡製鉄所』教育社,1977年,125ページ.
 28) この連関をここで重視するのは,装置を保守する技術というのが,このあと重要な着目点となっていくからだ.田中製鉄所の送風装置は1893(明治26)年現在でも木製角型ふいごを水車で動かしてえられていた(『鉄と鋼』第1巻第1号,12ページ参照).つまり田中製鉄所の装置保守のある部分は,この段階でなお,たたら時代の木製機構製作技術によって支えられていたことがわかる.
 29) 製炭法に関する記述は島根県横田町における筆者の聞きとりによる.
 30) 森嘉兵衛「山村構造の解体と再編成」,『社会経済史学』33巻2号,1967年,1-24ページ.
 31) Frances Stewart, Technology and Underdevelopment,1978.は発展途上国への技術移転を論じてたいへん説得的な本だが,この著者でさえも技術の経済効率を,こうした社会的リンクとは切りはなされた,技術の属性として論じていることは印象的である.
 32) 野呂景義は釜石の田中製鉄所の木炭による安定な製銑可能能力を12,000トン/年と見積っているが(前掲誌,8ページ),たぶんこれは過大である.しかし1893(明治26)年8,000トンという生産量はまちがいなくこの値に近づいていた.
 33) しかし錬鉄の段階は社会的にはたしかにとびこえられているが,技術者の経験としては野呂景義により田中製鉄所の設備を用いて錬鉄の製造と圧延の実験が行われていることを重視しなければならない.この経験を通過していることが,第Ⅳ期の技術移転の習得過程ではまちがいなくプラスに働いている.

 Ⅱ 紡績業の経験から
 (1) 機械制大工場へ
 Ⅰであつかった鉄鋼業は,技術と土着の社会的諸関係のリンクという,われわれの問題意識を確認するためには,たいへん好都合な領域であった.採鉱冶金という仕事はまさしく土を相手とし,掘る場所に定着しなければならないという点で,技術を風土や地域から切りはなすことのできない性格のものである.だが機械を中心にした技術の最大の特色は,こうした社会経済的リンクから技術を相対的に切断することにある.作業機は自立した動きをもつことによって人間の手のもっている制約から自由になり,更に蒸気機関という原動機と組合わせられることによって,例えば水車工場が河辺に立地せねばならぬというような地理的制約から自由になるというのが,マルクスが彼の考察の根拠とした機械の本質であった.この展望をもとにすれば,機械を基礎にした技術が発展すればするほど,Ⅰで私たちの考察した一つの技術と社会的諸関係の強いリンクは後景にしりぞき,したがって,Ⅰで私たちが,後発国における技術移転の困難の原因とした条件は緩和されるのではないか,という予想が成立する.この予想を吟味するための最適の領域は紡績業をおいてはないだろう.綿糸紡績業における機械を基礎にした技術革新こそ,イギリス産業革命を主導したものであり,またマルクスをはじめとする19世紀の思想家の,機械についての考察の源となったものだ.そして,われわれの予想を支持するかのごとく,明治の日本の紡績業は鉄鋼業よりはるかに早く,1887(明治20)年前後には,洋式技術をほぼ同化して輸入代替産業としての基礎を確立し,そこから一挙に輸出産業へと発展していく.この輸入代替産業から輸出産業への急激な転化は,それ自体後発国の産業発展としては興味をひく過程であり,その背景の解明も期待されるところだが,さしあたり,われわれの関心の焦点は,この鉄鋼業よりはるかに短期間に完了した洋式技術の同化の背景にあったものである.
 紡績の場合も,鉄鋼の場合におとらず,導入された技術と社会的技術基盤の落差は大きかったことを確認しておかねばならない.幕末の国内綿業の紡糸技術は,手まわし紡車による手紡であり,労働力は農村子女の副業労働力に依存していた.生産の様式は,棉花生産・紡糸・織布という三つの部門の社会的分業が問屋を媒介して結合される問屋制手工業であり,織布は原始的な地機や絹織物用から転換した高機を用いた家内工業的または副業的生産が行われていた.この社会環境にミュールやスロッスルを用いた工場が導入されるのである.西欧の紡機技術の発展を手まわし紡車→ポールやワイアットの紡機→ジェニー紡機やウォーター・フレーム→ミュール,スロッスル,リング,という四段階に仮に区分してみれば,明治期の技術導入は,手紡の技術で問屋制手工業の行われている社会に,第2,第3段階をとびこえて,一挙に第4段階の技術による機械制大工業を導入しようという試みであったといえる.落差はまちがいなく大きかったのである.
 紡績業における洋式技術移転も,鉄鋼業の場合と同じく,一種の段階構造をもつことは,従来の研究の中で自ずと認められてきた.第1はいわゆる始祖三紡績(鹿児島紡,堺紡,鹿島紡)の段階である.これら三紡績は幕藩営工業の名残りをもち,前二者は薩摩藩営工場としてスタートし,後者も鹿島万平による民営ではあったが,幕府の強い要請をうけての計画であり,設備の発注および到着は維新前である.第2段階は官営模範工場からいわゆる十基紡の段階.これは明治政府が綿製品の輸入増大にともなう貿易収支悪化をごうとしてとった,輸入代替紡績業育成政策を直接反映している.1880(明治13)年の渋谷紡績から,1885(明治18)年の名古屋紡績まで,官営,民営合せて17工揚の,ミュール2,000錘規模の紡績工場がこの政策によって誕生している(第4表).われわれはこれらの工場を2000錘紡績の名で呼ぶことにしたい.第3段階は,1883(明治16)年に出発した1万錘規模の大阪紡績が成功したことに刺戟された,民間巨大紡績会社の競争的参入期である.この段階が明治の紡績業の爆発的成長期に相当している.
第4表 明治前期の洋式紡績工場一覧
 従来の技術史研究者によるこれらの諸段階の評価は概して低かった.例えば三枝博音は,
 [鹿児島紡績所は,記録の上でこそ日本機械紡績工場の濫觴であるとはいえ,真の意味での日本紡績業の源流とはならなかった]
と評価している1).経済史の研究者であって技術史家ではないが,この分野に蓄積の深い高村直助も,始祖三紡績は,
 [いずれもその後の機械制紡績業の形成に結びつかず,孤絶した存在にとどまった.]2)
としている.第2段階の2000錘紡績が,惨憺たる失敗と形容してもよいほどのものであったことについては,ほぼどの研究者も一致している.そして成功とみなされる第3段階についてすらも,例えば成長がことごとく輸入精紡機によってなされたというような点について,従来の技術史研究の評価はきびしすぎるものであった.村松貞治郎の,
 [一般に明治三〇年代に日本の軽工業革命が達成されたといわれるが,まったく一基の作業機の自給もない産業革命だった]3)
という評価などもその例とできよう.
 こうした評価が,以後の構造分析をとおして再検討の対象となるであろう.ただ検討を開始する前にあらかじめ一言だけ断わっておきたいことは,こうした評価に共通していることは,後発国が独自の機械関連技術,とりわけ独自の機械工業を育てることが如何に困難であるかが,全く見落とされている点だということである.これはこれら先行した研究者の責任ではなく,むしろ時代的制約というべきだろう.戦後30年の発展途上国や中国の工業化の経験を目撃した後のわれわれは,純粋な農村基盤からの機械制工業の建設というものが,どれほど大きな矛盾と,想像を絶する困難をはらんだものであるかを知っている.鹿児島紡績や2000錘紡績はまさしくそれだったのである.この困難の基本的認識を欠くとき,彼らがその悪戦苦闘をとおして獲得したものと,その悪戦苦闘をとおして周辺にひきおこされた変化のもっている意味は,必然的に見落とされる.つまり第3段階での洋式技術の定着を準備したプロセスの全体が見失われ,そこでの技術の突然の定着と輸出産業への突然の転化を,まことに不自然な説明のつかない過程にしてしまう.これが従来の評価の欠点である.だから,われわれは「困難」をできるかぎり忠実にリアルに再現してみせることから出発したいのである.
 鹿児島紡績の設備と鹿島紡績の設備を対照したものが第5表である.ここに対照として鹿島紡をもちだすのは,いわゆる始祖三紡績の中で鹿島紡だけが業績好調であり,技術としては「定着」に近い状態にあったとみなせるからである.この比較をとおして,われわれは,鹿児島紡績の機械設備が,当時の日本の状況としてはうけ入れやすい「水準」からどの程度にかけはなれていたかを,推定することができる.
第5表 工場設備の対照――鹿島紡と鹿児島紡――
 まず第1に眼につくのは工場規模の相違である.鹿児島3,648錘,鹿島720錘という錘数の差は,その前後の工程における機械規模の差をともなっているし,それ以外に鹿児島は果して稼動したかどうかは疑問視されるとはいえ100台の力織機をもっていた.鹿児島は鹿島とは比較にならぬといってよい大工場なのである.始祖三紡績に次ぐ,技術移転の第2段階である2000錘紡の各工場と比較しても,ひときわ規模の大きい大工場であったことを強調しなければならない.このことは,後にのべる動力系の問題を理解するために特に重要である.
 第2に重要なのは,鹿島の場合,紡機はスロッスルからリングへの過渡期のものであったと考えられるのに,鹿児島は3台1,800錘のミュールを含んでいたことである.機械として比較するとき,スロッスルやリングのあつかいやすさに対し,ミュールは格段に複雑なそして無理な動きをする機械であった.前者では糸は一定の速度で撚りをかけられて一定の速度で流れてゆくのに対し,後者では動作には断続があり,その上紡錘部の前後への往復運動がある.糸つなぎなどの作業は機械にあわせて前後に移動しながら行われねばならぬ.動力部は中央にあり,そこにきわめて複雑な歯車機構が集中しており,そこから両翼へ非常に長い距離に並んだ多数の紡錘の廻転運動と,その前後への往復運動の,伝達と制御が行われている.その調整は単に複雑であるだけでなく,歯車への力のかかり方が偏ったものになる結果,それぞれの歯車がくせをもったへり方をするので,機械工として熟練しているだけではなく,各部のくせを熟知した経験工があたる必要があり,さもないと歯車を1枚交換したとたん機械がびくとも動かなくなるというようなことが,しばしばおこる4).ヨーロッパでもミュール工は格段に資格の高い熟練工とみなされていた.鹿児島紡績がこの機械をどこまで使いこなせたかはかなり問題となりうる.
 第3の問題点は鹿児島紡績は蒸気機関を動力としたのに対して鹿島紡績は水車であった点である.鹿島の水車は,水車とはいっても調速機までついた立派な装置である.保守の失敗から歯車破損事故をひきおこしたりもしているから,保守のためには何らの技術もいらなかったとはいえない.しかし,にもかかわらず,蒸気機関にくらべれば水車ははるかに低い技術水準で保守でき,順調な運転が保証できるものであったことは論をまたない.
 しかしそれよりもっと大きな問題は,その動力の伝達系であった.鹿島の場合,水車のまわす元車に,メイン・シャフトをまわす歯車が直接かみ合い,そのメイン・シャフトにそって機械が1列にならぶという,まことに単純な構成であり機構的無理は全くない5).鹿児島の場合,元車にかみ合う歯車から水平軸で伝達される動力はいったん垂直に下へ降り,更に水平方向にかえられて工場に入り,そこから垂直上方に伝達されてはじめて上方を水平に走っているメイン・シャフトに伝達されるという複雑なシステムとなっていた.しかも機械はメイン・シャフトから動力をもらうのではなく,そこから直角に各工場へ枝シャフトがわかれていて,その枝シャフトがそれぞれの機械へ動力を伝えるのである.このシャフトからシャフトへ力の伝達方向が直角に変換されるのは,ほぼ全部ベベルギヤのかみ合せをとおしてである点が,非常に問題をはらんだ欠陥だと絹川太一は指摘している6).ベベルギヤによる変換は機械内部のような軽い負荷の場合には有効であっても,1工場全体の動力というような大きな負荷のかかる場合,ちょっと考えられないことで,しばしば歯車の破損,したがってその取り換えのための動力系の停止をみちびいた.それは設備の全停止をもたらすから,このための稼動率損失はたいへんなもので,それが鹿児島紡績の業績不振の最大の原因だったろうと絹川は推定している.
 これらの歯車は皆巨大なものであった.蒸気機関のピストンによって直接動かされる元車は,円周が44尺3寸2分というから,直径4メートル強,円周13.3メートルという巨大な歯車であった7).これに直接かみ合う歯車も直径0.5メートル位,ベベルギヤもその程度だろうと推定される.これらの歯車の破損した時の,作業のたいへんさもさることながら,交換部品の加工はどのようになされたのだろうか.鹿島の場合でも,水車の事故で元車の破損した時,復旧に2ヵ月もかかっているから,当時の加工技術でこのように大型の歯車が,しばしば破損するという事態にどのように対処しえたのであろうか.このように見てくると,当時の日本の技術水準で,この動力伝達系を保守し順調に稼動させることは,至難ということばでは形容が足りぬ位,その能力と隔絶したことであったことがわかる.
 鹿児島紡績の機械との対比で見るとき,鹿島紡績の場合は,あらゆる意味で当時の日本にちょうど適合的な装置の限度を示していると思われる.水車動力,非常に単純な動力伝達系,精紡機にリング型の選ばれていること,それも極めて小型の1台144錘,片側72錘というものであったことも,設備の操作面から見て適合的である.この適合関係を象徴するものとして,同社が1878,79(明治11,12)年頃,この型の精紡機を1台模倣製作し,720錘に増錘したという事実がある.この機械は輸入された他の4台と全く変わらぬ効率で稼動したと伝えられる.製造することのできる設備ならば,もちろんそれを常に最適状態に保守することも,故障を修理することも可能なわけだ.工作機械は横浜から購入し,鋳物は川口の鋳物屋へ,歯車は本所の中島鉄工所へ外注したと伝えられている8).このことは,この機械製造能力(保守,稼動能力)が,東京周辺の工業能力,商品流通網に支えられていたことを示している.いいかえれば,1877(明治10)年頃,東京周辺の機械工業と商業は,鹿島紡績程度の装置を,辛うじて支えられる程度には発展していたことがわかる.これは2000錘紡績の失敗の意味を考えるためにも重要である.2000錘紡績はミュール2000錘という鹿島紡とはくらべものにならぬ高度な難しい設備を,工業基盤の芽もない山間部や農村に配置したのである.失敗は既定の運命であった.
 こうみてくると鹿児島の特異性は一層よくわかる.それは2000錘紡績より15年早く,しかもはるかに大規模な複雑な工場であった.それはイギリスのような熟練工と機械工業のひろく深い存在に支えられてはじめて,最適の稼動状態を維持できる高度な装置であった.ヨーロッパからの移民機械工の存在により,幕末・明治の日本とはくらべものにならない有利な条件にあった19世紀初のアメリカでさえ,例えばミュールは適合しない装置であったことに注目する必要がある.熟練工の相対的不足,水力の相対的過剰という,その固有の条件に適応させて,アメリカはスロッスルの改良型からリング精紡機へという,独自の紡機技術形成をとげてゆくのである.
 こうしたすべてを考慮に入れるとき,幕末から明治へかけての日本で,ともかくも,このような型の紡績工場が,30年間以上まがりなりにも運転を続けたということが驚くべきことであったのではないかと思えてくる.それは1人の外国人技術者もいない状況の下であった.プラット社から派遣された8名の技術者は,2,3年の契約を結んでいたにもかかわらず,幕末の情勢を理由に,1年で引揚げてしまった.操業初期の好業績,2年目以降の一転しての苦境の対照は,この引揚げと明らかに関連していると思われる.それ以後鹿児島紡績は一度も,プラット社の直接指導はうけていない.にもかかわらず,イギリスの標準よりはるかに廻転数の低い条件下ではあるが,ミュールもなんとか運転されているし,1894(明治27)年頃の情況では100台の織機中53台が解台されていたというような数字からもわかるように,惨憺たる設備状況の下ではあるが,1897(明治30)年まで操業を続け,その間何回か好況の時もあったのである.それは幕末・明治の日本の機械工業の水準,労働力の平均的水準を念頭におくとき,むしろ奇蹟のようなことがらではないだろうか.
 ここにきてわれわれは何故この紡績所が鹿児島でなければならなかったかに,思いるいたのである.安政年間から操業していた田上村水車館以来,洋式を模した紡績と輸入織機による織物の伝統をもち,集成館での藩営機械工業を相当程度に発展させていた鹿児島であればこそ,この工場はまがりなりにも動いたのである.日本の他の場所であれば,動くこと自体が不可能であったろう.少なくともここまでの考察は,幕末藩営工業がそれ以後の日本の工業化に果した役割が,これまで日本で考えられていたより,もう一段階大きかったのではないか,ということを示唆している.しかし,その点を検討するより前に,ここでは,始祖三紡績も2000錘紡績も含め,第2段階までの洋式紡績がぶつかった技術的困難の様相を,もう少し系統的包括的に概観し,彼らのぶつかった困難の特徴を全体的につかみだすことを試みたい.
 (2) 初期の紡績工場の技術的困難
 初期の紡績工場の当面した技術上,経営上の困難を,もっともなまなましく伝えるものは,1885(明治18)年6月13日から15日にかけて東京で行われた綿糸集談会の記録であろう.例えば,山梨県の資産家共同事業としてはじめられた2000錘紡績である市川紡績の,栗原正信の次のようなことばは初期の困難の厳しさを伝えていて胸を打つ.
 [市川紡績所ノ創業以来今日ニ至ル迄,凡二周年間ノ營業ハ悉皆困難ト不愉快トヲ以テ充?セラレ,一日トシテ愉快安樂ナル日ヲ迎ヘタルコトナカリキ.何ヲ以テ之ヲ云フ.曰ク其困難ノ事項固ヨリ多々ニシテ枚擧ニ遑アラスト雖,就中其最著大ナル者ヲ擧クレハ凡ソ二ト爲スコトヲ得ヘシ.即チ第一器械運用上ノ困難,第二製品販賣上ノ困難是ナリ.]9)
 これに続いて栗原の訴えていることは,「職工の不熟練なるほとんど兒戯に類する」ものがあって,機械をその「成規にしたが」って運転することができない.したがって「しらずしらず器械を損傷すること擧げて数うべからず」.そのような状態だから当然よい糸は紡げない.製品は売れない.売れても極端に安値になる.同業の中には大阪紡績のように好成績をあげている所もあるので,そこへ人を送って実習させようと思っても,山梨はあまりにも遠隔の地であるために思うにまかせない……,といった状況である.
 「器械を損傷すること擧げて數うべからず」というのはまた大変な状態で,挙げて数うべからずというのが仮に文章表現のあやだと解釈するとしても,やはり器械を損傷するような運転は論外である.この時期,市川紡績は機械を掃除したり修理することも知らなかったといわれる10).もちろん修理することをもし知っていたとしても,前節で鹿島紡績にふれてのべたように,修理できる機械工作能力は山梨県にはなかった.当然機械の荒廃は急速であることが予想されるし,こうした運転状況の下で順調な経営が成立したとは考えられない.はたして,この1885(明治18)年早くも農産社は破産し経営者は交替している.代った経営者は1893,94(明治26,27)年頃,機械をリング精紡機ととりかえ,旧ミュール機を日清戦争によるくず鉄値上がりに乗じて,くず鉄として売却している11).10年にして機械は鉄くずとなったのである.これとくらべる時,鹿児島紡績が当初の機械をともかく30年間運転し続けたということは,再び背後にあった技術の高さを示唆するのである.
 市川紡績の状況は,2000錘紡績工場の運転に必要であった技術と,それがおかれた地域の社会的技術基盤との巨大な落差を示している.この落差が地域的孤絶によって更に強化されていることを注目する必要がある.当時の技術移転の形式の中で最も大きな役割を果しているのは実習生の他工場への派遣である.この形式を最も有効に活用して成功したのは後に示すように大阪紡績であるが,市川の場合は,基幹工3名を官営の愛知紡績へ1度派遣したにとどまっている.そこから先の栗原正信のなげきも出てくるのだが,これを理解するには,山梨の地理的孤絶の上に当時の交通事情を考慮する必要がある.われわれの想像力の働きを助けてくれる絶好の資料が一つある.大阪紡績の岡村勝正が,愛知紡績の紡機大修繕組立に実習生として参加するため,1881(明治14)年5月,東京から岡崎まで旅したときの様子である.
 [十四日山辺丈夫氏附添新橋を出発しましたが,当時汽車は神奈川迄開通,神奈川から先きは徒歩又は人力車に乗りまして,初めの日は梅(藤)沢駅に一泊,翌日は徒歩で箱根を越えて三島に着きました.其時分でも海道筋は峠は徒歩,川は渡舟で昔のままでありましたが,一行は出発後四日目の十七日に岡崎町に着きました.]12)
 このような状況で伝習が行われたのである.ちょっと機械の調子が悪いから電話で,というような時代とはわけがちがうことを強調しておかねばならない.山梨のような場合はなおのことである.当時のような交通状況を前提にするならば,機械制工場の成功・不成功をきめる最大の要件は立地であった.市川紡績のような場合は,その立地から不成功は運命づけられていたといってよい.
 技術的困難は多岐にわたっている.もっともオーソドックスなものはミュールの運転そのものに関するものであった.すでにのべたようにこの機械は前進・後退の動作と,それに対応した紡錘やローラーの動作の切り換えをともなう,複雑な上に複雑な機械であった.往復のスピードを上げると糸切れがひんぴんと起って作業者がついていけない.この複雑な機械をいきなり,機械のことは何も知らない経営者たちがうけとった困惑と,そこからおこる混乱についての訴えが,集談会のすべてであったといっても過言ではない.
 まず原理について学習の機会をと迫る出席者の訴えは,この複雑な機械の機構をともかくもマスターして,まず「成規にしたがった」運転ができるようになりたいという願望をあらわしていた.それに対し,会頭として出席していた荒川新一郎は,この精巧な機械の構造原理を理解するなどとんでもない難しいことで,要は機械が正しく設置されていれば,後はその動きをのみこんで使用すればよい,それ以外はない,
 [諸君ヨ綿糸紡績ノ要ハ機械ノ程度ヲ知リテ能ク之ヲ活用シ,綿絮ノ良否ヲ査シテ能ク之ヲ利用スルノ二點アルノミ.決シテ他ニ奇法アルニアラサルナリ]13)
と,懸命の説得を試みている.
 この荒川の意見はたしかに,綿紡技術の核心をいいあてているが,このたったの二点を当時の条件の下で実現することが,どれほど困難であったか,またそれを実現するためにはどのような条件に支えられることが必要であったか,以下具体的に検討してみよう.
 [機械ノ程度ヲ知リテ能ク之ヲ活用スルトハ,即チ原綿ノ良否ト綿糸ノ大小ト機械ノ構造トニ由リテ其打伸撚數速力等ノ度ヲ審ニシ,試定ノ正則ニ照シテ能ク之ヲ實施スルノ謂ナリ]14)
と荒川はいっている.つまり原綿の繊維の性質と,紡出したい糸の番手に応じて,もっとも適切な,粗紡糸の延伸速度と撚数を見いだしてゆく必要がある.これは結局テストのくりかえしにより試行錯誤的に,また経験の蓄積をとおして確立してゆくより他ない.実際の操業にあたっては,これらはローラー,スピンドルの廻転数,機械の前進後退の速度およびそれらの相互の比をとおして実現される.したがって,歯車の組合せのひんぱんな変更とそれに対応した微妙な調整が必要である.鹿島紡のようなミュールより単純な機械の場合でさえ,使用する棉に対する適度な撚数を見出すのに歯数が「二十枚から六十枚までの撚歯車を多数製造して」その組合せを変えつつ手探りで探りあてるというような方法をとっているから15),ミュールの場合この苦心はずっと大きかったであろう.結局これをやりとげるには機械の機構をよく知り,その動きの性質もよくつかんだ高度な熟練が必要であり,とくに運転のスピードを上げるためには,極めて高度な機械調整工的能力が基本として要った.こうした条件が若干でもみたされていたのは大阪紡績だけである.
 こうした基本をみたした上で,番手に応じた原棉の使いわけあるいは混棉の技術といった荒川の第2の要件――綿絮の良否ということばで彼の言おうとしたもの――をみたすためには,原棉についての系統的な研究と組合わせた長い操業の経験をとおしてはじめてえられるノウハウの蓄積が必要であった.多くの経営者にとっては原棉の性質に応じて操業のやり方を変える必要のあることすら,やってみてはじめてぶつかった問題であり,各地の棉の性質の研究など思いも及ばないことであったろう.
 こうした状況に加えて,日本産棉は短繊維で,ミュールの得意の領域である細糸には全く向いていなかった.結果として各紡績所の操業技術で安定的生産の落ちつく所は,15番手前後の太糸を1分間2回転位で紡糸することであったことが,集談会記事を読むとよくわかる.当時イギリスでは1分間5回転であったというから,40%程度の効率で機械を利用したことになり,またミュールの精紡機としての利点は全く殺していたことになる.この事実をそのまま当時の平均的操業技術水準の指標とできる.
 当時の苦心談の多くを見ると,しかしこうした紡績業本来の技術以外に,それに関連した副次的技術面で,はるかに苦心は大きかったらしい.例えばカード機に巻く針布をドラムに合わせて巻いて,寸法のあまる部分をどうして切ったらよいのかわからない,しかたなくたがねで叩き切ったのでドラムの両端には無数のたがね創が残ったという.またミュールにはロープによる伝動が多く用いられている.このロープの両端の結び方は,第4図のごとく用途に応じてさまざまに使いわけられる特殊なつなぎ方があるのだが,当初は大阪紡績すら結び方を全く知らず,帆船の船頭を呼んでやらせてみたりしたが,ちょっと動力をかけるとスポンと抜け,さんざん苦労したという16).
第4図 ロープのつなぎ方
こうしたもの以外にも皮ロール用の糊,ベルト,木管など一つ一つに困難が伴っていて,機械制工場の操業のためにいかに思いがけない周辺の小さな技術の欠如が,大きな障碍になるかについて考えさせられる.
 交換部品についてはどうであろうか.鹿児島紡績についていえば,1894(明治27)年に伊集院篤から宮里正静に経営の引継ぎの行われた時,当初納入された100台の力織機中53台が解台されていたという記録がある17).この力織機については織物に使われた形跡はなく,従来の技術史でも力織機は使用されなかったことになっているから,この解台が設備の摩耗によるとは考えられない.歯車其他転用可能な部品を紡機の修理のために使用したのであろうと推定される.こうした交換部品の問題は初期ほど深刻であった.三重紡績も初期は,ねじ1本にしても大阪まで買いに行ったという.最も重要な交換部品である歯車についていえば,前節で鹿島紡績にふれて示したように東京には1877(明治10)年にすでに歯車製作のできる工場があったことは注目すべきである.大阪では大阪紡績が創業時町工場に作らせてみて失敗している.しかし以後歯車類は砲兵工厰に願書を出して製作してもらったというから18),ここにも別な形態ではあるが基盤が存在したわけだ.
 逆にこうした基盤から切りはなされた工場は悲惨であった.さきにのべた市川紡績の機械の急速な荒廃はその例である.そこまでは至らないとしても,機械の整備の不足は糸質の悪化,あるいはひんぱんな糸切れをまねくし,また故障の際に交換部品が簡単に手に入らないことは,機械の長期の停止,稼動率低下となって直接経営にひびいてくる.鹿島紡のごとく比較的めぐまれた立地のところでも,さきにのべた水車の故障の際は2ヵ月間操業が停止し,大きな打撃をうけている.名古屋紡績なども立地は相対的にましだった方だが,プーリー一つの交換でも地元で調達できず,東京か大阪へ発注し,鉄道もまだ全通していない時代だったので,ずいぶん時間をかけて入手している.こうしたすべてが直接間接に操業上の,したがって営業上の不利となってはねかえってくるのである.
 機械に基礎をおいた工場の円滑な運転は,多少ともその周辺に存在する機械工業(この時代ならば工業ということばも不要で機械加工の能力といってもよい位だが)のひろがりによって支えられる必要があるということは,ここであげた事例からも十分納得されるであろう.とくにこの周辺工業のひろがりは,先にのべた狭義の紡績技術の中の機械操作の部分と相補的であることに注意しておきたい.例えば先の市川紡績のような状況におかれた企業でも,もし周辺にある程度の技術をもった機械製作工場があれば,そこへ実習生を派遣することである程度の能力を高めることができる.極端な場合,そこから機械工を引抜くことによって機械の保守能力を一挙に高めることもできる.それほどでなくとも,そこからの技術サービスで機械の効率はうんと高まるのである.こうした意味もこめて,私は狭義の紡績技術を支える周辺の関連工業の能力を強調する時,その中心に最低限の機械工業の能力をおきたいのである.それを核としてベルト,皮細工,ロープ,糊,木管など細々したサービスをはじめ,かなりなひろがりの関連技術による支持が必要なのである.
 こうした必要な関連技術の幅がどこまで広がるかという点では,再び岡村勝正の証言を聞こう.
 [一月の末に直径七尺長は三十尺の大ボイラーが到着したから,山辺氏と私とが早朝から荷揚げに立会ひました.何分にも大ボイラーのことで搭載して来た船のクレーンでは揚らぬから小野浜造船所へ廻し同所のクレーンで釣上げ三百石の和船に積込むのを見届けた上夕方帰宅しましたが,さていよいよ綱を緩めてみると船が沈没して仕舞ふた.幸にボイラーの方は綱の切れていない内に釣上げて……]
 さてこれを陸に揚げるのがまた一騒動,
 [会社前の浜へ仮桟橋を造るやら,大形の轆轤を集めるやら色々の準備を整へ,之を指揮するには紅白の絹で造った采配を持って緋縮緬の襦袢一枚となり,白足袋で前後左右に馳廻り指図する歌を唱ひ,声を合せて引揚げたものです.これは太閤時代に築城に使用した大石を運搬した時の遺風であらうと思ひます.]19)
 大阪ですら,まだこのような状態だったのである.しかし,それでも大阪であったから,このボイラーは陸に揚げられたのである.港湾設備なども関連技術のひろがりの中に含められることを示す一つの証言だとすることができよう.
 以上いくつかの角度から当時の紡績業をとりまく技術的諸問題を追ってきた.しかし,当時の紡績業の経営を詳しくたどってみると,問題を技術の問題だけに限定することはできないことを私は感じる.最低限,経営者と労働者の気質,いいかえれば工場経営になじまない社会的文化とでもいうべきものにふれておかないと,初期の工場の直面した困難を描きつくしたことにはならないだろう.
 絹川太一の描写によって鹿児島紡績の経営を検討すると,その業績の不振は技術的問題よりもはるかに,経営スタイルそのものにあったことがわかる.ほんの少し業績が上がると支配人宅から三味線の音のひびいてくる話だとか,島津家令の権力が段々強くなりすぎて最後には人事まで家令の承認を要するようになる話だとか,絹川はいろいろのべているが,経営の特異性をもっとも象徴的に示すのは,第六代の支配人伊集院篤が業績再建のために作った紡績所規則中の純益配分方法である.
 [純益の一割を賞与とす.
 九割の半額を嶋津久芳等二十余名の借金の消却とす.
 其他を勧業課其他の弁償又は準備積立とす.]20)
となっている.純益の中から旧藩士の私的な借財を返済するなどという規則は論外であるが,最後の項目も問題である.明治初期の経営者の多くは設備の減価償却の観念をもっていなかったから,この積立はその項目にあたる可能性が強い.もしそうであるなら,純益に計上すべきものでない.つまりこの規則は今日的な意味で利益がでていない時にも,鹿児島紡績が旧藩士の借財返済を行わねばならぬことを規定していることになる.旧藩士が刀をちらつかせてむりやり金を借りていったというような話と,この規則とを重ね合せてみると,殿様経営の士族救済事業の実態が,どれくらい今日われわれが企業経営の常識とするものからかけはなれていたか,想像つくであろう.
 鹿児島紡績をめぐるすべての話は,封建時代の社会的諸関係の中に,機械制大工場がすっぽりはまりこむような形でこの工場の経営が成立していたことを教えてくれる.殿様経営とか士族の商法とかいったことばが成立するのもなるほどと思わせる状況である.同じように,内務卿松方正義の紡績国産化の悲痛な訴えに答えて各地に誕生した2000錘紡績の経営者の平均像も,資本主義的経営者というよりは経世家であった.彼らは運転資金の十分な準備に対する配慮だとか,設備の更新に対する準備の必要だとか,経営の初歩以前の問題にもほとんど関心をはらっていない.何よりも悪いことは,工場の管理者として最低限必要であると思われる程度の機械の知識も機械制工場の性質についての知識ももっていないことである.この点大阪紡績の門田顕教が,管理者が職工を指導できる技能をもつこと,経営者が工場を直接指揮すること,それができるように技術も含め万般を研究することを力説しているのは適切であるというべきだ21).それができなかった多くの経営者たちの失敗をみていると,近代的工場の経営のためにはそれにふさわしい経営者の成立が必要であること,それが明治初期にはまだ無理であったことがよくわかる.大阪紡績の成功は渋沢栄一の呼びかけの下に,株式会社組織で,英国帰りの技術的能力も十分にもった山辺丈夫による経営で,というところに,やはり画期的な意味をもっていたのかもしれない.
 経営者に対応する労働者の側の成熟はどうであったろうか.やはり機械制工場にふさわしい労働力が育つには時間がかかったといわねばならない.鹿児島紡績の労働者を,岡村勝正は大部分「船頭や土方から上った人」と語っているが22),ここにはこの時代独特の偏見が働いているように思われる.田上村水車館以来かなりな機械紡糸の伝統をもち,そこで働いていた40人もの労働者を紡績所へ移すことのできた鹿児島の場合は,初期の工場の中では最も労働力の質に関してめぐまれていた例とすることができよう.むしろ後の2000錘紡績の方が,この点の困難は大きかったはずだ.高村直助は,2000錘紡績の労働者が士族の子女から得られることの多かったことを指摘しつつ,そこでは「傭者被傭者の関係はあたかも封建時代における君臣のごとき美風」があった反面,仕事に対して他から干渉されることを絶対嫌うなど,いわば管理を拒否する点で,近代工場の労働になじまない点が強くあったことを指摘している23).しかし,あえて士族の子女をまつまでもなく,当時の労働力の全体が,どれ位近代的機械制工場の操業になじまないものであったかを語る絶好の資料は,絹川太一の伝える愛知紡績の工場火災のエピソードである.
 [太平川は香魚の名所で紡績所失火の時など男工等は水路石岸の辺に集る鮎を手網ですくひ,大喜びに騒いで居る際火事に驚き折角の獲物を滅茶々々にしたと悔ひておつた.]24)
水路とは動力水車への取水路のことである.このいかにも農民の世界にこそふさわしい描写のすべてが,当時の工場労働の様態のみならず,労働者の価値観のあり方をみごとに語っている.
 当時の紡績工場の最大の問題の一つは火災であった.床の上や梁の上にうすく積る綿ぼこりは絶好の導火物であって,いったん火がつけば火は一瞬のうちに綿ぼこりをつたわって走って,たちまち工場を火でつつむ危険があった.だからたえず掃除して綿ぼこりを除去し,火気の使用に細心の注意を払うことが工場管理の初歩であった.大阪紡績の「職工懲罰例」に,工場内其他禁煙の場所において之を犯すものは未払工銀没収の上即解雇,又その場所でマッチ其外発火器を弄し又は所持したる者も同じく処すと,驚くほど厳しい処分になっているのも,この理由からであった25).これほど厳しい体制の下でも,なお小さな火事は,ほとんど日常的であったことは,大阪紡績が1892(明治25)年12月20日大火をおこしたとき,95名もの大量の死者をだしたことは,「ほとんど毎週」小さな火事があったので「またか」と思って気にとめず仕事を続けた人が多かったため,と説明されていることからもわかる26).
 こうした状況の下で工場を順調に操業することは,火の危険に対する配慮,危険を未然に除去するための点検が日常のルーチンになり,防火が価値観のトップにくるような秩序の形成が必要であって,工場労働というものは自ずと工程の性質にしたがって,この種の秩序の形成を要求するものなのである.工場が失火したことよりも鮎が逃げたことの方が大切というような価値観は,当時の工場がこのような秩序とどれ位遠かったかを語って余りある.17の2000錘紡績のうち実に9紡績までが火災によって大きな打撃をうけた(中には火災を期に解散したものもある)という事実は,もちろんこの状態の結果であると考えてよい.機械制工場が自ずと要求する秩序に積極的に従わないまでも,従うことに抵抗を感じない労働者が,農民的世界から生みだされるためには時間が要ったのである.こうした労働者は,結局工場を体験することによって作りだされる以外ないことも注意しておいてよい.だから初期の工場が農民的労働者や侍的経営者でさんざん苦労することは,いわば宿命的なことであって,これらの工場は失敗したとしても,労働者を育て経営者を訓練する点では巨大な役割を果したのだということは,決して強弁でもなぐさめでもなく大切な視点である.明治20年代の後半から明治30年代へかけて,鐘紡と他社の間の職工誘拐事件に見られるように,紡績工引抜問題が深刻化していくが,それはこの年代にはすでに,まだ過少ではあるがしかし労働市場を形成するに足る程度にまで,農民的労働力からは明瞭に区別される,工場的労働力の量が形成されていた証拠とみることもできるのである.
 (3) 機械制工場の技術を支えるリンク
 以上,初期の紡績業のぶつかってきた技術的・経営的困難を概観してきたが,これらを素材として,機械制大工場の技術とそれを支える社会的技術基盤とのリンクという,冒頭に設定した問題に一定の回答を与えることができる.当初に予想したように,機械というものを軸にすることによって,たたら製鉄の木炭生産や輸送の場合にあらわれたような,社会学的ともいうべき強いリンクはあらわれない.かわって,技術と社会的基盤の関係は,関連産業,市場,交通,労働力の量と質,経営者の質といったどちらかといえば経済学的なタームで考察することが適切となってくる.これはある程度まではⅠの製鉄業でもみられたことであって,機械制大工業が旧来の社会的諸関係を解体しつつ,自らに適合的な生産諸関係を作りだしてゆく――それが西欧的発展では資本主義的諸関係であった――ことの反映である.このことは一般論としてはよく認識されてきたが,技術との関係ではあまり注目されてこなかった.技術はこの過程で中立的なものとみなされ,同じ機械はどこへもっていっても同じ効率で動くと考えるのが支配的な考え方であった.しかし,この考え方は技術移転論にとっては危険である.
 前節でみたように,機械に全面的に依存した技術も,適切な社会的技術基盤に支えられないかぎり,極めて低い効率でしか稼動しない.直接的にはそれは機械を操作し保守する労働者の熟練,材料と製品と操業方法の組合せ方に関する技術者の能力によって左右されるが,それ以外に,(1)機械工業を中心とする関連工業のひろがり,(2)交通の発達の度合と立地,(3)経営者と労働者の質またはそれらを包んでいる社会的文化が初期の紡績業における技術に大きな影響を与えている要素であることがこの概観で確認できる.これ以外にも市場の形成,金融制度などが大きな影響を与える要素であることが確認できるが,それらはあまりにも「経済学の領域」であるが故に考察からは除かれたのである.
 一般に産業の中で生産技術の形をとって展開する技術を論ずる場合,どこまでが技術の問題でありどこまでが経営と経済の問題であるかを区別することはきわめて困難である.しかし経済の領域で人びとが技術を問題にする場合,もっとも焦点をあてられる規準は,与えられた生産要素の組合せに対する産出量の大小である.また社会常識において人びとが技術を問題にする場合,規準となるのは産出された製品の品質であり,コストである.そのいずれの基準をとっても,最終的に測定される技術のレベルは,上にあげた三つの要素(更には除外された経済的な諸要素)をとおして大きく影響をうけている.そして結果として移転された洋式技術は,その母国におけるよりもはるかに低い効率でしか稼動していない.この関係に注目することが,技術移転論のポイントとなるであろう.
 この低下の割合はほんの少しというようなものではないことを強調しておきたい.前節で当時の平均水準で,紡機はイギリスの水準の40%のスピードで稼動していたとみなされることを示した.それ以外に鹿児島紡績にかぎらず他の工場でも水車動力に対する水量不足などで,動力系を原因とする設備停止は極めて多かったといわれている.その上機械故障,修理,調整などの停止もあり,一般に設備稼動率は極端に低かったことが指摘されている.この数値を推測できる資料は残されていないが,仮に稼動率60%とみても,すでに同一の設備がイギリスでフル稼動した時の4分の1の産出量しか日本ではあげられなかったことになる.
 設備についていた労働者数がまた問題である.鹿児島紡績の場合を例にとってみれば,プラット社の当初の設計では5,200錘に労働者82名の計算だったというから,実際には3,600錘でスタートしたこの工場は,イギリスでならば労働者数60名前後で稼動した工場だったと考えられる.ところが鹿児島では常時150―200人,最大時300人をもって稼動したというから,ひかえめに見ても,労働者数は3倍であったわけだ.前記の数字と組み合わせてみると労働生産性はイギリスの12分の1以下であった.前節で示した事実から推して,この数値は大阪紡績をのぞく,他のすべての初期工場を代表するものとしてよいだろう.このような低位の効率に加えて,ミュールでもって15番手以下の太糸しか紡げないという類の設備不効率,落綿の量の多さからくるコスト増,火災多発による大きな打撃などがあったわけだ.
 これらのすべてが,従来はひっくるめて救いようのない「技術のおくれ」を論ずる時の論拠とされてきたものであった.しかし,ここまでの分析の明らかにしてきたように,このような結果は,社会過程から中立的な単一のある「技術」のもたらしたものではなく,イギリスから移転された技術と,それをうけとめた,日本の社会的技術基盤のいくつかの要素が結びつくことによって生じた,一つの全体的なプロセスの結果なのである.この結びつきを構造的に分析し把握することが重要である.そうすることによってはじめて,同じ時期に出発しながら,一方で多くの工場が惨憺たる苦労をなめている時に,何故,大阪紡績のように,立地を慎重にえらび,あらかじめ経営者と基幹工の養成を周到に行い,其他さまざまな工夫をもって弱点を補った企業が成功することができたかを,またその成功に幕藩営工業以来の努力がどの程度に貢献していたかを,説得的に解明することができるのである.
 大阪紡績がその努力をどのように行ったかについては後の節で検討を加えるであろう.ただここに,前述の技術水準測定の指標のいくつかで同社がどの程度の値に達していたかを確認しておきたい.ミュールの回転数については,同社が操業開始後間もなく1分間4回転を目標にかかげていた事実がある27).これはつまり同社が1分間3回転はすでに突破していたことを示す.もし設備稼動率が大差ないところまできていたとすると,これは同社の設備がイギリスの70%程度のスピードで働いたことを示している.これが同社が固定資本負担を下げるため昼夜2交替を必要とした理由だが,2交替をとれば競争力を確保できる程度の数値であったこともまちがいない.労働者数では同社は1勤144人で1万錘を動かした28).1錘あたりでは鹿児島紡績の0.05人に比し0.0144人となりほぼ3.5分の1である.同社の第1回半季考課状はこの人数を,
 [之を器械の数に比すれば又甚だ過剰の数にあらざるなり]29)
と評しているから,先のプラットの設計例などとも照らし,イギリスの同規模工場にかなり近づいた数だと考えられる.してみると,日英の賃金較差はコスト的には大阪紡績にはるかに有利にはたらいたはずである.この段階で同社は,糸の品質面,とくに細糸を作る能力がない点で,イギリス糸と対等の競争力はとうていなかったが,太糸の歓迎される国内市場にかぎっていえば,競争できる条件が十分にあったことをこれらの数値は語っている.もちろん他の工場の数値はこれにははるかに遠かった.
 どのようにして大阪紡績がこの数値に近づくことができたかは後にみることにして,今はさしあたり,この前提となった社会的技術基盤の差,つまり,大阪紡績にはみたされていて他の初期工場にはみたされていなかったものを,前記三つの項目にそって整理してみることによって,前節以来の議論をしめくくっておきたい.
 その第1にあげなければならぬものは最低限の関連工業の存在,またはそれを形成する潜勢力の存在である.大阪紡績を皮切りとする大阪の紡績業の成長とほぼ並行して,ベルト,皮細工,木管などの関連工業,機械修理や部品工業が急速に形成されていった.またそれらの能力が十分でない時期には,例えば歯車其の他高度の技術を要するものについては,砲兵工厰や造幣寮などの官営工場に頼ることができた.これは東京に立地した鹿島紡は例外とするとしても,初期の他の工場には全くなかった条件である.他の工場の例をみても,周辺に最低限部品のコピイ製造ができる程度の機械加工能力をもたないことは,機械制工場の操業にとって致命的であることがわかる.明治初期の日本産業がこのような能力を,どのようにして作りあげたかについては,次節で検討することにしたい.この機械工業の能力については,もちろん高ければ高いほどのぞましいのであるが,次節でも検討するように紡機の生産が先行するまでの状態を要求することは空想的であろう.私の想像しうるぎりぎりの基準は,鹿島紡で行われた程度の機械の模作ができる能力であろう(紡機を1台何とか模作できるということと,それが生産できるということの間には天と地ほどの距離がある).模作の成功は機構がマスターされたこと,したがって整備や部品製造には十分以上の能力がたくわえられたことを意味する.日本の機械工業が何とかこのレベルに到達した時と,日本の機械制紡績業が発展を開始する時期とは一致することを次節で確認するであろう.私はこの一致を何より大切に思うのである.
 第2の交通と立地に関しては,交通は単に原料の輸送や製品の販売に重要なだけではなく,前節でみたようにこの時期,伝習の形態による技術移転の速度,必要な技術情報,技術サービスの入手まで大きく制約していたことを,くりかえし強調しておきたい.鉄道網のほとんど形成されていなかったこの時期であればこそ立地もまた決定的であった.大阪紡績の成功をきっかけとする明治20年代の爆発的発展を担う会社の大部分が,大阪またはその近辺に立地したことは偶然ではない.それとは対照的に2000錘紡績の多くはその立地をえらんだ時から経営の失敗は確定的だったといえる.そもそも彼らにははじめから,立地問題など存在しなかったのである.彼らを創業にかりたてた愛国主義は,愛郷主義と同一であって,彼らが産業を興すべき場所は自らの郷土以外にはなかったのである.それは遅れてきたものたちの工業化にありがちな悲劇であって,われわれはこのことをもう少し好意的にみるべきであろう.
 第3に,経営者と労働者の質とそれを包む文化の問題がくる.多くの工場でみられた,封建的あるいは経世家的経営,君臣的労資関係,農民的労働規律は,機械制工場の操業技術になじむものではなかった.しかしこれらは,むしろ全体を包む社会的文化の中から生れたものであって,そこから機械制大工場の経営に通じた経営者,機械の「成規」にしたがうことになれた労働者が育ってくるまでには,長い時間が要った.紡績工場での労働の経験までもち,紡績技術に通じた経営者の下に,紡機の運転と原理についてよく訓練された山辺以下5名の幹部による上からの指導という大阪紡績の管理体制は,このような過渡期をのりきる,もっとも適切な体制であったかもしれない.
 こうした事実の意味については後ほど検討するであろう.今はまず,第1の項目,それも私の最も重要と考える機械工業の能力について,それが幕末から明治初期へかけての日本で,どのように形成されたかを追ってみよう.
 (4) 明治初期の機械工作技術の形成
 幕末から明治初期へかけての機械工作技術の発展史については,大きな研究上の空白がある.ここまで明らかにしてきた方法によって,明治20年代以降の紡績業の爆発的展開を支えた機械工業の技術的基礎の形成史をたどろうとしても,手がかりとなる研究はほとんど存在しない.資料の保存も限られている.したがって,われわれは,限られたわずかな資料を,1から再構成しなおす以外に全く方法はないことになる.
 何故このようになったかについては,Ⅰでも強調したように,従来の日本の歴史学の独特の史観の責任を,ここでもくりかえさなくてはならない.従来の歴史研究の中には産業のヨーロッパ的発展段階を,「世界史の発展段階」として絶対化する傾向に重なって,ヨーロッパの産業技術の「平和的形成」についての独特の思いこみが存在した.つまり「機械」を作る技術はヨーロッパでは,紡機や織機だとか鉱山の揚水機械だとか,非軍事的部門で発展し,後に軍事部門に転用されたという思いこみである.これはあくまでも思いこみであって,例えば中ぐり加工の技術やボーリング・マシンの発達は,むしろ大砲の砲身仕上げと結びついて発達し,その技術の先行してあったことが,蒸気機関のシリンダー加工に幸いしたとか,今日用いられている機械の大量生産方式の確立過程において,軍工厰における加工方式の経験がきわめて重要な役割を果しているとか,今日の技術史では常識となっている事実が,この考え方の中では無視されているのである.
 この考え方が,日本の機械工業の形成史のとらえ方をいくつかの点で偏ったものにしてきたことを指摘しておかねばならない.その最大のものは,ある技術が軍事目的であるということを指摘しただけで,その技術が民間産業の基盤となる可能性が否定されたように考えられる傾向である.例えば,幕藩営工業が軍事目的であったというだけで,それがその後の民間産業の発展に果した役割の可能性が否定されることになる.幕末に存在した洋式機械工業の可能性は,ほぼ長崎製鉄所,横須賀製鉄所と横浜製鉄所,佐賀藩製錬方,鹿児島の集成館などをあげることができる.長崎製鉄所の機械工場部分は大阪砲兵工厰に,造船部門は払い下げによって三菱造船所に,横須賀と横浜は海軍工厰に,集成館は陸軍の大砲製造所に,佐賀藩の機械は工部省赤羽工作分局の出発の基礎になったが,工部省解散後は海軍省の所管に,という推移をたどってみれば,たしかにこれらの流れが,大部分はその後の日本の兵器製造技術の基礎となったことはほぼまちがいない.しかしそのことは決して,ここから流れでた技術が日本の民間産業を支えた可能性を否定しないのである.
 大橋周治が『幕末明治製鉄史』の補遺として明らかにした大分県安心院および福岡県博多の反射炉の研究は30),この角度から注目すべきであろう.前者は島原藩,後者は福岡藩の事業であるが,いずれも民間の鋳物業者が主体であり特に前者にその自立性が強い.このことは佐賀藩の反射炉とほぼ並行して,伝統的な民間鋳物師による自立的な洋式鋳砲事業の流れがはじまっており,安心院の技術者が鳥取の反射炉の建設を指導していることからみられるように,民間事業の方が技術の交流や職人の移動による技術移転の速度は速いことを示唆している.同時に,反射炉築造には至らなかったまでも土佐や津でも同様の動きがあったこと,それらも同様に伝統的な鉄砲鍛冶職人や鋳物師を動員して行われたことは,幕末の反射炉事業が表面にあらわれた反射炉の数から想像されるより,はるかに規模の大きい全国的な運動であり,それらは伝統的な鍛冶職人と鋳物師を動員する形で行われたことを教えている.それらは伝統的技術を単なる火縄銃製造,単なる鍋釜鋳造の段階から飛躍させる大きな刺戟をなしたはずである.こうした動きのもっとも縁辺にあった例と思われる津のような場所に残されているおびただしい図面の数は,影響の大きさを証拠づけている.博多の鋳物師礒野氏が,長崎製鉄所における伝習によって,洋式鋳造法の訓練をうけていることなども見のがせない.反射炉事業が失敗に終り藩は解散しても,これらの鋳物師の身につけた技術は残ったのである.とくに維新期の社会変動の中でこれらの職人の移動によってひきおこされた技術移転の効果は,今となっては確認しようもないが,例えば造船業で幕府造船所の職人が各地で果した役割の大きさに照らしてみても31),従来考えられていたよりはるかに大きかったのではあるまいか.
 両角宗和が,川口の鋳物業を例にとって幕末鋳砲事業と,明治期の鋳物産業の関連を追っている研究が,その一つの裏付けとなる.それによれば,水戸藩の鋳砲事業に参加した川口の鋳物師増田安治郎は,その後各藩を相手に213門の大砲を鋳造して巨萬の富をえたが,うち9門は鉄製砲であったという32).つまり伝統的な鋳物師が藩営事業に参加することによって洋式の技術を学び,従来作ることのできなかった鉄製砲の製作技術をえたのである.この溶鉄装置は反射炉ではなく,伝統的なこしき炉を改良したものらしいから,大島の高炉と同じく鋳物技術は和洋混血であったとみなせる.更に川口の鋳物業には洋式の生型鋳造法が慶応年間に入っているが,これは横浜製鉄所からの技術移転であったという.生型法普及に功のあった永瀬庄吉は,赤羽分局の蒸気機関を模して蒸気機関を自作し,自己の工場の送風改善までしている33).このように川口の鋳物業は,幕藩営事業の技術を,自己の伝統的鋳造技術を基盤に,次々と摂取して革新をとげ,幕藩営事業を上まわる利潤をあげ,成長しているのである.永瀬の例は明治初期の川口の鋳物技術が,機械製作可能なところまできていたことを証拠だてるものとすることができる.私は前節で,鹿島万平が1878,79(明治11,12)年頃,小型の精紡機の模作に成功した時,鋳物部品を提供したのは川口の鋳物業者であることを指摘したが,その技術の背景にあったのは単なる伝統的な鍋釜製造の技術ではなく,洋式技術の影響によって革新された伝統技術であり,その影響を提供したのは,幕藩営事業からの技術移転だったのである.
 従来の経済史研究でこの鋳造技術の確立過程に,あまり大きな評価が与えられてこなかったのは,マルクスの機械を作る機械という表現にひきずられて,機械製作技術が工作機械による切削加工を軸に理解されており,初期の機械製作における鋳造の重要性が,必ずしも正当に理解されていなかったのではあるまいか.ワットの有名なソーホー工場が,英語ではFoundry(鋳造所)と表現されていることからも見られるとおり,初期の機械は製作過程の大部分を鋳造に,ごく一部を鍛造と切削仕上げに頼っていた.歯車でさえも鋳造し,ハンマーとたがねとやすりで仕上げを行うのが通常の方法だった.西欧では1890(明治23)年頃まで鋳鉄製の歯車が普通だったという.歯車の切削加工が行われるようになるのは,強度上の要求から鋼への転換が行われ,鋼は冷却過程の収縮が大きいため鋳物ではうまく作れないことが経験された後である34).明治時代の前半は,西欧でさえも歯車の切削加工はめずらしい時代だったのである.
 したがって明治前半頃の機械製作技術の基本は,図面にしたがって正確な木型を作る技術,木型から生型をとって質のよい鋳物を作る技術が核心であり,あとはたがねとやすりを使って仕上げる職人的手作業が主で,ごく補助的に若干の旋盤や中ぐり盤,プレーナーなどによる加工が加わったものであり,かなり手工業的熟練に依存したものだと考えてよい35).このことを裏付ける絶好の資料は,安永義章による「赤羽工作分局製紡績機械」である36).この論文は1880(明治)13年5月,工部大学校を卒業して赤羽工作分局に就官したばかりの安永が,同級生の坂湛と共にいきなり紡績機械を作ることを命ぜられ,1883(明治16)年2月までかかって苦心惨憺ようやく完成するまでの報告であり,初期の機械工業の状況をつたえる貴重な記録であるが,部品は安永らが愛知紡績所のミュールをコピーして作った図面によって,一つ一つ鋳物で作られており,それをたがねとやすりで仕上げてゆく方法がとられている.時あたかも,工部省釜石製鉄所が火入れしたところであり,製作は釜石銑を用いて行われたが,これが極めて硬く,
 [鑢はのらず鑿は弾却し毎に工人の殆んど涙を滴るる所なり]37)
という有様であった.安永は素材を柔らかい輸入銑に変えようとして,分局長の和田義比にたびたび嘆願するが,予算上の理由からなかなか許可されない.最後には安永は視察にきた工部卿の眼前で自らたがねをとって実演し,その硬さを示して直訴に及んでいる.
 こうしたすべてが,初期の機械製作の状況と困難の所在をまざまざと語っている.この安永の文章は,従来はもっぱら,完成した紡機の費用が同型の輸入紡機の2倍かかったことから,日本の機械工作技術の水準の低さを示し,作業機製作もままならない段階で産業革命に突入した国の,「技術の歪み」を語るための素材としてしか利用されていないのだが,このような利用の仕方は決定的に誤っていることを強調したい.ミュール紡機のような機械の中の機械を,たとえ政府工場にせよこの段階の日本の機械工業が満足に作れる可能性があるという想定に立って議論することが誤りなのである.作られた紡機は下野紡績に払い下げられて,輸入紡機のほぼ半分の効率ではあるが順調に稼動したという.そのことをもって予想外の成功とみるべきだろう.ここまでに確立してきた基準にしたがえば,1881,82(明治14,15)年,すなわち日本の紡績業が発展を開始する直前,少なくとも政府工場は,紡機の模作の能力がそこそこにあったこと,したがって部品製作や機械修理あるいは機械を最適に維持管理できる能力をもつには十分な程度まで,機械工作技術が高まっていたことを,安永の文章は証明している.その点に着目することが大切なのである.安永の嘆きは鋳物の品質にも,工人の熟練にも向けられていない.ひたすら釜石銑の硬さ,それが工数を増大させ工費を嵩ませるにもかかわらず,柔らかい銑が自由に使えないことに向けられている.加工の目的使用の目的に応じて素材を自由に使いわけるという,機械工場には当然の初歩的条件が,彼には与えられていなかった.彼にとって最大の困難はそこにあった.その初歩的条件の実現を彼にはばんでいたものは,発展途上の国の工業化予算の枯渇と,国内鉄鋼業の未発達なのであって,決して「技術のおくれ」でも「技術の歪み」でもなかったのである.
 政府工場の技術水準を測定するもう一つの例は,2000錘紡績の多くに用いられた水車の製作である.水車といってもこれはタービンであったことに注意しなければならない.タービン水車の加工はかなりな技術レベルを要する.石河正竜は愛知紡績所に設置する30馬力フルネイロン型タービンの製作について記録を残しているが,図面をみせて何人かの工人に相談してみるが話にならず,困っている時,昔鹿児島時代に石河がタービン水車の製作をさせた工人が,今横須賀造船所にいることを思いだす.そこで松方内務卿をわずらわして横須賀造船所にその工人をたずね,図面をみせて相談すると彼は,
 [已に一たびこれを工作し,その轉状効用もまたこれを見たり,工作し能ふべし]
と答えてくれた.そこで1880(明治13)年7月,正式に官に工作を願い出,彼の作った木型の検査にも立ち会った上,注鋳,仕上げ加工も終って検収しているのは11月,約4カ月と10日後である.たいへん順調な仕上がりであり,品物のできばえについては,
 [無缺完成せり,又試みに手を以てこれを旋らすに,輕々旋りて,且つ不均なし]
と彼は書いている38).この程度の検査で精度を云々することはできないが,この水力タービンが愛知紡績で順調に原動機として稼動したこと,またその実績で,その後の2000錘紡績の水力タービンの多くが横須賀造船所で作られたことは,自ずとこのタービンが機械として満足なものであったことを物語っている.
 こうして石河の記録は,1880(明治13)年の官営工場が,30馬力水力タービン程度の設備を4ヵ月の工期で作ることができるほどの能力をもっていたことを示すと同時に,この場合,その技術は薩摩の集成館からの技術移転でえられたことを示す資料となりえている.また角度を変えていえば,この文章は,石河正竜が堺紡績に移る以前,すなわち1868(明治元)年11月以前に,集成館ではタービン水車を鋳造する試みがあり,しかもそれは成功していたことを教えている.つまりそれは集成館の機械加工技術が,意外に高いものであったことを示唆しているといってよい.
 (2)でわれわれは初期の紡績工場の操業上の困難を概観し,2000錘紡績の多くの操業実態とくらべると,鹿児島紡績がそれらより20年近く前に操業を開始しながら,30年間ともかくも,運転を続けえたことは特異であることを指摘した.またその前の節ではわれわれは,鹿児島紡績と鹿島紡績の設備を比較しつつ,鹿島紡の設備がどちらかといえば当時の日本の技術水準に対して適合的であるのに対し,鹿児島紡の設備は,維新期の条件の下で,しかも外国人技師の逃げたあとも,この設備を運転できたことは奇蹟に近いほどのものであったことを示した.こうしたいずれもが,鹿児島紡績の場合は,集成館の機械技術に支えられたからこそ,何とか運転ができたのであったことを示唆している.この論文の作成に当って,私は集成館における機械工作水準を実証する資料をできるかぎり探してみたのであるが,どうやら今となってはそれを手に入れることは不可能であるらしいことを知った.石河の一文でそれを傍証するしかないことは実に残念である.
 こうした資料的困難はこの時期の機械工業の研究の宿命であろう.しかしここまで検討してきたように,乏しい資料をつなぎ合わせても明瞭にいえることは,1877-82(明治10-15)年頃の日本の機械工業は,官営工場を頂点に,そこからの技術移転の可能な民間工場,更に川口のような伝統的な鋳物業地帯などで,蒸気機関の製作や模作,紡機の模作,かなり複雑で精密な部品の鋳造,歯車製造などが可能な段階に達していた.そしてそれは明治になってからの変化の結果ではなく,むしろ日本の伝統的な鍛冶鋳物技術が,幕藩営工業以来の洋式技術移転をうけて形成したひろがりだととらえるべきだということである.もちろん,最高度の技術は官営軍需工場に集中していた.しかし明治前期の軍需工場は大阪砲兵工厰が水道鉄管製造を行ったことにもみられるように,民需に全然無縁な存在ではなかったことを忘れてはならない.民間工場は基本的には民間機械工業に頼りつつ,高度な技術の必要な時には官営工場に願い出て頼ることができた.前節でのべた大阪紡績が歯車類は砲兵工厰に願書を出して製作してもらったというのは好例である.つまり,前節末に定式化したうちの第1項目,最低限の関連工業の存在という点に関する限り,1877―82(明治10―15)年ごろに日本はこの条件をみたしていたといえるのである.
 これらの関連工業形成の潜在能力は日本全国にまんべんなくひろがって存在したのではなく,技術移転の中心となりうる官営工場の存在,伝統的鋳造能力の存在,維新の社会変動にともなう熟練工の移動経路などにも左右されて,明治初年には限られた地域に,ごくわずかのひろがりでしか存在しなかった.官営工場の集中していた東京・横浜の周辺,明治初年には停滞の極にあったとはいえ伝統的鋳物業の先進地帯であり,かつ造幣寮と砲兵工厰をもっていた大阪,幕藩営工業の先進地でありかつ長崎製鉄所をもっていた北九州,それに少し孤立してレベルは落ちるが集成館のあった鹿児島等が,わずかな可能性の所在地として指摘できる.この最後のものは鹿児島紡績が30年間まがりなりに運転された基盤として働いたが,地理的条件からも,維新後の社会的・政治的条件からも,それ以上の発展はありえなかった.残された三つのひろがりの中から,大阪が明治20年代の機械制綿業の爆発的発展の中心地として浮かび上がってくるのはもちろん,市場その他さまざまな経済的・社会的条件が重なってのことである.ここで行っている社会的技術基盤の検討は,発展の十分条件の検討ではなく必要条件の検討にすぎない.ここでは必要条件の第1項目が,明治10年代の初めごろ少なくとも三つの地域では辛うじてみたされていたこと,しかし他の地域ではみたされていなかったことをみたのである.
 この必要条件の第1項目をみたしていないことが,どれだけ機械制工場の操業を困難にするかは,前節で概観した2000錘紡績の技術的困難をふりかえってみると納得ゆくであろう.同じ明治10年代に出発した大阪紡績と彼らのその後を分かった対照的な明暗は,やはり第1にこの条件がみたされているかいないかにあったと思われるのである.
 しかし,この条件以上のものが必要であったとする意見についてはどうであろうか.つまり私は,あくまで工場の円滑な操業のための装置の保守・修理の能力に基準をおいて,部品の製造能力,最大限で装置の模作能力という所に一つの基準線を引いたのだが,従来はその辺で紡績業のはじまったことが,後々までの日本の「技術体系の歪み」をもたらしたので,紡績業を牽引車とする日本的産業革命に先行して,もっと機械工業の発展が必要であったとする説が有力であった.これらの説では必ずしも明示的には主張されていないが,例えば私の基準にかえて,紡機の国産化が関連機械工業技術の必要条件になることになるであろう.
 こうした意見は,後発国の工業化における資本財工業の形成の困難性を過少に評価している点でうけ入れ難いものである.後発国の技術移転の中で最も困難な課題が資本財産業の形成にあることは,例えばローゼンバーグ(Rosen-berg,N.)などにより早くから指摘されてきた39).このことは産業と市場の関係を考えに入れると簡単に説明できる.機械工業の発展のためには機械の市場が必要であるが,それは機械を使用する工場の先行的発展がなければ形成されない.おくれて出発する国の機械工業は,相対的にせまい国内の機械の市場で,圧倒的に進んだ先進国の機械工業と競争しつつ発展せねばならない.そこへ下手な保護措置をもちこむと,機械を使用する国内産業の技術進歩を阻害することになるから,通常それは比較的低位の技術の許容される市場だけに頼りながら,徐々に前進するより他ないのである.大阪における紡績関連産業の形成をみても,最初ベルト,木管など,比較的手工業的技術で可能な部品と,歯車,プーリーなど単純な機械部品の製作から始まり,スピンドルなど専門部品製造と簡単な機械の製造へ進み,精紡機やカード機の国産化が確立するのは大正も後半に入ってからである.しかしこの順序は後発国の機械工業の形成順序としてはまことに自然であり,発展のスピードはむしろ早かったというべきであろう.この発展の速度は輸入紡機にもとづく紡績業の圧倒的発展が先行して,機械修理や交換部品の国内市場が急速に拡大したからこそありえたのである.こうした市場の発生した時,その要求に応えうる最低限の機械加工の潜在能力を私は「必要条件」としたのである.
 こうした機械加工の潜在能力,機械の市場,機械工業の発展の間の相互関係のダイナミックスをつきとめることは,後発国の資本財産業形成問題に対する貴重な寄与となると思われるが,これまであまり試みられてはこなかった.次節では,初期の紡績業を語る場合欠くことのできないテーマであるガラ紡の役割を手がかりにして,この問題に挑戦してみよう.
 (5) 木工技術の役割――ガラ紡と小幅織機――
 1877(明治10)年に東京の内国勧業博覧会に出品され金賞をえた,臥雲辰致発明の紡績機械――いわゆるガラ紡機は,当時特許による発明の保護のなかったこともあって,主として模倣をとおして急速に普及し,1887(明治20)年頃まで在来綿業を維持する主役となった.ガラ紡の役割と意味については,さまざまな議論がありうるが,圧倒的に品質のすぐれた外国綿製品の自由な流入という状況の下で,急速に衰滞に向かいかけた在来綿業をたてなおし,一時期にせよ洋式綿業と在来綿業との対抗的同時成長という状況をつくりだしたということは,「技術移転論」の立場からは,見のがすことのできない特異な事件である.
 発明としてのガラ紡を,機構的独創性の点から評価することはあまり意味あるとは思えない.発明家の発想はどのように独創をめざそうと,既存の機構から出発して構想されるのであって,明治初期のように伝統的紡機といえば手まわし紡車しかないところで,多少とも機械らしき紡績用具を発明しようとすれば,発想の源泉は洋式機構の模倣以外になかったとしても,それはごく当然であって,それをこえる独創を期待することが非現実的であろう.臥雲の発明物語によれば,発明は1855(安政2)年にさかのぼるのであるが,廻転円筒につめた綿を直接撚りをかけつつひきだしていくという機構原理そのものは,仮に彼のいうとおり火吹竹からえられたアイデアとしても,明治初年にそれを機械としてまとめ上げてゆく過程は,当時すでに彼の目にふれうるものになっていた洋式機械からさまざまなものを借りなければ不可能だったはずだ.
第5図 1877(明治10)年,内国勧業博出品解説にあらわれたガラ紡機
少なくとも第5図のように綿筒を立てた形で2例に並べて廻転させつつ上部の糸巻でまきとっていき,その機構を一つのフレームの中にまとめる形式は,洋式粗紡機とそっくりであり,影響は自ずと明らかである.しかし,発想がどこからえられたとしても,機構が伝統的な木製機構技術と完全に調和的に作られているところに,この発明の独自性があったといえよう.
 ガラ紡に関して,もっとも注目すべき特徴はその普及の速度である.楫西光速の記述を借りて述べると,
 [すでに博覧会場において数十機が購求されたのをはじめとして,模造されるもの多く,明治十三年には,「今ヤ此器ヲ設置シテ専ラ営業スルモノヲ算シ来レバ,東京府下ノミニシテスラ,少クトモ百五十ケ所ヲ下ラズ」といわれ,河内・泉州地方にも数十名の経営者が輩出した.明治十八年には五品共進会に「臥雲糸」を出品するもの二府十一県(京都・大阪・神奈川・新潟・三重・静岡・山梨・岡山・山口・佐賀・宮崎・茨城・愛知)に及んだ……]40)
ここに名をあげられていない県,例えば奈良県などでも,1880(明治13)年から1882(明治15)年頃ガラ紡の爆発的展開のあったことが,動力用水車の台数の増加を基礎に,末尾至行によってたしかめられている41).だから,このガラ紡の流行はほぼ旧来の綿業地の全体を覆った現象であったことがわかるのである.中でも展開の中心となり生産の大部分が集中し,後々までガラ紡生産地として有名になったのは三河地方である.三河のガラ紡の最盛期1887(明治20)年に,紡績組合員数483,錘数131,530という数字は42),一地方におけるたった10年間の成長の結果として見る時,驚くべきものである.
 驚くべき早さは,しかし,普及と発展の速度だけではない.この紡機自体が改良され応用を拡大してゆく早さもみごとであった.4年後の第2回内国博に出品された機械では,臥雲は,伝動機構の一部をローラーの摩擦によるものから歯車装置にかえ,糸ムラの除去や糸切れをつなぐ作業をやりやすくするために,相当な改造を行っている.この改良が,装置を使いやすいものにすると同時に生産性をあげる方向への改善であったことに注意をひいておきたい.臥雲式紡機はすでに,成熟した生産技術の常道である「技術進歩」を開始しているのである.生産性をあらわすもっとも重要な指標の一つである錘数について見ても,1877(明治10)年の博覧会に当初出品された機械は第5図のごとく手まわしで,22錘であったが,1879(明治12)年には水車を動力として100錘のものがあらわれ,水車動力の採用以後は錘数200―300のものが普通になっていく.更に1889(明治22)年には中野清六による綿筒廻転速度調節機の発明が行われ,更に効率的大型化が可能になり,三河地方では1台480―512錘が適正値となった43).これは当時のミュールに匹敵する数字である.発展は動力の応用形態についてもあった.水車動力は水路の構築による地理的制約,水量の変動による制約など制約の極めて多いものである.その制約をこえるために船に水車をとりつけ,船中に紡機を設置し水量豊富な場所につなぐ舟紡績が三河地方に発達した.これもガラ紡の「技術進歩」の重要な一つの側面である.
 こうした急速な改良,付随する発明の誕生,錘数の成長(機械から装置への成長),動力化,生産形態のバリエーションの発生,といったすべてが,ここでのべている「技術進歩」が社会的な規模の現象であったことを物語っている.
それはシュムペーター的な意味の「技術革新」とその普及ということにあてはまる現象であり,もう少し正確にいえば,伝統的産業の中にひきおこされたイノベーションであったのである.ここにおける変化のダイナミックさは,同時代の洋式紡績の静的状況とあまりにも対照的である.鹿児島紡績の設備は1867(慶応3)年設置以来30年間,1896(明治29)年にリング1,152錘の新規購入されるまで,設備更新も拡張もなく,ただ少しずつ休台・休錘をふやしていくだけだったし,ガラ紡とちょうど並行的に発展していった2000錘紡績の場合も,設備の改良どころか,維持・保守すら思うにまかせず,荒廃をとめることはできなかった状況は(2)で詳しく見た.この対照を描写するには,むしろ生態学的比喩を用いるのが適切かもしれない.外国から移植された2000錘紡績は,その成長に適した土壌を見出すことができず,周辺の環境への不適応からやせほそりつつ死滅に向かっていっているまさにその時に,洋式技術の刺戟によって伝統技術の中に突然変異的に生みだされたガラ紡は,まさにその在来土壌への適応性と在来技術よりも圧倒的に高い生産性とを二重の強みとして,異常増殖をとげ,さまざまな変種を生みながら,在来綿業地帯にあっというまにひろがったのである.
 何故このような差が生じ得たかを,ガラ紡の機械としての性質と,それを支える社会的技術基盤の関係という角度から,検討してみよう.機械を,動力部,動力伝達機構,作業機部分という三部分にわけるマルクス的見地は,ガラ紡の検討にはたいへん有効である.まず動力についてはガラ紡は手動から水車へとすすんだのであり,この移行を支える社会的基盤があったことについてはⅠですでに確認したとおりである.動力伝達機構については,ガラ紡は木製歯車のかみ合わせと,木製廻転軸からの摩擦またはロープによる伝導を用いている.この後者は洋式紡機のチンローラーからロープという形式と同じであり,こうしたところにも,洋式からの模倣性をみてとることができる.全体としての技術問題は,強度のある,廻転による摩耗に強い材料の発見とその加工問題につきる.樫などの堅木を用いて歯車を製作したり,動力伝達機構を作る技術は主として水車と結びついて発達したもので,この面でも江戸時代後半以降の水車技術の発展は,十分な社会的ひろがりと深みを準備していたといえる.
 第3に作業機部分である.この部分は第6図にも見られるとおり,糸のまきとり,綿筒に廻転を与える機構,糸が太くなりすぎた時綿筒をもち上げ廻転をとめる機構,などからなっている.
第6図 ガラ紡の作業機部分
綿筒はブリキ製であり,当時輸入をとおして容易に手に入るようになったブリキを,手で加工して誰でも作れるものである.他の廻転の制御や連動に関しても,伝統的製糸技術における座繰機や八丁車,織物における木製織機程度の技術で丁度対応できるものである.最後にこれが機械としてまとまるためには,全体が一つのフレームの中に機構としての相互連関をうまく保ちつつ,収められる必要がある.このフレームに関しては木で十分であった.またフレームの中にうまくまとめ上げることは,織機程度の技術を基礎に,洋式紡機を参考にすれば十分可能であったはずである.つまり,ガラ紡を製作する技術は,従来の水車大工と機大工を合わせれば十分であり,それに素材としてのブリキと,洋式の機構についての若干の慣れが加われば完壁だったといえる.ブリキをのぞけば在来の綿業・機業地帯でありさえすれば,江戸時代末にほぼ成熟していた条件であった.ガラ紡の爆発的展開を支えたのはこのよく準備された木製機構の社会的技術基盤である.洋式鉄製機構の場合,部品の鋳物による模作すら,貧乏国の政府予算を集中的につぎ込んで,外国技術を導入して作られた官営工場と,それをとりまくせまい地域の,ほんのひとにぎりの業者にしかできなかったのとはわけがちがうのである.
 ガラ紡が日本の綿業の発展に果した役割については,従来多くの議論があったわりには,説得的な見解は存在していない.その展開があまり爆発的であったからどの研究者も注目をせざるをえなかった.しかしそれが1887(明治20)年頃頂点に達した後,洋式紡績にとって代わられるスピードもまた早かった.糸むらが多く切れやすいガラ紡糸は品質的に機械紡糸と対抗できなかったからである.ガラ紡と洋式紡績を対等の立場で比較することはできない.洋式紡績は,何段もの前紡工程でたんねんに繊維をそろえた上で粗紡糸を作り,最後にその粗紡糸にドラフトをかけながら精紡してゆくのに対して,ガラ紡は綿からいきなり紡いでゆくのである.それは原理からみれば手紡の多軸機械化なのであり,洋式紡績とは全く異なった原理に立つものであった.したがって,それが洋式紡績と同じように均質で整一で撚りが強く,引張りに対してよく耐える糸を産出することは原理的に不可能であったのである.この点をきびしく見ておくことが,従来の見解には欠けているような気がする.
 従来の研究者はこの点の関係を,洋糸の品質的優位,ガラ紡の劣位というふうに理解しているが,明治10年代にはまだ日本の織布業者に,糸の優劣を判定する基準は確立せず,むしろ手紡糸に近い糸の方が好まれる傾向のあったことは,注意しなければならない.例えば三重紡績の伊藤伝七にふれて,絹川太一は書いている.
 [需要家の方でも当時は綿絲の善悪を判別することが出来ない時節で,簇のある絲は凹凸が多いから強い,平均の絲は弱いと一般に稱して居つた.十世伝七氏は滑かな絲が安くて簇のある絲が高いといふ訳は分らないと,酒を飲むたび毎に絲屋をつかまえて言ふて居つた.]44)
 他に糸の注文には見本を送ってそれと同じ糸を送れという話,三重紡では同じものができないのでガラ紡糸を送ったら先方はそれで満足していたという逸話も紹介されている.輸入洋糸,国内機械糸,手紡糸,ガラ紡糸が,明治10年代にはどのような状況で市場競争をしていたかをうかがわせる,絶好の例である.
 だから,商品の市場における競争という観点からいえば,1887(明治20)年頃までのガラ紡の爆発的な展開は,その頃まで日本の織布業界に,手紡糸またはそれに性質の似た糸を求める傾向が,どれほど強く残っていたかを物語っているといえよう.裏がえしていえば1887(明治20)年以降のガラ紡の急速な衰退は,この頃から織布業の中に機械紡績糸を全面的に用いた織り方が支配的になってゆくこと,機械糸を優位におく品質基準が確立してゆくこと,を意味している.つまり,ガラ紡の適切な評価はそれを単一の技術としてみることではなく,織布業も含めた在来綿業全体がこの時期にとげつつあった変化の全体の中においてみる時,はじめて与えられることになる.そしてそのようにとらえる時,紡糸部門のガラ紡のみならず,織布部門の織機においても,木製機構技術はなみなみならぬ力量を発揮していること,事態は在来綿業全体の中で,洋式技術のインパクトに対抗しておこった一連の技術革新であった,と考える必要があることがわかるのである.
 幕末開港と同時にはじまった在来綿業の急激な変化については,従来からあらゆる論者の強調するところであったが,それらの強調点の多くは,手紡糸の衰退,輸入綿製品の圧迫による在来綿業地帯の解体等,否定的な面であって,在来綿業の活力をもった急速な発展ととらえ,その工業化に果した役割を積極的に評価する意見はむしろ少数であったようにみえる.しかし,そうした少数の意見の中には,われわれの視点にとっては重要な示唆を与えるものがいくつか存在する.例えば織布業の先行的発展が,洋式紡績業に対して市場を準備したことに注目する中安定子の見解は重要である45).また開港以来の輸入綿製品の圧力と国内綿業の対応を克明にたどった中村哲の研究も,私は若干意見を異にする点はあるが貴重である46).ここでは中村の研究に頼りつつ,私の意見を加えながら,ごく簡単に綿業の変化を眺めてみたい.
第6表 幕末・明治の織布生産の成長 
 まず注目すべきことは,在来織物業の急激な成長である.第6表はその状況を雄弁につたえている.中村哲はその成長の始点を維新の内乱が終結し,国内が安定に向かった1870(明治3)年頃においているが,成長の根拠となった技術変化そのものはそれ以前に生じていることは確実であり,アメリカ南北戦争(1862―65〈文久2―慶応元〉年)のインパクトに遠因を求める石井寛治の意見が示唆的である.南北戦争によって生じた世界的棉花不足のため,開港直後に国内棉の大量輸出がおこり国内織物業は深刻な原糸不足になった.これは在来織物業に大打撃を与えた反面,輸入綿糸の使用を強制する効果をもち,この時期に在来織布部門がやむをえず輸入糸を利用する経験をもったことが,後の変化の基盤を作ったのである47).
 このことと,明治前期の変化の局地的性格とを結びつけてみると,この時期に成立した技術的変化の輪郭が浮かび上がってくる.中村の分析の中の最も示唆的な部分は,1887(明治20)年頃までの時期の織物業の成長が,一部の地域の急激な成長とそれ以外の地域の在来織物業の没落という,再編過程であったことを明らかにしている点である48).急激な成長をとげた地域とは,大阪,愛知,奈良,栃木の4府県であって,この4府県のみで1887(明治20)年の全国産額の6割近くを占めていることは,この時期までの成長がこれらの地方に牽引されたものであることを示している.これらの地方で輸入綿糸がどのような用いられ方をしたかを見ればよいのである.
 これらの地方で輸入綿糸は主として交織に用いられた.足利(栃木)の織物業の急速な成長が高番手輸入綿糸の絹に近い感触を利用した,絹との交織によることはこれまでもさまざまな人に強調されてきた.しかし他の地方の交織形態はもっと重要である.泉州,大和,知多などの初期の発展は,いわゆる半唐物――経糸に輸入糸,緯糸に手紡糸を用いる交織――と結びついていることが,従来から報告されているが49),ガラ紡糸もその発展の初期は,経糸に紡績糸,緯糸にガラ紡糸を用いる織り方でのびたことに注目しなければならない.経糸に洋糸すなわち紡績糸を利用する理由は何であったろうか.
 従来の研究は,洋糸の使用の理由をその安価であることと高品質であることとに求めている.とくにその高品質は糸の均質性・斉一性に結びつけられている50).だが,この洋糸の斉一性・均質性は,すでにのべたように少なくとも当時の消費者にとっては高品質のしるしではなかった.
第7図 地機
川勝平太が主張するように当時の消費者にとっては,厚手のごわごわした手紡の肌ざわりが基準であって,洋糸使用布は安物とみなされていた数々の証拠がある51).織布業者も消費者も手紡糸を基礎にした伝統的な基準から,ゆっくりと時間をかけて転換していったのであり,第1段階でおこった変化が一方では消費者の保守的好みに合せて,緯糸に手紡糸を用いて手紡の感触を残し,他方では洋糸を経糸に用いてその生産上の利点を生かすというやり方であったことは納得ゆくことである.しかし洋糸を経糸に用いる生産上の利点は安価さだけであったろうか.
 それは同時期に進行した地機から高機への移行と密接に関連しているように思える.織機の生産性の問題は常に経糸にかかる張力の問題と不即不離の関係にあるが,とくに地機の場合は第7図が明瞭に示しているように布巻は織機とは分離している。
第8図 高機
この布巻は織手の体に巻きつけて織手の体で引っぱることで経糸をピンと張るのである.だから張力は織手が体を傾けて微妙な調節を加えることができる.これが手紡糸のように糸ムラがあり張力に弱い糸を織るのに地機が適していた理由である.これに対し第8図にみられるように,高機はほぼ完成した機械であり布巻は機構化されて,張力は機構的に与えられる.筬打の衝撃もじかに伝わる.したがって経糸は強く斉一であることがのぞましいし,強いほど筬打の速度もあげられる.江戸時代中期まで高機はすなわち絹機であり,木綿織には使用されなかったのは,弾力もあり引張りに強い絹だけがこの経糸条件に合致していたからである.18世紀末ごろから高機は,先進機業地の木綿織に入りはじめるが,その時もこの経糸の張力の問題を解決するために,織機の長さをちぢめる工夫が必要であり,また織る前準備として手紡糸の選別が必要であった.この選別の核心は経糸に適した良質で丈夫な糸をよりわけることにあり,もっとも熟練した織手がこれに当ったといわれる.この手続きは生産の大きな制約条件であり,この手続きを経た上でも手紡糸の弱さはなお高機の生産性を実力以下に低めていたことは容易に想像される.斉一で引張りに強い洋糸の経糸としての利用が,この経糸の問題を一挙に解決したと推定してよいだろう.
 中村哲は,信夫清三郎によって引用された農商務省の『明治十三年商況年報』の文章を再引用している.
 [内地ノ需用者亦談偶々唐糸ニ及フアレハ皆嫌悪セサルモノナシト雖モ,既ニ之ヲ厳拒スルヲ得サルノ原因アルヲ以テ,復如何トモスルコト能ハス.抑モ其一因ニハ,唐糸ハ製織容易ニ且速カナルヲ以テ,工力ヲ省クコト少小ニアラス.試ニ和糸ヲ織ルノ機ト唐糸ヲ用ルノ機トニ就テ其打筬ノ音ヲ聞ケ.甲ハ三秒間ニ徐ニ打ツコト一回,乙ハ同時間ニ急ニ打ツコト三回ナルベシ.其間糸線ノ断続強弱二至テハ,固ヨリ同日ノ比ニアラス.仮令唐糸ヲ嫌悪スルモ,其織ルノ易ヲ避テ難ニ就キ,其強ヲ棄テ弱ヲ取ル能ハサルナリ.]52)
 中村は,洋糸(唐糸)の利用と高機の使用とを別々の要因として考えているようだが,むしろこの文章は,洋糸の経糸への利用によってはじめて,綿織物の領域に侵入した高機が,そのもっていた潜在能力をフルにひきだされ,極めて効率のよい織機となってゆくさまを記録したものと見るべきだろう.この数行の文章の中に2度も,唐糸を嫌悪するという表現のでてくることも注目すべきである.輸入糸は決して,圧倒的に「高い品質」として歓迎されたのではなく,消費者からはむしろ低級品と見なされつつ,主として生産性の理由からひろがったのであることがわかる.それと並行して先進機業地帯に高機が急速にひろまった.
 これはそれ自体として1個の技術革新であったことを強調しなければならない.地機に対する高機の生産性の大きな高さは従来からも注目されてきた.中村はその大きさを3倍と見つもっているが,その高い生産性を安定的にとりだし,糸についての高度な熟練なしにあつかえる,使い易い織機とすることは洋糸の経糸への使用をまって始めて可能になったのである.絹織に使われる長い一間機に対して,半分の長さをもつ故に半機と呼ばれる木製織機の型が,日本の固有の条件に応じた綿織物の効率のよい生産手段として,この時期にはじめて経済性をもつようになったのである.成長の開始は明らかにこのことと関連をもっている.
第9図 バッタン
 だがこの第1の革新のあとをすぐ追うように,第2の革新のひろがっていったことの役割をみのがすことができない.それはバッタンという名で呼ばれた飛杼の普及であった.これは第9図のごとく極めて単純な木製装置だった.この装置をそのまま従来の高機の上にのせればよく,特別の改造の必要はなかった.それだけで右手で紐をひいて投杼し,左手で筬を打ち,両手を交互に動かして極めて効率的に織ることができたのである.この装置をつけるだけで高機の生産性は1.5―2倍になったといわれている.だからこのバッタンが西陣の織物伝習生によって1873(明治6)年という早い時期にリヨンからもちかえられ,京都の織工場での実習をとおして全国に広がっていったことは極めて意義は大きい.半機+紡績糸の経糸+バッタンという組合せが,先進グループの初期の成長を牽引した技術革新の内容だったのである.バッタンの普及の目安は石井論文第1表(111ページ)を参照されたい.泉州,河内,知多,そして恐らく大和などの先進機業地には1882(明治15)年頃までには普及していることがわかる.それは泉州のチョンコ機,名古屋の佐々機など,各地域の独自の個性をもった木綿用織機のプロトタイプが成立してゆく時期でもあった.
 ここまでの変化を概観してみれば,それは在来産業の伝統技術が初めて外国製品や外国技術と出合った時,その刺戟に対して内的に反応することによってひきおこされた,ごく自然な発展ではあるが,受動的な性格をまぬがれないものであったといえよう.最初の変化の引金は,輸入糸を交織に利用するバリエーションの一つであり,第2の変化は完全な模倣である.しかし半機とバッタンの組合せが和製織機のプロトタイプを形成するあたりから,織機自体の改良とバリエーションへ向けての内発的な熱気ともいうべき過程がはじまってくることはガラ紡の場合と同様である.その状況は第1回内国勧業博(1877〈明治10〉年),第2回内国勧業博(1881〈明治14〉年)の出品物がよく伝えている.第1回の機械の部へ出品された211点のうち紡織機械は63で実に3割を占めたが,第2回は出品489中265と過半数をこえた.第1回に出品された織機類の実用性は疑わしかったが,第2回には早くも,長野の渡辺恭・柴田徳蔵兄弟の水車式織機のように,鹿島紡績で設置テストして抜群の成績を収めるものが現われてくる53).
 こうした熱気が本当に産業としての綿織物業の発展と結びつく,実用的な新型和製織機となって結実してくるのは1885(明治18)年の松田繁次郎の足踏式織機の頃からである.寺沢幸三郎の足踏織機がこれに続くが,松田式にせよ寺沢式にせよ,初期に成立したプロトタイプの,ごく自然な発展であったことを注意しておこう.こうした足踏織機のごく自然な発展として,明治30年代以降の主役となる木製力織機はでてくる.その詳しい経過をここでたどることはしない54).ただ一つだけ注意しておきたいことは,その発明物語の主役となる寺沢幸三郎(栃木),豊田佐吉(愛知),久保田力松(大阪)などの活躍場所は,みごとに,私が初期の発展を牽引した先進機業地として描写してきた地方と一致している点である.豊田佐吉をシンボルとする木製力織機の成功は,ここまで分析してきた一連の技術革新の頂点に現われたのである.
 再びガラ紡との関連に話をもどせば,それはこの織機における技術革新とつないで考える時はじめて意味を明らかにする.それは伝統的な木製機構技術が,開港による外国技術の流入に反応して,内発的に開始した広範な土着の技術革新の一環であった55).明治の前期におこった在来綿業の急速な発展は,大阪,奈良,三重,愛知,長野,栃木といった地方を中心に発生した,木製機構技術の革新に支えられていた.その織布部門を担ったのが木綿用木製織機の発展であり,紡糸部門を担ったのがガラ紡であった.ガラ紡が長野で生まれ,三河,大和,泉州等へ一挙に普及していく過程はそのことを立証している.
 しかしこの革新の全体は,織布部門の経糸の輸入紡績糸への転換からスタートしていたのである.やがて革新は経,緯とも紡績糸(太糸)を用いた独特の織布体系を確立してゆく.織布部門が緯糸に手紡糸を用いた半唐物に頼り,また先進機業地以外に広範に地機にもとづいた伝統綿業の残存した間は,織布業の発展は手紡糸への需要をともなっていたのである.この間の織布の生産性の急速な増大と,旧式手紡技術のアンバランスが,ガラ紡の発明を要求した基盤であった.しかし,1887(明治20)年頃には先進機業地での織布技術の転換はほぼ完了するとともに,その技術が地方へ移転することによる地方の織布業の発展がはじまる.それは残された地方の織布業も紡績糸の市場となっていくことを意味した.ガラ紡は洋式紡績との競争に負けたというより,織布業の発展をみちびいた技術の転換が,紡績糸への市場を準備していったのである.ガラ紡糸は以後も,足袋裏,蒲団袋などの領域では珍重され続ける.それは手紡糸の感触が民衆の日常生活の中で依然として好まれた領域であった.
 (6) 技術移転の定着――大阪紡績を助けたもの――
 われわれはⅠにおいて鉄鋼業における技術移転が,土着のたたら製鉄から,大島高任の混血高炉へ,混血技術から銑鋼一貫体系へという,在来→混血→洋式三種の技術の対抗的共存を媒介にした移行によってなしとげられたことを見た.そしてこの移転において示された在来的要素の強さは,冶金技術が鉱石や炉のような「土」に密着した要素から成りたつ故に,まさしく土着であることが決定的となることによっていると考え,機械のように1個の独立した動きをもつものでは,そのような特徴はうすれてくるのではないかという予想の下にⅡでは紡績業をとり上げた.つまり紡績プラントのように,一連の機械の自動的な動きによって,綿が自動的に加工され,最終段階で糸になってでてくるというふうに,ほとんどの操作が機械自体に移されている時には,技術の移転は,機械装置の輸入およびそれを運転する少数の労働者の訓練という,比較的簡単な問題に還元され,製鉄業の場合ほど複雑な土着の社会とのリンクを,ひきずりこんでくることはないのではないか,と私たちは想像したのである.
 しかし,私たちは,鹿児島紡績から2000錘紡績にいたる初期の紡績業の操業を検討していく中で,問題はそれほど単純ではないことを発見した.初期の工場のぶつかっている問題は,一口でいえば,機械制大工場の操業を支え,それとリンクすべき社会的諸関係が成熟していない社会でそれを操業する困難,であった.リンクすべきものの欠如は結局,機械のひんぴんたる停止,回転速度の低下,落綿の増大,火災,はては機械の寿命の短縮にまで影響となってあらわれ,総体としては製品の品質の低下,コストの増大,したがって市場競争力の喪失,つまり企業経営の不振となるのである.これは現代の発展途上国の,技術移転による工業化の場合と全く共通する現象であった.
 そして,こうした欠けているリンクのうち,きわだった重みをもち,機械制紡績業の営業にもっとも直接的影響を与えるのは,機械を保守修理し,更新する能力――関連機械工業の未成熟であった.その機械工業の能力が明治の日本において,いかに形成されていったかに視点を移す時,われわれは再び在来的要素と洋式輸入技術の相互関係が,そこで主役となっているのを見るのである.洋式の鉄製機構技術が未成熟であった期間,綿業の全体にわたってその欠を補っていたのは,全面的に在来の木製機構技術であった.だが過渡期の成長を担ったのは,在来そのままの技術ではなく,ここでも在来技術が洋式技術の影響をうけて成立させた混血技術であった.ガラ紡,洋式紡績糸+半機+バッタンの織布体系,その発展としての木製力織機は,明治の綿業の発展を担った混血技術の典型である.この混血技術が,(4)で見たように在来鋳物業から発してゆっくりと形成をとげてきた鉄製機構技術と結びつくのは明治の末年であるが,その時日本の繊維機械工業は自立の時期を迎えたといえよう.ここでも技術移転は,在来→混血→洋式という対抗的共存をへての移転であったのである.
 この軌跡をもっともみごとに示しているのが豊田自動織機の成立過程であろう.1896(明治29)年に木製力織機を発明した豊田佐吉が三井物産の援助をうけてその製造販売のために合名会社井桁商会を設立するのは,1899(明治32)年12月である.以後そこからの豊田の分離,独自会社豊田商会の設立等さまざまな曲折はあるが,豊田は一貫して経営の焦点を,木製の在来型小幅織機におきかえうる程度の力織機においている56).それと並行して彼はすでに自動機械をめざした開発研究を開始しているけれど,彼自身の織機製造業はあくまで在来部門の零細業者の市場を対象にしぼり,そこへ安価な,しかし在来の手工性をおびた技術には十分適した簡便な力織機を売込むことで成功を収めたのである.最終的には日露戦争の好況期に,「三十八年式」「三十九年式」「軽便織機」の三種の木製力織機で大成功を収めたことが,再び三井の協力の下に豊田式織機株式会社の創立(1906〈明治39〉年12月)へみちびくのである.
 この間,在来織布部門は,木製力織機業者にとっては一種の保護的な市場を形成していたことに注意しておく必要がある.鉄製力織機の輸入は増加していたが,それは大紡績会社の兼営織布部門に限られていた.在来部門に入りこまなかったのはもちろん圧倒的な高価格であったことが主因であるが,それに加えて,広幅を中心に発展した西欧の織機メーカーが,着物の需要に合せて小幅で発展してきたこの部門の技術に合う,手頃な商品をもたなかったことも大きいと思われる.結果として在来技術の発展の頂点に出現した木製力織機が,この部門を独占できたのである.遅れてスタートした,国際的にみれば劣位の技術水準にある機械工業が,市場競争の中でどのように育ちうるかという問題意識に立ってみると,この条件が,日本の繊維機械工業の成立を助けた関係は,どれほど強調してもし足りることはない.一貫して木製力織機の利潤を,開発研究に注ぎこみ,国際的織機製造業者への道を歩んでゆく豊田佐吉の軌道は,まさにこの関係を象徴しているといえよう.
 豊田式織機がその成立後,鉄製織機をめざしていく順序もまた参考になる.第7表は,豊田式織機会社が,全体としては圧倒的に小幅の在来織布部門の市場に依拠しつつ,着実にその製品を,木製から木鉄混製へ,木鉄混成から鉄製へと移行させつつ,鉄製広幅織機という外国製品との対抗部門にまで進出していく状況をみごとに示している.第7表はまた,前節でたどったような在来の木製機構技術の発展が,明治期をとおしてゆっくり形成されてきた鉄製機構技術を吸収して,近代的織機製造技術の基礎が確立するのは1907(明治40)年頃であったことをも示している.このようにして確立した織機製造技術は,更に紡績業の発展に沿って,主としてその部品工業として形成されてきた若い紡機技術と合体する.1916(大正5)年,豊田織機は大阪の紡績関連機械の有力メーカーであった木本鉄工所を買収して,紡績機械の製作にものりだす.
第7表 豊田式織機初期の豊田佐吉設計の力織機とその売上台数
日本における最初の紡績の一貫プラント製作は,豊田織機によって1921(大正10)年に達成されるが57),在来部門の木製機構技術から発展した流れと,洋式部門の修理および部品技術から発展した流れとが,前者を主体にする形で融合することによって,この仕事はなしとげられたのであることに注目しておきたい.
 さて,しかし,私たちが究極的に問題としたいのは,前節以来ここまで分析したような在来綿業の織布部門を中心とした発展過程が,私たちの問題としてきた紡績業の洋式技術移転とどのようにかかわっているかということである.より具体的に問題を提示すれば,大阪紡績の成功を指標とする,わが国紡績業における洋式技術移転の定着過程は,以上のような過程と全く無縁のものであったのだろうかということである.詳細な解明は将来にゆだねるよりないが,とりあえず,ここでは第6表にしたがって,1887(明治20)年頃には織布業の発展によって,相当に大きな綿糸の国内市場が形成されていたこと,そのことの意味は無視できないことを指摘しなければならない.
 前節に示したように明治10年代の半ばごろまでに,先進機業地での織布技術は機械紡績糸+木製織機(半機+バッタン)の体系へ転換を終っていた.その技術体系は伝統的な消費者の嗜好を反映して,太糸を中心にしたものであった.1881(明治14)年からの不況で綿布生産は激減するが,その不況から抜けだすところから,第2段階の発展がはじまる.この第2段階では先進機業地は足踏織機から力織機に至る革新へとすすんでゆくし,地方のいったん衰退した織物業は,織機を中心に先進機業地からの技術移転によって,紡績糸に転換することで発展を開始する.これも従来の手紡体系にあわせて,需要は太糸中心であった.この間,織布業者は在来の技術との接合,とくに藍染に対する特性のわるさなどから,必ずしも洋糸を最良の糸とはみなしていなかったことも注意する必要がある.例えばこの時期に発展を開始する久留米絣の場合には,西南戦争期に洋糸を用いて粗悪な染めで信用をいたく傷つけた経験から,藍は地藍または阿波藍以外は用いないといったこと以外に,糸は必ず内地産紡績糸を用いるということを組合でかたく申し合せている58).こうした風潮が若い洋式紡績を助けたことも見逃せないであろう.
 綿糸集談会で大阪紡績の門田顕敏の語っていることばは,完全にこの状況と一致するだけでなく,そのことを企業戦略と結びつけてのべている点で注目に値する.
 [第一ニハ實益ヲ収ムルニアラサレハ事業ノ成立ハ固ヨリ期ス可カラス.故ニ先ツ之ヨリセン.實益ヲ収ムルニハ需用ノ最多キ十番糸ヨリ二十番糸迄ノ太糸ヲ製スルニ在ル可シ.綿糸ハ固ヨリ美術ノ品物ニアラサルヲ以テ偏ニ精工ヲ旨トスルニ及ハス.……]59)
 [白木綿ニハ番外ノ陳述アリシ三河木綿ニ於ケルカ如ク此機械糸ハ直段ノ割合ヨリシテ需用ナキモ,久留米絣或ハ愛知ノ紺飛白ノ如キ其他縞物等ニハ恰適ス可シ.唐糸ハ其價較ヤ廉ナレトモ染付悪シキ爲メ其染料ニ至テ三四割ノ差アリ.今和糸ハ唐糸ヨリ十四五圓高キコトアル(四十八貫目ニ対シ)モ,染料ノ一方ニ至リ之ヲ制スルナレハ,唐糸ヲ廢シ和糸ニ移ルノ機織家漸ク増加セン.成ル可クハ百目ニ付一銭五厘内外ノ工費ニテ製出セハ我綿糸ノ販路愈伸暢ス可シ.]60)
 門田はこの他にも,大阪紡績では12,13番手から21,22番手までの糸を製出している.24,25番手も製造できないことはないが,細糸は撚の強さを要するから機械の損傷の恐れがあると,注目すべき発言を行っている61).10―20番手という綿糸の範囲は織布市場の需要の集中していた範囲でもあると同時に,それだけが大阪紡績の技術で経済的に紡げる範囲でもあったのである.インド綿糸をのぞけば,輸入綿糸はもっと高番手の細糸に圧倒的競争力をもっていたから,この市場条件は,若い技術的には未熟な紡績業にはかり知れぬほど有利であったことになる.在来織布業は,若い未熟な機械工業に対してだけではなく,若い未熟な洋式紡績業に対しても保護的な市場を提供したことになる.
 この過程をもうすこし一般的な開発経済論の問題になおしていえば,在来織布部門の発展が,低開発国の最も稀少な生産要素である資本を紡績部門に集中することを可能にした功績も重要であることがわかる.明治20年代には紡績兼営織布部門で洋式技術にもとづいた大量生産もはじまるが,国内市場では在来部門の技術に圧倒されて大きなのびはみせない.結果として,紡績部門は洋式技術にもとづいた大工場生産,織布部門は在来技術にもとづいた小規模生産という分業が,明治後半の成長の骨組を形成することになる.これは結果としてみれば最適の成長を支える分業であったのではないか.日本に先立って,19世紀初頭に,モハメド・アリの指導下に近代工業化にのりだしたエジプトは,その良質の棉花生産を背景に,機械生産部門の建設と,紡績織布両部門の洋式大工場化を同時に着手している62).しかしこの綿業近代化は日本の場合のような長期持続的成長の起点とはならなかった.従来は日本がそのような方向をとらなかったことが,日本の工業化の歪みととらえられてきたのだが,もし極めて貧しい棉花生産力の日本が,乏しい資本を三部門同時建設に分散させていたら,果してこれほど順調な発展がありえたか,また在来織布部門の順調な発展のもとで,そのような方向をとることは不経済ではなかったかをむしろ問うべきだろう.この点は,今後,国連大学のような組織のイニシアチブの下で,エジプト,インド,中国などとの比較をとおして,詳細に解明がされることを期待したい.
 さて以上の2点は,機械制大工場の操業を支える社会的リンクが未成熟な社会に移植された洋式紡績業が,過渡期の在来技術部門に,どのようにその弱さをカバーし助けられたかという例であった.しかし,技術移転の最初の成功者であった大阪紡績についてみると,その体制の内部に,過渡期の弱さを補う数数の工夫がみられることを,教訓としてとりだしておく必要があろう.従来たびたびくりかえされてきた,錘数や,二交替操業のことはここではもうくりかえさない.ここでは技術的対策のことだけをとりあげておきたい.機械制大工場の機械を支える外部の機械工業の力がいちじるしく弱い時,それに対応して工場内部の技術的準備は,十分の上にも十分を期する必要があるといえる.その点で大阪紡績と2000錘紡績を比べてみると,やはり格段の差があるのである.
 その状況を雄弁に示しているのは,大川英太郎,門田顕敏,佐々木豊吉,岡村勝正の4名の幹部社員の訓練のやり方である.彼等は1881(明治14)年7月,愛知紡績に実習生として入ったのを皮切りに,1882(明治15)年11月に機械の据付を開始するまで約1年半,桑原紡績,玉島紡績,渋谷紡績と,創設期の2000錘紡績を転々としながら操業と機械の分解組立に十分の経験を積んでいる.これは他の2000錘紡績がせいぜい数ヵ月,官営模範工場の愛知紡績か先行の2000錘紡績のどれかで幹部を訓練した後スタートしているのとは雲泥の差である.しかも,訓練開始前の人選の段階でもすでに差はあった.大川は1874(明治7)年,富岡製糸所の自費生徒となって製糸技術を修めた後,各地の製糸工場の指導を行っていた人物であり63),門田は愛媛県の織物試験所で製織の研究をしていた人物である64).つまり,彼らは紡績こそ初めてであったが,大阪紡績に入社する前にすでにひとかどの繊維技術者だったのである.
 こうした基礎の上に実習のやり方も系統的であった.社長の山辺丈夫はイギリスで大阪紡績の準備のための勉強をしている時,入手した紡績技術書を自ら翻訳して彼らにわたしている.これは岡村勝正によって紡績書として語られているものだが,入社後の彼らの実習はまずこれを手写することから始まった.4人はそれぞれ自らの手写本を座右におき,それで学習した原理を実地にためしてみるという形で修得していった.
 [それで最初の大平紡績所(愛知紡績)の時はまだ黙って見学する程度でしたが桑原紡績に一ケ年おります内,大体紡機の技術を細かに会得し,見習に行って逆にこちらの学理の知識を教へてやると云った有様で,向ふの所長や職工達も驚き,貴殿達は見習に来たのか教へに来たのかと云った程です.]65)
 綿糸集談会での中盤の討論は,各紡績所の幹部が口々に,自分たちのぶつかっている困難の究極の原因は,紡績の学理も機構の原理も知らずに紡績を行っている点にあることを訴え,政府による巡回教師の派遣,模範工場または訓練学校の設置を要望する中で,門田顕敏ただひとり断乎として,原理の学習は自分たちがやるべきものであって,そこまでをお上に依存するのはまちがっていると主張し続ける情景となる.この門田の態度は人によっては傲慢という印象をうけることもあるだろうが,大阪紡績のなしとげていた周到な技術的準備と,他の紡績所の技術的準備の不足との対照が,どれほど大きな操業実績の差を生んだかを雄弁に物語る討論として,客観的に冷静に読むべきだろう.
 ここでの門田の意見には考えさせるものが多い.
 [學校ト工場トハ全ク異リ,又四番ハ職工ヲ養成スト云ヘトモ職工ハ浮キタルモノニテ賴ムヘカラス.譬ヘハ今子カ誤テ水ニ陥リタルトセンニ,其親ハ水ヲ泅クコトヲ知ラサレハトテ豈座視スルモノアランヤ.諸君ハ何ソ自カラ之ヲ救フヘキノ術ヲ習ハスシテ職工ニノミ依賴セントスルヤ.仮令自カラ之ヲ修ムルノ暇ナシトスルモ何ソ己レニ代ラシムヘキ人物ヲ選ヒテ學ハシメント爲ササルソ.]66)
これは高村直助によって当時の労使関係についての「ドライな」認識の典型として引用されている発言であるが67),当時の状況にあっての熟練という要素の賦存状況を,大阪紡績がどのように把握し,どのような態勢を緊急の必要とみなしていたかを語るものとしてみのがせない.門田は熟練や工程規律への習熟をはじめから労働者に期待することの誤り,少数の幹部工が徹底的に技術的に習熟し先頭に立って引張ってゆくような体制の必要を,力説しているのである.それは(2)で私が分析してみせたような労働力の状態をみる時,むしろ適切であったと考えるべきだろう.事実,大阪紡績の操業にあたっては,この4人が労働者を手とり足とりして教えたのであり,4人の役割は技術者というよりは職工長のようなものであった.そのような体制に成功の鍵があったことをもう少し重視すべきであろう.
 その4人の上に山辺丈夫がいた.この山辺丈夫が技術者であったことの意味は大きい68).低開発国の工業化の初期段階では,経営者や関連する政府指導者の工業の性質に対する無知が経営の危機をみちびく例の多さをみるにつけ,この時期におけるこのことの意味は強調しなければならない.それは2000錘紡績の失敗の原因の一つが,経営者の紡績そのものについての無知であることからもわかる.その山辺が,例えば大阪織布への力織機の導入に当って自らイギリスへわたり,織機のとり扱いを習得して帰り,労働者の手をとって教える方法をとっているのも,門田の主張と一致している.これが技術移転のやり方として最も確実で最も早い方法だったのである.社長の陣頭指揮と少数の幹部社員のリーダーシップというこの態勢は,今日の中小企業のそれに似ている.事実,後の大成長から誤認しやすいのだが,10,500錘,従業員300人という初期の工場は,まさしく中小企業だったのであり,労働力の水準もそれに近かったのである.大阪紡績の技術体制が,そうした状況に適応して,どれほど最適の体制をとっていたかという点の詳細な解明は,技術移転論の角度からきわめて興味深いテーマといえよう.
 以上の点もまた,大阪紡績の成功を支えた数多くの条件の中の一つにすぎない.どの面から考察してみても,この頃,明治10年代の後半のあたりから,大きな変化があらわれていた.この論文ではあつかわなかったが,鉄道建設も重要な要素である.2000錘紡績の建設の始まった1880(明治13)年には,わずか123キロだった鉄道営業キロ数は,10年後には2,251キロに達している69).すでにのべた在来部門の第2段階の発展,地方織布業の発展も,鉄道によって地方産業が全国市場と結ばれたことと無縁ではない.洋式紡績業の発展が他方における根気のよい綿糸規格の統一や,全国市場の形成努力に支えられていることを考えると,それはまたこの鉄道網の発展にも助けられていたのである.
 だが,私がこの論文で意図したことは,こうした条件を並列的に完全に枚挙しつくそうということではない.明治の紡績業の目を奪うような華々しい発展が,産業部門でいえば紡績部門だけ,立地的にいえば大阪とその周辺だけ,技術的にみれば10―20番手の範囲だけという,実に限定された構造をもった発展であったことに注意をひきつつ,この限定された範囲の中で,弱い未熟な機械制大工業が相対的優位を保持しえた背後に,どのような条件とどのようなダイナミックな関係がそれを助けていたかを明らかにすることが,Ⅱの意図であった.(4)でたどった幕末以来の鉄製機構技術の発展,(5)でみた在来織布部門と木製機構技術の発展は,私のとくに強調したい点であるが,鹿児島紡績以来の失敗した多くの試みの重要性も最後にあげておきたい.
 従来の研究者の初期の努力に対する評価は概して低すぎることを強調せざるをえない.それは基盤のないところで機械制大工場を維持することがどんなに困難であるかという事実について,根本的な理解がなかったからである.これらの工場は失敗して当然だったのであり,失敗の中からそれらが後に残したものをもっと高く評価する必要があろう.例えば高村直助は,2000錘紡績の失敗の原因の一つに,石河正竜に代表される官員技術者によって建設が指導されたこと,その技術の低さをあげている70).たしかに,それが大阪紡績のニールドのような練達の外国人技術に指導されていたら,もう少し機械がよく働いたかもしれないとはいえる.しかし,この時期に日本人技術者と労働者の手だけで,2,000錘の小規模プラントとはいえ,紡績の全プラントを全く外国人の手を借りず,16も全国各地に建設し,それが全部動いたということは,技術移転の常識に照らしていえば驚くべきことであって,むしろこの事実そのものは,維新後わずか13年で日本人が獲得していた機械関連技術の高さを教えているとみるべきなのである.それはもちろん石河正竜が直接手がけた鹿児島紡績や堺紡績の遺産であり,幕末以来官営工場をとおして機械技術修得につぎこまれた努力の遺産である.そして大阪紡績はたしかに,ニールドの指導をうけることにより石河の指導した工場より好結果をえているが,(4)以下の分析が明瞭に示しているように,大阪紡績とそれに続く発展は,ここまでに日本が全体としてかろうじて獲得していた鉄製機構に関する技術に,極めて多くを負うているのである.初期の努力の役割をもっと高く評価すべきことを強調しつつ,紡績業の技術移転についての私の分析を終ることにしたい,
 (7) ま と め
 このⅡでの紡績業の技術移転の分析をとおして,Ⅰの末尾でまとめた技術移転を,それを支える社会経済的リンクとの接合関係をとおして考察する方法は,機械制大工場に関しても有効であることが確認されたといえよう.ただ機械制大工場への移行につれて,リンクしてくる諸関係は,市場だとか,労働力の質と量だとか,交通,金融制度,関連工業といったタームで語ることが適切になってくる.しかし,その接合が重要であり,リンクすべき諸関係との接合関係がうまく作られていないことが,結果としては工場の経済効率の低下としてあらわれてくる関係は,Ⅰの場合と同様であった.
 低開発国における,技術移転による機械制大工場の建設が直面する問題は,機械制大工場の操業とリンクすべき社会経済的諸関係の何一つ成熟していない国で,当然生じるこの経済的不効率を如何にして極小にとどめつつ,工業化をはかるかという問題である.その場合,欠けているリンクをどのように急速に作りだすかという努力と並行して,既存の社会の所有物を利用して,欠けている部分を代替するリンクをどのように巧みに作りだすかという努力も必要であることを,明治の綿業の在来部門の経験は教えているように思える.日本の経験を,このように諸関係の接合を確実におさえながら,構造的に分析することによって,そこから発展途上国の技術移転への具体的な教訓をとりだしてくることは可能である.そのような構造分析をとおして,従来の単線発達史観による分析が全く見落としてきた,さまざまな問題を明るみに出すことが可能であることを,このⅡで明らかにしたつもりである.
 先進工業国の工業化がたどった発展段階を基準として固定し,後進国の工業化が今そのどの段階に達しているかを,比較によって測定するたぐいの議論は不毛である.遅れてスタートする国は,他ならぬ,先に工業化した国が既に存在するという条件の故に,先に工業化した国とは異なった発展経路をたどるのである.しかし,こう私が強調することは先に工業化した国の技術の発展経路を研究することが,技術移転論にとって無意味であると主張するものではない.逆に,ある個別技術がその母国で,どのような社会関係,どのような関連産業とリンクしつつ形成されたかを詳しく知ることが,移転された技術を移転国の産業にうまく根づかせるために,決定的に重要となるだろう.移転された技術のその後の発展は,その技術が本来要求するリンクと,移転先の社会経済が持ちあわせている諸関係との接合によって決定されるからである.
 Ⅰ,Ⅱを通じて,日本の明治の工業化の中での技術移転の特異な特徴としてあらわれたものは,在来技術の大きな役割であった.とくに洋式技術の移転が決してうまくゆかない期間,洋式技術の影響によって在来技術の中に生まれた混血技術の果した役割は注目に値する.在来技術と混血技術の対抗的共存,混血技術と洋式技術の対抗的共存をへて次第に全面的洋式技術に移行していくという型が,明治の技術移転を特徴づけるものであった.この混血技術の役割は,シューマッハー以来注目をあびてきた,適正技術の理想像に近いものとして評価できる.しかし,われわれは,この混血技術がはじめからそれを意図して作られたものではなく,一方における全面的に洋式を志向する強い流れと,他方における在来部門の広範な存在という条件の間で,両者のダイナミックな相互関係をとおして,自然に形成されたということを重視したい.洋式志向を否定して混血技術のみを適正技術として評価するという立場はとらない.このダイナミックなプロセスの全体に,もっと詳細に立入るべきだというのが,われわれの主張である.
 この日本的な移行の特徴は,多分に,日本が工業化を開始した時の歴史的条件に規定されているとわれわれは考える.国内的には,江戸時代末期の日本では手工業を基礎にした商品生産は広範な展開をみせていた.製鉄業ではたたらの技術にもとづいた二大製鉄地帯が形成されていたし,綿業でも手紡と地機と農家副業の結合という形態ながら,ほぼ全国的な展開がみられ,先進機業地では高機の使用もみられた.こうした先進地帯に広範に展開していた既存の社会経済基盤を無視した技術移転は経済的に成立せず,それとどのような巧妙なリンクを形成するかが過渡期の重要な問題となったのである.他方で,技術輸出国である西欧諸国は産業革命期に入ってからまだ日は浅く,後進国日本との技術較差はそう大きくはなかった.Ⅱの分析の核心をなす機械技術でも,クロンプトンがミュールを発明した1780年にはそれはまだ木製だったのであり,イギリスですらも繊維機械が全鉄製化していくのはそれ以後のことである.織布部門が小規模家内工業に支えられているような状況は,イギリスよりおくれて工業化した大陸諸国では19世紀半ばでも珍しくなかった.木製力織機にもとづく小規模工場が,綿布の輸出競争力を支える土着の技術革新として意味をもちえたのは,このように較差の小さい国際環境ゆえであったことを忘れてはならない.
 したがって植民地時代に,伝統的な産業をむしろ破壊されて,宗主国の商品経済に従属させられた国が,明治期とは根本的に異なる圧倒的な先進国との技術較差の下に,工業化をめざす時,それがたどる発展のパターンは,自ずとこの明治の日本の場合とは異なったものにならざるをえないだろうと私たちは考える.Ⅰのはじめに,日本の技術形成のパターンは,現在の途上国とくらべると,むしろヨーロッパのパターンに近いことに特異性をもつと私たちは書いたが,それはこのような歴史条件に規定されたものであった.
 しかし,だからといって,われわれは,日本の経験は今日の発展途上国の工業化の問題を考える参考にならないと主張するものではない.われわれは,先進国の工業化の発展の段階を絶対の基準として途上国の発展を測定するような方法を,不毛のものとしてしりぞけるのと全く同様に,歴史的条件の違いの故に二つの経験の間の比較を拒否することもまた不毛であると考える.われわれがここで提出している方法は,そうした歴史的状況の差異を十分念頭におきっつ,さまざまな国の技術移転の経験を,それとリンクしてくる社会経済の諸関係との接合に注目しながら,分析し比較することによって,他国の経験から学ぶことは可能だということである.
 この論文は,そのような分析の二つの例を提出したにとどまっている.明治の工業化を規定した国際状況は,日本の工業化にある種の二面性を強要した.日本が遅れた産業革命に入りつつあった時,西欧は,電気,内燃機関,有機化学工業などを軸とする,いわゆる第2次産業革命期に入りつつあった.日本の工業化は第1次産業革命の中心産業であった鉄鋼,繊維,造船,鉄道などの領域では急速にキャッチ・アップをとげながら,第2次産業革命期の中心領域である電気機械,自動車,工作機械,有機化学工業などの領域ではむしろ急速に欧米に差をあけられてゆく,二面的な過程として進行してゆく.日本の工業化の性格をとらえきった全体像を描きだすためには,この後の産業分野の第2次大戦期までの分析が重要であり,そちらの方にむしろ今日の発展途上国の問題と重なる問題がより多く見出されることを注意しておきたい.
 私たちの事例が二つとも前の領域からえらばれたのは,私たちに与えられた課題が,技術移転論の構築のために,異なる発展経路をたどる技術の発展を相互比較する方法論を見出すことであったからだ.私たちの主張する,技術を支える社会的リンクに主眼をおいた分析を,いちばん説得的に提示できる分野が,この二分野であったにすぎない.われわれの方法にしたがって,日本の近代産業技術の形成過程の全体像を描きだす作業は他日に期したい.
 なおこの報告は,中岡の責任によって執筆されたものであるが,この報告の骨組をなす考え方そのものは,「技術史から見た日本の経験」班(構成員=本多謙吉,佐藤光,塩沢由典,中岡)の討論によって作られたものである.また角山光洋氏には織機技術,ガラ紡その他の問題について,貴重な示唆を与えていただいた.記して感謝したい.
 [注]
 1) 三枝博音・野崎 茂・佐々木峻『近代日本産業技術の西欧化』,東洋経済新報社,1960年,136ページ.
 2) 高村直助『日本紡績業史序説』上,塙書房,1971年,39ページ.
 3) 山崎俊雄『技術史』(日本現代史大系),東洋経済新報社,1961年,第1章(村松貞次郎の分担),24ページ.
 4) ミュールの操業の問題点は,大阪南部に残っているミュール使用業者からの聞き取りによって補足した.
 5) 絹川太一『本邦綿絲紡績史』第1巻,日本綿業倶楽部,1937年,290ページ.
 6) 同上,90-92ページ.
 7) 同上,95ページ.
 8) 同上.
 9) 繭絲織物陶漆器共進会『綿糸集談会記事』,有隣堂,1885年,29ページ.
 10) 絹川太一,前掲書,第3巻,82ページ.
 11) 同上,83ページ.
 12) 岡村勝正「紡績懐旧談」,『渋沢栄一伝記資料』第10巻,渋沢栄一伝記資料刊行
 会,1956年,30ページ.
 13) 『綿糸集談会記事』,73ページ.
 14) 同上,73-74ページ.
 15) 絹川太一,前掲書,第1巻,286ページ.
 16) 同上,第3巻,182-87ページ.
 17) 同上,第1巻,133ページ.
 18) 石川安次郎「孤山の片影」,『渋沢栄一伝記資料』第10巻,65ページ.
 19) 岡村勝正「紡績懐旧談」,同上書,62-63ページ.
 20) 絹川太一,前掲書,第1巻,131ページ.
 21) 『綿糸集談会記事』,52-56ページ.
 22) 『渋沢栄一伝記資料』第10巻,48ページ.
 23) 高村直助,前掲書,81ページ.
 24) 絹川太一,前掲書,第2巻,114-15ページ.
 25) 『渋沢栄一伝記資料』第10巻,69ページ.
 26) 同上,51ページ.
 27) 三重紡績の紡機払下代金延納の第4回歎願書の記載による.全文は絹川太一,前掲書,第2巻,514-57ページ.
 28) 大阪紡績会社第1回半季考課状,『渋沢栄一伝記資料』第10巻,54-58ページ.
 29) 同上,56ページ.
 30) 大橋周治「安心院[アジム]の反射炉について」「福岡藩の反射炉について」「土佐の反射炉」「津藩に反射炉はなかった」,『金属』1976年2,4,9,11月号.
 31) Ⅰ(1)参照.
 32) 両角宗和「鋳物工業の発展と産業記念物」,日本科学技術振興財団『産業技術の歴史的展開調査研究・昭和56年度』,1982年,46ページ.
 33) 同上,51ページ.
 34) Davison, C.St.C.B., “Geared Power Transmission,” Semler, E.G., ed. Engineering Heritage, Vol.1, London, The Institution of Mechanical Engineers, 1963,p.123.
 35) 大阪砲兵工廠が,1870(明治3)年操業開始したとき,中島兼吉が長崎製鉄所からつれてきた基幹工は「摸工,鋳工,旋工,鑢工,鍛工」とされている.摸工は木型工のことであろう.切削加工は旋削だけで他は圧倒的に鋳造,鍛造に鑢仕上であった状況が反映されている.三宅宏司「大阪砲兵工廠始末記(6)」,『工業』1985年6月号,19-20ページ.
 36) 『工学会誌』第81巻,1888年9月号,782-95ページ.
 37) 同上,786ページ.
 38) 絹川太一,前掲書,第2巻,96-98ページに載っている石河の手記より再引用した.
 39) Rosenberg, N., “Capital goods, technology and economic growth,” Oxford Economic Papers, Vo1.15,1963,pp.217-27.
 40) 揖西光速『日本近代綿業の成立』,角川書店,1950年,136-37ページ.
 41) 末尾至行『水力開発・利用の歴史地理』,大明堂,1980年,113-14ページ.
 42) 三河紡績同業組合編『三河紡績史』による数値.日本繊維協議会編『日本繊維産業史』各論篇,繊維年鑑刊行会,1958年,382ページ.
 43) 揖西光速『技術発達史』,河出書房,1948年,28-29ページ.
 44) 絹川太一,前掲書,第2巻,471ページ.
 45) 中安定子「在来綿織業の展開と紡績資本」,『土地制度史学』14号,1962年,1-4ページ.
 46) 中村 哲「世界資本主義と日本綿業の変革」,河野健二他編『世界資本主義の形成』,岩波書店,1967年,399-455ページ.
 47) 石井寛治他編『世界市場と幕末開港』,東京大学出版会,1982年,252ページ・
 48) 中村 哲,前掲論文,433-34ページ.
 49) 例えば,最も典型的な大和木綿の場合については,楫西光速『日本近代綿業の成立』,142-43ページ.
 50) 例えば,信夫清三郎『近代日本産業史序説』,日本評論社,1942年,159ページ.
 51) 川勝平太「明治前期における内外綿布の価格」「明治前期における内外綿関係品の品質」,『早稲田政治経済学雑誌』244・245号,1976年,508-35ページ,250・251号,1977年,184-211ページ.
 52) 農商務省『明治13年商況年報』,425-26ページ.
 53) 信夫清三郎,前掲書,155ページ.
 54) 木製織機技術の発展については,石井 正「豊田佐吉と織機技術の発展」1―6,『発明』76巻1―6号,1979年,が詳しい.
 55) 服部之総がかつて原生的産業革命と呼んだものがこれに当ると思われる.このプロセスにおける外来的要素と内発的要素のダイナミクス,およびこのプロセスが全体として明治の工業化に果した役割については,よりつっこんだ解明が緊急の必要と思われるが,残念ながらもはやここではその余裕はない.さしあたりは,Nakaoka, Tetsuro, “The Role of Domestic Technical Innovation in Foreign Technology Transfer――A Case of the Japanese Cotton Industry――,” Osaka City University Economic Review, No.18, 1982,参照.
 56) ここでの豊田佐吉に関する記述は,『豊田自動織機四十年史』,1967年,による.
 57) 同上,92ページ.なお,大阪府商工経済研究委員会『日本の繊維機械工業』,1952年,17ページはこれを大正11年としているが,今は社史にしたがっておく.
 58) 赤司卯三郎編『久留米絣』,1903年,5ページ.
 59) 『綿糸集談会記事』,8ページ.
 60) 同上,16ページ.
 61) 同上,11-12ページ.
 62) Fahmy, Moustafa, La Revolution de l'Industrie en Egypte, Leiden, E.J.Brill, 1954,pp.21-31.
 63) 彼自身の履歴書による.『渋沢栄一伝記資料』第10巻,31ページ.
 64) 同上,33ページ.
 65) 同上,48ページ.
 66) 『綿糸集談会記事』,50ページ.
 67) 高村直助,前掲書,82ページ.
 68) 山辺丈夫の技術習得についてはここでははぶくが,楫西光速『日本近代綿業の成立』,69-89ページ,が簡潔な説明を与えている.
 69) 南 亮進『日本の経済発展』,東洋経済新報社,1982年,94ページ.
 70) 高村直助,前掲書,42ページ.
 [中岡哲郎]